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ラムズ・スタディ

聖書の神様のこと、みんなで学び、同じ目標を確認できたらホントすばらしい。

鈴木陽子さんの信仰告白

2008-09-01 17:11:22 | メッセージ

今週、8月26日、鈴木陽子さんが、ご自宅で信仰告白をなさいました。
陽子さんは昨年、胃がんの手術を受け、このところ、身体の具合がおもわしくなく、ご希望されていた教会でのバプテスマを断念されました。その代わりにご自宅で信仰告白をすることになりました。
ご自宅の信仰告白には、陽子さんの妹様と、教会員の小林美智さんと枝野優子さんがご同席くださいました。
ご本人からのメッセージをお読みください。


教会員の皆様
今日、私はやっと皆様の仲間に加えていただくことができました。
教会で皆様の前でバプテスマを受けたかったのですが、胃がんの再発のため身体が弱り、外出できなくなりました。そのため、自宅で藤田牧師より信仰告白の式をしていただきました。
今までできなかった決心が叶えられて、深い平安をいただくことができました。
皆様のお祈りを心より感謝いたします。
平成20年8月26日  鈴木陽子


鈴木陽子さんは、教会員の小林美智さんと幼なじみで、これまでずっと親しくお交わりを続けてこられました。
小林宅での小グループに、頻繁にご出席くださり、大阪センター教会には鴨田牧師のときから、ことあるごとに、出席されています。
幼なじみの小林美智さんにも、お言葉をいただきました。


この度の鈴木陽子さんの信仰告白は、天においても、地においても、もちろん、長く友情を深めてきた私にとっても大きな喜びでした。そしてまた、神様のお働きを確かに仰がせていただきました。
私の信仰は、鈴木さんのお母様を通して、そしてお母様の親友のクリスチャンのご夫妻を通して、その基礎が育まれました。そして今、その時に導いてくださった同じ神様が、お母様が亡くなられてから45年たった後、愛しい娘さんの陽子さんをしっかり引き寄せてくださいました。
私はときどき「自分はこの素晴らしい信仰を誰にも伝えることができないのではないか?」「まわりの方々には、この信仰がなかなか理解していただけないのではないか?」と思うことがありました。
しかし、神様はそのようなときでも、私たちの知らないところで着実に働いておられることがよくわかりました。神様に従い、賛美をもって生きる私たちの毎日は、必ず神に栄光を帰すことできるのだと。それがいつか分からない将来であっても、生きて働かれる神様には確かな希望があること、その希望は決して失望に終わることがないことを知ることができました。
小林美智


 主の御名を心から讃美いたします。


大阪 藤田昌孝
No.618,08,8,30.大阪センター教会牧師室便りより


クラシックカー

2008-08-25 14:07:35 | メッセージ


評論家の川北義則さんが、その著書の中で、次のようなことを書いていました。

「経済評論家の森永卓郎さんが同じようなことをいっている文章にぶつかった。『日本の大衆車は、たとえば八年落ちだと、価格がただになるんです。ところがフェラーリーなんかは百年落ちが百一年になっても、価格が下がらない。人間も同じですよ。年をとって、単なる中古車になるか、クラシックカーになるかで、致命的な勝ちが分かれていくんですね』・・・
 日本の車は性能もいいし、デザインも立派になったが、それでも世の中にはロールスロイスがいい、ベンツがいいという人間がいる。この差は何かというと、作り手のこだわりの差ではないか。
 日本車は自動車メーカーの販売戦略もあって、われわれはマイカーを次々と新車にしていった。これはいってみれば使い捨ての発想である。これに対してクラシックカーになった車は、手塩にかけてじっくりと造られているのである。
 この違いを人間にあてはめると、世の中の流行を追いかけていくような人間はきっとダメなのだ。世の流行を注視しつつも、ときどき立ち止まって『これでいいのか』『本筋を外れていないか』と自問自答し、頑固に本物を目指すような無骨さを失わない。そういう生き方をすれば、味のある人間になれるような気がする」(『40歳から伸びる人、40歳で止まる人』44-45)。

 なるほど、私たちの人生がこの世の必要にただ応えてゆくだけのものであるならば、私たちはやがて老いて、新しい人にとって代わられるだけかもしれません。
 しかし幸いなことに、私たちの人生は神様に愛され、手塩にかけて育まれています。この世の命の尽きるまで、主に愛され、神様の栄光を表すことがゆるされています。キリストに似た品性へと養われながら、まさにクラシックカーとして生かされているのだと思います。
 そして、イエス様がもう一度お越しくださるときには、完全な姿に再創造され、主とともに永遠に生かされるのです。

先週8月14日、以前私たちの教会員であられました足立シズエさんが、お眠りにつかれました。翌日ご家族のみで告別式がなされました(私は16日のお礼拝後に知らされました)。
 そのことについて書かれた神戸有野台教会の主任牧師の花田憲彦牧師のブログを信徒の方からご紹介されました。次のような内容です。

昨日、教会員のSさんがアドベンチスト病院で亡くなられ、今日、小さな告別式をご家族と一緒に行いました。

96歳の大往生。

故人が大切にしておられたという歌がありました。

「神佳(よし)と 思給(したも)う時に召し給(たも)ふ 
万歳をもて 見送れ子等よ」

Sさんのこの世での命が、今この時に神様によって召されたことを信じます。
そこには私たちの理解や想像をはるかに超えた
神様の深い愛の故の計画があるはずです。
だから、万歳をもって私を見送って欲しいと望まれたSさんの信仰に応えて、
葬儀で喪主様が万歳三唱を導かれました。
内村鑑三の時のように・・・。

葬儀で万歳三唱をしたのは、私は初めての経験でしたが、
本当に感動的でした。

万歳をもって見送られる人生・・・。

そんな生き方を私もしたいと思いました。


大阪  藤田昌孝
(No.617,08,8,23.大阪センター教会牧師室便りより)


脱!ぐったり疲労

2008-08-21 21:10:52 | メッセージ

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイによる福音書 6:33-34)


今、夏休みの方も多いと思います。週休二日制も定着し、ゴールデンウィークや夏休みもあり、以前の働きすぎが指摘されたころに比べ、休日は、増えたように思います。
しかし、現代人の多くは、どこか疲れているようです。その疲れは、スポーツの後のようなさわやかな疲れではありません。体の芯にぐったり残るような疲れ、いわば、精神に残るような疲れです。

財団法人労働科学研究所の小木和孝所長は、「適度な疲労は、生活の塩。なくてはならないメリハリであり、そろそろ休みなさいという信号です。一方、ぐったりした疲労感は、もうこれ以上の無理はだめという休息への絶対的な警告」と述べています。

疲労は、体や心が発する「そろそろ休みましょう」というサインと考えることができます。逆に言いますと、様々な活動をする限り、疲労そのものをなくすことはできません。人間、休むことが必要です。
小休止や睡眠をとれば、回復する種類の疲れもあります。適度な疲労は生活の塩として、メリハリとなります。ところが、今、現代人に増えているのは、なかなか疲れがとれない“ぐったり疲労”のようです。その疲れがすすめば、不安感や不眠といった精神症状や、肩こりや胃腸病といった身体症状も出てきます。

どうすれば、“ぐったり疲労”は、癒されるのでしょうか。
聖書は、疲れを覚える現代人に、神様からの答えを届けてくれます。神様は、「何よりも神の国と神の義を求めなさい」と言われます。
癒しの第一歩は、神様を第一に求めることから始まります。
最近の育児ノイローゼーの陰に、情報過多の弊害があるという方がいらっしゃいます。何冊もの育児書を読んで、母乳がいいか人工栄養がいいか?歩きはじめたり、しゃべりはじめたりするのが遅いのではないか?などと悩み、心を病む若いお母さんがいます。

現代社会は、情報にあふれています。そして、その情報に振りまわされ、自分の立つべき場所を見失いがちなのです。
最近は、あたかも健康であることが、人生の最終目的のようなコマーシャルが多いように思います。健康も大切ですが、最終目的ではありません。一番大切な神様を何よりもまず求めたいと思います。
そして、後は、神様におまかせいたしましょう。悩み過ぎず、その日の苦労は、その日だけで十分です。神様は、みな加えて与えてくださり、万事を益としてくださいます(ローマ8:28)。

「神様がいらっしゃるから、何とかなる!否、万事が益となる!」と、肩の力を抜いて、上を見上げてまいりたいと思います。信仰を持っていない人にとったら、いいかげんなことと思われそうですが、神様にゆだねること以外に、人間、休むことができるのでしょうか。

また、“ぐったり疲労”は、生活のリズムの乱れとも関係します。休みだからと言って、夜更かしをし、朝寝坊をしていれば、休み明け、疲労感を覚えることは想像できます。今、オリンピックが開催されています。つい夜更かしをしてしまいがちですが、かえって、休むどころか、ぐったり疲労が溜まってしまうことになりかねません。朝に晩に、祈ってまいりましょう!


山口  平賀和弘
(No.60 08,08,16.防府教会牧師室便りより)


十字架の走り

2008-08-16 06:11:29 | メッセージ
先日テレビで、北京パラリンピック、走り幅跳びに出場する高田晃一さんのことが取り上げられていました。

高田さんは、高校時代に空手の試合で右目を負傷し、治療に使った薬物の副作用で視覚障害になりました。「昨日より今日、今日より明日、日ごとに見えなくなる日々はまさに生き地獄でした」と高田さんはふりかえります。絶望的な生活が続きましたが、その中で体を動かすことのできる喜びを感じた高田さんは、陸上競技を始めることにします。

失明後、多くの宗教からの勧誘があったそうです。その多くは、「信じればあなたの目が治ります」というものだったそうですが、高田さんはいわゆる「ご利益宗教」に入信することはなさいませんでした。その代わり「本当の宗教を見極めよう」と、いろいろな教会を訪れ、ある宣教師との出会いを通して、高田さんはクリスチャンとなります。
高田さんは、素晴らしい成績を残します。1992年バルセロナパラリンピック走り幅跳びで銅メダル。2000年シドニーパラリンピック400mリレーで銀メダル。2006年アジア大会100mで金メダル、走り幅跳びで銀メダルなどです。

ところが7年前、さらに視力が急変し、B2(弱視)レベルからB1(最も重い視覚障害)レベルになってしまいます。今までかすかに見える光に向かって走ることができたのですが、今は暗闇に向かって、走り、跳ばなければなりません。
さらに、高田さんは現在41歳です。20代の若者たちを相手に戦うのは本当に大変です。その中で高田さんは新しい走法を編み出してゆきます。名づけて「十字架の走り」です。

高田さんはおっしゃいます。
「ある時から、体力の限界を意識するようになりました。そこで、新しい走法を編み出すことになりました。今までは自力だけで走っていました。引力に逆らって跳んでいました。ところが、光が見えなくなった後、『地面からの反発力』をいただいて走るようにした。それは、自分が走っているというよりは、大地から受ける力によって走らせていただいているという感じがします。今は一人で走るのではなく、コーラー(声をかけてくれる人)、伴走者との三身一体、そして神様の守りの中で、走らされているのです。自分は『天才』です。その意味は、天からの才(力)を受けて走っているということです。この走りを『十字架の走り』と呼びます。
それまでは、跳んだ後、着地するまでが最も恐怖を感じるときでした。歩数を間違えたら・・・、コースがずれたら、砂場に着地することができません。しかし、今は跳んだ後を委ねることができるのです」。

この「十字架の走り」は、私たちの信仰生活にも当てはまると思います。我力に頼ってがむしゃらに走っている時は、疲れ、限界を覚えます。しかし、「天からの力」を推進力にして進むなら、力まずに生きることができます。

 「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3、4)。
高田さんは千葉にあります光風台三育小学校で講演会をしてくださいました。そのときに引用されたのが上の聖句です。現在、毎週土曜日にSDA九十九里集会所に行っておられるそうです。また現在の伴走者は、金城隆寛さんという方で、千葉教会牧師の森田一男牧師の甥御さんです。

 高田さんは、『メダルよりも大切なこと』として、以下の3点を上げています。
  1.感謝の心
  2.チャレンジの精神
  3.強くなればなるほど優しくなれる
 パラリンピックでの高田さんの活躍を祈ります。


大阪  藤田昌孝
(No.616,08,8,16.大阪センター教会牧師室便りより)



魂を磨く

2008-08-11 19:59:37 | メッセージ

島田教区長より、西教区の牧師全員に次のようなメールが届きました。


さて、今朝は某メルマガよりバレリーナの森下洋子さんの言葉をお送りいたします。

59歳になってもずっと踊り続けている世界的なバレリーナである森下洋子さん。


その森下洋子さんの素敵な一言。

『技を磨こうとするより、 心、魂を磨くこと、
人間としてすばらしい生き方をすることのほうが、
舞台に立った時の存在としては大きいと思うんです。

舞台芸術というのはお客様に愛を与えるものですから、
心から踊りを 愛して、温かいものを出していかなきゃだめ。

美しいものを美しいと思える、
人にたいしてありがたいなと思えば、
ありがとうという言葉が
自然に出るような
そういう人格を養うことが
アーティストには大切なのです。

ですから、
なにがいちばん大切かと言われれば、

それは心。

まじめに素直にバレエに取り組んでいるかどうかは、
舞台に出ますし、お客様にも伝わります』


 アーティストは技を磨こうとするより、魂を磨くこと。
私たちも同様です。・・・ここが勝負所です。


おっしゃるとおり!
励まされているのか、プレッシャーをかけられているのか・・・。

E・G・ホワイトは私たちの魂が磨かれる方法を次のように語ってくれます。

「わたしたちの命は、キリストの生命と結びつかなければならない。わたしたちは、常にキリストから受け、天から降った生きたパンであるキリストを食べ、いつも新鮮に、豊かに清水という宝を注ぎ出す泉の水を飲まなければならない。いつも、主を目の前にあおいで、主に感謝と賛美をささげているならば、わたしたちの信仰生活は常に新鮮さを保つことができる。
わたしたちの祈りは、ちょうど友人と語るように、神との会話のかたちになり、神は、わたしたちに個人的に、神の神秘について語りかけてくださるのである。わたしたちは、しばしば、尊いイエスの臨在を身近に感じることがある。
昔、神がエノクと語られたときのように、神がわたしたちに近づかれると、わたしたちの心中も燃えるのをおぼえる。こうしたことがほんとうに、クリスチャンの経験となるときに、そのクリスチャン生活には、純真、けんそん、柔和、心のひくさなどがいちじるしくなり、接するすべての人に、彼がイエスと共にあって、イエスから学んだ者であることを感じさせるのである」(『キリストの実物教訓』107-109)。


大阪  藤田昌孝
(No.615,08,8,09.大阪センター教会牧師室便りより)


深呼吸

2008-08-05 19:51:25 | メッセージ
「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント 6:19-20)

わたしたちの体は、とても大切なものです。なぜかというと、イエス様が十字架についてくださり罪から解放され、聖霊の神様が宿られる神殿であるからです。
神様からいただいた体を大切にして、神様の栄光を現すことが求められています。

ところが、この暑さです!食欲がなかったり、寝苦しかったりして、体を大切にしたいけれど、なかなかできないという方もおられるかもしれません。皆さんは、いかがでしょうか?

さて、そんな暑さのなかであっても簡単にできる“健康維持の原則”をE.G.ホワイトは、紹介しています。それは、深呼吸です。
今回の牧師室便りでは、この深呼吸についてご紹介させていただきます。

①血液をよくするための深呼吸
 深呼吸は、血液をよくするために行います。

『血液は生命の流れであるから、健康を保つには良い血液が必要である。それは消耗した組織を回復し、身体に栄養を与える。血液が正しい栄養素を供給され、新鮮な空気によって浄化されて活力を与えられると、それは身体の各部に生命と活力をもたらす。』
(E.G.ホワイト著「生活を豊かに」p.96)

深呼吸をすることにより、血液が浄化されます。

『新鮮な空気を一杯に深く吸うと肺に酸素を供給し、血液を浄化する。血液はあざやかな色となり、身体各部に生命の流れを送る。正常な呼吸神経を和らげ、食欲を増進し、消化をいっそう完全にして、深い気持ちのよい眠りに導く。』(E.G.ホワイト著「生活を豊かに」p.97)

②深呼吸と想像
精神と肉体の間には非常に密接な関係があることはよく知られたことです。深呼吸する際も、肺に新鮮な空気が送られ、血液があざやかな色になり、生命の流れである血液が身体に送られることを想像してはいかがでしょうか。

『病気は想像から起こることがあり、想像によって非常に悪化する場合がしばしばある。自分は健康であると思いさえすれば健康でいられるのに、一生病身でいる人が多い。多くの人は少しでも空気に身体を当てると、病気になると考えているが、そう思いこんでいるために悪い結果になるのである。』(E.G.ホワイト著「生活を豊かに」p.209)

たかが、深呼吸、されど、深呼吸です。肺は絶えず不純物を排泄しています。つねに新鮮な空気をすって、神様からいただいた体を大切にしたいと思います。


さて、神様との交わりである祈りは、「信仰者の呼吸」と呼ばれることがあります。
新鮮な空気を取り入れて、生命の流れである血液を身体に送り肉体の健康を維持するように、神様と交わることによって精神の健康も、整えてまいりたいと思います。
イエス様は、滅ぼすためでなく、救うためにこの世に来られました(ヨハネ3:17)。
わたしたちのために自らの血によって代価を払ってくださったイエス様をつねに覚え、主の栄光を現したいと思います。


山口  平賀和弘
(No.58.08,08,2.防府教会牧師室便りより)

 

再会の約束

2008-07-29 20:23:55 | メッセージ
「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。」(Ⅰテサロニケ 4:13)


信仰を持っているものが息を引きとったとき、私たちは、希望を持たないほかのひとたちのように嘆き悲しむことはいたしません。
もちろん、キリスト者であっても、愛する者との別れは悲しいものです。嘆き悲しみます。
もう、親しみのある声を聞くことができなくなったり、その人を頼りにしたりすることもできなくなってしまいます。寂しさや悲しさは、その人と親しければ親しいほど、大きなものだと思います。

この地上において、旅に出る人の別れでさえ私たちは名残を惜しみます。まして、この地上で二度と会うことのできなくなった悲しさ、寂しさを平気でいられるはずがありません。

しかし、キリスト者は、ただ嘆き悲しむだけではありません。希望を持っているからです。
聖書には、この別れは、決して二度と会えないという別れではなく、死は眠りであり、再び会うことができると約束されているからです。

イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。
(Ⅰテサロニケ 4:14)

この聖書の約束を信じることができないならば、私たちは、何を信じたらよいのでしょうか。何によって慰めを得られるのでしょうか。

主の言葉が、私たちを支え、慰めます。
ですから、私たちは、愛する者の死に際して、悲しいという一面だけを、いつまでも眺めるべきではありません。抑えきれない悲しみに身をまかせたり、神様の摂理の御業に憤りを投げつけたりすることはせずに、主の言葉に基づいて希望を持ち、希望をもたないほかの人々のように嘆き悲しまなくてもいいのです。
キリスト教の葬儀においても、泣くことは、必ずしも不似合ではありません。しかし私たちは、愛する者の肉体だけを埋葬するのであって、魂まで埋葬するのではないということを知らなければなりません。魂は、既に私たちのもとを去って、主に結ばれて、主のもとにあるのです(Ⅰテサ14:16)。

私たちの愛する者が天に召されて、私たちがなおこの世に残されているのは、私たちのしなければならない仕事を、神様はまだ用意しておられるということではないでしょうか。
それは、私たちの品性を高めることであるかもしれませんし、誰か他の人のためにしなければならない仕事があるのかもしれません。
いずれにしても神様は、私たちが、そのしなければならないことを成し遂げることを期待しておられるのです。
この世の旅路を終え、しばしの眠りについた者にとって、その日は、地上でのゆだねられた務めを果たし終え、勝利の冠を授けられる喜ばしい日でもあります。
神様が、すべてのことをご支配しておられます。生も死も神様のみ手のうちにあります。

私たちは、時として、なぜ、あんなに早く死んでしまったのだろうかと、考えることもあるかもしれません。
しかし、神様の目からご覧になるとき、どんな人でも、その人を神様が召される前に、神様は、その人の仕事を完結なさるのです。
すべてを支配し、ご自分の目的を遂行するのに妨げるものをひとつも持たない神様にしてみれば、これは、当然のことではないでしょうか。


山口 平賀和弘
(No.57.08,07,26.防府教会牧師室便りより)


真の奇跡

2008-07-22 19:44:30 | メッセージ

それはビル・ハイベルズ牧師が説教をちょうど終え、みんなと立ち話をしていた時のことでした。一組の若い夫婦が近づいてきて、彼らが抱えている大きな問題を牧師に知らせました。彼らはそれらの問題の中にあっても、神様のご栄光が表されるように、お祈りしてほしいと牧師に頼んだのです。
 ことの重大さに牧師は驚き、心から二人のために祈りをささげました。祈りを終え、牧師は彼らに尋ねました。
「あなたがたのために、私たちができることはないでしょうか?」

 二人は答えます。
 「先生、私たちは大丈夫なんです。本当に。この数年間、私たちは愛すべき小グループに属しているんですよ。グループの仲間は、私たちの問題を知っています。そのことで我が家にも来てくれましたし、必要な時には共にいてくれます。彼らはいつも私たちを助けてくれました。常に私たちのために祈りをささげ、何度も電話をくれます」。

 その時、三組の夫婦が前に進み出て、若い夫婦を囲みました。そして、その中の一人が、
 「私たちはいつもグループで教会に来ているんですよ」と言いました。

 牧師にとってそれは忘れることのできない光景でした。愛すべき兄弟姉妹が、人生の嵐を和らげるために最善を尽くしながら、しっかりとスクラムを組んでいるのです。グループ全員で祈った後、彼らは一緒に教会堂の玄関へと姿を消してゆきました。去っていく彼らを見ながら、牧師は思いました。「もし教会がなかったなら、あの夫婦は今頃どうなっていただろう?どこへ行き、どうやってこの困難に立ち向かっていたのだろう?」と(『勇気あるリーダーシップ』福音社28)。

 教会が本来の働きをするとき、それに勝るものはありません。教会は共同体という形の中で、悲しんでいる人を慰め、打ちひしがれている人を癒します。求道者への架け橋となり、途方に暮れている人の心に光と真理を与えることができます。

 先ごろある方と、人を励ますことのできる証とは何だろう?真の奇跡とは何だろう?という会話をしました。
癒しの奇跡、必要が満たされる経験と、いわゆる「うまくいった証」を私はたくさん見せていただきました。
ところが、この「うまくいった証」は必ずしも万人の励ましになるとは限りません。お聞きになる方によっては落胆の種にもなりかねません。

 いっぽう、祈りつつも問題がなかなか解決しない最中にあっても、人の心に与えられる神様からの平安と、心の変革は、多くの人々の確かな希望となります。

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)。

 イエス様は、私たちの苦難を全て取り除いてくださるとはおっしゃいませんでした。しかし、苦難の中で、イエス様しか与えることのできない心の平安を与えてくださいます。これこそ、真の証、真の奇跡です。多くの人々に強い影響を与える奇跡とは私たち自身の中に起こるこの心の変革なのだと思います。

「聖書の原則が、実際に品性の要素となるとき、そこにはどんな結果がみられるであろうか。またどんな変化が生活に現われるであろうか。『古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである』とある。その力によって、男も女も、悪い習慣の鎖を断ち切り、利己心を放棄した。神を汚す者は神を敬う者となり、酔っぱらいはまじめになり、道楽者は身を慎むようになった。サタンの面影を宿していた魂は神のみかたちに一変させられた。この変化は、それ自体が奇跡中の奇跡である」(『教育』203)。


大阪  藤田昌孝
(No.612,08,7,19.大阪センター教会牧師室便りより)



私たちのヒマラヤ

2008-07-16 19:46:54 | メッセージ


今週の月曜日、教団理事会の礼拝で東海林理事長が次のようなお話をされました。

テレビで放映された、75歳でエベレスト登頂を果たした三浦雄一郎さんの印象に残った言葉。
1つは、
「ヒマラヤの背中が汗をかいていた」。
三浦さんが5年前に登ったときにはこんなにも雪がとけていなかった。もはや温暖化を通りこして、温帯化なのではないか。
2つ目は、インタビュアーの「なぜ三浦さんはそんなにお元気なのですか?」という質問に対する三浦さんの答え。
「ヒマラヤがあったから」。
ヒマラヤのために身体と生活を整えてゆくことができた。
3つ目は、
「皆さんにもそれぞれ、皆さんにとってのヒマラヤがあると思います」。

私たちSDAにとってヒマラヤとはなんであろう。私たちの宣教理念のモットーは「福音による全人的回復をめざして」である。
私たちの教会が、この理念、このモットー「福音による全人的回復をめざして」に献身してゆくことができれば、教会も、そこに集う信徒も、求道者も皆元気になるに違いない。教団が掲げている「教会の健全化」とはまさにそのことだ。
しかし、思うようにはいかないことがある。いつのまにか、自分たちのヒマラヤ、宣教理念が忘れられてしまうことがある。幻(ヴィジョン)を失った民は秩序を失い、力を失う。目先の利益と感情に踊らされた民に争いが生まれる。

ホワイト夫人の言葉。
「キリストの教会を最も危うくするものは、この世の反対ではない。教会を最も深刻な不幸に陥れるものは、信者たちの心に隠された悪であり、それは最も確実に神のみわざの進展を遅らせる。ねたみ、疑い、あらさがし、悪意ほど霊性を弱めるものはない。一方、神の教会を構成しているいろいろな性質の人たちの間における調和と一致は、神がみ子をこの世におつかわしになったことを最も確かにあかしするものである。このようなあかしをたてることが、キリストに従う者たちの特権である。しかしこれを行うためには、彼らはみずからキリストの戒めに服さなければならない。品性がキリストの品性に、また、意志がキリストの意志に調和しなければならない。

「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」と、キリストは言われた(ヨハネ13:34)。何とすばらしいことばであろう。しかし、何と実行されていないことばであろう。今日神の教会には兄弟愛がはなはだ不足している。救い主を愛していると公言する者たちの多くが、互いに愛し合っていない。未信者たちは、クリスチャンと自称する人たちの信仰が、彼らの生活にきよめの力を及ぼしているかどうかを見守っている。だが、彼らはすぐに品性の欠点や行為の矛盾をみつける。ごらんなさい、この人たちはキリストのみ旗のもとに立ちながら、互いに憎み合っていると、クリスチャンは敵に言わせないようにしよう。クリスチャンはみな一つの家族で、みな同じ天父の子供たちであり、同じように祝福された不死の望みを抱いているのである。互いを結び合わせている絆は固く愛情のこもったものである」(『患難から栄光へ』下252-253)。

 いかがでしょうか。「私たちの教会は大丈夫!」と慢心してはいられません。どの教会も調和と一致を、心して維持してゆかなければなりません。
そのためには、私たちの教会がどのようにして世に貢献できるか、ということを常に覚えておかなければならないのでしょう。


大阪  藤田昌孝
(No.611,08,7,12.大阪センター教会牧師室便りより)



パウロの伝道方法

2008-07-13 19:40:37 | メッセージ

「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。」(Ⅰコリント 9:22)

パウロは、伝道の方法について語っています。「すべての人に対してすべての人のようになる」(Ⅰコリント9:22)ことが、パウロの伝道方法でした。
このことは、伝道するために、真理を曲げたり、嘘をついたりすることを擁護することではありません。
今日の言葉で言い換えるならば、このパウロの伝道方法とは、“いろいろな人と触れ合う”ということではないでしょうか。

自分のことしか見ることができず、寛容とか同情とかいうことを全く知らず、他人の気持ちや考え方を理解しようともしない人間は、牧師や伝道者はもちろん、友人にもなれません。

ある方が、家族伝道に関して、次のようにお話されていました。
「家族伝道と聞くと、なかなか進展しない。難しいという意見を多く聞きます。けれども、私はそうは思いません。家族伝道は、簡単です。どうしてかというと、家族だから、他人よりもより多くのことを知っているからです」と、その方は、お話されていました。
そして、その言葉どおり、次から次へと家族、親族を神様へと導いておられるのです。

私自身、今日のパウロの伝道方法について考えさせられました。
私たちは、家族や友人、知人を何とかして救うために伝道します。ところが、それに対して、なかなか成果が見えずに、考え込んでしまうことがあるのではないでしょうか。
そんな時、思い起こすことは、「まだ神様の時ではないのだ」とか、「成果は目に見えなくても、蒔かれた福音という種が、今、成長している最中なのだ」といったことかもしれません。そういうこともあると思います。

けれども、すべての人に対してすべてのものになったというパウロの伝道方法を知ること、私たちの友となってくださったイエス様のことを思い起こすことも必要なことだと思います。
なかなか福音が伝わらないのは、案外、受けとる側の問題よりも、伝える側の問題であるかもしれません。
今日、“いろいろな人と触れ合う”ことが、求められています。

買い物に出かけ、近所の人や店の人と挨拶をすることもあるかもしれません。しかし、いつも「おはようございます」だけでは、期待している成果は生じません。
また、千葉県のある市でNPO団体が調査したところ、一ヶ月だれとも、一度もお話をする相手がいないお年寄りが4,500人以上もいたということがわかりました。
私は、このようなことからも、まだまだこの日本にも伝道の可能性はあると思いますし、私自身のなすべき課題を知る思いがいたします。

山口県内でも梅雨が明け、夏を迎えました。暑い夏にいただく一杯の水のありがたさは、誰もがよく知っています。
同じように、孤独の中での触れ合いは、砂漠で出会うオアシスのようなものではないでしょうか。貴重なものです。

誰よりも多くの人々を神様へと導いた伝道者パウロは、すべての人に対してすべての人のようになることがどんなに重要であるかを、よく知っていました。
パウロの伝道方法を学び、それを試みたいと思います。


山口  平賀和弘
(防府教会牧師室便りよりNo.55 08,07,12)