歴史だより

東洋の歴史に関連したエッセイなどをまとめる

《冨田健次先生の著作を読んで》その1

2014-12-28 18:27:22 | 日記
序 
今回のブログは、冨田健次先生の『フォーの国のことば―ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ』(春風社、2013年)を紹介してみたい。
冨田先生と互いに面識をもつようになったきっかけは、私が大学院生時代に広島から京都に赴いて、1984年に関西例会で発表した際に、貴重なお時間を割いていただき、わざわざ私の拙いベトナム前近代史の発表(「ベトナム黎朝国家の確立過程に関する考察」)を聞きにきて下さったことであると記憶している。これも、偏に植村泰夫先生、桃木至朗先生、石井米雄先生の顔の広さのお陰である。
当時、冨田先生は、大阪外国語大学でベトナム語を教えておられた。例会での発表後も、私の大学院生時代を通じて、東京や箱根で開かれた学会でご一緒し、飲みにも連れていっていただいたりもした。その際にベトナム語と歴史について情熱をもって語っておられたことが今でも思い出される。大学院生時代を終えると、私は研究者としての道を外れてしまったので、音信は半ば途絶えた。それでも、年賀状は現在に至るまで、取り交わして頂いている。だから、かれこれもう30年近く懇意にして頂いていることになる。
その先生から、2013年9月8日(日)、ご著作が自宅に届いた。それが『フォーの国のことば―ベトナムを学び、ベトナムに学ぶ』(春風社、2013年)である。先生のご専門はベトナム語であるので、ベトナム語の学習書『ベトナム語の基礎知識』(大学書林、1988年)がある。私も、ベトナム語を学ぶために、この学習書のお世話になり、ベトナム語の何たるかを知った。例えば、ベトナムは、日本同様中国と密接な文化的関係を長い間持っていたので、ベトナム語には漢字のベトナム式発音である漢越音が多く存在することである。中国語とベトナム語は、ともに単音節・孤立語型の言語で、声調構造を持っているために、ストレートにベトナム語の語彙の中に漢語が移入されたそうである(同上、1988年、85頁)。また、ベトナム語における原則として、普段はたとえ過去や未来のことを言う時でも、その「時制」を示す必要はないという大原則があることも学んだ(同上、1988年、128頁~129頁)。
今回は、ご恵贈にあずかった本を紹介してみたいと思う。この本は、ベトナムに関するエッセイ集といった性格をもつ。ご専門のベトナム語教育については当然言及されているが、それにとどまらず、広くベトナムの歴史と文化、例えば建国説話、ベトナム料理、あるいは日本語との比較、文明論といった具合に、ベトナムに関心のある一般の人々が興味をもつようなテーマについても、語っておられる。このことは、本のタイトル『フォーの国のことば』に象徴されている。ベトナム料理を代表するフォーという米製うどんがタイトルにつけられていることからも十分に察することができる。
それでは、まず、先生のプロフィールを紹介し、著作内容を要約し、若干の感想を記し、返礼の証としたい。

冨田健次先生は、1947年、長崎県の佐世保市に生まれ、東京外国語大学インドシナ科を卒業され、東京教育大学大学院修士課程を修了され、筑波大学大学院博士課程を中退された。専門はベトナム言語学で、2013年、大阪大学教授を退官された。

目次
はじめに 私の原点
第1章 ようこそベトナム
第2章 世界一の料理
第3章 フォーの国のことば
第4章 教えることをつうじて
第5章 日本語考察録
第6章 共生のために
第7章 日本とベトナムのあいだ
第8章 知られざる歴史
第9章 ベトナミストとして
第10章 出会いと別れ
それぞれのミス・サイゴン おわりにかえて

<内容要約>
「はじめに 私の原点」
冨田先生は比較的若い頃から、語彙が生まれてくる過程に興味があったと語っておられる。つまり、この語彙はどのようにして生まれてきたのだろうか。どうしてこんな音を持っているのだろうか。どんな変遷を経てこんな音になったのだろうかといった具合である。
また中国語(漢語)や西欧語からの借用が極端に多い日本語は、音から語彙を生み出す発想力が弱ってしまっているのではないかと危惧しておられる。そして出自の全く異なる漢字を自分達のことばの一つ一つにあてて書くため、口や耳で音を実感するより先に、目で実感してしまう習慣がついてしまっていると観察しておられる。
そして次のように述べておられる。
「私はことばはあくまで音であると考えたい人間です。ことばに音を取り戻させ、その生まれて来た必然性、その起源をさぐり、変化する過程をたどりたいのです。」と。
ベトナム人も、日本人と同様、やはり漢字を借りて自らのことばを表記し、漢語を日本人以上に借用した。そしてフランスの支配を100年近く受け、西洋の代表的表音文字であるローマ字を借りて自分達のことばを表記するようになった。だからことばを音として実感することがより可能になり、その出自もずっとたどりやすくなっているとみる。そのため冨田先生の指向を大いに満足させ、さらには発展させるに足る言語になっているという。
冨田先生はベトナム語に出会って47年間(2013年当時)になられるそうだが、その間ずっとこのことを考え、学習し、研究し、そして教育にたずさわってこられた。ことばを音として全身で感じ、そして体で喜び、学ぶことが喜びになる。そんな学習者であり、教師でありたいと思いつづけてこられたと心中の思いを述懐しておられる。
こうした冨田先生の思いを、もう少し広く知ってもらいたいとの一念で企画したのがこの本である。先生の主催されるベトナミスト・クラブという親睦団体が定期的に発行する機関誌『モン・ナム』の巻頭言の文章に手を入れて、編集したものが本書であるという(5頁~7頁)。

第1章 ようこそベトナム
「歌を忘れたカナリアの運命―口伝えの大切さ―」
ベトナムは「詩と竹と英雄」の国と言われる。このキーワードをさらに支えるキーワードが「口承(誦)」である。
「詩」は文学というよりは日常言語で、ベトナム人が日常しゃべっていることばであると冨田先生は理解しておられる。それを支えるのが「口」で、庶民の唯一の武器であった。
詩の形に昇華された成語、成句、ことわざ、歌の類は、親から子へ、そして孫へと受け継がれた。カナリア同様、歌を忘れないように、書かれたものを介せずに。
そしてその伝承の精神は音楽にも活かされ、共同精神を確かめ強化する武器として研磨されてきた歴史がある。
また料理についても、旧植民地宗主国中国の中華料理を骨抜きにし、フランスのフランス料理をアジア化させ、53と言われる少数民族の知恵から学び、東南アジアの素材を活かし、これまた武器としての口を用いて民族料理の味と中身を研ぎ澄ましてきた。料理へのひたむきな取り組みが、今日のベトナム料理を産み出したといえる。
また「竹」は自然への愛を象徴し、「英雄」は歴史を忘れず、歴史から学ぶ姿勢そのものであると捉えられる。この3つのキーワード「詩」「竹」「英雄」に貫徹する思想にこそ、ベトナム民族の強靭な、そしてひたむきな生命力が潜んでいるという。
そのようなベトナム人が日本人を見るとある種の「もの足りなさ」があるようだ。日本人は自らのことばや音楽やそして料理に対する自負や愛着がほとんどみられず、外来の借り物で済ませてしまおうとしているのではないかと疑ってさえいるようだ。例えば、先人の経験や知恵が十分に受け継がれていないことの典型として、豊かな「ことわざ」を日本人は老若男女を問わず、よく知らなくなった点を、冨田先生の教え子のあるベトナム人は指摘した。
その原因の一つとして、余りにもマニュアル化された生活にあるのではないかとそのベトナム人は考えた。つまり日本人の生活は規格化されており、ものをさほど考えずに敷かれたレールの上を転がれば良いだけで、先人の知恵など、ほとんど関係ないのではと言うのである(このことを、冨田先生は結局は日本人が「口伝」を重視せず、ないがしろにしていると理解されている)
もう一つ、そのベトナム人学生が挙げた原因が携帯電話とパソコンの発達である。記号化し、暗号化していくメッセージに、先人の知恵など入り込む余地がないことは言うまでもない。
もともと日本人は短歌民族と言われるほど、自分の考えをブチブチと短く短歌のように切れ切れに表現することを得意とし、思考を論理的に積み重ねていくことが苦手な民族と言われてきた。そのような民族がこのような便利な機器を手に入れたので、マイナスの貢献が大きかったのではないかという。つまりものごとを深く考えることをせず、あふれる情報をマニュアル通りにモザイク状につなげて自分の考えとしてしまう。
その情報の由来には無関心で、「読む」という行為をほとんど止めてしまっていると嘆いておられる。
かつて日本の老人は社会の宝であった。「亀の甲より年の功」と言って、多くのことを学ぶ宝庫として大切にしたものであった。「子宝」の子どもも同様で社会から大切にされてきたが今や老人も子どもも邪魔者同然ではないかという。このような日本では、知恵や経験の伝承はもはや無理で、世代間の相互理解が絶望的な状況である。そこで今日の日本人は、連綿と今日まで受け継がれているベトナムの伝統を拝借してはどうかと提言しておられる。
その入り口ないし端緒はいろいろあり、美味しいベトナム料理、安くて素敵なベトナム雑貨、奥深いベトナム語を楽しく学ぶことなどが挙げられる。「我田引水」と言われてもかまわないから、これらをきっかけにして、「歌を忘れたカナリア」=日本の現状が変わるなら、これ以上のことはないと、冨田先生は呼びかけておられる(12頁~16頁)。

「トラ、とら、虎、寅年の夜明け」
平城遷都1300年を迎えた2010年、ベトナムではハノイ遷都1000年を迎えた。奈良に遅れること300年であるが、いずれも唐の都、長安をモデルにしようとした点で、この両都市は兄弟と言える。
唐朝を中心とした長い中国の支配(紀元前111~紀元後938年)から脱し、独立の混乱を経て、ベトナム史上最も安定した長期封建王朝、李朝が創建された。その太祖李公蘊(りこううん、Ly Cong Uan)が夢枕に龍が天に昇った方角を都と定めて遷都したとされる。ハノイ(河内)の旧名、昇龍(Thang Long タンロン)はその謂(いわ)れに因んでいる。
そしてその東の雄、青龍と対峙するのが、西の雄である白虎だが、2010年はその虎の年であった。
十二支で言うと辰から卯(うさぎ、ベトナムでは猫)を挟んで二つ戻るのが寅の年である。ベトナムでは猫の前が虎である(虎の年で失敗すると次の年は猫になってしまうので要注意である)。タイガースファンのファンの心意気が伝わってくるのが寅年であった。
「トラの威を借る」(ベトナムでは「孔雀の衣を借る鶏(Ga muon ao cong)」と言うそうだ)とならないように注意したいという。
ところで日本語の「トラ」という呼び名は人をトラ(ママ)えて喰らうからきているとも言われる。その一方で、トラのもう一つの語源解釈に「マダラ」が訛ったものという説があるそうだ。
ベトナム語では虎のことを、普通は漢字音の ho(ホー)で呼び、さらには固有語で hum
(フム)や cop(コップ)とも呼ぶという。この両語ともその韻を見ると「より集まる」「寄り添う」の意が感じられ、やはり虎は親子がいつも一緒にいるような印象が強いのであろうと解説しておられる。
また人間に殺された子虎を母虎がガジマル(榕樹)の葉を噛み与えて生き返らせるなど感動的な話がベトナムには伝わっている。中国の「虎穴に入らずんば虎子(虎児とも書く)を得ず」のことわざにも、子を守る親の凄みが感じられる。ベトナム語の成句 vuot rau hum(虎のヒゲをなでる)は、あえて危険を冒して権力者を怒らせることを言うそうだ。
さて、トラは一方ならぬ動物で、ベトナムでもトラは百獣の王で最も恐れられる動物で、また最も崇められている動物である。トラにまつわる話を2つ紹介しておこう。
①天廷に范耳(ファム・ニー、Pham Nhi)という巨大な耳を持った粗暴で凶暴な男がいた。自分の力をたのんで天帝にまで逆らおうとしたのを仏が見かね、その神通力を奪って人間界に落とし、百獣の王として生きることを命じた。そのためトラを射止めた人間には褒美として金30貫を与えると同時に、神を捕らえた罰として笞(むち)打ち30回の刑を科したために、トラのことを現在でもオン・バー・ムオイ(Ong ba muoi、「三十翁」)と呼んでいるのだという説話である。
②一方では、随分間抜けな話として次のような話も残っている。
十二支で寅の一つ前の丑(うし)はベトナムでは水牛である。その丈夫でたくましい水牛がなぜ人間に笞打たれておとなしく鋤を引いているのか、トラは不思議に思い、尋ねてみた。すると人間は知恵(Tri khon)というものを持っているから、かなわないのだと水牛は耳打ちした。
そこでトラは人間に、その知恵とやらを見せてくれと言う。人間は家に置いてあるから取ってきて必要なら使わせてあげると言って行きかけるが、戻ってきて、家に帰っている間に水牛を食べられるといけないから、トラを木に縛りつけても良いかと聞いた。同意したトラをヒモで縛りつけ、まわりに薪を集めて火をつけながら、「これが知恵だよ」と人間は言った。
この話はトラのシマ模様と水牛の上歯がない理由を説明してくれるものらしい。つまりトラはヒモが焼き切れたところで一目散に森に逃げこんだ。トラのシマ模様はこの時ついたヒモのコゲ目だそうだ。そして水牛はそれを見て大笑いし、間ぬけにも石に思い切り上歯をぶつけて全部折ってしまい、それ以来水牛には上歯がないのだという(17頁~20頁)。


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