歴史だより

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《新刊紹介 山本英史編『アジアの文人が見た民衆とその文化』その1》

2011-01-03 10:32:48 | 日記
《新刊紹介 山本英史編『アジアの文人が見た民衆とその文化』その1》

山本英史編『アジアの文人が見た民衆とその文化』(慶応義塾大学言語文化研究所、2010年)が出版され、本書に論文を投稿された嶋尾稔先生から本書を寄贈されるという光栄に浴した。今回のブログでは、お礼の意味もこめて、本書の内容紹介をしてみたいと思う。
序文にも記してあるように、本書は慶応義塾大学言語文化研究所公募研究「アジアにおける知識人の著述と民間文化」(2006年4月~2008年3月)で行った研究プロジェクトの成果である。9人の研究者が、中国、日本、ベトナム、インド洋、西アジア、北アフリカを対象地域として、「文人」(文事に携わる者の意)が書き遺したものの中に、民衆とその文化がどのように描かれたのかについて探究している。そしてその評価を分析し、比較研究により、「文人」の民衆観・民衆文化観を明らかにしようとしている(p.iii~iv)。まことに壮大で刺激的なテーマを追究した論文集である。

まず、本書の構成は次のようである。
序 山本英史
1.石川透「浅井了意の仕事と著述」
2.山本正身「仁斎と益軒――近世儒者における知の位相――」
3.桐本東太「「移風易俗」原始」
4.山本英史「公牘の中の“良き民”と“悪しき民”――清代康熙朝の事例を中心にしてー」
5.嶋尾稔 「ベトナムの家礼と民間文化」
6.佐藤健太郎「13世紀マグリブの知識人と聖者崇敬――アブー・アッバース・アザフィーによる聖者伝を通して――」
7.栗山保之「前近代のインド洋におけるアラブの航海技術――スライマーン・アルマフリーの航海技術書より――」
8.長谷部史彦「『夜話の優美』にみえるダマスクスのマジュズーブ型聖者」
9.野元晋 「あるイスマーイール・シーア派思想家が見たキリスト教とキリスト教徒:ラーズィー(322/933-4歿)の『預言の表徴』
から第4章第5節の解題と翻訳」

最初に内容を要約しておこう。
1.石川透「浅井了意の仕事と著述」
17世紀、江戸時代前期の仮名草子の作者である浅井了意という知識人が、どのような仕事をして、知識を身につけ、大作家となったかという軌跡を辿るとともに、あわせてその著述に表された民間文化に関わる内容について述べている。
日本文学史上では、仮名草子というジャンルは、室町時代を中心に作られた御伽草子と、江戸中期の浮世草子とのはざまに位置づけられる。だから、浅井了意は、浮世草子作者として名高い井原西鶴の一つ前の世代である。
ところで、江戸時代以前の日本の物語(小説)は、『源氏物語』の紫式部を例外として、誰が作者であるか不明であることが多い。その理由は、物語作品には署名をしないという伝統が日本にあったからである。唯一作者が判明している『源氏物語』もこの点で例外ではなく、紫式部も署名はしていないが、『紫式部日記』などの資料からその物語の作者であると判明できるという。作者名が必ず記されている和歌(短歌)とは対照的な文学ジャンルが物語である。今日では、物語と和歌とが、文学作品として並ぶ存在のように扱われる。そればかりか、マスコミの力によって、小説が文学の代名詞的存在となり、ベストセラー小説を書いた流行作家ともなれば、時代の寵児ですらある。しかし江戸時代以前では、文学といえば、和歌や漢詩のことであった。時の帝の命令によって勅撰和歌集が編纂されることはあっても、勅撰物語集が国家事業として作られたことは一度もなかった。これが当時の物語の扱われ方であった。このように物語には、作者名が存在しなかったので、筆写段階で、物語の中身は改編されていった。作者不明で、今日のような著作権も存在しない時代であったから、才能さえあれば、内容は自由に変えることができた。だから日本の物語作品には同じ題名でも内容が異なる異本が多く存在するのである。
日本の物語作品において、署名に近いものが出てくるのは江戸時代であるが、江戸時代前期はまだ本格的な署名ではなく、室町時代に作られた御伽草子と、江戸時代の仮名草子の区別がつきにくいという問題がある。つまり室町時代と江戸時代前期に作られた作品については、御伽草子と仮名草子のどちらのジャンルに入れるか、判明しないものが多い。現在の作品の区分けおよび翻刻・集成作業は偶然的要因が作用している。署名のないことが作品のジャンル区分けを曖昧にしている。具体的には、現在、御伽草子に区分されている作品には、仮名草子作家の浅井了意の作品も存在しうるという(1頁~5頁)。
次に浅井了意の人物像について論じている。浅井は仮名草子という作品を創作した人物で当代随一の知識人である。『堪忍記』(1659年刊行)によってその名を高め、怪談作品や地誌、注釈、仏書などの作品を書いた。1691年に没したが、享年は未詳で、70歳過ぎとみられている。
浅井の生きた時代は、本が本格的に出版され始めた時代であった。浅井の著作物は基本的には印刷刊行されたものがほとんどだが、平仮名の自筆資料も存在していることが近年明らかとなった。つまり『狗張子』といった自作は、浅井自らが版下(版画式に彫る場合の下書き)を書いたといわれる。
江戸時代の出版の仕方は、西洋のように活字印刷ではなく、版画と同じ制作方法で、清書した紙を裏返しにして板に貼り、白い部分を削り、墨を塗って紙を載せて刷り上げていた。その場合、作家が書いた原稿をきれいに清書する人間(筆耕)が必要であった。浅井は字がうまかったので、原稿がそのまま版下となり、筆耕は必要でなかった。
浅井の筆跡と酷似した奈良絵本・絵巻が存在することがわかり、筆跡の比較研究により、浅井は作家となる以前に、若い頃、写本の筆耕の仕事をし、それを通して知識を身につけ、それが昂じて、作家となったことが明らかにされてきた。もともと筆耕の仕事をしていたから、字がうまいのは当然で、自筆版下が残るのも納得がいく(6頁~10頁)。
浅井が自筆した写本として、1655年書写の『源平盛衰記』や、軍記物語の大作『太平記』があることが近年の研究でわかってきた。石川氏は浅井の作品一覧を作成している。
繰り返しになるが、浅井は作家として無名であった頃、書物を写す筆耕の仕事を重ねつつ、知識を身につけ、仮名草子作家として作品を創作していったと石川氏は推察している。今後は浅井の作品のうちで、まだ出版されていない創作物を、筆跡確認のみならず、その内容まで含めて検討することが課題であるという(10頁~15頁)。

2.山本正身「仁斎と益軒――近世儒者における知の位相――」
江戸前期において、林羅山、山崎闇斎、中江藤樹といった儒者は、経学(経書の註釈・解釈学)が学問の中心であった。そして伊藤仁斎(1627-1705)も経学という学問的通念の中に身を置き、『論語』『孟子』といった経書を文献実証的に研究し、経書註釈学の一つの頂点をなした。ただ仁斎は生前に自著を1冊も刊行しなかった。
それに対して、貝原益軒(1630-1714)は「儒林第一の耆宿」として江戸前期の大儒であったが、その学問活動は特異であった。益軒は近世儒者の中で最も膨大な著作群を残した。経書註釈に関する著作はそれほどなく、通俗的な実用書や朱子学入門者向けの学習書の類を多く残したといわれる。『養生訓』など晩年に著された「益軒十訓」と総称される教訓書は大衆読者層から歓迎され、ロングセラーとなった(17頁~18頁)。
益軒はなぜ経学的著述活動から距離を置き、そうした通俗的教訓書を執筆したのであろうか。『大学』註釈書については出版しようとしたが、出版書肆の営業上の判断が働き、実現しなかった。加えて経学において益軒は、仁斎や荻生徂徠(1666-1728)のように独創的な儒者ではなかった。ただ、出版書肆の情報を通して、急増する大衆読者層のニーズを感知し、自らの学問活動を展開しようとした。ここに儒者益軒の特異性があった。つまり「出版というメディアを利用して、現実の出版文化にあわせる形で、みずからの学問を活かす可能性に気付いた」点にある。益軒が仁斎を閉鎖的な儒者とみた理由はここにある。
益軒は大衆読者層のために教訓書や学習書を編纂することに自らの役割を見出したのに対して、仁斎はたとえ門下生を「3000余人」を擁し、その出身地もほぼ全国に及んでいたとしても、学問世界の知識人だけを相手として経書註釈学に勤しんでいたからである。益軒は学問塾をもたず、門人が少なかったといわれるが、それでも仁斎の学問的閉鎖性を「一人の私の言」と評した。比類なき博学を誇った益軒は、平易な和文で書き、不特定多数の大衆読書人層を学問の世界に誘うことを、「学問の道は、天下の公道なり」(『大疑録』巻之下)というように、学問を意味づけた。学問的立場の意義として、「衆庶と童穉」の教導をもって民生日用に資することを企図する点に求めている。
益軒による仁斎批判は、①思想内容の相違、②学問的態度の相違という2つの視点から捉えられる。
①「朱子学者益軒による反朱子学者仁斎に対する批判」
②「いわば啓蒙学者益軒による専門学者仁斎に対する批判」、あるいは「博学者益軒による経学者仁斎に対する批判」
学問的営為を大衆読者層に普及させるという自負心をもっていた益軒は、仁斎が学問を専門知識人の閉鎖的な私的占有の次元に押し留めていることに対して、「刻薄僭率」「偏見曲学」「僭率自矜」といった辛辣な言葉で批判した。その社会的・歴史的背景として、読書人口の急増、商業出版書肆や出版メディアの普及など、民間文化の発展が存在した。民間文化との関連において、仁斎と益軒といった近世前期の二大儒の「知の位相」についてコントラストを鮮明に浮彫りにしており、読み応えのある論文である(34頁~43頁、49頁註63)。

3.桐本東太「「移風易俗」原始」
中国の歴史の底流を貫通し、古代から現代まで継続してきた思考のあり方として、「移風易俗」を取り上げて論じている。この主題を論じた日本人研究者は皆無に近く、問題提起の意味もこめられている。
中国人は統治術の天才であり、在地の習慣を一変することは民を治めるすべとしては下策とし、中国古代の知識人はそれに対して周到な配慮をしてきた。しかし、この「移風易俗」の思想に、とりわけ中国古代の為政者・知識人は支配されていたとみる。つまり、彼らは現地の習慣を熟知し、それを一変させることを至上の責務とした。例えば、『呂氏春秋』君守篇に、「至聖は習を変え俗を移し、その従る所を知る莫からしむ。」とある。この行為が「移風易俗」と表現されるが、それには2つの側面がある。すなわち
①「民は日に善に遷り、之を為す者を知らず。」(『孟子』尽心・上)とあるように、民衆をおのずと教化しようとする側面、
②専制権力によって暴力的に在地の習俗を変える方法である(64頁注1)。
「移風易俗」という発想は中国の歴史上、いつの時代から生まれたのかという問題に関して、桐本氏は仮説を提示している。すなわち、邑制国家から、人民への直接的な支配の度合いが強まる領域国家への転換期である春秋末期がそれに相当するとみている。郷俗に対する素朴な共感の念は、「郷人は儺し、(孔子は)朝服して阼階に立つ」(『論語』郷党篇)にもみられるという。「儺の祭りは一種の馬鹿騒ぎであるが、孔子はインテリとしてそれを侮蔑せず礼服を着て、家廟の前に立ち、そうすることによって、村人に協力したのだ」という吉川幸次郎氏の解釈にもとづき、そこに民衆の風俗習慣を等閑視しない知識人の姿が描かれている(56頁)。
春秋期には、在地の習俗に対して一定の敬意が払われたが、同時に風俗を変化させようという「移風易俗」の考え方も胚胎したという仮説を提示している。『史記』に登場する晏子は富国強兵に務め、「移風易俗」が臣下を登用する目安の1つとしたし、臨終の間際においても「移風易俗」のことに思いを巡らせた。
戦国期には、「民の父子兄弟の室を同じくし、内息する者は禁と為さしむ。」(『史記』「商君列伝」とあり、大家族を破砕し、小家族を創出する分異令という法律についても、桐本氏は、商鞅による「移風易俗」の事例として解釈している(57頁~58頁)。
このことは「孝公は商鞅の法を用い、移風易俗し、民は以て殷盛に、国は以て富強たり。」(『史記』李斯列伝)とあることからも確認しうるという。戦国時代の呉起も楚において「移風易俗」の色合いの強い変法を行い、「楚国の俗を一にす。」(『戦国策』秦策)と記されている。
このように当時の知識人は、民衆の習俗を改変ないし画一化することに情熱を燃やしていたとみる。そして商鞅も呉起も、自分の出身国とは違う国において変法を行った点に留意すべきであるという。中原の習俗と秦や楚のそれとは全く異なり、それが為政者の国家支配に支障をきたすと考えて、習俗の統一を挙行したと推察している(58頁)。
また戦国期の「移風易俗」の事例として魏の西門豹の物語を検討している。『史記』滑稽列伝によれば、鄴の長官西門豹は「三老」と「祝巫」が結託して、「河伯娶婦」という人身供犠にかこつけて、金品を収奪する悪習を改めるために、彼ら自身を黄河に放り込んだ。すると在地有力者は恐れおののき、人身供犠と金品収奪の悪習は途絶えたという内容である。
この物語は、村落の秩序構造を崩すものとして、戦後の歴史学界では専制国家論の立場から論じられてきた経緯がある。桐本氏は、国家権力が村落の末端まで浸透しえた事例として、この物語を理解することに反対ではなく、先の商鞅の変法の事例とともに、権力の下降によって、こうした「移風易俗」を引き起こしえたと捉えている(59頁)。
宰相の能力の有無を問う時も、「移風易俗」が引き合いに出され、そしてそれは神話の世界まで敷衍されたといい、「舜は苗民を却け、更にその俗を易う。」(『呂氏春秋』召類篇)という史料を引用する。この記載は「苗民」という非漢族に対する漢化を示唆しているとする(60頁)。
次に秦の始皇帝が5度にわたる全国巡行を挙行した目的を検討している。従来の学説としては、①中国古代の慣習との関連、②民間信仰の公認と、皇帝と人民の精神的一体感の樹立、③統一権力の正統化の主張と、「剛」ではなく「柔」の支配の実践が指摘されているが、桐本氏はこれらだけでは不十分と批判し、巡狩の目的として、「観風俗」と「移風易俗」を加えるべきであると主張している。例えば、「異俗を匡飾す。」(『史記』秦始皇本紀所載の琅邪台刻石)の一句の解釈をめぐって独自の見解を提示する。従来は、秦代の習俗が多岐にわたっていたことを強調し、始皇帝の奢り高ぶった心の投影にすぎないと解釈されてきたが、桐本氏は、秦内部の風俗を正そうとした点に目を向ける。秦の風俗のモザイク模様がどの程度、実際に統一されたかは明らかでないし、たとえ建前上ではあっても、始皇帝が領域内の習俗は一枚岩であると認識せざるをえないような、古代的な思考回路をもっていたことをこの一句から読み取ろうとする。
また『史記』に「遠方を周覧し、遂に会稽にのぼり、習俗を宣省するに、黔首は斎荘たり。(中略)皇帝は家の内外を防ぎ、隔てて淫泆を禁止せり。よって、男女間の道は清潔にして誠実なるものとなれり。」(『史記』秦始皇本紀所載の会稽刻石)とあり、始皇帝は会稽地方の男女間の習俗に不満をもち、それを改変したという。
ただ秦は短命に終わり、続く漢王朝については、「太僕王等八人は使いして風俗を行ない、(中略)万国斉同すべし。」(『漢書』平帝紀)とあり、「万国斉同」という点に注意を要する。
ここに記してある「万国斉同」の解釈については、桐本氏は異論を想定している。すなわち、「移風易俗」ないし「万国斉同」は特定の学派の手により誕生した特殊な思想であると思想史家は疑問を提出するのではないかという。それに対して、桐本氏は「移風易俗」は決して特定の学派の思想ではなく、法家、儒家、道家とともに主張しているとする。法家は、始皇帝に信奉されたので説明するまでもないが、儒家については、「民のその間に生ずる者は、俗を異にす。(中略)以て民の徳を興し、(中略)道徳を一にして以て俗を同じくす。」(『礼記』王制篇)を史料的根拠として明示する。
そして道家については、道家の色彩が強い『列子』湯問篇を引用している。湯王が夏革に中国を取り巻く周囲の国の状況を尋ねたところ、東方では営州もその先も、西方では豳の地もその先も中国と変わりがないと答えた記事がある。「万国斉同」は老荘家流には「万物斉同」という表現になるが、それを地理的に説明すると、「俗を一」にした世界となると桐本氏はいう。このように思想の流派を問わず、中国古代の為政者・知識人は、「移風易俗」の思想に支配されていたとみる(63頁~64頁)。
この考え方は現代にまで引き継がれて、文化大革命の時期における「破四旧」も例外ではない。「移風易俗」は中国史の底流を貫通し、古代から現代まで継続してきた思考のあり方であると主張し、今後このテーマが議論されることを促している(64頁)。
「移風易俗」は従来、日本人研究者が見落としてきたテーマである。中国史全体を通じて、社会史・思想史にまたがる大胆かつ本質的なテーマを問題提起しており、紙幅の関係のためか、立論が古代に限定されたのが残念であるが、今後、議論が古代以外でも深まることを期待したい。

4.山本英史「公牘の中の“良き民”と“悪しき民”――清代康熙朝の事例を中心にしてー」
山本氏は、地方官僚という中国の知識人が統治対象である「民」を、公牘とよばれる公文書集において、どのように描いたかを検証し、それにより、清朝の地域支配の本質を探ろうとしている(67頁)。
地方官僚の民衆認識としては、一般には、人民は「赤子」であり、皇帝は「民の父母」と観念されていた。地方官僚は、皇帝に代わり人民支配を体現する代官であったので、「父母の官」であり、「民の父母」でもあるとされた。つまり実際の父母が子供に愛情を注ぐように、地方官僚は「民」に慈悲をもって治めることが求められた。
ただ人民支配の対象となる「民」とは、体制を従順に受け入れる一般の民、すなわち“良き民”を意味していた。現実の世界には、従順でない「刁民」とよばれる“悪しき民”も存在していた。地方統治の指南書である官箴の1つの『福恵全書』において、黄六鴻はこうした“悪しき民”への対応のあり方を説いている。すなわち盗賊もまた「民」の範疇であるので、地方官僚は本来は”良き民“であった「民」にも父母の慈しみをかけるべきという理想主義的な主張をしている。しかしこうした建前や理想とはかけ離れた“悪しき民”も現実には存在した。地方官僚は現実の「民」に対してどのように認識し、建前と現実との落差をどのような論理で埋めようとしたのかを明らかにしようとしている(68頁~69頁)。
その際に、史料としては、盧崇興が著した公牘『守禾日紀』を用いる。盧崇興は江南デルタの浙江省嘉興府といった統治困難な土地で、1675年から1678年まで知府を務めた人物である。『守禾日紀』は、1739年の刊本で、1670年代といった康煕10年代中頃の嘉興府の地域社会の状況を詳細に伝えている。
まずこの史料を用いて、地方裁判の判決や上司への報告書である讞語の中に現れた“悪しき民”である「刁民」「者」「徒」「棍」について検討している。彼らは売った土地の租税を強奪し、誣告したり、妻を妾として嫁がせたのに、姦通と誣告したりした「民」である(69頁~74頁)。
次に士民に訓示を与えるために官署の門前に貼り出した公文書である告示の中に現れた“悪しき民”と“良き民”について検討し、ここから讞語と告示の特徴の相違を導き出す。すなわち讞語は“悪しき民”を一方的に処断したものであったが、告示はある程度の斟酌が加えられている。そして盧崇興以外の地方官僚経験者の告示をも検討している。例えば、李鐸(紹興府知府)の告示は、賭博・恐喝といった悪事を働く紹興府の無頼棍徒に対して、
「本来ならば、ただちに爾らを逮捕し重法に処すべきである。しかし教えずして誅するのは心に忍びない。不肖の子孫でも必ず父や師の厳しい訓戒によってなお改心する希望があるものだが、頑が朴に変わるのであれば、つまりは良民である。しばらく猶予を与えよう。このため示諭にて関係する地方人等に知らしめる。」とか、
「余は爾らの父母である。教えずして殺すのは忍びない。そこでまず、勧諭を示し、このため爾らに知らしめる。」という内容を含んでいた。ここにおいては、“悪しき民”に対しても、『論語』(堯曰篇)の「教えずして誅するのは之を虐と謂う」(岩波文庫、1963年[1994年版]、275頁)という常套句を持ち出して、訓戒によって反省・改心するように促す。
この傾向は、李鐸と同時代の戴兆佳(浙江の台州府天台県知県)の告示にも、「眼前にいるのはみな赤子であり、教えずして殺すには忍びない。そこで堯諭し、特別自新の路を開かせるべく、このため告示にて、すべての賊を匿う者たちに知らしめる。」とか、「余は民の父母であるからには、積悪を駆除して民害を消し去ることを誓う。ただ教戒を施さずして遽かに国法を正すは『法外に仁を施す』の意ではない。そこで特別に堯諭を行う。」という論法を持ち出す。つまり教えずして殺すのは忍びないとして、説諭、堯諭して、地棍(賊を匿うことを主とする)といった“悪しき民”を「民」へ取り込もうとしている。「頑が朴に変わるのであれば、つまりは良民である」として、条件によっては、「民」の範疇に入れることを示している。よく分を守れば良民であるが、分を守らなければ敗類であるとする。
また、張我観(紹興府会稽県知県)も、「若輩どもが果して已往の非を悟り、自新の念を芽生えさせ、悪を去って善に向かうなら、これは良民である。以後自戒して悪に染まらないようにせよ。」という。
山本氏は、李鐸、戴兆佳、張我観もともに、地方官僚の温情とも取れる訓告や説諭に実効力があったとは思わず、告示が頻繁に出されたことから考えれば、前非を悔い改めて新しい路を開いた“悪しき民”もほとんどいなかったと推測している。そして告示の主目的について、“悪しき民”もまた「民」であることを示し、「万民の父母」の立場を貫きながら、他方で積悪を取り除くために、“悪しき民”を処分する大義名分を得ることであったと山本氏は考えている。そして告示について、地方官僚が「父母の官」の立場から、「民」に対して方針を伝えるという性格をもった公文書であり、そしてその内容には理想と現実が入り混じっていたと捉えている。つまり、教えずして殺すのは忍びなかったにせよ、教えた後にでもなお「民」にならない者たちを誅するのは、心に迷いを生じないという認識傾向があった(74頁~83頁)。

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