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ラムズ・スタディ

聖書の神様のこと、みんなで学び、同じ目標を確認できたらホントすばらしい。

生活をかえる力

2009-06-06 06:59:52 | メッセージ
 
 イエス様が天に上げられた後、キリストの弟子が次から次へと増えていった原因についてホワイト夫人は、次のように語っています。
「福音を、生命のない理論としてではなくて、生活をかえる生きた力として示さねばならない」(『各時代の希望』下375)。
キリストの弟子が増えた理由、それは彼らの日常生活にあったようです。
歴史学者のロドニー・スタークは当時のキリストの弟子たちと世の中との決定的な違いについて、7つの事柄を紹介しています。

1.愛の神様
当時の偶像宗教に、「愛の神様」を見つけることは困難でした。一方キリスト者の神様は「愛の神様」でした。キリストの弟子たちは神様に赦され、癒され、喜ばれ、神様とイエス様に愛されていたのです。
2.憐れみと恵みに生かされていました
弱肉強食の世の中で、キリストの弟子たちは、神様の恵みを知り、その恵みと慈しみをお互いに表し合っていました。
3.残虐さを拒む
当時の人々は円形競技場で、人と人を戦わせ、ライオンに人間を殺させては喜んでいました。キリストの弟子たちはそれらに興じませんでした。
4.差別がない
キリスト者は、人種の差、主人と奴隷の壁を越え、互いに兄弟姉妹と呼び合っていました。それは当時としては画期的なことでした。
5.妻を自分のように愛した
当時、女性や妻の地位は非常に低く、物扱いされることさえありました。一方、夫が妻を愛し大切にするクリスチャン夫婦のあり方は当時の人々に強い感動を与えました。
6.子どもを大切にする
当時、子どもは捨てられたり、殺されたりしました。子どもを大切にするキリストの弟子たちは人々から尊敬されました。
7.互いに愛し合う
キリスト者は互いに愛することを人生の目的としていました。

 「あなたは、キリストに従う者になりたいと願いながら、どのようにして始めたらよいかわからずにいるであろうか。・・・今、持っている光に従うことである。あなたの知っている神のみことばに従う決心をしなさい。神の力、神のいのちそのものがみことばのうちに宿っている。あなたがみことばを信仰をもって受け入れる時、それはあなたに服従する力を与える。あなたの持っている光に従えば、もっと大きな光が来る」(『祝福の山』187頁)。


西日本教区 藤田昌孝
(教区長室便りよりNo.10,09,06,06)
 

思い煩いからの解放

2009-05-10 07:32:39 | メッセージ

思い煩いからの解放
リック・ウォレン牧師(カルフォルニア州サドルバック教会主任牧師)がウツ状態から回復した証を著書『回復への道』に書いています。

リック・ウォレン牧師は、開拓伝道を始めて2年目、重いうつ病にかかりました。やるべきことは山ほどあるのに、体が動きません。そんな中で、彼は、名刺サイズの白いカードに、肯定的な聖書の言葉、そして裏には自分の生活への適応を書き込みました。たとえば、「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。(ロマ8:1)」を書き入れて、裏には「私がうつ状態にあっても神様は、私を罪に定めない。調子の悪いときでも、神様は変ることなく、私を愛してくださる」と書きます。または、「私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる」(ピリピ4:13)と書いて、裏には、「今日も1日回復へと向かっている」と書き込みます。日中それをポケットにいれて持ち歩きます。時々それを読み返します。寝る前に、もう一度それを読み、黙想します。4~5週間のうち、彼の病気は癒されました。

私たちは、見ているものに向かってゆきます。自転車に乗り始めの頃、電信柱にぶつかってはいけない、と思って見ていると、電信柱にスーと引き寄せられてゆきます。それが何であろうと、自分が焦点を合わせているものに、人は支配されてゆきます。過去の自分に焦点が合わせられていれば、過去の自分に支配されます。悪い習慣「こんなことはよそう」と思えば、思うほど、人はそこに向かいます。それに支配されてしまいます。
反対に、神様が願われていること、神様が私の人生に願われていること、そこに焦点を合わせてゆくならば、私たちは、そちらの方向に向かってゆきます。「これから自分はどうなりたいのか」「神様は自分をどうなさりたいのか」そこに焦点を合わせてゆくのです。
そのために絶大な効果を表してくれるのが…
聖書の言葉、神様のお言葉、聖句です!!
私など、思い煩いに支配されやすい人間のひとりですので、ふと気づくと、気分がふさぎ、思い煩いに支配されています。いつのまにか暗い顔をして家族に迷惑をかけていたりします。

そこで、リック・ウォレン牧師の真似をさせていただきました。ちょうど名刺が切れていましたので、知り合いの印刷屋さんから名刺の印刷と一緒に名刺サイズの紙を安く分けてもらいました。そこに聖書の言葉を書いては、裏に生活の適応を書き留めます。それを名刺入れに入れて、事あるごとに読み返します。もしくはその言葉を思い返すのです。否定的なことを考え出した時、思い煩いに心が奪われそうになった時、聖句を読みます、聖句を思い巡らします。

効果覿面!これはおすすめです!思い煩いから解放されること、請け合いです!しかも、聖書を読む時間が確保されます。毎日聖句を探しますので。飛び切りの聖句を探すことが日ごとの楽しみになります。自分だけのお宝聖句を見つける作業はなんとも楽しいものです。

犬と骨と肉
犬と骨と肉という喩えがあります。骨をくわえた犬から骨を奪おうとすれば、犬は必死で抵抗します。けっして口から骨を離そうとはしません。しかし、隣においしそうな肉を置けば、簡単に骨を手放します。
思い煩い(骨)から解放されるためには、それを考えないようにすればするほど、手放すことができません。
しかし思い煩い(骨)の代わりに、聖書の言葉を(おいしい肉)を置くならば、思いはそちらに向けられてゆくのです。
「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」(フィリピ4:8)。
 是非、お試しあれ!!


西日本教区 藤田昌孝
(No.06,09,05,09.教区長室便りより)





心の休養

2009-05-06 18:40:17 | メッセージ

「天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。」(イザヤ書 1:2)

 ゴールデンウィークが始まりました。みなさんは、どのような計画をたてていらっしゃるでしょうか?私は、長野の実家に帰省します。父と昨年生まれた次女の明衣が会うのは、今回が初めてです。車で片道8時間は、かかると思いますが、再会できることを楽しみに行ってまいります。

 さて、この期間中、ぜひ、あなたにおすすめしたい過ごし方があります。それは、どこか自然の中にでかけ、祈りや黙想の時を持つということです。
 聖書の中に、「文字は殺し、霊は生かす」(Ⅱコリント3:6)という言葉があります。学ぶことは大切なことです。けれども、たとえどんなに勉強して知識を得ても、霊に生きること、つまり、神様と一対一で交わることがないならば、すべては空しいことです。学びすぎれば体が疲れます(コヘレトの言葉12:12~13)。

 さあ、日頃の務めや、雑用、人間関係から離れ、どこか景色のよい場所にでかけましょう。遠くに行く必要はありませんが、できれば静かな自然の中にでかけ、沈黙し、主が語られる声を聞きたいと思います。

 神様は、あなたと交わることを待っておられます。「天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる」(イザヤ1:2)と語るイザヤ書には、「論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる」(イザヤ1:18)と記されています。
 あなたを待っておられる神様との交わりが、きっと、あなたの疲れを癒し、今を生きる力を与えてくださると信じます。祈ります。


山口  平賀和弘
(No.95.09,5,2.防府教会牧師室便りより)



5%にエネルギーを注げ

2009-05-04 10:40:12 | メッセージ

昨年、東京の御茶ノ水クリスチャンセンターで、「教会におけるリーダーシップ」というセミナーに出席させていただきました。

講師はハワイのニュー・ホープ・クリスチャン・フェローシップ・オアフという教会の主任牧師ウェイン・コデイロという先生でした。
先生は13年前に、伝道が最も難しいといわれていたハワイのホノルル市で開拓伝道を始められました。現在は11,000名の人々が礼拝する教会となり、初めてキリストを心に受け入れてバプテスマを受けられた方は8,500名に上ります。しかもこの教会は、牧師を初め、教会員全員が毎日、聖書を読み、神様からいただいた知恵や恵みをノートに書き留める習慣をもっているそうです。教会員は毎日、聖書とノートを開き、そこから霊的な食事を自ら取ることで養われているのです。

 コデイロ牧師自身、超多忙な働きの中、3年前に「燃え尽き症候群」で精神科の治療を受けています。今は完治されていますが、その経験は、彼をしてリーダーシップのあり方や捉え方にずいぶんと変化を与えていったようです。

セミナーの主な内容は、
「教会を大きくすることよりも、もっと大切なことがある。教会の活動を発展させることよりも、もっと重要なことがある。それはリーダーの人格育成である」
「牧師のリーダーとしての人格の成長が、教会各部のリーダーの人格の成長につながる。それなくして教会の成長はない」というものでした。

その中でも、たいへん興味深かったのは、「5%にエネルギーを注げ」というものでした。それは次のような内容です。
私たちのしている働きの85%は他の人でもできます。残念ながら私たちはそれほど重要人物ではありません。さらに、残り15%のうちの10%もトレーニングさえ積めば、これもどなたかに代わっていただけます。なんと、私たちの働きのうち、95%は必ずしも私でなくてもよいのです。代わりがきくのです。
ところが最後の5%だけは、私にしかできません。代わりがきかないものなのです。

 たとえば「子供であること」はその一つです。私たちは必ず誰かの子供です。親が健在であれば、子供として親孝行をすること、これは私にしかできない5%の大切な事柄です。
 結婚されている方は、「夫であり、妻であること」、これも私にしかできない5%の事柄です。
 お子様を授かれば、「父であり母であること」、孫を授かれば、「祖父、祖母であること」、これも私にしかできない5%の事柄です。
そしてもう一つ、忘れてはならないこと、それは「自分を成長させること」です。これも私にしかできない5%の重要な事柄です。自分の信仰や人格を成長させることについて、誰かに代わっていただくことはできません。自分で果たさなければならない大切な事柄なのです。

私たちが、他者に良い影響を与えることのできるリーダー(クリスチャン)となるためには、何よりもまして、この5%において優秀でなければなりません。この5%において成長してゆかなければなりません。この5%にエネルギーを注がなければならないのです。
そしてこの5%が残りの95%を決めてしまいます。私たちのこの世での働きも、教会での働きも、みなこの5%の成長にかかっているといっても過言ではありません。

「自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか」(テモテⅠ3:5)は、まさにこのことです。

 私たちは家族のために、自分の成長のために、エネルギーを注がなければなりません。それは必ずしも時間の問題ではありません。現実問題、私たちは95%の働きに多くの時間が取られています。それでも、私たちはその中にあって5%を最優先とし、そこにエネルギーを注いでゆかなければならないのです。


西日本教区 藤田昌孝
(No.05,09,05,02.教区長室便りより)



実行する

2009-04-28 19:31:13 | メッセージ

「愛の力を信じて」(仮称)をモットーに西日本教区の伝道計画3つの柱①愛 ②使命 ③実行 のうち、今回は③実行についてご一緒に考えてみたいと思います。

「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(ヤコブ1:22)。

 ある経営セミナーで、一人の受講者が、講師(今も現役で売り上げを伸ばしている)に質問しました。
「このような素晴らしい成功の秘訣をこれだけたくさんの受講者に教えてしまって、大丈夫ですか?ライバルが増えてしまうのでは?」
すると講師はすぐ答えます。
「大丈夫ですよ。皆さん、熱心にメモを取っていますが、決して実行しませんから・・・」。

今まで数多くの伝道計画が立案され、提唱されてきました。ところが、どんなに素晴らしい計画も、実行されなければ決して実を結ぶことはありません。

私たちの教会は、年度初めに救霊数や、礼拝出席者数などの数的目標を立てます。それはそれで大切なことです。しかし、礼拝出席目標数を声高らかに訴えても、それによって人々がお礼拝に押し寄せて来るわけではありません。

そのために私たちは熱心に祈り、神様から知恵をいただき、「何か」を計画し、実行しなければなりません。この「何か」のことを質的目標といいます。「何人集めるか」を数的目標というならば、「何をするか」は質的目標といいます。
この「何をするか」について、それぞれの教会で祈り合い、話し合い、計画し、実行し、反省、評価することができたら素晴らしいと思います。
ただそれは、「昨年やったプログラムを今年もどのようにこなしてゆくか」というプログラムの焼き直しではありません。そうではなく、「救霊という実を結ぶために、今何ができるか」について、それぞれの教会で計画し、実行してゆくことです。

そこで、1つの提案なのですが、皆さんの教会理事会のはじめに、30分~1時間を使って、次のことについて話し合っていただくというのはどうでしょう?

1.伝道の入り口について
私たちの教会の伝道の入り口はどこでしょうか?ある教会は小グループ・家庭集会かもしれません。ある教会は招待日のお礼拝かもしれません。あるいは定期的に開かれている講演会かもしれません。求道者をお招きする伝道の入り口を明確にし、その入り口に磨きをかけるために何ができるか、それについて計画します。

2.どのようにバプテスマに導くか
 求道者をお迎えしたら、その方々をどのようにバプテスマに導くか、バプテスマへの道のりについて話し合い、実現に向けて計画します。
安息日に求道者クラスが常時行われていたり、教理のクラスが常に繰り返されていたりするならば幸いです。または、求道者の方がもれなく、どこかの小グループに参加できるとしたら素晴らしいことです。

3.バプテスマ後の弟子育成について
 求道者がバプテスマを受けた後、私たちも含め、どこで、どのようにしてキリストの弟子として育成されてゆくか、どのようにして愛の人に変えられてゆくか、そのことを考えます。
 ある日、祈祷会で、一人の男性がおっしゃいました。
「自分は毎朝聖書を読み、祈りを続けている。それなのに、自分の中に愛が成長していない気がする。どうしたらよいでしょう・・・」。
 私は、「ああ、この方は愛の人へと今変えられているのだな」と感動いたしました。
 そのように愛の人へと育成されてゆく場を整えてゆきたいと願います。

4.健全教会8つの要素について
 健全教会の8つの項目について話し合い、実行することもできます。

 さて、いかがでしょう? 是非実行を・・・。


西日本教区 藤田昌孝
(No.04,09,04,25.教区長室便りより)

 


使命に磨きをかける

2009-04-20 05:11:15 | メッセージ

「愛の力を信じて」(仮称)をモットーに西日本教区の伝道計画、3つの柱についての概要を先週お知らせしました。

①愛 ②使命 ③実行です。

①愛については、『教区長室便り』№1で取り上げました。
そこで今回は②使命についてご一緒に考えてみたいと思います。

私の尊敬する一人の先輩牧師が、次の聖句を引いて、このようなお言葉をくださいました。
 「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と。主の教えはシオンから御言葉はエルサレムから出る」(イザヤ2:2~3)。

 「これからの日本は、終わりの時代を迎え、たくさんの人々が真理を求めて残りの教会に殺到するでしょう。その時、牧師も信徒も、私たちに与えられているSDAのメッセージを自由に伝えることができなければなりません」。
 そのとおりだと思いました。私たちは、今、自分たちに与えられていますメッセージを大切に保ち、それに磨きをかけてゆかなければなりません。

 SDAの最大の特徴は、キリスト中心、聖書中心です。常にキリストの十字架の愛に基づきながら、聖書を毎日読み、み言葉を主のお力によって行わせていただくことが求められています。エレン・ホワイトは次のようにおっしゃっています。
「神と同胞に対する義務は、神のみ言葉の中に、はっきりと詳しく述べられている。しかし、あなたがたのうち、その与えられた光に忠実な人
は少ない」(教会への証・第5巻665頁)。

 私たちに与えられているSDAのメッセージに磨きをかけるとは、聖書のみ言葉に日ごとに生かされることです。

 では、具体的に私たちに何ができるでしょうか?
1.イエス様の愛と赦しのうちに生きる
「ヨルダン川で、イエスに『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』と言われたことばは、全人類を含んでいる(マタイ3ノ17)。・・・どんなに罪や欠点をもっていても、われわれは無価値なものとして捨てられることはない」(『各時代の希望』上118)。
神様の喜びを毎朝心に満たしたいと思います。

2.聖書と証の書を毎日読み、実行させていただく
聖書を毎朝精読して一日の糧を得ます。そうしなければ、私たちは別のものから糧を得ようとします。そこから暗闇と混乱が生まれます。最も良質の糧は聖書と証の書です。いただいたメッセージは、主のお力によって行わせていただきましょう。

3.聖書研究ガイド・ライフ誌・サインズ誌を用いる
私たちSDAの特権の一つに聖書研究ガイドがあげられます。またライフ誌、サインズ誌という大変優れた月刊誌が与えられています。これらを良く読んで、この特権を是非生活に活かしたいと思います。
サインズ、一家に一冊、贈呈用に一冊以上!!

4.全人的回復を体験する
SDAに与えられています健康、教育、家庭、人間関係等の真理を自ら体験してゆければと思います。世の中の多くの人々は私たちが体験している光に引き寄せられて、福音を知るに至るでしょう。

5.教会での教理の学び
 安息日の午後、教理の研究を求道者と信徒が繰り返し学ぶ時間が持てたらよいと思います。

6.「ガイドの助け」の作成と配布(毎週)
「聖書研究ガイド」の助けとして、教区は毎週金曜日までに次週分の「まとめ」をメールかファックスでお送りしています。ご活用くだされば幸いです。

7.教区長室便りの配布(毎週)
 教区からのメッセージを毎週金曜日までにメールかファックスでお送りしています。そのうち、各牧師の方々にも霊的メッセージをお願いする予定です。これもご自由にお用いください。
その他、牧師説教の提出と評価、信徒説教者育成セミナーなどを計画しています。
これらの計画が実行され、継続され、主が祝福のうちに実を結んで下さいますように。


西日本教区 藤田昌孝
(No.03,09,04,18.西日本教区長頼りより)  



4つの考慮と3つの柱

2009-04-12 16:48:40 | メッセージ

「愛の力を信じて」(仮称)をモットーに西日本教区の伝道計画を進めてゆきたいと願っています。この計画を作成する際に4つのことを考慮させていただきました。

①宣教の実りと弟子育成 
すべて神様によって造られたものは、実を結びます。動物は子どもを産み、植物は実を結びます。そしてなんらかの形で自然界に貢献を果たしています。もし自然界の被造物に実がならないとするならば、やがてその種は滅んでしまいます。そこには何か課題が隠されているはずです。
イエス様はこの実を結ぶということを霊的な分野に適用されました。「すべて良い木は良い実を結び」(マタイ7:17)もその1つです。
 私たちの教会と私たちクリスチャンは誰もが皆、主にある愛の実を結ぶことができます。また、その実によって新しくキリストの弟子が生み出されるに違いありません。

②小さな教会への配慮 
 牧師が在住することのない教会、安息日に牧師がいない教会、そのような主にある兄弟姉妹に、微力ながらも、お役に立ちたいと願っています。

③2年後の新組織への備え
この伝道計画が、2年後の新しい組織体系(ユニオン・オブ・チャーチズ)の足がかりとなればと思います。

④ビジョンの共有と実行
 今まで数多くの伝道計画が立案され、提唱されてきましたが、どんなに素晴らしい計画も、浸透し、実行されなければ実を結ぶことは困難です。地区を中心としながら、互いにビジョンを共有し、それぞれの牧師が、教会が、自分たちに合わせた方法で何かを実行されることを願っています。


以上、4つの考慮の中で、立案された伝道計画は、以下の3つの柱を軸としています。
①愛 ②使命 ③実行です。


①愛
 牧師・信徒がキリストの愛と御言葉に生かされ、家庭・職場・学校・教会において、愛の人として実を結んでゆくならば、その愛の力は世の人々をキリストのもとに引き寄せるにちがいありません。そのために、下記の具体案を例示させていただきます。
○健全教会プログラムの実行
○小グループによる愛の人の育成
○テキスト『生き生き弟子訓練』(教団発行)の利用 
○参考図書『ただ愛すればいい』(岡野俊之、オイコス出版)の利用

②使命
終わりの時代、世の人々が真理を求めて教会を訪ねて来るにちがいありません。そのために私たち信徒はいつでも自由にSDAメッセージを宣べ伝えることができるよう、大切なメッセージに磨きをかけておく必要があります。そのための具体案として下記を挙げることができます。
○SDA教理の学び 
○SDAテキスト作成 
○「聖書研究ガイドの助け」の作成と配布(毎週)
○教区長室便りの配布(毎週)
○牧師説教の提出と評価
○説教セミナーと信徒説教者の育成

③実行
数的目標よりも質的目標(何をするか)を重要視してゆきたいと思います。計画・実行・評価を果たしてゆきましょう。
○健全教会プログラムの実行
○各牧師・各教会・各集会所・各聖書研究会の質的目標設定・実行・評価の実現
○教会理事会において伝道についての話し合い
・伝道の入り口
・どのようにバプテスマに導くか
・バプテスマ後の弟子育成
・健全教会8つの要素について
○地区長による評価と励ましの実現
○地区への権威分与とその働きの実行


西日本教区 藤田昌孝
(No.02,09,04,11.西日本教区長室便りより)

 

あなたの名を呼ぶ神様

2009-03-31 20:13:14 | メッセージ

「暗闇に置かれた宝、隠された富をあなたに与える。あなたは知るようになる/わたしは主、あなたの名を呼ぶ者/イスラエルの神である、と。」(イザヤ書 45:3)

 先日、第二次世界大戦中、今のミャンマーで戦争を経験された方のお話を聞く機会がありました。その方は、「たくさんの者が現地で戦死していく中、天皇陛下万歳!と言って死んでいく者はいなかった。死んでいく者は、皆、お母さんであったり、お父さんであったり、親の名を呼んでいた」とお話してくださいました。
私は、そのことをお聞きし、死を前にして最後に思い浮かぶのは、自分を育ててくれた親であり家族であったのかと思うと、とてもせつない気持ちになりました。

 さて、旧約聖書には、「わたしは主、あなたの名を呼ぶ者」(イザヤ45:3)と、わたしたちの本当の親である神様は、わたしたちの名を呼ばれる神様であることを記しています。神様は、今もわたしたちの名を呼んでくださっています。

 わたしたちに命を与え、育んでくださる神様は、わたしたちが例え、祈ることがなくても、神様なんてこの世にいないと神様の存在を否定していても、あるいは、神様よりも遊んでいた方がいい、お金や仕事の方が大事と神様をほっぽり出していても、あなたのことを忘れられず(イザヤ49:15)、あなたのことが目に入れても痛くない大事な存在で(イザヤ43:4)、いつもあなたの名を呼んでおられるのです。イエス様は、十字架につかれ、最後の最後までわたしたちを愛し抜かれました。わたしの名を呼び続けられたのです。

 復活された主に、「はい、私はここにいます」とお答えしたいと思います。

山口 平賀和弘
(No.90.09,3,28.防府教会牧師室便りより)





火の池に投げ込まれた

2009-03-25 20:49:39 | メッセージ

「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。」(ヨハネの黙示録 20:12-14)

 ヨハネの黙示録には、人は、死後、命の書にかかれていることに基づき、それぞれの行いに応じて裁かれることが記されています(黙示録20:12-14)。更に、聖書は、「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3:10)とも記しています。つまり、それぞれ自分の行いに応じて裁かれたら、誰一人助からない、全員、火の池に投げ込まれてしまうと言うのです。

 しかし、神様は、私たちが、滅びることをよしとされません。ここに望みがあります。神様は、わたしたちに生きて欲しいとせつに望んでおられます。そのために、この地上に来られたのが、イエス様でした。

 神様は、人間のすべての罪の報いをひとり子イエス・キリストに負わせ、人間の罪を赦してくださいました。いわば、イエス様が、私たちの身代わりとなって、火の池に投げ込まれてくださったのです。

 私は、正直に申しますと、火の池に投げ込まれるということが、どれほど苦しいことかわかりません。しかし、その苦しみの中でイエス様が、わたしに向かって「生きよ」と叫ばれるお姿を想うとき、力と望みを得るのです。


山口 平賀和弘
(No.89.09,3,21.防府教会牧師室便りより)






愛されているから

2009-03-22 16:52:18 | メッセージ

私は幼少の頃、たいへん手のかかる子供だったようです。
幼稚園を抜け出しては、車道を行き交う車を見ていたり、園児どうしで喧嘩をしたり。小学校に入っても、相変わらず喧嘩はするわ、勉強しないわ、先生に食ってかかるわ、いたずらはするわ、授業中落ち着きないわ、きっと教師や、親を困らせていたのだと思います。家庭訪問などでは、「あなたのお子さんは困ります」とよく言われていたそうです。

ところが親は親で、「今度の先生は見る目がない」などと言うものですから、私も反省するどころか、「俺は運が悪かった」と。親も親なら、子も子です。

6年になって、そんな私に目をかけてくれた先生がいました。柔道の上手な男の先生で、私と目が合えば、ニコッとしてくれます。厳しい先生でしたが、私はその先生から愛されていることを実感しました。もちろん、今までの先生も愛情は深かったのだと思いますが、6年になってそれに気がつかされたのだと思います。

家庭訪問でも、先生は私のことを褒めてくれました。親としても「今度の先生はいい先生だ」とげんきんなものです。
「愛されている」という実感は力あるもので、私は少しずつ勉強を始め、礼儀正しくなり、少しずつ、良い子になってゆきました。

さて、先生の愛情の中でがんばり始めたのは良いのですが、この時期、私は思わぬ経験をしてしまいました。
勉強を始めると、他の先生たちの対応が違ってきたのです。礼儀正しくすると、周りの大人たちの対応が違うのです。私の話に耳を傾けてくれるようになりました。「藤田君は良い子になりましたね」と言われるようになりました。
このあたりから私の勘違いが始まります。私はこのように思ってしまうのです。
「悪い子でいれば、人から愛されない。話も聞いてもらえない。ところが、良い子になると、人から愛される。話も聞いてもらえる。なるほどこれは、良い子でいたほうが得だな」。

「愛されたから」がんばり始めたはずなのに、いつのまにか「愛されるために」がんばるようになったのです。
がんばれば愛される、がんばらなければ愛されない、結果を出せば愛される、失敗すれば愛されない、このような法則がいつのまにか私の中に刷り込まれてゆきました。
当然それは自分の生き方を苦しいものにしてゆきました。なぜなら、人間いつもがんばって成功しているとは限りませんから。「愛されるため」にがんばる人生には常に恐れが伴います。「これをしたら愛されなくなる」「これができなければ愛されなくなる」と。

大学時代、クリスチャンになった後も、それは神様との関係でも続きました。「これをしたら神様に愛されなくなる」「これができなければ神様に愛されなくなる」。「愛されるため」にがんばる信仰。今思えば、それは聖書に書かれているとおりでした。
「恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです」(Ⅰヨハネ4:18後半)。
 
私は、やがて神様の愛を知るようになります。
「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(同上4:19)。
 「愛されるため」の人生から、「愛されている」人生へと変えられてゆきました。すると、Ⅰヨハネ4:18前半の聖句が分かってきました。
「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」。
今でも私は良い人になりたいと願っています(これでも…)少しは成長したいと願っています。しかしそれは「愛されるため」ではなく、「愛されているから」だと思います。

「信仰とはキリストのみことばを行なうことにある。行なうのは、神の恵みを得るためではなく、全くそれに値しないのにわたしたちが神の愛の賜物を受けたからである」(『祝福の山』186)。


大阪  藤田昌孝
(No.647,09,3,21.大阪センター教会牧師室便りより)