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八尾隆生先生の著作を読んで 要約篇その1

2009-11-29 18:27:47 | 日記
「八尾隆生先生の著作を読んで 要約篇その1」

八尾隆生先生のご高著『黎初ヴェトナムの政治と社会』(広島大学出版会、2009年)が出版された。本書は、あとがきにも記してあるように、「2007年に大阪大学大学院文学研究科に提出し、翌年に博士号を授与された学位請求論文「黎初の百年―15世紀のヴェトナム―」に手を加えて成ったものである」(442頁)。すなわち、先生の長年にわたる貴重な研究成果を集大成したものである。本書が、15世紀のヴェトナム史研究の金字塔となることは間違いない。
そこで、今回は、その内容をなるべく忠実に要約した上で、感想とコメントを付してみたいと考える。
まずは、本書の構成を知る上で、目次を掲載しておきたい。

目次
序章 藍山蜂起と『藍山實禄』編纂の系譜
はじめに
第1節 藍山蜂起
第2節 『藍山實禄』編纂の系譜
小結
序章附 扱う原漢喃史料

第Ⅰ部 前期黎朝政権の生成
第1章 黎利集団の構成
はじめに
第1節 新たに利用する史料について
第2節 集団構成員の分類
第3節 功臣表の概観
小結

第2章 黎朝初期武人宰相制度
はじめに
第1節 開国初の状況
第2節 太祖期の政権
第3節 太宗期の政権
第4節 仁宗期の政権
第5節 下位の軍職
第6節 黎宜民のクーデタ
小結

第3章 清化集団の再編―聖宗期軍事体制の分析から―
はじめに
第1節 黎朝以前の軍事体制
第2節 黎朝初期の動向
第3節 聖宗の擁立と光順期前半の改革
第4節 聖宗期の軍制改革
小結



第4章 文臣登用策と南策勢力の出現
はじめに
第1節 南冊地方の経済基盤
第2節 胡氏・明の政策と南冊勢力の対応
第3節 太祖・太宗の文臣登用策
第4節 科挙の衰退
第5節 科挙の復活と南策勢力の再浮上
小結

第Ⅱ部 前期黎朝の土地政策と土地所有・開発の実態及び観念
第5章 紅河デルタにおける屯田所政策
はじめに
第1節 3つの開拓形態
第2節 屯田所政策とは
第3節 屯田所の位置比定
第4節 屯田所設置の目的
小結

第6章 紅河デルタ・ニンビン省瑰池社の開拓史―国家と地方官、民との交渉―
はじめに
第1節 民による開拓の手続き
第2節 洪徳堤に関して
第3節 瑰池社の開拓
小結

第7章 紅河デルタ東縁安興県ハナム島の田地開拓―聖宗期安興碑文の分析を中心に―
はじめに
第1節 安興県ハナム島
第2節 ハナム島洪徳期碑文の検討
第3節 個別性と普遍性
小結

第8章 開国功臣の土地所有と農業開拓
はじめに
第1節 田庄の問題
第2節 現地史料の問題
第3節 功臣の土地所有と開拓事業
小結

第9章 聖宗期の嘉興地方―盆地の社会―
はじめに
第1節 ヴェトナムの嘱書と嘉興府現地史料
第2節 丁氏・何氏両嘱書の本文及び試訳・訳注
第3節 嘱書の分析
小結
第9章附 何氏嘱書校合

終章 聖宗没後に遺されたもの―清化集団の再々編と科挙官僚の葛藤―
はじめに
第1節 聖宗期以降の文武官
第2節 威穆と襄翼―「鬼王」と「猪王」の時代―
第3節 清化集団の分裂と再々編
第4節 清化集団のその後
第5節 墓碑の語る清化集団の動向
小結

結語 ヴェトナムの15世紀とは

以下、要約を記してみたい。
序章 藍山蜂起と『藍山實禄』編纂の系譜
現代ヴェトナム人研究者は、「歴代王朝が外からの侵略を被り、それと勇敢に戦って撃退し、国を維持してきた歴史」という公定史観(ナショナルな史観)で、ヴェトナム史を捉える。藍山起義の主人公である黎利に関しても、民族闘争の面からは、異民族統治からの祖国解放の英雄として積極的に評価される一方で、階級闘争の面からは、黎朝開国後、地主と妥協して「封建王朝」を樹立したという否定的評価を下された(6頁)。

藍山起義の「史実」、「言説」の根拠となった『藍山実録』の編纂―修史の過程をたどり、「公定史観」成立の歴史を検証する(14頁)。『藍山実録』については、漢喃研究院にある写本は、胡士揚の重刊序がついていることから、18世紀初めに作成された重刊本系統のみであった。ところが、1971年に黎朝開国功臣黎察の子孫の家から発見された『藍山実録』は従来の重刊本とは異なり、原『藍山実録』系統の写本と考えられている。そこでまず、各時代の『藍山実録』の修史過程を概略している(15頁)。
まず、15世紀の修史については、黎朝創建から半世紀が過ぎ、功臣の多くが冤罪やクーデタで除かれてゆき、功臣およびその子孫が不明になってきたので、科挙官覃文礼に調べさせた。その際に、『藍山実録』そのものを精査することに加えて、功臣表などの付属文書が作成された。こうして黎利の帝王としての地位を確たるものにし、後代の皇帝と功臣とその子孫との関係をつなぎとめようとした。しかし、こうした版本は、16世紀の陳の反乱による京師略奪や莫氏簒奪により失われたと考えられる(17頁)。
次に、16世紀の修史については、莫氏政権は、その正統性主張の根拠を、黎氏の繁栄を引き継ぐという実績に求め、黎朝で最も繁栄した時代である聖宗洪徳期の元号を冠した『洪徳善政(書)』という法令集を編纂した。一方で、黎=鄭政権は、正統性を血統に求め、『藍山実録』を抄写して功臣の子孫に頒布し、権威の高揚を狙った(18頁)。
17世紀の修史については、鄭氏は、黎氏の後見人としての立場を強固にするために、『藍山実録』(重刊版)や『全書』続編といった史書編纂を、文化事業の一環として進めた。重刊版の編纂者は、胡士揚らの科挙系官僚であった。ただ、重刊版は、自序と本文のみを残し、様々な付録は削除され、重刊版と評語が加えられるという改変が行われた。この点に関して、グエン・ズィエン・ニエン氏は、熙宗が英宗の改竄を隠蔽するためとしているが、八尾氏は、鄭氏による黎朝中興の歴史を記した『大越黎朝帝王中興功業寔録』が、重刊本写本『藍山実録』に合綴されている点に注意を払い、編纂起案から編纂方針、その功績までが鄭王による点を重視する。鄭氏は黎朝中興功臣の第一人者ではあるが、開国功臣の後裔ではないから、功臣表を添えると鄭氏の権威を損ねかねないので削除したとする。その代わり、鄭氏は、本来皇太子が用いる書式文書の「令旨」を発給し、自らの名において開国功臣の子孫を顕彰した。つまり、17世紀の修史を清化の凝集性の対象を鄭氏に振り向けるための修史とみる(19頁)。
これに対して、18世紀の修史については、1752年の科挙に登第した黎貴惇は紀伝体の形を取った『通史』芸文志で民間に伝わる写本(原本系統)に誤りが多く、重刊本による改竄のひどさを指摘した。彼は、清朝に奉使しており、その考証学の影響をうけて修史に取り組んだ。この点では、18世紀の修史は、「東アジア世界考証学スタンダードに従った修史」と表現されようが、考証学はヴェトナムで十分根付かなかった。黎貴惇の主張は注目されないまま、原本系の『藍山実録』は廃れ、重刊版系統の写本が出回った。現漢喃研究院にある写本はすべてこの重刊版系統であるという(20頁―21頁)。
19世紀の修史については、阮朝は、広南王国を築いた阮潢を始祖に認定したが、『藍山実録』を再刊した形跡は認められず、それを積極的に取上げなかった。その理由は、『藍山実録』は阮氏が黎氏の臣下であったことを示すものであったことにある。また歴代の王朝が中国から侵略を受けたのに対して、阮朝は例外的に戦争をしていないこともその理由の1つであると八尾氏は考えている。『歴朝憲章類誌』(以下『類誌』)文籍志を著した潘輝注は、重刊版序文を転写するにすぎず、黎貴惇のような気概は見られない。このように19世紀の修史は、清化を軽視し、黎朝を忘却するための「不」修史であったと逆説的に表現している。
その一方で、民間の修史については、一族、家の歴史をつづった族譜、家譜が興味深い。その特徴として文化人類学者の末成道男氏は、ヴェトナム人のモノを記録する意識から、家の恥になるような祖先も記述されていることに注意している。また中国や朝鮮の家譜とは異なり、多くの物語が記され、形式も多種多様である。そして開村・開族に関わった人物や高官になった者などの一族の始祖、そして現に生きている者の近い世代のことは詳しく記されるのに、その両者の間の人物の記述は、名前くらいしか記さず、簡略である。これを末成氏は中空構造と表現する。現存する家譜の多くは比較的新しく、作成年代の平均は、1835.1年となると指摘する(22頁―23頁)。
これに対して、八尾氏は、現存の家譜は、阮朝時代のものが大半だが、原家譜は15世紀頃から作られていたと推定している。その作成には、田土の賜与、辞令書、顕彰状等の文書が加工、省略されて、収録されることが多いと指摘する。また功臣の子孫の多くは鄭氏に従い、中興功臣となっているので、「中空性」が比較的少ない。そして功臣序列表や「藍山実録有無姓名」表が記されていることが多い。この点にも、自らの家のための修史である民間の修史の目的が、国家天下のためというより、功臣の子孫としての名誉と特権を享受し、族の結束をはかることであったことがわかるという(23頁)。
植民地期の修史としては、フランスはハノイに極東学院を置いて、東洋学研究の拠点とした。『藍山実録』の写本も収集され、書誌学的考察の対象となる。初めて近代的な歴史学の研究対象となり、実際の政治とは一線を画することになったのが、20世紀前半の修史である。
最後に独立期―ヴェトナム戦争時代の修史としては、極東学院が収集した書籍は社会科学図書館が引き継ぎ、やがて漢喃研究院に収蔵された。また抗米戦争により「民族闘争史観」が勝利を収めると、徴姉妹、李常傑、陳興道、黎利、阮廌、阮恵といった民族的英雄が歴史的に取上げられた。『藍山実録』に関しては、1946年に早くも翻訳本が出版され、1969年にヴェトナム社会科学委員会によって『阮廌全集』の一部としても翻訳された。そして1971年に黎朝開国功臣黎察の子孫の家から英宗版を基としたと思われる写本が発見され、1976年に翻訳された。清化民間の地域エゴを越える規模で国家ないし反侵略戦争に奉仕するための修史の対象として、『藍山実録』は復活したと八尾氏は理解する。以上のように、『藍山実録』の編纂は歴史に翻弄された。
現在、漢喃研究院に「ヴェトナム家譜学センター」が設立され、家譜の収集と再編纂が進んでいる。ただそこには手放しで喜べない側面がある。編纂とは、もともとある史料間の矛盾をまとめるという側面を有しているので、ヴェトナム語訳が刊行されると、漢文原本が散逸することを八尾氏は懸念し、その保存を切望している(26頁―27頁)。


第1章 黎利集団の構成
序章で検討した順天本系『藍山実録』写本、および一族の来歴を示した家譜、そして墓誌・神道碑といった碑文史料を新たに利用することによって、本章では黎利集団の成立と構成について、考察している。ただ、これらの新史料に関しては、順天本系『藍山実録』写本は王朝の神格化をはかるために、事実を十分に述べておらず、家譜は作為が存在するという限界があるので、厳密な史料批判が必要である(51頁―54頁)。
ところで、清化地方の特徴として、①南方海岸平野部への連絡路、②南方占城への攻撃・防御の拠点、③チュオンソン山脈地方産出の珍奇な品々の集散地、④マ河・チュ河という二大河川によるデルタを有することを挙げることができる。⑤加えて清化地方は、紅河デルタとはニンビン地方の山地で遮られていたので、容易に別勢力を形成し、紅河デルタの政権に対する反乱拠点になり易かった。この意味において、陳朝の外戚胡氏は帝位簒奪に先だって、清化の西都城に遷都していることは注意すべき点である。また紅河デルタ地方の東関城(ハノイ)に布政司などの官衙を置いて内地化を推進する明に対して、陳氏の後裔が清化以南の地(海西地方)で勢力をはり、その撃破後、1418年正月に黎利がこの清化で挙兵したのも、こうした地政学的立地条件が作用していた(54頁―56頁)。
さて、この黎利の抗明戦は、戦場によって、Ⅰ永楽16年~20年12月、Ⅱ永楽22年9月~宣徳元年8月直前、Ⅲ宣徳元年8月~宣徳2年末の3期に区分できる。

従来、1期以前から清化籍以外の人物が藍山にやってきた事実を考えようとしていなかった点を自己批判し、①阮廌、②劉忠、劉仁澍父子、父子、③裴国興について、来訪の実状を検証している(56頁―59頁)
①阮廌の異母兄弟で黎朝の功臣の一人である阮汝撰は、父阮飛卿と、清化在住の汝氏との間に生れた者である。阮飛卿は胡氏が清化の西都に遷都した(1397年)前後には、清化にいたと推測し、阮廌は肉親を頼って清化に赴き、この弟を介して黎利と邂逅したであろうとする。その時期は諸説あり、1426年説が最も晩期であるが、蜂起当初から藍山にいたとするのが通説である(57頁、75頁註11)。こうした事柄が史料に書かれなかった理由は、阮廌が太宗弑殺の冤罪により三族誅殺されたためという。阮汝撰はこの「三族」に幸いにして含まれず、その後も生存し、阮飛卿の清化の支派は存続した。

②劉忠、劉仁澍父子については、劉仁澍は太原大慈県の出身で、鄭克復と異父兄弟である。その鄭克復は清化雷陽水注村の出身で、母は黎利の妹玉駢である。この父子の一族は、黎利と同じく、太原の輔導の出身であることが家譜よりわかり、明支配期には、油売りの商人となり、故郷を捨て、放浪の旅をし、1410年頃には清化に居住していた。

③裴国興は開国功臣の黎文霊と並び称される文臣で、家譜によれば、陳朝末期に郷試三場にまで進んだ。彰徳県貢渓社という出身地は、紅河デルタ西氾濫原の西の縁に位置し、チュオンミ山塊に切り込んでいく入り口にあたり、ハノイにも比較的近い。裴国興には、11人娘がおり、長女玉柳は功臣丁礼に嫁し、その娘は太祖妃となっている(58頁―59頁)

第1期の清化集団の出身階層をア黎利一族の縁者、イ黎利の私的従属者、ウ黎利と同様の首長階層出身者といった3つに分けて検討する。
まずアについては、黎利の長兄の子黎石、次兄の子の黎魁、黎康、外甥の丁礼、丁蒲、丁列3兄弟、鄭克復、その父の鄭汝箎、劉仁澍、外戚の范知運(妃范氏の兄)が挙げられる。
黎朝後期の黎貴惇による『通史』30帝系伝序を引用して、国家支配では宗室を封建するのが最上であり、前朝の陳氏は一族を封建したが、黎太祖は一族が幼弱でそれができず、武臣に国姓を賜って、典兵権を握らせたという統治観念を浮き上がらせた点は注意すべきである。
イとしては、藍山起義以前に黎利の土地を耕耘していた「家人」(張雷、武威、鄭無)や、乂安(ゲアン)出身の塩業者で、黎利の猟犬の飼育役についた阮熾を挙げている。
ウについては、もとは黎利と同じくらいの地位にあった者と、下位の小首長という2つのサブグループに分類できるとする(59頁―61頁)。
出身地や階層が特定できない者に関して、黎利集団に加わった時期を推定する史料操作上の方法を提示し、第1期に集団に参加した人物を列挙する。

清化集団 Thanh Hoa Group=THGについて、集団としての一体感を共有していたかは実証できないとしながらも、「清化出身で、開国功臣及びその子孫、縁者、同郷者で主に形成された集団」と規定し、次のような特徴を挙げている。①清化以外の出身者を政権中枢から排除しようとしたこと、②デルタ出身の官僚に敵対的であったこと、③憲宗までは4代黎宜民を除き、各帝の実母が清化出身者の娘であったことである(66頁、80頁註35)。


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