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ラムズ・スタディ

聖書の神様のこと、みんなで学び、同じ目標を確認できたらホントすばらしい。

自己実現と神実現

2010-05-10 22:19:55 | メッセージ

       
5月2日の聖書研究ガイドで、創世記3:8~10に示されている人類最初の恐れについて、何を学ぶことができますか?という質問がされていました。

 愛の源である神様を何故アダムは恐れたのでしょうか?
それは言うまでもありません。人が罪を犯して、神様から離れて生きるようになったからです。
その時から人の生き方が変わりました。神様の願いを行おうとする「神実現」から自分の願いをかなえようとする「自己実現」へと変わってしまいました。
 罪をあらわす言葉の中に、ヘブライ語で「ハタット」、ギリシャ語で「ハマルティア」があります。両方とも「的外れ」という意味です。「神実現」から的がはずれて、「自己実現」の歩みが始まったのです。

人は的をはずして「自己実現」に生きるとき、そこに恐れを覚えます。
神様に愛されていることを疑い、神様に守られていることを忘れ、神様に懲らしめられることを恐れるのです。
また、間違った目的は、人生に十分な満足を与えないばかりか、失敗することへの恐れ、失うことへの不安、目的自体を見失うことからくる虚無感を招くのです。
ところが、神様の願いを目的として「神実現」に生きるなら、そこには恐れを超えた平安が与えられます。

「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」(マタイ11:29口語訳)。と書かれているとおりです。

神の国と神の義を求めること、神様を知ること、人を幸福にすること、人を愛すること、人に与えること、正しくあること、人から愛され与えられること、これらを人生の目的として「神実現」に生きるなら、次のような聖書の約束が与えられます。
「すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
自分を見て賢いと思ってはならない、主を恐れて、悪を離れよ。
そうすれば、あなたの身を健やかにし、あなたの骨に元気を与える」(箴言3:6~8)。

自分の願いや知恵に従って生きてゆくとき、人は疲れを感じ、恐れを覚えます。
一方、主に拠り頼み、主を畏れて悪から離れる生活は、その人を元気にしてくれます。たとえ試練に遭うようなことがあっても、「なぜ、こんなことになるんだ」という自分の理解に頼るのでなく、力を尽くして主に拠り頼むことができます。
主が道をまっすぐにしてくださり、主が全てのことを益に計らってくださいます。
 私たちがアダムが最初に持っていた生き方「神実現」に生かされてゆくとき、心もからだも健やかに、元気が与えられるのです。


西日本教区 藤田昌孝
(No.58.10,05,08.教区長室便りより) 



救いの確かさ

2010-03-01 12:28:45 | メッセージ

「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。」(イザヤ書 7章4節)


 ダビデ・ソロモンの時代に繁栄を極めたイスラエルは、ソロモンの死後、北と南に分裂しました。南のユダ王国と北イスラエル王国です。

 南ユダ王国は、ダビデの血筋を受け継ぐ者が代々王となりました。アハズ王もその一人です。彼が王となった時代のパレスチナは、南ユダ王国を含め多くの小国に分裂していました。そして、これらの小国は、北側にアッシリアと南側にエジプトという強国に挟まれるように存在していました。

 アハズが王となった頃のことです。アッシリアが勢力を拡大してきました。そうすると、南側の強国エジプトは、おもしろくありません。陰で小国家をあやつり、反アッシリア同盟を彼らに結ばせようと画策しました。
 北イスラエル王国は、他の小国を誘い、反アッシリア同盟を作ろうとしました。南ユダ王国にも参加を呼びかけます。しかし、南ユダ王国のアハズ王は、参加を拒みました。すると、彼らは、アハズ王を倒して、南ユダ王国を仲間に取り込もうと、南ユダ王国のエルサレムに軍隊を派遣するのです。

 アハズ王は、二十歳で王となりました。即位して間もない頃です。彼は、森の木々が風に揺れ動くように動揺します(イザヤ7:2)。そして、困った彼は、アッシリアに援軍を頼むという愚策に走ろうとするのです。
 そこに登場したのが預言者イザヤでした。彼は、「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」(イザヤ7:4)と、神様が共におられること、そして、どちらにもつかず中立を守るようにと進言しました。動揺するアハズ王に、「恐れるな、信じて、待て」と、神様の救いの確かさを語るのです。


山口 平賀和弘
(No.138.10,2,27.防府教会牧師室便りより)



ひびのをしえ

2010-02-28 20:00:05 | メッセージ
2月に発行されました、広島三育学院中学校・高等学校通信の『やまびこ』の巻頭言で、尾上史郎校長先生が次のような記事をお書きくださいました。既にお読みの方もいらっしゃるでしょうが、大変興味深い内容ですので、尾上先生の許可を得てここにご紹介させていただきます。


ひびのをしえ                 校長 尾上史郎

福沢諭吉の「ごっど」
 一万円札に載っている人物といえば慶応義塾を造った福沢諭吉ですが、彼は維新前後の混乱の中で強大なキリスト教国によって日本が植民地にされてしまうのではないかという事をとても恐れていたそうです。この国を守らなくてはという強い信念が、彼をキリスト教排撃論者にしていたといわれています。
先日、「聖書を読んだサムライたち」という本を読んでいましたらその中にこの福沢諭吉が自分の二人の息子たちの道徳教育のために書いたと言われている「ひびのをしへ」(日々の教え)というものの文章が出ていました。そこには驚きの内容が書かれていました。
「てんとうさまをおそれ、これをうやまい、そのこころにしたがうべし。ただしここにいふてんとうさまは、にちりんのことにあらず、西洋のことばにてごっどといひ、にほんのことばにほんやくすれば、ざうぶつしゃというものなり」。「世のなかには父母ほどよきものはなし。父母よりしんせつなるものはなし。父母のながくいきてじゃうぶなるは、こどものねがうところなれども、けふはいきて、あすはしぬるもわからず。父母のいきしにはごっどのこころにあり。ごっどは父母をこしらえ、ごっどは父母をいかし、また、父母をしなせることもあるべし。てんちばんぶつなにもかも、ごっどのつくらざるものなし。こどものときよりごっどのありがたきをしり、ごっどのこころにしたがうべきものなり」。
もちろんごっどとはGODのことであり創造主としての神をさしているのです。まちがいなく彼は、この文章を書くにあたり聖書を読んでいたのだろうと思われます。
クリスチャンでない者による聖書教育

 福沢諭吉自身はクリスチャンではありませんでしたが、この教えで学んだ長男はクリスチャンとなり、三女、四女もクリスチャンとなりました。孫の代ではさらに多くのクリスチャンが生まれました。また、諭吉の二人の姉もクリスチャンとなりました。
彼のような例はめずらしいと思われるかもしれませんが、クリスチャンでない者を通して聖書の教育を受けるという経験が日本では色々な場面でありうるのではないかと感じています。キリスト教の信者ではないとしても聖書の教えを大切にしている日本人は実は大変多くおられるように思います。聖書は人を変える力を持っています。高校の第33回卒業生を送り出して願うことは、どの様な世の中になろうとも、真理を求める姿勢を持ち続けてほしいということです。クリスチャンにとっても、そうでない子どもたちにとってもここで聖書と出会った事の意味を噛みしめる時が必ず来ると確信しています。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。…我々は主を知ろう。主を知る事を追い求めよう」。 


西日本教区 藤田昌孝
(No.48.10,02,27.教区長室便りより)

 

感謝の祈り

2010-02-20 20:44:49 | メッセージ

今月14日(日)に、西日本教区より、お二人のPMM(パイオニアミッションムーブメント)の先生が韓国へお戻りになられました。松山でご奉仕くださいました李元鎬(イ・ウォンホ)牧師と瀬戸でご奉仕くださいました宋乙燮(ソン・ウルソップ)牧師です。お二人ともご家族共々、心から日本を、そして日本人を愛され、信徒の皆様から愛され、惜しまれながら、韓国での新しい伝道地に発ってゆかれました。
松山聖書研究会では、安息日の昼食はパトラックとなっていますが、牧師夫人は、毎週たくさんのお食事をご用意されていました。その奥様が韓国へ発つ前日、最後の安息日にこのようなお証をされました。

「皆さんはよく、『毎週毎週、お料理たいへんですね』と言ってくださいましたが、私は全然苦ではありませんでした。なぜなら、私たちが松山の地でお礼拝を始めた当初の3ヶ月間は、私たち家族だけでした。その間、一人の青年が与えられただけでした。それから、一人増え、二人増え、今はこうしてたくさんのお食事を作ることができることが、嬉しくてしょうがないのです。神様に感謝するばかりです。
ただ、皆さんに謝らなければならないことが一つあります。それは『明日もきっと新しい人が来てくれるに違いない』と思って、ついついご飯を作り過ぎた事です」。
私はそのお証を聞いていて涙がとまりませんでした。

李牧師と奥様が教えてくださった、韓国の詩(作者不明)をご紹介します。

「感謝の祈り」

主よ!時として病気を与えてくださり感謝します。
人間の弱さを知ることができるようにしてくださったからです。
たまに孤独の穴に投げ入れてくださり感謝します。それは主の近くに行く機会です。
なすことが計画通りにいかないようにしてくださることを感謝します。
そのおかげでわたしの高慢さを反省することができます。
息子、娘が心配の種になるようにしてくださり感謝します。
両親と同僚が荷物になったかのように感じる時もあるようにしてくださり感謝します。
それで人間としての生きがいを悟ることができるからです。
食べて生きていくのが大変であることを感謝します。涙をもってパンを食べるその心情が分かるからです。
不義と虚偽が渦巻く時代に生まれさせてくださり感謝します。
神様の義がはっきりと現されるからです。
汗と苦労の杯を味あわせてくださり感謝します。
そのおかげで主の愛を悟ることができるからです。
主よ!感謝できる心を与えてくださり感謝します。


西日本教区 藤田昌孝 
(No.47.10,02,20 教区長室便りより)



人事異動

2010-02-15 20:20:24 | メッセージ

「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。(詩編46編2節)

 今週、来年度(4月以降)の人事の発表がありました。私は、転勤(留学)することになりました。また、気になる後任者ですが、教会に届いたFAXを見ますと、教区管轄と記されているだけで、後任者の名前がありません。これについて、教区長から連絡があり、現在、召喚中ということでした。
 ですから、防府教会・徳山教会とも無牧にはならず、防府教会の牧師館は、引き続き後任者が使用することになっています。
 様々な事情があり、後任者の決定が、遅れているようです。そのために、藤田教区長をはじめ、私たちの教会を覚え労してくださっている方がいます。主の導きがありますように、祈りたいと思います。

 さて、その人事異動が発表となった日のことです。徳山教会で祈祷会がありました。そこで与えられたのが、上記の聖句でした。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」(詩編46:2)という聖句です。
 これを読み、皆様と感想を分ち合っているうちに、私は、徳山や防府教会の方々が、私たちの避けどころであり、砦であり、また、苦難のときに助けてくださる神様を知って、主を讃美している。そして、そんな主を讃美する群れに、後任者の先生が来られ、励ましを受けられている幻を見ました。

 右も左も分からないような新しく赴任した地で、主を信じる仲間と出会うことは、とても励まされることです。私が、山口に赴任した時もそうでした。悩める時のいと近き助け主、主を信じ、主を讃美したいと思います。

山口 平賀和弘
(防府教会牧師室便りよりNo.136 10,2,13.)



十人のおとめ

2010-02-14 06:19:03 | メッセージ

 マタイ25:1~13には有名な十人のおとめのたとえ話が出てきます。思慮深い5人のおとめはランプの油の予備を持っていましたが、思慮が浅い残りの5人のおとめは、油の予備を持っていませんでした。思慮深いおとめは、婚宴に招かれ、思慮の浅いおとめは婚宴の席に着くことができませんでした。
イエス様はこのお話が天国に似ている、とおっしゃいます。

 いったい、思慮深いおとめと思慮の浅いおとめと、何が違っていたのでしょう?思慮深くあるということとは、どのようなことを意味するのでしょう?思慮が浅いとは、何を意味するのでしょう?

 私は、思慮深いおとめは、きっと、ランプを常日頃から良く使っていたのではないか、と想像します。日頃からランプを常用していたおとめは、「ランプというものは、やがて油が切れるものだ」ということを知っていました。ですから予備の油の準備を怠ることはありませんでした。ランプの手入れも行き届いています。それは、ちょうど、山によく登る人が、どんな小さな山にも、準備を怠らないのに似ています。
反対に、ランプをめったに使ったことのないおとめは、油の予備の準備を忘れ、不用意に出かけていったのです。めったに山に登らない人ほど、軽装で山に入り、時としてとんでもない事故に遭うのと似ています。
 
このことを自分に置き換えるなら、
「自分ははたして、日頃からこのランプ(神様から与えられている賜物)を常用しているか?」それが問われています。
 神様から与えられている聖書のみ言葉、神様から与えられている信仰、神様から与えられている賜物、使命、それらを常日頃、働かせているだろうか?
 そして、これらの賜物を用いるためには、力の源であられる油(御霊)が必要です。自分の知恵や力で賜物を用いようとすれば、力はすぐに枯渇します。毎日、油(御霊)を受け続けなければなりません。日頃から信仰を働かせ、み言葉を用いている人は油(御霊)の欠乏の危険をわきまえています。油(御霊)の必要を知っているのです。

 イエス様のご再臨を待ち望む人たちは、日頃から信仰を働かせ、み言葉を実践してゆく人たちです。彼らはその中で、御霊の必要を痛感し、予備の油を整える者、日ごとに聖霊の油をいただく思慮深いおとめとなるのです。
私もそのような者となりたいと思います。


西日本教区 藤田昌孝
(No.46.10,02,13.教区長室便りより)
  

戒めと掟と法

2010-02-07 20:34:45 | メッセージ

「これは、あなたたちの神、主が、あなたたちに教えよと命じられた戒めと掟と法であり、あなたがたが渡って行って得る土地で行うべきもの。あなたもあなたの子孫も生きている限り、あなたの神、主を畏れ、わたしが命じるすべての掟と戒めを守って長く生きるためである。」(申命記6章1−2節)

 旧約聖書には、「戒め」「掟」「法」など「おきて」を意味する言葉がたくさん使われています。そのため、キリスト教は、結局、「おきて」の実践を救いの条件とする「律法宗教」ではないかと思われる方もいらっしゃいます。「おきて」には、どのような意味があるのでしょうか。 

 旧約聖書の一つ申命記にも、神様の「おきて」がたくさん示されています。申命記は、イスラエルの民が、荒れ野の旅を終えた後モアブの台地でモーセがイスラエルの民に語り聞かせた「おきて」とされています(申命記1:5)。
 長い旅を終えイスラエルの民が、約束の地に入ることができたのは、神様の恵みによるものでした。民の行いが立派で優れていたからではありません。また、神様の導かれる道をまっすぐに歩んだわけでもありません。むしろ、彼らは、神様の指示を離れて強情にふるまう背き続ける民でした。しかし、人類の命に無関係ではいられない神様の愛によって、彼らは約束の地に入ることができました。
 そして、モーセは、この恵みを得た時、「おきて」を語っているのです。
 おきてが、神の民に与えられたのは、おきてを果たして約束の地に入ることではありませんでした。そうではなく、神の民が、約束の地で恵みにとどまり続け「長く生きる」ためのものでした(申命記6:1−3)。神様の限りない優しいまなざしを見続け、私たちが良い実を身につけるためのものでした。

山口 平賀和弘
(No.135 10,2,6.防府教会牧師室便りより)


E.G.Wの妹への手紙

2010-02-06 20:50:40 | メッセージ

 先月1月25日~28日に全国聖書会議が牧師たち対象に行われました。ジョン・ポーリン先生他6人の先生方を講師に迎えての充実した学びでした。主な内容は、黙示録研究、アドベンチスト神学、啓示論、残りの民、E.G.ホワイトの研究でした。
 その中で、マーリン・バートン先生(アンドリュース大学院准教授〈教会史〉、アドベンチスト・リサーチセンター所長)がお話くださった「E.G.ホワイトの妹への手紙」をご紹介させていただきます。

エレン・ホワイトの最も感動的で霊的力を満たす手紙の一つは、エレン・ホワイトの妹への手紙(その妹が亡くなった年に書き送ったもの)です。妹のエリザベス(リッジー)は、大人になっての大半をクリスチャンとして生活しませんでした。この手紙は個人的なもので、公表されることはありませんでしたが、その手紙の中には、エレンの妹に対する霊的な強い願望とイエス様への愛があらわされています。

「わたしはイエス様と彼の比類のない愛を語ることを喜びとし、わたしの全霊はこの働きのうちにあります。わたしは神様の愛と守り、憐れみを信じ、このお方がご自分のもとに来る全ての人を極みまで救いたもうことに一つの疑いも抱きません。
リッジー、イエス様を信じませんか。このお方があなたの救い主であられることを信じませんか。主はあなたが救われるためにご自分の尊い命を下さることによって、あなたへの愛を証明してくださいました。あなたに求められている全ては、イエス様をあなた自身の救い主として受け取ることです。わたしは主イエスが、ご自身をあなたとルーベンに現してくださるように真剣に祈ります。
愛する妹、あなたがしなければならないことは何かすばらしいことをすることではありません。あなたは貧しく、悩み、苦しむ者として倒れましたが、イエス様はこのような人全てが、みもとに来るように招いておられます。
悲しいことですが、友人はあなたを救うことができません。あなたの医師もあなたを救うことはできません。しかしあなたが永遠に生きることができるために死んでくださった、このお方がおられます。イエス様があなたの告白を聴き、あなたの悔い改めを受け入れ、全ての罪をお赦しくださり、そして、あなたを神様の子供としてくださることを信じてください。
あなたは自らを、イエス様への信頼に満ちた信仰をもってささげますか?わたしはあなたの腕をとり、あなたをイエス・キリストの胸におきたいのです。
あなたの聖なる友イエス様が共におられれば、あなたは死を恐れることはありません。なぜならあなたにとって死は、ここにおいて目を閉じ、そして天において目を開くようなものだからです。そのとき私たちはもう決して別れることがありません」
(E・ホワイトからエリザベス・バングスへ 1891.2.21.1891年手紙第61号)


西日本教区 藤田昌孝
(教区長室便りよりNo.45.10,02,06.)


我々は主を知ろう

2010-02-02 12:33:17 | メッセージ

「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように/我々を訪れてくださる。」(ホセア書 6章3節)

 今週、B.R.I.という機関の先生を日本にお招きして、全国の牧師が集まり、「聖書会議2010」という聖書を学ぶ会が行われました。

 今、教会には、様々な考え方を持った方がいらっしゃいます。ものすごく保守的な方もいらっしゃれば、ものすごく急進的な方もいらっしゃいます。例えば、E.G.ホワイトの書物の捉え方一つとっても、違いがあります。彼女の勧告を忠実に受けとめて従っている方もいらっしゃれば、彼女の霊感は受け入れるけれども、伝統的なアドベンチストのように生活することを好まない方もいらっしゃいます。そして、それぞれが自分たちこそ真のアドベンチストであると主張しているのです。しかも、SDA教会は、日本だけでなく、世界中にあります。つまり、ものすごく様々な考え方があり、その考えの中には、右寄りと左寄りのおもいっきり異なった考えもあるのです。

 神様は、全ての人が同じように考え、行動するように求めておられません。多様性は、認め合うべきです。そして、神様は、分裂ではなく一致することを求めておられます。多様性の中で、教会の一致は、どのようにしてなされるのでしょうか。

 そこで、今回招かれたのが、B.R.I.の先生でした。B.R.I.(the Biblical Research Institute)は、聖書を研究しているSDAの重要な機関です。
 私たちは、自分の考えではなく、神様の御心を尋ね求め、主に従ってまいりたいと思います。まず一致して、主を学び、主を知りたいと思います。


山口 平賀和弘
(No.134 10,1,30.防府教会牧師室便りより)






背筋を伸ばして  

2010-02-01 20:20:44 | メッセージ

今巷では「背伸びダイエット」なるものが、にわかに流行っているそうです。その方法としては、次のようなものがあります。

1、両手をめいっぱい上まで伸ばす。
2、顔は上に向けて、無理のないように背中を反らす。
3、この状態で、大きくゆっくり深呼吸を行う。これを30秒間行う。
4、手を組んで、手のひらを上に向けて、両手をめいっぱい上まで伸ばす。
5、顔は上に向けて、無理のないように背中を反らす。
6、この状態で、大きくゆっくり深呼吸を行う。これを30秒間行う。
7.最後にクールダウンとして、左右に1回、前に1回、ストレッチを行う。
※1日3回!食前に行うと良い!

 ホルモンや血流の関係で、新陳代謝が上がるのだそうです。はてさて効果の程は?
 効果の程を問わずとも、背筋を適度に伸ばすというのは良いことだと思います。特に背筋を伸ばして姿勢を正すことは大切です。
気分が落ちこんだときや、心がくじけそうになったとき、あえて姿勢を正すことによって、思いが前向きになる、といわれています。

オハイオ州クリーブランドにあるケース・ウエスタン・リザーブ大学の心理学者マーク・ムラヴェン氏は、自信のない大学生に、姿勢だけに気をつけて生活するようにアドバイスしたところ、わずか二週間で、彼らは自信をつけることができたと述べています。

 エレン・G・ホワイトは著書の『教育』の中で次のようにおっしゃいます。
「(健康教育で)まず第一に心がけなければならないことは、立ったときとすわったときの正しい姿勢である。神は人間をまっすぐにおつくりになった。神はわれわれが肉体的な恵みばかりでなく、また知的霊的な恵みすなわち美徳、気品、落ち着き、勇気、独立心を持つように望まれるが、そうした美徳を養うには、まっすぐな姿勢が大いに役立つのである。教師は、この点について言葉と模範を通して教えを与えるべきである。正しい姿勢とはどういうものかを示し、いつもその姿勢を保つように主張しなければならない」(『教育』235-236)。

神様が私たちをお創りになられたときのご期待にそって生活できたらよいですね。
「わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって、驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか、わたしの魂はよく知っている」(詩篇139:14)。

西日本教区 藤田昌孝
(No.44.10,01,30.教区長室便りより)