隅田川神社

概要
隅田川神社は、東京都墨田区にある神社で、水神さんと親しまれてきました。
周辺は東白鬚公園となっています。
神紋・社紋

主祭神
速秋津日子神
(はやあきつひこのかみ)
速秋津比賣神
(はやあきつひめのかみ)
鳥之石楠船神
(とりのいわくすふねのかみ)
大楫木戸姫神
(おおかじきどひめのかみ)
創建
未詳
別名
浮島神社
浮島宮
水神社
水神宮
例祭
6月15日
略縁起
治承の頃、源頼朝が関東下向の折、暴風雨に遭い、当社に祈願したと伝えられていますが、御鎮座の年代は未詳です。
墨田の鎮守で、船頭や荷船仲間に広く深く信仰されていました。明治5年に隅田川神社と改称しました。
境内
社殿

鳥居


手水舎

神楽殿

境内社



石碑


水神の森跡

水神の森跡所在地 墨田区堤通二丁目17番1号 隅田川神社荒川下流のこの付近には、かつて浮島状の小さな森がありました。この森は、川を下ってきた人々にとっては隅田川の入口を知らせる森として、一方、川を遡上する人々にとっては鐘ケ淵の難所が近いことを知らせる森として格好の目印となっていました。また、この森には水神を祀る小社が古くからあり、特に舟運業にかかわる人々の信仰を集めていました。その水神社が、現在ここに鎮座する隅田川神社の前身です。社殿によれば、神社の草創事情は不明ですが、治承4年(1180)11月に源頼朝が暴風雨のなか隅田川を渡ろうとした時に安全祈願し、風波を鎮めたという伝説があります。また、嘉元年間(1303~06)に圓満院宮が隅田川を遊覧した際に立ち寄り、水神の梵字を書いて奉納下とか、戦国時代前期の江戸城主太田道灌が社殿を修造したなどという伝説もあります。江戸時代には、延宝年間(1673~81)に浅草山之宿・花川戸付近の人々が講を結んで水神祭を執行するようになり、これが元禄元年(1688)を境に数艘の舟渡御を伴う例大祭へ発展したとされています。また、宝暦九年(1759)には神輿を造営し、この時以来、6月の例大祭で神輿を供奉する舟が数艘くり出すようになったとも伝えられています。なお、水神社は、寛政9年(1797)3月に造立された石造りの小さな祠を本社としていましたが、文化年間(1804~18)を越えた頃には、今日見るような立派な木造の複合社殿が建てられるようになりました(現存する社殿は、安政江戸地震の後の再建です)。
墨田区登録有形文化財隅田川神社資料所有者 宗教法人 隅田川神社所在地 すみだ郷土文化資料館(寄託)水神社は元来神職無住の小社でしたが、明治元年(1868)11月に備中国小田郡矢掛村(現岡山県矢掛町)出身の矢掛弓雄(実名は朝倉二郎)が来往し、神事を司るようになりました。そして同6年6月に隅田川神社を正式の社号とし、かつて矢掛弓雄によって管理されていた多数の什物が伝来しました。それらの中には、矢掛弓雄が嘉永元年(1848)2月以降の京都遊学中に製作した各種絵巻物の写しなどがあります。また、矢掛自身が誂えた絵馬をはじめ、三種の神器や楽器、あるいは神社経営に関する帳簿や隅田川神社ほか周辺諸社の略縁起などもあります。さらに矢掛の文化活動の一端を示す資料もあり、中でも彼の手元に集められた当地の伝説に関する遺物などは、草創期の郷土史研究のありようを彷彿させ、注目されます。なお、矢掛弓雄には、幕府の禁裏付(幕府が朝庭監視の為に設置した役職)の下僚として勤務した時期がありました。また京都御所を警固中に禁門の変(1864)の勃発に接し、それ以後、あるいは水戸天狗党の鎮圧に向かう幕府軍に加わって敦賀(現福井県)へ赴いたり、あるいは鳥羽・伏見の戦いに出陣するなど幕末・維新期の激動を間近に目撃するような体験がありました。このため、什物の中には、そうした激変期の記憶を共有したと推定される福羽美静(ふくばびせい)、鈴木重嶺(すずきしげね)、本居豊穎(もとおりとよかい)、小杉榲邨(こすぎすぎむら)、 小中村 清矩(こなかむらきよのり)など、当時活躍した人々との交流を示す資料も散見します。これら隅田川神社の什物は、「隅田川神社資料」763点として、平成31年3月8日付けで墨田区登録文化財に登録されました令和3年9月 墨田区教育委員会
住所
東京都墨田区堤通2-17-1
アクセス
東武伊勢崎線 鐘ヶ淵駅
徒歩10分
最後に
静けさの漂う境内には、すっきりとした気が流れていたように感じました。
その境内には、アンカーが置かれていました。古くから船頭や荷船たちに信仰されてきたことがよくわかりました。

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参考
Wikipedia
東京都神社庁HP