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ラムズ・スタディ

聖書の神様のこと、みんなで学び、同じ目標を確認できたらホントすばらしい。

ケヤグ

2009-11-16 05:12:14 | メッセージ

「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ書46:4)

 元ハンセン病患者・桜井哲夫さんが、思い切って故郷の津軽を訪問したときのことです。彼は、13歳で発病した後、群馬県の強制隔離施設に収容され、故郷との関わりを一切絶つように名前を変えられています。更に、その後、病気のために、顔は全面ケロイド状になり、視力も失ってしまいます。彼は、精神的にも、肉体的にも、深く、深く苦痛を経験されるのです。
 そんな彼が、故郷である青森県鶴田町を訪れ、彼の遊び友達であった町長と再会します。60年ぶりの再会です。町長は、喜んで彼の手を握って言います。「俺達はケヤグだ」と。津軽弁で「ケヤグ」とは、「親しい友達」という意味があるそうです。

 この「ケヤグ」という言葉は、「契約」に由来すると考える説があります。本当の友達とは、固い約束で結ばれている人たちのことである。どんなことがあっても、見捨てない。裏切らない。それが「ケヤグ」だと言うのです。
 この考えは、聖書に示されている神様の「契約・約束」に近いと思います。神様は、わたしたちと契約を結ばれ、どんなことがあっても見捨てず、裏切らないと約束されているからです。

 聖書の神様は、わたしたちに向かって言われます。「あなたは、わたしのケヤグだ」と。そして、「今までそうであったように、わたしは、あなたを担い、背負い、救い出す」と約束されるのです(イザヤ46:4)。
 主の約束を信じ、主の恵みを感謝します。


山口 平賀和弘
(No.123.09,11,14.防府教会牧師室便りより)


子犬と男の子

2009-11-14 19:09:14 | メッセージ
SDA大阪センター教会50周年記念礼拝での渡辺恒義先生の説教。
先生は最後に「子ども達のために」と、「子犬と男の子」(『こころのチキンスープ』)というお話を感動的にお話くださいました。それは、大人達にとってもイエス様の愛を知るに最適なお話でした。ここでは、「子犬と男の子」を原文でご紹介させていただきます。

 あるペットショップの店頭に、「子犬セール中」の札がかけられました。子犬と聞くと、子供はたいそう心をそそられるものです。しばらくすると案の定、男の子が店の中に入ってきました。
「おじさん、子犬っていくらするの?」
「そうだな。30ドルから50ドルってところだね」
男の子は、ポケットから小銭を取り出して言いました。
「ぼく、2ドルと37セントしかないんだ。でも見せてくれる?」
店のオーナーは思わずほほえむと、奥に向かってピーッと口笛を吹きました。
 すると、毛がフカフカで丸々と太った子犬が五匹、店員の後ろを転がるように出てきたのです。ところが一匹だけ、足を引きずりながら、一生懸命ついてくる子犬がいるではありませんか。
「おじさん、あの子犬はどうしたの?」と男の子は聞きました。
「獣医さんに診てもらったら、生まれつき足が悪くて、たぶん一生治らないって言われたんだよ」
と店のオーナーは答えました。

ところがそれを聞いた男の子の顔が輝き始めたのです。
「ぼく、この子犬がいい。この子犬をちょうだい!」
「坊や、よしたほうがいいよ。そりゃあ、もしどうしてもこの犬がほしいって言うならただであげるよ。どうせ売れるわけないから」
と店のオーナーが言うと、男の子は怒ったようににらみつけました。
「ただでなんかいらないよ。おじさん、この犬のどこが他の犬と違うって言うの?他の犬と同じ値段で買うよ。今2ドル37セント払って、残りは毎月50セントずつ払うから」
その言葉を遮るように、店のオーナーは言いました。
「だって、この犬は普通の犬みたいに走ったりジャンプしたりできないから、坊やと一緒に遊べないんだよ」
 これを聞くと、男の子は黙ってズボンのすそをまくり上げました。ねじれたように曲がった左足には、大きな金属製のギブスがはめられていました。
 男の子は、オーナーを見上げて優しい声で言いました。
「きっとこの犬は、自分の気持ちがわかってくれる友達がほしいと思うんだ」。
ダン・クラーク「季節の嵐」より

「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブ4:15)。


西日本教区 藤田昌孝 
(No.33.09,11,14.教区長室便りより)


心のよりどころ

2009-11-02 12:35:03 | メッセージ


「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。」(Ⅰコリントの信徒への手紙 15:1)

 私が、イエス様を信じて、バプテスマを受ける決心を、母に告げたときのことです。私の母は、クリスチャンではありません。ですから、私は、「母は、認めてくれるだろうか、それとも、反対するだろうか、いや、どちらの場合であっても、神様は万事を益としてくださる方だから大丈夫」などと、いろいろなことを考えながら、勇気を持って、母に、告白しました。
 そうしますと、母は、案外あっさり「人間、誰でも心のよりどころは必要だからね」と言って、私の信仰を認めてくれました。
 「人間、誰しもが必要な心のよりどころ」。母の言った言葉が、今さらながら、心に甦ります。

 心のよりどころ。それは、どんなときにも、私を認めてくれる、私を愛し、応援してくれる、そんな存在を信じることではないでしょうか。
 人間、誰しもが、壁にぶつかって自信をなくしたり、消極的になったりすることがあると思います。落ち込んでしまう時があります。しかし、そんな時でも、私を愛し、応援してくれている存在を信じる時、生きる力が与えられると思うのです。立ち上がることができるのです。

 聖書には、神様の福音が記されています。福音とは、神様の変わることのない私たちに対する愛です。パウロは、私が教会を迫害している時でさえも、イエス様は、私を愛してくださった。その神様の愛が、私を生かし、今日の私があるのです(Ⅰコリント15: 3-10)と、心のよりどころを語るのです。


山口  平賀和弘
(No.121.09,10,31.防府教会牧師室便りより)


母のラブレター

2009-10-28 05:06:54 | メッセージ

先週の安息日は、SDA大阪センター教会50周年記念礼拝に出席いたしました。
お礼拝の説教者は名誉牧師の渡辺恒義先生でした。すばらしいお説教で、貴重な示唆をたくさんいただきました。
全てをご紹介することができませんが、今回を含めて3回にわけてご紹介させていただきます。

今回はその一回目、渡辺先生が導入で用いられた新聞記事をご紹介いたします。
これは先月9月13日の朝日新聞『声』に載っていました大阪府八尾市にお住まいの小学生、西山七々笑(12)さんの「宝物は母からのラブレター」という題の投稿記事です。

「夏休みの臨海修学旅行中のこと。
『我が子にラブレターを書こう』という先生方の考えで、
私達には内緒で保護者からの手紙が先生に届けられていました。
手紙が手渡された夜、私はタオルを手放せませんでした。
お母さんの手紙に涙が止まらなかったのです。
『生まれて来てくれてありがとう。七々笑は、お母さんの生きる力です』。
母子家庭を支えるお母さんが、私のために一生懸命働いている姿が手紙から伝わってきました。
七々笑(ななえ)という名前には、私とその周りのすべての人が笑顔でいられるようにとの願いが込められているそうです。
そして、何事も『なにくそ根性』でチャレンジして欲しい
という励ましが綴られていました。
お母さんは『応援団長だから』と。
お母さんからのラブレターは一生の宝物です。
大切にして、時々読み返しては力の源にしたいと思います。
先生、お母さん、素晴らしい思い出をありがとうございます」。


渡辺先生は記事をご紹介された後、次のようにおっしゃいました。
「投稿をされた七々笑さんも、これからの人生の中で壁にぶつかって自信をなくしたり、消極的になったりすることがあるかもしれません。
しかし、きっとお母さんのお手紙によって生きる力を与えられてゆくのでしょう。
同様に神様は私たちの『応援団長』です。そして聖書は『神様からのラブレター』です。聖書は私たちをつくりかえてくれるばかりか、私たちの「力」となってくれます。私たちは毎日聖書を読み返して、聖書から感動をいただいて、力を受けてゆきたいと思います。

聖書は左脳的ばかりではなく、右脳的にも捉える必要があるのです」。


西日本教区 藤田昌孝
(No.31.09,10,31. 教区長室便りより)





忘れてならないもうひとつのこと

2009-09-09 16:25:02 | メッセージ
 1923年9月1日、正午直前、関東大震災が起こり、全半壊家屋24万戸、消失家屋44万戸、死者10万人を出す大惨事となりました。「天災は忘れた頃にやってくる」という寺田寅彦の有名な言葉がありますが、このことを忘れてはならないと9月1日は防災の日として各地でいろいろな訓練やイベントが行われています。

しかしこの大震災で忘れてはならないもうひとつのことがあるのです。講談社発行の「全日本史」によると、このとき「朝鮮人が暴動を起こしている」という流言蜚語が飛び、それを信じた政府が「戒厳令」を敷き、軍隊、警察が民間自警団と一体となり、朝鮮人6000人を殺害したとあります。朝鮮人ばかりでなく中国人も多数殺されました。今では到底考えられないことですが歴史の事実として私たち日本人が受け止めていかなければならない課題なのです。一人一人の心に巣食っていた他民族に対する蔑視、偏見、その裏返しの恐怖心が非常時をきっかけになだれのように暴発したのです。それでも私たち日本人が朝鮮や中国の方々を苦しめた数々の悪しき業の一部に過ぎないのです。今日、日本と、中国、朝鮮とのギクシャクした関係も過去に日本がしてきたことに原因があるのであるのです。もし私たちの父祖や先輩たちが両国に対して友好と尊敬をもって接してきたならばもっとちがった関係になったことでしょうし、拉致問題も起こらなかったでしょう。北朝鮮の非人道的な行為を日本人は悲憤慷慨していますが、私たちが彼らに対しもっとひどいことをしてきたことを忘れてはならないのです。
私たちは父祖や先輩たちの犯した過ちを受け止め、謝罪の心を持ってそれを償い、両国との関係を良好なものにしていく責任があるのです。今日はもうこのような問題は過去のことであって今はそのようなことはないと思う方もおられるかもしれません。同じような事件は起こらないとしても、今日でも外国人に対する差別やいじめが私たちの心にあるのではないでしょうか。そのような訴えや事実があることを見聞きしておられる人もいることでしょう。外国人のみならず日本人の間でも弱い者に対するいじめがあることは学校や職場での大きな問題になっています。弱者や少数派に対する攻撃性は民主主義が最も進んでいる欧米にもあります。どの民族にも少数派に対する圧迫、迫害があります。それはもう民族の問題ではなく、一人一人の人間のうちにある悪の問題です。聖書はこれを罪と呼んでいますが人間が普遍的に抱えている問題です。

 この問題を乗り越えさせるひとつの方法は教育です。「子をその行くべき道に従って教えよ」(箴言22:6)とあるように、大人が人間愛と正義の立場に立って、次の世代を育てていかなければなりません。若者たちが偏狭で排他的、攻撃的なナショナリズムに流されないように、事実を見る勇気、広い視野、人間そのものを大切にする心を養わなければなりません。それは英語や数学よりはるかに大切な教育です。

 第二は、しかしより根本的な方法ですが、宗教だと思います。人間に内在する悪を克服するには人間以上の力が必要だからです。
 聖書には「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあってひとつだからである。」(エペソ3:28)
「神はすべての人々に命と息と万物とを与え、また一人の人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めてくださったのである。」(使徒行伝17:26)
すべての人は人種、民族、性の別なく神の前に平等であることがわかります。神を信ずる人はこのことを認めるのです。すべての人は神によって生かされ、愛されている存在だからです。私たちが自分のうちにある偏見、排他心、差別の心を乗り越えて真に対等の友情を結ぶにはこの神を認める必要があるのです。私たちがすべての国の人に友情と平和の絆を結ぶことができるならそのときこそ日本は世界から真の尊敬を受ける国になるのです。そしてこのような国を造ろうとすることが本当の愛国心なのです。
「正義は国を高くし、罪は民を辱める。」(箴言14:34)


静岡  堀内一誠



恵みの弟子訓練2   

2009-08-17 06:47:04 | メッセージ


 先週から4回にわたって、岡野俊之牧師(聖書キリスト教会・グレイスホーム牧師、弟子訓練ネットワークコーディネーター)の『木につながれば実を結ぶ』の中から、御言葉に生きる、恵みの弟子訓練についての文章をご紹介させていただいております。大変興味深い内容です。お読みいただければ幸いです。

幸せは聖書の中にある!
弟子訓練をすると、なぜ人が変わるのかと言いますと、御言葉を守るようになるからです。それで、皆が幸せになっていきます。誰でも幸せになれます。生い立ちや性格や能力は関係ありません。誰でも変われるので、幸せになれるのです。
 なぜかと言いますと、すでに聖書の中に「幸せ」があるからです。幸せは頑張って生み出すものではなく、聖書の中にすでにある、それを頂くだけなのです。では聖書の中にすでに存在する幸せを、どうしたら手に入れることができるでしょうか。
 まず、御言葉に目を向けることです。夫の欠点や、妻の弱さに目を向けている人は、「キリストと教会の関係」をもって教えられている「幸せな夫婦の関係」を知らずに、年月を過ごしてしまいます。誰でも、裁きあったり、批判しあったりしているならば、教会は本来愛にあふれた心休まる所であるにもかかわらず、ストレスや葛藤ばかりで疲れてしまいます。
 まず、聖書の御言葉が何を教えているかに注目することです。誰でもどの教会でも、聖書の御言葉に心を向けるならば、そこから変化が始まります。
 ただ、私たちの悩みは、御言葉が「守れない」ということでしょう。そうです。私たちには、御言葉を守ろうとする「心」も「力」もないのです。そこで必要なのは、「恵み」と「信仰」です。

「恵み」と「信仰」
 牧師が信徒に口で言って守らせるのが弟子訓練ではありません。それは「恵み」ではなく、「人の働き」です。主が守らせてくださるから、私たちに御言葉を守らせてくださるから、私たちは御言葉を守れるようになるのです。私たちにはこの信仰が必要です。主が、守れるように助け、行わせてくださると信じる信仰です。
 牧師は信徒を変えようとしないことです。ただ御言葉をまっすぐに教え、ただ信徒のありのままを愛し、受け入れます。信徒が何か御言葉通りにできないことがあっても、決して責めたり裁いたりせず、その人の存在を喜び、愛するのです。
ただし、人は聖書の御言葉が真理であって、必ず実現すると信じるならば、誰でもそこから御言葉に生きる祝福が始まります。人は聖書の御言葉をまっすぐに信じるようになると、御言葉を行う人に変わるのです。


西日本教区 藤田昌孝
(No.20.09,08,15 教区長室便りより)

※ 岡野俊之牧師の講演が、SDA大阪センター教会において9月1日(火)午前10時よりございます。どなたでもご参加できます。


愛の力を信じて

2009-08-04 20:18:20 | メッセージ

今週の日曜日に、岡野俊之牧師(『愛は人を救う』『どうしたらいいかがわかる子育ての本』『ただ愛すればいい』の著者)とお会いしてきました。
彼の牧している教会は若い人でいっぱいで、皆さん本当に楽しそうでした。私が帰った後にも、その日青年だけで40名ほどの集会がもたれたそうです。
岡野先生と奥様は西日本教区牧師会(8月31日~9月2日)で講演をしてくださいます。9月1日(火)午前10時からの講演は大阪センター教会で行われます。信徒の方々にも聞いていただければと思っております(交通費は自費で・・・)。

岡野先生の牧会は、信徒のディボーション(※1)とセルグループ(小グループに似ています)が中心となっています。
牧師も信徒も日ごとのディボーションを欠かすことがありません。
信徒は40以上あるセルグループのいずれかに参加しています。信徒リーダーや牧師、牧師夫人、副牧師の元に2名から5名程度の単位で集まっています。
セルグループの流れはそれぞれ個性はあるものの、だいたい次のようです。

祈り→各自のディボーションの証→聖書研究→祈り会

聖書研究のテキストは、求道者がいる場合には聖書入門テキスト(市販のもの)などを使うことがありますが、主に、牧師が礼拝時に配布するA4のプリントを用います。プリントには説教で用いた聖句についての質問が書かれています。説教の内容をもう一度詳しく学び直すということになります。

先生のモットーは「御言葉に生きる」です。次のようにおっしゃいます。
「『御言葉を行わなければならない』と思えば行えません。律法主義には命がないからです。『御言葉は行うことができる』とするならば祝福されます。神様の命に生かされるからです。信徒も牧師も御言葉に生きる中で日ごとに変えられています。だからリーダーセミナーは聖書研究以外はとりたててしません。御言葉によって成長するからです」。

またこのようなこともおっしゃいました。
「多くのクリスチャンはディボーションをしません。私見ですが、ディボーションを怠れば、クリスチャンはやがて・・・自分の考えによって生きるようになります。そこに混乱と争いが生まれます。神様はクリスチャンが御言葉に生かされ実を結ぶことを望んでおられます」。

※1ディボーション 朝、聖書を祈りのうちに読んで、ノートに恵みや教訓、適応を書いて祈り、新しい命を受けること。日本語で表すことが難しいですので、この言葉を使います。キリスト教界のみならず、SDAでも公に使われている大切な用語ですので、お覚え下されば幸いです。

西日本教区 藤田昌孝
(No.18.09,08,01.教区長室便りより)

 

愛の力を信じて

2009-07-26 07:42:36 | メッセージ

『グッドラック』という本に次のような物語が出てきます。
 王国の平和を守っている一人の賢者が、国中の騎士を集めて、「『幸運の四葉のクローバー』を『魅惑の森』の中から探してほしい」との訴えをします。
広大な森から1本のクローバーを探すことの困難さに、多くの騎士たちは立ち去りました。残された二人の騎士は「黒マントの騎士」と「白マントの騎士」です。二人は「魅惑の森」に馬を走らせます。

次の日、黒マントの騎士は「大地の王子」に会って「幸運の四葉のクローバー」についてたずねます。すると「大地の王子」は「そんなものはこの150年生えたことがない」と言います。黒マントの騎士は別の誰かを探しに去ってゆきました。
 一方、白マントの騎士も「大地の王子」をたずね、「黒マントの騎士」の時と同じことを言われます。しかし、白マントの騎士は「なぜ、生えないのですか?」と、その理由をたずねます。「土が悪いから」という答えでした。白マントの騎士は苦労して、森の一箇所の土を新しい土と入れ替えます。

 次の日、黒マントの騎士は「湖の女王」にたずねます。しかし答えは「この森は水流がないのでクローバーは生えません」でした。黒マントの騎士は暗い気持ちで次をあたることにしました。
 白マントの騎士も「湖の女王」に出会い、黒マントの騎士と同じ説明を受けます。しかし彼は、湖の水を新しい土地まで引いてゆくことを思いつきます。それは「湖の女王」にとっても助かりました。
 次の日、黒マントの騎士は「木々の女王」にたずねます。ここでも、「この数千年の間一度も生えたことがない」との答えでした。
 一方、白マントの騎士は「木々の女王」から、「枯れ木を落とせば適量の日光が当たる」ということを教えてもらいます。数千年間一度も手入れがされていなかったその場所の、枯れ木を落とし、適量の日光が入るようにしました。
 そのうち黒マントの騎士は賢者が嘘をついているのだと思います。かたや、白マントの騎士は「石の母」から「小石を取り除くように」と教えられ、苦労して小石を土から取り除きました。

 翌朝、「幸運の四葉のクローバー」の種が空から森中に降り注がれました。種は新しい土の上でまたたく間に芽を出し、たくさんの「幸運の四葉のクローバー」になりました。
実はその種は毎年、この森にも注がれ続けていたのです。ただ、白マントの騎士はその種を迎えるために「下ごしらえ」をしたのです。

神様の御言葉の種はいつでも降り注いでいます。しかし、その言葉が私たちの人生に芽を出し、実を実らせるためには「下ごしらえ」が必要なのかもしれませんね。


西日本教区 藤田昌孝
(No.17.09,07,25.教区長室便りより)

 

考える力と選ぶ力

2009-07-13 20:05:31 | メッセージ

「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。(Ⅰコリント 6:12)


 イエス様は、すべての人のために十字架についてくださいました。国籍や性別によらず、また、善い行いをしたとか、信仰心が厚いとか、何を信じているかにもよりません。全ての人に罪の赦しを与えるために十字架についてくださったのです。イエス様は、罪のために死ななければならなかった私たちが、永遠の命が得られるように、道を切り開いてくださいました。

 しかし、イエス様は、その救いを私たちに「ほら、私の命によるすばらしい救いだから!」と言って無理矢理与えるような方ではありません。人間には、考える力と選ぶ力が与えられています。そして、「救いを受けとるか?受けとらないか?」あなた自身が考え、選ぶことができるというのです。
 神様は、私たちをロボットのように創造されたのではありませんでした。考えない人間ではなくて、考える人間を、また、人まかせにする人間ではなくて、自分自身で選ぶことができる人間を神様は、創造されたのです。

 創世記にヨセフという人が登場します。ヨセフは、兄弟たちから売られ、エジプトで奴隷となった後、無実であるにも関わらず投獄されてしまいます。ずいぶん嘆いたことだと思います。ふさぎこんだと思います。しかし、彼の考えたことは、神様のことであり、彼の選択は、神様を信じて生きるということでした。殻に閉じこもることなく、また、他者にあたることもなく、神様の掟に従って、他者の益のために、今できることを行ったのです。
 衝動的、本能的、刹那的でなく、よく考え選ぶ人でありたいと思います。

山口 平賀和弘
(防府教会牧師室便りより No.105 09,7,11) 




神様のおきて

2009-07-05 09:41:59 | メッセージ

「これは、あなたたちの神、主があなたたちに教えよと命じられた戒めと掟と法であり、あなたたちが渡って行って得る土地で行うべきもの。あなたもあなたの子孫も生きている限り、あなたの神、主を畏れ、わたしが命じるすべての掟と戒めを守って長く生きるためである。」(申命記 6:1-2)


 旧約聖書には、多くの「戒め」「掟」「法」が記されています。そのために、結局、キリスト教は「律法主義」の宗教ではないか。すなわち、律法の実践を救いの条件とする宗教ではないかと考えられたり、旧約の律法と新約の愛を比較して、新約の新しさが強調されたりすることもあります。

 しかし、おきてが神の民に与えられた理由は、明らかです。神様は、おきてを果たすことを、約束の地へと入る条件とはされません。そうではなく、神様の恵みによって導き入れられた約束の地で「長く生きる」ためにおきては与えられるのです(申命記6:1-2)。救いは、神様によって与えられるものであり、人の努力によるものではありません。

 価値観が多様化している現代。この神様のおきてに従うこと、いわば、絶対的な価値基準に生きることが求められているのではないでしょうか。

 「隣人に関して偽証してはならない」という戒めがあります(出エジプト20:16)。ある人は言います「これくらいの嘘ならいいよ。人命に関わることでもないし」また、ある人は言います「これくらいの嘘、みんな、ついているよ…」と。大小といった程度や、周りの状況に振り回されるのではなく、神様のおきてを基準にしたいと思います。あなたの考えや判断が「お天道様に堂々と話せるか」が大切です。そして、そのことが長く生きること、神様に栄光を帰し、みんなが幸せな人生を歩むことに繋がっていくと思うのです。


山口 平賀和弘
(No.104.09,7,4.防府教会牧師室便りより)