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ラムズ・スタディ

聖書の神様のこと、みんなで学び、同じ目標を確認できたらホントすばらしい。

安息日学校教課  2008 年 第1期12課

2008-03-21 19:55:25 | ディボーション

みなさま

 明日は今年のイースター(キリストの復活祭)です。イースターは毎年、春分の日を過ぎ、最初の満月を過ぎた、最初の日曜日と決まっています。例年は4月中旬が多いのですが、今年は最も早いパターンですね。
 キリスト十字架、復活に心を向ける安息日にして行きたいと願っています。

 また転任される牧師・教師のみなさまは、おそらく今週の安息日を最後に新任地へ異動されることと思います。ご無事で新しい任地でのお働きが開始されますようにお祈りしています。


第12課  「使命と宣教命令」  3月22日

暗唱聖句  「言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、3日目に死者の中から復活する」』」ルカ24:46


今週の聖句:マタイ25:31~46、マルコ16:14~20、ルカ24:36~53、ヨハネ3:14~19、ローマ5:6~10、第一コリント5:7、15:3、4、ガラテヤ1:4、ペトロ第一2:22~25

今週の研究:エレン・ホワイトは、私たちの使命の中心が信仰による義認を宣べ伝えることにあると考えていました。これは、救いが私たちの行いによってでなく、不相応な罪人に注がれる神の恵みによってのみ与えられるという大いなる知らせです。今週は、福音を大宣教命令との関係の中で、見つめます。


日曜日:「このようにキリストは、オリーブ山で、大いなるさばきの日の光景を、弟子たちに描写された。しかもこの決定は、一つの点にかかっていると、主は言われた。国民が主の前に集められる時、そこには二つの階級しかないのであって、彼らの永遠の運命は、貧しい者や悩める者を通して主のためにつくしたか、それともつくすことを怠ったかによってきまるのである。
 その日には、キリストは、ご自分が人々のあがないのために生命をささげて彼らのためにつくされた大いなるみわざを彼らの前にお示しにならない。主は、人々が主のためになした忠実な働きをお示しになる」(『各時代の希望』下巻107ページ)。

火曜日:私たち自身、弟子として、自分たちが宣べ伝えるように求められている福音にしっかりと根ざしている必要があります。世は罪のゆえに、有罪宣告を受けています。しかし、イエスは御自身において、余すところなく、この有罪宣告を負ってくださいました。この驚くべき備えによって、イエスを信じる者はだれでも、罪のもたらした有罪宣告を受ける必要がなくなりました。それどころか、人は神の測りがたい恵みによって、いかにその過去が罪深いものであっても赦され、イエスによって義とされます。このメッセージは、私たちが世に宣べ伝え、教えるすべての事柄の中心になければなりません。

水曜日:ここに(ルカ24:26~53参照)、重要な原則が教えられています。確かに、経験や物理的啓示、奇跡なども、それなりの意味を持っていて、イエスに対する信仰を強める上で重要な役割を果たします。しかしながら、同時に、聖書は私たちのあらゆる信仰の基礎でなければなりません。奇跡を行うだけでなく、それをさらに効果的なものとするために、聖書を用いて、イエスは彼らの信仰を確認しておられます。イエスが聖書を用いられたのは、御自分の身に起こったすべてのことを確証するためであり、弟子たちに言われたすべてのことを補強するためでした。イエス御自身が聖書を用いて御自分のすべての御業を根拠づけられたのであれば、私たちはなおさらそうすべきです。
 このキリストの言葉と行為は、教会の生き方と私たち弟子の働きにおける聖書の影響を弱めようとするあらゆる試みに対する強力な叱責です。


 キリストの復活を信じないキリスト教は考えられません。正統的なキリスト教は、この教えをみな信じています。ここにこめられた神さまの愛、そしてこの尊い犠牲によって払われた代価によって与えられる福音がキリスト教の真髄といっても過言ではありません。
 わたしたちの教会は、あまりイースターという日程には関心を払っていませんが、復活を聖書に書かれているとおりに信じています。そして他のキリスト教会も同じでしょう。
 ところが「天地創造が一週間でなされた」とか、「キリストが雲に乗って再臨される」となると、多くの教会の見解が異なってしまいます。
 わたしたちは聖書を理解するにあたり、解釈をしなければなりません。背景を理解し聖書記者が伝えたいこと、そして神さまのみこころの真意を汲み取らなければなりません。

 けれども解釈にあたり、人間の頭で理解できるように、その内容を変容することは大変なまちがいを生み出します。その典型は、創造論と進化論を混同されたような、神さまが生命を創造されたけれど、その後の世界は何千年もかけて進化したという考えです。

 聖書は「神さまは種類に従って創造された」(創世記1:25参照)と教えています。そのとおりに動物、植物は種類に従って存在しています。
 すべて聖書のとおりだとしたら、そして超自然的な復活を信じるのなら、創造も再臨もそのまま信じるべきではないでしょうか。そして創造と再臨が、聖書の書かれているとおりだったら、再臨の後に再創造されて購いが完結するという希望も、わたしたちが願っているとおりになるのです。


北海道  安河内 アキラ


安息日学校教課  2008 年 第1期11課

2008-03-14 20:23:05 | ディボーション
みなさま

 今週は春闘の山場のようでした。このところ好景気で業績の良い企業が多いので明るいニュースになるのかなと思っていました。けれどもアメリカの景気減速や、原材料の軒並み値上げなどにより、景気が減速した時の利益を確保しようとしているのかあまり良い話しにはなっていないようです。
 そもそもこのところの好景気は、企業だけがもうかり、その果実が社員に還元されていません。そして本来働いている人に払うべきものを払わなかった結果の好景気なのでしょう。また地方に在住していると、好景気どころか、不景気の真っ只中にいるように感じます。

 ヤコブ5:1~6にも、同じようなことをしている経営者への勧告が書かれています。いつの時代も富や検疫を独占したいという人間の欲望は変わらないようです。 


第11課  「さらなる教訓」  3月15日

暗唱聖句 「イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない』」マタイ14:27

今週の聖句:マタイ14:22~33、マルコ4:36~41、6:51、52、ルカ8:25、24:37、ヨハネ6:19

今週の研究:ある人たちは何年も神と共に歩んでいながら、弟子になるための要件をまだ十分には理解していません。弟子になることにおいて成長し、成功するために、あなたはどんな土壌と養分を準備していますか。
 今週は、さらに聖書の模範について学びます。それらは、私たちがキリストの弟子になることの意味を理解する上で助けになります。


月曜日:考えてみれば、湖(海)は弟子になることについて教訓を学ぶにふさわしい場所です。と言うのは、人間はすべてのものを神に依存していて(ヨブ12:10、ダニ5:23、使徒17:28参照)、たとえば足の下に支えとなるものが何もない水の上では、そのことを容易に忘れないだろうからです。主が湖によって、信仰に関するさらなる教訓、成功する弟子になるための重要な要素を弟子たちに教えようとされたのは、そのためかもしれません。
 成功裏に宣教旅行を行い(マコ6:6~13)、5000人に食物を与え、湖で初めて格闘した後で、弟子たちはやっと理解することになるのでした。5000人に食物を与えた日の夕方、新たな突風が湖上の弟子たちを襲います。このときは、イエスが彼らと共におられませんでした。

水曜日:皮肉なことに、弟子たちは自分たちにとって最大の希望となるはずのことに恐れを抱きました。彼らはイエスの贖いの死によって救いを与えられるのでした。彼らは自分たちの理解していないこと、自分たちの聞きたくないことを恐れました。もし彼らが十字架の意味を十分に理解していたなら、恐れはしなかったでしょう。つまり、彼らの恐れは無知から来ていました。
 キリストの弟子として、私たちは最も恐れを知らぬ民でなければなりません。嵐のときに水の上を歩かれたイエス、中風の人をいやされたイエス、わずかなパンで5000人を養われたイエスは、私たちの身代わりとして十字架上で死ぬことによって私たちに対する愛を啓示されたイエスです。確かに、罪や悪魔、地獄という現実の中にあって、私たちは自分の魂に対する危険を認識する必要があります(マタ10:28)。しかし、結局のところ、弟子として、キリストにおいて啓示された神の愛に信頼するかぎり、私たちは神の驚くべき愛と恵みという希望と慰めの中で生きることを学ばねばなりません。

金曜日:「神の子らは情緒や感情に支配されるべきではない。彼らが一喜一憂するときキリストの心は傷つく。キリストが彼らに御自分の愛についての確かな証拠を与えておられるからである。キリストは、彼らが聖なる信仰に確立され、強められ、据えられるように望まれる。彼らがキリストから与えられた働きをするように望まれる。そのとき、彼らの心はキリストの御手の中にあって聖なる竪琴となり、その弦の一本一本が世の罪を取り除くために神によって遣わされたお方への賛美と感謝を奏でる」(エレン・G・ホワイト『牧師・伝道者へのあかし』518、519ページ)。


 クリスチャンの歩みの中で、恐怖に満ちた経験に遭遇することもあるでしょう。詩編23編には「たとえ死の影の谷を歩むとも」とあります。そのような経験をしないとは聖書には書かれていません。けれどもダビデは「災いを恐れません」と歌っています。
 しかしわたしがそのようなところへ置かれたらどうなってしまうのか・・・はなはだ心細いですね。少なくとも、小心者なのでうろたえてしまうことはまちがいないと思います。
 けれどもわたしの信仰は、そのような時、無くなってしまっているのでしょうか。そのようなことはありません。それがゴマ粒(聖書ではからしだねでしょうが、日本人にはゴマ粒でしょうか・・・)くらいであっても、わたしの中には信仰は残っているはずです。けれどもそのわずかな信仰を働かすことができないほど、現実が大きいのかもしれません。

 しかし状況が明らかになってきたり、落ち着いてきたら、そうだ神さまがおいでになるのだから(そんな信仰ではいけないのでしょうが・・・)、祈り、そして自分のできる解決策に着手すると思います。
 困った時の神頼みと言いますが、ほんとうに助けてもらおうと思っていたら、それだけ相手を信頼していなければ助けを求めません。そのためには相手を良く知らなければなりません。

 神さまにすがるようになるためには、それだけ神さまのことを良く知っていると、そしていつも交わっていると、そばへすぐに行けるのではないでしょうか。そのためにも聖書通読やあかしの書をいつも読んで、神さまとわたしたちの関係を深めておくことが大切なのです。
 それは、わたしたちが神さまのそばに近づくことなのです。わたしたちはお祈りの中で、自分の願いを神さまに伝えるだけ・・・それはまるで神さまを自分に引き寄せているのです。わたしたちが神さまに近づこうとしているでしょうか。少しでも近づいていると、それだけ神さまが守ってくださる確信が深まって行きます。


北海道  安河内 アキラ


安息日学校教課  2008 年 第1期10課

2008-03-07 19:19:48 | ディボーション

みなさま

 3月に入り、各地からいろいろな春の便りが聞かれるようになりました。2月からニュースをにぎわせてきたプロ野球のキャンプも終わり、3月に入ると各地でオープン戦が始まります。
 かつては最初はキャンプ地に近い南国での開催し、徐々に北上して3月中旬以降のなると関西や関東でも行われましたが、このごろはいきなり今週、札幌でオープン戦が行われます。ドーム球場があるからこそのことで、一刻でも早く選手の活躍を見たいファンにとっては朗報でしょうが、何か季節の便りが突然飛び越えて届いたように思えてなりません。


第10課  「緊張下の弟子たち」  3月8日

暗唱聖句 「あなたが徒歩で行く者と競っても疲れるなら どうして馬で行く者と争えようか。平穏な地でだけ、安んじていられるのなら ヨルダンの森林ではどうするのか」エレミヤ書12:5

今週の聖句:列王記上18章、マタイ26:56、ルカ9:51~56、ヨハネ6:1~15、12:1~6、18:1~11、21:15~19

今週の研究:私たちを失望から救い出してくれるはずの神の約束が与えられているにもかかわらず、しばしば失望にうちひしがれそうになるときがあるからです。しかし、たとえそのようなときがあったとしても、私たちは失望する必要がありません。今週は、何人かの弟子の経験に目を向け、彼らの失敗から学びます。


日曜日:宗教的な信仰は、よい意味でも悪い意味でも、非常に強力な力となります。あるときには、人がキリストのために「命を失う」(マタ16:25)ことを可能とする力は、別のときには、人々を神の御名において暴走させる力となります。結局のところ、もしだれかが神によって何かをするように召されていると信じるなら、どんな地上の考えも彼を止めることができません。一部の政府が国民の宗教を弾圧しようとするのはそのためです。国民がより高い権威に忠誠を尽くすのを望まないからです。しかも、神以上に高い権威はありません。その一方で、政府が宗教の持つ絶大な力を自らの利益のために利用することもないとはいえません。キリストの弟子は宗教の力を乱用することからくるさまざまな危険に対して警戒する必要があります。

 地上におけるイエスの目的はもとより、地上の王になることではありませんでしたが、地上の政治権力を結集することは弟子の働きを遂行することでないことは明らかです。神が権力者をお立てになる、あるいは権力者をお用いになるということと、神の御名において政治権力を結集することが神の働き、弟子の働きであると考えることとは全く別のことです。新約聖書はいかなる意味においても福音を権力の型として提示してはいません。不幸なことに、イエスと最も親密であった弟子たちでさえ、この重要な点を誤解していました。
 群衆の強い期待と熱意をあてにして、弟子たちは無理やりイエスをかつぎ出し、国民の王にしようと企てました(ヨハ6:14、15)。この動きを知って、イエスは群衆を解散させ、弟子たちを湖の対岸に送り出し、御自分は祈るために一人で山に退かれます。

水曜日:ペトロはどんなことにもひとこと言う性急な弟子として知られています。彼はルカ22:33、34で、自分自身と弟子としての務めを確信するあまり、イエスと一緒なら牢に入っても死んでもよい、と約束しました。ところが、その後すぐ、これらの言葉を撤回することになります(マタ26:69~75)。
 このペトロの失敗は、キリストのすべての弟子のための力ある教訓として残されています。私たちは自分自身の力では主のために働くことができません。日ごとに自分自身をイエスにささげる必要があります。イエスはぶどうの木、私たちはその枝です。イエスなしでは、忠実な弟子になることはもちろんのこと、何ひとつできません。繰り返しますが、主と主の目的のために熱心であることは素晴らしいことですが、それはイエス・キリストの主導のもとでなす必要があります。

木曜日:弟子たちと別れることになるのを知ったイエスは、彼らをそのために備えようとされましたが、彼らは耳を傾けませんでした。またエルサレムで起こることを知って、そのために備えようとされましたが、彼らは耳を傾けません。彼らは全く無防備のままエルサレムにやって来ました。
 イエスの公衆伝道の間、弟子たちはイエスの語られる言葉に耳を傾けるよりも、なされる行為に目を向けていたように思われます。イエスの行為は彼らのメシアについての希望を確証していたので、彼らは大いに喜びました。イエスの変容においても、天からの声がイエスに聞くように呼びかけました。彼らは苦難についてのイエスの言葉に教えられることがありませんでした。
 過越の食事の後、イエスは弟子たちに目前の出来事を教えようとされましたが、彼らは聞く耳を持ちません。ゲッセマネの園でも、弟子たちに力を得るために祈っているように言われましたが、彼らは眠ってしまいます。


 今週のタイトル「緊張下の弟子たち」(なぜか金曜日のページだけは圧政下の弟子たちになっている)を見て、迫害に遭う時に備えについての教えかなと思いました。けれども内容を見ると、今週の研究にあるように、弟子の経験から失敗について学ぶというのが主題のようです。

 今週の学びは、宗教が持つ特質を教えていると思います。それは「しっかりとした確信を持てば持つほど、排他的になっていく」ということです。自分が信じている神様や教えが最高のものだったら、他の宗教については価値を認めずに排斥する場合すらあるのです。正と邪という区別をつけたり、異端などと読んで注意を促す場合も多々あります。これらは正しい宗教を守り、高めて行くために重要なことです。
 札幌に着任して、幼稚園の仕事を手伝っていますが、小さなこどもたちの視点に驚かされることが多々あります。それは、まちがった視点かもしれませんが彼らの感性から出たことばなのです。
 それをまちがっていると頭ごなしに否定することは簡単なことです。わたしは教師なのですから・・・。けれども、彼らがなぜそのように思ったのか、できるだけ寄り添うように話しを聞いてみると、いろいろなことが見えてくる場合があります。

 自分は正しいという確信を強く抱くことは重要です。けれども同時に他者の想いを察するような柔軟性、配慮が肝要なのではないでしょうか。
 そのような謙虚な思いで神様に仕える時に、わたしたちは神様を信じているがゆえの失敗や、他者につまずきを与えることが少なくなるのではないでしょうか。


北海道  安河内 アキラ


安息日学校教課  2008 年 第1期9課

2008-02-29 20:02:45 | ディボーション

みなさま

 今週の安息日は、いよいよ3月なんですね。プロ野球のオープン戦も始まり、本格的に春に突入と行きたいところですが・・・。こちらはまだまだ激しい雪が降っています。いつになったら止むのだろう・・・きっと空を見上げて願っていたノアの心境です。
 札幌教会の水道水を三階まで引き上げるためのポンプが故障してしまいました。そのためトイレなどの一部を除いて水が出なくなってしまいました。
 教会の皆様は「災害の訓練だ!」などと明るく、工夫して水を運んだりしてくださいましたが・・・復旧するまでは頭が痛い毎日でした。
 あたりまえに使えるものが、使えなくなることほど大変なことはありません。ましてやそれが生活に必要なものだったらなおさらです。砂漠の中でモーセに迫ったイスラエルの民の心境を味わった数日間でした。


第9課  「主に従う──行為に現された弟子の務め」  3月1日

暗唱聖句 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」マルコ8:35~37

今週の聖句:マタイ8:14、15、10:34~37、28:18~20、ルカ5:17~26

今週の研究:今週の研究では、弟子になることがどのようなことを含むかを考えます。弟子になることには、行動することが含まれます。神は私たちを招いておられますが、各自はその招きを認識し、その導きに従わねばなりません。


月曜日:一方、この物語の中に、行為に現された弟子の務めを見ることができます。まず、この中風の人をイエスのもとに連れてきた人たちがいました。彼らの並々ならぬ努力に注目してください。群衆をかき分けて進むことができなかったので、彼らは別の方法に訴えるしかありませんでした。彼らは必死の思いで友を助けようとしました。 
 あきらめようと思えば、簡単にできたはずです。イエスも彼らの信仰を高く評価しておられます。彼らの行いが真にその信仰を現していました。必要としている人をイエスのもとに連れてきたという意味において、彼らは弟子として行動したのでした。(ルカ5:17~23参照)

火曜日:覚えておかねばならない重要な点は、イエスに従うことがいろんな意味で私たちに大きな犠牲を強いるということです。そうでなければ、何かがおかしいのです。あるいは、私たちは真実を直視していないのかもしれません。
 結局のところ、私たちのあかし、弟子としての生き方、行為に現された弟子の務めが私たちの最も親しい人たちの間にさえ争いと分裂を引き起こすことがあるということを認めねばなりません。
 必ずしもそのような結果にならないかもしれませんが、イエスは、それがありうることであって、実際に起こったときにも驚いてはならないと教えておられるのです。

木曜日:マタイ28:18~20には、弟子の働き、つまり行為に現された弟子の務めのことが明記されています。それらを注意深く読んでください。すべての動詞に注目してください。「行って」「弟子にし」、「バプテスマを授け」、「教えなさい」。弟子はさらに多くの人を弟子にすべきです。実に単純です。
 イエスの言っておられることがこの働きに含まれていることに注意してください。彼らは「すべての民」に教えなければなりません。ここには、例外はありません。人種、性別、国籍による区別はありません。キリストの死はあらゆる地域の、すべての人のためでした(ロマ5:17~19、ヘブ2:9)。福音宣教がすべての人にゆだねられているのも、これで理解できます(黙14:6、7)。
 ここでも明らかなように、弟子になることは行動です。弟子になる人たちは従う人たち、イエスの命令されたことを行う人たちです。


 今週の学びをしながら考えた聖句は、ヤコブ2:14~26です。ここでヤコブは特に18節で「わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」と述べています。
 何かを行うときには、わたしたちは判断なり決断をしています。その結果が行いと名って表れます。決断を下すためには、その根拠が必要です。確信といっても良いかもしれません。何かを行うためには、その根拠となる確信が必要なのです。

 これは信仰生活も同様です。行いはしっかりとした確信という土台に据えられなければなりません。この土台は、神様に導かれたという経験も大切でしょう。そして導きの確信は日々新たに深められていくことが望ましいですが、そのように行かないことも多々あります。
 経験だけではなく、みことばを理解することは確信を深めるためには重要です。神様を知れば知るほど、神様を愛することができます。また聖書を読むことにより、そこから神様がわたしに語りかけようとされていることが迫ってくるようなことがあります。その声に耳を傾ける時に、わたしたちの信仰の土台は固められます。

 土台を据えずに建物を建てても、それはすぐに壊れてしまいます。けれども土台だけを作っていても家は建ちません。
 かつて小樽教会の建築をさせていただた時、みなさまで図面を考えて、そして今まで心を込めて使ってきた教会堂を壊してしまい、新しい教会の基礎工事が始まりました。少しずつ教会ができあがっていくのはうれしいことでしたが、最もうれしかったのは土台の上に柱が立った時でした。それによって建物の全体像がつかめるようになりました。しばらくは、壁の無い教会の中を歩きながら、完成する姿を想像したものでした。

 信仰の土台の上に何かを建てていくためには、わたしたちが神様のために何か仕事をして行くことしかありません。神様に信頼して働く時に、多くの祝福や出会いがあり、信仰はますます成長して行くのです。


北海道 安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第1期8課

2008-02-22 15:57:35 | ディボーション

みなさま

 今週に入り、各地であたたかくなり春の便りが聞こえてきました。こちら北の街でも雪には囲まれていますが、朝夕の陽が伸びたこと。そして陽射しがとても強くなってきたことははっきりわかります。降る雪も、粉雪からぼたん雪に変わってきました。春がすぐそこまで来ていますね。みなさまの地方でも小さな春を見つけてください。


第8課  「弟子としての経験」  2月23日

暗唱聖句 「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』」
(マルコ8:34)

今週の聖句:マタイ17:1~13、18:1~4、マルコ8:27~30、ヨハネ6:43~58

今週の研究:弟子になることが一つの経験であるということです。キリストの真の弟子になるためには、イエスを経験する必要があります。イエスを知る必要があります。イエスによって変えられる必要があります。イエスとイエスの与えられるものを自分のものとする必要があります。
 頭の知識だけでは、十分ではありません。暗唱聖句ができるだけでは、十分とは言えません。教理を知っているだけでは、十分ではありません。キリストの弟子になるためには、あなたの生き方を変えるような、キリストとの個人的な経験をする必要があります。
 今週の研究は、これらの経験が何を意味するのかをさらに深く理解する助けになります。


月曜日:イエスがここで言っておられることは重要です。心を入れ替えて、幼い子供のようにならなければ、私たちは神の国に入ることができません。言い換えるなら、滅びてしまうということです。
 イエスの言葉についていろいろな見方ができますが、これらの聖句の鍵となる言葉はたぶん、「自分を低くする」ということでしょう。弟子として、私たちは子供のように自分を低くする必要があります。
 子供が両親を必要としているように、私たちは父なる神を必要とし、神に依存しています。子供は自分の力では生きられません。私たちも神なしでは生きられません。このことを認めることは非常に重要です。罪が地上に始まったのは、アダムとエバが神を離れて自分の力だけでやっていけると考えたからです。
 子供はしばしば、私たちが言っていることを十分に理解しなくても信じます。同じように、私たちも主が言われることを十分に理解しなくても、信じ、信頼することを学ぶ必要があるのかもしれません。
 実際のところ、もし私たちが信じる前にイエスと救いについて完全に理解しなければならないとしたなら、私たちは決して救われないでしょう。なぜなら、私たちは決して完全に理解することはないからです。
 私たちはイエスの言われるように心を入れ替えねばなりません。このことは、子供のようになり、完全に理解していないことを信じることを含みます。さらに言うなら、もし私たちが完全に理解したとするなら、信仰の役割とは何でしょうか。

火曜日:イエスは私たちに信じる理由を与えることなく、私たちを弟子になるようにお招きになることは決してありません。もちろん、すべての理由が与えられるわけではありませんが、それでも信じるに十分な理由が与えられています(たとえ完全に理解できないことであっても、です)。
 私たちは、3人の弟子たちが山上で見たような事柄を目撃することはないかもしれませんが、キリストの弟子として主と主の慈愛に信頼するに十分なものを与えられています。この信仰、この賜物をどのように用いるかによって(ヨハ1:9、エフェ2:8)、それが成長するか、停滞するか、衰退するかが決まります。

木曜日:マルコ8章34節に注目してください。イエスは群衆を弟子たちと共に呼び寄せて、キリストに従う者、弟子になることが何を意味するかについて、力強い言葉を語り始められます。当時、少数の選ばれた者だけしか知ることを許されなかった事柄があったときに、ここに語られていること、つまり自己に死ぬこと、十字架を負うこと、福音のためにすべてを失うことについての教えは、イエスに従おうと望むすべての人が聞く必要のあることでした。


 キリストが弟子たちを召される物語は、みなさま良くご存知です。(ルカ5章参照)ペトロたちは夜通し働きましたが、一匹の魚も取ることができませんした。魚を取ることに関しては、彼らはプロで、キリストは素人でしょう。ましては日中になっていました。
 けれどもキリストは「網を降ろしてごらんなさい」と命じました。そうすると、おびただしい魚が網にかかったのです。彼らは取れたばかりの魚をおいてキリストに従っていきました。

 今週の教課の主題から、この物語について考えてみると、キリストは弟子たちお召しになる前に、すばらしいしるしをお与えになりました。それは彼らの経験などよりも神様の力はもっと大きいものであること、そして神様の与えるものを受けるときに、もっと大きなものを与えるという約束でした。

 そしてキリストが復活後、弟子たちにガリラヤへ帰るように命じました。そこで彼らはまた漁に出ます。ところがその夜も一匹も魚をとることができませんでした。岸へ戻ってきた時に、「舟の右側へ網を打ちなさい」と命じる人がいました。彼らはその言葉に従って網を湖に入れると、153匹の大きな魚が取れたと聖書は記録しています。(ヨハネ21章参照)
 キリストは、これから弟子たちに、全世界に出て行ってみことばを伝えるために働く前に、彼らの召しをもう一度思い起こされるために、同じ奇跡をされたのでした。

 神様は、このようにわたしたちを愛していること、導いていることを悟ることができるように徴を与えてくださいます。それはわたしたちが望んでいるものではなく、異なる道から光を与えてくださることが多いかもしれません。それだからこそ、その光が神様からのものと悟ることもできるのでしょう。
 けれども、その光に対して、弟子たちが網を湖に入れたように、信じて従う時に、そこには必ずすばらしい祝福が与えられます。
 わたしもこれまで、新しい教会に召されてそこへ赴任したら、必ずそこでしか学ぶことのできないすばらしい経験や出会いが与えられました。
 弟子になることはとは、その神様の導きに信頼することです。神様はその信仰に必ずお応えくださいます。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第1期7課

2008-02-15 19:34:07 | ディボーション

みなさま

 希望への光を携行して、時間を見つけては読んでいます。ホワイト夫人を通して、神様がアドベンチストをどれだけ愛してくださっているか、伝わってきます。そしてそのために少しでも清い歩みをするように、親がこどものことを思うように書かれていますね。
 本郷武彦牧師(亀甲山教会)は、あかしの書の特徴は「ホワイト夫人の福音理解の深さだ」と教えてくださいました。きっと彼女がキリストに会って、幻を通して教えていただいたからこそ、このような書物が書けたのでしょう。
 ぜひこの宝をお読みになってください。必ず光が与えられます。


第7課  「弟子になる準備」  2月16日

暗唱聖句 「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:14~16)

今週の聖句:マタイ5~7章、10:1、10:5~11:1、マルコ3:1~19、ルカ6:12~16

今週の研究:弟子とは、イエス・キリストに学ぶ者、また従う者であって、彼はつねに主に似る者となることを求めます。イエスが御自分の弟子たちを訓練し、送り出されたように、それぞれの教会は弟子を勧誘し、奨励し、養成するための効果的な計画を立てるべきです。今週は、弟子になるための準備について考えます。


火曜日:先にも触れましたが、私たちが教会として直面する最大の課題の一つは、新たにバプテスマを受けた人たちをいかにして群れの中に留まらせるかということです。これはすべて、弟子になること、すなわちキリストに従う者、キリストの新しい御国の市民となることの意味を人々に教えることと結びついています。
 山上の説教はキリストのすべての弟子が従うべき例話と教えで満ちています。引き続きこの説教について学ぶとき、次のように自問してください。「私はどのようにしたら、これらの教えを自分の生活に実践することができるだろうか。私たちの教会はどのようにしたら、新しい教会員にこれらの教えを学んでもらうことによって、彼らがキリストのよりよい弟子になるのを助けることができるだろうか」。

水曜日:現代のキリストの弟子たちがこれらの聖句(マタ10:1、10:5~11:1)。から学ぶことはたくさんあります。しかしながら、はっきり言えることは、キリストのためのあかしは必ずしも容易ではないということです。反対や苦闘、ときには迫害に遭うかもしれません。たとえそれらに直面しても、驚く必要はありません。むしろ、それらに遭わないほうがおかしいのです。
 イエスは弟子たちに安楽な生活を約束されませんでした。イエスの予告がいかに正確であったかは、教会の歴史が証明するところです。しかしながら、これらの警告と同時に、イエスは弟子たちに素晴らしい励ましと希望の言葉を語っておられます。

金曜日:「この短い言葉〔マタ5:1、2〕の中に、山上の垂訓の本当の意味を理解する3つの鍵がある。
(1)イエスは座ってから教えられた。ユダヤのラビが正式に教えるときには座って教えた。……そこで、イエスが座って教えたということは、その教えが重要なことがらで正式なものであり、また、イエスの教えの中心であることを示している。
(2)マタイはさらに言葉を続けて、イエスは口を開いて教えた、と言っている。……ギリシャ語には2つの意味がある。
1.これは厳粛な、真剣な、権威ある発言である。……
2.これは人が心を開いて、思っていることをみな披歴するというときに使われる。それは、心と心のふれあいの中で親しく教えるという意味である。……
3.ところで今問題にしている文章の中で、『教えた』というギリシャ語の動詞は、不定時過去でなく、未完了過去であらわされているから、繰り返される習慣的な動作をあらわす。そこで訳文は、『このようにして、イエスはいつも教えておられた』となる。ギリシャ語が明瞭に示す通り、マタイの言おうとするのは、山上の垂訓は、イエスがある特定の場合に、特定の時にされた1回の説教でなくて、イエスが絶えず、習慣的に弟子たちに教えられた話の要約であり、真髄である、ということである」(ウィリアム・バークレー『マタイ福音書』上巻90、91ページ、ヨルダン社)。


 今週の暗唱聖句「世の光となれ」の対句として「地の塩となれ」という聖句もあります。どちらもわたしたちに弟子して招きを与える聖句です。
 この聖句は、地の塩、世の光の順番に書かれています。釧路教会の南先生が、この順番についてすばらしい解釈を語ってくださいました。
 地の塩となれという招きは、わたしたちが塩のように、無くてはならないものになり、また食物の殺菌をするように社会を清らかなものとして行くよう働く召しです。しかし塩は、そのままの状態では役割を果たせません。溶け込んで、見えなくならないと塩は働けないのです。
 世の光となれという招きは、わたしたちが与えられている賜物を用いて、多くの人に光を伝える仕事への召しです。
 しかしその前に、地の塩となれと書かれています。それはわたしたちが持っている光を照らす時に、自分の光を照らしてしまうのではなく、自分はまず地に溶け込んで、その地のために働く、そのような心で光を照らさなければなりません。そうしてわたしたちは、自分が栄光を受けるためではなく、神様の御名があがめられるように働いて行くのです。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第1期5課

2008-02-01 19:52:46 | ディボーション

みなさま

 今年は「希望への光」を読みましょうといろいろなところで奨励しています。わたしもホワイト選集全巻を読んだのは20年くらい前に一度あるだけでした。
 そこで今年、時間を見つけては読んでいますが、大変不遜ですが「おもしろい!」というのが正直な感想でした。聖書では一行で書かれていることが、いろいろと解説されていて、聖書がよくわかります。
 また神様がアドベンチストへ特に語りかけてくださっているということが、読みながら切々と伝わってきます。
 このすばらしい書物を、ぜひ今年はみなさまもお読みになりませんか!


第5課  「性別と弟子の身分」  2月2日


暗唱聖句: 「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように』」(ルカ1:38)

今週の聖句:マルコ5:25~34、ルカ1:26~38、8:1~3、10:38~42、ヨハネ4:4~30、

今週の研究:弟子になることの意味についてさらに詳しく知るために、今週は、女性たちが果たした役割に注目します。


日曜日:超自然的な出来事に関する概念が、現代の、科学的な社会よりもずっと自然に受け入れられていた当時の社会においてさえ、天使の言葉はマリアにとって受け入れがたいものだったに違いありません。何しろ、彼女はまだ処女だったのに妊娠すると言われたのですから。そのようなことが世界の歴史で起こったことがあるでしょうか。
 イエスの受肉(イエスが人となられたこと)について、何世紀にもわたって神学的議論がなされてきましたが、今でもこの問題は信じがたい神秘のままです。当然ながら、マリアは自分の身に起こっていることをほとんど理解していなかったでしょう。それなのに、何も知らないままに、彼女は信仰をもって主に従い、主の御心がなるように願っています。

月曜日:ルカははっきりと、婦人たちがイエスの伝道旅行に加わっていたと述べています。ルカの福音書には、社会から締め出されていた婦人たちにイエスがお与えになった救いと解放が強調されていることを考えれば、このことは驚くにあたりません。
 「福音書記者の中でルカだけが、イエスの初期の生涯の詳細について記している。しかも、それはイエスと深くかかわっていた婦人たち、つまりマリア、エリサベト、アンナの視点から描かれている。……あたかもルカが、天国の福音が男性と同じく女性のためでもあり、宣教における女性の役割が同じくらい重要であると言っているかのようである」(『SDA聖書注解』第5巻769、770ページ)。
 イエスが女性の弟子をお受け入れになったことは特筆すべきことでした。当時のさまざまな宗教運動には、女性は含まれていませんでした。というのは、女性は愚かであり、教育を受けるに値せず、公的な場で男性と同伴せず、むしろ家庭にいて、家事だけに専念すべきであると一般的に考えられていたからです。しかし、福音書を読むと、女性が何らかのかたちでイエスの生涯と使命にかかわっているのを随所に見ます。

水曜日:弟子になるためには、イエスを個人的に知る必要があります。イエスと親しい関係に入る必要があります。これは、イエスと共に時間を過ごすことによってのみ可能です。私たちは多忙な生活の中にあって、多くのなすべき課題を抱えています。たとえ有益で重要な事柄であっても、そのことにのみ心を奪われると、神との関係がおろそかになりがちです。
 マリアはイエスの話に「聞き入って」いました。彼の言葉に耳を傾けない者は真の弟子になることはできません。
 姉妹のマルタは対照的でした。ギリシア語聖書によれば、彼女は多くの奉仕によって「引き離されて」いました。ある意味で、これは理解できます。主イエスが彼女たちの家に来ておられたのですから、来客の世話をすることは彼女たちの責任でした。同時に、自分の姉妹にも手伝うように頼むことは慣例に従った方法であり期待でした。マリアの居場所は男性と一緒の食堂ではなく、女性に割り当てられた台所の中にありました。
 しかし、イエスはマリアを責めないで、マルタをたしなめておられます。たぶん関心を示すためでしょう。イエスはマルタの名を二度、呼んでおられます。マルタの不平もわからないではありませんが、イエスの叱責は、物事には優先順位があることを教えています。私たちはみな、このことに留意する必要があります。なぜなら、私たちは重要なものよりも緊急のものを、必要不可欠なものよりも有益なものを優先する傾向があるからです。



 マルタとマリアの物語については、ここで何回か取り上げたかもしれません。もしマルタが接待をしなければ、キリストや弟子たちは夕食にあずかることができなかったでしょう。また家で働いている人たちも困ってしまったことでしょう。
 このように、わたしたちは現実にしなければならないことに追われて生きています。
金曜日の研究に「マルタにとって必要な『一つのもの』は、落ちついた、信心深い精神、未来の永遠の生命について知りたいというもっと強い熱望、霊的進歩に必要な徳であった。彼女は、過ぎ去ってしまうものに対する関心よりも、永遠に続くものに対する関心の方が必要だった。イエスは、ご自分の子らに、救いに至る知恵を与える知識を得るあらゆる機会をつかむように教えようと望まれる」(『各時代の希望』中巻336ページ)。と教えられています。
 目の前のことに追われてしまい、そこだけしか見えなくなってしまう弱さをわたしたちは持っています。それはやらねばならないことですが、同時に大きな人生の方向性が必要です。わたしたちは永遠の神の国という、何にも変えがたい目標を目指しています。そこに向かいながら、今しなければならないことを進めて行く時に、より正しい判断をくだすことができるのではないでしょうか。
 イエスキリストは、マルタに仕事をやめて座るようにはおっしゃいませんでした。しかしマルタに必要なことを教えられたのです。

 教会において献身的な女性のみなさまのご奉仕は無くてはならないものです。そしてそのようなおもてなしの賜物のある方がいらしたら、いつもそのような役目をお願いしてしまいがちです。そのような方々にも、神様の光が届きますようにご配慮をする必要があるのではないでしょうか。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第 1 期4課

2008-01-25 20:13:53 | ディボーション

みなさま

 今週も寒さが続いています。札幌では25年ぶりに真冬日(最高気温が+にならない日)が15日以上続いたとか報じられています。関東地方でも雪が降ったようですね。いかがお過ごしですか。
 気候以上に経済にも寒風が吹いているようですね。若いころ、株に興味を持ったことがありました。一攫千金をねらってです。幸せとは、他の人が得ることのできないことを一瞬のうちに手に入れることでしょうか?
 株には無関係のわたしは、何が起こっても泰然自若・・・・これが最も幸せなのではないでしょうか。


第4課  「みせかけの弟子から学ぶ」  1月26日

暗唱聖句:「また、別の人も言った。『主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください』。イエスはその人に、『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない』と言われた」(ルカ9:61,62)

今週の聖句:マタイ8:19~22、19:16~26、マルコ10:17~23、ルカ4:16~30、18:18~30、ヨハネ3:1~21

今週の研究:神秘的で理解しがたいものの中でも、とりわけ人間の心の働きはその最たるものでしょう。聖書が人の心について、「誰がそれを知りえようか」(エレ17:9)と述べているのも不思議ではありません。
 今週は、見せかけの弟子たちとその心の動きに注目します。


月曜日:この人は自分の父を葬らせてほしいと言っています。ユダヤ人の信仰によれば、親のために礼儀にかなった葬式を行うことは聖なる義務でした。事実はどうだったのでしょうか。
 一般的な解釈とは異なり、この若者の父親は死んでもいなければ、危篤の状態でもありませんでした。それどころか、父親は「十分に健康で、死はまだまだ先のことであった」可能性すらあります(『SDA聖書注解』第5巻366ページ)。もしそうだとすれば、この人はなぜそのように言ったのでしょうか。それは単なる言い訳で、イエスはそのことを見抜いておられたのでしょうか。
 彼の応答はその品性を現していました。先の律法学者の性急さ・軽率さとは対照的に、彼は遅鈍で、無気力で、仕事への熱意を欠き、優柔不断で、何でも先延ばしする傾向がありました。実際、彼は直ちに献身することを嫌い、無期限に本当の弟子になるのを引き伸ばしていました。そのとき、すぐに献身しなかったのなら、たぶんいつまでも献身しないでしょう。この人はたぶん、自分に都合の良いときがきたら、弟子になってもよいと考えていたのでしょう。
 イエスが教えようとされたのは、弟子になるためにはひた向きな心と全的な献身が必要であるということでした。なぜなら、イエスが伝道し、弟子を訓練されるための時間は限られていたからです。

火曜日:今日の研究に登場するのは多彩な人物です。マルコによれば、彼はイエスのもとに走り寄って、ひざまずいています。マルコとマタイは彼の呼び名にふれていませんが、ルカによれば、彼は役人、もしくはユダヤ人の議員であったと述べています。「金持ちの若い議員」という呼び名は、3つの福音書の記述から合成されたものです。
 彼はイエスの御前に進み出るとすぐに、あたかもイエスにおもねるかのように質問を始めます。しかし、イエスは彼のおだてに乗せられません。イエスは彼の質問の核心に触れ、彼を神の律法に向けられます。
 ある意味で、この質問に対する答えは青年の応答の中に含まれています。彼は律法を守っていましたが、それだけでは十分でないと感じていました。言い換えるなら、外面的には、つまり行いにおいては、彼は主に忠実に従っているように見えましたが、それ以上の何かが必要でした。
 イエスの言葉と、それに対する青年の応答から、彼の心が真に回心していなかったことがわかります。そこで、イエスは青年の心を律法に向けることによって、真の救いが律法に従うことのうちに現されることをお示しになりました。これには、自我に死ぬことが含まれています。
 青年にとっては、富が偶像になっていました。イエスが彼にお示しになったことは、たとえ外面的には礼儀正しくあっても、彼の宝が天国にではなく地上にあること、したがって彼には根本的な心の変化が必要であるということでした。

水曜日:ニコデモに対するイエスの応答はニコデモの必要に答えるものでしたが、同時に、ヨハネの福音書によれば、それはまた弟子の身分にふさわしい特質とそうでない特質について明らかにしています。つまり、ユダヤ民族として生まれ、その子孫に属するということだけでは、真の弟子としては不十分であるということです。
 弟子になることは再生を前提条件としています。それは人を天国に結びつけ、聖霊の絶えざる働きを可能としてくれるものです。ニコデモはこれらのことを誤解していましたが、それによって、単にユダヤ人であること、あるいは正しい家系に生まれただけでは不適切であることがさらに明らかになりました。
 それはまた、弟子であることの意味についてさらに考える機会を提供することになりました。ニコデモは直ちに、かつ公然と弟子になる意思表明をしてはいませんが、ときどき隠れた弟子として行動しています。確かに初めのうちは、すぐに決心しなかったという意味において、彼は見せかけの弟子だったかもしれません。しかし、ご存知のように、彼は後に変わります(ヨハ19:39)。


 ある説教集で「金持ちの青年議員」のその後について、彼の予測が語られており、興味深く読みました。真偽のほどはわかりませんが・・・。
 彼が指摘している鍵は「悲しみながら立ち去った」(マタイ19:22、マルコ10:22、ルカ118:23)という聖書の記録で、ここから彼はこの青年議員は必ずキリストの下に帰ってきて弟子になったと断言していました。
 その理由として、まずは彼はキリストのもとに、彼を試そうとしてではなく、素直に教えを求めに来たのでした。彼ほどの立場だったら、キリストが休んでいる家の中に入って、個人的に教えを請うこともできたでしょう。しかし彼はあえて民衆とともにキリストを待ちました。
 2番目に、彼はキリストの指摘を聞いた時に、怒りに燃えて立ち去ったのではなく、悲しみながら立ち去ったのです。それはキリストの答えが的確に彼の問題点を捉えていたことと、そして彼は今すぐにはそれに応えることができないことを悟ったからでした。

 真実なことを理解してもそれができないことは悲しいことです。けれどもそれは絶望ではありません。説教者は彼の心の中に、このキリストの言葉が一生の間残されて、必ず彼はキリストの弟子となって帰ってきただろうと語っていました。

 今週の教課を読みながら、もしあなたが「キリストへ献身が足りないな!」と自覚さなっていたとしたら、それはあなたが不十分さを指摘するのではなく、神様の招きです。わたしたちもこの青年議員のように、すぐには弟子になれないかもしれません。けれどもキリストは青年議員を責めませんでした。きっとそれからも彼の心に語り続けられたことでしょう。
 神様は、わたしたちの一生の間、このように語りかけてくださいます。すぐには全的に献身できなくても、あなたができそうな何かを一歩ずつささげてまいりましょう。


北海道  安河内 アキラ


安息日学校教課  2008 年 第 1 期 3 課

2008-01-18 20:01:29 | ディボーション
みなさま

 今週は日本各地から、厳しい寒さのニュースが伝わってきます。まさに「凍ばれる」という表現がぴったりですね。
 北の街では、日中でも気温がプラスにならないどころか、このところ毎日最高気温がマイナス5℃になるかならないか・・・・まさに冷凍庫の中で暮らしているようなものです。このような時は、朝晩など外に出ると顔が痛くなります。
 けれども、これだけ寒くなると道路はあまりすべらなくなるし、雪も乾き軽くなります。寒いことも悪いことばかりではありません。


暗唱聖句 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11:1)

今週の聖句:マタイ4:18~22、5:46、9:10、11、マルコ1:16~20、ルカ5:1~11、18:10、11、ヨハネ1:35~51

今週の研究:今週は、別の角度から最初の弟子への招きに目を向け、私たち自身のための教訓を学びたいと思います。


火曜日:私たちの堕落した性質、欠点や弱さにもかかわらず、またペトロのように罪深い者であるにもかかわらず、神は私たちをお見捨てにはなりません。
 聖なる神の前に出ると、「わたしから離れてください」と言いたくなるのが自然です。しかし、十字架の血のゆえに、私たちは神の御前に出ることができます。十字架の血のゆえに、神の弟子になることができます。

水曜日:マタイはある意味で、弟子の召命に最もふさわしくない人間でした。なぜなら、彼は収税所から召されたからです。徴税人はローマ人からは売春宿の亭主、またラビからは強盗と同列に見られていました。彼らは名うてのうそつき、だれからも憎まれる強奪者と見られていました。なぜなら、彼らは敵のために同胞を裏切り、国家を食い物にしていたからです。
 このような品性と評判の持ち主がイエスによって弟子に召されることは、普通ならありえないことです。しかし、そのありえないことが起こったのでした。マタイの召命は、キリストの救いが普遍的であること、天国がすべての人を含むこと、キリストがすべての人に救いの機会をお与えになることを物語っています。

木曜日:キリストの召しに対するこれらの弟子たちの応答を見て驚かされることは、彼らがそれにともなう結果、つまりすべてのものを捨てて主に従うことによってどんな結果になるのかをほとんど知らなかったということです。
 現代の弟子としての私たちは、初めて召命を受けたときのこれら初期の弟子たちよりもどれほど有利な立場にあるかを考えてください。確かに、彼らは数々の信じがたい奇跡を目撃してはいましたが、私たちのように、キリストが成し遂げようとしておられた働きや使命、また最終的な勝利については知りませんでした。それにもかかわらず、彼らは信仰をもって前進しました。これこそ、ヘブライ11:1に記されている信仰です。


 今週の暗唱聖句は有名なヘブライ11:1です。信仰は何か?という問いに、最も簡潔に答えている聖句なのかもしれません。
 かつても書きましたが、新共同訳聖書で、この箇所を読んだときに、信仰は未来のことを信じるだけではなく、過去に起こったすべてのことも信じることだと教えられました。(口語訳聖書では、わたしは未来のことのみを指しているように読んでいた)

 神様の召しは、それぞれ異なります。わたしなど、キリスト教に囲まれた環境に生れ落ちました。これは少なくともわたしの選びではありません。まさに神様が召してくださったとしか言いようがありません。
 召しは神様のお働きですが、次にわたしたちがそれに応答しなければなりません。それが木曜日の学びでしょう。

 今まで、将来はわからないけれど、新しいことや任地へ向かうことがしばしばありました。けれども信じて前進すると、必ず想像していなかったすばらしい出会いがあり、感謝で満たされます。
 召しを受け入れるためには、聖書の書かれているすべてを事実と受け入れることも大切です。そこに記録されているのは、愛の神様の姿です。これを信じることができるときに、神様に従うことができるのではないでしょうか。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第 1 期 2 課

2008-01-11 19:45:07 | ディボーション

みなさま

 一月も三分の一が過ぎて、2008年が本格的に始動しつつあるのではないでしょうか。いかがお過ごしですか。アメリカでは大統領選挙の年となります。日本ではサミットが開かれたり、選挙になるのでしょうか。政治が大きな話題となる一年になりそうですね。そのようなことを予感させる一週間でした。

暗唱聖句:「一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」(マルコ16:20)

今週の聖句:マタイ24:14、28:19、20、マルコ16:20、ヨハネ3:21~30、使徒言行録5:34~39

今週の研究:今週は、さまざまな師弟関係をイエスの師弟関係と比較し、そのことが21世紀に生きるイエスの弟子たちにとってどのような意味を持つかを考えます。


水曜日:「この時まで、弟子たちはだれも、イエスの共労者として完全に一致していなかった。彼らはキリストの奇跡の多くを目に見、キリストの教えを耳にきいていたが、これまでの職業をまったく捨てきっていなかった。バプテスマのヨハネの投獄は彼らの全部にとって苦い失望であった。
 もしこうしたことがヨハネの使命の結果であるならば、宗教界の全部の指導者たちが一つになってイエスに反対するとき、彼らは主についてほとんど望みを持つことができないであろう。こういう事情だったので、彼らはしばらくの間魚とりの仕事にもどる方が安心だった。
 ところがいまイエスは、これまでの生活を捨ててイエスと利害を共にするようにと彼らを召された。ペテロはすでに召しを受け入れていた。岸べにお着きになると、イエスはほかの3人に、『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう』とお命じになった(マタイ4:19)。すぐに彼らはすべてを捨ててイエスに従った」(『各時代の希望』上巻308ページ)。

木曜日:弟子たちは至るところで宣教しましたが、マルコによれば、主は昇天後も初期の弟子たちと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになりました。
 イエスは初期の弟子たちに期待されたのと同じものを今日の弟子たちにも期待されます。イエスは私たちにも同じ献身を要求されます。しかしながら、「あなたがたの信じているとおりになるように」と、主は言われます(マタ9:29)。主はまた、こう言われます。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(ヨハ14:13、14)。

金曜日:「国民に対するバプテスマのヨハネの勢力は、一時は役人や祭司やつかさたちの勢力よりも大きかった。もし彼が自分はメシヤであると名のって、ローマに反乱を起こしていたら、祭司たちと民は彼の旗の下に集まったであろう。サタンは、この世の征服者たちの野心をそそるあらゆる報酬をバプテスマのヨハネに強調しようとしていた。しかしヨハネは自分の勢力の証拠を目の前に見ながら、そのすばらしいわいろを断固としてしりぞけた。彼は自分にそそがれる注意を他のおかたに向けた。


 今期の教課研究を学びながら、わたしには「あなたはキリストの弟子ですか?」と問いかけられています。
 弟子と師匠の関係については、みなさまの歩みの中で師匠と言われる方との関係を考えていただくのがわかりやすいでしょう。
 弟子は師匠の名声が高められる時に、素直に喜ぶことができます。また師匠から注意された時、それはわたしと愛していてくださるからこそ、素直に心を傾けます。師匠の前に立つと、ほんとうに弟子だったら、自分が消えていくものです。

 ではわたしはキリストのほんとうの弟子になっているのでしょうか。金曜日の学びでバプテスマのヨハネが、自分へ注がれていた人々の想いがキリストを求めていくように向けたとあります。だれでも自分の働きを認めていただきたいし、自分が何かをした結果が目に見えるかたちになった時に、それを誇示したくなってしまうものです。そしてサタンは、そこを誘惑してきます。
 伝道計画を立案して、それを果たそうとするとき、成果があがることが目的になってしまっていないでしょうか。それによってキリストが伝えられているだろうか。

 正しいことでもサタンは誘惑の材料として用います。わたしたちが掲げていくのは何なのか、何を目指しているのか、今期はこのようなことを学んで行く教課ではないでしょうか。


北海道  安河内 アキラ