日本書紀 巻第二十四 天豊財重日足姫天皇 四
・皇極天皇元年4月の出来事
夏四月八日、
太使の翹岐(ぎょうき)は、
従者をひきいて朝拝しました。
十日、
蘇我大臣は、
畝傍の家で、
百濟の翹岐等を喚(よ)びました。
自ら相手と向き合い言葉を交わしました。
なお、
良馬一匹・鐵二十鋌を賜りました。
ただ塞上(さいじょう)は
喚(よ)びませんでした。
この月、
霖雨(りんう)となりました。
五月五日、
河內国の依網屯倉(よさのみやけ)の前で、
翹岐等を召して、
射獵(しゃりょう)を観させました。
十六日、
百濟国の調(みつき)の使の船と
吉士(きし)の船が、
倶(ともに)難波津に泊まりました。
(おそらく吉士は前に使を百濟に奉じたのではないか)
十八日、
百濟の使人が
調を進(たてまつ)りました。
吉士が服命(ふくめい)しました。
二十一日、
翹岐の從者が一人、
死去しました。
二十二日、
翹岐の子が
死去しました。
この時、
翹岐と妻は、
子が死んだことを
畏忌(いき)し、
喪に臨むことを
果たそうとはしませんでした。
およそ百濟・新羅の風俗は、
死亡した者が有ると、
父母兄弟夫婦姉妹といえども、
自ら看ることがありません。
これを観ると、
甚だ慈(いつく)しみが無く、
どうして、
禽獸と別といるでしょうか。
二十三日、
熟した稲が見られ始めました。
二十四日、
翹岐はその妻子をつれて、
百濟の大井の家に移しました。
乃ち、
人を遣わして、
子を石川に葬らせました。
六月十六日、
微雨(びう)となりました。
この月、
大いに旱(ひでり)となりました。
・翹岐(ぎょうき)
百済の王子
・塞上(さいじょう)
百済王の子で豊璋の弟
・霖雨(りんう)
幾日も降り続く雨。ながあめ
・射獵(しゃりょう)
弓矢を用いて狩猟をすること。 また、その狩猟
・服命(ふくめい)
命令を受けた者が、その経過や結果を報告すること。復申
・畏忌(いき)
おそれ忌む
・微雨(びう)
わずかにふる雨。こさめ
(感想)
(皇極天皇元年)
夏4月8日、
太使の百済の王子・翹岐は、
従者を率いて朝拝しました。
10日、
蘇我大臣は、
畝傍の家で、
百濟の翹岐らを呼びました。
自ら相手と向き合い言葉を交わしました。
なお、
良馬一匹・鐵二十鋌を与えました。
ただ塞上は呼びませんでした。
塞上は、
百済王の弟で日本在住。
『いつもひどいことする』と、
百済王が臣下に愚痴を言っていました。
蘇我大臣も呼ばなかったとは、
よほどの悪名高い人物だったのですかね。
この月、
幾日も雨が振り続けました。
5月5日、
河内国の依網屯倉前で、
翹岐らを呼び出して、
射獵を見学させました。
16日、
百済国の調(みつき)の使者の船と
吉士の船が、
ともに難波の港に停泊しました。
(おそらく吉士は前に使を百濟に奉じたのではないか)
18日、
百済の使者が調を献上しました。
吉士が服命しました。
21日、
翹岐の從者が一人、
死去しました。
22日、
翹岐の子が死去しました。
この時、
翹岐と妻は、
子が死んだことを
おそれ忌みし、
喪に臨むことを
果たそうとはしませんでした。
およそ百濟・新羅の風俗は、
死亡した者が有ると、
父母兄弟夫婦姉妹といえども、
自ら看ることがありません。
これを観ると、
甚だ慈しみが無く、
どうして、
禽獸と区別できるでしょうか。
23日、
熟した稲が見られ始めました。
24日、
翹岐はその妻子をつれて、
百済の大井の家に移しました。
この時、
人を派遣して、
子を石川に葬らせました。
6月16日、
小雨となりました。
この月、
大いに旱(ひでり)となりました。
この条。
やたらと、
百済のお話が多いですね。
さて、
翹岐の従者と子どもが亡くなっていますが。
何故亡くなったのか、
詳しい事情が記載されていません。
立て続けに亡くなったとなると、
流行り病が原因でしょうか。
"およそ百濟・新羅の風俗は、
死亡した者が有ると、
父母兄弟夫婦姉妹といえども、
自ら看ることがありません。"
とあります。
親子でも看ることがない。
風習の違いとはいえ、
なんだか、悲しくなりますね。
そして、
異常気象が続いているようです。
気になります。
明日に続きます。
読んでいただき
ありがとうございました。
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