直前の投稿は、筒井康隆さんの読者なら誰でも知っているはずの「バブリング創世記」を模して書きました。
常々「ブラジル出身のサッカー選手は似たような名前が多いな」と感じていたことから
思いついたもので、パロディというほどのものでもありません。
ところが投稿してからウェブで調べたところ、この作品はどうやら新刊では入手しづらく
なっているようなので、ここで簡単に解説します。(カテゴリー不連続)
といっても、私も古本屋で処分してしまっています。(本は売るものではありませんね。)
図書館に行く時間が無いので、かなりの部分を記憶に頼ります。後日、テキストが入手
出来たら追補の投稿をするかも知れません。
ご了承下さい。
この小説は、3つの要素で成り立っています。
1 ジャズ・ボーカルの表現であるバブリング。
2 聖書のパロディ。
3 日本語の音としての快感原則の追求。
1のジャズについては無知ですが、バブリングはスキャットによるインプロヴィゼーション(即興)で、ある言葉(意味は無くてもいい)から音韻的に想起される言葉(音)をリフレインしながら次々に展開させる表現手法と理解しています。
本作ではたしか「ドンドン」→「ドンドコ」から始まっていた記憶があります。
2は、たまたま手元に聖書がありました。
「ドンドンはドンドコの父なり。ドンドンの子ドンドコはドンドコドンを生めリ…」と延々続く
書き方は、旧約の「創世記」にも類似の記述があるのですが、新約の「マタイ伝福音書」の冒頭に拠ります。
引用します。
「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。
アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟を生み、
ユダ、タマルによりてパレスとザラとを生み…(略)…エッサイ、ダビデ王を生めリ。…」
と、これまた延々とイエスが生れるまでが記されます。
話がそれますが、クリスチャンでない人(私もそうですが)も「諸人こぞりて」という賛美歌はご存知でしょう。「♪主は来ませリ」というアレなんですけれど、この「~~り」という書き方って何となく面白い。
「我、奇襲に成功せり」は真珠湾攻撃の電文でしたか、ですから聖書の専売特許ではありませんが、聖書の文語訳と結びついている印象があります。
実際、聖書って可笑しいんですよ。
凡例からしていきなり「引照に用ひたる各書の略書名は目次中に示せり。」ときます。
別に凡例は口語で良さそうなものなのに、「~~り」で締めないといけない決まりでもあるのかなあ。威厳と格調を出したいにしてもやり過ぎです。
もしかしたら筒井さんも、可笑しみを感じたかも知れません。
余談が長くなりました。
で、本作は聖書に平仄を合わせるように、最後は神だったか信仰だったかが誕生して
締めくくられます。
ただ、これに余り深い意図を読み取る必要はないように思います。
というのは「バブリング創世記」の眼目は3であると考えるからです。
本作の初版は1978年、徳間書店から発行されています。高校からの帰宅途中、ふと
書店で立ち読みした私は、そのまま笑いが止まらなくなり、肩をビクビクさせながらも、最後まで読み続けずにはいられませんでした。
脳の言語中枢に快感を感じる能力があることを、私はその時知ったのです。
当時筒井さんは、これまた当時新進気鋭のジャズ・ピアニスト山下洋輔さん達と交流があったはずです。(こうした人脈の中に赤塚不二夫さん達もいて、そこにタモリが登場するわけですが、これらは後に知ったことです。)
山下洋輔トリオは、曲のタイトルに無頓着で「あれ演ろう」「これ演ろう」で済ませていた
そうですが、他には「グガン」という曲があったりして、それは、
♪グガン グガン パトトン グガン タパトトン (そう聴こえる)
と始まるから、という、いい加減なもので…。
かように日本語は擬音・擬態の造語能力に優れています。
「ひでぶ」「あべし」(北斗の拳)などは、一つの到達点と言えるかもしれません。
筒井さんは、バブリングと聖書の結構を借りて、その能力を最大限快感方向に使う言語実験に成功し、被験者である私に絶大な効果をもたらしたというわけです。
ですから、私の投稿のように「意味で落とす」部分は、各章の末尾と途中に散見されるくらいで、読者はとにかく音のリズムと発語の快感に身を委ねればいい。
これこそ「声に出して読みたい」傑作と言えるでしょう。
註:文中の聖書は1980年版「日本聖書協会」発行のものです。