歴史だより

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日本中世史の長谷川博史先生の著作を読んで その1

2013-12-30 18:31:32 | 日記

日本中世史の長谷川博史先生が『松江市ふるさと文庫15 中世水運と松江――城下町形成の前史を探る――』(松江市教育委員会、2013年)を出版され、ご恵贈をいただいたので、今回のブログではその紹介を行いたい。
ご恵贈にあずかった経緯は、2012年、山陰中央新報に掲載された長谷川先生の「尼子経久と出雲国内の諸勢力」というご論稿を拝読し、15世紀後半から16世紀前半という時代状況の中で尼子経久という人物像を浮かび上がらせるアプローチ方法に刺激を受けたことによる。長谷川博史先生という名前に見覚えがあり、もしかして、高校時代の恩師の杉原隆先生の教え子ではと直感した。その旨を島根大学宛に長谷川先生に年賀状を出したところ、先生から、著作をご恵贈にあずかったという次第である。同封されていた手紙に、学生時代に一度、杉原先生とご一緒に小生とも食事をしたことを覚えておられた。まさに、四半世紀以上も昔の記憶を手繰り寄せてくださったお蔭で、先生の著作を拝読する機会に恵まれたのであった。
ところで、長谷川博史先生は、1965年に島根県松江市に生まれ、1994年に広島大学大学院文学研究科博士課程を修了され、現在、島根大学教育学部教授といった要職に就いておられる。

本書の紹介は、『山陰中央新報』(2013年2月27日[水]付け)にて、益田市教育委員会文化財課歴史文化研究センター主任主事の中司健一氏が既に「『中世水運と松江』を読む」と題して、書いておられる。
戦国時代の終わり頃から江戸時代の初め頃には、地方都市形成の歴史的蓄積と時代的な要請があった。地方割拠の中世から全国支配の近世への過渡期において、現代日本の地方中核都市の基礎的な部分が形成されたと中司氏は理解されている。
要を得た的確な内容紹介をされた後、本書の刊行について、「地方自治体の文化行政の一つのあり方として非常に意義深いこと」と評価をしておられる。この思慮深く秀逸な紹介記事に何かを書き足すことは、屋上屋を架すことにもなりかねないかもしれない。ただ、紙幅が制限されていたため、内容紹介が簡略な箇所もあり、著者の意図するところが伝え切れていない部分もなきにしもあらずである。その点、私のブログ記事は紙幅に余裕がある分、内容を詳細に紹介できる利点がある。
 そして内容紹介にとどまらず、日本中世史の水運研究をより豊かにするために、若干の提言と私なりの感想を書き記しておきたい。つまり、松江以外の城下町の水運、およびフランスのパリという都市にとって水運の果たした歴史的事例を紹介し、私見を述べておきたい。
ただ、中司氏と思いは同じく、長谷川先生の本書が広く読まれ、地域の歴史への関心が高まることを願ってやまない。
 以下、目次を紹介し、まず内容を要約してみたい。
目次
はじめに
第一章 内海の諸港湾―内水面の日常的交流・物流―
第二章 中世西日本海水運の成立と日常的交流の拡大
第三章 港町の形成と展開
第四章 石見産銀の輸出と港湾都市の発展
おわりに―近世城下町と藩領経済形成の歴史的前提―

著者自身、「はじめに」において、松江という城下町についての見解、問題提起および本書の各章の要約を記している。以下、簡潔に紹介しておきたい。
松江という城下町の出発点は、都市としての開放性よりも防御・統制・管理を重視し、身分制を基盤とする軍事政権の要塞都市として、権力的に創り出されたものと規定する。
「なぜ、このような特異な空間が創り上げられ、現在に至るまで連綿と続く町の歴史が生み出されたのか。なぜ、ここが選ばれたのか。なぜ、ここでなければならなかったのか。」このような問題提起をして、松江という城下町形成の条件や理由を明らかにする手がかりとして、中世における水運の展開に着目し、時代を遡って考えてみることが本書の目的である(2頁~3頁)。

先の目次に見られるように、本書は四章から成り、各章の要約として、次のように述べている。
第一章では島根半島の内海(宍道湖・中海)などを介した「内水面の日常的交流・物流」の実像を探っている。とりわけ、中海西南岸地域を中心に、政治・経済・生活を支えていた水運やその担い手について確認している。
第二章では、島根半島沖の「日本海を介する遠隔地間交流」が、中世を通じて日常的な交流・物流へと展開する過程をたどる。その際に中世西日本海水運が日常的性格を強めていく過程を次の3段階に分類している。
①中世荘園年貢輸送体制の成立がもたらした廻船ルートの形成
②14~15世紀における日常的交流・物流の拡大
③16世紀東アジア経済圏の活況と日常的交流・物流の広域化
そして①②をとりあげることによって、拠点的な港湾都市形成の背景を探っている。
第三章では、「日本海を介する遠隔地間交流」と「内水面の日常的交流・物流」との結合により、14~15世紀以降に、日本海沿岸や内水面に拠点的港湾都市が成立していったことを明らかにする。とりわけ中世の白潟の実像を探る。
第四章では、先の3段階の③16世紀東アジア経済圏の活況と日常的交流・物流の広域化がどのように生み出され、島根半島周辺への影響がどのようなものだったのかを考察している。「日本海を介する遠隔地間交流」の日常化と「内水面の日常的交流・物流」の広域化が、港湾都市群全盛の時代を迎えるに至る過程を辿る。それは江戸時代の城下町と藩領経済の形成や、西廻り航路・東廻り航路の開拓に至る全国的流通体系の形成に、重要な前提条件を与えたと考えられるという(1頁~8頁)。

「はじめに」において、(前)松江市教育委員会教育長の福島律子氏は、「ふるさと松江の歴史・文化をもっと詳しく、もっとわかりやすく紹介してほしい」との市民の要望に応えるため、松江市教育委員会は、松江市の過去・現在・未来を確認し合う事業として、また、松江市文化財保護行政の基本理念として、歴史史料の収集と刊行物を通して、情報発信に努めてきたという。その一環として、松江市ふるさと文庫というシリーズ物の刊行物を出版し、今回の著作は第15巻目にあたる。
そして、福島氏は、長谷川先生の今回の著作について、「なぜ松江が近世城下町建設にふさわしい場所として選ばれたのかという疑問を、中世における水運の展開に着目して解き明かしたもの」と簡潔に要約している。そして松江城下町形成の歴史的前提について、市民の関心が向けられることを願っている。

第一章 内海の諸港湾―内水面の日常的交流・物流―
日本海沿岸には、潟湖が広がり、それらの周辺には水運の結節点が存在した。森田喜久男氏は、「内水面交通」概念を用いて、8世紀出雲国における水上交通の結節点を『出雲国風土記』から析出している。
潟湖や河川に展開した内水面交通の特徴は、①外海上よりも安全であること、②操船技術が容易であること、③船の構造・装備や港の設備が簡単でも、対応可能であることにあり、それゆえに広範かつ至る処に結節点が形成されたという。
古代・中世内海の船着場や市場は、「港町(みなとまち)(港湾都市)」としてイメージされるようなものではなく、アクセス自在な群小港湾が乱立し、消長を繰り返していたと見る方が実態に合っている(9頁~11頁)

ところで、「島津家久上京日記」には、
「1575年の6月22日の明け方に米子から出船し、出雲国の「馬かた」という村では関を取られた。その途中では、弁慶が住んでいたと伝えられる枕木山が見え、その下に大根島が見えた。さらに進んで「しらかた(白潟)」という町に着船し、小三郎という者の所で昼食をとった(下略)」とある。
この日記が書かれた1575年といえば、松江城下町建設より30年ほど時代を遡った時代である。
ここに見える「馬かた」がどのような場所であり、「関」の意味内容を探り、港湾都市としての米子・白潟・平田の形成過程はどのようなものであったのかという問題関心を抱き、考察している。

1575年の「島津家久上京日記」に現れる「馬かた」(松江市馬潟町)について、諸史料により検討している。
中世には、「馬形」という表記が通用されていたようである。ここで注目されるのは、「上分銭」「上分」である。年貢の異称としても用いられた言葉だが、年貢とともに、寺社へ仏事祭礼費用として納められた課役(かやく)と考えられるという。この「上分」についての研究史整理をしている。
①相田二郎説
 「上分」は「船舶が海上を通過して那智山など神仏を拝む時の報賽」であり、関所発生のひとつの原因と考えている。
②網野善彦説
 「上分」は「初穂」にあたり、金融の資本として使われることが多く、言わば「神の物」という性格をもっていたとする。
③勝俣鎮夫説
 伊勢・尾張国境で、「熊野へまいる御米」を要求する「海賊」の話(『古今著聞集』巻12)を紹介し、この「海賊」は熊野神社への奉仕集団である神人(じにん)たちであり、彼らが「熊野上分米」を神への捧げ物として徴収できると主張したものとみている。
④金谷匡人説
 「関料」徴収慣習化の問題を論じ、通過船舶から徴収される「上分」は報賽としての「初穂」であり、「関」の起源と考えている。
関所は流通の障害というのが一般的な理解だが、定量化された「上分銭」6貫文は請け負い額だから、実際にはより多額な徴集がなされたと想像できるが、この点は注意が要るという。というのは、年6貫文は1日あたり17文(銅銭17枚)に満たないので、高額とは考えられないからである。もし重い負担なら、島津家久も「馬形」を通らない経路を選択できたと想像している。そのことは家久が取られた「関」が報賽としての性格を残した課役であったことを裏づけるものと推測している。
また米子から平田に至る間において、通行税徴収に関する記事が、「馬形」以外に見られないことも重要である。宍道湖・中海の航行船に関しては、船舶通行税が領域支配や周辺領主支配の直接的な財政基盤として大きな比重を占めたとは言えず、活発な日常的・恒常的な水上交通を前提として理解すべきである。同時に、この水域全体において、「馬形」周辺の中海西南岸(大橋川・意宇川が中海に注ぐ河口部分、およびその周辺の中海沿岸)が他の群小港湾とは異なる性格を持っていた(4頁~14頁)。

意宇平野は律令制下の出雲国支配の中心地であったが、まずこの地域の地形的特徴について述べている。意宇平野は、古代「淤宇宿禰(おうのすくね)」一族の根拠地であり、律令制下の国府が置かれた。この場所は出雲国内有数の内水面交通の要地であり、外海との接点でもあった。そのことは意宇平野が古代豪族の本拠となり、律令出雲国の中心となった理由でもあった。
中世の意宇平野には、出雲国国衙領の中核部分ともいえる大草郷・大庭保・山代郷・竹矢郷・出雲郷(阿陀加江)が展開していた。1255年の出雲国司庁宣に「府中」の用語が確認されている。井上寛司氏は、次の3つの論拠から、意宇平野一帯には新しく出雲府中の領域として定められた中世都市「府中」が形成されていたと推測している。すなわち①惣社(六所神社)などの神田が国府周辺の大草・山代・竹矢・出雲の四郷に集中的に存在していること、②1230年頃の平浜別宮が国衙の要請によって、四季仁王大般若経転読を行い、平浜別宮も広義の国衙支配機構の一環を構成していた、③1345年に竹矢郷内の円通寺が出雲国安国寺に指定されたことである。
古代の出雲国府のうち、国衙機能を担う中心的諸機関の一部は、少なくとも南北朝期に至るまで意宇平野周辺に残存していたと推測している。平浜別宮・八幡荘は、鎌倉期以来の守護領であり、竹矢郷は南北朝期の北朝方守護所であった。1514年の平浜八幡宮は段米・段銭を賦課できる国衙や守護が造営責任を持ってきた、国レベルの神社であった。したがって、大橋川河口地域周辺は、中世においても、出雲国全体にとって、特別な意味を持つ場所であった。

八幡荘の荘域には、八幡津や八幡市場が存在しており、内海と川を介した内水面交通の結節点に立脚する荘園であった。中海を航行する船からは、馬形の丘陵周辺に列立する安国寺などの寺々の壮観を遠望できたという。寺社の存在は、八幡荘が都市的性格を持つ場として機能していたことをうかがわせる。

中海西南岸(揖屋・出雲郷・八幡津・馬形)およびその後背地域をめぐる争奪戦の記録があり、この地域をおさえることが出雲国およびその周辺地域における戦局を左右したといわれる。戦国時代には尼子氏の本拠ともなった富田城(安来市広瀬町)にとって安来津や美保関をおさえることが重要で、中海・日本海水運をもとらえる政治的拠点たりえた。また安来津よりも近い中海西南岸は、富田城のもう一つの外港として欠かせなかった。
この山越えルートをめぐる攻防は、観応の擾乱などにおいて繰り返された。1563年に、毛利氏が攻撃中の白鹿城(松江市法吉町)を救援するため、尼子氏の援軍が派遣されたが、その経路は、富田城→馬形→羽倉城(和久羅山)→「からから橋」(松江市西川津町)→白鹿城であった。その救援作戦は失敗したが、毛利氏との攻防戦で、このルート確保の重要性を示している。富田城の存在についても、中海西南地域が重要であった(15頁~24頁)。
「水上勢力」というと、生活の場を含めて、海や湖に基盤を持つ存在を想定されるかもしれないが、本書では、存立基盤の重要な部分に、水運に関わる権益の比率が高い在地領主や在地勢力のことを仮称している。
宍道湖・中海の内水面交通を担った水上勢力の具体的な姿は、16世紀に入って、史料上に散見されるようになるという。
①松浦氏、②湯原氏、③多胡氏について解説している。
①松浦氏について
戦国期尼子氏家臣の中には、何人かの松浦氏一族を確認できる。その松浦氏の事蹟として次のようなことが知られている。たとえば、1540年竹生島奉加帳に「富田衆」(=尼子氏直属の家臣団)に加わったり、1547年に尼子氏から意宇郡神魂社への御供米を「忌部米」で調達したり、また尼子氏から神魂社への御供米を「名代」として届けたりしている。さらに、1563年に尼子義久から忌部東村内の権益を安堵され、その後富田城「子守口」の合戦に戦功を挙げ、1569年からの尼子氏再興戦においても尼子勝久方として転戦している。また1566年の富田城落城まで籠城し、尼子秀久(義久の弟)の供として、安芸国高田郡長田(安芸高田市)まで随従し、そこで死去したと伝えられている。このように、尼子氏への帰属性が強かった。
尼子氏家臣の松浦氏に関して注目されるのは、松浦小太郎が尼子勝久から与えられた諸権益の内容である。当時の戦況を考えると、諸権益が実質的な意味を保持しえたとは考えられないそうだが、松浦氏の実像を知る手がかりとして重要であるとする。中でも無役での通行を認められた「五人乗之船」とは、松浦小太郎が自ら船舶を所持する水上勢力であったことを裏づけると推測している。
1570年の平田手崎城の攻撃から、内海水運に基盤を持つ存在であったことを裏づけている。伯耆国相見郡「奈木良」(米子市奈喜良)は、出雲・伯耆国境の要衝であった安田関からも、中海の港である米子からも、程近い場所に位置している。隠岐国「井後」(隠岐の島町伊後)は島後の最北端に位置しているが、隠岐に渡海して船の調達に尽力したことから、隠岐国内の水上勢力とつながりを持っていたと推測している。
また「代官職」は金融機能を持つ者が任命される事例の多いことが想起される。日本海に面した「野津」(琴浦町箆津)は明の日本研究書にも記された赤碕(あかさき)からも程遠い場所にあたる。以上のように、尼子氏家臣の松浦氏は、意宇郡を本拠とし、内水面交通を中心的な活動基盤とする水上勢力であったと推測している。
ところで尼子氏家臣の松浦氏以外にも、複数の松浦氏が見られる。1390年~1591年の約200年間にわたる諸史料に見える松浦氏の事例を挙げている。そして中世意宇郡周辺に現れる松浦氏には同族であったり、水上勢力であったりする者が存在した可能性が高く、系譜的には、近世白潟の「舟目代」松浦氏や、近世忌部村の庄屋松浦氏につながる家が含まれていると推測している(26頁~30頁)。
②湯原氏について
白潟の安栖院は、応永年間(1394~1428)に湯原氏が再興したと伝えられている。1540年には、尼子氏は内海を掌握するために湯原氏を家臣団の一角に組み込んでいた。そして1560年代には、古曽志、秋鹿、安来など宍道湖・中海の沿岸部に複数の拠点を持ち、水上勢力であった。湯原氏は、16世紀前半には出雲平野の水運の要衝であった尼子氏直轄領林木荘の代官を務め、毛利氏時代には佐陀江の満願寺城や加賀城など宍道湖や日本海の海城(うみじろ)に在番していることから、水上勢力としての性格は一貫していたと考えている(30頁~31頁)。
③多胡氏について
戦国期の多胡氏は、意宇郡の紺屋(紺屋の営業税に関わる税で、染物職人を統括)、揖屋における相物役(相物は本来塩魚・干魚を意味したが、相物役はそれ以外の商品を含めて取り扱う商人一般の営業権に関わる税)、八幡市場等における塩役(塩の生産・流通に関わる税)の徴集権を保持していた。このように多胡氏は、商人統括の役割を果たし、税の徴集を担った有力商人であった。すなわち、多胡氏は田畠を基軸とする土地権益に依拠する領主というよりは、水上を含む物流との関わりを中心的な基盤とする商人的な性格を合わせ持つ存在であったとみる。
平浜八幡宮の社領は、八幡荘を中心に、中海西南岸地域の竹矢郷・阿陀加江の内、大橋川北側の長田郷・朝酌郷内、宍道湖南岸の湯郷の内など、内海の諸拠点を中心に展開していた。その意味では、平浜八幡宮が内水面を基盤とする諸勢力によって支えられていた。多胡氏もそのような諸勢力の一つであったと推測している(31頁~35頁)。

このように内海沿岸部一帯に基盤を持つ諸勢力は、内水面交通と結びついて生きていた。中世島根半島の内海水運を中心に、その基本的な特徴、中海西南岸地域の重要性、内水面に重要な基盤を有したと考えられる諸勢力について見てきた。
この時代の宍道湖・中海周辺を描いた一枚の絵図「大山寺縁起絵巻」(1398年成立で1831年の模写本)の鳥瞰図をもとに、中世の風景を俯瞰している。その鳥瞰図で、中海や宍道湖の内水面上に、規模の異なる多数の船舶が描かれていることに注目すると、いずれも帆船である。しかしおそらく内水面交通には、漕航の小船が用いられたはずであるから、水面にはなお多くの船舶が行き交ったものと想像している(35頁~37頁)。

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