5月2日の聖書研究ガイドで、創世記3:8~10に示されている人類最初の恐れについて、何を学ぶことができますか?という質問がされていました。
愛の源である神様を何故アダムは恐れたのでしょうか?
それは言うまでもありません。人が罪を犯して、神様から離れて生きるようになったからです。
その時から人の生き方が変わりました。神様の願いを行おうとする「神実現」から自分の願いをかなえようとする「自己実現」へと変わってしまいました。
罪をあらわす言葉の中に、ヘブライ語で「ハタット」、ギリシャ語で「ハマルティア」があります。両方とも「的外れ」という意味です。「神実現」から的がはずれて、「自己実現」の歩みが始まったのです。
人は的をはずして「自己実現」に生きるとき、そこに恐れを覚えます。
神様に愛されていることを疑い、神様に守られていることを忘れ、神様に懲らしめられることを恐れるのです。
また、間違った目的は、人生に十分な満足を与えないばかりか、失敗することへの恐れ、失うことへの不安、目的自体を見失うことからくる虚無感を招くのです。
ところが、神様の願いを目的として「神実現」に生きるなら、そこには恐れを超えた平安が与えられます。
「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」(マタイ11:29口語訳)。と書かれているとおりです。
神の国と神の義を求めること、神様を知ること、人を幸福にすること、人を愛すること、人に与えること、正しくあること、人から愛され与えられること、これらを人生の目的として「神実現」に生きるなら、次のような聖書の約束が与えられます。
「すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。
そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える」(箴言3:6~8)。
自分の願いや知恵に従って生きてゆくとき、人は疲れを感じ、恐れを覚えます。
一方、主に拠り頼み、主を畏れて悪から離れる生活は、その人を元気にしてくれます。たとえ試練に遭うようなことがあっても、「なぜ、こんなことになるんだ」という自分の理解に頼るのでなく、力を尽くして主に拠り頼むことができます。
主が道をまっすぐにしてくださり、主が全てのことを益に計らってくださいます。
私たちがアダムが最初に持っていた生き方「神実現」に生かされてゆくとき、心もからだも健やかに、元気が与えられるのです。
西日本教区 藤田昌孝
(No.58.10,05,08.教区長室便りより)