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ラムズ・スタディ

聖書の神様のこと、みんなで学び、同じ目標を確認できたらホントすばらしい。

主の御名を呼ぶ教会

2010-01-25 20:11:38 | メッセージ

「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。」(ヨハネによる黙示録 3章8節)

 ヨハネの黙示録の2章3章に記されている7つの教会の中で、唯一非難されていない教会があります。フィラデルフィアの教会です。
 聖書は、この教会の人々を「あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった」(黙示録3:8)と記しています。力がなく、弱い存在でありながらも、神様に忠実に従い、まっすぐな信仰を持って主を呼び求めていたのがフィラデルフィアの教会の人々でした。

 今、わたしたちの教会では、今年の伝道計画について話し合っています。しかし、そういった時、聞こえてくる声は、必ずしも伝道に前向きな意見ではないかもしれません。「うちの教会は、高齢化で働ける人がいない。奉仕するのではなくて、してもらう方だ」とか、「お金もない。将来のために、伝道の費用を抑え、お金を貯めておかなければならない」といった後ろ向きの意見です。そして、伝道推進のために、後ろ向きの意見を認めず、遠ざけてしまうことがあるのです。
 しかし、大切なことは、遠ざけるのではなくて、実は、フィラデルフィアの教会の人々がそうであったように、認めてしまうことではないでしょうか。自分の力のなさ、自分が弱い存在であることを認めてしまうのです。そして、神様に「助けてください」と助けを求めるのです(黙示録3:8)。
 福音宣教のために、弱さを認め、神様を信頼し、祈りたいと思います。


山口 平賀和弘
(防府教会牧師室便りより.No.133 10,1,23)

面倒くさいことを

2010-01-23 21:35:00 | メッセージ
 
 「脳を鍛えようと思ったとき、特に重要なのは前頭葉の力を高めることです」(『脳が冴える15の習慣』)と語るのは、財団法人河野臨床医学研究所理事長の築山節(つきやま・たかし)先生です。
前頭葉とは、脳の中で、いろいろな情報を整理するところ、体に命令を下すところです。いうなれば脳の司令塔です。
私たちが勉強をして、いろいろな情報を得、整理し、考える時、主にこの前頭葉が働きます。
また、体に命令を下して、行動を促す時も、この前頭葉が働きます。
つまり前頭葉は、思考と実行の二つの働きに携わっていることになります。
ということは、私たちの思考力と実行力は、この前頭葉を鍛えることによって強まるということです。
 築山先生は、前頭葉の力をつけるためには、勉強することと同時に、日常生活の小さな働きを小まめに果たすことを薦めておられます。
部屋の片付け、壊れている物の修理、自分の身近にある、少し面倒くさいと思われるようなことを毎日少しずつ解決してゆくとき、前頭葉に体力がついてくるそうです。
前頭葉に体力がついてきますと、たとえ限られた知識や経験しかなくても、それらをうまく組み立てて、行動に移すのが上手になります。要するに、実行力がつくのです。
逆に前頭葉が衰えてきますと、知識や経験があっても、行動するのが苦手な人になります。博識なのに、それを活かせなくなるのです。何かに取り組もうとしても、途中で面倒くさくなり、あるいは辛さに耐えられずに挫折してしまいます。

 築山先生は、現代人はこの前頭葉の体力が失われつつある、とおっしゃいます。原因は、現代社会の便利さにあるそうです。世の中が便利になって、日常的な小事をする機会が減り、面倒な作業をする訓練が少なくなったからだそうです。
 築山先生は、若い頃の小事は買ってでもしろ、とおっしゃいます。毎日自分を小さく律することが、大きな困難にも負けない脳の耐性を育てる、とおっしゃるのです。
 私はふと、「三育教育の寮生活は、たいへん有意義なんだナ」と連想しました。

 脳を鍛えるためには、面倒くさい小事を!!
 これは、若者だけでなく、中高年にも有効なのだと思います。率先して小さな働きをこなしてゆきたいと思います。

 「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である」(ルカ16:10)。 なるほど・・・・


西日本教区 藤田昌孝
(教区長室便りよりNo.43.10,01,23)

 

日々みことばに生きる

2010-01-12 12:31:03 | メッセージ

「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。(ローマの信徒への手紙10:13)


 防府教会のある教会員の証しです。彼女には、老人ホームに入所されている101歳の義理のお母さんがいます。昨年のクリスマスが近づいたある日、彼女は、いつものように、お母さんのところへ、お見舞いに行きました。
 ホームの方が言われるには、最近のお母さんの様子は、落ち着いて眠っているか、後は、「うーうー」と騒いでいるかのどちらかだと言います。そして、彼女の訪れた時は、ちょうど騒いでいる状態の時でした。
 彼女は、お母さんが、どうにかして心穏やかになって欲しいと願います。そして、讃美歌を歌うのです。クリスマスのときです。一緒にその場にいたクリスチャンでないご主人も知っている“きよしこの夜”を歌いました。
 病室に讃美歌が響きます。そうすると、あれだけ騒いでいたお母さんが、一緒になって讃美歌を歌われ、彼女が祈ると、不思議なくらいに、心を落ち着かれ、穏やかになりました。

 神様が働いてくださったことを、彼女は、喜んで証ししてくださいました。
 彼女は、お母さんを落ち着かせたいからと言って、この時、医師や看護師に薬を求めることはありませんでした。神様が働いてくださることを信じ、讃美歌を歌いました。また、そのために牧師や長老を呼ぶこともありませんでした。神様が誰にでも働かれることを信じ、ご自身で祈られたのです。

 生活の場で、隣人に伝道するには、口先だけではできません。私たちも、日々の生活の中でみことばに従い、主の御名を呼び求めたいと思います。そして、たくさんの証しを得て、主の御名を讃美し、喜びたいと思います。

山口  平賀和弘
(No.131.10,1,9.防府教会牧師室便りより)





弱さを認める

2010-01-11 14:43:40 | メッセージ
 
今回は、昨年の西日本教区年次理事会で話されました東海林正樹教団理事長のメッセージを要約して、ご紹介いたします。

ヨハネの黙示録の2章3章にあります、7つの教会の中で、唯一非難されていない教会、それはフィラデルフィアの教会です。

このように書かれています。
「わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった」(黙3:8)。

そこには力なく、弱い存在でありながら、実直な信仰、愚直ともとれる誠実さを持つ教会が紹介されています。たとえ、力が弱くとも、彼らには信仰があった。フィラデルフィア教会には誠実さがあった。そのような印象を受けます。

 しかし、ある註解書には、次のように書かれていました。
「フィラデルフィアは力が弱かった、だからこそ、神の言葉を守り、祈らないわけにはいかなかった。自分たちの弱さを認めていたからこそ、御言葉に頼り、祈らないわけにはいかなかった。だからこそ、神殿の柱の教会に招かれていたのだ」。
フィラデルフィアの教会がほめられたのは、彼らの持っている信仰や誠実さ故ではなかった、そうではなく、彼らが自分たちの弱さを認めていたところにあった、というのです。

そもそも、私たちは皆、神様の前で胸をはれるようなものは何も持っていません。弱く、小さな存在なのだと思います。
しかし、だからこそ、私たちは神様の御言葉に頼り、「助けてください」と祈ることができるのです。
だからこそ、この弱さをもって、主のみ旨を成し遂げることが赦されているのです。

たしかに、私たちは何事にも知恵をつくすべきです。賜物をフルに活用してゆく必要があります。それぞれの責任を果たしてゆかなければなりません。
しかし、誰一人として、祈らなくてよい人はいません。
私たちは弱さを自覚するからこそ、祈り、主に与えていただき、それぞれの責任を全うさせていただくことができるのです。
神様からゆだねられた御業を推進してゆくために、弱さを自覚し、何よりも約束の御霊を備えさせていただくことを願い求めてゆく必要があるのだと思います。


西日本教区 藤田昌孝 
(No.41.10,01,09.教区長室便りより)

 

先頭に立って進まれる神様

2010-01-06 19:26:04 | メッセージ

「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。』(マルコによる福音書10:32−34)


 イエス様は、一行の先頭に立って毅然としてエルサレムに向かわれました。そのお姿を見た弟子たちは、驚き、恐れます。父である神様を信じ、神様の御心に揺らぐことなく従うイエス様の姿にこころを打たれたからです。

 イエス様は、神の民となり、やがて多くの人々の祝福の基となる弟子たちを呼び寄せて語りました。ご自身が何を受け入れ、何に耐えなければならないか、つまり、父なる神様のご意志を告げられたのです(マルコ10:32-34)。
 ここに私たちの進む道があります。イエス様の苦難と祝福の道です。 

 さて、今期の安息日学校聖書研究ガイドの題は、「霊の結ぶ実」ですが、「今期の研究の目的は、どうしたらもっと寛容で、愛に満ち、柔和で、誠実になる方法を学べるかということではなく、寛容と愛、柔和と誠実を体現されたイエスに似る者となるために、聖霊に働いていただく方法を学ぶことにあります」(2頁)と、ガイドに書いてありました。

 今日、改めて、主が先頭に立って進んで行かれた道を、御言葉に従って辿り直したいと思います。主の道を聖霊の神様に同行していただいて辿り直し、主のお姿と御言葉を心に深く覚えたいと思います。


山口 平賀和弘
(防府教会牧師室便りより No.130 10,1,2)




全てが新しく

2010-01-05 12:52:06 | メッセージ
 
お正月の人の波。「ひとがみな幸せそうに見える」時です。しかし明治の先覚はかつて、こう語りました。
「墨提より遠望すれば、一面の葦原は葉先、穂先もみごとにそろって美しい眺めである。しかし、一歩、その繁みを分けて踏み入ってみよ、どの葦も、あるいは折れ、あるいは破れ、あるいは傷ついて、一本として完全なものはない。人の世もまた然り。現実を知らずに傍観するかぎりは、何不自由なく幸福に暮らしておるように見えても、その一人ひとりに、表にあらわれぬ悩みや問題があるものだ」。

それにもかかわらず人々はお正月を迎えると「おめでとうございます」と挨拶をかわします。それは単に慣習的にしているというより、おそらく、「そう言いたい」のだと思います。それは祈願であり、期待であり、希望なのです。新年の祝いは、新しいものへの祈願、期待、希望なのです。ただし、それも三日もすれば元の木阿弥。毎年くりかえされる新しい人生設計は、ほほえましくも痛ましい姿にも思えます。

しかし、もしもそれが主にある「おめでとう」ならば・・・・なんとそれはすばらしい呼応ではないでしょうか。自分たちの現実を認めながらも、将来の、否、すでに始まっている神様の御業に対する感謝だからです!!
「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(Ⅱコリント5:17)。

ここで言われています「古いもの」「新しいもの」とは、質的な新旧を表します。
「古いもの」とはキリストの恵みの下に、立ち行くことのできない人間の行為、企画、意志、状態のことを言います。キリストの恵みから目をそらして過ごす生き方です。感謝するより不平を語ることに早く、失望と怒りを友とします。
それに対して「新しいもの」とは、キリストの恵みと愛を受けることからつくり出される新しい意志、願望、行為、生活です。救われた者として過ごす生き方です。感謝をもって一日が始まり、感謝をもって祈り、感謝をもって働き、感謝をもって床につきます。満足を知り、喜びと感謝を友とします。

このような新しい歩みのために、新年、二つの事をお勧めいたします。
一つは「聖書日記」を付けることです。
毎日聖書の数節を計画的に読んで、感想を書くという日記です。私たちは確実に御言葉によって養われてゆきます。

二つめは、ご家庭・教会の中での御言葉の回復です。夫は妻を愛し、妻は夫に従い、親は子供を怒らせずに教え、子は親を尊敬し、働き人は主に対するように働き、牧師は信徒を愛し、教え、信徒は牧師を敬い、互いに愛し合います。
イエス様の恵みと回復のお約束は、私たちをこのような新しい命へと導いて下さるにちがいありません。

除夜の鐘、その物理的音響は、私たちのうちに新しい生命を創り出すことはできないかもしれません。ただ「キリストの愛がわたしたちに強く迫っている」恵みの音響こそ、新生の元旦を告げる鐘の音だと思います。その時、私たちは神様から熱く愛されている者の一人として、新しい生き方に促されてゆくのだと思います。


西日本教区 藤田昌孝
(No.40.10,01,02.教区長室便りより)

 


過ちを善に変えられる神様

2009-12-12 06:52:35 | メッセージ

 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。(ローマ11:33)

 パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」(ローマ9:2)と告白しています。彼の「深い悲しみ」や「絶え間ない痛み」とは、一体何でしょうか。

 その理由を彼は、「なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです」(ローマ10:3)と言っています。つまり、イエス様を殺してしまったことを、自分の罪として認め、「深い悲しみ」や「絶え間ない痛み」があると告白しているのです。

 彼は、熱心なファリサイ派のひとりでした。モーセの律法を真剣に守り、行うことを努めていました。そして、少しでもそれを破る者は許すことが出来ず、イエス様の弟子たちを激しく迫害し、イエス様が処刑されるのも当然だと考えていました。
 ところが、ある日突然「なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒9:4)と、問われるイエス様の声に打たれ、彼は、愕然として自分の罪に気づかされます。自分のやってきたのは、迫害だった。愛することではない。自らの義を求めようとして、神の義に従っていないと自分の本当の姿に気づくのです。

 しかし、彼の痛みは、それで終わることはありませんでした。「神様は、人間の失敗や過ちを善に変えることが出来る」と驚くべきことをされる神様を信じたからです。パウロは、自分の失敗が、かえって、異邦人やユダヤ人の救いに繋がる神様のご計画を知り、「神の富と知恵と知識のなんと深いことか」と神様を讃美し、人生をやり直していくのです。主を讃美します!


山口 平賀和弘
(No.127 09,12,12.防府教会牧師室便りより)




ありがとうの反対語

2009-11-28 13:09:30 | メッセージ
 
 ある方から、次のようなメッセージをご紹介いただきました。なるほど・・・
と思わされます。

今日、ある方のお話をお聞きしました。それは、「ありがとうの反対語は何?」という話でした。
「ありがたくない…なんだろう?」
私には浮かびませんでした。
ありがとうの反対語、それは、
「あたりまえ」
ではないか、という事でした。
「あたりまえ」だと思うから、ありがたくない。なるほどなぁ…
親子の関係で、親がしてくれるのは「あたりまえ」、そう思うと感謝の心もなくなる、というのです。奥が深いなぁと思いました。
「感謝をする」と口では簡単に言えますが、心からは思えていなかった気がしました。「あたりまえ」はないんだ、と心に留めて、謙虚にやっていきたいと思いました。


(ここからは上のメッセージを受けた方のお話)
私も「感謝することが大切」なんて呪文のように唱えていましたが、「あたりまえ」が「ありがとう」の反対語なんてまったく思いつきませんでした。「あたりまえ」。私の心にずっしりと突き刺さった言葉。今までは何気なく使ったり、よく思っていました。
「親なんだから“あたりまえ”」「仕事して“あたりまえ”」「これぐらいしてもらって“あたりまえ”」
感謝しているつもりが、この「あたりまえ」によって打ち消されていることなど、全く気づきませんでした。「ありがとう」の反対語は「あたりまえ」。「あたりまえ」が活躍すると感謝の泉が枯れるらしい。

 そのように考えますと、私たちはなんと多くの方々に支えられていることでしょう。これらはすべて「あたりまえ」のことではありません。なんと多くの命によって支えられていることでしょう。今日食べたお米や野菜、果物、それぞれの命によって私たちは支えられています。これはけっして「あたりまえ」のことではありません。
 何よりも、私たちが神様の子どもとして、神様の御言葉に生かされ、神様の約束に生かされていることは、けっして「あたりまえ」のことではありません。
 そのためにイエス様は御自身の命を十字架にささげてくださり、私たちが味わうべき第二の死をご経験されたのです。私たちは日ごとにイエス様の十字架を、有り難きこととして受け止めさせていただかなければなりません。


西日本教区 藤田昌孝
(No.35.09,11,28.教区長室便り)


      

主が訪れる場所

2009-11-22 09:52:07 | メッセージ

「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」(マタイによる福音書1:19)

 イエス様が誕生されるときのことです。ヨセフは、マリアが聖霊によって身ごもっていることを知ったとき、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心しました(マタイ1:19)。

 そうすると、主の天使が夢に現れて、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」とヨセフに命じます。そして、「マリアは、聖霊によって身ごもり男の子を産むこと、その子が自分の民を罪から救うためにイエスと名付けなければならないこと、そして、主の約束が実現しその子が、インマヌエルと呼ばれること」を告げるのです。インマヌエルという名には「神は我々と共におられる」という意味があります(マタイ1:20-23)。

 聖書は、この後、ヨセフが、主の天使の命じられたとおりに妻を迎え入れ、イエス様が誕生した出来事を記しています(マタイ1:24-25)。
 さて、イエス様が誕生するにあたって、主の天使がヨセフに訪れた場所に、注目したいと思います。その場所は、“ひそかに”マリアと縁を切ろうとしていた場所でした(マタイ1:19)。公にすることもできずに、親にも、婚約者であるマリアにも、友達にも言えずに、誰にも言えずに、秘密にしている、そんな“ひそかな”場所に、主の天使は訪れたのです。

 イエス様は、ご自分の民を罪から救うために来られました。誰にも言えずにひそかにしている、そんな罪という場所にも主は来られ、罪から救ってくださるのです。主をお迎えし、主の言葉に従ってまいりたいと思います。


山口 平賀和弘
(No.124 09,11,21.防府教会牧師室便りより)

主人公

2009-11-21 06:30:26 | メッセージ

 「主人公」という言葉があります。映画やドラマの主人公、小説の主人公、などと使われる言葉です。
この「主人公」という言葉、実は禅宗で使われていた禅語が始まりなのだそうです。ある高名な僧侶が、自分を「主人公」と呼んで「はい」と答える、「主人公、目を覚ましているか」と尋ねて「はい」と答える、このような問いかけをひたすら繰り返したといいます。
禅では、「自分をこういう人だ」と決めつけないことが大事だと説くそうです。自分の能力や自分の限界をかってに決めつけてしまうことなく、あたかも、自分の中にもう一人の自分がいるかのように考える。それを「主人公」と呼ぶのです。
もう一人の自分は、いつもの自分よりも自由で、可能性に満ちている。
もう一人の自分こそ、本来の自分。自分の中にいる、真実の「主人公」。

イエス様はおっしゃいました。
「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハ3:3)。
「新たに生まれる」とは、神様からいただいた「永遠の命に生きる」ということです。神様は、イエス様から聖霊を通して、私たちに永遠の命をくださいました。
 私たちの中には、本来の自分、可能性に満ちた自分、主の御心を自由に行おうとする自分が存在します。これを「永遠の命」といいます。
 私は以前、「本当に聖霊が与えられているのか?本当に永遠の命が与えられているのか?このような自分の中に果たして永遠の命が与えられているのか?」と、神様に問うたことがあります。神様は即答してくださいました。すぐさま、聖書の言葉が与えられたのです。テトス3:6~8でした。
「神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。 この言葉は真実です。あなたがこれらのことを力強く主張するように、わたしは望みます」(テト3:6~8)。

 聖霊が注がれたことも、永遠の命を受け継ぐ者として生まれたことも、ギリシャ語では過去形が使われています。私たちには、すでに聖霊が豊かに注がれ、永遠の命に新しく生まれているのです。
 後は、私自身が、永遠の命、新しい命を選ぶのです。
「主よ、聖霊をお与えくださり、感謝します」。
「主よ、永遠の命に生かされておりますことを感謝します」。
声に出してお祈りすることは効果的です。
また、聖書の言葉、証の書の言葉は、永遠の命に栄養を与えてくれます。
そして、御言葉を実践するという運動は、永遠の命を丈夫にしてくれます。
神様は永遠の命の実を豊かに結んでくださることでしょう。


西日本教区 藤田昌孝
(No.34.09,11,21.教区長室便りより)