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ラムズ・スタディ

聖書の神様のこと、みんなで学び、同じ目標を確認できたらホントすばらしい。

聖書の信じるー信仰の意味研究

2008-07-07 20:34:31 | メッセージ

私たちは‘イエス様を信じる人々だ’と言われます。この‘信じる(信仰)’とはどんな意味でしょうか。信仰という言葉を定義することは難しく思えますが、聖書が教える意味をこれから探してみたいと思います。この信仰が私たちの祝福となって幸せの源になることを心から願います。

1.(信仰)ヘブライ11:1「信仰とは、望んでいる事柄を確信(Hupostasis)し、見えない事実を確認(elegchos)することです」。ギリシャ語の意味は‘登記文書’(Hupostasis)、‘証明して見せる’(elegchos)です。‘登記文書を出して見せてあげる’という意味が信仰(信じる)です。聖書が教える私たちの信仰は私たちが望むことをこの世で見せて証明する登記文書と同じものです。イエス様を信じる信仰とはイエス様、神様と聖霊、天国などを証明して見せてあげる登記文書であるという意味です。

2.(信仰)ヘブライ11:6「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」。この言葉は信仰がどんな働きをするかを教えています。それは‘神様を喜ばせる働き’です。またこの言葉は信仰の基本的な条件2つを教えてくれます。神様がおられることと、その方が私たちと個人的な関係を持ってくださることです。私たちの上に神様は賜物を与えてくださると約束をしてくださいます。

3.(信仰)ヤコブ2:19「あなたは‘神は唯一だ’と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています」。聖書の信仰は神様がおられることを認める以上のことを意味します。神様と個人的な交わりによって私のすべてが変化するまでの交わり、信仰を意味します。その方を認め、信頼し、信じる信仰なのです。私たちの信仰はどうでしょうか。

4.(信仰)ヘブライ12:2「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら、このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」。個人的な交わりの関係を持って人を変化させてくださる信仰の主人はイエス・キリストであります。私たちが持っていること、見せて証明する唯一なるお方はイエス様です。信仰はこのイエスをいつも見つめながら後に従う生き方を教えてくれます。どんなことがあっても、私たちの大切な方を見続けましょう。

5.(信仰)ローマ10:17「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。イエス様を信じる信仰はキリストの御言葉を聞くことによるものです。素直に、正直に正しく聖書が教える御言葉に集中することができるように。

6.(信仰)ヘブライ11:8 「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」。信仰に対するアブラハムの例です。すべて神様にゆだね、信頼した彼の信仰が私たちに必要であり、求め学ぶべき教訓です。信仰を生活に、行動に、実践しましょう。

7.(信仰)ヤコブ2:26「魂(息)のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです」。息がなくて死んだ体のように行動がない信仰は死んだものです。神様の言葉を聴き、実行することが信仰の息です。つまり、生き生きと命あるものが信仰です。死なない(腐らない)信仰を持ちましょう。

8.(信仰)ヤコブ1:2,3 「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」。この言葉は生きている信仰で生活をすると、この世で試練を経験するという意味です。だから、信仰には試練があることを覚悟し、忍耐が必要であることを語っています。しかし、イエス様のために受ける試練には耐える力と勝つ力が与えられると聖書には約束されています。これがわかる人は命賭けてもイエス様の信仰を守ります。イエス様の信仰によって、私たちのかけがえのない人生を喜びのうちに歩みましょう。

9.(信仰)2コリント5:7「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです」。この言葉はイエスを信じる人々の行為は目に見えるものによるのではないことを教えてくれます。神様もイエス様も聖霊様も、天使も天国も見えないのに、見えると確信し信じると、試練があっても耐えることができます。試練の時さえ喜びに満たされもっと神様に従うことができるのです。信仰の確信をもってがんばりましょう。

10.(信仰)1ペトロ1:8,9「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」。信仰の決着は魂の救いです。これのため、イエス様が十字架の犠牲を払ったのです。この恵み、愛、感謝に反応する私たちになりましょう。

11.(信仰)黙示録14:12「ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である」。


大阪  魏 守民
(No.610,08,7,5. 大阪センター教会牧師室便りより)



契約

2008-07-05 08:08:38 | メッセージ

「わたしがお前と契約を立てるとき、お前はわたしが主であることを知るようになる。」(エゼキエル 16:62)

聖書は、大きく分けると旧約聖書と新約聖書の二つに分かれます。
旧約聖書、新約聖書の「約」は「訳」ではなく「約」であり、「約束」あるいは「契約」を表しています。
ですから、新約聖書とは「新しく訳されたことが書かれている聖書」ではなく、「新しい契約について書かれた聖書」ということであり、旧約聖書とは「古い契約について書かれた聖書」ということになります。

さて、私たちは、ふつう「契約」と聞くと、雇用契約とか賃貸契約といった人間同士でなされる法律的な契約を思い浮かべるのではないでしょうか。
そういった契約は、雇用主と労働者、あるいは、貸す側と借りる側といった双方の当事者がおり、その当事者双方に対等の義務を負わせています。
聖書の中にも、そのような意味で用いられている契約を見ることができます。
たとえば、アブラハムとアビメレク(創世21:25-32)であったり、ヤコブとラバン(創世31:44-50)であったりします。

ところが、神様と人間との契約は、このような人間同士が結ぶ契約とは異なる要素を持っています。
聖書が述べる神様の契約は、ふつう私たちがイメージする契約とはだいぶ違うようです。

まず、聖書の述べる神様と人間との契約は、双方が対等の義務を負わずに、神様がより多くの責任を負われているという点です。いわば、聖書の契約は、不平等な契約です。

広辞苑で契約を調べますと、宗教用語として「キリスト教で、神が救いを成し遂げるために、人間に対して示す特別な行為」とあります。
ここでは、契約の定義が人間の義務について一言もふれていません。このことからわかるように、聖書の契約は、人間を救おうとする神様の意思に重点がおかれています。
もちろん、人間はその意志に身を合わせることを期待されているのでしょうが、それも明記されているわけではありません。

また、聖書の契約は、不平等な契約というだけではありません。相手を気づかう思いやりの行為でもあります。
そのことをよく示しているのが、ダビデとヨナタンが結んだ契約です。
不思議なことに聖書では、友情という言葉が使われていません。生涯変わることのない友情で結ばれたダビデとヨナタンもそうでした。
その代わりに、「契約を結ぶ」という表現が使われているのです。

ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。サウルはその日、ダビデを召し抱え、父の家に帰ることを許さなかった。ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結び、着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた。(サムエル上 18:1-4)

ここで結ばれている契約は、法律に基づく冷たい関係ではなく、相手を気づかう思いやりに基づくものです。神様の結ばれる契約は、より深い人間を愛する思いに基づいています。
聖書の述べる「契約」は人間を愛するがゆえに、いっそう多くの責任を背負われる神様が、人間に申し出た約束なのです。


山口  平賀和弘
(No.54.08,07,05.防府教会牧師室便りより)




イエス様の来臨

2008-06-30 20:22:46 | メッセージ

「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」(ヘブル人への手紙9:28)


イエス様は、十字架につかれ、多くの人の罪を負うためにただ一度ご自身を献げられました(ヘブル9:28)。
聖書は、その救いの出来事を、過去に起こった出来事として完了形で記しています。
そして、過去だけではなく、聖書には、将来のことについても記されています。
イエス様が、もう一度この地上に来られ、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるときしているのです(ヘブル9:28)。

イエス様は、十字架の死後(マタイ27:50)、墓に葬られ(マタイ27:60)、三日目に死者のなかより蘇り(マタイ28:6)、天に上げられ(使徒:1:9)、今、全能なる父なる神様の右に座しておられます(ヘブル8:1)。
そのイエス様が、救いをもたらすために、再びこの地上に来られると聖書は、言うのです。
ですから、私たちは、今、どのような場所にいるのかというと、第一の来臨と、二度目の来臨の間にいると言うことができます。第一の来臨を後にして、第二の来臨に向かって、旅をしているのです。

私たちは、神様によって前方からも、そして、背後からも支えられて、動かされ、導かれつつ、この地上を歩んでいます。

さて、そのような第一の来臨と第二の来臨との間の時間を「中間時」と呼ぶならば、なぜ、その「中間時」は存在するのでしょうか。
神様は、何のために、「中間時」を設けられたのでしょうか。
イエス様の最初の来臨の時が直ちに最後の来臨の時であることも、可能であったはずです。復活の日の朝の出来事が、最後のラッパが鳴り響く日の出来事(Ⅰテサ4:16)であることも、可能であったはずです。

もちろん、神様の救いは、十字架の死と復活によって成し遂げられました(ヨハネ19:3)。
けれども、実際は、第一の来臨と第二の来臨というように時が、分離されているのです。

なぜ、「中間時」が設けられたのか。その答えは、次のようなものであると考えられます。
それは、神様は、わたしたちの応答を求めておられるということです。
神様は、イエス様を通して救いを完成されました。しかし、その救いを人間に、押し付けようとはされません。人間に自由意志を与えられた神様は、独立した自由な存在として、自発的に、神様の与えられる救いに対して「はい」という応答を、感謝と讃美の応答を待っておられるのです。
「中間時」あるいは「終末時」と呼ばれる時とは、そのような神様の恵みに対して、応答がなされる場所であり、時なのです。
神様は、人間の答えを聞くことなしには、最後の決定的な御言葉を語られません(黙示録22章)。ですから、神様は、第二の来臨のときに、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです(ヘブル9:28)。

私たちの神様に対する応答は、貧弱なものかもしれません。しかし、「中間時」を設けられた神様は、私たちの神様に対する応答を断念してはおられません。期待しておられます。私たちの応答を待っておられますし、私たちの感謝と讃美を受け入れてくださるのです。
神様が与えてくださった恵みの時を無駄にすることがないように、今日、大胆に神様の恵みに、応えてまいりたいと思います。


山口 平賀和弘 
(No.53 08,06,28.防府教会牧師室便りより)


本当に重要なこと

2008-06-23 19:54:43 | メッセージ

「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」(フィリピの信徒への手紙 1:9-10)

パウロは、本当に重要なことを見分けられますようにと祈りました(フィリピ1:9-10)。
この祈りは、すべての人のための祈りではないでしょうか。
やるべきことが多すぎていつも忙しい。なんだか疲れる。そんなとき、非効率的に思えますが、ふっと立ち止まって、本当に重要なことがなにかを見分けられるように、祈りたいと思うのです。


続いて、『いのちのことば(2008年7月号)』に掲載されていた詩をご紹介いたします。


引き算の人生

人生は足し算だと思っていました。
学校へ行って新しいことを勉強し、
できなかったことができるようになる。
友達をつくる。
知識や技術を身につける。
働いてお金をもうける。
服を買う、車を買う、家を建てる。
足りないものは足していく。

知識、学歴、資格、お金、持ち物、人間関係、
なんでも多ければ多いほどいいと思っていました。
人生は足し算でした。

うつ病になって、なにもできないみじめさを
知りました。
仕事はおろか、起き上がることもできません。
電話に出るのも、人に会うのも苦痛になりました。

今までにできたことが、できなくなりました。
やりたくてもできないこと、
どんなにしたくても、
やってはいけないことも増えました。

それから人生は引き算になりました。
たくさんあることの中から、
ほんとうにしなければならないことだけを
残す引き算です。

大切なことと、どうでもいいこと、
どうしても私がしなければならないこと、
ほかの人に代わってもらっていいこと、
手を抜いてもいいこと、
少しずつ見分ける知恵がついてきました。

わたしにしかできない、ひとにぎりのことを
心をこめてする。
引き算の人生も、悪くないと思います。
(木村藍『傷つきやすいあなたへ』文芸社)


最近、私自身、気づかされたことがあります。
それは、今までこだわっていた頑張りをやめて、思い切って手を抜いても、「それでも地球は回る」と言うことです。何とでもなります。

そして、もうひとつ気づかされたことがあります。それは、今まで無駄だと思っていたことに、こだわると、「人生って素敵だな」に変わるということです。
たとえば、朝起きてから、家族の目を見て言う「おはよう」の挨拶であったり、テレビを消して子どもと過ごす時間であったり、そういう今まで何となく省略されてきたことを、心をこめてする。そうすると不思議なことに、疲れる人生から、温かな素敵な人生が訪れるのです。引き算の人生も、悪くないのです。

パウロは、あなたがたの愛がますます豊かになりと祈りました。愛が、人格を健全に育て、重要なものが何かを教えてくれます。
愛である神様(Ⅰヨハネ4:8)に、もう一度、心を込めて、祈りたいと思います。


山口  平賀和弘
(No.52 08,06,21.防府教会牧師室便りより)


右は神

2008-06-21 16:55:30 | メッセージ

今週6/19に向阪恭子さんの告別式が執り行われました。司式の花田憲彦牧師の告別説教の一部をご紹介いたします。


恭子さんの人生は、なぜこれほどの試練を通過しなければならなかったのかと思うほどの、苦難の連続でした。しかし、彼女から発信される言葉はいつも前向きでした。
「私は今、最高に幸せです」という言葉。「私は今、最高に幸せです」。死を前にして、彼女にそう言わしめたもの、それは彼女が苦難の中で求め続けてきた真実の信仰の世界によるものでした。
ある時、病室を訪問させていただいた折に、申命記1章30節と31節を彼女に紹介しましたら、この聖句を大変喜んでくださいました。
「あなたたちに先立って進まれる神、主御自身が、エジプトで、あなたたちの目の前でなさったと同じように、あなたたちのために戦われる。また荒れ野でも、あなたたちがこの所に来るまでたどった旅の間中も、あなたの神、主は父が子を背負うように、あなたを背負ってくださったのを見た」(申命記:30、31)。
恭子さんはベッドのテーブルの上においてあった「あしあと」という詩を示された。「これとおなじですね」と。


ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」主は、ささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」


恭子さんを愛し、その生涯を導いてこられた神様は、その心の思いのすべてを理解し、共にその重荷を背負い、その生涯の最後の最後まで愛し通してくださったのです。
そして今日、この場にお集いの皆様にぜひ知ってほしいことは、向阪恭子さんと共に歩んでくださった神様は、今もまた私たちと共に歩んでくださっているということです。
最後に、一つの詩を紹介します。彼女がホスピスにご入院中に見た夢を詩にされたものです。

「右は神」
ある朝、私はふしぎな夢を見た。大勢の人々が丘に登り、私も登っていった。皆が左手の坂を下りていく。私も行こうとするのに、誰かが私の手をとって、右側の道を登っていく。
手をひいていたのはイエス様だろうか。
「私の愛する子どもよ、おまえはそっちへ行ってはならない。私と一緒にこの右の道を行くのだよ、この坂を登って天国へと」。
聖書には右は神様と書かれている所が、数カ所あることを後で知った。イエス様 神様は私の手をひいて右側の道へ行くのは、天国へ行こうとされたのだろう。でも私はまだ生きている。
とても気持ちいい夢から目覚めた朝だった。

恭子さんはしばしの眠りにつかれましたが、イエス・キリストの御再臨のとき、永遠の命によみがえられます。イエス・キリストの御再臨のその時、私たちもまた主にあって永遠の命をいただき、恭子さんと再会することのできる希望がここにお集いの皆様、お一人お一人に与えられますように。


大阪  藤田昌孝
(No.608,08,6,21大阪センター教会牧師室便りより)



キリストの改変力

2008-06-15 19:39:39 | メッセージ

最近のニュースを見聞きしていますと、そのあまりにも悲惨な出来事に、私たち人間社会の限界を感じざるを得ません。
そして、ビル・ハイベルズの『勇気あるリーダーシップ』(福音社)の初めの方に書かれていた文章を思い出しました。次のような内容です。

「1990年代の8年間ほど、私はワシントンDCに毎月のように出張し、わが国の政府の高官たちと会いました。そうして私が知ったのは、彼らの権力がどれほど強大であるか、ということではなく、彼らの権力が実はどれほど限られたものであるか、ということだったのです。・・・人間の心を変えることも、傷ついた魂を癒すことも、憎しみを愛に変えることも、彼らにはできません。あるいは、悔い改め、赦し、和解、平和をもたらすこともできなければ、・・・
 思いつくかぎり、私はあらゆる選択肢を思い浮かべながら、私たちが何を提供すべきかを考えました。実業家は、切実に求められている働き口を提供することができます。賢明な教育者は、この世の有用な知識を教えることができます。様々な自助プログラムは、行動を修正するための効果的な方法を提供してくれます。先端を行く心理治療は、自己理解を助けてくれるでしょう。どれもこれも、すばらしいものです。しかし、これらのうちのどれか一つでも、人間の心をすっかり変えることができるでしょうか。
 この憐れな地球の上で、それを実現できる力がたった一つ存在すると、私は信じています。それはイエス・キリストの愛です。罪に勝ち、恥をすすぎ、傷を癒し、敵を和解させ、砕け散った夢を継ぎ合わせ、少しずつ、しかし最終的には、この世を変える主の愛です。そして、私の心を日々つかんで離さないのは、人間を変えるその愛が教会に与えられているという革命的メッセージなのです。
 それはすなわち、この世の将来が、地域の教会に属するあなたや私のような者たちの手に、極めて実際的な意味で委ねられているということを意味しています。それが教会なのであり、そうでなければ、教会は無に等しいのです。・・・
 兄弟姉妹の皆さん、よそ見をして惑わされてはいけません。教会こそが拠り所なのです」(同上25~26頁)。

 E・G・ホワイトも語っています。
「教育、教養、意志の力、人間の努力などいずれも、それぞれ大切な役割をもってはいますが、心を新たにする能力は全くないのであります。もちろん、私どもの行動にただ外面的な正しさは与えるかも知れませんが、心を変えることもできなければ、生活の源泉をきよめることもできないのであります。天よりの新しい生命がその人の内部に働かなければ、人は罪よりきよめられることはできません。この力というのはキリストであります。キリストの恵みのみが人の力なき魂を生きかえらせて、これを神ときよきに導くことができるのであります」(『キリストへの道』16頁)。

 私たちが毎日聖霊の神様を通して、御言葉を通して、イエス様から新しい命(永遠の命)をいただくならば、日ごとに変えられてゆきます。ただしこれは「日ごとに」です。出エジプトの経験のようにマナは日ごとに受けとらなければなりません。

そのようにして力と品性をいただくなら、世の人々にその改変力を分かち合うことができるのだと思います。


大阪  藤田昌孝
(No.607,08,6,14.大阪センター教会牧師室便りより)



父なる方の強さ素晴らしさ

2008-06-10 19:44:48 | メッセージ

「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」 フィリピの信徒への手紙4:13。

父の名前は“ Dick Hoytディックホイ”、息子の名前は “Rick Hoytリックホイ”。息子リックは生まれる時、へその緒が首に巻きついたせいで脳に酸素供給ができず、脳性麻痺とひきつけ性全身麻痺になった。その後リックは一人で動くことも、物を言うこともできない状態で暮さなければならなかった。リックが9ヶ月の時、医者はホイ夫妻に「あなたの息子は、一生植物人間として暮らすことになるので、施設に入れることをお勧めします」と伝えた。ホイ夫妻は、部屋の中でリックが二人のことを目で追っているのを感じていたので、医者の言葉を信じなかった。

 リックが11歳になった時、夫妻はリックをタフツ大学の工学科に連れていき、なんとかリックがコミュニケーションをとる手段がないかと相談する。しかしその返答は「彼の脳は全く機能していません」というものだった。「そんなはずがない」と思った父ディックは「何かジョークを言ってみたらどうだ?」と提案した。彼らがジョークを言うと、リックは笑った。これにより、リックの脳が十分に機能していることが分かり、コンピューターを使って、言葉を伝えることができるようになる。リックがコンピューターを使って最初に入力した言葉は「Go Ruins」。Ruinsはその頃自分たちが住んでいたアメリカボストン地域のホッケーチームの名前だった。ホイ夫妻はリックがスポーツに興味を持っている事を知る。

そしてリックが 15歳になった日、同級生が事故で体が麻痺してしまう。全校生徒がその生徒のために慈善活動として長距離走大会を開催することになった時、父ディックは息子から次のようなメッセージを受ける。「お父さん、僕、それに参加したい」。当時のディックは自称「豚」。1.6kmすら走ったことがない体だったが息子のために挑戦した。無事に走りきったものの、その後2週間は筋肉痛で全く動くこともできなかった。しかしこの長距離走がリックの人生を大きく変えた。その完走後、息子はこんなメッセージを書いた。「お父さん、一緒に走っていた時、僕は生まれて初めて自分が障害者だということを忘れていたよ」。そしてこの言葉が今度はディックの人生を大きく変える。障害者だということを忘れられる時間を息子のためにできるだけたくさん作り出してあげたいと決意する。

 父ディックの息子のための過酷な挑戦が始まったのだ(仕事をやめ息子の夢のために)。1979年のボストンマラソンにリックと二人で出場できるよう、ディックはトレーニングに励み始める。しかしながら、単独ランナーでもなく、車椅子ランナーでもないホイ親子は、なかなか正式に出場許可が下りなかった。それでも、市民ランナーに紛れて何度か走っているうちに、なんと翌年の参加資格を得られる基準タイムよりも良いタイムでゴールし、正式に出場権を獲得したのだ。

 多くの地域の大会に出場をしながら、夢と力を育ててきた父は 1981年息子と一緒にボストンマラソン大会に参加したが、もの珍しい装いの2人を人々は偏見の目で眺めていた。彼等に声を掛ける者もいなかった。二人は初めて途中であきらめてしまう。“頭にくるより悲しかった”
 しかし彼らは1年間準備し、1982年に再びボストンマラソン大会に参加し、息子を車椅子に乗せたまま押しながら8km走り、後から二番目の成績で完走した。
 マラソンを始めて4年後、「じゃあ、次はトライアスロンをやってみたら?」とディックに言う者が出てきた。一度も泳いだ経験もなければ、6歳以来自転車に乗ったこともないディックが、50kg近い息子を引きながらトライアスロンなんて無理だろうと思ったものの、ディックは息子のためにと思い挑戦する。父ディックは水泳(3.9km)、自転車(180.2km)、マラソン(42.195km)のトライアスロンの準備を始めた。そして、数年の歳月が経った後、一番過酷なスポーツの中の一つとして数えられる鉄人3種競技に出場する。

 水泳の時は息子リックをゴムボートに乗せたまま腰に紐をつけて海を泳ぎ、自転車の時は息子を特殊椅子に乗せて熔岩地帯を走り、マラソンの時は息子が乗った車椅子を押してなんと完走を成し遂げたのである。最後のテープに向けて走って行く彼らの姿に、観衆たちは最後まで見守り、皆起立して拍手しながら応援した。記録16時間14分。息子は父に言った。「お父さんがいなかったらできなかったよ」。父が答えた。「愛する息子がいなかったら私はこんなことをしなかった」。
 その後、彼等は1982年から2005年までボストンマラソン大会 24年連続完走記録を出し、競走と自転車で6、000Kmアメリカ大陸を横断した。鉄人3種競技は6回完走をした。
 一方で、ディックも息子への愛ゆえのこの偉業を通して大きなものを得ていた。2年前のレース中に軽い心臓発作に見舞われたディックが医者に行くと、動脈の一部が95%もふさがっていることが発覚する。医師は「もしこれだけ運動をしていなかったら、15年前に死んでいたかもしれない」とディックに告げた。ディックとリック親子は互いにとっての命の恩人だったのだ。

 「一人で出場したらすごい記録が出るかもしれないし、やってみたら?」という質問に対して、ディックは「それでは意味がないよ。リックと一緒に走ったり、泳いだり、自転車に乗ったりしている時に、リックが見せてくれる満面の笑顔を見るのが最高に嬉しいからやっているんだ。そして、競技完走テープを切る時に、リックは世の中で一番大きいほほ笑みをして見せる。これはリックが私に与える最大の贈り物だ。リックは声さえ出すことができないが完走に成功する瞬間、自分にできる最大の力を振り絞り何かを伝えようとする。多分幸せを表現したいようだ。」

 今年65歳になったディックと43歳になったリックは彼らにとって24回目になるボストンマラソンを2万人中の5083位でゴールした。彼らのベストタイムは1992年に出した2時間40分。世界記録のたった35分遅れだった。

 私たちの父なる神様は私たちにとってどんな方でしょうか。お互いに愛し合い助けられる一番大切な存在です。もし私たちが障害を持っていても、すべてを犠牲にして私たちの夢、喜び、幸せのために助けて下さる方がおられます。その名前はイエスキリストです。その名前を賛美し、感謝しましょう。そして素敵な夢を見て今日が新しい挑戦をする一日になるようにお祈りします。


大阪  魏 守民
(No.606,8,6,7.大阪センター教会牧師室便りより)





あわれみ深い人たちはさいわいである

2008-06-06 19:40:26 | メッセージ

 アメリカであった実話である。ある夏に一人の医学生がアルバイトに本のセールスをしていた。苦学生であった彼は夏休みは学費を稼がねばならないときであった。炎天下に一軒一軒戸毎訪問をしていたがある貧しいたたずまいの農家にやって来た。応対に出た少女が母親は病気で寝ているという。本を勧めると「うちは貧しくて本を買うお金がありません」 その家を去ろうとすると女の子は「学生さん、ちょっと待ってください」といって家の中から冷たい牛乳を一杯持ってきた。汗だくになって歩いてきた学生にそれは世界最高のご馳走であった。

 彼は少女の親切に感謝を表し、彼女の名前を教えてもらった。それから数十年の歳月が流れた。この学生は有名な外科医となり自分の病院を持つまでになった。ある日のこと難病に悩む中年の婦人が入院してきた。診察した彼はカルテの名前を見てあのときの少女であることに気づいたが婦人のほうはまったく気づかなかった。婦人は手術を受け、個室に入れられ、最高の治療を受けた。すっかり元気になって退院の日を迎えたが、彼女の一番の気がかりはいったいどれだけの費用が請求されるだろうかということだった。渡された請求書の額は莫大なもので彼女の支払い能力を超えていた。しかしその請求書の最後にこのような一文が付け加えられていた。「これらの諸費用は全額一杯のミルクによって支払い済み」

 日本のことわざに「情けは人のためならず」というのがある。国語研究所のアンケート調査によるとこの意味は「人に情けをかけると相手の自立心を損ない甘やかすのでかえって相手のためにならない」と思っている人が4人に1人はいたそうである。本来の意味は「人に施した情けは自分にまた戻ってくる」の意味である。
キリストも幸福な人のタイプとしてこのような人をあげておられる。「あわれみ深い人たちは、さいわいである。彼らはあわれみを受けるであろう。」(マタイ5:7)あわれみは人の痛み、苦しみに対して敏感である、洞察力が深い、ということである。その心から出る言葉、行動は人を癒す力がある。
ホワイト夫人という方がこの間の消息をこのように解説しておられる。「多くの人にとって人生は苦しい戦いである。彼らは自分の無力を感じ、惨めで不信仰である。彼らは自分が感謝するほどのものは何も持っていないと考えている。これらの苦闘し、寄る辺ない多くの者にとって親切な言葉や同情のまなざし、感謝の表現は渇きにあえぐ魂への一杯の冷たい水のようになる。ひとつの同情の言葉、一つの親切な行為は疲れた肩に重くのしかかっている重荷を持ち上げる。」

 海外在留邦人のために貢献したということで読売新聞から表彰されたドクター野崎という日系米人がいる。かってパラグアイの日系農民の村で働いておられた。あるとき一軒の農家に強盗が押し入り、母親が殺された。父親は飲ん兵衛で生活能力がない。残された男の子をドクターは引き取って、ジェームスと名づけ、アメリカで教育を受けさせた。この男の子は医学部を卒業して立派な青年ドクターになった。もし野崎博士に引き取られなかったら、パラグアイの貧しい農村で食うや食わずの生活を送っていたであろう。たまたまアメリカに帰ってきた野崎博士とジェームスがそのころやはりアメリカにいた私の家でしばしの再会をすることになった。何年ぶりかの再会の時間も1時間ぐらいしかなかった。別れのときが来て玄関先で二人はハグしあった。「お父さん、さようなら」「うん、お前も元気でな」それは私にはとても印象的なシーンであった。二人はまったく血のつながりのない、赤の他人同士であったから------ 

神はあれみ深い神であるのであわれみを喜ばれ、報いてくださる。私たちは自分の周りの傷ついた人、重荷を負っている人に心が開かれているだろうか。「あわれみを行わなかった者に対しては、呵責のない裁きが下される。あわれみは裁きにうち勝つ」(ヤコブ2:13)


静岡  堀内一誠


神様の視点

2008-06-03 17:30:21 | メッセージ
しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。(使徒言行録14:17)


苺のほんとうの旬は、5月です。
先日、ご訪問させていただいたお宅の庭に苺がなっていました。緑の葉っぱに隠れるようにして、真っ赤な苺の実がついていました。
それから、徳地で行われたバイブルキャンプの野外観察のときには、木苺を見ることができました。食べてみると、旬のせいでしょうか、案外、甘く、爽やかな自然な味でした。
自然の豊かな山口県に引っ越してきて、私が、知った楽しみのひとつは、こうした旬のものと出会えることです。
今、市内の畑を見てみますと、様々な野菜の苗が植えられ、だんだん大きくなりつつあります。
旬の野菜を食べることは、もちろん楽しいものですが、これらの野菜の成長を見ることも、楽しいものです。

さて、そろそろ山口県も梅雨に入る頃です。
この頃の雨は、蒸し暑く、うっとうしいものがあります。とりわけ、何日も洗濯物が乾かないときは、早くカラッと晴れた夏が来て欲しいと思います。しかし、一方で、植物の成長にとったら、天からの恵みの雨でもあります(使徒14:17)。
そんなことを思いながら、人間の幸せになる道は、ひとつのことを、一方の視点ではなく、他方の視点から見直すことではないかと思いました。他方の視点とは、神様の視点です。

うっとうしい雨ですが、神様の視点で見直すと、その雨は、恵みの雨へと変わります。
苦しみから喜びへと、神様の視点が、わたしたちの心を変えます。


山口  平賀和弘
(No.49 08,05,31.防府教会牧師室便りより)

 


霊的パッケージ(セット商品)

2008-06-01 20:41:10 | メッセージ

先々週の『牧師室便り』では、「5%にエネルギーを注げ」のお話をさせていただきました。それは、私たちにとって最も必要なことの一つが「人格形成」であること。そしてその「人格形成」は他人に任せることができない5%の働き(「子供であること」「夫であり、妻であること」「父・母であること」「祖父・母であること」「自分を成長させること」)によって築かれる、というものでした。今月の2日に、東京の御茶ノ水で開かれた「教会におけるリーダーシップ」というセミナーからのお話です。

講師のウェイン・コデイロ牧師(ニュー・ホープ・クリスチャン・フェローシップ・オハウ教会主任牧師)は「自分を成長させること」について、さらに「霊的パッケージ」という言葉を使って説明されました。「パッケージ」とは、いくつかの商品をひとまとめにしてセットで販売するときにも使われる言葉です。今回の場合、霊的情熱を維持し続けるための工夫4つを1セットにしてご紹介下さいました。次の通りです。

① 良い書物をよく読む。リーダーは霊的な良書、リーダーシップに関する本を読む。
② 心を燃やす人々と交わる。
③ スタッフ(教会)との間で起きた問題をできるだけ早く解決する。スタッフとの関係が喜びに満たされなければならない。
④ ディボーションの時間を大切にする。日々のディボーション(祈り、聖書を読み、ノートを取り、神様と交わり、御言葉を実行する)は必要不可欠である。

 私たちにとって、①の良書はエレン・G・ホワイトの書物が最も推薦できると思います。
 ②のように教会や小グループでの交わりで、霊的情熱のある人と接して元気をいただけます。
 ③のように、兄弟姉妹との間で起きた問題は速やかに解消できたら素晴らしいと思います。
 そして④、毎日のディボーション(祈り、聖書を読み、ノートを取り、神様と交わり、御言葉を実行する)です。
 「『ディボーション』という言葉は英語ですから嫌です」という方が時々いらっしゃいますが、そろそろ言葉の意味を理解していただければと思います。そのようでは、「SDA」も「ソング・サービス」も、「グループ」も使ってはならないことになりかねません。不必要なカタカナ英語は避けるべきですが、「ディボーション」のように日本語にすると「一人で神様と向かい合い、祈り、聖書を読み、ノートを取り、神様と交わり、御言葉を実行しようとする静かな時間を持つこと」と長くなってしまいます。キリスト教界では今や当たり前のように使われている言葉です。そろそろ市民権を持たせてあげてもよいかと思われます。

 そしてこのディボーションは私たちにとって、重要な事柄です。カタカナ英語だからと言ってかたくなに拒むわけにはいきません。それは私たちクリスチャンにとって生命線だからです。

 イエス様は特にこの時間を大切にされました。ホワイト夫人は次のように書いています。
「イエスは、われわれと同じおかた、われわれの必要と弱さを共にされるおかたとして、全的に神によりたのまれた。そして義務と試練に対して張り切って出て行くために、イエスは、ひそかな祈りの場所で、神の力をお求めになった。・・・主は、神とまじわることによって、ご自分に重くのしかかっている悲しみの重荷をおろすことがおできになった。・・・
イエスはたえまないまじわりを通して神からいのちを受けられた。イエスの経験がわれわれの経験となるのである。・・・
イエスのみことばに留意するとき、われわれはもっと強く、もっと役立つ者となる。・・・もしきょうわれわれが時間をとってイエスのみもとに行き、われわれの必要をイエスに告げるならば、われわれは失望させられないであろう」(『各時代の希望』中100-101)。


大阪  藤田昌孝
(No.605,08,5,31.大阪センター教会牧師室便りより)