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ラムズ・スタディ

聖書の神様のこと、みんなで学び、同じ目標を確認できたらホントすばらしい。

安息日学校教課  2008 年 第2期9課

2008-05-30 20:15:21 | ディボーション

みなさま

 5月31日は世界禁煙ディです。札幌では毎年、北海道の嫌煙団体が集り、世界禁煙ディに最も近い土曜日に街の中をパレードします。今年は、ちょうど禁煙ディにあたります。禁煙嫌煙運動が健康改革と言うよりも社会運動の要素が強くなったのは30年くらい前でしょうか。そのころには飛行機や列車だけでなくタクシーまで禁煙になる時代が来るとは思いませんでした。
 そこに至るまで、わたしたちの教会が大きく関わったことは事実ですが、市民からの声で変革が始まり、ここまで大きく成長した数少ない運動の一つではないでしょうか。


第9課  「イエスの愛の優しさ」  5月31日

暗唱聖句  「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」マタイ 9:36

今週の聖句:マタイ5:44~48、19:13、14、23:37、ルカ10:38~42、ヨハネ8:2~11、使徒言行録6:7

今週の研究:イエスは御自分の聴衆を知っておられました。彼らの必要と痛みを共感されました。その上、御自分と同じ者になるように、あるいは同じことをするようにとは要求されません。イエス御自身、40日間、断食しておられたにもかかわらず、わずか3日間、食べ物がなかった(全くなかったわけではない)人々の健康を心にかけておられるからです。
 今週は、個人の生き方のうちに、またイスラエル民族の生き方のうちに表された、そのような愛に満ちた憐れみについて学びます。


日曜日:イエスのご品性は完全な義の美しさに輝いている。イエスは、罪を軽く見たり、不義の意識を弱めたりはされないが、罪に定めようとしないで、救おうとされる。
 世の人たちは、過失を犯しているこの女を軽蔑し嘲笑することしかしなかった。だがイエスは、慰めと望みのことばを語られる。罪のないお方は、罪人の弱さを憐れみ、彼女に助けの手をさしのべられる。偽善的なパリサイ人は攻撃するが、イエスは、彼女に『お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』と命じられる」(『各時代の希望』中巻249ページ)。
 この物語を注意深く読むなら、イエスが悪意に満ちた者たちでさえ憐れんでおられることがわかります。この不運な女と同じくらい、彼らもキリストの招きに心を開いていたら、どれほどよかったことでしょう。

水曜日:真の意味において、キリストの生涯と死は、自分の敵を愛し、自分を虐待する者たちにすら善を行うというこの原則の現れであったと言うことができます。
 たとえば、ペトロが切り落とした大祭司の手下の耳をいやされたイエスの行為はどうでしょうか(ルカ22:50、51)。あるいは、かたくなな弟子が罪から立ち返るさらなる機会を与えるために、ユダの裏切りを予見しておられたことを彼に啓示されたイエスの行為はどうでしょうか(マタ26:25)。
 言うまでもなく、最大の模範は十字架につけられておられたとき父なる神にささげられた次の祈りでしょう。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。多くの点において、それは受ける資格のない者たちに対する究極的な愛の模範です。自分たちが何をしているのか知らなかったとしても、彼らには言い訳の余地がありませんでした。
 地上におられたとき、イエスはユダヤ人にもローマ人にも、御自分がだれであるかを、あるいは少なくとも御自分が刑罰を受けるに値することは何一つしていないことを知る十分な機会を与えておられました。それにもかかわらず、イエスは彼らに憐れみを示されました。

金曜日:救い主は人間の弱さを譴責されなかった。救い主は恐れることなく偽善や不信仰、不義を非難されたが、容赦ない非難の言葉を語るときにはその声に涙があった。
 救い主は決して真理を無慈悲なものとせず、つねに人類に深い優しさを現された。すべての魂が救い主の目に尊かった。救い主は神の威厳を備えておられたが、へりくだって神の家族の一人ひとりに心からの同情と敬意を表された。救い主はすべての人のうちに、御自分の救霊の対象である魂をご覧になった」(『福音宣伝者』117ページ)。


 今週の学びはイエス様の愛と優しさについてです。イエス様の愛情の深さ、そして互いを活かす判断などを見ていると、とても人間の業とは思えません。
 たとえばドラマなどを見ていると、だれかの一言で人生が変わるような場面があったり、先生が心に響く言葉を語ったりします。けれども準備していない人間が、なかなかそのような言葉を語ることができません。ドラマは作り物だからこそできるわけです。脚本家のすばらしい言葉があるからこそなのです。
 またわたしたちは不可抗力で何か痛みが与えられてもゆるすことができないでしょう。ましてや故意に殺そうとしている相手をゆるすなんて・・・。考えただけでも不可能なことです。

 こどもたちの讃美歌に「だってイエスさまは、神さまだもの」という歌詞がありますが、これしか答えが見つかりません。

 日曜日の研究の最後に書いてありますが、わたしたちはその愛を受け入れないとその愛の中で生きることができません。あなたが受け入れなければ、その福音に預かることができません。このすばらしい祝福を拒むことの無いようにしたいものです。そしてこれをまわりの人たちにもお伝えできればと願っています。


北海道  安河内 アキラ


安息日学校教課  2008 年 第2期8課

2008-05-23 19:44:44 | ディボーション

みなさま

 札幌の街では、ライラックが満開です。この街にとても似合う花ではないかと思っています。 先日、天気予報を見ていたら、ライラックの香りは晴れていると高いところへ上がって行ってしまいますが、逆に曇っていると上昇しないで漂っているので、街の中でも香りを感じることができると報じていました。曇りでも良いことがあるんですね。


第8課  「イエスの歩みの力強さ」  5月24日

暗唱聖句  「神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」ヨハネ第一 2:6

今週の聖句:マタイ4:4、ルカ2:40、6:12、ヨハネ4:34、17章、ヨハネ第一2:6

今週の研究:全世界が敵にまわり、だれひとり支持してくれる人がいないような状況にあって、どうしたら人は揺るがない、落ち着いた態度を持ち続けることができるのでしょうか。イエスにとって、その答えは神との交わり、神との力強い歩みにありました。これが今週の研究のテーマです


日曜日:もしキリストの公生涯に見られる堅忍不抜さと力強さが一夜にして、あるいはうわべだけの浅薄さから生じたものでないとするなら、それらが神との力強い歩みから出たものであると結論づけるのが自然です。
 聖書学者の見積もりによれば、福音書の大半はイエスの生涯の最後の週を扱っていて、(しばしば言われるように)これらは自伝というより、「受難物語」の性格を帯びています。それらが記録されたのは明らかに、キリスト教信仰の中心的な二つの出来事に焦点を当てるという明確な目的のためでした。一つはイエスの誕生の神秘(受肉)であり、もう一つはイエスの死と復活の意義です。これら二つの出来事の間に、奉仕と犠牲に満ちたイエスの無我の生涯があります。こうして、イエスの公生涯のうちに見られる集中と献身は、首尾一貫した、個人的で力強い神との関係が開花した結果と考えられます。

火曜日:マルコ1:35に、イエスが「朝早くまだ暗いうちに……起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」と記されていますが、これは一度だけの出来事ではなく、一つの行動様式であったように思われます。
 イエスは毎日を神と共に始められました。しかし、特別な必要のあるときには、その回数が増えました。ルカ6:12を見ると、イエスが多くの弟子の中から12人の弟子を選ぶ直前、山の上で一晩中祈り続けられたことがわかります(13節参照)。湖の上を歩く前には、かなりの時間を父なる神との交わりに費やしておられます。受難週の間に十字架に直面されたときには、御自分の直弟子と後世の神の民のために熱烈な嘆願の祈りをささげておられます。

水曜日:最後の聖句(ヨハ12:27~36)に込められたイエスの感慨は意味深長です。それは、何人かのギリシア人がイエスに会いに来たときに語られたものです(ヨハ12:20~22)。そのことは、イエスが御自分の生まれたパレスチナの地を越えて地の果てにまで福音を伝えることが可能となったことを意味していました。しかし、そうするためには御自分の使命の最も重要な側面、すなわち諸国民の贖いとして御自身の命をささげることが必要であることを、イエスは知っておられました。そこで、イエスは一粒の麦が地に落ちて死ぬというこれらの力強い言葉をお語りになります(24節)。それは御自身の犠牲についての象徴であると同時に、イエスに従うすべての人々が個人的な代償の大小にかかわらず、神の御心のために全的に献身するという原則についての象徴でもあります。


 先日ある牧師さんが「自分のある問題について長い間、祈ってきたが答えられませんでした。そして数年たったある時に、先輩の先生にこの悩みを打ち明けたのです。彼は、後輩の牧師のために心を込めて祈りをささげてくださいました。そしてその数ヵ月後に祈りは応えられた」とあかしをなさっていました。
 「自分のために祈ることよりも、だれかのために祈ることによって、神様の大きな力がその方のために与えられますから、ぜひとも主にある兄弟姉妹のためにお祈りしましょう」と、その先生は勧められました。

 このあかしをうかがいながら、たしかにわたしは自分のためだけに祈っている姿を再認識させられました。自分のために祈ることも大切です。けれどもわたしたちの信仰は自分の願いがかなえられれば、自分が救われれば、自分が快適に教会生活を送ることができればと内向きの信仰生活になっていないでしょうか。

 神様へ祈ることは、わたしたちの信仰生活の重要な行為です。この祈りを自分に向けてではなく、まわりのだれかのためにささげる時に、わたしたちは神様の愛が、そに注がれる様子を見ることができるのです。
 キリストの想い、そして力の源は、このようなだれかのための祈りだったのではないでしょうか。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第2期7課

2008-05-16 19:45:38 | ディボーション

みなさま

 今年は例年に比べて寒暖の差が激しい春です。あたたかい日が続いたので桜の開花が早かったのですが、その後は寒い日が続き、また風もそっと吹いているためか、北の街では八重桜がまだまだ咲いています。
 その平穏な景色とはうらはらに、世界では大災害が起こっています。このような悲しいニュースを見るたびに「イエス様、早く来てください」と祈らずにはいられません。


第7課  「イエスの行動の謎」  5月17日

暗唱聖句  「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」マタイ 11:19

今週の聖句:マタイ4:12、13、8:28~32、11:18、19、21:12、13、ルカ2:41~51、5:32、コリント第一1:26~28

今週の研究:先週の研究では、現代人を悩ませるイエスの言葉について考えました。今週も同じ問題について、特にイエスの行動に的を絞って考えます。
 今週は、何を生活の中で実践し、何を実践すべきでないかを学ぶために、さらに頭を悩ませるイエスの行動のいくつかについて学びます。


月曜日:多くのクリスチャンは、この複雑な現代社会において選択を迫られたとき、「イエスはどうされるか」と尋ねます。この質問は、一歩さかのぼって、「イエスはどうされたか」と尋ねるまでは理にかなっています。実際には、その答えは必ずしも私たちの考えているほど単純ではありません。たとえば、上の聖句は今日の私たちの行動に関して何を教えているのでしょうか。
 「イエスが今日なさるであろうことが、イエスが当時、つまり1世紀のローマ時代のパレスチナにおいて実際になさったことと何らかの相関関係があると仮定しよう。……いったい現代のクリスチャンは木を呪い、神殿を混乱させるという一風変わったこれらの出来事をどう理解し、適用したらよいのであろうか。
 もし、端境期のために行きつけの八百屋に求めていた果物がたまたまなかったとしたらどうだろう。私たちはイエスの許しによって果物箱や店主、その他ありとあらゆるものを呪うだろうか。
 もし、ある日曜日に説教者がお金について長々としゃべったり、教会の事務員やプログラムが気に入らなかったりしたなら、礼拝の途中で暴れ出し、長椅子や説教壇、祭壇など、釘で止めてない物をすべてひっくり返し、案内人を教会から追い出すであろうか」(F・スコット・スペンサー『イエスは何をされたか』ixページ)。

水曜日:ヨハネが投獄されていた間のイエスの行動をどう説明したらよいのでしょうか。ヨハネが投獄されたことを初めて聞いたとき、イエスはガリラヤに退かれます(マタ4:12)。マタイ11:2、3からも明らかなように、ヨハネが獄中にいたとき高名な同時代人[イエス]の訪問を受けたという証拠はありません。ヨハネが遣わした弟子たちが帰った後、イエスは戦いの中にある預言者を賞賛されますが、彼を訪問されません。
 私たち人間に絶えずつきまとう疑問の一つは苦しみをめぐる問題、すなわち「私たちが苦しんでいるとき、神はどこにおられるのか」という疑問です。ヨハネの経験の中に、イエスの行動に関する部分的な答えが示されています。イエスは人となられた神、行動する力を持ったお方でしたが、御自分の働きの基礎をすえた人物を救出するために介入されませんでした。ヨハネの殺害後も、イエスは(この問題を痛烈に感じておられたはずなのに)沈黙されたままです。イエスもイエスの弟子たちもヨハネの葬儀に参列した様子はありません。

金曜日:「人の心を動かすにはキリストの方法だけが真の成功をもたらす。人間と交際しておられた間、救い主はその人たちの利益を計られ、同情を示し、その必要を満たして信頼をお受けになった。そして『わたしについてきなさい』とご命令になった」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング2005』115ページ)。


 聖書を読んでいると、これをこのまま行っては・・・と思ってしまうことがあります。
 今週の寄稿メッセージに「聖書の中で私たちは、理解に苦しむイエスの行為と出会うかもしれません。そんな時、注意すべきことがあります。それは、聖書の記述を「印象」によって理解しようとしてはならない、ということです。著者は、少年イエスの記述について「無責任な少年という印象を与えます」(ガイド47ページ)と述べています。これは「印象」であって、正しい理解ではありません。」と書かれています。ほんとうにそのとおりだと思います。
 わたしたちが受ける印象は21世紀初頭の日本に住んでいる者としての感覚なのです。これで聖書の世界を理解しようとしても、答えを見つけられないことが多々あると思います。

 わたしたちが聖書の記述で疑問を持ったり、理解できないことに出会ったら、その意味や背景などを調べる必要があります。その時に、大きな力となるのは、ホワイト夫人の著書です。教課では、火曜日の研究で、あかしの書がくわしく情景を説明している実例を挙げています。このようにホワイト夫人の著書は、聖書に光を与えてくれるものです。
 今年、わたしは「希望への光」を読んでいますが、読むほどに聖書のこと、神様のことについて深められて行きます。これを読まないことは、大切な宝を放置しているのと同じです。

 そしてもう一つ忘れてはいけないことは、イエス様に信頼することです。なぜかわからないにしても、イエス様がわたしたちを愛して救うために、最善のことをなされてと信じて受け入れることが大切なのではないでしょうか。
 またわからない部分だけを取り上げて、聖書全体を否定してしまうようなことは、まさに枝を見て木を全体を見ていないことにもなります。わからなかったら、無理して答えを求めようとせずに、そのままにしておき、神様が時が来たら悟らせてくださると待つことも、神様に信頼する者としての姿勢ではないでしょうか。


北海道  安河内 アキラ

安息日学校教課  2008 年 第2期6課

2008-05-08 20:07:05 | ディボーション

みなさま

 鳥インフルエンザのニュースが流れています。そのたびに「近隣30キロ県内の養鶏業者が・・・」と報じられます。今回は北海道の東の果てで、そこにも5軒あるわけですから・・・。日本各地に養鶏場があるのか再認識させられます。そう言えば、こどものころ育った家の近所にも、また北浦三育中学校のマラソンコースの途中にもありましたね。
 卵は壊れやすいので、あまり遠距離輸送は適していないかもしれません。そのようなわけで各地にある養鶏場のおかげで、わたしたちはおいしい卵を食べられるのだと考えさせられました。
 しかしこのような新しい伝染病の蔓延というニュースを聞くと、人間の文明がどんな進歩しても、防ぎきれないことが多々あることを教えられます。

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第6課  「挑戦に満ちたイエスの言葉」  5月10日

暗唱聖句 「今まで、あの人のように話した人はいません」ヨハネ 7:46

今週の聖句:マタイ5:48、18:21、22、19:3~12、ルカ12:32~34、ヨハネ19:25~27

今週の研究:イエスの言葉の中には、ふつう正常と見なされるものとは全く相容れない価値観を持つものがあります。
 イエスはこれらの言葉によって何を教えようとされたのでしょうか。私たちはそれを自分の生活の中でどのように実践すべきでしょうか。


火曜日:イエスは金持ちの若い議員に次のように言われました。「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」(ルカ18:22)。この過激な命令については、一般的に、イエスの要求がこの若い議員に対して特別に与えられたものであって、議員の必要に対する預言的な洞察にもとづいたものであったと説明されてきました。イエスはここで、金銭が議員と救いとの間の大きな障害になっていると指摘しておられます。しかし、イエスはこれと同じ勧告をすべての人に与えておられないのでしょうか。
 イエスはルカ12:33で、金持ちの若い議員にお与えになったのと同じ勧告を、財産のあるすべての人に適用しておられるように思われます。
 次の点に注目することが助けになります。イエス御自身の伝道においてはどうだったでしょうか。彼らは手元に資金を持ち、ユダがそれを管理していました(ヨハ12:6、13:29)。
 使徒言行録以後の初代教会はどうだったでしょうか。パウロやヨハネ、ペトロなどの手紙を見ても、財産を売り払ったという記録はありません。

水曜日:長年にわたって人々を困惑させてきたイエスの言葉の一つは、山上の説教の次の言葉です。「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタ5:48)。
 何世紀もの間、良心的なクリスチャンはイエス・キリストが示されたと考える標準、つまりこの世と肉欲、悪魔に対する完全な勝利に到達しようと努力してきました。ある者は自分自身を鞭で打ちたたき、ある者は巡礼に参加し、ある者は厳格に律法を順守することによって、標準に到達しようとしてきました。どの場合も、目標は立派なものです。しかし、それが、イエスがマタイ5章で求めておられることなのでしょうか。
 マタイ5章で、イエスは、「あなたがたも完全な者となりなさい」(48節)と言われますが、ルカ6章では、「あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(36節)と言っておられます。双方の文脈に照らすと、ルカの方がイエスの意図に近いと思われます。「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである」( 35節)と言われたすぐ後で、「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(36節)と言われています。
 マタイでも、すべての人に優しく、偏り見ることのない天の父なる神に似る者となるように励ましておられます。これが、この文脈で語られている「完全」の意味です。確かに、それは高度な命令ですが、クリスチャンにとって、これ以上に高尚な理想があるでしょうか。

金曜日:イエスの言葉の中には、単独で理解しようとすると理解しづらいものがあるのは確かです。しかしながら、それらを文脈に沿って考えるとき、特にそれらに均衡と調整を与えているほかの言葉に照らして考えるとき、多くの言葉はずっと理解しやすくなります。
 いずれにしても、中途半端な気持ちでは、イエスに従うことはできません。どんな犠牲を払ってでも心からイエスに従うか、全く従わないかのどちらかです。


 今週の研究は、難解な聖句をどのように解釈して行くか教えています。時代背景やキリストが語られた状況などをよく理解して、また聖書の他のみことばの教えなどとも一緒に考えて学ぶことが重要です。どちらにしても一部分だけを見つめて、無理な解釈を施すと、それは苦しみしか与えない場合があります。
 それについて、今週の学びで水曜日に、とてもくわしく書かれています。ぜひ今週は特に水曜日の学びに注目してください。
 ここに書かれているマタイ5章の「完全になりなさい」という言葉は、クリスチャンへの神さまからの奨励として、多くの人が心を痛めてきました。それはやってもやってもそれに近づけるどことか遠くなっていくことがわかるからです。
 「完全だろうか」、そこまで行かなくても「わたしは正しい道を歩んでいるだろうか」と内省することは必要だと思います。しかしクリスチャンが完全ということを考える時、その思いの根底にあるのは、神さまのみこことに近づいているだろうかということよりも、わたしが救われる標準に達しているだろうかという、内向きな、自分の救いのためだけを考えている場合が多いのではないでしょうか。

 マタイ5:48の「完全であれ」という勧めは、マタイ5章で語られている教えを総括しているものです。では5章では何が教えられているでしょうか。まずは「・・・は幸いである」で始まる8っつの祝福から始まり、「世の光、地の塩になれ」、「腹を立てるな」、「姦淫するな」、「右のほほを打たれたら、左のほほを・・・」、「敵を愛しなさい」などの有名な教えが続いてます。これらは醜い心を清くするような勧めではありません。まわりの人々をどのように愛するか方法を教えて、愛することを実践するように勧めているのです。つまりキリストの教えは外向きなのです。

 ある説教集で、著者はこの「完全」を「できた人」と訳していました。これは名訳ではないかと思います。腹を立てずに敵を愛せるような人、それはまわりから「ほんとうにあの人はできた人だ!」と賞賛されることでしょう。それによって神さまが光があかしされるのです。そのようにして、わたしたちは世の光になるようにキリストは勧めています。それがこの聖句の本意なのです。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第2期5課

2008-05-02 20:02:29 | ディボーション

みなさま

 後期高齢者の健康保険の評判が悪いようです。あまりくわしく調べていないのでうかつなことは言えませんが、首相や大臣などが「保険料が安くなる。良い制度」と声高に叫べば叫ぶほど、うさんくさく見えてしまうのはわたしだけではないと思います。
 なぜだろうと考えているうちに見えてきたことは、制度の問題ではなく、どのような思想というのか哲学でこの制度を作ったかが、そこが見え隠れするから首相の発言から真実味が伝わらないのだろうと思いました。今回は高齢者のためではなく、どうすれば国の負担が軽減できるかが、この制度の根底に流れる思想ですから・・・。

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第5課  「イエスの御業の不思議」  5月3日

暗唱聖句  「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」マタイ 9:36

今週の聖句:マタイ4:23~25、8:25~27、11:2~6、12:22、23、使徒言行録3:19~21

今週の研究:イエスにとって、説教は単なる言葉ではありませんでした。言葉は行いによって裏づけられねばなりませんでした。神の国が到来し、イエスは新しい時代の幕を切って落とそうとしておられました。


火曜日:「憐れみ」の語源になっているギリシア語は“スプランクノン”で、これは古代世界で感情の中枢と考えられていた「内臓」や「はらわた」(腸)を意味しています。憐れみは(単に知的なものになりがちな)同情を超えたものです。憐れみはもっと深い部分、心臓や腸から来るものです。
 イエスは福音書の中で繰り返し、そのような憐れみを人々に示しておられます。重い皮膚病を患っている人がイエスに願って、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言ったとき、イエスは「深く憐れんで」、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言っておられます(マコ1:40、41── マタ20:29~34、マコ10:46~52比較)。

水曜日:イエスの働きが預言の実現であり、メシア時代の到来であるという思想は、マタイ自身の解釈からも明らかです。彼はイエスの活動をより広い、メシア的な文脈の中で理解しています。「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った』」(マタ8:17──イザ53:4引用)。
 これと同じ思想は、イエスの働き全体についてのマタイの簡潔な描写の中にも示されています。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタ9: 35、36──マタ4:23~25参照)。

金曜日:「福音書はイエスの奇跡についての記録で満ちているが、そのことを強調することは誤りであろう。一つの理由は、イエス御自身が奇跡を強調しておられないことである。ほとんどすべての奇跡は静かに、群衆から離れて、信仰の力の現れとしてなされている。
 イエスの働きを正しく理解するためには、弟子の一人が強調している点に注目する必要がある。あるとき、ペトロは人々の前でイエスの生涯を要約して、次のように言っている。『イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け』[使徒10:38]。イエスは、普通の人々や社会に適応できない人々と気楽に、率直に交わり、彼らをいやし、相談に乗りながら、方々を巡り歩いて人々を助けられた。
 イエスのそうした行動がきわめて印象的だったので、共にいた人々はつねにイエスに対する評価を改めることになった。もし神の慈愛が人のかたちをして現れるとすれば、このような行いにおいてであろう、と彼らは考えた」(ヒューストン・スミス『世界の宗教』210ページ)。


 今週のある方を訪問した時に、ご家族から教会へ向けられた言葉が、まさに今週の教課の学びの教えであり、わたしたちの足りないところをしっかりと指摘してくださる言葉だったので掲載させていただきます。
 現在の教会に赴任して、様々な責任も加わり、また食べすぎと加齢のためむかしのようなフットワークもままならず・・・、体調を崩している方への訪問が決してきちんと行われているとは言えないの率直な現状でした。
 今週訪問した方は、昨年の冬に入ったころから体調が悪くなり、教会を休んでいました。そのご家庭をしばらくぶりに訪問した時に、ご家族から「教会は愛を説いているけれども、年齢を重ねても必死で通っている者のそばに寄り添ってくれているだろうか。強い人や、組織のためになる人のことしか見てないのではないだろうか・・・。」と語りかけられました。もちろんこれは教会全体に対するものではなく、わたしの働きで不足していることを語っていただいたのですが・・・。

 「教会に来られる方ばかりのことを見ていて、やっとの思いで教会に出席しているけれども、もう少し近くに教会の集まりがあれば、そこまでだったら行けるという方も多くいるはずではないか。そのような方々のためにも、もっと小さな集まりを作って欲しい」とも要望されました。
 そのような方々への働きも不足してましたが、それ以前にそのような方々へ寄り添う姿勢も欠けていたことが根本的な原因でしょう。

 イエス様の教えの実践は、このような一歩ずつ、できるところからして行くことではないでしょうか。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第2期4課

2008-04-25 19:45:00 | ディボーション

みなさま

 3月から北の街ではあたたかな日々が続き、例年この時期は毎年冷たい風が吹くのですが、4月に入っても最高気温が20度くらいになる日が続いています。そして今週、約2週間早く桜が開花してほぼ満開になっています。札幌教会の花見も2週間前倒しとなりました。みなさまの地方は、どのような春をお迎えですか。


第4課  「イエスの教えと知恵」  4月26日

暗唱聖句  「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」マルコ 1:22

今週の聖句:マタイ5~7章、20:25~28、ヨハネ4:22~24、8:1~11

今週の研究:イエスの教えの知恵について語る場合、イエスとほかの賢い教師たちとを混同する危険があります。イエスの教えは単に賢明なだけではありませんでした。イエスの教えには、それ以前・以後の、ほかのすべてのものと本質的に異なる質的な違いがありました。それには、ほかのものにはない究極的、決定的な要素が含まれていました。言い換えるなら、神が人となって語っておられました。


月曜日:イエスが神の位格と品性についての誤解に満ちた世界に来られたのは、御自分の生涯と言葉によってそれらの誤解を正すためでした。イエスは神のみもとから来られたので、イエスが神について啓示されたことはこの上なく正確なものでした。
 その社会の品位を試す決定的な基準は、それが最も弱い人々にどれだけの価値を置いているかということです。しかも、子供ほど弱いものはいません。イエスは子供たちが御自分のもとに来るのを歓迎し、多忙な中にあってもこれらの子供たちのために時間を割き、彼らに触れ、彼らを祝福されました。イエスがか弱い子供たちを大切にされたことは、2000年前の貧しい母親たちにとっては新風を吹き込むことだったにちがいありません。
 イエスの行為は、神がどのようなお方であるかを物語っています。神は子供たち、そして弱い者たち、搾取される者たちを心にとめてくださいます。

火曜日:イエスに関連した言葉の中で筆頭にあげられるものは「赦し」でしょう。イエスと赦しは密接な関係にあります。十字架の耐えがたい苦しみの中で、また兵士や民にあざけられ、虐待される中で、イエスの震える唇から悲痛な言葉が発せられました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。イエスは山上の説教の中でも、もし私たちが敵を赦さないなら、神も私たちの過ちをお赦しにならない、と言われました(マタ6:12、14、15)。

金曜日:たいていの場合、イエスは、隠された宝、種蒔く人、真珠商人、よきサマリア人などのたとえ話を語られた。それを聞いた人々は感動のあまり、『この人は権威をもって語る。このような話し方をする人はいなかった』と叫んだ。……イエスの教えについて最も印象的なことは、彼がそれらを教えられたことではなく、それらを実践されたことである。聖書の記録によれば、イエスの全生涯は自らの利益を求めない謙遜と自己否定、愛の生涯であった。イエスの謙遜についての最高の証拠は、彼が御自身についてどのように考えられたかを正確に知ることができない点である。彼はそのことには関心がなかった。彼の関心は、人々が神についてどのように考えているかにあった。……イエスは社会的慣行によって人々の間に築かれた障壁を無視された。彼は子供を愛された。彼は偏見を憎まれた。そして、たぶん何よりも偽善を憎まれた。なぜなら、それは人々を自分自身から隠すからである」(『世界の宗教』212、213ページ)。


 今週の学びで、イエスの教えの特徴は愛と赦し、謙遜であり、それを実践されたことであったと教えられています。それが神様のご品性の反映でもありました。
 これらの教えが2000年経っても色あせず、今でも多くの人々の心に光を与えているのは、真実でそして人間のために最も必要な教えだからではないでしょうか。
 謙遜の反対は高慢でしょう。高慢と赦せないことはつながっているように思えてなりません。高慢とは自分を高い位置に置いておくことです。それは自分を中心にして考えることです。だから自分の立場でものを考えるから相手を赦すことができません。わたしたちは相手を赦すためには相手の心を汲み取るとき、それをすることができるのです。自分を中心において、自分を見つめているかぎり、わたしたちはキリストの教えに近づけません。

 けれども神さまに近づくときに、わたしたちは自分の足りないことを自覚します。そうなると自然と謙遜になります。謙遜は目的ではなく神さまに近づいた結果なのです。神さまがお与えくださる品性の実なのです。
 そして神さまの赦しを味わう時に、まわりを赦せるようになるのではないでしょうか。キリストの教えは、わたしたちがより神さまに近づくときに実践できるものなのです。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第2期3課

2008-04-18 19:39:07 | ディボーション
みなさま

 今週も気になるニュースがたくさんありましたが、その中で昨日の名古屋高裁の航空自衛隊のイラクでの活動は一部違憲という判断は画期的なものでした。報道などを見ているとイラク全土が非戦闘地域とはとても言えません。そこで戦争に関わる後方支援をしているにしても、憲法9条を遵守しているとは言えないと思います。だからこそ当然の判決ではないかと思います。
 まだ確定していませんが、判決は確定することになりそうです。しかし政府は判決を尊重するどころか無視と決めているようです。三権分立は、行政と司法は別々の存在だから、司法判断は無視をするものではないと思います。
 このところの行政府の姿勢を見ていると、自らの決めたことが最善であり、正当な手続きを踏まえて抗議している者に対しても、横暴だの権力の乱用などと言っています。しかし今回の司法を無視する姿勢こそが権力の乱用ではないでしょうか。
 民主主義、法治国家は憲法が国の決まりであり、それに従うということが大原則です。それすらできない国家が改憲などというのは・・・。信教思想の自由を保障している現在の憲法を、わたしたちは固守して行かねばならないと思っています。


第3課  「イエスの人性の真実」  4月19日

暗唱聖句「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」ヨハネ1:14

今週の聖句:ガラテヤ4:4、テモテ第一2:5、3:16、ヘブライ4:15、16、ヨハネ第一4:1~3

今週の研究:ヨハネは、「言は神であった」(ヨハ1:1)という言葉をもって福音書を書き始めた後で、この言、この神が「肉となって、わたしたちの間に宿られた」と、驚くべき宣言をしています(14節)。そして、たぶん道徳的に汚される心配を予測してのことでしょうが、新約聖書は首尾一貫してイエスの罪なき生涯を擁護しています(ヘブ7:26、Iペト2:22)。しかも、新約聖書の著者たちは当然であるかのように、イエスを礼拝と崇敬の対象と見なしています(使徒7:59、ロマ9:5、ヘブ1:6)。


月曜日:イエスがだれであったのかをめぐる論争は紀元2世紀から6世紀まで、まる5世紀にわたって続きました。初めは、それはイエスの神格をめぐるものでした。つまり、イエスは神であったのか、もしそうなら、父なる神とどんな関係にあったのか、ということでした。
 その後、問題はイエスの人性に、そして神性と人性がどのようにして同一人格において結合していたのか、ということに移っていきました。声明と反対声明、宣言と反対宣言、非難と断罪と除名、加えてさまざまな言説が次々と提出されました。信じられないことですが、このような混乱と論争の最中に、イエスの本性と位格に関する聖書の正統的信仰が最終的に広く受け入れられるようになります。

火曜日:イエスの時代の人々の多くは、イエスが普通の人とは異なると考えていましたが、それでもみなイエスを人間と認めていました。
 サマリアの女は村に戻ったとき、井戸のそばで会ったユダヤ人について率直にこう言っています。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます」(ヨハ4:29)。それはイエスの時代の人々に見られるごく普通の証言でした。
 イエスが嵐を静められたとき、近くにいた人たちはこう言いました。「このかたはどういう人なのだろう」(マタ8:27、口語訳)。
 イエスは地上におられたとき、神としての特性を働かせることを自主的に思いとどまりました。神としての特性は彼のうちに留まっていて、彼はいつでも、自分の利益のためにそれを用いることができましたが、そうはされませんでした。困難を切り抜けるために(それがどのようなものであったかは私たちにはわからない)、この特性に訴えようとする誘惑は、イエスにとって日ごとの大きな試練でした。

水曜日:神はなぜ人間としてこの世に来られる必要があったのでしょうか。この質問は重要ですが、純粋に合理的な答えを求めようとする姿勢は捨てるべきです。私たちの道理にかなった答えが必要でないということではありません。
 哲学や科学、社会学などを個別に研究しても、答えは見つからないでしょう。だからといって、自分自身の答えを作り上げるべきではありません。最も安全な方法は、聖書そのものがこの点に関して啓示していることに注意深く耳を傾けることです。
 『ヘブライ人への手紙』の中に、この問題についての最も明らかで、意図的な説明を見ることができます。この手紙が天の聖所におけるイエスの大祭司としての現在の務めにまさに直接の焦点をあてていることも意味のないことではありません。


 先週は人間イエス様は神だったことを学びましたが、今週はその逆にで神の子が人間なってくださったことについて一週間学びました。これについてはどちらも様々な議論がなされています。しかし結果として信仰者がたくさん生まれているのではありません。もしそうだとしたら知識人ばかりがクリスチャンとなっているでしょう。けれどもまったく学問をしていない方も、キリストを主と唱えることができ、多くのそのような方々も教会に招かれています。この問題は、研究や議論で結論を求めるのではなく、純粋に信じることしか答えがありません。
 
 人間として生きられたキリストの姿からは、「能ある鷹は爪を隠す」ということわざが思い浮かびます。わたしなどは何も力が無いのに、わたしはここにいるよ!といかにして自分を目立たせようと自己顕示欲が強くて困っています。きっとまわりからはおとなしく静かにしていれば良いのにと、ひんしゅくをかっていることと思いますが・・・。
 イエス様の歩みから、自らの力をどのように用いていくのかが重要なことがわかります。そしてイエス様の歩みが神様のみこころの実践だとしたら、神様は人間に与えた力をだれかの幸せのために用いるように願っていることがわかります。
 イエス様は聖画に描かれているような、一人だけ白い服を着て・・・という人物ではなかったでしょう。けれどもやさしい目をして、困っている人や苦しんでいる人のために神様の力を表したのではないでしょうか。
 イエス様は、偉大な力で神様の姿を表すのではなく、深い愛情で神様の姿をわたしたちに示してくださいました。これが神様のみこころを実践する模範なのでしょう。


北海道  安河内アキラ



安息日学校教課  2008 年 第2期2課

2008-04-11 19:38:20 | ディボーション

みなさま

 4月に入りガソリンの値段と聖火リレーで大混乱が起きています。どちらも問題の根にあるのは国家とは何なのかということを問いかけているのではないでしょうか。その裏には、国家という組織を用いて、自らの利権や権益に群がる人々が見えてきたり、いろいろな人間の罪深さが浮き上がってきます。
 ただ安くなったから良かったではなく、国家のあり方、そしてわたしたちは地球に生かされている者として、今後どのようにして生きたらよいのか、考えなければならない時ではないでしょうか。



第2課  「イエスの神性の神秘」  4月12日

暗唱聖句  「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハネ1:1~3)

今週の聖句:イザヤ書9:5(口語訳9:6)、ミカ書5:1(口語訳5:2)、マタイ16:13~17、ヨハネ1:1、14、18、8:58、17:5、20:28、Iコリント1:3、IIコリント13:13

今週の研究:今週は、歴史的概観を離れ、聖書そのものが長年多くの人々の関心を引いてきたイエスについて何と述べているかを見ます。
 イエスをメシア、また神の子と信じることは、間接的に、イエスが出られたのは本来的にマリアの胎からではないと認めることです。それは、ほかの点ではどれほど人間に似ていようとも、イエスが他の人間と本質的に異なった存在であると認めることです。それは、イエスが地上生涯以前から存在された、つまり先在されたと信じることです。


月曜日:イエスが大いなる受難週の祈りの中で父なる神にささげられた次の祈りは、そのことをはっきりと表しています。「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」(ヨハ17:5)。
 「アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」(ヨハ8:58)。この「わたしはある」との表現は、永続性と永遠からの先在を示しています。その意味がわかっていた人々は、石を取り上げてイエスを殺そうとしました。イエスの言葉がとんでもない冒であると考えたからです(59節)。
 「キリストは御自分の先在について語ることによって、私たちの思いを永遠の昔に引き戻される。御自分が永遠の神と親密な関係になかったときが決してなかったと断言される。そのときユダヤ人たちが耳を傾けていたお方は、神と共に実在されたお方として神と共におられた」(エレン・G・ホワイト『サインズ・オブ・ザ・タイムズ』8月29日、1900年)。

火曜日:「独り子」という言葉はギリシア語では“モノゲネース”で、新約聖書に9回出てきます。そのうちの5回がイエスについて用いられていて、すべてヨハネの文書に現れます(ヨハ1:14、18、3:16、18、1ヨハ4:9)。5回とも、自分の福音書の初めからイエス・キリストの神格を確立しようとしている著者自身の文書に現れるところに深い意味があります。彼はこの点に触れて、次のように言っています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハ1:1)。このユダヤ人の著者が被造物と見なすだれかに神格の称号を与えることは信じがたいことです。
 ナインの町の、ある「一人息子」が死にました(「ある母親の一人息子」)。ここで強調されているのは、彼が生まれたということではなく、彼がひとりきりの、唯一の、独特の存在であったということです。同じことがヤイロの娘についても言えます。彼女はヤイロの「一人娘」、独り子(“モノゲネース”)、かけがえのない、ただひとりの子供でした。この意味で、彼女は独特の存在でした。ルカ9:38についても、同じことが言えます。
 “モノゲネース”という言葉は言語学的に、生まれるとか、生まれたという思想よりも、唯一の存在、独特の存在という思想を強調しています。

木曜日:新約聖書はイエスの神性についての証拠で満ちていますが、ここではこれ以上、詳しく学ぶ余裕がありません。たとえば、次のような点も取り上げることもできます。イエスが永遠であること、また創造主であること。イエスが罪を赦すお方であること。イエスが最後の審判者であること。バプテスマの定式(マタ28 :19)に見られるように、イエスの御名が神の御名と同等の地位に置かれていること。さらに、イエスがヨハネ14:9で、ほかの人間なら明らかに冒になるような言葉を用いておられること「わたしを見た者は、父を見たのだ」。


 今週の学びは「イエスキリストは神なのか」と問いかけています。キリストは自らが父なる神と等しいものであると語っています。ホワイト夫人は、あかしの書の中で、エデンの園でアダムとエバと歩まれた方、アブラハムやモーセに語られた方など旧約聖書で人々に出会われた神は、すべてイエスキリストであると語っています。
 また今週の学びの中では「御子」という称号は、こどもというよりも「かけがえのないもの」と教えられています。みなさまにとって自らのこどもとは、どんな存在でしょうか。それは命がけで守りたいほどかけがえのないものではないでしょうか。

 わたしは神の姿を、そして神の愛を人間が理解しやすいように、御子という表現で語られたのではないかと教えるときがあります。どちらにしても、わたしたちの親子のように親が先で子どもが後いうことはありません。
 今週の研究の題には「神性の神秘」となっています。このことを学べば学ぶほど、わたしたちは理解することが難しいことがわかります。木曜日の学びで「これらのことの深い意味を理解できないとしても、決して失望することはありません。問題を深くさぐればさぐるほど、自分がいかに無知であるかがわかるだけのことです。」と書かれていますが、同感です。

 この問題は理解するのではなく、信じるしかありません。なぜならわたしたちは神を見ることができないのです。けれども神さまは真実であるなら、おっしゃていることが真実であると信じることができます。そしてこのことを信じることは、神さまそのものを信頼することでもあるのです。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第2期1課

2008-04-04 19:29:29 | ディボーション

みなさま

 各地から桜の便りが聞こえてきます。ほんとうにきれいですよね。こどものころから桜がきれいに咲く山で暮らして来たので、わたしの中では春は桜なのです。
 北の街でも、ようやく市街地の雪は消えつつあります。今は、積み上げられた雪が残っているというところでしょうか。三育幼稚園園庭の雪山も、今日ですべて崩すことができました。これで太陽が顔を出せば消えるでしょう。これからは芝生の養生をして連休明けに、こどもたちが走り回れるようにしないと・・・。こちらはそのころ桜が咲きます。桜前線は、これから北上して行きます。


第1課  「イエスはだれであったか」  4月5日

暗唱聖句  「イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、『人々は、人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった」マタイ 16:13

今週の聖句:マタイ16:13~16、ヨハネ20:26~28、コリント第一1:18~27、15:3~7

今週の研究:イエスに関する議論・論争は、公生涯の初めからありました。これらの議論が今日も続いているということは実に興味深いことです。
 新約時代以降、イエスの高潔さと身分に関してどんな点が問題となってきたのでしょうか。聖書記者はイエスの身分についてどれほど確信していたのでしょうか。第1週の研究では、こうした問題について検証します。


序論:「あなたがたは聖書を調べるべきである」と、エレン・G・ホワイトは記しています。「なぜなら、聖書はイエスについて教えてくれるからである。聖書を読むと、あなたがたはイエスの比類ない魅力を知るようになる。カルバリーの人を愛するようになり、あらゆる段階において、『彼の道は喜ばしく、平和のうちにたどって行くことができる』と、世に言うことができる〔箴言3:17参照〕。あなたがたは世にキリストを現すべきである。あなたがたは永遠の命をともなった大いなる希望を与えられていることを世に示すことができる」(『ライフ・スケッチーズ』293ページ)。

 今期の研究では、イエスについて、つまりイエスがだれであって、何を教え、何をされたか、そして今、何をしておられるかについて学びます。
 最後の、「今、何をしておられるか」は非常に重要です。それは、いわば「現在形の神秘」であって、イエスをほかのあらゆる歴史上の人物と区別する決定的な要素です。いかに偉大であったとしても、ほかの歴史上の人物は今、私たちのために何かをしているでしょうか。


火曜日:新約聖書はイエスについてあれこれ推測していません。それは単純にイエスを神の御子として提示しています。後世において問題となるイエスの存在や位格に関する数々の疑問にも答えていません。すべての議論と論争において、聖書の言葉が中心の土台とされ、イエス・キリストの基本的な身分は受け入れられています。
 しかし、いわゆる(17世紀と18世紀の)啓蒙時代がこれらすべてを変えることになります。聖書はもはやイエスについての論考の土台ではなくなります。代わって、古代文書の研究において用いられた新しい方法や基準が聖書に対しても適用されるようになります。あらゆるものが理性による分析と批評に従うようになると、聖書信仰の基本的な前提条件である超自然主義が退けられました。
 罪にどっぷり浸り、神の助けを必要とするという伝統的な聖書の人間観が、人間の能力と発展を信じる楽観的な信条である人間至上主義に取って代わられます。

木曜日:イエスがどのような方であったのかという問題は、単に神学的命題であるだけではありません。私たちが考えねばならないのは何世紀ものあいだイエスを信じてきた数知れぬ人々のことです。
 もしイエスが彼らの信じた通りの存在でないとすれば、彼らはみな偽りと作り話を信じてきたのであり、等しく滅びることになります。もし彼が2000年前にパレスチナに生きた一人の人間にすぎなかったのなら、キリスト教会は人類の歴史において最も非難されるべき捏造にかかわってきたことになります。

金曜日:「ただの人間であって、イエスが言われたようなことを言う人は偉大な道徳的教師ではないだろう。彼は狂人か、……そうでなければ悪魔である。あなたは自分で選択しなければならない。この人は神の子であるか、それとも狂人、いや、それ以下であるか。あなたはイエスを愚か者として締め出し、軽蔑し、悪魔として抹殺することもできれば、彼の足もとにひれ伏し、彼を主また神と呼ぶこともできる。しかし、愚かにも、彼が偉大な人間の教師であるなどと考えてはならない。彼はそのようなことを私たちに言われなかった。そうする意図もなかった」(C・S・ルイス、「衝撃的な選択肢」、『ただのキリスト教』56ページ、1960年)。


 今週の学びから、わたしは二つのことを考えました。まずは序論の言葉を掲載しましたが「今、何をしておられるか」は非常に重要です。と書かれている言葉に注目しました。
 キリストが歴史上の偉人と異なる、大きなポイントはここではないでしょうか。偉人は眠りについて、過去の業績は残っているでしょうか、それ以上のことはありません。
 けれどもキリストは神の子として天において、わたしたちと導き、罪をとりなしてくださっています。わたしたちにとって無くてはならない働きをしてくださっているからこそ、多くの方々が神の子キリストとして信じているのです。

 二つ目は数年前大ブームとなった映画「ダ・ヴィンチ・コード」のことを思い出しました。この映画は、聖書は真実を捏造したもので、キリストのほんとうに姿は実際は異なっていたことを、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた最後の晩餐の絵を用いて語ろうとしていました。
 当時はかなり評判になり、わたしも映画を見てきました。今週の研究をしながら、ふと今まで忘れていた映画のことを思い出しましたが、しばらくは題名すら出てきませんでした。(加齢とともに物忘れが激しくなっていますから・・・)
 それが真実でなければ、そして自分にとって不要なものだったら、このように忘れ去ってしまうものなのです。

 聖書が時代を超えて読まれている、そして多くの人々に希望を与えているとしたら、そこに真実があるからではないでしょうか。そしてそこにあかしされているキリストは、まことに神の御子なのです。


北海道  安河内 アキラ

安息日学校教課  2008 年 第1期13課

2008-03-27 17:47:10 | ディボーション
みなさま

 今週で第一四半期が終わります。三ヶ月ごとに教会の奉仕の表を作成している教会も多いことと思います。わたしもその作業をしてながら・・・・これが終わるころには6月が終わり、本格的な夏を迎えていると思うと、ほんとうに月日の早さを感じさせられます。


第13課  「弟子の模範」  3月29日

暗唱聖句  「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」マタイ10:8

今週の聖句:マタイ14:14、15:32、20:34、マルコ1:41、ルカ7:13、16:19~31、ルカ17:3、4、18:9~14、コロサイ1:14、テモテ第一5:1

今週の研究:今週は、今期の研究で学んできた重要な点について復習します。弟子たちに積極的な影響を与えたと思われるイエスの特性や主題、行動について再確認します。それらは弟子としての私たちの働きの基礎となるものです。最終的な目標は、21世紀の弟子たちのための模範となるような実際的な教訓を求めることにあります。


日曜日:地上におられたとき、イエスは「同情」あるいは「憐れみ」の情を示されました(マタ14:14、15:32、20:34、マコ1:41、6:34、ルカ7:13参照)。普通「同情」または「憐れみ」と訳されるこの言葉は、ギリシア語では、心の奥底まで揺り動かされることを意味します。かたくなで利己的な心を持った堕落した私たちが他人のために憐れみと同情を感じることができるとすれば、罪なき神の御子イエスは苦しむ人類を見て、どれほどの同情と憐れみをお感じになったことでしょうか。
 同情に加えて、イエスは赦しを与えられました。弟子たちは何度も、イエスが多くの人々の罪をお赦しになるのを見ました。ペトロも特別な方法でイエスの赦しを体験しています。イエスが逮捕されたとき、ペトロはイエスを見捨てて、逃げます。その後、裁判の場で、ペトロは3度、イエスを知らないと言います。それにもかかわらず、イエスは彼を赦し、仲間の前で彼を交わりに復帰させられます。
 私たちの神は憐れみに富む神です。神が私たちを罪から救い、永遠の滅びを免れるようにしてくださったのはそのことの現れです。この憐れみと赦しを絶えず心に留めることは、弟子としての私たちにとってきわめて重要なことです。私たちが人々を弟子とするうえで、これ以上の動機があるでしょうか。

月曜日:イエスの伝道と弟子の訓練は高度に階層化された社会の中で行われました。男と女、聖職者と一般人、富者と貧者、ファリサイ派の人々と徴税人との間に、はっきりと線が引かれていました。女性の役割は家庭にありましたが、ごく一部に限られていました。
 イエスは現状を容認することも、擁護することもありませんでした。なぜなら、現状の中に多くの問題点を見ておられたからです。その代わり、社会の疎外された人々と公然と交わり、彼らを教え、擁護されました。福音書を見ると、イエスがどのような人々のために働かれたかがわかります。
 イエスがこの世に来られたのはすべての人の罪のために死ぬためでした。そのことを考えると、イエスがすべての人に奉仕されることは全く理にかなったことでした。

火曜日:民族的、人種的偏狭は古代世界においても、ごく一般的に見られました。どの集団も、自分たちが周囲の集団よりすぐれていると見なしていました。たとえば、古代ギリシア人はほかの民族を「野蛮人」と見なしていました。このような偏狭は古代の文学作品にもよく見られます。不幸にも、イエスと同時代の人々も、立派な宗教的告白をしていたにもかかわらず、同じ考え方と無縁ではありませんでした。
 キリストはすべての人のために十字架にかかって死に、それによってすべての弟子から民族的、人種的優越意識を完全に取り去ってくださいました。それはまた、ほかの集団に対するあらゆる偏狭を取り除きます。私たちすべての者の罪を負って十字架にかかられたイエスの前にあって、私たちはみな平等です。とりわけ、キリストの弟子たち、キリストに従う者たちのうちには、いかなる偏見も民族的緊張もあってはなりません。それらは、あらゆる文化・社会の中に巣くっているように思われます。
 最後には、この世には2種類の人々、つまり救われる人と滅びる人しかいません。救われた私たちは、主に倣って、滅びる人々を捜し出し、救いの約束を伝えなければなりません。 

水曜日:イエスはあらゆる機会を用いて弟子を招き、訓練し、教育し、育成されました。困っている魂を助けるのに忙しすぎるということはありませんでした。弟子を訓練することはイエスの働きの中心でした。弟子をつくり、教え、訓練し、育成することがイエスの働きの中心であったように、それはまた21世紀に生きるすべての教会の使命の中心でなければなりません。
 しかし、それは1人の力でできるものではありません。教会が存在するのはそのためです。
イエスが漁師たちを弟子としてお招きなったときも、彼らは訓練を受けていませんでした。彼らには訓練が必要でした。同じように、各教会はすべての教会員を弟子とする方法を講じなければなりません。新しい教会員には訓練と育成を行い、ベテランの教会員にはさらに上級の指導を行い、こうして全員が訓練を受けて、主の働きに参加するのです。

木曜日:「天の大君イエスは、地上の働きに従事しておられたとき、よく父なる神に祈られた。一晩中祈られることも、たびたびあった。……オリーブ山は、神の御子が祈るために好んで行かれる場所であった。群衆が夜、休むためにイエスのもとを去った後も、一日の労働で疲れていたにもかかわらず、イエスはお休みにならないことがよくあった。……町が静まりかえり、弟子たちが睡眠によって元気を回復するために家に帰っても、イエスはお眠りにならなかった。イエスの聖なる嘆願はオリーブ山から天に昇っていった。それは、弟子たちがこの世にあって日ごとに出会う悪しき影響力から守られるように、またイエス御自身の魂が来るべき日の義務と試練に備えて強化・補強されるようにとの祈りであった。弟子たちが眠っている間、彼らの聖なる教師は夜通し祈っておられた。夜の露と霜が祈るためにひざまずいているイエスの頭をぬらした。イエスの模範は従う者たちのために残された」(エレン・G・ホワイト『驚くべき神の恵み』167ページ)。

金曜日:教会が弟子を育てるためにできる実際的な方法をいくつかあげてみましょう。
1.弟子をつくることを教会の第一の目標として定める。
2.この目標を達成するための計画と方法について考える。
3.各プログラムのための指導者を訓練する。
4.すべての教会員をこの計画に動員する。
5.弟子を訓練するためのプログラムを作成する。
6.教会周辺の人々のタイプとその必要について調べる。
7.地域との間にある障害を取り除き、人々の必要を満たし、関係を強化するようなプログラムを考える。
8.新しい信者が自分の特技を生かし、教会活動に参加し、キリストに献身することのできるプログラムを考案する。
9.教会員、特に新しい人たちが自分の霊的賜物を発見し、育成し、活用できるようなプログラムを開発する。
10.弟子をつくり、養成するための適当なプログラムをいつも用意しておく。


 今週は今期の学びのまとめがなされています。わたしは毎週、その週の研究の中から3箇所を引用して掲載していますが、今週はそれぞれの日の学びが、今期のまとめとして重要なポイントを指しているので、毎日少しずつ掲載しました。お時間があったら全文をお読みになることをお勧めします。
 
・日曜日:「同情と赦し」について教えています。どちらも見返りを期待するものではなく、また相手にはその力が無い場合が多いようです。わたしたちもキリストから与えられたからこそ、今があるのではいでしょうか。
・月曜日:「聖書は奴隷制度を容認しているのか?」と質問があります。キリストの時代は水道、電気洗濯機、ガスや蛍光灯はありませんでした。奴隷がその部分の担わざるを得ませんでした。その現実を踏まえて、キリストは模範を示してクリスチャンの行きる道を聖書は教えています。
・火曜日:だれでも人と自分を比べてしまう弱さを持っています。しかし人間が生まれ持っているもの(性別・人種・能力、特性など)は神様がお与えになったものです。そのことを考えると、相手の尊厳を受け入れることができるのではないでしょうか。
・水曜日:新しく教会を訪れた方は、どなたが役員か?ベテランか?などはわかりません。最も必要なことは、次に何をしたら良いのかを適宜教えてくださる方です。そのために隣りに座ってくださる方です。これはどなたでもできることで、この働きができている教会は成長して行くのではないでしょうか。
・木曜日:祈ることは、わたしたちが自らの力が足りないことを認めているからではないでしょうか。宣教は霊の働きでもあり、相手の心へ働きかけるものです。だからこそ祈りが重要なのです。


 今期の学びの中で、わたしたちが問いかけられているのは、なぜ教会へ出席するのかということではないでしょうか。いろいろな理由があると思います。
 けれども「自分が救われるため」だけのクリスチャンを、神さまはお喜びにはなられません。誰かの喜びため、幸せをつかむために働きたいですね。


北海道  安河内 アキラ