「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい」(フィリピ2:12)。
この聖句は、いかにも「自分の救いのために、善き行いをするように」「善き行いをして自分が救いにあずかるように」という、いわゆる「行いによる義」を表しているかのようです。
しかし、筆者のパウロはその前のエフェソの信徒への手紙では、
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません」(エフェソ2:8、9)。と語っています。
エレン・ホワイトも次のように語っています。
「堕落した人が自分の最高の行いによって何かに値する人間になるのは不可能であるという事柄ほど、熱心に熟考され、何度も繰り返され、すべての人の知性に堅く確立されるべきことはありません。救いは、イエス・キリストへの信仰によってのみ与えられるのです」(『信仰と行い』17)。
いったい、ここ(フィリピ2:12)で言っている「自分の救いを達成する」とは、どういう意味なのでしょうか?
それについては、続きのフィリピ2:14、15を見てみましょう。
「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き」(フィリピ2:14、15)。
どうやら、ここで言われている「自分の救いを達成する」とは、「世にあって光を輝かすこと」を表しているようです。
神様が私たちに与えてくださる「救い」は、単なる「罪の赦し」だけではなさそうです。私たちに神様が与えてくださる「救い」は、「清められ」「世に光を輝かすこと」が含まれています。
キリストの救いについては、便宜上、「救いの根拠」と「救いの目的」の2つに分けて考えることができます。
「救いの根拠」については、エフェソ2:8にあるとおりです。
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」(エフェソ2:8)。
これはキリストの十字架を意味します。私たちはキリストの十字架によってのみ罪が赦され、神の子となりました。
では、何故、私たちはイエス様の十字架によって救われたのでしょうか?
「救いの目的」については?
同じくエフェソ2:10にあります。
「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです」(エフェソ2:10)。
私たちがキリストの十字架によって救われた目的は、私たちが、神様のみ言葉に従う者となり、変えられてゆくこと、世にあって光を輝かすことだと言えます。
であるなら、私たちは、救われた者の一人として、神様のみ言葉を神様のお力で実行させていただきたいと願います。
「あなたは、キリストに従う者になりたいと願いながら、どのようにして始めたらよいかわからずにいるであろうか。あなたは暗い中で、光を見いだす方法を知らないでいるだろうか。今、持っている光に従うことである。あなたの知っている神のみことばに従う決心をしなさい。神の力、神のいのちそのものがみことばのうちに宿っている。あなたがみことばを信仰をもって受け入れる時、それはあなたに服従する力を与える。あなたの持っている光に従えば、もっと大きな光が来る」(『祝福の山』187頁)。
大阪 藤田昌孝
(No.645,09,3,7.大阪センター教会牧師室便りより