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=電線の鳥blog=「今日もどっちつかず」

 一般的にどうなのか、みたいなことは、結局、重要なことではない~チップ・エクトン

レナード・コーエンは歌が下手なのか

2006年11月10日 | ソングブック・ライブ
 mixiのコミュニティに参加したのを機に「 More best of … 」をアマゾンで購入した。
 人物系のコミュニティは、複数あって迷うことがあるが、ひとつだけで、迷いようがなかった。
 コーエンの作品はアマゾンでもほとんど在庫切れで、入手が難しい。
 マーケットプライスでも、かなり高値が付いている。
 レビューも少ない。
 その中で、「歌が下手だ」という趣旨の評があった。(「哀しみのダンス」に寄せられたレビューで、
全体的には肯定評価)
 タイトルは疑問系にしてみたものの、たしかにレナードは歌が下手だと思う。
 で、どのように下手なのかを考えるために、いくつか自分で歌ってみて気付くことがあった。

 まず「 Best of … 」に比べて、声がすごく低くなっている。
 自分が一番気持ちよく出せる音域ってあるでしょう?
 それよりも低めの音域で、その分呼気を強め声帯を絞らずに歌っているようだ。
 フランス語の発声に近く、彼はモントリオール生れで、英語を話す家族は周囲にいなかったというから、
その影響があるのではないかと思う。
 …ま、これは根拠の薄い想像です。

 次に、リズムに乗れていないこと。
 少なくとも、インテンポで歌うことは放棄しているといってよい。
 「 More best of … 」には「スザンヌ」と「ハレルヤ」のライブ演奏が収められている。
 「スザンヌ」を世に紹介したのは、ジュディ・コリンズで、清冽このうえない歌唱法だ。
 ついでに書くと、この人は見た目も修道女顔。
 この曲はほんとうに色々なアーティストが取上げていて、フェアポート・コンベンションも
カバーしているが、最初の裏拍を4分音符で長く取り、拍子を明快に処理している。
 一方、コーエン自身のライブは、呻吟というか、これって念仏?みたいな今にも止りそうなテンポだし、
語句は音符からこぼれまくりである。
 元々のスタジオ演奏も、相当にテンポが揺らいでいる。

 「ハレルヤ」にしても同様のことが言える。(但し、この曲のオリジナルは未聴)
 カバーでは、ジョン・ケイルがピアノだけで歌っているバージョンを持っている。
 (「 I’m your fan 」所収)
 端正で、ジュディ・コリンズが修道女なら、こちらは神学校の音楽教師のようである。
 コーエンの歌唱は、曲のリズムと、単語や語句が持つリズムがせめぎあっているかのようで、
多くの場合で後者が優先されている。
 とにかく一語一語を噛みしめるように歌っているのだ。
 このことは、彼が詩人であることと関係があると思う。

 そして重要なことは、彼の書くメロディの骨格はとてもポップだということだ。
 「 I’m your fan 」のようなコンピレーション盤や、ジェニファー・ウォーンズのカバーアルバムを聴くと、
それが実に良く分る。

 メロディに内在するポップネスを蹂躙する歌唱。

 それが、レナード・コーエンの「下手さ」の中身だと思うが、どうだろう。

一刻一秒~フィオナ・アップル

2006年10月09日 | ソングブック・ライブ
 フィオナ・アップルが6年ぶりにアルバム「エクストラオーディナリー・マシーン」を発表し来日する。

 私は彼女の2作目の「真実」を永く聴いてきた。
 「真実」というのは邦題で、原題は一編の詩であり、おそらく史上最も長いアルバムタイトルだろう。

  戦場に赴く歩兵は
  王様のように考えるの
  戦いの中では
  知識こそがとどめをさせるから
  そして彼はリングに上がらずとも
  既に勝利を手に入れているわ
  知性を武器にしたとき
  叩きのめす相手など存在しないのだから
  だから独りで歩き出すときには
  自分を信じて
  自分を深めることだけが、頂上へ導いてくれるのだと覚えていなさい
  そして自分が何処に立っているかを分っていれば
  何処に向かえばいいのかも分かるはず
  もしも途中でつまづいたとしても、大したことじゃない
  だってあなたの中にこそ“真実”はあるのだから
  (訳者不詳)

 M7が「一刻一秒」。加藤和彦さんが選曲していたラジオ番組で耳を奪われた。
 恋人に対して「私から一秒でも早く逃げて」と訴えるラブソングで、不安をかき立てるピアノのオープニングと祈るように歌い上げる中間部の対比が見事である。
 コミュニケーションへの渇望と絶望について歌われているのでないかと思う。
 ロッキングオン10月号の中村明子さんのテキストによると、彼女は本作発表当時、ニューヨークでの
コンサートの途中「もうこの曲(どの曲かは明らかにされていない:電線註)は死んでいるの…悪夢だわ」とステージ上で泣き出してしまい、結局ライブは中断されてしまったという。
 このエピソードから、エキセントリックな女性を想像してしまうかも知れない。
 しかし、決してそんなことはなく、おそらく過剰に誠実なだけなのだと思う。
 ファーストアルバムのスリーブに写る彼女の顔は、今よりも痩せて、「リバーズエッジ」(岡崎京子さん)の登場人物そっくりだ。

 18歳でデビューし10年間で3作と寡作な人で(今回は行けないが)いつかライブで接してみたい。

 〔公演日程〕
 10月10日(火)19:00 名古屋クラブクアトロ
    12日(木)19:00 心斎橋クラブクアトロ
    13日(金)19:00 東京国際フォーラムC
    14日(土)17:00 東京国際フォーラムC

バート・ヤンシュと陸上部

2006年09月14日 | ソングブック・ライブ
 ~ポケットに
    手を突っ込んでいる
             陸上部~

 ブリティッシュ・フォークを聴くと、
 この俳句を思い出す。

 この句は、いとうせいこうさんがホストの教育番組で紹介されていたもので、季語がない。
 といって、もちろん川柳でもない。
 同番組で知ったが、芭蕉は「季語がなくってもいいじゃないか」みたいなことを書いていたそうだ。
 作者はたしか高校生だったか。いい句だよな。

 陸上部員には大人びた雰囲気がある。
 団体球技と違い、自分と向き合う時間が長いからなのか。
 ぽつんと佇んでいるのは、短距離走や投擲系よりも長距離走や跳躍系の男子部員だろう。
 ま、本当のところは分らない。

 ジミー・ペイジは尊敬するギタリストにバート・ヤンシュの名前を挙げているそうだ。
 レッド・ツェッペリンをある程度聴いた人がペンタングルやヤンシュのソロ作品に接したら、影響を
感じとれると思う。
 たとえば「Ⅲ」に収められているアコースティックな楽曲群などに顕著だと思うがどうだろう。
 超絶的にギターが上手い人なのに、演奏スタイルは至ってさりげなく、モデストなものだ。

 この盤は、ペンタングルの僚友ジョン・レンボーンと作ったもので、ジャケットが面白い。
 私が見ても分るくらいのヘボな碁を打っているのだ。
 左側に座っている黒番がバートである。
 留守番電話が出始めた頃、私はメッセージのBGMに2曲目の「Piano tune」を流していた。
 当時は新しかったから、みんな色々工夫していたんだよな。
 「バート&ジョン」~1965年の作品です。

ウクライナ国歌

2006年07月19日 | ソングブック・ライブ
 W杯で、たまたまウクライナの試合を観ていて印象深かった。
 もう一度聴いてみたくなり、世界の国歌を集めたCDがないかと探してみると、ちゃんとある。
 録音が新しいことと曲数(国数)の多さから「世界の国歌~World Anthems」(小沢征爾指揮:新日本
フィルハーモニー交響楽団)を購入。

 改めて聴いてみても、とても良い曲である。
 どこか民謡風で(言い換えれば適度に通俗的で)哀感がある。
 短調の国歌というのは少数のようで、それも耳に残った一因かも知れない。
 解説によれば、この曲は1864年にウクライナ劇場で聖歌として発表され、1917年に承認されたが、
その後ウクライナがソビエト連邦の構成国となったので、1993年まで使用されなかったそうだ。
 76年の間、ひそかに歌い継がれていたのか、それは知らない。
 ともかくドイツW杯ではこの曲が5回、スタジアムに流れたことになる。

 このCDには全67曲が収められていて、内訳は以下の通り。
  ・東アジア=5カ国
  ・西アジア=5カ国
  ・NIS諸国=10カ国(New Independent States:旧ソ連邦からの独立国家群)
  ・東ヨーロッパ=15カ国
  ・西ヨーロッパ=20カ国
  ・アフリカ=2カ国
  ・北中アメリカ=5カ国
  ・南アメリカ=3カ国
  ・オセアニア=2カ国
 地域に著しい偏りがある理由は簡単で、この盤は1998年の長野冬季オリンピックで使用したものを
編集したものだからだ。これは買ってから知ったこと。
 先のW杯出場国は22曲入っている。(但し、マケドニア旧ユーゴスラビアがセルビア・モンテネグロと
同一曲だとしたら23曲)

 ところで今日、駐車場で30分ほど待機時間があったので車内で聴いていたら、通りかかった人に
怪訝そうな顔をされてしまった。
 暑いので、窓を全開にしていたのである。
 別に国歌マニアではないのだが…少し変な人に見えても仕方がなかったか。

水晶の舟

2006年05月24日 | ソングブック・ライブ
 オルダス・ハクスリーは長身痩躯で弱視であり、
家の中を壁伝いに移動する姿から、
子どもの頃は「オージー(怪物)」とあだ名されていた。
 シェルドンが考案した各人の構成要素を数量化する方法によれば、
消化器系は最低、筋骨系はほぼ最低、神経系は最大であった。
(鶴見俊輔「ハクスリーの日本文化」より筆者要約)

 私の知る限り、ハクスリーの著作から採ったバンド名は2組。
 イギリスのネオ・アオースティック・デュオ、アイレス・イン・ギャザ(ギャザに盲いて)と、60年代後半に
ロスアンジェルスを中心として活躍したザ・ドアーズである。
 ハクスリーはメスカリンを自らに処方し、その体験を「知覚の扉」という報告にまとめた。
 もうひとつウィリアム・ブレイクの詩からもインスパイアされているという。
 などと勿体ぶって書いてはいるが、私がドラッグについて語れるわけもない。
 昨晩、オリバー・ストーンの映画が製作された当時のテキストを読み返してみたけれど、ジム・モリソンの逸脱行動には別段心を動かされなかった。
 
 結局残るのは音楽である。
 
 ロック史上最も衝撃的なファースト・アルバムはレッド・ツェッペリンのそれだろうか。
 ファースト・アルバムにはバンドの勢いや個性がはっきり顕れるが、一方荒削り、というのが相場だと
したら、ドアーズのファーストは異様なまでに完成度が高い。
 音数は少なくドライブ感があり、引き締まってだれることがない。曲中のメリハリも素晴らしい。
 ビートを牽引しつつリードを奏でるのはレイ・マンザレックのオルガンで、ベースがいない。
 ドラムにジョン・デンズモア、ギターがロビー・クリューガー。ジムは楽器を担当しない。
 これはロックバンドとしては、かなり特異な楽器構成だ。
 曲を書かない詩人タイプのヴォーカリストというと、モリッシーが思い浮かぶが、ジム・モリソンの詩には
彼のようなひねくれたユーモアはなくて、イメージの鮮烈さが特徴である。
 何というか、思わせぶりや曖昧さがないのだ。
 表題はアルバム中でも好きな曲だ。タイトル通り、完璧な言葉とメロディーを持っていて、題材はドラッグのようでもあり臨死体験のようでもある。
 冒頭と後半部分を引こう。(訳:今野雄二)

  ♪君が無意識の世界に滑り込んでいく前に
   ぼくはもう一度キスしたい
   もう一度のキス、それは至上の喜びの一瞬の閃き
   毎日が光り輝きながら苦痛で満たされる
   ぼくを君のやさしい雨の中に抱きしめてほしい
   君はそぞろ歩きしながらまた会いましょう、と言ったのだ
   (略)
   水晶の舟は満ちあふれ
   千人の少女たち、千回のスリル、百万もの時の過ごし方でいっぱいになる
   (略)

 以前、近所の小学校から「ハートに火をつけて」をピアニカとリコーダーで合奏する音が聞こえてきて
驚いたことがある。
 面白い教師だが、英語の授業と合同でやったらどうか。
 多くは脚韻を踏んでいるので英詩の勉強にもなる。
 「ハートに火をつけて」の原題「Light my fire」にしても実にシンプルで美しいワードである。
 他、曲タイトルの一部をあげると、
  ☆反対側に突き抜けろ(Break on through to the other side)
  ☆ソウル・キッチン(Soul kitchen)
  ☆20世紀の狐(Twentieth century fox)
  ☆終焉(The end)
 そして
  ☆水晶の舟(The crystal ship)
 ジム・モリソンの用いる言葉は、激しく重く、同時に平易で端正なのだった。