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ラムズ・スタディ

聖書の神様のこと、みんなで学び、同じ目標を確認できたらホントすばらしい。

自然に逆らわずに生きる

2009-03-17 21:16:17 | メッセージ

「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。」(ローマ 13:1)

 防府教会では、毎月2回、山口市内にある老人ホームで小グループを行っています。その小グループには、老人ホームに入所されている方も参加されるのですが、ある方が次のようにお話してくださいました。

「自然に逆らわずに生きるということが、この年になって、ようやく分かってきた。例えば、誰でも年をとる。このことは、どんなに偉い人であっても、たとえ天皇陛下であっても逃れられない。90歳を超えて、ようやく自然に生きるということが、どういうことかわかってきた。」とお話してくださいました。

 聖書は、自然に逆らわずに生きることについて「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。」(ローマ13:1)と言っています。上に立つ権威とは、神様の権威です。つまり、神様に従って生きること、それが、人間本来の自然な生き方だと言うのです。

 その方は、小グループで死後の世界について学ばれ、更に、自然に生きるということがどういうことかを知られたようです。人間は罪人であり、本来ならば滅ぼされる者であること。しかし、イエス様が身代わりになって十字架についてくださり、天国に行けるようになったという福音を聞かれると、それを受け入れられ「そうですね」と安心しておられたからです。神様の愛を逆らうことなく、そのままに感謝していただいきたいと思います。


山口  平賀和弘
(09.03.14.防府教会牧師室便りより)


救いの根拠と目的

2009-03-10 20:10:34 | メッセージ
「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」(フィリピ2:12)。

 この聖句は、いかにも「自分の救いのために、善き行いをするように」「善き行いをして自分が救いにあずかるように」という、いわゆる「行いによる義」を表しているかのようです。

 しかし、筆者のパウロはその前のエフェソの信徒への手紙では、
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません」(エフェソ2:8、9)。と語っています。

 エレン・ホワイトも次のように語っています。
「堕落した人が自分の最高の行いによって何かに値する人間になるのは不可能であるという事柄ほど、熱心に熟考され、何度も繰り返され、すべての人の知性に堅く確立されるべきことはありません。救いは、イエス・キリストへの信仰によってのみ与えられるのです」(『信仰と行い』17)。

いったい、ここ(フィリピ2:12)で言っている「自分の救いを達成する」とは、どういう意味なのでしょうか?
それについては、続きのフィリピ2:14、15を見てみましょう。
「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き」(フィリピ2:14、15)。

どうやら、ここで言われている「自分の救いを達成する」とは、「世にあって光を輝かすこと」を表しているようです。
神様が私たちに与えてくださる「救い」は、単なる「罪の赦し」だけではなさそうです。私たちに神様が与えてくださる「救い」は、「清められ」「世に光を輝かすこと」が含まれています。

キリストの救いについては、便宜上、「救いの根拠」と「救いの目的」の2つに分けて考えることができます。
「救いの根拠」については、エフェソ2:8にあるとおりです。
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」(エフェソ2:8)。
これはキリストの十字架を意味します。私たちはキリストの十字架によってのみ罪が赦され、神の子となりました。
では、何故、私たちはイエス様の十字架によって救われたのでしょうか?
「救いの目的」については?

同じくエフェソ2:10にあります。
「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです」(エフェソ2:10)。

私たちがキリストの十字架によって救われた目的は、私たちが、神様のみ言葉に従う者となり、変えられてゆくこと、世にあって光を輝かすことだと言えます。
であるなら、私たちは、救われた者の一人として、神様のみ言葉を神様のお力で実行させていただきたいと願います。

「あなたは、キリストに従う者になりたいと願いながら、どのようにして始めたらよいかわからずにいるであろうか。あなたは暗い中で、光を見いだす方法を知らないでいるだろうか。今、持っている光に従うことである。あなたの知っている神のみことばに従う決心をしなさい。神の力、神のいのちそのものがみことばのうちに宿っている。あなたがみことばを信仰をもって受け入れる時、それはあなたに服従する力を与える。あなたの持っている光に従えば、もっと大きな光が来る」(『祝福の山』187頁)。


大阪  藤田昌孝
(No.645,09,3,7.大阪センター教会牧師室便りより


権威ある教え

2009-03-03 19:46:13 | メッセージ

「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(マタイ7:28、29)。

イエス様は「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」とあります。これはいったいどのような意味なのでしょうか?
それについて、E・G・ホワイトは『各時代の希望』上巻の中で次のように語っておられます。

律法学者は自説を語った
「彼ら自身の考えと言い伝えとが神のみことばの教えと入れ代っていた」(『各時代の希望』上314)。
律法学者たちは諸説を語った
「ラビ(教師)たちは、聖書のみことばがある意味にも解釈され、またはそれと全然正反対の意味にも解釈されるかのように、疑いとためらいとをもって語った。聞く者たちは毎日ますますわからなくなった」(同上316)。

 律法学者たちは、「自分はこう思う」という自分の考え自分の意見を語りました。また、あの意見この意見と諸説を語り、分類整理はするものの、真理を明確にすることはしませんでした。
 しかし、イエス様はそれらとは対照的です。E・G・ホワイトは、以下のように続けます。

イエス様は聖書の御言葉を語られた
「イエスのみことばは、父祖たちと預言者たちの教えを豊かな光で照し、聖書は人々にとって新しい啓示となった。イエスの聴衆は、これまでにかつてなかったほど神のみことばに深い意味をみとめた」(同上316)。
 イエス様は、人間の考え出した諸説ではなく、聖書の言葉、「ここにこのように書かれている」と神様の言葉を分かりやすく語られ、聖句の持つ深い意味を明瞭に解き明かされました。
イエス様は人々を知っておられた
「イエスは人々の困難をよく知っている者として、彼ら自身の立場に立って人々に応待された。彼は真理を最も率直で単純な方法で示すことによって、それを美しいものとされた」(同上316)。

言葉を語る場合、2つの理解が必要です。1つは、語るべき内容に精通していること。もう1つは聴衆をよく理解していることです。イエス様は語る相手となる人々の状況、その必要に精通しておられました。ですから、神様の御言葉が自分たちの事柄として浸透していったのです。

イエス様は目的を定めておられた
「イエスは達成すべきはっきりした目的を持っているおかたとして語られた。イエスは永遠の世界の事実を示しておられた。どのテーマにも神があらわされた。イエスは、人々が地上の事物に心を奪われてのぼせている状態を打破しようとされた」(同上316)。

 イエス様は人々の価値観や生き方を変えることを目的として語られました。単なる知的満足を与えようとはされませんでした。人々の価値観や生き方をこの世の事柄から永遠の事柄へと変えようとなさいました。
イエス様は御言葉に生きることを教えられた 
「イエスは、天と地がつながっているということ、また神の真理を知ることによって、人は日常生活の義務を一層よく果すことができるようになることをお教えになった」(同上316-317)。

 神様の御言葉に生きるということは、日常生活の小さな義務から始まるということをイエス様はお教えになりました。人がイエス様とつながっていることは、難しい儀式を行うことではなく、両親を敬い、子どもを怒らせず、妻を愛し、夫に従い、勤勉に働く、といった日常の小さな義務から始まることをイエス様は説かれました。人々はそのような生活に密着したイエス様のお言葉に権威を覚えたのです。

 私たちの日常生活も、このイエス様のお言葉によって日ごとに新しくされ、御言葉を行う者の祝福に豊かにあずからせていただきたいと願います。


大阪  藤田昌孝
(No.644,09,2,28.大阪センター教会牧師室便りより)





愛の人の幸せ

2009-02-26 20:39:11 | メッセージ

以前から、島田真澄先生より紹介されていた『ただ愛すればいい』(岡野俊之、オイコス出版)を最近ようやく読みました。
なかなか素晴らしい内容でした。

開いてすぐの「はじめに」には、次のように書かれています。
「クリスチャンは、幸せに生きると、伝道しないではいられません。
教会が愛にあふれていると、救われる人が、自然に起こされてきます。
至福の人、それは、愛に生きる人です。
愛の人が集まっているところ、これが教会です。
愛の人たちが集まる教会には、葛藤や、ストレスではなく、喜びと、平安があります。
牧師は信徒たちを愛し、信徒たちも牧師を愛し、
そこには、いつも、一致と、調和があります。
教会に行くと疲れる、のではなく、教会に行くと癒されます。
ですから、信徒たちは、福音を伝えずにはいられません。
それで、教会に集まる人の数も、自然に増えてしまいます。」

初めのほうにはこのようなことが書かれていました。
「人は死ぬまで幸せを求めます。若いうちは仕事に励み、老後は楽しいことを計画し、死ぬまで幸せに生きたいと願います。しかし、私たちの人生は、自分のやりたいことを好きなようにやりながら死んでいく、というようにはつくられていないようです。恋愛結婚して楽しい生活を始めても、やがて子どもが生まれ、親となり、「子どもに仕える生活」が始まります。母親は、自分が眠くても、疲れていても、夜中も起きて赤ちゃんにお乳を与え、日に何度もおむつをかえ、子どもに仕えなければなりません。少し成長してハイハイするようになると、危険なものを口にしないかと気を配り、親は子どもから目が離せなくなります。もっと大きくなると、幼稚園の送り迎えで時間を縛られ、小学校の毎日の持ち物チェックや学校行事に追われます。中学生や高校生になると、教育費がふくらみ、親は、子どもたちのためにひたすら働きます。そして、ついに子どもたちの自立する時が来て、ほっと一息、夫婦でのんびりしようと考えますが、そこに待っているのは、年老いた親の介護です。そして、やっと親の介護から解放されたかと思えば、次の夫の介護や妻の介護が待っています。人間は死ぬまで、だれかを愛し、だれかに仕えて生きるように造られているようです。神様が、私たちをそのように造られたのです」(『ただ愛すればいい』143頁)。

 律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。」(ガラテヤ5:14)
 「愛の人で、幸せでないという人はいないと思います。なぜなら、愛の人は、与えることに生きがいを感じることのできる人だからです。失うことを恐れたりしません。なぜなら、愛の人は、自分に死んで、仕えることに生きがいを感じることのできる人だからです。人に仕えることに時間を奪われて、自分の好きなようにできないということを不満に思ったりしません。命をも捨てられたイエス様のような人たちなのです」(同上145頁)。

 「クリスチャンの多くが、受けることを通して満足を得ようとします。教会の多くが、自分を大きくすることによって満足を得ようとします。しかし、聖書の教えは逆なのです。真の幸せとは、与えること、失うこと、犠牲を強いられること、好きなようにできないこと、仕えること、死ぬことなのです。赤ん坊に、朝も昼も夜も夜中も自由を奪われた母親のように、だれかのために愛して仕えることに満足し、喜びを感じることのできる人は、本当の幸せをつかんだ人です」(同上146頁)。
 
 いかがでしょうか? なかなかの良書だと思います。


大阪  藤田昌孝  
(No.643,09,2,21.大阪センター教会牧師室便りより)



聖霊の春風

2009-02-15 17:05:14 | メッセージ

恋しい人は言います。
「恋人よ、美しいひとよ/さあ、立って出ておいで。
ごらん、冬は去り、雨の季節は終った。
花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。
この里にも山鳩の声が聞こえる。
いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。恋人よ、美しいひとよ
さあ、立って出ておいで。
岩の裂け目、崖の穴にひそむわたしの鳩よ
姿を見せ、声を聞かせておくれ。お前の声は快く、お前の姿は愛らしい。」(雅歌 2:10-13)

 神様は、今、わたしたちに向かって呼びかけられておられます。
 霊的な冬は過ぎ去り、聖霊の風が吹いています。あなたにも聞こえませんか?あなたも感じませんか?春の風が吹いてきたのです。温かく、優しい風が吹いています。凍った風が、心を突き刺すこともなくなりました。聖霊の春風は優しく、わたしたちの心を溶かし、癒します。縮こまっていた心も柔らかく、開いていきます。花が咲き、キリストの香りが、解き放たれていきます。

 傷つけられることを恐れて岩の割れ目に隠れていた生活はもう終わりました。あなたは、神様に愛されている者、美しい者なのです。暗い洞窟の生活とは別れを告げましょう。さあ、立って、主の愛に応え、キリストの香りを放つ花を咲かせていただきましょう。実を結ばせていただきましょう。

※参考文献:テル子・ジュディー・ミドルトン「力と気品を身につける」


山口  平賀和弘
(No.84.09,2,14.防府教会牧師室便りより)


祈祷会

2009-02-10 20:09:32 | メッセージ

 「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」(使徒言行録2:42)

 今週の牧師室便りは、祈祷会について考えてみたいと思います。
 祈ることの重要性は、クリスチャンの誰もが知っています。しかし、祈りの素晴らしさは、どんなに祈りの重要性を知っていても、実際祈ってみなければわかりません。そこで、祈りがささげられているところに、努めて機会あるごとに行かれることをお勧めします。
 人間、祈りたくてしかたがないという時もあれば、祈ろうとしても祈れないという時もあるかもしれません。いずれの場合でも、みんなで集まって、互いに励まし合い祈ってまいりましょう。

 また、祈祷会に行きたくても「足が弱くて教会に行けない。」あるいは、「昼間は仕事のために教会に行けない。」という方もおられるかもしれません。そう言った方は、ぜひ、牧師や教会理事会にご相談ください。家庭集会(訪問)や夜の祈祷会の新設などを考えたいと思います。
 また、既にある祈祷会は、更に良いものにしたいと思います。そのために続いて、祈祷会について書かれたいくつかの記事をご紹介させていただきます。

 「祈祷会は、最も興味のある集会でなければならないが、しばしば、うまく行われていない。礼拝に出席するが、祈祷会に出てこない者が多い。この点についても考えてみる必要がある。祈祷会が興味深く、人を引きつける集会となるように、知恵を神に求めながら計画をたてなければならない。人々は、命のパンに飢えている。祈祷会でそのパンが与えられるなら彼らはそれを受けるために出かけるのである。
 長ったらしい単調な祈りは、どこでも、特にあかし会においては適切ではない。でしゃばりで、いつも話したがる人が、臆病で内気な人々のあかしを押しのけてしまう。最も浅薄な人が、普通、最も話が多い。彼らの祈りは、長くて機械的である。彼らは、それを聞く天使たちや人々をあきあきさせる。祈りは、短く、要を得ていなければならない。必要なら、長ったらしい、あきあきする願いごとは、密室でしなさい。神のみたまが宿る時、無味乾燥な形式が一掃されるであろう」(『教会へのあかし』第四巻p70−71)。

 毎週の祈祷会が非常に大切であるから、それを成功させるために、なみなみならぬ努力をそそがなければならない。たとえ、出席者が2、3人でも、時間どおりに集会をはじめなければならない。短い聖書研究か、あかしの書からの勧めがなければならない。15分か20分で十分である。次に、教会員の祈りとあかしの会にする。毎週、集会の計画に変化をもたせる。研究のあとに祈り会をしたら、次の時には研究のあとをあかし会にし、祈りと讃美歌で終わる。
 教会員が祈祷会のために一定の場所に集まることができなければ、家庭集会を開いて、出席者に大きな益を与えることができる(『教会指針』p98−99)。

 人々は、暖かい交わりを感じる場所に必ず引きつけられる。祈祷会は、証し、黙想、語り合いの時間を含むべきである。
 証しは短く新しいものを。「主が今週、あなたにどんなことをしてくださいましたか」「今月どんな祈りが答えられましたか」「今年はどんな救霊の経験をしましたか」と尋ねる。よくしゃべる人を抑え、内気な人に発言をうながす。証しを割り当てる。好きな聖書の箇所や、どのようにしてクリスチャンになったかなど(『牧師指針』p199)。


山口 平賀和弘 
(No.83.09,2,7.防府教会牧師室便りより)



最後の危機の助け

2009-02-08 20:02:05 | メッセージ

 今期の聖書研究ガイドの学びは預言の霊についてです。特に私たちに与えられています預言の霊、エレン・G・ホワイトの書物について、その役割と重要性を学ぶことができます。
『セブンスデー・アドベンチスト教団信仰の大要』17に、次のように記されています。
「聖霊の賜物の一つは預言である。この賜物は残りの教会を見分けるしるしであって、エレン・G・ホワイトの奉仕にあらわれている。主の使者としての彼女の著書は、つねに信頼のおける真理の源であって、教会を慰め、導き、教え、その過ちを正す。彼女の著書はまた、聖書がすべての教えと経験を審査する基準であることも明らかにしている」(『アドベンチストの信仰』370ページ)。
 私個人も、ホワイト夫人の書物を通して、イエス様のご人格を知り、イエス様のことがより大好きになる経験を繰り返させていただいております。
 以下の文章は、『アドベンチストの信仰』に書かれています、預言の賜物についての文章です。
『聖書研究ガイド』の学びの参考になれば幸いです。

最後の危機の助け
地球歴史最後の日に、神の民は彼らを亡ぼそうとして、最後の試みをしようとするサタンである龍の怒り狂った力を経験するであろうと聖書は明らかにしています。(黙示録12:17)。これが「国が始まってから、その時にいたるまで、かつてなかったほどの悩みの時」(ダニエル12:1)となるでしょう。この最も激しい時代の戦いからご自分の民を救い、生き残らせるために、神は深い愛をもって、彼らが決して一人でないことを確信させて下さるのです。
イエスのあかし、預言の霊は、民をキリスト再臨のとき、救い主と一体となるという最終目的に、安全に導いて下さるのです。
 次の例話は、聖書と聖書時代後の預言の賜物というものとの関係を説明しています。
「わたしたちが航海に出ようとしていると仮定しましょう。船主が、わたしたちに説明書をくれます。この中には、わたしたちの航海に必要で充分な説明が書いてあります。だからもし、この説明書に注意を払っていくなら、わたしたちは安全に目的の港に着くでしょうと船主は言いました。
出帆にあたって、説明書を開いて内容を調べはじめます。そこには、航海におけるわたしたちの行動を決定する一般原則が定められてあります。更に、航海が終わるまでに出合うであろうできごとに対し、実際的な対処ができるよう書かれてあります。
しかし、わたしたちの航海の終わりの方は特に危険であろうとも書いてあります。海岸の様子が、流砂や暴風によって大変かわりやすいからです。
それで次のように書いてあります。
『しかし、この付近の航海には、私が水先案内人を用意してあげましょう。彼はあなたがたのところに行き、まわりの情況や様々な危険に対処する指示を与えるでしょう。だから、あなたは彼の言うことに注意していなさい』。
指示通りにしているうちに、言われていた危険な場所にやってきました。約束どおり水先案内人が現れました。
しかし、彼が援助の手をさしのべようとするのに、乗組員のある者たちが立ち上がって彼に対して言いました。
『わたしたちはここに説明書を持っています。これで充分です。わたしたちはこの本に書いてあるとおりにやっているのであなたは必要ではありません。』
いったい今、だれがこの説明書に注意を払っていると言えるでしょう。この水先案内人を拒んだ人たちか。あるいは、説明書が言っているように水先案内人を受け入れる人たちでしょうか。あなたがたの判断に委ねよう。」(『アドベンチストの信仰』379-380)。


大阪  藤田昌孝
(No.641,09,2,07.大阪センター教会牧師室便りより)




とるに足りない者

2009-02-02 19:56:57 | メッセージ

 今回は私ごとですみませんが、私の証しです。

 今月の18日の西日本教区総会に続いて、教団主催の牧師会がもたれました。そこでの主なメッセージは、牧師の悔い改めと更なる献身をうながすものでした。
福音伝道の働きの伸び悩みのための什一の減少は、牧師数の大幅な減少を余儀なくされていることが報告されました。牧師新規雇用の制限、牧師生活費の削減、牧師解雇、牧師転職の必要などがうったえられました。私たちは今後、今までよりさらに少ない牧師配置の中で厳しい戦いを強いられているわけです。

私は、一牧師として、福音宣教のために働かせていただいております。教団・教区という組織を維持するために働いているわけではありません。しかし、牧師数減少の原因が福音宣教の伸び悩みが原因であるとするならば、私は主の前に悔い改めと献身を新たにすべきです。
しかも、このような事情をすでに理解した上で、教区長の働きをお引き受けいたしました。自分の非力さと責任の重さ、困難の大きさを考え何度も抵抗を試みましたが、このような選択をいたしました。エレン・ホワイトの神様からの召しを受けたモーセの描写を思い出しました。

「神の命令がモーセに与えられたとき、彼は、自信がなく、口が重く、おくびょうであった。彼は、イスラエルびとに対する神の代弁者としての、自分の不適任さを思って圧倒された。しかし、ひとたびその任務を受け入れるや、主にまったく信頼を寄せ、全心をこめて働きを始めた。彼はこの偉大な働きのために、彼の知力のかぎりを尽くして働いた。神は、モーセのこのような従順な態度を祝福されたので、彼は雄弁になり、希望に満ち、落ちつきを取りもどして、人間にゆだねられた最大の働きにふさわしい人物となった。これこそ神にまったく信頼し、主のご命令に完全に従う者の品性を神が強化されるよい実例である。
人間は、神がお与えになる責任を受け入れ、全力を尽くして正しく遂行しようと願うときに、力と能力とを受けるものである。たとえ、その地位がどんなに低く、その能力にかぎりがあったとしても、神の力に信頼し、その働きを忠実に果たそうとするものは、真に偉大なものになるのである。もしも、モーセが自分の力と知恵に頼り、大きな責任を自分から進んで負ったとすれば、彼はそのような働きに全然不適当であることを示したことであろう。人間が自分の弱さを認めるという事実は、少なくとも彼が、与えられた仕事の大きさを認識し、神を彼の力、助言者とするということの証拠である」(『人類のあけぼの』上291)。

自分とモーセを比較するなど甚だ僭越ですが、あのモーセでさえ、自信がなく、臆病であったというところに慰めを覚えました。

ドワイト・ムーディーは、モーセについて、このように語っています。
「モーセは自分はひとかどの人物であると考えて40年を全くとるに足りない人間であることを学ぶのにさらに40年を全くとるに足りない者に神が何をしてくださるかを発見するのに、さらに40年をすごした」。

私はひとかどの人物であるなどとは考える間もなく、ひたすら、とるに足りない人間であることを学ぶのに、50年をかけてきました。
あとは、とるに足りない者に神様が何をしてくださるかを発見してゆかなければなりません。

牧師のみならず、多くの信徒の方々とご一緒に、この福音宣教の働きに献身してゆきたいと思います。私たちが、この偉大な働きのために、主に信頼を寄せ、知力の限りを尽くして働くならば、神様は豊かな祝福をもって報いてくださると信じます。
もし今が宣教の危機の時とするならば、今こそ、神様がその扉を開いて招いておられるのだと思います。


大阪  藤田昌孝
(No.640,09,1,31.大阪センター教会牧師室便りより)



少しのもの

2009-01-27 19:48:28 | メッセージ

一日という箱のふたを開ける前まで、
一日というのは、こわいものだと思っていた。
彼女は朝と歌い、昼とダンスして、夜と笑いあった。
彼女は、そんなふうに一日とつきあっていった。
やがて、一日は彼女を好きになったのだ。
『セフティ・マッチ氏の銀の言葉』より


新約聖書マタイによる福音書25章14節から、イエス様がお話しになった天国のたとえ話でタラントンの話が出てきます。ある人が3人の僕たちにそれぞれ、5タラントン(約3億円)、2タラントン(約1億円)と1タラントン(約6000万円)を委ねて旅に出ました。5タラントン約3億円預けられた人と2タラントン約1億円預けられた人は、商売をしてそれぞれのタラントンを2倍に増やします。そして帰ってきた主人と一緒に喜びました。しかし1タラントン約6000万円預けられた人は何もせずに土にうめ、王様にしかられます。1タラントンは没収され、彼は暗闇に追い出されてしまいました。

私はこのたとえ話で、タラントンを2倍に増やした5タラントンと2タラントンの人に向けての主人の言葉が気になりました。
「忠実なよい僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」(マタイ25:21)。
ここで主人は「少しのもの」と言っています。しかし預けられたタラントンは3億円や1億円です。決して「少しのもの」ではありません。

何故、3億円や1億円が「少しのもの」と言われたのでしょうか。
おそらく天国は、圧倒的な豊かさを持っているゆえ、3億円や1億円が「少しのもの」と感じられてしまうからなのでしょう。クリスチャン生活は、祝福に満ちた生活です。この世において、愛、喜び、平安など、キリストがなければ決して得ることができないものを持っています。罪が赦されて、信仰によって義とされ、造り主なる神様を、「お父さん」と呼ぶことができるのです。しかしそれでも神様にとってそれらはまだまだ、ほんの「少しのもの」にしかすぎません。神はさらに、私たちが推し量ることのできないほど豊かな祝福を、私たちのため天国に用意されているのです。

主人が「少しのもの」と言った、もうひとつの理由は、どれほど大きな働きも、「少しのもの」の積み重ねだ、ということではないでしょうか。大きな働きを完成させるためには、毎日の「少しのもの」を忠実に果たすことが必要です。朝、起きて、祈り、讃美を献げ、御言葉を読み、祈り、一日の働きを、「少しのもの」の積み重ねとして、一つ一つ忠実に果たす、夜は悔い改めと感謝の祈りで床につく。そのような日々の結果、大きな働きが生まれてくるのです。
しかも、それらは、辛さや苦労を伴いながらも、基本的には喜びのうちになされてゆきます。なぜなら、「少しのもの」に忠実である者は、主人と一緒に喜びを分かち合うからです。

それについて、忠実な僕と、なにもしなかった僕との違いが明らかです。忠実な僕は王様と喜びを共にする関係でした。ですから主人からあずかったタラントンを少しでも用いて、お役に立ちたい、と願ったのでしょう。いてもたってもいられず、忠実に働いたのです。しかし、何もしなかった僕は、主人のことを残酷で理不尽な人と理解していました(マタイ25:24参照)。ですから、うかつにタラントンを用いることができなかったのです。

 私たちが、日々の「少しのもの」に忠実であるためには、神様と喜びの関係が必要です。神様が私たちに向かって喜んで、このようにおっしゃってくださる関係です。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17新改訳)との関係です。
 この神様の愛をさらに広く、さらに深く理解してゆくならば、私たちは喜びのうちに「少しのもの」に忠実になると思います。主は豊かな実りを実現してくださるにちがいありません。


大阪  藤田昌孝
(No.639,09,1,24.大阪センター教会牧師室便りより)




打ち明け話にうなずいて

2009-01-25 16:16:48 | メッセージ

「求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピの信徒への手紙 4:6)


 先日行われた地区牧師会で、「職場でできる・家庭でできる・あなたのためのメンタルヘルス」(横浜労災病院メンタルヘルスセンター長・山本晴義監修)という冊子が配られました。その冊子の一部をご紹介いたします。

 悩み、ストレスで心がつらいときには、誰かに相談しましょう。人と話すと、閉じ込められていた思いを打ち明けることができてほっとしたり、自分ひとりでは気づかなかった問題点を見つけたりすることができます。相談相手は、医療機関や勤務先の産業医はもちろん、家族や友人、同僚など、自分にとって身近な人でも良いのです。

 心の疲れ(食欲がない、仕事でやる気が出ないなどの徴候)に気づいたら、まず、誰かに相談しましょうと勧められています。そうすることによって、ほっとしたり、自分ひとりでは気づかなかった問題点を見つけたりすることができると言うのです。あなたには、打ち明け話ができる相談相手がいるでしょうか?また、逆に、あなたは、打ち明け話をされた時、相手の話を聞くことができるでしょうか?

 私は、なかなか相手の打ち明け話を聞くことができない自分に気づかされることがあります。例えば、「もう自分は、死んでしまいたい」「もう消えてしまいたい」などと相談されたとき、あなたでしたらどうされるでしょうか。
 心理学博士の碓井真史先生は、次のように言っています。
 「死にたいと言う人に限って死んだためしはない」と楽観的に考えて軽く対応されるでしょうか。あるいは、「そんなことは言ってはいけません」と叱ったり、「死ぬ気になればなんでもできる」と説教したり、「あなたは高価で尊い」などの聖句を紹介されたりするかもしれません。

 それは、正しいことです。しかし、残念ながら、それはほとんど役に立っていません。自殺を考えているような人は、正しい言葉を本気で受け取ることができないほどに、心が疲れているからです。そのような態度をとっても相手は、「ああ、この人も私のことをわかってくれない」と孤独感を強めるだけなのです。

 相談相手に必要なのは、その人の話に耳を傾けて聞くことです。私たちは、普通、死にたい理由など聞きたくありません。自分の価値観とは違う神様の愛を無視し、自分の存在意義を否定する話など聞きたくないのです。ですから、相手の話しを遮り、自分が話そうとするのです。しかし、「私の話しを聞け」ではなく、「あなたの話しが聞きたい」という態度こそが、その人の助けになります。「どうしたの?」「何があったの?」と聞いてみましょう。

 このことは、聖書の言葉を伝えて伝道してはいけないのか?信仰や自分の考えを持つなと言うことではありません。むしろ、自分の考えをしっかりと持っていない人ほど、反対意見にあうと、冷静さを失って相手の話しを聞けなくなります。私たち自身が、まず、神様の愛、人の価値、命の大切さを確信し、どんな人から何を言われても、揺るがない信仰を持つことが必要です。その土台があれば、「俺の話しを聞け、私の話しを信じなさい」ではなく「あなたの気持ちがわかりたい」という愛のある態度がとれるのです。

 人は、話しを聞いてもらうこと、受け入れてもらうことで、自分が大切にされている感覚がよみがえってきます。そして、ただ、静かに話しを聞きながら、「あなたが死んだら私は悲しい」というあなたの素朴な思いを伝えることが必要です。自殺という行為を認めるのではなく、自殺を考えてしまうほどの相手の状態をそのまま認め、愛するのです。イエス様が、私にしてくださったように、良い相談相手になりたいと思います。


山口  平賀和弘
(No.81.09,1,24.防府教会牧師室便りより)