歴史だより

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八尾隆生先生の著作を読んで 書評篇その1

2009-11-29 19:03:40 | 日記
「八尾隆生先生の著作を読んで 書評篇その1」

それでは、八尾氏の今回の大著は日本人の前近代ヴェトナム史研究上にどのように位置づけられるのであろうか。日本人による戦後の主な研究成果としては、桃木至朗氏の李・陳朝期の政治史、藤原利一郎氏の黎朝の科挙制・官僚制度(とりわけ聖宗の官制改革)研究、および桜井由躬雄氏の村落史・均田制研究、そして片倉穰氏による法制史(とりわけ『国朝刑律』)研究が挙げられる。以上の成果をすべて吸収し、加えてウィットモア、リーバーマンの両氏を始めとする欧米および、ファン・ダイ・ゾアン、ヴ・ヴァン・クアン両氏などのヴェトナムの研究をも参考にしつつ、八尾氏は今回の著作を仕上げた。著作のタイトルにある『黎初ヴェトナムの政治と社会』というテーマからすれば、とりわけ藤原氏と桜井氏の研究成果を批判的に継承し、氏の独自の視点から、家譜や碑文を史料として、新たな研究領域を開拓した著作であるといえよう。

それでは、八尾氏の研究業績の意義はどの点にあるのであろうか。
まず最初に15世紀を歴史的に小農社会と明確に規定した最初の著作である点に意義がある。14世紀にその成立を求める桃木氏の見解との整合性が今後議論の対象となろう。またウィットモア氏が提示した「清化対デルタ」という地域対立史観を批判的に継承した点にも本書の意義がある。独立闘争期の清化集団を3つに時期区分し、その分析を精緻化するとともに、この清化集団が黎朝を通して、政治勢力として地域主義と血縁主義により幅をきかせ、影響力を持ち続けた点を明らかにした。そして紅河デルタの中でもとりわけ南策勢力に注目して、李陳朝から莫朝までという長期の歴史の中に位置づけようと試み、この勢力の果たした政治的役割を明らかにした点も、氏の大きな研究業績である(ただ、紅河デルタの中で南策勢力の位置づけについては必ずしも解明され尽くしたわけではない点は後述したい)。
そして八尾氏の個々の独創的な見解や卓見は、各章の随所に見られる。例えば、黎朝成立闘争史を語る歴史書である『藍山実録』の編纂過程と、この史料のもつ歴史的意義の変遷を分析した序章は、テーマ上、八尾氏が独自に開拓した研究である。また聖宗期の軍事体制を分析した第3章でも、独創的な研究成果をあげている。従来の制度史研究を超えて、明制との比較を踏まえつつ、五軍都督府制度の実態を探ろうとした意欲的な高論であろう。すなわち聖宗は武人宰相制度を廃止した後も、開国功臣の子孫の清化集団員を優遇し、新設の五軍都督府の都督級の武職に多数就けたことを家譜により論証した。
逆に、テーマ上は、先学の研究蓄積があるものの、その成果を批判して、氏の独自な歴史的解釈と卓見が見られるのは、第4章「文臣登用策と南策勢力の出現」である。前述したように、氏はウィットモア氏が「デルタ勢力」と一括してしまうことを批判して、紅河デルタ東縁の南策勢力に注目したが、氏の独創的な見解は、1449年の官吏登用政策、宜民のクーデタおよび聖宗のカウンタークーデタといった政治動向の分析と歴史的意義において見られる。
だが、研究史上最も注目すべき研究は、第6章「紅河デルタ・ニンビン省瑰池社の開拓史―国家と地方官、民との交渉―」、第7章「紅河デルタ東縁安興県ハナム島の田地開拓―聖宗期安興碑文の分析を中心に―」、そして第8章「開国功臣の土地所有と農業開拓」である。これらは、ヴェトナム現地で収集した家譜と碑文といった新史料を駆使して、歴史家としての氏の本領を遺憾なく発揮した研究成果である。これらは、15世紀のヴェトナム村落研究も史料に基づいた実証研究が日本においてもこのレベルに到達したことを示す画期的な研究である。当該期の社レベルの開拓史研究は、従来、日本に現存する史料では不可能で、全く想像もできない分野であった。このことは氏も「従来日本では用いられてこなかった現地史料をもとにして」(第8章、273頁)と、きちんと強調している。氏の鋭意努力により現地史料が収集され、こうした行政の下位レベルの社と村落民の具体的動向が解明された点は、研究史上に大きな足跡を残したものと高く評価できよう。ヴェトナム村落に関する傑出した日本人研究者である桜井由躬雄氏の研究ですら(『ベトナム村落の形成』創文社、1987年)、黎朝に関しては、史料的限界から、その村落数と社名を分析対象とするしかなかった。八尾氏が大学院時代の1988年に「ヴェトナム黎朝初期の清化集団について」(『東洋史研究』第46巻4号)を発表して以来、ここ約20年にわたる研究レベルの向上は著しく、隔世の感を想うと、感慨深いものがある。
要約でも記したように、第6章では、ヴェトナム本国において、ハノイ国家大学のゾアンとクアン両氏の先行研究があるものの、八尾氏は彼らの用いていない史料『寧氏考訂』を現地調査により入手して、野心的な研究テーマに取り組んだ。すなわち、黎朝前期の聖宗期に一般民(富者を団長として貧民を引き連れた集団)が、現ニンビン省旧瑰池社という村落において、土地開拓をどのように行い、社、県、府そして中央の戸部でどのように承認されたのかという中央と地方の行政的対応を考察した。第7章も、一般民による土地開拓の事例として、分析対象地域を現クアンニン省安興県のハナム島にして論じた研究である。そして第8章では功臣一族へ賜与された土地の所在や数値から、多くの支派が清化丘陵部からデルタにおりてきて、開拓立村を行い、デルタの民となる一方で、功臣本宗は奴隷などの私的隷属民により広大な土地経営を行っていたが、土地均分制のため細分化が顕著であったことを論じた。
そして終章「聖宗没後に遺されたもの」では、15世紀に継ぐ16世紀の政治史において、清化集団の中に嘉苗阮氏と雷陽鄭氏といった2つの“政治的核”を家譜・碑文史料によりあぶり出し、そしてその対立と和合・融合が政治に影響を与え続け、莫氏政権を打倒したのも、この2氏を中心とする清化集団であったことを明らかにした。また「地域エゴ」と普遍的儒教理念とを政治的に対置して提示している点も、今後の政治史研究に指針を与える仮説的提言であろう(406頁参照)。
また、15世紀の政治史における史料面での発掘は、氏の独壇場の感すら覚える。現地調査に裏付けられた周到かつ綿密な史料収集には敬服に値し、そしてその史料批判・操作には学ぶべき点は実に多い。氏の収集した史料に関しては、
序章附「扱う原漢喃史料」(33頁~48頁)において、わざわざ「後学の史料収集作業に益あらしめんがため」(33頁)に逐一説明してあるので、黎朝史研究の格好の手引書の役割を果たしている。
その史料を利用しての研究上の功績としては、人的構成や功臣の賜与田土の分析にすぐれている点が真先に挙げられる。具体的には、第1章第2節の清化集団員の分類及び功臣表の概観(54頁―73頁)、武人宰相制度を分析した第2章第4節の宰相・副宰相の主な軍職名(93頁)、第3章第4節の聖宗期の五府都督就任者(121頁―122頁)、第4章第5節の聖宗期の六部及び御史台官就任者(166頁―168頁)といった聖宗期の文武官に関する分析、第6章第3節のニンビン省瑰池社の占射人一覧(220頁―224頁)、そして終章第2節・第3節に掲載された襄翼帝に反攻した文武臣(382頁―383頁)、黎朝に節義を通した文臣(387頁―388頁)、莫氏政権の陣容と支持した科挙官僚(390頁―392頁)、第4節の雷陽水注鄭氏家系と嘉苗外庄阮氏家系(396頁―399頁)、第5節の箱碑文から復元した黎朝前期各族の血縁・縁戚関係(404頁)である。また、阮公笋(278頁―279頁)、黎念(282頁―286頁)、黎抄・黎寿域(289頁―290頁)、阮熾(292頁)、范文僚(295頁―302頁)といった功臣の賜与・所有田土の状況を分析した、第8章第3節に掲げられた一覧表もそうである。
以上の一覧表は、氏の歴史家としての力量が、遺憾なく発揮された労作である。とりわけ、第1章の封爵功臣一覧表、第8章の功臣の賜与田土一覧、終章の家系図や縁戚関係図は、氏が独自に収集した家譜や碑文史料をもとに、丹念にかつ精緻に抽出した珠玉の研究成果で、今後大いに参照されるべきである。これらは、黎朝の政治と社会経済の実態解明に資することは間違いなく、この分野の研究の到達点である。
史料の発掘・収集にとどまらず、入手した文献史料をいかに解釈するかに歴史家の仕事はかかっているが、その点についても、本著で注目すべき業績がある。それは第9章第2節で示された嘉興地方の丁氏・何氏両嘱書の本文及び試訳・訳注である。字喃が多く現れて、日本人には理解しがたい文書に逐一注釈を付して、翻訳した労作である。ここにも歴史史料に対する氏の真摯な姿勢と歴史家としての本領を読者は看取できるであろう。
八尾氏は史料に対する姿勢として、次の点を強調している。すなわち、
「著者はこうした人々の営為を「捏造」とか「偽作」ときめつけることに強い抵抗を感じる。これらの文書はもともと歴史史料として編纂されたものではなく、それを研究者が「勝手に」「歴史史料」として、その価値を云々するのは不遜にすぎる。「捏造」とか「偽作」と決めつけたとたん、文書との対話は途絶えてしまう。営為の底にある「史実」をどうくみとるかを我々歴史研究者は真摯に考える必要があろう。著者は決して「ヴェトナム史のグレン・メイ」にはなりたくない。」(31頁註39)という。歴史家が史料と対峙し、対話する際に、傾聴に値する言葉として肝に銘じておきたい点である。
その史実と真実を求めて、史料と格闘する姿が氏の研究から感じられる。史料編纂時点において、当該人物が政治的事件に関与したために処刑・誅殺されていた場合には、史実が曲げられたり、改竄されたり、あるいは最悪の場合には、故意に無視されることがある。史料批判が歴史家の基本的務めであることは当然としても、それを確実に行なうとなると、諸史料間の相違を注意深く照合した上に、時代背景の知識と学問的経験、洞察力も必要とされる。
その成果は本書の随所にみられる。著者は自らの史料収集に関して、「残念ながら当時のヴェトナム北部村落社会の実情を生き生きと感じさせてくれる史料に著者は巡り会えていない」(415頁)と謙遜はしているものの、氏の史料収集の徹底ぶりを示す逸話は本書の至る所に散りばめられている。
例えば、著者が行なった史料との格闘の具体例を引用すると、陳元捍(扞)と范盃について次のようにある。
陳元捍(扞)については、
「この戦略に最も功のあったのが陳氏の末裔陳元捍(扞)で、彼は反胡氏・反清化色の強い新平・順化の勢力と黎利集団を結びつける役としては最適任者であった。彼は山西からもっと早期に清化にやってきていたと述べる史料もある。あるいは同族である後陳氏の挙兵に加わり、そのまま清化に居残ったのかもしれないが、彼は建国の後、危険人物として誅殺されたため、史料が徹底的に破壊されており、不明なことが多い」(79頁註26)。
と述べ、また范盃については、
「順天本系『藍山實禄』「有無姓名表」によると、范盃は藍山の出身とあるが、2007年12月に科研(基礎研究(B))「文献・碑文資料による近世紅河下部デルタ開拓史研究」による調査でタイビン省クインフ Quynh Phu県アンバイ An Bai社を訪問した際、偶然同地が范盃の故郷であると知らされ、彼と彼の同志を祀った亭(ディン dinh)の調査も行った。土地の古老からの聞き取りによると、彼の父はハノイ近くの京北 Kinh Bac方面からやってきてこの地の女性との間に彼をもうけたという(生年は1397年)[八尾(編)2008:88-89]。残念ながら関連文書は残っておらず、子孫も残っていないということで確証はないのだが、黎利の蜂起より以前にこの地でも反明蜂起があったこと[山本 1950:456-58]を考慮し、とりあえずここを彼の貫地と考え、後考を待ちたい」(79頁註27)。
という。氏の史料収集が歴史上の知識と経験と現地調査に支えられ、史実を確定する際に、いかに慎重であるかがこうした記述から読者にも伝わってくるであろう。

その他に、次のようなものもある。15世紀の黎朝開国功臣阮熾の子孫がハノイ師範大学の元教授というのも、歴史的に興味深いエピソードだが、その本人から、「我が祖阮熾の評価は専ら藍山起義に片寄ってきた(民族闘争史観のためであると言いたいのであろう―著者)。しかしそれ以上の功績は(黎朝の全盛期を築いた)聖宗を擁立・輔佐したことにあるのだ」(74頁註1)というインタヴューの内容にまで記されている点にも、八尾氏の史料収集の徹底ぶりのほどが知られよう。なお阮熾は、乂安出身の塩業者であったが、黎利の名声を聞いて藍山入りし、その猟犬の飼育役についた人物である(60頁)。

ところで今度、上梓された本著は、ヴェトナム前近代史に大きな位置を占め、学界に多大な貢献をなすことは確実であるが、本著を精読し、要約を終えて、幾つかの感想を抱いた。1つは、分析対象地域の位置づけについて、もう1つは、階級・階層構成と社会構造についてである。
すなわち、史料の残存状況に規定され、分析対象地域が紅河デルタでは屯田所(第7章)、ニンビン省瑰池社(第6章)、安興県ハナム島(第7章)、そして山間盆地では嘉興地方(第9章)に限定されてしまったのはやむをえないとしても、黎朝前期政権が最も典型的な支配基盤とし、また科挙官僚が最も多く輩出したデルタ四承宣(海陽、山西、山南、京北)の事例が加えられないのか、史料発掘も含めて、その分析が待たれよう。
このことと関連して第Ⅱ部の第5章、第6章、第7章について、一般化した問題について考えてみると、陳朝と黎朝の政治体制の相違を、国家による堤防・開拓事業の関与の仕方という観点から捉えるとどういうことになるのかについて、もう少し詳述してほしい気がした。黎朝期に入ると『全書』等に大規模築堤に関する記載は現れず、堤防の維持、修築の記事が大半を占めるので、紅河大堤防は陳朝末期に完成したとする桜井説を支持している。つまり黎朝期以前に河川の堤防網はほぼ完成し、馬蹄型の輪中化がすみ、大規模土木事業によって収穫の向上を図る工学的適応段階も一応完成したとみなしている(180頁)。例えば、陳朝期に、紅河右岸の馬蹄形大堤防が国家的規模で築かれたのに対して、黎朝の聖宗期に府もしくは県が主体となって、国家的事業の一環として進められたであろう「洪徳堤」は、規模はさほど大きなものではなかったという(179頁、214頁)。陳朝の宗室を中心とする支配体制の方が、開国功臣の子孫や科挙官僚から構成される黎朝の聖宗政権より、そうした国家的事業に向いていたのであろうか。通常の理解の仕方では、ヴェトナム前近代で中央集権体制を確立した黎朝の聖宗期の方が、強力な国家権力を背景として、国家主導のもとに大規模な堤防建設を行いえたように思える。しかし実際には、この時代に計画的に大堤防を建設し、それとリンクして大規模な工学的適応による開拓を行った可能性が見られないと八尾氏はいう(240頁)。第6章のニンビン省瑰池社の場合のみならず、第7章の安興県ハナム島の事例にしても、小規模の開拓経営に注意を払う国家側の態度が執拗であったとする。そして第6章小結において、聖宗期の中央集権について、「わずか1社の開拓に、『考訂』で見られたように地方官の申請と中央での審議、結論としての勅旨の伝達が煩瑣に行われ、県官は頻繁に社との連絡を取り合っている」(240頁)という。このことは、中央と地方間相互の文書行政の顕著な発展こそ、聖宗期の中央集権制の中身として理解してよいのであろうか。
また陳朝時に、路という最大行政区画に置かれた河堤・勧農官に比べて、聖宗期のそれは、知府の属官として再設置され、その責務が微細に規定されたことも指摘している。このことも、統一的水文思想に基づく開拓が少なくなり、小規模な開拓や既存の施設の維持管理に目が向けられるようになったことと関係があるとする(262頁、266頁註18)。
この問題に関しても今回の分析対象となった地域の全体的位置づけを再検討してみることが必要であろう。

次に黎初の支配階級としては、皇帝および清化集団を中心に構成され、それに科挙官僚が考えられる。そして均田農民(氏の想定する小農社会論にしたがえば、小農民か)、そして田庄経営に利用された奴隷、また儒教(とりわけ朱子学)思想の普及にともなって社会的に追いやられた仏教僧などの被支配階級の存在が考えられる。本書のタイトル『黎初ヴェトナムの政治と社会』に即していえば、これらの階級・階層構成と社会構造をいかに考えるのかという問題が残る。とりわけ今回主要な分析対象となった清化集団および科挙官僚以外の階級をどのように理解するのか。聖宗期は、清化集団と、デルタを主要出身地とする科挙官僚との政治的妥協が成立し、「黄金時代」であると捉えられるとしても、16世紀には、仏教を信奉する陳の反乱や、科挙官僚やその子孫を中心とする反乱が惹起している点からも、何らかの政治矛盾や社会的ひずみが残ったままであったことは十分に推測できる。それらが果たしてどのような形で残ったのか、15世紀から16世紀において、政治的には中央官僚の地方への執拗な派遣や官僚制度に基づく国家の硬直化、社会経済的には人口増加と土地の希少化、それに起因する土地争いなどについては指摘されているが、果たしてそれだけに留まるのかも含めて、具体的に解明することが求められよう。

これらの課題は今後検討されるべき大きな課題であるが、ここでは、本書のテーマと関連し、八尾氏が取り上げ、提示した次の4つの問題に絞って、私見を述べておきたい。
⑴黎朝前期の官僚制の捉え方について、とりわけ聖宗期以前の官僚制の特質、およびその時代の行遣・御史台に対する理解の仕方について
⑵ヴェトナム村落の理論的理解について
⑶ヴェトナム黎朝の家族形態について
⑷儒教思想(とりわけ朱子学)の普及について
⑶と⑷は、東アジア小農社会の指標として、八尾氏が4点挙げたうち、家族形態・経営への変化、それに見合う思想(朱子学)の普及とそれに貢献した階層の存在(419頁)について、評者なりに検討してみた。

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