神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

神に仕えることは私の幸運

2020-12-18 23:43:28 | キリストの裁きの座の前における経験の証し

 全能神は言われます。「神は何を通じて人を完全にするのであろうか。それは、義という神の性質によるのである。神の性質は主として義、怒り、威厳、裁き、呪いであり、神は主に裁きを通じて人を完全にする」(「辛い試練を経験して初めて、神の素晴らしさを知ることができる」『言葉は肉において現れる』)。「効力者の時代の前、人はいのちを追求、神を信じる意味、あるいは神の働きの知恵を何ら理解しておらず、神の働きが人を試すことができることも理解できなかった。効力者の時代から今日に至るまで、人は人知を超える神の働きがいかに素晴らしいかを知り、神がいかに働くかを自分の頭脳で想像できないことを理解し、さらに自分の霊的背丈がいかに小さいかや、自分があまりにも不従順であることを知っている。神が人を呪った時、それはある効果を得るために為したのであり、人を死に追いやることはなかった。神は人を呪いはしたものの、それは言葉によって行われたのであり、神の呪いは実際に人に災いをもたらすことはなかった。なぜなら、神が呪ったのは人の不従順であり、従って神の呪いの言葉は人を完全にするためでもあったからである。神が人を裁く際も、呪う際も、それは人間を完全にする。どちらも人の内にある穢れたものを完全にするためのものである。この手段を通して人は精錬され、人の内に欠けているものは神の言葉と働きを通して完全にされる。神の働きのどの段階も、厳しい言葉であれ、裁きであれ、刑罰であれ、人を完全にする、あくまで適切なものである。あらゆる時代を通じ神はこのような働きを為したことはない。今日、神はあなたがたの内にあって働いているので、あなたがたは神の知恵を理解できた。あなたがたは内にある何らかの苦痛を味わってはいるものの、心は安定していて平安である。神のこの段階の働きを享受できるのはあなたがたにとって祝福である。将来得られるものが何であるかにかかわらず、今日あなたがたの内に神の働きとして理解できるものは愛である。人が神の裁きと精錬を経験しないならば、その行いと熱い思いは常に外にあり、その性質は常に変わらないであろう。そんな状態は、神に得られたと言えるであろうか」(「辛い試練を経験して初めて、神の素晴らしさを知ることができる」『言葉は肉において現れる』)。この御言葉は本当に感動的で神の裁きと刑罰の働きがすべて人類を清め救うためのものだと実感できます。これからお話しするのは終わりの日の裁きの働きを受け入れた私が経験した初めての試練、効力者の試練についての理解です。

 1991年2月のある日、いつものように参加した集会である兄弟がうれしそうに「聖霊が言葉を発した!」と言い兄弟姉妹が次の御言葉を読み始めました。「シオンに讃美がもたらされ、神の存する場所が現れた。栄光に満ちた聖なる名はあらゆる人に讃えられ、広まる。ああ、全能神よ。宇宙の頭、終わりの日のキリスト。この方こそ、全宇宙に堂々と威厳に満ちてそびえ立つシオンの山に登った輝く太陽である」「あなたは勝利者の群れを作り、神の経営(救いの)計画を全うした。諸国民はこの山に集い、玉座の前に跪く。あなたこそ唯一の真の神であり、栄光と栄誉はあなたにふさわしい。すべての栄光、讃美、権威がその玉座にあるように」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」「第一章」)。すべては理解できずとも、これを聞いた時こんなに特別で感動的な言葉は、人には表せないと思いました。この御言葉は神から生まれ、聖霊が発したものだと確信したその後、次々と教会に届く聖霊の御言葉は信仰や聖書の謎についての多くの真理を啓示し真理の実践といのちの入りへの道を開いてくれた。当時は毎日集会があり、聖霊の御言葉を読みました。それは私の心を強くし、潤しました。みんなが歓びに浸り、幸福でした。私たちは神の前に到達する最初の者であり神に成された勝者であり、神の王国に受け入れられ、神の約束と祝福を受ける資格があると思った。信仰心に満ち、神のために多くを費やした。聖霊の御言葉を書き写す者や、音楽に合わせて讃美歌を作る者もいました。当時私たちは苦しい状況にありました。多くの兄弟姉妹が集会の最中に逮捕されました。私はおびえも恐れもせず、熱意をもって神に自分を捧げた。

 そして祝福と神の王国への希望で満たされたその時神の新たな御言葉が私たちに効力者の試練を与えたのです。10月のある日、聖霊の新たな御言葉を受け取りに40キロ離れた教会に行くよう言われた私は素晴らしい知らせに違いないと思い胸を躍らせ鼻歌を歌いながら自転車で集会場へ向かった。しかし到着すると兄弟姉妹が浮かない顔でうなだれていました。兄弟が言いました。「聖霊が御言葉を発した。神は私たちはみな効力者だと仰った」姉妹は目に涙を浮かべ「みんな効力者です。中国人は神に仕える者。祝福を受けられないの」と言います。信じられませんでした。急いで聖霊の御言葉と、この神の御言葉を読みました。「中国では、わたしの長子とわたしの民を除けば、他のすべての者は赤い大きな竜の子孫であり、投げ捨てられるべきであることを、あなた方は理解しなければならない。結局、中国はわたしによって呪われた国であり、そこにいる僅かばかりのわたしの民は、わたしの将来の働きのために奉仕する者に過ぎないということを、あなた方は理解しなければならない。別の言い方をすれば、わたしの長子たちを除いては、他に誰もいないのである──彼らはみな滅びることになっている。わたしの業においてわたしが極端過ぎると思ってはならない。これはわたしの行政命令である。わたしの呪いを受ける者たちは、わたしの憎しみの対象であり、これは確かなことである」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」「第九十五章」)。驚くばかりでした。効力者については過去に何度も聖霊の御言葉で言及され不信心者のことだと思っていましたがそれは私たちのことでした。中国人は神に呪われる効力者で奉仕を終えると底なしの穴に放り込まれるとありました。体中の力が抜けました。まさか自分が効力者だなんて。長年の信仰は無駄だったのか? 神の王国で祝福されないばかりか、底なしの穴だなんて! 深淵に放り込まれたように惨めで怨む心が芽生えました。主に従うために学業を諦めたこと。世間に笑われ、友人や家族からも理解されなかったこと。中共の迫害、そして危うく逮捕されそうになったこと。それでも私はひるまず、神に自分を捧げ犠牲を払いました。深く苦しんだ分、神の王国で祝福を享受すると思ったのに賤しい効力者となった。訳もわからず、ため息をつきながらただ座っていました。他の兄弟姉妹はうなだれ涙を流す者や、顔を覆い嗚咽をもらす者大声で泣き叫ぶ兄弟もいました。

 集会のあと帰路についても自転車をこぐ気力すらありません。「なぜ私が効力者?」という想いが頭から離れず考えるほどに被害者のような気がして、涙が止まりません。家に戻っても何もする気になれず誰とも話す気になれずうつむいて歩くだけ。息をするのも辛く感じ自分が効力者で、祝福を全く受けないなんて認められませんでした。

 その後新たな御言葉が次々に届きましたがその一篇ずつを熱心に読み、御言葉の中に、私の帰結を変える希望の光を求めました。しかし見つけたのは祝福どころか厳しい裁きばかり。特に次の御言葉がそうです。「効力者たちと悪魔に属する者たちは霊的に死んだ者であり、そのような者たちは滅ぼされて無に帰さなくてはならない。これはわたしの経営(救いの)計画の奥義であり、わたしの経営(救いの)計画において人間には計り知れないことである。しかしわたしは、これを全ての者たちに公にした。わたしに属さない者はわたしに敵対するものである。わたしに属するものはわたしと相容れるに適った者である。これは疑いの余地のないことであり、サタンに対するわたしの裁きの原則である。この原則を知るべきである――サタンから来る全てもの者は裁かれ、焼き尽くされ、灰となる。これはわたしの怒りでもあり、人はわたしの性質をさらに知ることができる」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」「第百八章」)。「今日わたしの為に奉仕した後に、全員去らなければならない。わたしの家に残ってはならない。恥知らずな居候であってはならない。サタンに属する者はみな悪魔の子であり、永遠に消滅する」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」「第百九章」)。神が効力者を裁き、呪うのを見てすべての希望を失い、底なしの穴に落ちていくようで、あんなみじめな気持ちは言葉で表せません。神の懐に抱かれ、神の愛を享受していたのに今や神に捨てられ、非難と呪いを受け、底なしの穴へと放り込まれた。苦痛という精錬に沈みこみ、とても消極的になりました。祈ったり、讃美歌を聴いたり、御言葉を読む気力もなく、これまでの献身と犠牲を後悔する気持ちさえ抱きました。こんなことになるなら、逃げ道を残しておいたのに。私にはもう何もない。私が効力者となり果て、すべてを失ったと知れば、信仰のない友人や家族に際限なくからかわれる。とても顔を見せられない。どうしよう。それを考えると、自分をとがめる気持ちが深くなりました。これまでの信仰を思い返すと多くの苦難もあったが、私は神の恵みと祝福を十分享受した。今日もまた神に持ち上げられ新たな御言葉を聴き多くの謎と真理を学んだ。何があろうと神からは離れられないのだ。

 一度、集会でこの御言葉を読みました。「わたしはただ、あなた方が心と思いを尽くし、また、あなた方の能力を尽くして、あなた方のすべての力をわたしに捧げることを望む。今日であろうと明日であろうと、あなた方がわたしのために効力者であろうと、祝福を受ける者であろうと、あなた方は皆、わたしの国のために、あなた方の力を尽くすべきである。これは、造られたすべての人々が担うべき義務であり、それはこのように行われ、実行されねばならない。わたしは、わたしの国の美しさを常に新しいものにし、わたしの家を調和させて統一させるために、すべてのものを動員して奉仕させる。誰もわたしに背くことは許されず、背く者は裁きを受け、呪われなければならない」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」「第百章」)。当時の教会指導者もこれについて交わってくれました。「効力者であることを恥ずかしいと感じる人は多いが、それは全くの間違いである。今日、私たちが神に仕えることができるのは、神が予め定められたことであり、それ以上に、私たちは神にそうするように選ばれたのである。実際、最高で全能なる神に仕えることは、非常に栄誉あることである。私たちはサタンに深く堕落させられてしまった人間であり、神の前ではちっぽけな被造物に過ぎない。誰が神に仕えるのにふさわしいというのか。全人類の中から、私たちは神に仕えるために選ばれた。私たちは多くのものを得てきており、これは本当に神から大きく高められていることである。このように言うのが一番公平であり、それを理解できないならば、途方もなく傲慢である。正直に言う。人間性にまったく欠けている私たちが、神に仕えることを神に許していただいている。だが、神がどれほどの屈辱を受けたか知っているだろうか。神は毎日私たちのような堕落した人に接しているが、神が受けている大きな屈辱について考えたことがある人が私たちの中にいるだろうか。私たちはいつも神に反抗し、逆らい、自分の観念や想像で神を裁き、神の心を砕いている。神はどれほどの苦悩を味わってきたのだろうか。私たちが堕落した性質で満ちており、神に仕えても神の要求を満たしていないということをよく心得なさい。そのようにふるまっていては、私たちは神に仕えることさえふさわしくない。ではどうして神の民となるにふさわしいと言うのか。」これを聞いて目が覚めました。創造主であり至高の存在である神に賤しくちっぽけな私が奉仕できるのは、神の高尚さでありやさしさなのだと。しかし私は自分の性質も地位も知らず効力者は賤しいと思い、神に仕える気持ちを持たなかった。ごう慢で理知に欠けていた。思い返すと、熱心に追求し犠牲を払い努力を費やしたのはすべて祝福を得るため、神の王国の祝福を享受するためでした。人への約束と祝福を示す御言葉に動機を与えられ中共の迫害にもひるまず頑張ってきたのに自分たちが底なしの穴に放り込まれる効力者だという御言葉を読み、神に不平を言い、責め立て、神を裏切り離れようとさえした。とても真の信心者といえません。私の献身と犠牲と努力は、自分の下心と不純によって汚されました。すべては祝福を受け、神を騙し、神と取引をするため。自分勝手で卑しい人間です。神の恵みと祝福を享受し、御言葉に栄養と水を与えられたのに祝福を受けられないと知ったとたん神を裏切ろうとするなんて良心も理知もない人間でした。深い後悔と自責の念を感じた。私は大きな赤い竜の子孫で、神の家ではなくサタンに属し信仰の動機は祝福を受けることでした。神は聖く、義であり、その性質はどんな背きも許さない。神への行動と態度をみれば、私には効力者になる価値すらなかった。とうの昔に神に呪われ地獄へ送られるべきでした。神は私を懲罰せず、生きることを許して下さった。私が神の言葉を聞き、いのちの栄養を受け取り、至高の神に仕えられるように。これは特別の賛美であり私は神に感謝こそすれ、文句をいう権利などありません。効力者として尽くさなければ!

 11月後半になり、さらに新たな御言葉が届きました。全能神は言われます。「わたしがシオンに戻った後も、地上の者たちは、過去と同じようにわたしを讃美し続けるだろう。これらの忠実な効力者たちは、わたしに仕えるために今もなお待っているが、彼らの役割は終わるだろう。彼らにできる最善のことは、わたしが地上にいる状況を熟考することである。その時になると、わたしは災難を被るであろう人々に災害をもたらし始めるが、すべての者はわたしが義の神であると信じている。わたしは決してそれらの忠実な効力者たちを罰することはなく、彼らにわたしの恵みを受け取らせるだけである。なぜなら、わたしはすべての悪を行う者たちを罰し、善を行う者たちは、わたしが授ける物質的楽しみを受けるだろうと、わたしは言ったからである。これはわたしが正義と信実の神自身であることの啓示である」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」「第百二十章」)。神は私たちを見捨ててはいなかった。大きな赤い竜の子孫だから懲罰していたのではなかった。私たちは献身的な神の効力者として、地上で神を称えることができる。心が温かくなり、体に力がみなぎり、神の効力者であることは神の賞賛であり祝福だと感じました。あの頃は集会で「神様に仕えることは私たちの幸運」をいつも歌いました。「神の御言葉の啓示と裁きを通して、私たちは自らの深い堕落を知る。祝福への欲に満たされたままでは、神の前で生きるにふさわしいとは言えない。神の王国に入る資格のない私たちにとって、神に仕えることは昇進である。ああ! 神の恵みにより私たちは神に仕える。それは幸せなことである。待ち受けるのが祝福でも不幸でも、私は最後まで神に仕える」(「神様に仕えることは私たちの幸運」『小羊に従って新しい歌を歌おう』)。

 効力者として幸せを感じ、神に仕える心構えができた頃全能神が新たな御言葉を発しました。1992年2月20日、神は私たちを王国の民とし、効力者の試練を終わらせました。「状況は以前とは異なり、わたしの働きは新たな開始点に入っている。そういうわけで新しいやり方が出てくるだろう。わたしの言葉を読み、まさに自分のいのちとして受け入れる人々はわたしの国の人々である。彼らはわたしの国にいるので、わたしの国のわたしの民である。彼らはわたしの言葉によって導かれるので、わたしの民と呼ばれるが、この呼び名はわたしの『子供たち』と呼ばれることとまったく同じである」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」「第一章」)。神が効力者を王国の時代の民に変えたことで、幸福と後悔と自責の念を感じました。効力者の試練の間、消極的で弱々しくなり、希望を失い神に不満を抱き、神を誤解し責めたことを後悔しました。効力者になることをためらい、忠誠心も従順さもなかった。深い後悔と、神への負債が残った。大きな赤い竜の子孫であり、反抗的で堕落した私たちが試練を耐え抜いたことで神が私たちを高め、王国の民、神の家の一員としてくださった。神の偉大な愛を感じ神への感謝と称賛で満たされました。

 この試練を経験し、私は神の働きの英知を知りました。神は御言葉で人を裁き、罰し、呪いすらします。その厳しい言葉がもたらす痛みと苦しみはすべて私たちを清め、変えるためです。私は神の御言葉により精錬され神の義なる性質を目にしましたが神は私たちの動機と不純を憎み、祝福のための信仰を嫌いました。この経験の後、私の信仰に対する見方が少し変わりました。祝福や王国への入りを求めることなく効力者として創造主に仕えることは尊いことであり祝福なのです。誇りと名誉を感じました。


人を正しく扱う方法の学び

2020-12-11 23:20:20 | キリストの裁きの座の前における経験の証し

 2年前、私は教会リーダーとしての本分を尽くしていました。教会には優れた素質を持つチェンという兄弟がいました。でも彼の性質は非常に傲慢で、人を抑圧する傾向があった。自分を誇示するのが大好きだった彼に、私は偏見や思いを持ち始めました。ある日、チェン兄弟が来て、新しい信者に水を与えたいと言いました。彼の信仰は日が浅く、真理をうわべで理解していたので、「ダメだ」と答えたの。私が同意しないのを見て、彼は「私には優れた素質があるのに、どうして水を与える本分に就けないのか」と言いました。私はこれを快く受け止められませんでした。「水を与える本分は簡単だと思っているの? 真理を理解しなくても、自分の才能や素質を使うだけでうまく本分が果たせるの? 自惚れないで」と思いました。私はチェン兄弟の求めを退けました。そして、他の兄弟姉妹に彼の堕落ぶりがわかるいろんな例を示して、どんなに彼が傲慢か話しました。何人かの兄弟姉妹は私に同意しました。

 その2週間後、教会は今後の集会で教会映画を見て、全能神の言葉を読む計画を立てました。すべて、真理を説き、神に証しする映画です。それを観れば、真理を理解する助けになります。次の集会でチェン兄弟は言ったわ。「それは良い計画です。一部のリーダーや働き手は集会で既存の文面や教義をなぞらえただけの話をするだけなので、映画を見た方がいい。私は真理を理解していなかったので、最初は本分でとても苦労しました。けれども、神に祈って頼り、神の御言葉をもっと読み、これらの教会映画も大きな助けになって、いくつかの真理を理解しました。今では本分を果たす上でかなり熟練し、原則の基本を把握している。本分で多くを成し遂げています」。その彼の話は不快で、常軌を外れていると感じ、私は「事あるごとに自慢するのね。あなたは本当に傲慢だわ」と思いました。その後、次の集会で取り上げる課題を準備していると、チェン兄弟が割り込んでその内の3つを取り、残りの課題の説教も他の人に割り当てたの。私が集会を主催するグループリーダーを任命したときには、チェン兄弟は疑わしい声でその人に言ったわ。「本当にできるの?」まるで、自分だけが集会を主催できると言っているみたいだった。私は腹を立ち、こう思いました。「あなたは本当に理不尽な人ね。人から尊敬してもらえるよう誇示しているだけよ。そう願っているなら、とんでもない」というわけで私は全部やり直し、彼に集会を主催させなかった。そのころはずっと、チェン兄弟の振る舞いを思う度に彼を嫌悪し、特にその傲慢な振る舞いについて数回話したのに変わらなかったことを思い出しては、嫌な気持ちになったわ。彼には底知らずの傲慢さがあると感じました。それで、私は彼を「変われない人」と決めつけ、彼のように傲慢な人は彼の本分を果たすのにふさわしくない、交代させるしかないと思った。

 集会が終わった時、私自身の状態や振る舞いを思うと、少し気まずくなりました。チェン兄弟に対して厳しすぎたと思ったので、神に祈りました。「神よ、私の状態は間違っているとわかっています。でも問題は何なのか、どの真理の原則に入ればいいのかわかりません。私を啓き、導いてください」。次の日、ディボーションでこの神の御言葉を読みました。「どのような原則に従って神の家の成員を扱うべきですか。(兄弟姉妹一人ひとりを公平に扱うべきです。)どのようにして公平に扱いますか。誰にも些細な欠陥や欠点があり、ある種の特異性もあります。人はみな独善性や弱点、欠けている部分があります。あなたは愛する心をもって相手を助け、忍耐強く寛容であり、些細なことの一つひとつについて厳しくあたりすぎたり、騒ぎ立てたりしてはいけません。若い人や神を信じてからさほど時間が経っていない人、あるいは最近になって本分を尽くし始め、特殊な要求事項がある人に対し、それらのことをしっかり掴んで彼らに突きつけるなら、それが厳しくあたるということです。あなたは偽指導者や反キリストによる悪事を無視しながらも、兄弟姉妹の些細や欠点や短所を見つけたとたんに彼らを助けるのを拒み、その代わりにそのような事について騒ぎ立てるほうを選び、背後で彼らを裁きます。そうすることで、さらに多くの人が彼らと対立し、彼らを排除、追放するように仕向けているのです。これはどのような振る舞いですか。自分の個人的な好みに基づいて物事を行ない、人を公平に扱えないことです。これは堕落したサタン的性質を示しています。過ちを犯しているのです。人が物事を行なうとき、神は見ています。あなたが何をしようと、どう考えようと、神は見ているのです」(「真理を得るには、周囲の人や出来事や物事から学ばなければならない」『キリストの言葉の記録』)。御言葉には私の状態が示されてた。恥ずかしく思いました。私は自分の堕落した性質を通してチェン兄弟を扱っていた。彼に会ってからのことを考えると、彼の言動にはよく傲慢さが表れていたために、彼のことを若く生意気で、自らを知らない人物だと感じていた。少しでも彼の話になると、欠点しか思い出さなかったわ。彼の堕落した振る舞いに固執し、「彼の傲慢さはあらゆる理知を超えている、そのような人は決して変われない」と決めつけていました。決して彼を公平に扱えませんでした。彼が発するどんな見解にも抵抗し、反対しました。人前で彼を非難し、見下し、彼に対する偏見を広め、私と一緒に彼を排除して仲間外れにするよう仕向けた。彼を本分から退けることさえ望んだわ。私は彼を抑え込み、打ちのめすためにリーダーとしての立場を利用していたのでは? 私に理知はありませんでした。真理の原則はなく、神への畏敬の念がなかったのです。兄弟姉妹を自分の好きなように扱い、悪魔の本性を生きていました。神はとても不快に思われ、うんざりされるわ。そう考え、罪悪感でいっぱいでした。

 その後、人を公平に扱うことに関する原則を求めて神の御言葉を調べ、二つの節を見つけました。「他人をどのように扱うべきかは、神の言葉の中にはっきり示されているか、あるいはその中でほのめかされています。神が人類を扱う態度は、人が互いの扱いの際にとるべき態度です。神は一人ひとりをどう扱いますか。霊的背丈が未熟な人、若い人、あるいは神を信じるようになってまだ日が浅い人もいます。そうした人たちの本性と本質について、神はそれらを悪いものとも悪意に満ちたものとも見なしません。それは単に、彼らがいくぶん無知だったり素質を欠いたりしているか、社会によって過度に汚染されているかなのです。彼らはまだ真理の現実に入っていないので、馬鹿げたことをしたり、無知な行動をとったりしないようにするのが容易ではありません。しかし神の視点からは、こうしたことは重要ではありません。神は人の心だけを見ます。人が真理の現実に入ることを決意しているなら、正しい方向に進んでおり、それがその人の目標です。すると神はその人を見守り、待ち、入れるようになる時間と機会を与えます。神がその人を一撃で打ち倒すことはなく、またその人が以前に犯した罪をがっちり捕らえ、手放そうとしないということもありません。神が人をそのように扱ったことはないのです。であれば、人がこのように互いを扱うならば、それはその人の堕落した性質を示していませんか。それがまさにその人の堕落した性質なのです。神が無知で愚かな人をどう扱うか、霊的背丈が未熟な人をどう扱うか、人間の堕落した性質が普通に表われているのをどう扱うか、悪意に満ちた人をどう扱うかをあなたはしっかり見なければなりません。神には異なる人々を扱う様々な方法があり、また異なる人の無数の状態を扱う様々な方法もあります。あなたはこのようなことの真理を理解しなければなりません。いったんこの真理を理解すれば、それをどのように経験すべきかがわかります」(「真理を得るには、周囲の人や出来事や物事から学ばなければならない」『キリストの言葉の記録』)。「愛や憎しみは正常な人間が持つべきものですが、愛するものと憎むものの区別は明確にしなければなりません。あなたは心の中で神を愛し、真理を愛し、肯定的なものを愛し、兄弟姉妹を愛すべきであり、一方で悪魔サタンを憎み、否定的なことを憎み、反キリストを憎み、邪悪な人々を憎まなければなりません。兄弟姉妹に対して憎しみを抱けば、彼らを抑圧し恨みを晴らそうとしたくなるでしょうが、それはとても恐ろしいことです。……もし誰かと性格が合わず、その人をあまり好きでなかったとしても、その人と一緒に働くときは公平な態度を取るでしょうし、本分を果たす中で自分の鬱憤を晴らしたり、本分をおろそかにしたり、不満をぶつけて神の家の利益を害したりはしないでしょう。あなたは原則に従って物事を行うことができますし、そのため基本的な神への畏敬を持っていることになります。もう少し上級者なら、誰かに落度や欠点がいくつかあって、場合によってはその人に気分を害されたり自分の利益を損なわれたりしても、なおその人を助けるだけの能力があります。そして実際にそうすればさらに良いことであり、それは人間性、真理の実在、そして神への畏敬を持っているということを意味します」(「神を信じる正しい道へ入る前に人が置かれる五つの状態」『キリストの言葉の記録』)。

 人を平等に扱う原則と道、人に対する神の態度がはっきり示されています。反キリストや邪悪な人に対して神は、憎しみと呪いと懲罰の態度を示されます。霊的背丈が低い人、素質が乏しい人、堕落した性質や欠点をいろいろと持つ人に対しては、心から神を信じ、真理を求めたいと願い、そして受け入れられるなら、神は愛と憐れみと救いの態度を示される。一人ひとりの扱いについて神には原則があり、真理の原則に沿って他の人を扱うよう、神は求めておられます。たとえば、心から神を信じる人に対しては、寛容で慈悲深くあり、愛をもって助け、悔い改めて変わる機会を与えなければ。堕落を示したからといって、相手を打ちのめすことはできません。それは神の御旨ではないわ。たとえば、チェン兄弟には優れた素質と、本分に対する責任感がありました。また彼は真理の追求に努力を惜しまなかった。一方、信者になって間もなく、経験も浅いので、傲慢さがありました。でも、私は真理の原則にしたがって彼を公平に扱い、愛情深く真理を交わって助けるべきだった。それなのに、彼の強みや長所を見ようとせず助けなかったどころか、欠点を見て非難し、排除し、消えてしまえと思いました。私の本性はそれほど悪意に満ちていた。自分のリーダーとしてのあり方を思うと、他の人より優れているといつも考え、最終決定を下したい、何でも望むことをしたいと願い、周りの意見を聞かなかった。そのため、教会の活動を乱すことをしました。それなのに、神は私を淘汰なさいませんでした。御言葉を使って私を裁き、懲らしめ、取り扱い、自らを反省させ、悔い改めて変わる機会をくださいました。神は決してあきらめず、堕落を示したからといって淘汰されず、私たちを救うために何でもされる。神はそれほど素晴らしい心をお持ちです! 自分の振る舞いや、チェン兄弟の扱い方を考えると、穴があったら入りたいぐらい恥ずかしいです。それから祈り、神に悔い改めました。真理の原則を実践し、愛情深い心でチェン兄弟を助けたかった。

 そして、私はチェン兄弟の元に行き、神の御言葉を交わり、彼の欠点を指摘しました。彼は自分の傲慢な性質を理解し始め。私の説教と警告はとても助けになった、自分を見つめなおしたい、堕落した性質を解決すため真理を求めたいと言っていたわ。彼の言葉を聞いてとても感動しましたが、後悔もしました。私は彼には変わる力がないと思ってたけど、そうではなかった。私は彼より傲慢でした。真理を追究している限り、自分の傲慢な性質は変わると思っていました。なのに、なぜチェン兄弟は変わらないと決めつけたのでしょうか? 自分自身には多くを求めず、なぜチェン兄弟には多くを期待したのでしょう? そのように人を扱うのは不公平でした。

 その後、集会で聖霊に用いられた兄弟の説教を聞きました。「堕落した人類は皆、傲慢な性質を持っている。真理を愛する人、完全にされることを求める人さえも皆、傲慢で独善的な性質を持つ。しかしこれは救いを得て、完全にされる能力には影響しない。真理を受け入れ、刈り込みと取り扱いを受け入れられ、たとえどんな状況でも無条件に真理に服従できる限り、救いを獲得し、完全にされる全き能力がある。事実、本当に優れた素質を持ち、固く決意している人に傲慢でない人はいない。それが事実である。神の選民は正しい方法で人を扱わなくてはならない。ひどく傲慢で独善的だからと、その人は善人ではないとか、救われ完全にされない人だとか、限定してはならない。この点については、神の御旨を理解する必要がある。優れた素質を持ち、固く決意している人で、全く傲慢でも独善的でもない人はいない。いるとしたら、それは間違いなく見せかけか、偽りの外見を見せている。堕落した人類は皆、傲慢で自惚れた本性があると知るべきだ。これは紛れもない事実なのである」(兄弟の交わりより引用)。この説教は傲慢な性質を持つ人をどう扱うか、より良く理解するのを助けてくれました。彼らが変われないのではありません。鍵は彼らが真理を求め受け入れられるかどうかを見ることです。もし真理を受け入れ、神の裁きや刑罰、刈り込み、取り扱いを受け入れられるなら、神によって変わり、完全にされないわけはないわ。……実際、才能や強さ、素質がある人は皆、かなり傲慢です。でも素質が優れているので、真理をすぐ理解し、本分で成果を上げる。このような人が真理を理解し、原則にそって行動すると、神の家の働きにとても有益です。チェン兄弟は優れた素質を持っていたのだから、私はもっと愛をもって彼を助け、もっと交わって支えるべきです。それが唯一、神の御旨に配慮した行いです。

 この経験でよく分かりました。真理もなくサタンの堕落した性質によって人を扱うと、ただ兄弟姉妹を傷つけ、彼らのいのちの入りと教会の働きを遅らせるだけだと。これは過ちであり、悪の行為です。私は、真理の原則にしたがって人を扱うことの大切さを知りました。神の御言葉の導きのおかげで、この小さな理解を得られました。


神の御言葉が私の霊を目覚めさせた

2020-12-05 20:06:42 | キリストの裁きの座の前における経験の証し

 全能神は言われます。「この終わりの日における神の働きの現在の段階では、神はもはや以前のようにただ恵みと祝福を人間に与えるのではなく、また人間をなだめて前に導くこともありません。この働きの段階で、人間は経験した神の働きのあらゆる側面から何を見ましたか。人間は神の愛と神の裁きと刑罰を見ました。この期間、神は人間に施し、人間を支え、啓き、導き、人間は次第に神の意図、神が語る言葉、そして神が人間に与える真理を知るようになります。……神の裁きと刑罰により、人間は人類の堕落とサタンのような本質を次第に認識するようになります。神が与えること、神が人間を啓くこと、そして神による導きにより、人類は真理の本質、人間に必要なこと、進むべき道、人生の目的、自分の人生の価値と意味、将来へと進む方法をますます知ることができるようになります。……人間の心が蘇ると、人間は退廃し堕落した性質で生きることを望まなくなり、その代わりに神を満足させるために真理を追い求めることを望むようになります。人間の心が目覚めると、人間はサタンと完全に訣別できるようになり、サタンによる危害を受けなくなり、サタンに支配されることも騙されることもなくなります。その代わりに、人間は神の働きと言葉に積極的に協力して神の心を満足させることができ、神を畏れ、悪を避けることができるようになります。これが神の働きの元来の目的です」(『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 6」より引用)。神の御言葉のこの一節に関する経験が私にはあります。

 2016年6月、私は英文朗読チームでの本分を割り当てられ、心から嬉しく思いました。自分の英語力をようやく活かせることになったからです。自分の力を発揮しなきゃ! 家にいる兄弟姉妹にこの素晴らしい知らせを伝えたくてたまらず、それを知った彼らが顔に浮かべる羨望の表情を想像さえしたものです。

 その本分を尽くし始めると、他の兄弟姉妹がとても流暢に英語を読み、発音も素晴らしいことに気づきました。お互い英語で話すこともよくあって、集会のときや本分を尽くしているときも会話は全部英語です。私の英語はそこまで優れておらず、羨ましさと不安を同時に感じましたが、「一生懸命勉強していれば、いつか追いつき追い越せる!」と自分に言い聞かせました。そこで英語を勉強して語彙を増やすため、朝は早起きして夜も遅くまで起きるようになりました。どうすれば働きの成果を向上させられるかを常に考えていたのです。働きの経験に関する誰かの話を聞くたび、私はペンを手にしてメモをとりました。でもあっという間に数ヵ月が過ぎたのに、私の進歩は全然遅く、チームでの成果も一番低いままでした。自分が本分を尽くしておらず、年下の兄弟姉妹からヒントや助けをしばしば受けなければならないこと、加えてそのころ、指導者からつまらないルーチンワークをよく割り当てられていたことが頭に浮かび、自分はチームにまったく不要なんだと感じ、心底落ち込んで動揺するようになりました。その後、私たちのチームに新たな姉妹が加わりましたが、チームの本分に不慣れだったので、私が手助けするよう言われました。自分はもうチームで一番能力が低い人じゃないと思い、密かに喜んだものです。ところが驚いたことに、この姉妹は才能に恵まれ憶えが早く、英語もすぐに上達しました。二、三ヵ月も経たないうちに、もう私を追い越しつつあったのです。そのせいで私はパニックになりました。「このままだと、またすぐにチームで一番劣ったメンバーになってしまう。もっと長く働いている他のメンバーほど、自分が成果を挙げていないことは理解できる。そして今、この新人が入ってきて手助けするよう言われたけど、あっという間に追い越された。こんなの屈辱だわ!」。私は地位と名声を求めて毎日暮らし、絶えず不安を感じていました。惨めさの中で日々を過ごしていたのです。故郷で本分を尽くしていた昔の日々を懐かしく思い始めました。そのころは自分が先頭に立って話し合いや計画を行なっていて、兄弟姉妹はみんな私の意見に賛成していたし、教会指導者にも高く評価されていたものです。かつては重要人物だったのに、今ではここまで落ちてしまった。そう考えれば考えるほど悲しくなり、自分が不当な扱いを受けているように感じました。そしてあるとき、ついにトイレにこもって泣いてしまったのです。その夜は床についても寝返りを打つばかりで眠ることができず、こんな思いを止められませんでした。「私は初日からチームで一番劣ったメンバーだった。他の兄弟姉妹は私のことをどう思ってるだろう。もうこんなところにいたくない」。でもそのとき、生きている限りあなたのために自分を費やし、あなたの愛に報いますと、神に厳粛な誓いをしたことが頭に浮かびました。本当に自分の本分を諦めてしまったら、約束を破ることにならないだろうか。神を騙して裏切っていることにならないだろうか。動揺のあまり、私は神に祈りました。「神よ! この状況をどう乗り越えるべきか、そこから何を学ぶべきかわかりません。どうか私を導き、啓いてください」。

 それから携帯電話を手に取り、神の御言葉のこの一節を読みました。「あなたがたは追求において、個人的な観念や願望や未来をあまりに多く抱きすぎる。現在の働きは、あなたがたの地位に対する欲望や途方もない欲望を取り扱うためのものである。願望、地位、そして観念はどれも典型的なサタン的性質の表われである。これらが人々の心に存在するのは、ひとえにサタンの毒が常に人の考えを腐敗させており、人々がサタンの誘惑を決して払いのけられないというのが理由である。このような人たちは罪のただ中で生活しているが、それを罪と思わず、「わたしたちは神を信じているので、神はわたしたちに祝福を与え、わたしたちのために万事を適切に手配してくださるに違いない。わたしたちは神を信じているので、他人よりも優れており、他の誰よりも地位と将来性が高いはずだ。わたしたちは神を信じているので、神はわたしたちに無限の祝福を与えてくださるに違いない。そうでなければ、神への信仰とは呼ばれないだろう」と考える。長年にわたり、人々が生き延びる上で頼ってきた思考がその人の心を腐敗させ、不誠実で臆病で卑劣になるに至った。そのような人は意志の力や決意が欠けているだけでなく、貪欲で傲慢で強情になった。人間には自我を超越する決意が完全に欠けている上、これら闇の勢力による呪縛を払いのける勇気が少しもない。考えと生活があまりに腐敗しているので、神への信仰に対するその人の見方は依然として耐えがたいほどに醜悪であり、人々が神への信仰に対する自分の見方について語るときでさえ、それはただ聞くに堪えない。人はみな臆病で、無能で、卑劣で、傷つきやすい。闇の勢力に対して嫌悪感を覚えず、光と真理への愛を感じず、それらを排除しようと全力を尽くす」(『言葉は肉において現れる』の「なぜ進んで引き立て役になろうとしないのか」より引用)。神の御言葉は私の状況を完全に説明していました。私がこれほどの苦痛を感じたうえに、本分を尽くすことに抵抗し、本分を諦め神を裏切ろうと思うまでになったのは、地位に対する自分の欲求が満たされなかったからではないでしょうか。このチームに加わってからというもの、英語を必死に勉強して働きの成果を向上させようとしてきたのは、単に自分の力を見せつけ、チームで傑出したかったから。新入りの姉妹がとても早く上達するのを見ると、彼女に追い越され、再びチームで一番劣ったメンバーになるのではないかと不安でした。地位のことで一日中ストレスを感じ、まったく惨めに暮らしていたのです。「人々が生き延びる上で頼ってきた思考がその人の心を腐敗させ」という神の御言葉を見て、私は自分に問いかけました。「なぜ地位のために奮闘してるの? この惨めさはどんな考えのせいなの?」神の御言葉をじっくり考えて初めて、自分が「出世して先祖に栄誉をもたらす」、「人は上をめざし、水は下に流れる」、「天上天下唯我独尊」といったサタンの格言にしたがって生きていることに気づいたのです。私たちは幼いころから、人より優れて頂点に立つよう、教師に教え込まれています。私も名声のある有名人を絶えず心から尊敬して羨み、自分もそうなりたいと望んでいました。どこにいようと人から高く評価されることをいつも望み、全員から感心され、支えられ、賞賛されればなおいい気分になりました。これが愉快で有意義な生き方だと思っていたのです。人から感嘆と賞賛を得られなければ生活は惨めになり、とても落ち込みました。神の家で本分を尽くすようになってからも、私はこうした物事を追い求めていました。でも向上が見られなかったり、他の人の賞賛や感嘆を得られなかったりすると、悲観的になって落胆し、気力が挫けました。本分を諦めて神を裏切ることさえ考えたのです。私は名声を求める執念にすっかり取り憑かれ、それを得るためならどんな困難にも耐え、どんな戦いも行ない、自分の世界全体がこの一つのことを中心に回るまでになりました。そのとき、自分が間違った物事を求めて奮闘していることに気づきました。私が本分を尽くしていたのは真理を追い求めて神の愛に報いるためではなく、ただ名声と地位に対する自分の欲求を満たすためだったのです。

 神の御言葉に暴かれたおかげで、自分の追求がいかに誤っていたかがわかりました。その後、私は神の御言葉のこの一節を読みました。「本分を尽くしている一人ひとりにとって、真理の理解の深さがどれほどであろうと、真理の現実に入ることを望むなら、自分が行なうすべてのことにおいて神の家の益を考え、自分の利己的な欲求、個人的な意図、動機、面子、地位を捨てるのが最も簡単な実践の方法です。神の家の益を第一にしなさい。これが行なうべき最低限のことです。……加えて、自分の責任と義務を果たし、本分を尽くし、自分の利己的な欲求や意図や動機を捨て去り、神の旨を考慮し、神と神の家の益を第一にすることができるなら、それをしばらく経験した後、それがよい生き方だと感じるようになります。それは卑劣で役立たずな人間になることなく、正直かつ誠実に生きること、心が狭かったり卑しかったりするよりむしろ、公正かつ高潔に生きることです。人はそのように生きて振る舞うべきだと感じるようになります。自分の益を満足させようとする心の欲求も徐々に小さくなります。」(『キリストの言葉の記録』の「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」より引用)。神の御言葉を読んで、他人に賞賛されるのは重要なことではないとわかりました。神の支配と計画に従い、神の家の働きを守り、真理を実践して本分を尽くすことこそが本当に重要で、それが心を開いて誠実に生きる方法なのです。神の御心がわかったあと、私は大きな解放感を覚えました。チームで一番劣っていることに変わりはないけれど、それをつらいと思うことがなくなったのです。また自分の名声と地位を傷つけることがあっても、以前のように弱ることもなくなりました。意識して神に祈り、自分の間違った動機を捨て、心を静めて本分を尽くせるようになったのです。しかしサタンの害毒は私の中に深く根を下ろし、私の本性そのものになっていました。単に認識するだけではそれを根絶できません。清められて変わるには、裁きと精錬をもっと経験する必要がありました。

 チームリーダーが劉姉妹と張姉妹に、私たちの働きの監督を任せました。二人とも高度な専門技能を有していたからです。私は羨望と嫉妬を同時に感じました。他の兄弟姉妹を指導するのがとても名誉なことに思えたのです。どうして自分は二人のようになれないのだろう? 自分にできるのは技能が不要なつまらない仕事だけ。その後私は、兄弟姉妹の問題解決を助けるチームで水を与える本分を尽くすよう勧められました。でも期待に胸を膨らませることはまったくなく、その本分を見下しさえしました。実際の技能をもたない人だけがそんな本分を割り当てられるのだと思えたのです。私たちのチームが立派な成果を挙げているとすれば、それはひとえにあの二人の姉妹のおかげだと、誰もが口を揃えて言うでしょう。舞台裏で働き、真理を交わって問題を解決している私のことに、いったい誰が気づくでしょうか。間違った心構えをもち、聖霊の働きを得られていなかったせいで、どうしてもその本分を尽くそうという気が起きず、心の中で「私の素質がみんなにかなわないのはなぜだろう? 私は何に優れているんだろう? いつになったら自分の力を発揮できるんだろう?」と思うこともありました。徐々に嫌気と焦りが募っていき、そして程なく、通りかかった張姉妹からドアを閉めたり窓を開けたりお願いされるたび、感情が爆発しそうになるのを感じました。「あなたは信者になってどれくらい経つの? ほんの少し技能が優れてるだけじゃない。それで私を顎で使う資格があるっていうの?」しまいには、張姉妹に話しかけられても無視するようになりました。時おり質問されても聞こえなかったふりをするだけで、答えたとしてもぶっきらぼうな話し方でした。そのせいで彼女がふさぎ込んでいるのを見て、私は気の毒に思いましたが、地位と名声のことになるとやはり感情が先に立つのです。

 ある朝、劉姉妹と張姉妹が用事で出かけるのを目にしました。二人とも本当に上品でおしゃれな服に身を包んでいたので、私は動揺して嫉妬しました。「私は舞台裏で誰にも感謝されず苦労してるのに、あなたたちは栄誉を独占してる。私がどれだけ懸命に働いているか、誰にも知られることはないんだわ……」。その夜姉妹たちが戻ってくると、チームの全員が駆け寄って労をねぎらい、二人のために夕食を準備する人もいました。最初は私も二人に声をかけ、働きがどう進んだかを訊きたかったのですが、みんなの反応を見て嫉妬が蘇り、「あの二人がまた栄誉を独占して、私はますます価値がないように見えている」と思いました。そう考えて二人に背を向け、そのまま部屋に戻ったものの自分を静められず、そこで神に祈りました。「神よ、地位を求める私の執念が再び醜い頭をもたげてしまいました。名声と地位への欲望を捨てたいのですが、どうしてもできません。どうか評判と地位の束縛から自由になる方法をお示しください」。

 翌日、私がひどい状態にあるのを見た姉妹の一人が次の一節を読んでくれました。「地位や体面、名声に触れるとすぐ、みな期待に胸を躍らせ、自分が傑出し、名声や評価を得ることをいつも欲します。誰も譲歩したがらず、競うことは恥であり、神の家では許されないにもかかわらず、常に競おうとします。競争しないと気が済まないのです。あなたがたは、傑出した者を見ると嫉妬し、憎み、不公平だと感じます。『自分が傑出できないのはなぜだろう。傑出するのが常にあの人で、自分の番が回ってこないのはなぜだろう』。そして一種の憤りを感じます。あなたがたはそれを抑えようとしても抑えられません。神に祈り、しばらく気分が楽になるものの、そのような状況に再び直面するやいなや、それを克服できません。それは未熟な霊的背丈を示すものではありませんか。こうした状態に陥ることは罠ではないですか。これらは人を束縛する、サタンの堕落した本性の足かせなのです」(『キリストの言葉の記録』の「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」より引用)。私が自分の追い求めるものを本当に変えていなかったことを、神の御言葉は示していました。依然として評判と地位、そして他の人に優ることを求めていたのです。こうしたことに取り憑かれていた私は、傑出して注目され、重要な本分、あるいは技能を要する本分を尽くしたいといつも望んでいました。それがみんなから尊敬され、一目置かれる唯一の方法、神に認めていただき、最終的に祝福を受ける唯一の方法だと思い込んでいたのです。重要でないと思った仕事にはどれも冷淡で、水を与える本分でさえも軽蔑のまなざしで見ていました。二人の姉妹に重要な本分が任される一方、自分には決して注目されない些細な仕事しか与えられないことに気づくと、嫉妬を感じて憤り、よりよい素質や技能を与えてくださらなかったといって、神に文句をぶつけて責めさえしました。私は何て理知のない人なんでしょう! 地位への欲望が満たされなかったからという理由で本分に力を注がず、姉妹たちを自分の不満のはけ口にさえしました。それが姉妹たちを押さえつけ、傷つけたことは間違いありません。そのことを省みれば省みるほど罪悪感を覚え、自分がいかに利己的で人間性に欠けていたかがわかりました。

 その後、私は神の御言葉のこの一節を目にしました。「人は名声を得て有名人になることを常に望んでいます。大きな名声と信望を得て、先祖に栄誉をもたらすことを望んでいるのです。それらは肯定的な物事ですか。それらは肯定的な物事とまったく一致しません。そのうえ、神が人類の運命を支配しているという法則にも真っ向から反しています。わたしがそのように言うのはなぜでしょうか。どのような人を神は望んでいますか。偉人、有名人、高貴な人、あるいは世を揺るがす人を望んでいるのですか。(違います。)では、神はどのような人を望んでいるのですか。神が望んでいるのは、地に足をつけ、神の被造物にふさわしくなることを求め、被造物の本分を尽くすことができ、人間の立場を守れる人です」((『キリストの言葉の記録』の「真理を探し求め神に頼ることだけが堕落した性質を解決できる」より引用))。神の御言葉を振り返り、神が望まれるのは高貴な人や地を揺るがすような才能の持ち主ではなく、神の被造物として自分の本分を尽くせる、地に足の着いた人なのだとわかりました。神は私に優れた素質や一流の専門技能をもつよう求めてはおらず、私が自分の立場を守り、全力で本分を尽くすことだけを求めておられます。そしてそれが、私にできることだったのです。神は各人にそれぞれ異なる素質と才能を授けられます。私たちは自分の能力の限りを尽くし、互いに助け合い、ともに働きさえすれば、本分を尽くして神に満足いただけるのです。

 またこの神の御言葉も読みました。「わたしは、一人一人の終着点を、年齢や年功、苦しみの量、とりわけ憐れみを誘う度合いではなく、真理を自分のものにしているかどうかに基づいて決める。これ以外の選択肢はない。神の旨に従わない人はみな懲罰されることをあなたがたは悟らなければならない。これは不変の事実である」(『言葉は肉において現れる』の「終着点のために十分な善行を積みなさい」より引用)。神は義なる神でいらっしゃいます。神が誰をお褒めになるのか、また神が各人にどのような結末と終着点を定められるのかは、その人に名声や信望があるかどうか、どのくらいの人がその人を支えて認めているのか、あるいはその人にどのような元手があるのかによって決まることではありません。むしろ、それはひとえに、その人が真理を実践し、神に従い、神の被造物として本分を尽くしているかどうかに基づいています。祭司長、律法学者、そしてパリサイ人を例に取りましょう。彼らには地位も影響力もあり、多くの人が彼らを崇めて付き従いましたが、主イエスが来られて働きをなさったとき、彼らは真理を求めることも神の働きを受け入れることもまったくしませんでした。自分の地位と収入を守るために主イエスを激しく断罪し、主に抵抗さえして、果ては主を十字架にかけて神の呪いと懲罰を受けたのです。また、神の言いつけ通りに箱船を作ったノアのことも頭に浮かびました。当時、ノアは気が狂っていると誰もが思いましたが、ノアは神の言うことを聞いて神に従ったおかげで、神のお褒めを受けて洪水を生き延びたのです。そして聖書に記された貧しい未亡人。彼女が与えた二枚の硬貨は、他の誰にとっても些細なものにしか見えませんでしたが、神は彼女をお褒めになりました。自分がもつすべてのものを神に捧げたからです。これらの話を振り返り、神は本当に義でいらっしゃると気づきました。神は人の誠実さを大事になさいます。神の御言葉に耳を傾け、神に従い、神の御言葉を実践し、神の被造物として本分を尽くすことでのみ、人は有意義な人生を生きられます。他人に賞賛されようと励んでも、悪事を犯して神に逆らい、神の懲罰を受けるだけです。私があの環境で本分を尽くすよう神が采配なさったのは、私が苦しんだり屈辱を感じたりするのを神が望まれたからではなく、神には私のための計画があるからだとわかりました。私はあまりに地位に取り憑かれていたので、本当に自己を認識し、名声と地位の足かせを捨て去り、神の御前で自由な解放された人生を生きられるよう、暴かれ精錬される経験をしなければなりませんでした。これこそ神が私を変えて清める最善の方法であり、神の愛と救いだったのです。そう考え、私は神に祈りました。「ああ、神よ。これらの環境を巧みに整え、私を救って清めてくださったことに感謝いたします。私はもう名声と地位のために生きたくはありません。どのような本分を割り当てられようと、他人の目から見てそれがどれほど卑しいものでも、私は喜んで服従し、兄弟姉妹と一緒に働くことで、私たちの本分を尽くしてまいります」

 その後、私たちのチームの何名かが、教会の業務に出かけなければならなくなったのですが、それを聞いたとき、私の中で再び欲望が湧き上がりました。自分の力を示すチャンスがようやく得られるかもしれないと思ったのです。誰が行くか兄弟姉妹が話し合っているあいだ、私は自分が選ばれることをずっと期待していましたが、結局選ばれたのは劉姉妹と張姉妹でした。多少がっかりしました。自分が日の目を見る瞬間は決して来ないように思えたのです。再び名声を求めて争っていることに気づいたので、神に祈って間違った動機を捨て去りました。そして、この間ずっと自分の働きに集中せず、貴重な時間と活力を地位への奮闘に残らず費やし、自分の本分をこれっぽっちも尽くさなかったことが頭に浮かびました。私は名声と地位を求めて毎日戦っていましたが、それは本当にひどい気持ちでした。サタンに騙されてきたような感覚です。地位と名声は本当に人を傷つけます。実際のところ、私たちのチームの兄弟姉妹はみな異なる技能と素質をもっています。私たちが一緒に働くよう神が采配されたのは、一人ひとりが自分の技能を生かし、互いに学んで補い合い、一緒に働いて本分を尽くすことを望まれたからです。神はずっと以前に私の素質と背丈を決められました。また、私がチームでどのような役を演じるのか、どのような役割を果たすのかも、神が予め定められたことです。だから私は自分の居場所に喜びを感じ、全力で本分を尽くし、神に従うことのできる理知的な人であるべきなのです。それに気づくと、心がずっと穏やかになりました。二人の姉妹が本分を尽くしに出かけるたび、私は二人のためにひたすら祈り、他の姉妹たちが自分の本分に集中できるよう、全力でルーチンワークを終わらせました。また他の兄弟姉妹にも、働くと同時にいのちの入りの時間も見つけられるよう、霊のデボーションに力を入れることを勧めました。集中して物事を行ないだすと、地に足の着いた穏やかな気持ちをますます感じるようになりました。神との距離が縮まり、兄弟姉妹との関係もより正常になったと思いました。そして名声や地位を重視することもなくなり、より心を開くようになりました。この小さな変化に対し、私の心は神への感謝で一杯でした。神の御言葉の裁きと刑罰が私の心を目覚めさせ、名声や地位を求めることの虚しさと苦しみを示すとともに、神を信じ、真理を追い求め、被造物の本分を尽くすことでのみ、人は有意義な人生を生きられるのだと理解させてくれたのです。


利己心を手放せば心が解放される

2020-12-04 00:17:20 | キリストの裁きの座の前における経験の証し

 全能神は言われます。「正常な人々の性質にはひねくれた点や不正直さはなく、人々はお互いに正常な関係にあり、孤立していないし、その生活は凡庸でもなければ退廃的でもない。そこで神もすべてのものから褒め称えられ、神の言葉は人間の間に広がり、人々はお互い平和に神の配慮と保護のもとに暮らし、地上は調和で満たされ、サタンの妨害はなく、神の栄光が人間の間で最も重要なものになっている。このような人々はまるで天使である。純粋で、活気があり、けっして神について不平を言わず、地上の神の栄光だけに、ひたすら努力を捧げる」(『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉の奥義の解釈」「第十六章」)。神の御言葉によれば正常な人の性質には、歪み、欺瞞、利己心、卑しさは存在しません。誠実に神の委託を受け兄弟姉妹と力を合わせて、本分のために尽くすことは人が行える最も基本的なことです。かつて私は「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」や「生徒が師の知っていることをすべて知ると、師は生計を失う」というサタンの哲学に依って生きていました。利己的で、卑しく、心が歪み、ずる賢く、人間らしさを完全に欠いていました。神の御言葉の裁きと刑罰を経験して初めて私のサタンの性質が変わり始めたのです。

 2018年6月に、組に加わった張兄弟が、本分における私のパートナーになりました。その時私は「この本分を尽くしてだいぶ経つ。原則を理解し、いくらか結果も出ている。どこかのタイミングでこの組を離れ、もっと重大な役目に挑戦しよう。張兄弟をできるだけ早く慣れさせて、組の仕事を任せられるようにしなくては」と考えました。そこで私が本分で学んだ基本的な技能の指導を始めました。3か月もすると張兄弟は基本的なことはすべて理解し、かなりの速さで成長していました。私はそのことに危機感を覚え始めました。「張兄弟は本当に飲み込みが早い。これが続けば、追い抜かれてしまうかも。指導者が張兄弟の有能ぶりを知れば、重要な役目をとられてしまうのではないか」。この考えが浮かんだ時、こう思いました。「ちょっと指導を控えなければ。知っていることを全部教えるわけにはいかない」。それからというもの、張兄弟の能力が足りない部分を見つけても表面的なことのみに言及し知識のすべては共有しませんでした。良くないことだとわかっていましたが、「生徒が師の知っていることをすべて知ると、師は生計を失う」という古いことわざが頭に浮かびました。彼が目立つと私がかすんでしまう。負けるわけにはいかなかったのです。その後もパートナーを続けましたが、張兄弟に何か聞かれた時には、部分的な答えしか与えませんでした。

 それから間もなく、指導者が重要な仕事のことで張兄弟を探しにきました。それを聞き鼓動が早くなりました。私は思いました。「張兄弟よりも長く組にいるのに、なぜ私に言ってくれないのか。私は張兄弟に劣るのか指導したのは私なのに今や彼が注目され、私は押しのけられ忘れ去られてしまったのです。このまま指導を続ければ、ますます彼は成長するのではないか。彼が重要な役目に就いたら、誰が私を尊敬してくれるのか」。ですからそれ以降は張兄弟が困難に直面しても、助けませんでした。問題がすぐに解決できなくなり、組の仕事に支障をきたし、ついには教会の働きを阻むことになりました。責任と気まずさは感じたものの自分の行いを全く反省しませんでした。そんなある日、脇が突然かゆくなり、どうにもおさまりません。薬も効きません。次の日、腕がひどく痛み出し、動かせなくなりました。これは偶然ではないと気づいた私は神の御前で祈りました。「神よ。この突然の症状はあなたの善意によるものでしょう。しかし私は鈍感なので御心がわかりません。どうか啓きを与え、お導き下さい」。

 ある日祈りを捧げる私の頭に、次の御言葉が突然うかびました。「自分がもつすべてのものを捧げる気がないなら、あるいはそれを隠してしまい込み、いい加減に行動するなら、……」(「正直者になって初めて本当に幸せになれる」『キリストの言葉の記録』)。これにより私は目覚めました。私は名声や利益ばかりを求めて生きていたのです。兄弟に追い抜かれることを恐れ、公正さを欠き、知識を共有しようとしませんでした。この症状は、反省を促す神の警告だったのです。そのあと、次の御言葉の一節を読みました「不信心者にはある種の堕落した性質があります。彼らは他人に専門的な知識や技能を教えるとき、『生徒が師の知っていることをすべて知ると、師は生計を失う』という考えを持っています。知っていることをすべて他人に教えてしまうと、誰も自分を尊敬しなくなり、地位を失うことになると考えているのです。そのため知識の一部は伏せておく必要があると感じ、知っていることの80%しか教えず、いくつかの『切り札』も隠し持つようにしています。それが、師としての地位を示す唯一の方法だと思っているのです。いつも情報を伏せて、奥の手を隠し持っておくというのは、どんな性質だと言えるでしょうか。それは欺瞞です。……ただ最も表面的なことや基本的なことを皆に教えるだけで、自分はうまくやっているとか、知識を伏せてはいないなどと思ってはいけません。そうはいかないのです。場合によっては、多少の理論、あるいは人々が文字通りに理解できる物事だけを教えることもあるかもしれませんが、初心者は本質や要点をまったく理解することができません。あなたは踏み込んだり細部に言及したりすることなくただ概要を説明し、内心このように思っています。『とにかくわたしは伝えたし、何かを意図的に隠したりはしていない。わからないならそれはあなたの素質が不足しているせいなので、わたしを責めてはいけない。あとはただ、神がどうあなたを導くか様子を見るしかない』と。このような考え方は、欺瞞を含んでいないでしょうか。自分勝手で卑しくないでしょうか。なぜ、自分の心の中にあること、自分が理解していることを、すべて人に教えられないのでしょうか。なぜ知識を出し惜しむのですか。それはあなたの意図と性質の問題です」(『キリストの言葉の記録』)。神の御言葉は、私の状況を的確に示しました。私は名声や地位にとらわれ自分が習得した技能を教えることを拒みました。張兄弟が成長し、私を追い抜くことを恐れました。「生徒が師の知っていることをすべて知ると、師は生計を失う」という言葉のように。常に一歩引くことで、自分勝手で卑しく、歪んだサタンの本性に支配されていたのではないか。張兄弟が組に入った時のことを思いました。彼を指導した動機はなるべく早く組の仕事を習得してもらうためでした。そうすれば私の本分を他の者に引き継ぎ私はより重要な役目を担うことができるからです。しかし張兄弟の理解力が高いこと、指導者から高く評価されていることを知り、とても不安になりました。このままでは、いずれ私は追い抜かれ、取って代わられると思いました。その結果、知っていることを教えず、本分において困っている時も助けず、それにより教会の働きに遅れが生じました。名声や地位を守ることに夢中になるあまり、神の家の働きを全く考えていなかったのです。自分勝手で欺瞞に満ちた人間でした。あの症状は時を得た神の懲らしめであり、あれがなければ、私は反省することはなかったでしょう。そのあと次の御言葉を読みました。「あなたは神を信仰して以来、神の言葉を飲み食いし、神の裁きと刑罰を受け入れて、神の救いを受けたいと願ってきました。しかしもしあなたの行動原則や、物事を行い人としてふるまう際の方向性が変わっていなければ、そしてあなたが不信心者と同じなのであれば、神はあなたを信仰者として認めるでしょうか? いいえ、認めないでしょう。神はあなたがいまだに不信心者の道を歩いていると言うでしょう。そのためあなたは本分を尽くすにしても、専門的な知識を身につけるにしても、なすことすべてにおいて原則を守らなければなりません。すべての行いを真理に従って扱い、真理に従って実践しなければなりません。真理を用いて問題を解決し、自分の中に露わされた堕落した性質を解決し、誤ったやり方や考えを解決しなければなりません。そうしたものを継続的に克服していかなければならないのです。一つには、自分自身を吟味する必要があります。吟味した結果、堕落した性質が見つかったら、それを解決し、抑え、捨てなければなりません。こうした問題を解決し、自分の堕落した性質に基づいて物事を行うことを止めたとき、そして自分の動機や利益を手放し、真理の原則に従って実践できるようになったとき、初めてあなたは神に真に従う者が行うべきことをするようになるのです」(『キリストの言葉の記録』より引用)。「あなたはその専門的な知識の本質と要点、つまり他の人が見抜いていないことや悟っていないことを理解し、それを人々に伝えて、彼らが皆自分の力を発揮し、それによってより多くの、より深い、より成熟したものを解明できるようにしなければなりません。このようなことすべてに貢献できれば、それはこの本分を尽くす人たちにとっても、また神の家の働きにとっても有益になるでしょう。……ほとんどの人は、専門知識の特定の側面に初めて触れるとき、文字通りの意味しか理解できず、要点や本質に関わる部分については、把握できるまでに一定期間の練習が必要になります。あなたがそうした細部をすでに把握しているのなら、それを直接教えるべきです。そのように回り道をさせ、理解に長い時間をかけさせてはなりません。それがあなたの責任であり、あなたのすべきことです。自分が要点や本質だと思うことを伝えた場合のみ、あなたは何も出し惜しまないことになり、そうして初めて自分勝手ではなくなるのです」(『キリストの言葉の記録』)。御言葉により、本分における自己反省に重きを置き、利己的で卑しいサタンの本性を解決するため真理を求めなければと気づかされました。間違った思想や考えを捨て、兄弟姉妹と心をひとつにし本分を尽くす必要がありました。真理においても本分においても個人としての私たちには欠けているところが多いので兄弟姉妹は互いに助け合いながら本分を尽くすべきなのです。そして理解した物事は余すことなく交わるべきなのです。こうして互いに欠点を補うことで、回り道をせずにすみます。実際、私が張兄弟よりほんの少し優れていたのはすべて神の優しさによるものでした。神の御心を思い、張兄弟が一刻も早く本分を尽くせるよう利己心を捨てて知っていることをすべて教えるべきでした。これこそが神の御心に沿うのです。それに気づいた私は神の御前に急ぎ、祈りました。間違った考えを捨て利己的で卑しいサタンの性質に依らず生きる決意をしました。そのあと張兄弟に、私の状況を正直に話し、私のサタンの性質について分析しました。また私がもつ技能の要点を伝えました。この実践を始めて、心が穏やかになり体の症状もいつしか消えていました。

 この経験を通して私は変わったはずだったのですがサタンの性質は本当に深く根づいていました。しかるべき状況になったとたん、再びあの毒が顔を出してきたのです。

 2019年3月、張兄弟と私は同時に教会の指導者に選ばれました。最初は非常に仲良くやっていました。教会の中の問題も、直面した困難も、ともに真理を追求し解決しました。しかしある日、教会でこんな言葉を聞いてしまったのです。「張兄弟の真理についての交わりはとても実践的だ。彼は責任をもって本分を尽くしている」。これを聞き、私の心は再び乱れました。「張兄弟に出し抜かれたらあっという間に面目丸つぶれだ」と思いました。それからは、業務について話をするときには失敗や欠点を指摘することに終始し解決につながる実践の道を共有しませんでした。助けを求められた時には歯を食いしばって、少しだけ応えました。張兄弟が知識を得たら、自力で問題を解決するようになり、私の出番がなくなるかもしれません。こんなこともありました。張兄弟が、弱さを見せている兄弟姉妹を助けようしていたのですが、正しい交わりをもたなければ、意味がないと悩んでいました。そこで私に、交わるべき真理について相談に来ました。しかし私は知っていることをすべて教え、張兄弟が問題を解決したら兄弟姉妹は絶対に彼を尊敬するだろう。そうなったら私は次の交わりで何を話すのか、張兄弟に見劣りするのではと思いました。そして「次の交わりのために何か残しておくべきだ。私の方が問題解決に長けていることを見せなければ」と思い張兄弟には簡単な説明しかせず具体的なことも、重要なことも伝えませんでした。利己心にとらわれ、すべての知識を共有したくなかった私は業務においても張兄弟を意図的に避け話し合いをもつ時間も減っていきました。時おり罪の意識を感じ、心の中で「これでは、兄弟と力を合わせて本分を尽くしていない。神は喜ばれない」と思いました。しかしこうも考えました。「張兄弟が私を追い抜けば、皆が彼を上に見る」と。真理の実践が嫌になりました。そして、こんな状態から抜け出せなかった私に神の義なる性質が降りかかったのです。私の心は常に乱れ集会での交わりも光を欠き、本分でも何も達成できません。毎晩、早い時間に眠くなってしまい、不安感が膨らんでいきました。その時、神が私から離れたことに気づきました。そして恐くなりました。神の御前に急ぎ、祈りました。「神よ、私は利己的で卑しいサタンの性質を生きていました。あなたが深く嫌うとわかっていながら止められず、抜け出すこともできません。どうか啓きを与えてください。私の本性と本質をより深く理解できるように」。

 祈ったあと、御言葉の次の一節を読みました。「人が神の働きを経験し、真理を得るまで、人を内側から管理し支配するのはサタンの本性です。この本性は具体的に何を伴っているでしょうか。例えば、あなたはなぜ利己的なのですか。なぜ自分の地位を守るのですか。なぜあなたの感情はそんなに強いのですか。なぜそうした不義な物事を好むのですか。なぜそのような悪を好むのですか。あなたがそのような物事を好む根拠は何ですか。それらの物事はどこから来るのですか。あなたはなぜそれらを喜んで受け入れるのですか。それらの物事の背後にある主たる原因として、そこにはすべてサタンの毒が含まれていることをあなた方は今ではみな理解しています。サタンの毒とは何かといえば、それは言葉で十分表現できます。例えば、邪悪な行いをする人に、なぜそのような事をするのかと聞くならば、こう答えるでしょう。『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』この単純な言葉が問題の根源を表しています。サタンの論理が人々のいのちとなり、人はさまざまな目的で物事を行うかもしれませんが、とにかく全て自分の為に行います。『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』のだから、人は自分のために生き、自分にできるあらゆることをして良い地位を確保し、必要な食べ物や衣類を手に入れなければならないと、人はみな考えます。『己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす』これが人のいのちであり、哲学であり、また人間の本性を表しています。この言い習わしこそサタンの毒であり、人の中に取り込まれるとそれは人の本性となるのです。サタンの本性はこの言葉をとおして暴露されています。サタンの本性を完全に表現しています。この毒は人のいのちとなり、人の生存の基礎ともなります。何千年もの間、堕落した人類はこの害毒に支配されてきました」(「ペテロの道を歩むには」『キリストの言葉の記録』)。御言葉が教えてくれたのは私が利己的で卑しいサタンの性質に依らずにはいられなかったということでした。サタンの毒である「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」や「生徒が師の知っていることをすべて知ると、師は生計を失う」が私のいのちとなっていたからです。それらを良い事であり、生きるための黄金律ととらえました。目指すべき生き方であり、自分たちを守る唯一の方法と考えました。結果として、利己的で卑しく、自分本位な人間になっていきました。協力して行う本分において、張兄弟の方が優れているのではといつもびくびくし、仕事について話すときは常に表面的なこと、最低限のことに留め、一部の知識しか共有しませんでした。問題に直面した張兄弟から助けを求められた時神の家の働きよりもすべてを教えることで自分が教会で輝けなくなることが心配でした。正しい道ではないと知りながらも、助けませんでした。私が本分を尽くしていたのは神の御心への配慮からでも、神の家の働きを守るためでもなく個人的な名声と地位のためでした。私は本当に自分勝手で、ずるい人間でした。本分においてサタンの性質に頼る私が神の導きと祝福を得ることができるでしょうか。知識を誰にも教えずに自分だけのものにすれば教会で一番の存在になり、尊敬されると思っていました。しかし実際は、指導を怠るほどに私の魂は黒くなり、神の導きからも遠ざかりました。ついには、以前できたこともできなくなってしまったのです。その時、主イエスの次の言葉を思い出しました。「おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう」(マタイによる福音書 13:12)。この経験から、私は神の義なる性質を深く理解しました。さらに考えてみると本分における問題を理解できていたのは、すべて神の導きと啓きによるものであり御言葉の導きなしでは、私は盲目なのです。何も理解できず、何の問題も解決できません。しかし、自分ではそれに全く気づかず恥ずかしげもなく聖霊の啓きを自分の力だと誤解していたのです。私は神から栄光を奪い去ろうとしていたのでは。神は人の心と精神を見通せます。本分においてサタンの性質に頼り続ければ必ずや神に厭われ、排除されます。そう考えた私はすぐに神の御前で祈りました。「神よ、本分において私欲を追求したり、卑劣な人間になることは金輪際ありません。張兄弟とよく協力し、しっかり本分を尽くします」。

 そのあと、次の御言葉を読みました。「いつも自分のために物事を行なったり、いつも自身の利益を考えたり、自分の地位、体面、評判を気にしたりしてはいけません。人の利益を考慮してはいけないのです。まずは神の家の利益を考え、それを最優先にしなければなりません。つまり、神の旨を察しなければいけません。自分が本分を尽くす中で不純だったかどうか、全力で忠誠を尽くし、自分の責任を果たし、自分のすべてを捧げたかどうか、そして自分の本分と神の家の働きを心から考えてきたかどうかを熟慮することから始めなさい。あなたはこれらのことを考える必要があります。これらのことを頻繁に考慮すれば、立派に本分を尽くすのが簡単になるでしょう」(「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」『キリストの言葉の記録』)。「自分の利己的で卑しい正体があわらになり、そのことを自覚したときは、真理を求める必要があります。神の旨に沿うにはどうすればいいのか。どう行動すれば皆のためになるのか。つまり、まず自分の利益を棚上げにすることから始め、その利益を自分の霊的背丈に合わせて少しずつ手放していかなければなりません。何度か経験していると、それを完全に棚上げできるようになり、そうするうちにますます安定を感じるようになります。自分の利益を棚上げすればするほど、あなたは人として良心と理知を備えるべきだと感じるようになります。そして利己的な動機を持たなければ、自分はまっすぐで公正な人間であり、ただ神を満足させるために行動しているのだということを実感するでしょう。そしてそのような行動を通じて、自分が『人間』と呼ばれるにふさわしいものになるのを感じ、地上でそのように生きていると、自分が公平かつ正直であり、純粋な人間であり、潔白な心を持っており、神に授けられたすべてのものに値すると感じるようになるでしょう。そのように生きれば生きるほど、揺るぎない明るい気持ちになれるのです。その結果、あなたは正しい道に足を踏み入れてはいないでしょうか」(「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」『キリストの言葉の記録』)。これを読み、わかりました。本分を尽くしたければ、神の家の働きを守り、深い責任感をもって全力で本分に臨む方法をまず考えなければなりません。神は、本分における私たちの態度を重要視します。神の望みは、私たちが誠実な心で神に向き合い本分にすべてを捧げ、良心的で慈愛に満ちた人間になることです。神の御心を理解し、心の中で神に祈りました。利己心を捨て、個人の利益を気にせず、教会と兄弟姉妹のいのちにとって有益なことは何でもすると神に伝えました。その後、張兄弟と話をしました。自分勝手で卑しいサタンの性質と、欺瞞に満ちた本心を打ち明け、私たちの働きにおける問題や欠点を解決するためともに真理を追求し、知っていることを余すことなく彼に交わりました。このように実践してから、安らぎを感じるようになりました。裏のない公平な人間でいることのすばらしさを知りました。私の状況は次第に改善し、本分である程度の結果をだせるようになりました。いまだに自分勝手で卑しいサタンの性質を見せることもありますが、そんな時は、神がどれほど嫌悪されるかを思い、神の御前で祈りを捧げ自分の間違った考えを捨て、神の御言葉に従って実践できるよう願います。

 このような経験を通してサタンの性質とサタンの毒に依存して本分を尽くせば利己的で卑しく、自分勝手な人間になるだけということがよくわかりました。人間らしさを完全に失い自分に痛みをもたらすだけでなく、他人との和も乱します。神の家の働きに害を及ぼすだけです。誠実な人間として御言葉に従い真理を実践し自分だけが得するような考えを捨てた時本分において聖霊の啓きと導きを得て、心が安らぎました。神に感謝! 神の御言葉の裁きと刑罰によって利己心と欺瞞というサタンの性質が多少理解でき、多少の真理を実践し、人間らしく生きられるようになりました。