歴史だより

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《井上光貞氏の自叙伝を読んで》その1

2009-06-25 19:16:50 | 日記
《井上光貞氏の自叙伝を読んで》その1

井上光貞(いのうえみつさだ、1917-1983)氏は、いわずと知れた日本古代史研究の碩学である(以下、敬称略)。
彼の偉大な業績は数多くある。例えば、井上光貞ほか編『日本思想体系3 律令』(岩波書店、1976年[1982年版])もその1つである。私は東アジアの律令制について関心があるので、井上光貞の研究には魅かれるものがある。


その偉大な業績がどのようにして生まれたのかについては、以前から興味があった。だからこの歴史学者の自伝『わたくしの古代史学』(文芸春秋、1982年[1983年版])を読んでみた。

井上の生い立ちは、その父は桂太郎の次男、母は井上馨の娘という華麗なる一族の出である。父は陸大を卒業した軍人であったが、井上家を継ぎ侯爵であったので、貴族院議員となった。
日本の古代史を専攻するに至った経緯・動機となったのは、旧制高校時代の18歳のときに、腎臓炎を患ったことが関係する。この大病のために、吉祥寺の成蹊高等学校の理科乙類から文科乙類に移った。二・二六事件が起こった1936年の翌年のことであった。

この大病のため高校在学は6年に及んだが、この時期に、広く浅くよく本を読んだという。最初は歴史書よりも、文学書、とくにトルストイやドストエフスキーといったロシア文学、そしてゲーテやヘルマン・ヘッセといったドイツ文学に親しんだ。史学に関心をもつきっかけは、成蹊の西洋史の藤原音松という先生の影響が大きかった。この先生をキャップに歴史同好会をつくり、その教え子の児玉幸多などの講演を聞いた。こうして史学への関心が深まり、日本史の本を読むようになったものの、近代史の本が当初は多かった。深い影響をうけたものの1つに『日本資本主義発達史講座』がある。また服部之総の『明治維新史』は歴史を総体として捉え、方法論をふまえて分析していく鮮やかさは、本来理系の井上に合い、社会矛盾に眼が開かれる思いがしたらしい。

そして藤原から、歴史を学ぶなら一度は読んでおくように、勧められた本が、津田左右吉の記紀批判の一連の研究書であった。例えば、『神代史の研究』(1924年)、『古事記及び日本書紀の研究』(1924年)、『日本上代史の研究』(1930年)、『上代日本の社会及び思想』(1933年)の4冊であった。井上は、津田の本に忘れることのできない感激を覚えた。
津田はこれらの研究により、古事記や日本書紀の神話や皇室の事蹟は、皇室の由来と王権としての正統性を根拠づけるために述作したものであることを実証した。日本神話の構成とモティーフの追究に井上は感服している。また三木清『歴史哲学』(1932年)も井上はノートをとって耽読し、大きな影響をうけた。

大病の体験は井上の性格を変えた。以前は、家庭に従順で“優等生”であったが、大病後は家にひきこもり、“煩悶”が深まり、挫折感からものごとに批判的になり、特権的な身分や階級に対する憎悪も増してきたらしい。

さて井上は、1940年4月、東京帝国大学文学部の国史学科に入学した。家族は、法学部か経済学部に進んでほしかったようだが、健康に自信がなく安易な道を選んだと述懐している。年代的に卒業生としては、1936年に井上清、1937年に家永三郎、石母田正、松本新八郎、1938年に遠山茂樹といった、戦後の日本史を代表する学者がいた。

スタッフとしては、古代史の坂本太郎、中世思想史の平泉澄がいた。平泉は、皇国史観の代表的な主唱者である。東大きっての秀才で、『中世における社寺と社会との関係』では、戦前の中世史研究のトップクラスの業績を残したにもかかわらず、海外留学してから、ファナティックに右翼化したという。井上が入学した1940年は、その皇国史観がひとり幅をきかせていた時期であった。平泉が若き日の学問的姿勢を堅持していたら、歴史学の色合いは異なっていたかもしれないと井上は残念がる。近代日本が国立大学国史学科に課した重荷は大きく、歴史を教学の柱とした時代であった。

井上が史学に求めていた課題は、現代の国家構造とか、天皇制の形成過程とか、日本における儒教や仏教の役割とかいった問題であった。しかし、講義や演習に参加して、実証主義的学風が東大の史学の基礎を作っていることに気づいた。古文書が読めないと日本史の研究はできないといわれ、真剣に演習をうけた。

井上の卒論は「仏教と社会」をテーマとしていたので、マックス・ウェーバーの『宗教社会学論集』などをかじったりもした。ウェーバーがマルクスの発展的段階説を、発展の「理念型」として捉えている点は、井上の膚にあったという。有効な認識手段としてみるならば、実証科学である歴史学にとって、マルクスの発展段階説も導きの1つであると考えた。

大学時代、日本史以外で傾倒した先生として、魏晋時代を専門とする東洋史の浜口重国先生がいた。一字一句ゆるがせにしない考証と、課題の中核に切り込んでいく気魄と切れ味に圧倒されたという。そもそも当時の東大史学の中で抜きん出ていたのは、東洋史だったらしく、中国古代史の西嶋定生、インド史の荒松雄などすぐれた学者が輩出した。

井上光貞の研究を基本的に決定したのは、恩師坂本太郎による大学院での講義であった。それは日本書紀および律令の成立をテーマとするものだった。官学アカデミズムの精神を一身にあつめた坂本から教えをうけたことは、井上の学問的研究生活のプロローグとして決定的であったと回顧している。

井上は坂本の講義と演習から2つの重要なことを学んだ。
その1つは、文献に対する厳正な姿勢。言い換えれば、史料によって研究するのではなく、史料を研究するということ。すなわち、ある史料の記事によって何かを論ずる前に、その史料記事が何をいおうとし、どのように成立したのかを知る必要があるということである。

もう1つは、坂本の史料解釈には深読みがないということ。
史料のある箇所や古代史学上の問題について、研究史を顧み、全体との関連を考慮して、“ディスタンス”を置いて解釈し、自説を展開する。これが坂本の学問の特長であり、一種の学風であるという。つまり坂本の考証(史実の確定)は、結論の手前の、確実なところでとどめ、あとは学界の後学の研究を待つといった風である。そこに、確かさと発展性があり、坂本の学問の魅力が見られると井上はいう。井上は、坂本のこの教えをうけたことに真の幸福を感じている。

井上は、思想史の指導教官を望んだ。日本中世思想史の平泉澄は、皇国史観でついていけないので、学科以外の倫理学の和辻哲郎を選んだ。あの『古寺巡礼』(1919年)とか『日本精神史研究』(1926年)、『風土』(1935年)といった数々の名著がある日本倫理思想史の大家である。井上は以前から和辻のファンであったと告白している。井上自身が記しているように、和辻の文章はみずみずしい感受性と、深くすんだ洞察力に富んでいる。その文章に広く深く魅了されたのである。

ただ和辻は、文章の絢爛さとは違って、寡黙の人であったらしい。二人で対座していると、なかなかしゃべって下さらないので、冷や汗がたびたび出たと記している。
戦後は和辻批判の風潮が、歴史学界や思想界にひろがったからであろう、心なしか淋しそうであったという。正月には年賀にうかがう関係であっただけに、井上は和辻の心境を敏感に感じとっていたにちがいない。1955年には和辻の『日本芸術史研究』が発行され、文化勲章を受章した。しかし、戦後の時流にあわず、孤影悄然のおもかげが深かったという。

その和辻は、奇しくも安保の年である1960年71歳でなくなっている。前年の1959年には、井上は学位論文「日本浄土教成立史の研究」を提出し、学位をうけたことを報告して恩返しができたと思っていた父井上三郎も73歳で他界している。連年、井上にとって心の支えであった人物を失っている。

ところで、先生からの教えとして次のことを述べている。坂本太郎からは歴史を学ぶ技術の手ほどきをうけた。一方、児島喜久雄(西洋美術史)と、和辻哲郎からは、歴史を見る眼を教わったという。3人の先生を想い起こすとき、ひたむきの頃の自分が甦り、わが襟を正す気になるというのである。

ところで井上は日本古代史についてどのような見解をもったのであろうか。
例えば、3世紀中葉の魏を相手にした邪馬台国は、北九州の国家連合と考えた。
4世紀後半に大和朝廷が九州を支配下におさめたが、それ以前の3世紀末から4世紀中葉までの間、邪馬台国が東遷して、畿内勢力の主人となったのか、あるいは畿内ヤマトが北九州を征圧したのかは保留している。ただ、日本の統一国家の誕生は、東アジアの国際情勢のダイナミズムの中で捉えることを力説している。
この3世紀中葉にはまだ統一国家はなく、邪馬台国連合も北九州の政治的統一体にすぎないとする。邪馬台国連合には、①部族同盟的な側面、②原始王国的側面との二面性があり、倭人伝には北九州の政治勢力が①より小さな部族同盟から、②より大きな原始国家へと移る推移の状態を記述しているという。

これに対して、上田正昭は、大和説をとり、畿内ヤマトを中心に九州から関東に及ぶ統一国家をえがく。つまり、邪馬台国の王権は、共同体のアジア的形態を基礎とする初期専制君主の権力と規定する。

また井上の課題は日本仏教の歴史を社会史的に追究することであった。例えば、平安時代に貴族が広く浄土教に帰依し、鎌倉時代に庶民に法を説く法然、親鸞の宗教がうみだされた社会的要因を考える際に、石母田正の『中世的世界の形成』は、デッサンの作成上大きな影響を与えたという。石母田は、在地領主=武士の成長によって中世的な世界がどのように形成されてゆくのかに関して、東大寺領の伊賀国黒田庄に焦点をあてて描き出したのであった。井上はこの名著を触媒として、「藤原時代の浄土教」等の論文に結晶化した。

律令時代の阿弥陀信仰の特長は、他者が極楽浄土に往生することをねがう追善的信仰であったことにある。律令時代には確かに立派な都城や律令法典が作られ、合理的な行政が運営されたが、貴族階級の間ではまだ部族的、呪術宗教の世界が残存していたと推測される。そしてその律令国家が変質し、平安京が都市化し、王朝国家が発達して、はじめて旧来の氏族的靭帯が解体し、個人の魂の救済という思想がうまれてくる。この見方は、先の石母田の名著が提示した仮説であるが、井上はこれを正しいものと信じている。
律令国家はいわゆる個別人身支配の国家ではなく、部族制的要素を残した国家であったとみる。自己がこの世を厭土と観じて極楽浄土にうまれることをねがう浄土教は、平安時代に入って叡山の常行三昧を母胎としておこってくるというのである。



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