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ラムズ・スタディ

聖書の神様のこと、みんなで学び、同じ目標を確認できたらホントすばらしい。

安息日学校教課  2008 年 第3期7課

2008-08-15 21:53:32 | ディボーション

みなさま

 オリンピックが始まり、テレビをつけるとオリンピックか高校野球という毎日ですね。ある先輩が、かつてのスポーツは「○○道」と言って、スポーツを通して人格を磨く場所だったはずなのに・・・・と嘆いていらっしゃいました。
 その過程において、磨かれて行くのは、スポーツに限らず、わたしたちの歩みも同じではないでしょうか。優秀な選手の業を見ながら、わたしたちも自らを少しでも高めるために、できることを積み上げていかねばと考えさせられています。


第7課  「使徒ヨハネ」  8月16日

暗唱聖句「自分の子供たちが真理に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません」ヨハネの第三の手紙:4

今週の聖句:マタイ8:21、22、マルコ10:35~45、Iヨハネ、IIヨハネ、IIIヨハネ

今週の研究:ヨハネの3通の手紙の中に、愛によって生き方を変えられた人の本心を見ることができます。それはまた、次のような励ましに満ちた聖句で満ちています。「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」(Iヨハ2:1)。
 今週は、初代キリスト教会の柱であったヨハネの生涯と働きについて、さらに詳しく学びます。


日曜日:イエスに従う人たちは心から、完全に献身する必要があります。すべてのものの主であるイエスは、すべてについて責任を負っておられます。
 しかし、イエスは決して利己心から出た心を求められません。イエスは、私たちの参加している戦いがどのようなものであるかを知っておられます。もし私たちのうちに何らかの弱み、放棄されていない利己心があるなら、悪しき者はそれにつけこみ、それを利用して、私たちを滅ぼそうとします。だからこそ、私たちは完全に主に献身する必要があるのです。
 ヨハネは完全に献身しました。彼は魚をとる漁師をやめて、天国のために人間をとる漁師になりました。これからは、全世界がヨハネの伝道地でした。
 彼は必要としている人々に希望といやし、福音を伝えるのでした。彼は厳しい教訓を学ばねばなりませんでしたが、イエスに献身していたために、どれほど苦しくても、そこから教訓を学ぶことができました。

水曜日:永遠の命についてのこれらの約束が重要なのは、人間だけが永遠という概念について考察することができ、地上の短い生存と永遠の時間との計り知れない隔たりを理解することができるからです。しかも、この冷酷な隔たりの現実は私たちの人生、いつ何時、動脈瘤や酔っ払い運転などで閉じるかもしれないこの人生の一瞬一瞬において、私たちの上に重くのしかかっているのです。
 死が終わりではないと知ることは素晴らしい希望です。死は単なる眠りで、一瞬の出来事です。目覚めた瞬間、私たちは永遠にイエスと共にいるのです。

木曜日:ヨハネには、イエスから学ぶべきことがたくさんありました。憐れみ深いイエスと交わっていながら、ヨハネは相変わらず自分のことしか考えず、他人に対して不寛容でした。
 あるとき、ヨハネはイエスの名を使って悪霊を追い出している人を見て、やめさせています。その人が正式な弟子でなかったからです(マコ9:38)。イエスは優しく彼を諭されます。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」(40節)。ヨハネはイエスのそばで品性の力を養いました。
 ヨハネの手紙を読むと、随所に親切心と優しさ、同情心を読み取ることができます。福音書に記されているヨハネとは大きな違いです。何か目覚ましいことが起こったに違いありません。そうです。彼はイエスと交わり、その経験によって、生き方と品性が決定的に変わったのでした。


 数週間前の暗唱聖句に、ヨハネ第一の手紙が用いられていました。そこでいくつか注解書を調べていたら「ヨハネ第一の手紙には晩年のヨハネが、すべてのクリスチャンに語りたいことが3項目書かれている」と教えられていました。

1)ヨハネ第一1:4 「あなたがたが喜びに満ちあふれるように」
2)ヨハネ第一2:1 「あなたかたが罪を犯さないように→弁護者キリストがいる」
3)ヨハネ第一5:13「永遠の命を受けていることを悟らせるため」

1)は、現在のわたしたちが、ほんとうの幸せをつかむための勧めです。それは罪が赦されることです。そのことにより、心から喜ぶことができます。
2)は、わたしたちの過去の問題です。律法は、わたしたちに罪が何かを示します。そして現在のわたしたちに正しい道を教えますが、それだけでなく過去の罪も指し示します。けれども今さら、どうしようもできません。 
 けれどもわたしたちには救い主キリストがおいでになります。過去の罪をすべてぬぐってくださいます。
3)は、未来への導きの約束です。これは計り知れない大きな祝福です。それが確実に与えられる約束をわたしたちが悟って、安心して今日の歩みができるように、神さまは道を開いてくださっているのです。

 ヨハネは、わたしたちがこのようなまことの喜びを、すべての人がつかむことのできるように願っています。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第3期6課

2008-08-07 17:26:32 | ディボーション

みなさま

 今朝、北の街でも「来た!夏の太陽」という陽射しを感じました。甲子園も始まり、夏本番にようやくなりました。
 そして今週末から北京オリンピックが・・・。8月8日午後8時8分に開幕とは、科学が進歩し、また神頼みなどとは無縁そうな共産主義国家でも縁起をかつぐあたりが、人間臭さを感じます。競技そのものよりも、平穏に終わるかどうかに注目が行ってしまっていますが、これによって中国がますます開かれた国家となり、福音が自由に伝えられるきっかけになればと願っています。


第6課  「憐れみ深い救い主」  8月9日

暗唱聖句「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれてい
るのを見て、深く憐れまれた」マタイ 9:36


今週の聖句:ヨハネ1:14、3章、4章、9:1~7、エフェソ4:32、ヨハネ第一・2:12

今週の研究:憐れみはキリストの働きのあらゆる側面を動機づけていたものでした。彼は社会的階級や性別、人種にかかわらず、あらゆる種類の人々に奉仕されました。彼は御自分の生涯、とりわけ十字架上の死において、最も力強く無条件の愛と赦しを現し、自ら私たちの罪のために刑罰を受けられました。
 今週も、引き続きイエスとイエスの働きに注目し、私たち自身の働きに役立つ教訓を学びたいと思います。


月曜日:イエスの伝道の基本は個人的な接触にありました。「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」(ルカ8:1)。
 数十年のうちに、イエスの教えは当時の世界にあまねく伝えられました。それには、理由がありました。主は個人的に人々に働きかけられ、これらの人々、特に12弟子が個人的にほかの人々に働きかけたのでした。
 12弟子は、イエスが人々に働きかけられるのを見ました。彼らは、イエスが「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」人々に(マタ9:36)慰めと励ましの言葉をお語りになる方法を見ていました。彼らは、イエスが次のように言われるのを聞いていました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタ11:28~30)。
 ストレスに悩み、燃え尽き、慰めと平安を求めている現代人にとって、これ以上に魅力的な教えがあるでしょうか。

火曜日:イエスが言われたこと、なされたことはすべて、憐れみの心から出ていました。福音書記者はしばしば、イエスは「憐れみに満ちて」とか、「憐れに思って」という表現を用いています。これは、罪に対する強い非難を意味する場合があります。イエスはときどき宗教指導者に対して強い言葉を用いておられますが、そんなときでも、つねに愛をもって語られました。
 この憐れみの中心にあるのが赦しでした。イエスはしばしば赦しについて教え、啓示されました。キリスト教神学の本質は、人間が神の赦しを必要とする罪人であるということです。赦しがイエスの生涯と教えの重要なテーマであったのも不思議ではありません。
 十字架の意味について、つまり神が私たちの罪を完全に赦すためにどのような犠牲を払ってくださったかを考えるとき、人を赦すことの大切さがこれほど強調されている理由を理解するようになります。私たちが人を赦すことを学ぶとき、この世界は全く異なったところとなるはずです。世界の政治ばかりでなく、私たち自身の人間関係や家族、家庭なども、全く異なったものとなるはずです。

木曜日:イエスは人々と交わる方法を知っておられました。その言葉は彼らの立場を考慮したものでした。彼は難解な哲学的、神学的用語を用いることなく、深遠な真理を語られました。イエスはだれにでも理解できる、単純で実際的な言葉を語られました。彼は人々が生活の中に応用できる事柄について語られました。
 イエスは自然界や身近な日常の事物を例話として用いられました。それらは硬貨(ルカ15:8~10)、種を蒔く農夫(マコ4:26~29)、パン種と粉(マタ13:33)、羊(マタ18:12~14)、いちじくの木(マコ13:28~31)など、人々がよく知っているさまざまなものに及んでいます。
 これらのたとえを読むと明らかなように、すべてではないにしても、大部分は今日でも十分に理解できるものです。これらのたとえはイエスの教えと同様、時代を超えた、普遍的なものです。


 だれかに福音を伝える働きは、いつも異なると言っても過言ではないでしょう。それは対象が人間であり、相手はすべて異なるからです。

 わたしの拙い経験から書かせていただくとすれば、特に初めて教会を訪れた時と、バプテスマの直前の学びの時は、個人的接触が重要だと思っています。

 まず最初の時、それは相手が何を求めて教会においでになったか、経歴や痛みをしっかりと耳を傾けることが大切です。とかく教会に自分からおいでになる方は、何かを失って痛みの中にあることが多いです。病いや親しい家族の死、そして失恋など・・・。
 この時は、とにかく聴くこと、そして何か共感できることがあったら、その思いを伝えること、質問にのみ答えることをして、こちらのことはできるかぎり話す必要は無いと思います。
 これは相手が、信頼して話しができるという環境を作ってあげないとできません。この傾聴の作業は3~4回に及ぶこともあります。この作業の中で、相手の歩みに神さまの導きを見ることができ、その方はわからなくても、わたしたちの目から見れば神様の導き以外考えられないということに必ず出会います。けれども、そのことを、この時点では決してこちらか言うことは避けるべきではと思います。それは、相手がまだわたしたちと同じ立場に立っていないから見えないだけなのです。無理に引き寄せるのではなく、相手がそうなるまで待っても遅くはありません。

 これをしっかりとすることができれば次にこちらから福音をお伝えすることができます。この時点で、だれか良い友だちを教会の中で紹介できれば、最適だと思います。どこかの小グループに加わっていただくことも良いことかもしれません。牧師はいつまでも一人の方につきっきりにはなれません。そして教会の中に、友だちができれば、教会においでになる楽しみも増えるものです。
 また相手の方の賜物で、教会の活動の中で役立てていただけそうなものがあったら、無理の無い範囲でお願いすると、居場所が与えられるかもしれません。

 そして最後の決心の段階が近づいたら、ここはできるだけ、個人的に話しをしたいと思っています。それは最後の決心への障害となるものがあるかもしれません。家庭のこと、仕事のことなど・・・。信頼する相手に本音で語っていただければ、こちらからも必要なアドバイスをすることができますし、祈ることもできます。これは1対1の学びでなければできません。

 どちらにしても、こちらの伝えたいという熱意が強すぎて、相手の心の扉を開くことができずに・・・という失敗をしたことがありました。
 個人的な働きは、相手のスピードにあわせて・・・このあたりの知恵を祈り求めながら、神さまが出会わせてくださった魂と相対できればと願っています。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第3期5課

2008-08-01 20:12:46 | ディボーション
みなさま

 夏至を過ぎて、徐々に短くなってきている日照時間ですが、7月はそれほどではありませんが、8月に入ると短くなるスピードが増してきます。8月だけで30~40分、短くなってしまうんですね。 猛暑が続いていますが、徐々に確実に秋に向かっているのを日照時間は示していますが・・・。


第5課  「マタイ10章──イエスと弟子たち」  8月2日

暗唱聖句  「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」マタイ10:31


今週の聖句:レビ記25:8~54、マタイ10章、ヨハネ10:10

今週の研究:弟子たちがこれまでイエスと共にいたのは、わずか1年余りでした。しかし、彼らは道であり、真理であり、命であるイエス御自身と共に歩み、語ったのでした(ヨハ14:6)。
 彼らが学んできたことを実践するときがついに来ました。弟子たちを遣わすに先立って、イエスは彼らに特別な教えを与えられます。
 今週は、イエスが弟子たちを宣教に遣わすに先立って与えられた教えの要点について学びます。


火曜日:イエスは弟子たちを遣わすにあたって、はっきり、異邦人にではなくイスラエル人のところにだけ行きなさいと言われました。私たちからすれば、これは不公平なように思われます。福音はなぜユダヤ人だけに伝えられたのでしょうか。少なくともその時、なぜほかの人々は無視されたのでしょうか。
 その答えは文化的に微妙な問題と関連しているように思われます。宣教の働きが弟子たちによって危うくなることを、イエスは望まれませんでした。
 今日、宣教するにあたっては、つねに注意を払うべき文化的な習わしがあります。それらは誤ったものとか、悪いものであるか、またはひどく不愉快なものかもしれません。しかし、それらを無視して効果的な伝道はできません。
 キリストに従う者として、私たちは自分の置かれている文化に敏感でなければなりません。決してうぬぼれや優越感に満ちた態度を見せてはなりません。もし何かよいものを持っているのなら、もし人々をより豊かな人生に導くことができるのなら、そのことを私たちのメッセージや生き方を通してあかしすべきです。

水曜日:弟子たちに対するイエスの宣教命令は人生の霊的側面だけに限られたものではありませんでした。弟子たちは教え、福音を説くと同時に、人々の肉体的必要にも配慮するように指示されていました。確かに、すべての人の最終的な目標は救いであり、永遠の命ですが、だからといって周囲の苦しみや悲しみを無視してもよいということにはなりません。
 イエスは弟子たちにバランスのとれた宣教を心がけるように教えられました。言うまでもなく、彼らの使命は人々を天国に備えさせることでした。しかし、彼らはまた、ある重要な意味で、天国がすでに彼らと共にあることを覚える必要がありました。このことは、弟子たちが人々の肉体的、社会的な必要を含むあらゆる必要に関心を持つべきことを意味していました。人々の現在の必要に奉仕することによって、私たちは彼らの心を永遠の命の現実と約束に向けることができます。

木曜日:弟子たちに対するイエスの忠告の多くは、彼らが直面する問題に対処する方法に関するものです。彼らの語るメッセージは、愛と正しい生き方に関するものであっても、反対に直面する可能性があります。事実、彼らは迫害に対する備えが必要であると、イエスは言われました。
 イエスは弟子たちに、困難な状況に直面しても恐れてはならない、と言われます。彼らはイエスの証人として総督や王の前に引き出されます。しかし、「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない」とイエスは言われます(マタ10:19)。神が彼らを通して語り、また語るべき言葉をお与えになる、と約束しておられます。


 初めて聖書研究をさせていただいた方のことは忘れません。神学生の最後のころ、F牧師から2名の方々の研究をまかされて、毎週聖書を開いて勉強させていただきました。
 また神学生の最後の年に、夏休み小さな集会所で学生文書伝道をさせていただき、約3ヶ月の間、毎週礼拝の奉仕をさせていただきました。その2年後から、兼任ですがその集会所の牧師を、足掛け17年もさせていただくことになるとは思いませんでしたが・・・。

 名医といわれる先生でも、ひよこの時代があり、そして徐々に経験をつんで今日があるわけですから・・・。机の上での学びだけでなく、それを実践することによって、成長して行くことができるのです。

 牧師の働きをさせていただき、当然自分も伝道をさせていただきますが、教会の方々に伝道などの働きを助けていただき、喜んで賜物を用いていただけるようにすることは、とても重要なことですね。

 様々な事情で教会の門を叩いてくださった方に対して、まずは教会員の方にお友だちになっていただく場合があります。友だちなってくださった方が、その方との交わりが深まるにつれて、相手の方の持っている様々な問題が露呈してきて、とても自分では手に負えないという事態になる場合があります。
 けれども教会の方は、やさしく熱心なので、一生懸命に我慢して相手の方に対応してくださる場合があります。そしてその方との関わりをやめることを罪深いことのように考えてしまっている場合があります。

 今週の学びでは、マタイ10章を学びますが、キリストは「今すぐは無理だ」と思う場合は、撤退して他へ転進しなさいと教えています。それは必要以上に無理をしないでできる働きをしなさいと教えているのではないでしょうか。

 自分たちが召されている街の、すべてに福音を伝いたいという希望を抱くことは大切かもしれません。けれども現実に、自分たちの現在の力量にあわせ、そして今、教会とのつながりのある方々を確実に導く方法を実践して行くことが、確実な伝道の方法なのではないでしょうか。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第3期4課

2008-07-25 21:55:34 | ディボーション
みなさま

 相次ぐ地震、無差別殺人事件、そして石油や食料品の急激な値上がりも人間の力では地球を救うことができないことを示しているのではないでしょうか。神様、もうやめてください。早く天国を、新しい世界を創ってください。このごろ、このように祈ることがとても多くなりました。


第4課  「人となられた神の御子」  7月26日


暗唱聖句「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。──」(ヨハネ第一1:1)

今週の聖句:マタイ23章、マルコ9:12、ルカ24:7、ヨハネ1:1~14、29、ヘブライ2:9

今週の研究:私たちアドベンチストは当初から、聖書が神の言葉であって、聖書がイエスについて述べていることは真理であると説いてきました。イエスが聖書にある通りのことを本当に語り、行われたのか否かについて、無意味な、高等批評の憶測に費やしている時間はありません。私たちアドベンチストは神の御言葉に書かれているゆえに、それらのことを信じるのです。
 結局のところ、聖書を信じることができないのであれば、何を信じたらよいというのでしょうか。


月曜日:これらの聖句(ヨハネ1:1~14)を表面的に読んでいるだけでは、その深い意味を理解することができません。ヨハネが私たちに語っていることの意味について熟考する必要があります。これらの言葉は希望に満ちていて、現代科学の教えとは対照的です。
 現代科学によれば、私たち人間は何らかの宇宙規模の偶然の副産物、また目的のない力、単なる偶然の結果にすぎません。言い換えるなら、私たちは愛の神、「肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハ1:14)お方によって創造されたのではないということです。私たちはたまたま地表に生じた化学物質の複雑な集合体にすぎず、私たちの創造に意味や目的がなかったのと全く同様に、私たちの人生と死にも意味や目的はないことになります。
 イエスによって与えられている希望とは何と対照的なことでしょう。

水曜日:私たちは用心深く柔和な態度で最悪の罪人のために働かれる、親切で優しいイエスの姿を思い浮かべるかもしれません。
 しかし、聖書には必ずしもそのようには描かれていません。むしろ、ある場合には、イエスは特定の人々に向かって、警告の言葉を連発しておられます。御存じのように、イエスは強い口調で古代イスラエルの宗教指導者たちを非難しておられます。非常に強い言葉です。
 ある意味で、彼は旧約聖書の預言者のように振る舞っておられます。それもそのはずです。預言者たちに霊感の言葉を与えられたのはイエス御自身でした。このように、何世紀にもわたって、さまざまな場面で、イエスは御自分の民のために嘆願してこられました。今日も同じです。
 これらの聖句(マタイ23章)を注意深く読むと、イエスが非難しておられる彼らの行為はどれも驚くべきものであることがわかります。しかしながら、全体を貫いている、はっきりした主題があります。それは、これらの者たちが偽善者であったということです。彼らは自分の魂の醜さを見せかけの信仰と敬虔によって隠していました。

木曜日:キリストの生き方の素晴らしいところは、どのような厳しい状況にあっても、失われた者たちを救うという御自分の使命を決して見失われなかったことです。
 十字架にかかり、世の罪の重みに砕かれそうになっていたときにも、イエスはつねに人々の幸福を心にかけておられました(ルカ23:34、42、43、ヨハ19:26参照)。イエスの足跡に従うように召されている私たちにとって、これは力強い教訓です。
 これはイエスによって非難された宗教指導者たちにも当てはまります。彼らに対するイエスの痛烈な非難(マタ23章)については、昨日の研究で学んだ通りです。
 伝道の働きは容易なものではありません。イエス御自身が地上におられたときのことを考えてください。人々はイエスに対してどのような態度を取ったでしょうか。最悪の人々に対してさえも、イエスは愛と思いやり、憐れみをお示しになりました。
 私たちも自分を拒む人たちに対して怒りや憎しみを抱いてはなりません。むしろ、憐れみと関心、思いやりを示すべきです。私たちの言葉に耳を傾けない人たちは私たち個人を拒んでいるのではなく、イエスを拒んでいるのです。


 
 使徒ヨハネは、福音書でも第一の手紙での冒頭に、キリストを「いのちの言葉」として描いています。ヨハネの晩年、人となられたイエスさまに直接会った人がわずかとなり、彼が残した数々の言葉や旧約聖書の約束が、信徒の信仰の支えとなりました。
 ヨハネは、その言葉は、偉人が残した箴言ではなく、全世界を創造し、命をも創る力があることを多くの人に伝えるために、最初の言葉としたのでしょう。
 キリストは種まきのたとえの中で、種である神の言葉は同質ですが、それを受け取るわたしたちの心の状態で、その種が大きく育つか枯れてしまうかが決まると教えています。

 大切なのは言葉の内容よりも、それをわたしたちがどのように受け止めるかなのです。わたしたちのできることは、その言葉を神さまの言葉として信じて、そこから語られている言葉を、現代の時代の中で聴き取って行くことです。

 そのためには、わたしたちが聖書の言葉の前に謙遜になり、そこから聴かねばならないのです。どうしたら自分たちの主張を貫けるか、正しさを示すことができるか、そのような思いで聖書を読んでも、神さまがあなたに伝えたい言葉を聴き取ることはできません。

 マタイ23章で、イエス様が譴責された人たちも、聖書を読んでいたというよりも、わたしたちよりもはるかに深く学んでいた人たちでした。
 大切なことは、神さまのことばに対して、どのような姿勢で耳を傾けるかではないでしょうか。心を砕いて、自らの思いを捨てて、静かに心を傾ける時に、細い小さな声が聞こえてくるのではないでしょうか。そのような静かな祈りと学びを毎日続けたいと願っています。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第3期3課

2008-07-18 20:22:15 | ディボーション

みなさま

 梅雨明けのニュースとともに、7月も中旬となり、三育中学校や高校の生徒さんたちは今週の安息日にはそれぞれの教会に帰ってくるのではないでしょうか。そして小学校や幼稚園も来週からは夏休みに入りますね。こどもたちがこの夏に、よい経験をして成長するように、そして元気で無事に過ごせるようにお祈りしています。



第3課  「バプテスマのヨハネ」──イエスの道を備える  7月19日


暗唱聖句  「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(マタイ11:11)


今週の聖句:マタイ14:1~12、ルカ1章、コロサイ2:8、黙示録14:6~12

今週の研究:今週は、イエスがほかのだれよりも高く評価した人物、バプテスマのヨハネの使命について考えます。加えて、ヨハネの召命と私たちの召命の共通点に注目します。


月曜日:主はバプテスマのヨハネの生涯について、つまり彼が生まれる前からどんなことを成し遂げるかを予告しておられました。このことは難しい問題を提起します。ヨハネは神から予告されたという理由だけで、これらのことを行うように運命づけられていたのでしょうか。言い換えるなら、ヨハネには、神の予告されたこと以外のことを行う自由があったでしょうか。
 神の予知と人間の自由意志をめぐる問題は長年、神学者と哲学者を悩ませてきた問題ですが(したがって、この問題に答えることは容易ではありません)、一つのことだけははっきりしています。それは、ヨハネが自分の使命を達成するための特別な準備を必要としたということです。

 ルカ1:15には、ヨハネは「既に母の胎にいるときから」聖霊に満たされていると書かれています。このような特別な約束が与えられていたにもかかわらず、ヨハネは荒れ野の苛酷さに見られるような準備を必要としました。
 聖書には、しばしば、砂漠や荒れ野が霊的鍛練と成長の場として描かれています。ヨハネの場合もそうでした。「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」(ルカ3:2)。確かに、ヨハネは祈りの人となり、後に弟子たちに祈り(ルカ11:1)と断食(マコ2:18)の仕方を教えています。彼は霊的に天とつながっていることの大切さを認識していました。

水曜日:バプテスマのヨハネのメッセージには、二つの重要な要素があります。一つは悔い改めであり、もう一つは行いです。両者は密接な関係にあります。ヨハネが悔い改めの意味で用いているギリシア語(メタノエオー)は複合語であり、メタは「変える」、ノエオーは「考え」を意味します。したがって、悔い改めとは、何かについての考えを変えるという意味です。
 ヨハネは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言っていますが(マタ3:2)、これは、来るべき天の国は全く新しいものの見方を要求するという意味です。言い換えるなら、人々をイエスの来臨に備えさせるにあたり、また主の道を整え、「その道筋をまっすぐに」(3節)させるにあたって、ヨハネは人々に自分たちの世界観と生き方を変えるように求めていたのです。

 悔い改めの基本的な側面の一つは罪を告白することでした(マタ3:6)。もう一つの側面は天国の原則に従って生き方を変えることでした(8節)。それ以外に、経験したことのない慰めの時をもたらしてくださるイエスに彼らを備えさせる方法はありませんでした。
 バプテスマは悔い改めと密接に結びついています。事実、ルカによれば、ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた」のでした(ルカ3:3)。水によって洗い清められることは、人生観の変化、新たな出発、罪の赦しを象徴していました。

木曜日:バプテスマのヨハネの基本的な使命の一つは、言い伝えに異議を唱え、人々の心を啓示された神の言葉に向けることでした。エレン・G・ホワイトは次のように記しています。「バプテスマのヨハネを偉大な者としたのは何であったか。彼はユダヤ民族の教師たちによって作られた数多くの言い伝えに心を閉ざし、天から来る知恵に心を開いた」(『闘いと勇気』276ページ)。
 バプテスマのヨハネは言い伝えによっても、一般に許容された言い方によっても縛られていませんでした。彼は姦淫から社会悪まで、あらゆる種類の罪に反対しました。神のメッセージが疑う余地のない、はっきりしたかたちで伝えられるときにはいつでも、人はさまざまな反応を示すものです。中には、ヨハネが悪霊に取りつかれていると言って、非難する人たちもいました(マタ11:18)。イエスも全く同じ経験をされました(ヨハ7:20)。


 木曜日の研究の最後に「言い伝えはいつでも悪ですか。その理由は何ですか」という問いかけがありました。
 イエスキリストもバプテスマのヨハネも当時の言い伝えに対して、新しい教えを次々と語られました。それだからこそ、言い伝え、慣習などはまちがっているものなのでしょうか。

 今日の教会でも同じような問題があるのではないでしょうか。いろいろな教会行事があります。それらを毎年恒例の行事だから、時期が来たからと行うこと、このように習慣化してしまっていることを、何も考えず、毎年やっていることだからと続けていませんか。
 何かの行事には必ず目的があります。それを見失い、惰性でと言うが正しいかわかりませんが、それを行っている、そしてそれを行うことで安堵している自分に気づくことがあります。
 時と場合によっては、大胆に改革をしたり、休止する勇気も必要かもしれません。

 キリストは、なぜ安息日を守るのか、なぜ教会へ行くのか、これらのことなどについて言い伝えに縛られている当時の人たちに考えさせ、その本来の目的をしっかりと見据えるように伝えたかったのでした。
 言い伝えが悪なのではなく、その目的や本質を見失って、その言葉だけを見ている人間に問題があるのです。同じようなことが、わたしたちのまわりには無いでしょうか。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第3期2課

2008-07-10 20:25:22 | ディボーション

みなさま

 サミットが無事に終わりました。数年前から日本は経済は二流、政治は三流と言われてきましたが、安全だけは世界一ということを証明できたのかなと思います。
 期間中は、札幌教会は交通規制区域にあたり、幹線道路ではない教会の前の道にも24時間体制で警察官が警備し、上空には、いつもヘリコプターが音をたてて飛んでいました。けれども、首脳たちが帰国した夜には、静かな夜が戻ってきました。



第2課  「すべての人に対してすべてのものに」 パウロの伝道  7月12日

暗唱聖句  「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです」コリント第一 9:22

今週の聖句:使徒言行録11:19~26、13:16~42、17:18~34

今週の研究: 今週は、私たちのメッセージを異なった状況の中にある人々に適合させることが何を意味するのかについて考えます。堅固で、妥協を知らない真理の信奉者、使徒パウロが、さまざまな方法を用いて、イエスについてのメッセージを特定の聴衆に適合させていることは注目に値します。パウロの方法は、私たちが現代の真理を人々に宣べ伝える上で重要な示唆を与えてくれるものです。


水曜日:。「パウロの言葉は、教会のための知識の宝を含んでいる。……もし彼の演説が、彼らの神々や町の有力者に対する直接の攻撃だったら、彼はソクラテスの運命に会う危険に陥ったであろう。しかし天来の愛から生ずる機知をもって、彼は人々の知らない真の神を彼らに示しながら、人々の心を異教の神々から注意深く引き離した」(同260ページ、同1446ページ)。
 人々を私たちの望むところに導くためには、まず彼らのいるところで彼らと会う必要があることを、パウロは理解していました。それは、彼らの必要、彼らの関心に心を向けることであり、私たちのメッセージを彼らに合うかたちに適合させるということです。それは私たちのメッセージの質を落とすことではありません。それはまさにコミュニケーションの問題、つまり人々に理解できる言い回し・言葉遣いで人々に語ることにほかなりません。

木曜日:第二次宣教旅行の折、パウロはテモテとシラスの助けを借りて、マケドニア最大の都市テサロニケにキリスト教会を設立しています。テサロニケはローマの重要な二つの道路の交差点にあって、その地域全体にとって重要な海港でした。この都市に強力な信者のグループを組織することによって、その地域全体にほかの教会が設立されることになるのでした。
 まさに、その通りになりました。パウロは言っています。「マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです」(Iテサ1:7、8)。
 この教会はほかの教会の模範でした。面白いことに、教会を意味するギリシア語(エクレシア)はキリスト教特有の言葉ではありませんでした。それはさまざまな背景において開かれる集会全般について用いられる言葉でした。しかし、単に共に礼拝するばかりでなく、地域社会に福音を伝えるという意味において、キリスト教のエクレシアには特別な機能が与えられていました。

金曜日:「どのようなかたちで真理を伝えようとしても、なかなか受け入れない人たちがいる。しかし、神の働き手は聞き手のうちに偏見を起こしたり、闘争心をかきたてたりすることのないように、注意深く最善の方法を研究すべきである」(エレン・G・ホワイト『アドベント・レビュー&サバス・ヘラルド』11月 25日、1890年)。

 「快活で、忍耐強い親切心とキリスト者の礼儀によって、パウロは人々の心をとらえ、偏見を和らげ、闘争心をかきたてることなく真理を教えようと努めた。これらはみな、人々の魂を愛し、彼らをキリストの救いに導こうとする願いから出たものであった」(『パウロ略伝』162ページ)。


 初対面の人と話しをするときに、みなさまは何を重視されるでしょうか。その人と人間関係を深めるためには、まずは相手が心を開いてくださらなければ関係は結べません。その関係を深め、信頼関係を築くことができれば、より重要なことを相手はあなたに語ってくださることでしょう。
 わたしは初対面の方と話しをする時に、何か共通項を探すことか、相手の関心があることをが見つけるようにします。それが話題を深めるきかっけとなるからです。それは相手が話しをしやすい環境を整えてあげることなのかもしれません。そして相手が気持ちよく、自分ことを話してくだされば、関係作りの第一歩は成功したことになります。そのためには、わたしのことを話しするのではなく、相手が語るようにして、わたしは傾聴する側にならなければなりません。

 パウロの伝道旅行は、新しい教会を再訪して励ますことと、新規開拓でした。特に開拓伝道では、彼を待っている人がいないところで、少しでも感心がありそうな人を見つけて、そこをきっかけにして伝道を開始して行きます。
 今週の学びで、どうすれば相手に伝わるだろうか、パウロがいろいろと工夫をしていることが教えられています。
 同じように、わたしたちは神さまから正しいことを教えられています。正しいことを伝えれば、人は聞いてくれるとは限りませんん。相手の心が開かれて、そしてそれから種が蒔かれなければ、福音の種は発芽しないのです。

 教会員のご主人で、教会の楽しそうな行事の時にだけおいでになる方がいます。奥様は「こんな時だけで、もうしわけありません」と恐縮されていましたが・・・そんなことはまったくないのです。交わっていただかなければ、心の扉を開くきっかけができません。そして交わる回数が多ければ多いほど、確実に人間関係は深まります。
 正しい教えが、どのようにしたら相手の心の中に入っていくか、考えていく必要があります。

かつてある統計で、自分は無宗教という方に「もし信じるならば何を信じたいですか?」と問うたところ、半分以上の方が「キリスト教と答えた」という話しを聞いたことがあります。日本人の中には、キリスト教は確実に浸透しています。けれども、それがうまく伝わって行かない何かがあるのではないでしょうか。そのきっかけをうまくつかみ、そして信頼関係を築くことができれば、今週の学びでは感じさせられました。
 最後に、わたしたちの教団は、日本で学校、病院、老人ホームなどの教育や福祉事業を行っています。これらを通して、教会とまったく接点の無かった方と、つながるきっかけが与えられ、福音が伝えられるために、大きな働きがなされています。ぜひこれからの機関のことを覚えてお祈りください。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第3期1課

2008-07-03 20:44:16 | ディボーション

みなさま

 サミットが近づいてまいりました。札幌中の街角に警察官が立っているという感じです。今朝の幼稚園バスを走らせながら、警備にあたっている車両を見たら、長崎、神戸、姫路ナンバーでした。教会の近くで立ち番をしている警官は兵庫県警、近くの駅は広島県警の方でした。
 これだけのことをするのですから、ぜひ世界の平和のために、また山積している難問を解決するために、良い結果が得られることを祈っています。


第1課  「このような時のために」 使徒パウロ  7月5日

暗唱聖句  「そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています」ローマ15:17


今週の聖句:使徒言行録9:1~9、22:3~5、25~29、ローマ7:19~25、11:1、フィリピ3:5、ペトロI第二1:3~8

今週の研究: 使徒パウロはこの啓示にもとづいて行動した中心的な指導者でした。パウロはその生い立ちと人格、神からの召命のゆえに、すべての民のための、この新しい宣教時代へと教会を導くにふさわしい人物でした。
 セブンスデー・アドベンチスト教会は、北アメリカの外に向かって宣教を開始した19世紀後半において、これと同じような経験をしました。200か国以上の国々における、今日のアドベンチストの世界的宣教の基礎はこのような急進的な過程を経て据えられました。


序言: 今期、単に興味深い歴史上の人物としてこれらの聖書の使者たちについて学び、それでおしまいというのでは、あまり意味がありません。むしろ、彼らの生涯から霊感を受け、滅びゆくこの世界に対する私たちの使命について考える必要があります。人々に福音を伝えること以上に、私たちを活気づけ、生気づけてくれることはありません。
 今期、聖書の希望の使者について学ぶことによって、私たちの隣人や友人、世界中の伝道地に神の愛を伝えるために再献身するようになることが、著者の祈りです。そのとき、私たちは自分自身が信仰生活の全く新しい次元に入ったことに気づくはずです。


火曜日:異邦人への偉大な使徒、またイエス御自身を除けば、キリスト教における最大の力であったパウロは、ある種の超人、欠点のない聖人、信仰の先駆者であったと考えるかもしれません。
 しかし、新約聖書はそのようには描いていません。聖書によれば、私たちはみな罪のもとにあり、神の恵みを必要とする罪人です。使徒パウロも例外ではありません。
 パウロにも時々、衝動的で、ほとんど好戦的と思えるときがあります。彼はしばしば自分の権利のために立ち上がっています。
 使徒パウロのような信仰の巨人でさえ完全な人間でなかったと知ることは慰めです。彼も時々、過ちを犯しています。私たちと同様、彼もイエスによる日毎の恵みと赦しを必要としていました。事実、彼の著作からもわかるように、パウロは自分自身の罪深さをよく知っていました。彼を神の救いの恵みについての力ある教師としたものは、ある意味で、自分自身の弱さと欠点についてのこの認識だったことは明らかです。
 パウロは完全ではありませんでしたが、それでも神は彼をお用いになりました。自分の欠点を認め、勝利を与える神の約束に頼ることは重要です。私たちは自分の弱さのゆえに主のための働きを思いとどまる必要はありません。

木曜日:パウロはテモテに書き送っています。「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」(Iテモ6:11)。私たちが正しいことを行うのは、イエスに救っていただくためではありません。私たちが正しいことを行うのは、救われているからです。パウロは言っています。「わたしたちは……善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです」(エフェ2:10)。
 私たちが神に従うのは、神に愛され、受け入れられ、天国へのチケットを手に入れるためではありません。イエスの救いの賜物を受け入れるとき、私たちは全面的に、無条件に受け入れられているのです。私たちが神に従うのは、神の力強い愛が私たちを善い業に導くからです。私たちが神に従うのは、神の愛が私たちを駆り立てているからです(IIコリ5:14参照)。
 パウロの中心的なテーマはみな互いに関連しています。イエスは御自分の自己犠牲と復活を通して、死を征服されました。御自分の忠実な子らが復活し、永遠の命の賜物を得るようにと、イエスはお帰りになります(Iテサ4:13~18節参照)。これらのイエスに従う者たちは自分たちの生き方を通してイエスに対する愛を表しました(エフェ4:20~32参照)。

金曜日:「使徒パウロはローマ市民としてのあらゆる特権を与えられていた。彼はヘブライの教育にも後れを取っていなかった。ガマリエルのひざ元で学んでいたからである。しかし、これらのものも彼を最高の標準に到達させることはできなかった。これらの科学的、文学的教養がありながら、キリストを啓示されるまでは、彼は現代の多くの人たちと同様、全くの闇の中にあった。パウロは、経験的な知識によってイエス・キリストを知ることが現代と永遠の利益になることを完全に認識するに至った。彼は高い標準に到達する必要性を認めた」(エレン・G・ホワイト『アドベント・レビュー&サバス・ヘラルド』7月18日、1899年)。


 今週と来週は使徒パウロについて学びます。彼の時代のキリスト教会は、組織されたばかりの小さなグループでした。彼はそれを全世界の教会として発展させて、また数々の著作によって教会の神学をまとめて、教えを固めて行ったのです。
 彼の人生を考える時に、おそらく困難と失望、挫折の連続ではなかったかと思います。当時の旅は命がけでした。そして訪れる街に、彼らを迎えてくれる人はいません。新しい宗教を伝えても、受け入れられないばかりが石で打たれたこともありました。

 またせっかく誕生した教会を離れて、別の地で伝道を開始したら、かつての教会からは異なった教えによって教会が混乱しているという知らせが届いたり・・・。それでも彼は熱意を失わず、最後まで宣教を続けて行ったのです。
 彼は、今日全世界に教会が立てられて、多くの人が彼の書いた聖書を読んでいることを知らずに眠っています。このようにわたしたちも自分たちのまいた種の結果を見ることができないことが多いのではないでしょうか。けれども再臨の時、神さまから永遠の報いが与えられること、そして自分たちはその神さまの働きの一人の走者であり、時が来たらバトンを渡して行くことを彼はしっかりと理解して、その時まで走り続けていたのでした。

 彼は何も無いところへ切り込んでいきました。うまく行かなかった働きも多々あったでしょう。けれども何かを始めなかったら何も生まれません。今期の学びは、わたしたちができる何かを少しずつでも開始するように教えているのではないでしょうか。

 あなたの心の中で、この働きをしてみてはと思うことがあったら、祈りつつ進めてみてください。新しいことを熱心に始めることができる賜物を持っている方もいるでしょう。そしてそれを助ける働きをする人も必要です。自分は新しいことはできないけれど、始まった働きを助けるのも大切なことです。
 神さまは、あなたを救うだけではなく、あなたが神さまへ人々を導く器となるように願っています。ぜひあなたのできる神さまの働きのために、あなたの力を用いてください。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第2期13課

2008-06-27 22:28:18 | ディボーション

みなさま 先週末は夏至でした。これから暑くなるのに徐々に日照時間が減ってくるわけで・・・・。北の国に暮らすものとっては、厳しい季節へ向かって行くことになる第一歩?となるわけで、短くなると思うだけで悲しくなります。 緯度が高くなると、それだけ日照時間が長くなることは知っていました。天気予報で札幌の夏至の日照時間は15時間35分くらいと報じていましたが、東京はそれよりも約1時間少なく、沖縄は2時間少ないと聞き、これだけ差があるのかと驚かされました。


第13課  「王・友としてのイエスの再臨」  6月28日

暗唱聖句  「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」ヘブライ9:28

今週の聖句:ダニエル書9:24~27、マタイ24章、ルカ21:25~31、ヨハネ14:1~3、Iテサロニケ4:13~18、ヘブライ9:28

今週の研究:聖書に強調されている通りに再臨のさまざまな側面を伝えることは、子供たちがクリスマスを待ち望むときの期待感に似た何かを読者の心に抱かせることです。再臨のメッセージは福音であるべきであって、人々を「不安療法」に追いやるものであってはなりません。


火曜日:興味深いことに、イエスは尊大な宗教指導者たち(あるいは、心の中でイエスの恵みを拒絶している人々)に語るときには、再臨が持つ威厳に満ちた側面、王としての側面、裁きの側面を強調しておられます。 
 しかし、御自分に従う人たちに語るときには、慰めと確信、喜びを強調しておられます。このようなわけで、マタイ24:31で、諸国民が再臨において嘆くと語った直後に、御自分の民に言及される段になると、イエスの口調は変わります。 
 つまり、天使たちはイエスによって選ばれた者たちをあらゆる国民の中から御国に集めると、言っておられます。

水曜日:マタイ24章はイエスの再臨に関する中心的な章で、弟子たちによってなされた質問、また今日の私たちにとっても関心のある再臨の「時」に関する質問に対するイエス御自身の応答について記しています。以下、イエスが強調された点をいくつかあげてみましょう。

 1.私たちは慌てるべきではありません(ギリシア語では巧みな表現になっていて、強調的に、「慌てないように注意しなさい」と表現することができます6節)。たとえ、それが飢饉であれ、地震であれ、国家間の戦争であれ、です(6~8節)。
 2.私たちは教会の中にあっても争いや憎しみに直面します(9~13節)。 
 3.私たちはうぶで、だまされやすい態度で再臨を待つべきではありません(4、5、23~26節)。イエスは最後までこの点を強調しておられます! 
 4.終わりが来る前に、福音は全世界に宣べ伝えられます(14節)。 
 5.再臨は華々しい、目に見える、全世界的な現象です(27節)。 
 6.いくつかの宇宙的なしるしが再臨の前兆となります(29節)。 
 7.終わりの時になると、天使たちが地の四方から忠実な者たちを集めます(31節)。 
 8.再臨の日と時は神だけが知っておられます(36節)。 
 9.警告や予告が与えられていても、再臨は突然で、予期しないものです(42~44節)。


 これらの要点の中で、特に注目したいのは福音に関してです。福音はすべての人への「証し」として全世界に宣べ伝えられ、「それから、終わりが来る」と書かれています(14節)。このことは、キリストに従う者たちが、たとえ間接的であれ、人類歴史を終わらせる上で重要な一定の役割を果たすことを暗示しています。この意味で、私たちは神の国を進展させるために自分の置かれた立場でいっそう努力する必要があります。

木曜日:日曜日の研究では、ウィリアム・ミラーと彼に従った人たちがいかに熱心に1844年10月22日の再臨を待ち望んだかに触れました。その後、彼らと私たちが発見したことは、翌日も、いや翌週も、翌月も、翌年も、次の10年も、次の100年も、イエスは来られないことになっていたことです。そして、164年後の今日も、私たちはまだこの世にいます。私たちはこの問題をどう理解したらよいのでしょうか。
 一つの方法は再臨の真実性と確実性に心を向けることです。つまり、再臨の時期を度外視するなら、論理によってでなく、そもそもだれが再臨を約束されたかに注目することによって、再臨を事実として受けとめることができます。
 再臨の約束は確かな、歴史上の人物であるイエス御自身から出ています。イエスが誠実で、信頼できるお方であることは広く認められているところです。このお方が、間もなく去って行こうとしておられる御自身のことを憂慮する弟子たちに語りかけておられます。心を騒がせるな、わたしを信じなさい、とイエスは言われます(ヨハ14:1)。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(3節)。


 今期、イエス様はどんなお方かについて、さまざまな角度から学んできました。かつても書きましたが、わたしは三育幼稚園でイエス様についてこどもたちが簡単に理解できるために、イエス様について下記の3項目にまとめて教えています。
  1)イエスさまは、やさしいかた
  2)イエスさまは、いつもそばにいてくださるかた
  3)イエスさまは、やくそくをまもってくださるかた

 今期、いろいろな姿のイエスさまについて学びましたね。わたしはそのまとめとして今週の火曜日の研究がとても重要ではないかと感じました。
 それはイエスさまは変わりません。けれども、わたしたちの選びによって、イエスさまから受けるものが変わっていきます。

  1)やさしい方
    ・イエスさまを信じて従うものにとっては、愛に満ちた方です。
    ・従わない者にとっては時には愛の鞭を与えられるかもしれません。
      これも愛するがゆえです。
  2)いつもそばにいてくださる
    ・たとえ死の影の谷を歩むともという詩編23編の言葉はなぐさめです。
      どんな時でも一人ではありませんから。
    ・神さまから離れている人にとって、神さまは良心へ働きかけをなさいます。
      それは余計なお世話であり聞きたくないことかもしれません。
      それでも神さまはそばにいてくださるのです。
  3)やくそくをまもってくださる
    ・人間が越えられないこと、病や死をも最善に変えてくださり永遠の生命まで
      わたしたちを導かれる約束は、たしかなものです。
    ・最後の滅びの約束も、同様にたしかなものです。


 立場が変わるだけで、イエス様の姿はここまで変わります。イエスさまの愛に包まれて歩むためには、わたしたちがそれを受け入れて、その中へ入ることを選ばなければなりません。
 そのためには、イエスさまを知れば知るほど、愛が深まります。今期の学びによってあなたにとってイエスさまは、より近くに、大切なお方になったでしょうか?


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第2期12課

2008-06-19 19:44:54 | ディボーション

みなさま

 基本的に体を締めるものは、昔からきらいでした。今でもゴムがついたものは極力避けて、腕時計もしていません。
 そんなわけで、わが家では時計代わりに朝はテレビをつけっぱなしにしていること多いです。
 土曜日の朝のあわただしい時、そのテレビから突如、いつもの警告音と異なる警報音が聞こえてきました。一瞬、これなんだっけと考えて「緊急地震速報」と気づくまで1秒くらい、「大地震?」と画面を見れば東北地方とあり、「北の街は大丈夫だろう」と目星をつけました。そして「今だったら何ができるだろうか」と考えましたが、せいぜい机の下にもぐりこむことくらいでしょうか。それでも「大地震が来るまでに、身構えることができるだけでも大分違うのかなぁ」と考えました。
 この警報が鳴ったときに、どう対応したら良いのか、もっと考えておく必要があると痛感しました。またそれぞれの場所や施設などの立地条件によって対応は異なるでしょうが、この情報をつかんだ時に、短い時間で何をするか、関係者と考えておくことが重要なことになって行くでしょう。



第12課  「イエスの祭司としての務めの有効性」  6月21日

暗唱聖句   「今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き」ヘブライ8:1

今週の聖句:出エジプト記25:8、9、マタイ27:50、51、ヘブライ4:16、6:19、20、7:23~28、8:1、2、9章

今週の研究:聖所はヘブライ人の礼拝の中心となりました。そして、その活動と儀式を通して、礼拝者の関心が来るべきメシアによる人間の救いという宇宙的な現実(ヘブ9章参照)と天の聖所におけるイエスの奉仕に向けられました。今週は、天の聖所と天の聖所におけるキリストの奉仕に目を向けます。


火曜日:古代イスラエル人の宿営地にあって、一般のイスラエル人の礼拝者はいくつかの障壁によって至聖所と隔てられていました。至聖所に近づくためには、神聖な境内を取り巻く祭司やレビ人、立ち入り禁止区域といった緩衝物を越える必要がありました。
 しかし、今や、私たちの天の祭司・仲保者なるキリストが、天の聖所そのもの、生ける神の謁見室に無制限に近づく扉を開いてくださった、と『ヘブライ人への手紙』の著者は言います。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブ4:16)。イエスは天における私たちの仲保者です。
 私たちのためのイエスの執り成しの詳細についてはわかりませんが、聖書は人間的な見地からですが、いくつかの実例を示しています。それらのうちの二つを、モーセの生涯にあった事件のうちに見ることができます。
 一つはカデシュにおける反逆であり(民14:10~20)、もう一つは金の子牛事件です(出32:9~14、30~32)。モーセは力強い言葉をもって神に嘆願しています。「今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください」(出32:32)。このような祭司としての執り成しはダニエル書の中にも(ダニ9章)、また受難前のイエスの祈りの中にも見ることができます(ヨハ17章)。

水曜日:イエスを救い主また大祭司として知っている人たちは、イエスをただ救い主としてしか知らない人たちよりも霊的に有利な立場にあるのでしょうか。これから2日にわたってこの問題について考えますが、そのためにはヘブライ9章に注目する必要があるでしょう。
 
 1.最初の契約(旧約聖書の聖所の儀式)のもとで起こったことは一時的なものでした。根本的に内的変化をもたらすには不適当な供え物や儀式は、それ自身を超えた、さらに大いなる何かを指し示していました。
 2.その、さらに大いなる何かが起こりました。キリストが来られたのです。キリストは真の大祭司です(11節)。キリストは、「雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」(12節)。
 3.古い制度による供え物は外的な結果をもたらしましたが(13節)、内的な変化をもたらすことはありませんでした。しかし、キリストの血は私たちの内なる人に働きかけて、「わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせ」てくれます(14節)。
 4.キリストはただ一度、私たちのために血を流し、今や私たちの大祭司として神の御前に現れてくださいます(24~28節)。

木曜日:『ヘブライ人への手紙』は「恵みの座」に近づくように私たちを招いています(ヘブ4:16)。この言葉はいくつかのことを示していますが、その一つがこれから扱おうとしている問題です。
 天の聖所におられる神に近づく道がイエスを通して備えられています。信仰によってイエスと共に聖所に入るとは、イエスの驚くべき恵みによって魂を清めていただくことであり、同時にイエスの不変の律法を心に刻む経験をすることです(ヘブ8:10参照)。このことは、アドベンチストの言う「善と悪の大争闘」の背景の中できわめて重要であり、聖所の教えが私たちにもたらす効果です。信仰によって、心からの確信をもって、私たちはイエスが奉仕しておられる聖所に入ります。
 そこで、あらゆる不利な状況の中で、契約の箱、また正義と憐れみの上に据えられた生ける神御自身の御座によって象徴される不変の約束のお方に信頼します。このようにしっかりと錨を下ろしているので、私たちは神の聖なる安息日を廃棄するような律法観や、生ける神を神御自身の宇宙から退位させるような進化論にもてあそばされることがありません。この意味で、聖所の教理は私たちを反逆から守るもの、反抗する世界にあって忠実な残りの民を神に保証するものとなります。


 聖所の研究では、いろいろな側面から光を得ることができますが、わたしは今週の学びから、神さまから隔ての壁を取り去ってくださったことを再確認させられました。わたしたちがそれを求めたわけではありません。何か代価を払ったわけではありません。そしてわたしたちがそれをいただくことができる資格や権利があるわけでもありません。
 キリスト教が全世界に広がった時に、旧約聖書の時代のように「贖罪の日」に、毎年エルサレムの神殿に集るなど不可能なことです。
 けれども今は、わたしたちはどこでもキリストの罪の赦しを祈ることができます。いつでも救いを求めに、神さまのみもとへ向かえます。神さまは、一人でも多くの人が、罪の縄目から解放されることを願って、キリストを犠牲としてくださったのです。

 先週の学びでしょうか、罪の赦しを求める祈りは、すぐに答えられると書かれていました。これはそのとおりだと思いますね。神さまは、罪を赦したよ!と感じることができるような道の開きかたをして導きを与えてくださいます。
 そのような道を与えてくださるのですが、わたしたちが神さまへ至る道を歩もうとしなければ、そこへ到達できないのです。救いは用意されていますが、そこへ行くことを選ぶのはあなたです。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第2期11課

2008-06-13 20:12:22 | ディボーション

みなさま

 今週、兼務の苫小牧教会へ向かうために高速道路を走っていましたら、やたらと道路工事がなされています。途中の千歳ICなどは舗装がすべて新しくなっていました。年度末でもないし・・・と考えていたら、「サミットが間近」ということに気づきました。新千歳空港に着いた要人はヘリコプターで移動でしょうが、おそらく各国政府代表団や報道関係者は自動車やバスで移動となるでしょう。それに向けての整備なのでしょう。
 あと一ヶ月くらいで、世界中の眼が北海道に注がれるわけですね。われわれにはあまり関係が無いかなぁと思っていましたが、開催が近くなればいろいろな影響が出てきそうです。


第11課  「イエスの復活の力」  6月14日


暗唱聖句  「また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」黙示録 1:18

今週の聖句:マタイ27:62~66、ルカ24:36~39、使徒言行録3:14~16、コリント第一15章、フィリピ3:7~10

今週の研究:墓は空だったのです! そして、この空の墓の中に、すべてのクリスチャンの大いなる希望があります。今週は、イエス・キリストの復活のうちに見られるこの希望について考えます。


日曜日:上にあげたものはどれも、公の出来事です。(マタイ27:50~66参照)マタイによる福音書の書かれた年代(紀元70年以前と信じられている)からすると、目撃者がなお生きていて、これらの出来事を肯定も否定もできたことになります。さらに、もしそれらが虚偽であったなら、宗教権力もそのような要求や主張を黙って見逃すことがなかったはずです。これらの出来事とは、次のようなものでした。
 神殿の垂れ幕が「上から」裂けたこと(その日、神殿で奉仕していた人の中には何かを見た人がいるはずです)、はっきりとした局地的な地震があったこと、死者が生き返り、都の多くの人に現れたこと(このような細かなことを考え出す理由が著者にあったでしょうか)、ローマの百人隊長と兵士たちがそれらを目撃したこと、墓が封印されたこと、見張りの兵が置かれたこと、などです。
 これらは具体的な出来事であって、これといった弁解や擁護なしに書かれています。

火曜日:もし信用に値する何かがなかったなら、死んだ預言者が生き返ったという奇妙な信仰がローマのような異教の帝国に広まるでしょうか。漁師と徴税人の一団が、ほとんど信じてもらえないのに、そのような話を考え出すでしょうか。たとえ考え出したとしても、それを擁護するために家族や友人を見捨て、自分がつくり出した復活のキリストのために自分の命を捨てるほどに強く信じることなど、どうしてできるでしょうか。
 それから数週間後、五旬祭の日に聖霊が注がれます(使徒2章)。ペトロは即席の説教をし、その中で、イエスが復活し、天の父なる神の前に高められ、今も生きておられることを語ります。聴衆の心を引きつけたのは、イエスが生きておられるという驚くべき宣言でした。「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と、彼らは答えました(使徒2:37)。
 復活の強調はこれら初期の信者たちの一時的な熱狂でもなければ、さらによいものが来たときに放棄してしまう一時的な、目新しい経験でもありませんでした。それとは全く反対で、復活は使徒たちの説教の中心テーマとなりました。ペトロをはじめ、使徒たちはその講話の中で繰り返し復活について語っています。

木曜日:新約聖書はイエスの文字通りの、肉体的な復活についてはっきりと教えていますが、自由主義的な神学者の中には科学的、合理主義的な世界観に影響されて、キリストの復活が現実のものであったことに異議を唱える人たちがいます。
 いかに魅力的に思われようとも、このような見解は人間的な考えにもとづいたものであって、キリストの復活が文字通りのものであったとする聖書の明白で、疑う余地のない教えにもとづいたものではありません。
 私たちにとって、神の御言葉を文字通りに受け入れる限り、キリストの復活を比喩として受け取る危険はありません。聖書は、イエスの復活が文字通りの、肉体的なものであったと明白に教えています。ひとたびキリストの復活を受け入れることができれば、私たちは死に直面するときにも希望を見いだすことができます。人生に何が起ころうとも、イエスが復活されたように、私たちも復活するという希望を抱くことができます。この復活の約束によって、私たちはあらゆるものを客観的に眺めるようになります。
 イエスの復活は次の3点を確かなものとしました。(1)私たちの将来はイエスにあって保証されています(Iペト1:3~5)。(2)死は敗北した敵となりました(Iコリ15:20~22)。(3)この福音を伝える力が与えられます(ヨハ14:12、使徒1:8)。


 今週ある集会で、復活の希望について語り合っていました。その時に、ふと頭をよぎったことがありました。
 他の教派では、死んだらすぐに天国へ昇天すると教えています。しかし、すぐに天国へ行っても幸せでしょうか。それはうれしいこともたくさんあるでしょうが、地上で起こる様々なことを見ていると、喜びよりも悲しみが大きくなってしまうのではないでしょうか。

 そればかりか、地獄があると教えている教会もあります。死後、天国へ行けずに地獄へ行くと考えたら、死の恐怖は倍加することでしょう。
 けれども聖書を読むと、死は眠りであり、キリストが再びおいでになる時までは安らかな時なのです。

 いろいろなキリスト教の教派の特徴をまとめた本の中で、SDAは「地獄を信じていない」とありました。ここで言われているいる地獄は、第二の死以降に、永遠に続くと言われる地獄なのか、それとも死後すぐに送られる場所をのことを指しているのかわかりませんが、どちらにしてもわたしたちは地獄があるとは信じていません。
 黙示録の地獄を思わせる記述は、わたしたちは永遠の第二の死を指していると信じています。そして、すべての購いの業が終了した時に、のろわれるべきものは何もないと書かれているではありませんか。(黙示録22:3参照)
 復活の希望は、天国や永遠の命へ至る希望だけでなく、その前にある安らかな眠りの希望へもわたしたちを導いてくれるのです。


北海道  安河内 アキラ