昭和は遠くなりにけり

プログはいくつも作ってるのです。だけど本音愚痴を書くプログが欲しかった。

パレスチナ問題

2019-01-28 23:08:08 | 歴史
トマス・エドワード・ロレンス
第一次大戦で中東も重要な舞台になった。オスマン帝国がドイツ側に立って参戦していた。英はオスマン帝国を叩きオスマン帝国領の中東の切り取りを狙った。
英は1915年アラブのハーシム家のフサインにアラブ勢力を集めて対オスマン戦争を仕掛けるよう持ちかける。英はその代償として戦後オスマン帝国領内のアラブ諸国の独立を認めるとした。
この件について英のエジプト高等弁務官のマクマホンがフサインと書簡をかわし合意に達した。◎フサイン・マクマホン協定。


アラブ人の指導者フサイン

英のエジプト高等弁務官のマクマホン
英はこの合意を最初から守るつもりがなかった。よく1916年に仏.露とサイクスピコ協定という密約を結び戦後英がイラク、仏がシリアを勢力圏に置くと取り決める。
◎サイクスピコ協定
パレスチナに関しては国際共同管理にするとした。

その一方パレスチナに関しては別の約束がかわされた。
1917年イギリスのバルフォア外相はパレスチナにユダヤ人の民族的郷土が設立されることに賛同する意思を表明した。◎バルフォア宣言。
バルフォア外相

その頃英は戦費に窮しロスチャイルドから融資を受ける必要があった。
ロスチャイルドの関心を引くためユダヤ国家の建国を認めることを示唆した。
このバルフォア宣言はフサイン・マクマホンによる合意とは相いれなかった。英はこのように空手形を切り続け中東問題を錯綜させる原因をつくった。

実際の中東の戦いではマクマホンとの合意を信じたファイサルがアラブ兵を率いてオスマン軍を攻撃ダマスカスに入城していた。この時ファイサルとともに立ち上がったのがイギリス将校ローレンスである。アラビアのロレンス。
パレスチナではバルフォア宣言以来ユダヤ人の流入がふえアラブ系の先住民との対立が激しくなった。


ユダヤ人がパレスチナに入植できたのはエドモン・ロスチャイルド男爵(1916年1月2日 - 2009年1月17日)が アラブの大地主に大金払ってパレスチナの土地を買ったためです。 イスラエルパレスチナはオスマントルコの支配下にあったけどトルコはドイツと組んで第一次世界大戦に敗けてパレスチナから撤退し英軍の支配下になります。 その前からエドモン・ロスチャイルド男爵が アラブの大地主に大金払って 12万5千エーカーもの土地をパレスチナの各地に購入してました。そこにロシア、東欧からユダヤ人が入植しました。 ロスチャイルドが買った土地なんだからユダヤ人が住んだっておかしくないわけです。




パレスチナ問題の原因。イギリスの三枚舌外交。
三枚舌外交というのはイギリスがフランス、ユダヤ人、アラブ人の三者と矛盾する約束をしたことです。

フランスとは、第一次世界大戦後オスマン帝国の領土である東アラブを分割してそれぞれの勢力圏にしようと約束。(サイクス・ピコ協定)

ユダヤ人にはパレスチナの地に民族的郷土の建設に賛同を表明した、バルフォア宣言。

アラブ人とはアラブ独立国家の樹立を約束しました。(フサイン・マクマホン協定)

イギリスはなぜこの様な矛盾した約束をしたのか?

その原因は第一次世界大戦にある。

イギリスはこの戦争で、ドイツとオスマン帝国と戦っていました。オスマン帝国は現代の中東付近も領有しており、もしオスマン帝国が第一次世界大戦に負けることになれば中東地域は戦勝国に分割されるのは目に見えていた。この分割がイギリスにとって肝心な出来事だった。



オスマン帝国を倒した後の中東分割がイギリスにとって肝心な問題になった原因は、イギリスによるインド植民地支配があります。イギリスにとってインドは「王冠の最大の宝石」だった。

莫大な富をもたらしてくれるインドとイギリス本国を結んでいたのはスエズ運河でした。第一次世界大戦後スエズ運河付近がライバルのフランスの影響下に置かれることは耐えられなかった。ユダヤ人資本家から借金をしてまで、イギリスはスエズ運河の経営権を掌握したのですから、とにかく自分たち以外の国がスエズ運河に影響力を行使されるのを避けたい。スエズ運河を完成させたのはフランスだけど。

イギリスは戦争が終わる前にフランスと話をつける。サイクス・ピコ協定。

サイクス・ピコ協定が何で結ばれたのは、インドからの利益を守るためだった。他にも大戦からフランスを脱落させないために中東というエサをぶら下げといった理由もある。

次に、フサイン・マクマホン協定。

フサイン・マクマホン協定の中身は上記に書いたようにアラブ人に独立王国を与えること。国を与えようというんだからイギリスは相応の代償を求めます。アラブ人が望んだ独立国を与えることに対しての代金はオスマン帝国に反乱を起こすこと。これを受けてメッカの太守であるハシーム家のフサインに率いられてアラブ人は反乱を開始するのでした。
アラブ人の反乱に手を貸したロレンス

イギリスは何故アラブ人に反乱を起こさせたのか?それはアラブ人がオスマン帝国に反乱をおこすことで、オスマン帝国は内部からボロボロになりイギリスを十分に攻撃できなくなるからです。

ついでにスエズ運河を通るイギリスの船に妨害する可能性を減らせます。オスマン帝国がスエズ運河あたりで暴れて、インドからの物資や人員が送られなくなるとイギリスはピンチに陥り、アラブ人に反乱を起こさせたかった。

この約束は、イギリスが戦争に勝利するために結ばれた。

最後にバルフォア宣言。
バルフォア宣言が出された原因は第一次世界大戦でイギリスの経済が苦しくなっていたとこにあります。ユダヤ人の国がかつてあったとされる場所に彼らの民族的郷土を建設すると宣言することで、アメリカで経済的に成功したユダヤ人の資金援助や、彼らがアメリカ政府にイギリスを助けるように圧力をかけてくれることを期待しバルフォア宣言を出しました。

バルフォア宣言は在米ユダヤ人が喜んで資金と兵力をイギリス政府に提供するための、魅力的な報酬として提示された。


イギリスが三枚舌外交を行った原因の多くは第一次世界大戦とインドの権益を守ることが関わっていた。当時のイギリスは中東にもともと住んでいる人のことはあまり考えず、ただただ戦争勝利のため、場当たり的にこの三つの約束を行ってしまった。

イギリスはサイクス・ピコ協定に則りフランスと中東地域を分割しました。この分割はアラブ人には中東全土を独立王国として与えられると思っていたハシーム家の怒りが引き起こした。アラブ人は当然に約束が破られたように感じた。

そこでイギリスはハシーム家の怒りをどうにかするために自分たちの勢力圏となった、ヨルダンとイラクの国王にハシーム家を迎えることで懐柔をはかった。結果ハシーム家の怒りはおさまる。ヨルダン王家は現在も続いていますが、イラクの方の王家は第二次世界大戦後に革命で潰れてしまった。

しかし、アラブの民衆はオスマン帝国下では国境もなく自由に行き来でき、イラク人とかヨルダン人といった区別がなかったのにこの様な区別が勝手に作られたことに対して不満を持つ者は少なくありませんでした。国境ができたことで関税や国境のせいで商売がしにくくなったことがあった。

実際ISが既存の国境を破壊すると主張している背景には、この様な不満がある。



またバルフォア宣言でパレスチナの地にユダヤ人の入植を認めた。しかし短期間で大量のユダヤ人がやってくるとなると元々いたアラブ人と対立することは明らかでした。そこでイギリスはアラブ人とユダヤ人の対立が激化しないように、ユダヤ人の年間受け入れ人数を定めていました。

ですが、ユダヤ人がそれを無視してどんどんやって来たため、イギリスは大変手を焼くことになります。例えば受け入れ人数の上限をなくせとユダヤ人にテロを起こされたりします。最終的には第二次世界大戦後イギリスは自分では対処仕切れないと、この問題を国際連合に丸投げする。

イギリスが初め心配したように、ユダヤ人の人口が急に膨れ上がったことでユダヤ人とアラブ人の間には溝ができてしまった。

イギリスの2枚舌外交。イスラエル建国後当初アラブとユダヤ人は仲良かった。
しかしアラブユダヤの連帯に楔を打ったのがイギリスだった。中東支配を目論んでたイギリスが中東の豊かな石油資源の周辺にユダヤ人による政府とアラブ人による反欧米主義的な国家ができることに危機感を持った。
そこでイギリスはパレスチナでインテリユダヤ人たちを迫害追放監禁する一方でアラブ人の地主に対して
ユダヤ人たちが開発してきた土地が価値を増していると扇動し元の土地を取り戻すよう働きかけた。
アラブ人たちに武器を供給しユダヤ民族の動きを封じこめようとした。イギリスは「分割して統治せよ」と2枚舌外交を展開した。
現在のパレスチナ紛争の原因はイギリス外交が撒いたものだった。ユダヤ人がパレスチナに入植できたのはエドモン・ロスチャイルド男爵(1916年1月2日 - 2009年1月17日)が アラブの大地主に大金払ってパレスチナの土地を買ったためです。 イスラエルパレスチナはオスマントルコの支配下にあったけどトルコはドイツと組んで第一次世界大戦に敗けてパレスチナから撤退し英軍の支配下になります。 その前からエドモン・ロスチャイルド男爵が アラブの大地主に大金払って 12万5千エーカーもの土地をパレスチナの各地に購入してました。そこにロシア、東欧からユダヤ人が入植しました。 ロスチャイルドが買った土地なんだからユダヤ人が住んだっておかしくないわけです。

サイクスピコ協定。

第一次大戦でドイツ側についたオスマン帝国は英仏露など連合国と戦う。連合国側はオスマン帝国を混乱に陥れようと考えアラブ人の民族独立運動をあおりオスマン帝国を崩壊させた。
この戦争のさなか英仏の間で密約が交わされた。オスマン帝国倒した後アラブ人が住む地域を山分けしよう。エジプトはすでに英が抑えていたのでその他のアラブ人の住む地域を英仏が勝手に線を引き分割した。

シリアとレバノンは仏がとりヨルダンとイラクは英がとる。パレスチナはあとでヨーロッパからユダヤ人を送り込む。これをアラブ人に内緒で決めてしまった。
これがサイクスピコ協定。

英の目的は当時の英のもっとも重要な植民地であったインドへのルートを確保することにあった。英からインドへ輸出したり反乱がおきたとき鎮圧するためのインドに通ずる道が必要だった。英仏が定規で引いた線がシリアとイラクの国境線になる。
適当に線を引かれて誕生したイラクにはシーア派スンナ派クルド人といった異なる民族や宗派が混在することになった。英仏によって分割された国々にはそれぞれアラブ人の国王が擁立された。
イラクにはメッカ出身のハーシム家のファイサル王子が。ヨルダンにはファイサル王子の兄であるアブドラ王子が英によって指名された。イラク王もヨルダン王も当然英にべったり、

石油が見つかったら英に採掘権を与えろと言われれば素直に従うしかないため石油利権を外国資本に売り渡した利益を分けてもらい私腹を肥やした。イラクのハーシム家の失敗は利益の分配をほとんどしなかったからである。民衆の間で不平不満がうずまき政権を打倒しろ、声があがる。
1958年軍のクーデターが起きイラク国王は処刑された。イラクの革命政権は共和制を敷いて石油を国有化した。
イスラム教徒は民族を超えて信頼し友達になれる。もともと国がないところに
20世紀になって無理やり国を作ってしまった。
いきなり「今日からシリア人」「今日からイラク人」と言われてもピンとこない。国という概念があるのはずっと同じ民族で国をもってたトルコやイランくらいです。アラブ人には国という意識が薄い。




第一次大戦が始まったあと、英政府は戦費の調達にユダヤ富豪の協力が欠かせないと考えた。そのためバルフォア外相は協力の代償としてユダヤ国家の建設を支持する書簡を英のユダヤ人社会に出した、。第一次対戦が終わったあとパレスチナは英の委任統治領になったがアラブ人の反対もありユダヤ人国家建設は実現されなかった。第二次大戦後ようやく英がパレスチナを手放した。
1947年の国際連合の調停によってパレスチナの土地の56・5%がユダヤ人国家に、残りの43・5%がアラブ人に与えられた。

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