第十四代・仲哀天皇
(ちゅうあいてんのう)
生没年?~200(享年?歳)
在位年192(?歳)~200(?歳)
別名
足仲彦尊
(たらしなかつひこのみこと)
帯中日子天皇
(たらしなかつひこのすめらみこと)
父
日本武尊
(やまとたけるのみこと)
母
両道入姫命
(ふたじいりひめのみこと)
配偶者
皇后・気長足姫尊
(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)
妃・大中姫(おおなかつひめ)
妃・弟媛(大酒主の娘)
子
誉田別命(ほむたわけのみこと、応神天皇)
麛坂皇子(かごさかのみこ)
忍熊皇子(おしくまのみこ)
誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)
略歴(日本書紀の伝えより)
足仲彦天皇は、
日本武尊の第二子です。
母の皇后は、
垂仁天皇の娘で両道入姫命といいます。
天皇は容姿が端正、身長は十尺。
成務天皇48年、
成務天皇は男の子がいなかったので、
皇太子に立ちました。
時に、年は三十一歳
成務天皇60年、
成務天皇が崩御しました。
翌年、9月6日、
成務天皇を
倭国の狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)に
葬りました。
仲哀天皇元年1月11日、
太子が天皇位につきました。
9月1日、
母の皇后を尊んで皇太后としました。
11月1日、
仲哀天皇は、
弱冠及ばない時に、父王が崩御した。
神霊は白鳥となり、天に上ってしまった。
仰望の情は止まない。
白鳥を捕えて、
陵域(みささぎのめぐり)の池で養いたい。
その鳥を見て、顧情を慰めたいと思う、
といいました。
そこで諸国に令をして、
白鳥を献上させました。
閏11月4日、
越国が白鳥・四羽を献上しました。
しかし、使いが、菟道河(うじ)の辺に
泊まっていたところ、
蘆髪蒲見別王(あしかみかまみわけのおう)が
その白鳥を見て、
白鳥といえども、
焼いてしまったら黒鳥になる、といい、
強引に白鳥を奪って、
持ちさってしまいました。
天皇はこの事を聞いて、
蒲見別王が、先王に無礼だったのを憎み、
すぐに兵卒を派遣して誅殺しました。
蒲見別王は、天皇の異母弟でした。
仲哀天皇2年1月11日
気長足姫尊を皇后に立てました。
これよりも先に、
叔父・彦人大兄(ひこひとおおえ)の娘、
大中姫を娶り妃としました。
麛坂皇子、忍熊皇子を生みました。
次に来熊田造(くくまたのみやつこ)の祖の
大酒主(おおさかぬし)の娘、弟媛を娶り、
誉屋別皇子を生みました。
2月6日、
角鹿(つぬが)に行幸し、
行宮(かりみや)、笥飯宮(けひのみや)を
建てて滞在しました。
3月15日、
皇后及び百寮を笥飯宮に留めて、
仲哀天皇は南国を巡狩しました。
紀伊国(きのくに)に到着し、
徳勒津宮(ところつのみや)に滞在中、
熊襲が叛逆し朝貢しませんでした。
天皇は、熊襲国を討とうとしました。
すぐに徳勒津を出発し、
海に穴門(あなと)に行幸しました。
その日、使を角鹿に派遣して、
皇后に、穴門で逢おう、
と詔を出しました。
6月10日、
天皇は、豊浦津(とゆらのつ)に停泊しました。
9月、
穴門に穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)
を興して滞在しました。
仲哀天皇8年1月4日、
筑紫に行幸しました。
この時、岡県主の祖である能鰐(わに)が、
天皇の行幸を聞き、
周芳(すわ)の沙麼(さば)の浦に
参って迎えました。
魚塩(なしお)の地を献上し海路を導きました。
山鹿岬から廻り込み、岡の浦に入りました。
水門(みなと)に到着しようとすると、
御船は進むことができませんでした。
そこで、天皇は熊鰐を疑いましたが、
熊鰐は、船が進まない理由は、
この浦の神、
大倉主(おおくらぬし)と菟夫羅媛(つぶらひめ)
の神の心のせいでしょうと答えました。
そこで、天皇はすぐに祈り、
船頭で倭国の菟田(うだ)の人、
伊賀彦(いがひこ)を神官として祭らせました。
すると船は進むことができました。
また、筑紫の伊覩(いと)の県主の祖、
五十迹手(いとて)は、天皇の行幸を聞いて、
穴門の引島に迎えに参じて、献上しました。
天皇は五十迹手を褒め、
伊蘇志(いそし)といいました。
故に、五十迹手の国を伊蘇国(いそのくに)と
呼びました。
伊覩(いと)というのは訛ったからです。
21日、
儺県(なのあがた)に到着し、
橿日宮(かしひのみや)に滞在しました。
9月5日、
熊襲を討つことを議論しました。
この時、皇后に神懸かりして、
栲衾(たくぶすま)の新羅国という
宝の国がある。
吾を祭るなら、刃を血で濡らすことなく、
その国は必ず自ずと服するだろう。
また熊襲も服する。
祭るには天皇の御船及び、
穴門直践立(あなとのあたいほむたち)が
献じた水田、これらを供え物とせよ、
と神託しました。
しかし、天皇はこの神の言葉を聞いて、
疑い、強いて熊襲を攻撃しましたが、
勝つことができずに還ってきました。
仲哀天皇9年2月5日、
天皇は急に病気になり、翌日崩御しました。
この時五十二歳。(『古事記』も同じ歳)
神の言葉を用いなかったので早く崩じたと。
一伝では、天皇は自ら熊襲を撃って、
賊の矢に当り崩じたと、伝えています。
そこで皇后と大臣・武内宿禰は、
天皇が崩御されたことを隠し、
天下に知らせませんでした。
そして、豊浦宮(とゆらのみや)で
明かりもともさずに葬儀を行いました。
神功皇后摂政2年11月
惠我長野西陵に葬られました。
日本書紀
皇居
『日本書紀』では、
行宮(かりみや)のみが記されています。
・角鹿の笥飯宮(けひのみや)
・紀伊国の徳勒津宮(ところつのみや)
・穴門の穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)
・筑紫の橿日宮(かしひのみや)
陵
惠我長野西陵
(えがのながののにしのみささぎ)
祀る神社
香椎宮(福岡県福岡市)
八幡神社(東京都北区)など
仲哀天皇・年表
148年?・成務天皇18年?(0歳)
誕生?
178年・成務天皇48年(31歳?)
皇太子に立ちました。
190年・成務天皇60年(42歳?)
成務天皇が崩御
191年・翌年(43歳?)
9月6日
成務天皇を倭国の狭城盾列陵に葬る
192年・仲哀天皇元年(44歳?)
1月11日
即位
9月1日
母の皇后を尊んで皇太后とする
11月1日
諸国に令をして、白鳥を献上させる
閏11月4日
蘆髪蒲見別王が献上の白鳥を奪う。天皇は兵卒を派遣して蘆髪蒲見別王を誅殺する
193年・仲哀天皇2年(45歳?)
1月11日
気長足姫尊を皇后に立てる
2月6日、
角鹿の笥飯宮を建てて滞在。
淡路に屯倉を設ける
3月15日、
紀伊国、徳勒津宮に滞在中、熊襲が叛逆。
親征に出発する
6月10日、
豊浦津に停泊
9月
穴門に穴門豊浦宮を興して滞在
199年・仲哀天皇8年(51歳?)
1月4日
筑紫に行幸
大倉主と菟夫羅媛を伊賀彦に祀らせる
21日
橿日宮に滞在
9月5日
皇后が神懸かりして、
新羅国に遠征するよう神託する
強いて熊襲を攻撃。敗北して帰還
200年・仲哀天皇9年(52歳?)
2月5日
天皇は急に病気になり、翌日崩御
(享年、五十二歳。(『古事記』も同じ歳)
豊浦宮で葬儀を行う
202年・神功皇后摂政2年
11月
惠我長野西陵に葬られた
略歴・年表は、
日本書紀を参考に作りました。
新しい知識を得た場合
随時更新予定です。
ランキングに参加中。励みになります。
ポッチっとお願いします。