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ラムズ・スタディ

聖書の神様のこと、みんなで学び、同じ目標を確認できたらホントすばらしい。

安息日学校教課  2008 年 第4期7課

2008-11-13 19:55:13 | ディボーション

みなさま

 プロ野球の日本シリーズが西武ライオンズの優勝で終了しました。このシリーズが始まる前は、戦力などが優位な巨人が優勢と言われていました。それだけでなく西武はシリーズ途中で捕手と遊撃手が負傷し・・・・そのような中で、渡辺監督の果敢な采配が光りました。彼は優勝インタビューの中で「後悔をしたくなかった」と述べたのが印象的でした。
 最初から不利、そして途中から起こる問題を前に途方に暮れてしまうことがあります。けれどもその中で最善を尽くして前へ進むこと、与えられた駒やチャンスを最大限に活用することを考えることは、主の働きでも同じではないでしょうか。



第7課  「象徴に見る贖い(2)」  11月15日

暗唱聖句「わたしたちは主のいます所に行き御足を置かれる所に向かって伏し拝もう」詩編132:7

今週の聖句 レビ記16章、民数記18:1~8、詩編28:2、132:7、138:2

今週の研究:今週の研究では、贖罪日の象徴的な意味について、また神の天の住まいであり、宇宙の謁見室であるイスラエルの聖所について学びます。
 さらには、旧約聖書における祭司について、また天の聖所における私たちの仲保者・仲裁者キリストの働きを予表する祭司の執り成しの働きについて学びます。


火曜日:贖罪日の儀式は、罪の問題が解決すること、すなわち日ごとの儀式によリ経験されていた救いの完成を例示していました。聖所の全体、つまり聖所と至聖所は清められねばなりませんでした。「イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに」(レビ16:16)、それらは清めを必要としていました。
 これらの罪は悔い改めた罪人の携えてきた犠牲を通して神の住まいに移されてきました。贖罪日の間に、聖所はもとの清く、聖なる状態に回復されました。
 年に一度のこの日、地上の一角がエデンの園のように、罪と汚れのない場所となりました。年の終わりに祝われるこのエデンへの「回帰」は、イスラエルの民にとって新たな出発となりました。それは宇宙的な調和の新しい始まりを示していました(ダニ8:14比較)。

 贖罪日が国民全体を含む集団的な出来事であるとはいえ、各人には主に全的に献身する上で果たすべき役割がありました。この日、主にあって安息し、主の前に苦行をしない者たちは「民の中から断たれ」ました(レビ23:29)。いかに厳格に思われようとも、その要点は救いの業の厳粛さを強調することにありました。これらの聖句はとりわけ、忍耐して主と共に歩むことの大切さを教えています。

水曜日:「アザゼルの山羊」は救いの手段ではなく、罪と汚れを荒れ野に運ぶための輸送手段です。それはどこからわかるのでしょうか。
 
・第一に、この動物への罪と汚れの移転は、大祭司が贖いの業を終えた後でなされています。
・第二に、この山羊は犠牲としてささげられていません。それは屠られていないので、贖いのための血は流されていません。
・第三に、人々の罪を「運ぶ・負う」とはいえ、イエスのような代理者として、あるいは身代わりとして罪を運ぶわけではありません。

 アザゼルの山羊の儀式は、いわば除去のための儀式です。言い換えるなら、アザゼルの山羊はイスラエルの宿営から、あってはならないもの、つまり罪と汚れを除去する、あるいは取り除く手段です。

 贖罪日の間、主ともう一つの勢力との間に対決がありました。主のための山羊は神を代表しており、アザゼルのための山羊は反対勢力、悪魔、罪と汚れの根源を代表していました。
 贖罪日は、神聖と清めが罪と汚れ、悪の勢力に対して最終的に勝利することを象徴的に宣言していました。
 神はこの儀式を通して、キリストの力によって、死と苦しみから解放され、罪の力からも解放された、新しい被造物が出現する将来を指し示すことによって(黙21:3、4)、御自分の民に希望を注いでおられたのでした。

木曜日:レビ記においては、祭司が仲保者として贖いの儀式を執り行いますが、彼らが罪を贖うわけではありません。儀式が完了した後で、神は赦しをお与えになります(レビ4:26──受動態の動詞は、神が赦しをお与えになる方であることを暗示)。贖いは神が御自分の民のためになされる行為です。神は「その土地と民を贖う」お方です(申32:43、新国際訳──詩編65:4、79:9参照)。贖いを通して、神は御自分の愛を罪人に注がれます。

 贖うという動詞はまた、レビ記の中でさまざまな儀式に関連して用いられていることから、それがたった一つの行為を意味するものでないことは明らかです。
 つまり、贖いはある時点における出来事というよりも、むしろ一つの過程を意味します。年間を通してなされる聖所の活動の全体、つまり日ごとの犠牲(レビ5:10)から贖罪日(16:34)、そしてそれらの間におけるすべての儀式が贖いとして理解されていました。
 言い換えるなら、贖いとは、犠牲の行為、祭司の執り成し、贖罪日における罪と汚れの最終的な処理を含めて、年間を通してイスラエルのためになされた神による清めの行為の全体をさすものでした。このようにして、キリストが私たちのために行っておられる贖いの業の包括的な性質が予表されていたのでした。


 旧約聖書の時代の「贖罪の日」は、どんな一日だったのでしょう。それは第7の月の10日でした。今日の9~10月ころのことです。
 そしてこの5日後からは仮庵の祭が始まります。この祭は「収穫祭」と呼ばれて、荒野で主が導かれたことを思い出しながら、今年一年の収穫を感謝する喜びの祭でした。その前に贖罪の日が設けられていたのです。
 農業のサイクルで考えると、秋蒔き小麦を蒔くことが一年の始まりと考えたら、収穫が一年の終わりとなります。神さまは一年間の働きを終えて、喜びと感謝の時を、罪の赦しが与えられた後に設けられたのでした。

 この日は安息日と呼ばれて、第七日安息日とは別の意味での特別な一日、安息日でした。話しが飛びますが、コロサイ2:16で「安息日のことで批評されてはならない」とパウロが勧めているのは、第七日安息日が廃止されたのではなく、旧約聖書の中の様々な儀式のための安息日のことを指しています。この贖罪の日の安息日などがコロサイの勧めで示されている安息日です。

 この日は、仕事を休んだだけではなく、苦行をするように命じられています。(レビ16:29参照) この苦行は、聖書の他の場所を見ると、断食であることがわかります。(イザヤ58:5参照) 旧約聖書の律法の中で、断食を求めているのはここだけです。

 そして一年間の様々なことを、一年の農作業の終わりに、神さまの前で思い返し、赦しを求めるのでした。
 その中には、まだ和解していない罪があったかもしれません。また、あやまっておいた方が得策だと思われるものもあったでしょう。何よりも、心の中だけで思った罪は数知れません。そして気づかない罪も山ほどあるでしょう。
 きっとこの時は、あの罪とこの罪を赦してくださいという祈りでは到底終わることが無い自らの罪深さに気づき、最終的にはすべてをおゆだねすることしか解決策が無いことを教えられるときだったのかもしれませんね。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第4期4課

2008-10-24 20:36:45 | ディボーション

みなさま

 先週の日曜日、三育大学の開学記念式典へ参列しました。日本でSDA教育が開始されて110年くらいが過ぎました。そしてその働きの結実として大学を開学するまでに至りました。そこに至るまで紆余曲折があり、いろいろな話しをうかがいながら、ほんとうに可能なのだろうかと思ったときもありました。けれどもこの時を与えられました。

 けれども大切なのはこれからではないでしょうか。式典後、引き続き三育学院で開かれた大伝道委員会の最初に、上田学長がご挨拶くださり、その中で「今日の式典は、わたしたちが表そうとしていることを表現しようと考えて、できるだけ礼拝形式をとりました」とおっしゃっていただいたことに深く感銘を受けました。
 神さまがお建てくださった学校のことを覚えて、これからもお祈りしてまいりたい思っています。
 また10月末から11月にかけて、全国の三育教育機関では、児童生徒の募集が行われます。特に今年は11月1日が土曜日です。おおむね全国の私立幼稚園の募集が解禁されるのは1日です。三育幼稚園の対応は、1日の夕方からか翌日にするか対応はまちまちのようですが、出遅れることだけは確かです。どうかこの働きのためにもお祈りください。


第4課  「贖いと神の主導」  10月25日


暗唱聖句「秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」(エフェソ 1:9,10)

今週の聖句 ローマ3:19~22、5:6~8、5:20、21、エフェソ1:4、コロサイ1:26、27、テモテ第二1:8、9、テトス1:2

今週の研究:人間は道徳的自由を与えられていました。これは、神が地上に創造されたほかのいかなる生き物にも見られないものでした。人間はこの自由を用いて、愛と感謝、心からの服従をもって神に従い、積極的に神に応答することもできれば、この自由を用いて、命の賜物を拒み、主に背くこともできました(結局、もし人間に反逆する選択肢がなかったなら、彼らは本当の意味で自由とは言えなかったでしょう)。
 反逆という恐るべき可能性を予見しておられた神は、それに応じて行動されました。こうして、人間が創造されるはるか昔から、また悪と罪が実際に生じる前から、救いの計画が神の御心の中に立てられていました。それはイエス・キリストの人格と働きに中心を置く計画でした。


火曜日:人類の堕落後、神は私たちを救う義務を負わせられたわけではありません。しかし、神は私たちを救おうとされました。しかも、神にとって途方もない犠牲をともなうこの決定は、後から思いついた考えではありませんでした。
 新約聖書は神の秘められた計画についていくつかのことを啓示しています。

・第一に、神の秘められた計画は「天地創造の前に」立案されました(エフェ1:4)。このことは、人間が罪に陥るずっと以前に、三位一体の神がこの問題に対処する計画を立てておられたことを暗示します。
 
・第二に、この神の計画は「世の初めから代々にわたって隠されて」いました(コロ1:26)。この計画はあらかじめ形づくられていて、しかも特定の時に施行されるように決められていました。この意味において、それは代々にわたって神のうちに隠されていました。
 
・第三に、この秘められた計画は具体的にはキリストをさしていました(コロ1:27)。このことは、罪深い人類のためのキリストの位格、その奉仕、死、復活、執り成しについての秘められた計画をさしています。これが基本的に、キリストによる救いの福音、キリスト教の福音です(エフェ6:19)。
 
・第四に、この計画をより明確に定義すると、「天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめ」るための神の目的です(エフェ1:10)。この計画は罪によって損なわれた宇宙の調和をキリストによって回復することでした。この計画の効果は、教会の中で異邦人とユダヤ人が一致することにおいてすでに現れていました(エフェ3:6)。
 
・第五に、天地創造の前に三位一体の神のうちにひそかに立案されたこの計画は今、キリストの来臨を通して人類の歴史に現されました。

水曜日:神はいくつかの方法で人間の反逆に対処することがおできになりました。直ちにアダムとエバを、そして地球を滅ぼすことがおできになり、また、彼らをその運命にまかせ、見捨てることもおできなりました。つまり、罪の必然的な結果である永遠の滅びにゆだねることもおできになったのです。

 しかし、神に不可能なことが一つありました。それは、彼らの反逆を無視し、あたかも何事もなかったかのように振る舞い、彼らの関係を以前のように存続させることでした。

 結局のところ、神はどうされたでしょうか。神は彼らを滅ぼすことも、彼らを見捨てることも、彼らを無視することもされませんでした。代わりに、神はキリストによる永遠の救いの目的を実行されたのでした。
 ひとたび神が私たちを救おうと決意されたとき、その方法については選択肢がいくつもあったわけではありません。事実、一つしかありませんでした。罪はキリストの受肉と奉仕、死、復活、執り成しによってのみ解決されるのでした。私たちが永遠の滅びを免れるためには、イエスが私たちのために御自身を「献げる」必要がありました。私たちが救われるためには、キリストの受肉と死が不可避でした。言い換えるなら、天国への道はただ一つ、十字架上のキリストの心臓を貫いて通っているのです。

木曜日:これらの聖句のほとんど(ルカ4:43、9:22、17:25、19:5、22:37、24:7、26、44)に、「~する必要がある」(ギリシア語で、“デイ”)と訳すことのできる動詞が含まれています。この動詞はイエスの生涯における非常に重要な側面を表しています。イエスの全生涯はその使命を達成するために成し遂げる必要のあることによって方向づけられていました。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない[行う必要がある]」(ヨハ9:4)。
 公生涯の始めにおいて、イエスは弟子たちに次のように言っておられます。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」(ルカ4:43)。イエスの働きは明らかに、人類の救いのための神の計画を達成するための意志によって決定づけられていました。
 イエスの生涯のすべての側面はこの計画の一部でした。たとえば、イエスはザアカイに次のように言っておられます。「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい[わたしは泊まる必要がある]」(ルカ19:5)。


 贖い、それは神さまの愛から出たすばらしい恵みである、これが今週の学びの中心でしょう。
 恵みを受けた時、それに対してわたしたちがどのような姿勢を取るのかが重要ではないでしょうか。そこで下記の聖句が思い浮かびました。

 マタイ18:21~の「仲間を赦さない家来のたとえ」で1万タラントンを帳消しにされた男が100デナリオンを貸している仲間をゆるすことができなかったというたとえばなしです。
 1デナリオンは一日分の賃金だったようなので、100デナリオンだったから、今日の金額して50~100万円くらいでしょうか。これは多少のまとまったお金で・・・おいそれとゆるしてはあげられない金額かもしれません。
 1万タラントンは、1タラントンは6000デナリオンです。それの一万倍となるわけですから・・・これは億を越えて兆の単位となってしまいます。
 
 これは現代にあてはめると、大きな事業をしていた人が、様々な要因で倒産してしまいました。本人の経営判断に誤りもあったでしょうが、為替の変動や金融危機などに巻き込まれ・・・彼の心中には不運だったという思いもあったかもしれません。
 破産法の適用により、借財からの責任からは逃れました。これだけ大きな事業をしていたのならば、100万円くらいの未集金があるような顧客もいたでしょう。たまたま彼はそのような一人に出会ったのです。
 このような目に遭ったのも不運、災難と思っていたとしたら、赦されたというよりも責務からの解放だけにしか考えが及ばず・・・そしてこのような未収金がたまって事業が立ち行かなくなったという思いもあり、100万円の貸しをゆるせなかったのでしょう。

 赦された人間が、その原因に真摯に向き合わねば、赦された目的がその人のものにはなりません。赦された罪の原因が、わたしにあるとほんとうに考えていたら、わたしたちの態度は変わっていくのではないでしょうか。けれども罪の要因を他に求めている限り、改変は起こりません。聖霊は、あなたの心を変えてくださいます。それはまちがいを指摘して、あなたがそれを受け入れ、心からの悔い改めをする時に、あなたの心は変えられるのです。
 

北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第4期3課

2008-10-18 23:57:04 | ディボーション
みなさま

 世界経済の問題が毎日報道されています。為替や経済の変動は、様々な生活物資などの価格にも影響があり、無関係とは言えませんが、投資などをしていなければ直接的な影響はありません。投資家の方が「夜も眠れないよ!」と語っているのが印象的でしたが・・・・持っていないわたしは安心して眠れます。お金があればあったで苦労が多いのでしょうね。 
 わたしたちが最終的に頼りにできるものは、社会保障、保険やお金でもなく天地を創造された神さましかありません。


第3課  「堕落」  10月18日

暗唱聖句 「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」ローマ 7:24

今週の聖句 創世記1~3章、ローマ3:9~18、5:10~21、6:16、ペトロ第二2:19

今週の研究:この堕落の結果は悲惨なものでした。事実、キリストによる私たちのための贖いの約束がなかったなら、絶望そのものだったでしょう。しかし、私たちはなお人間に何が起こったのかを見てみる必要があります。なぜなら、私たちが自分自身の実際の姿をながめるときにのみ、救いの功績と力をともなった十字架の栄光を理解することができるからです。


日曜日:創世記1~3章にアダムとエバの罪を描写する「反逆」という言葉は用いられていませんが、思想そのものは存在します。彼らは公然と神の命令に背いたばかりでなく、その反逆の過程においても、忠誠心を変えています。
エバは敵の論法に耳を傾け、それが神の明白な言葉よりも信頼できると考えました。彼女は、神の命令があまりにも制限的であって、自分の最高の潜在能力を達成するためには、創造主からの独立を主張する必要があると判断しました。これが反逆でした。アダムは神の声の代わりに妻の声に聞き従い、彼女と反逆を共にしました。

 アダムとエバの反逆は、彼らが初め神と享有していた親密な関係に終止符を打ちました。彼らの反逆は必然的に、彼らと神との関係だけでなく、彼ら相互の関係をも分断しました。神に対する彼らの反逆は、相互の愛と献身の代わりに相互の恥辱をもたらす結果となりました(創3:7)。彼らの個人間関係は調和を失いました(12節)。とりわけ、この反逆は彼らを神から引き離し、彼らにとって神が恐れるべき存在、逃れるべき存在であるという観念をもたらしました(8~10節)。神と人間を一つに結んでいた愛と調和が失われました。何らかの和解の行為が必要とされていました。

火曜日:罪の堕落的な力は限界を知りません。神だけがその堕落的な影響力に歯止めをかけ、最終的に宇宙から根絶することがおできになります。もし、堕落後も、この地上に善なるものが残っていたとするなら、それは神がサタンの全面的な支配をお許しにならなかったからです。
 神は人類の代表としての女に、また悪の権力の現れとしての蛇に対して、次のように言われました。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に わたしは敵意を置く」(創3:15)。この約束のゆえに、もし人間さえ望むなら、彼らが悪を憎み、命を選ぶ自由が残されていました。
 神が罪の堕落的な力に制限を加えることが可能となったのは、神が人間の苦境に介入される決定をされたからでした。人間は罪によって生じた恐ろしい状況から逃れる道を必要としています。

木曜日:主が彼らに近づかれたのは、彼らの犯した罪を彼らと共に評価し、それに対して審判を下すためでした。審判の過程で質問がなされ、答えが与えられていますが、神はそれによって彼らがまさに有罪であって、その反逆は正当化されないことを彼らに認めさせようとしておられました。その結果は、エデンの園からの追放に象徴されているように、主からの分離でした。

 神の怒りについて語るときには、いくつかのことを心にとめる必要があります。

 第一に、人間の怒りは神の怒りを理解するための尺度にはなりません。人間の怒りはしばしば不合理で、人を傷つけるものです。神の怒りは罪とは無関係で、おもにいやしを目的としています(ヘブ12:6、黙20:15~21:1)。
 第二に、人間の罪に対する神の怒りは、神が私たちのことを真剣に考えておられること、また神が反逆した私たちをも無視されないことをあかししています。人を無視することは軽蔑や無関心といった態度に現れます。神が私たちの罪に反発されるのは、私たちが神にとって重要な存在であることのあかしです。
 第三に、神の怒りは神の永続的な態度ではなく、むしろ不条理な罪と悪に対する神の反発です。それにつねに理由があって、罪が神の怒りを引き起こします(申4:24、25)。神の愛が永続的であるのに対して、神の怒りは一時的です(イザ54:8)。
 罪のゆえに、必要とされたのは私たちを「来るべき怒り」(Iテサ1:10)から救うことのできるお方でした。


 アダムとエバは、エデンの園を追われてから、どんなにかあの一瞬を思い出して後悔したことでしょう。そしてその結果、多くの罪の醜いできごとが起こっていくたびに、その原因は自分たちにあることを思い涙を流したことでしょう。
 誘惑されている時は、そこから引き起こされる悲惨な結果について気づきません。ただその甘美な誘いに欲望が刺激され誘われて惹かれて行ってしまいます。
 そしてその結末に遭遇した時、人間は罪の結果を知り、悲嘆に暮れます。まさに今週の暗唱聖句のパウロの叫びではないでしょうか。

 神さまはわたしたちの罪を赦すとはっきりとおっしゃっています。けれども罪は赦されても、その結果を刈り取らねばならないことが多々あります。これはある時は辛く苦しいことでしょう。
 けれども神さまがそれを許された以上、そこから必ずや何かを学び取ることができると信じて、転んでもただでは起き上がらないというようなたくましい信仰を持ち続けて行きたいものです。


北海道  安河内 アキラ


安息日学校教課  2008 年 第4期2課

2008-10-10 19:56:11 | ディボーション
みなさま

 今年は日本から一度に4名のノーベル賞受賞者が誕生しています。それも基礎的な研究が評価されているようです。
 受賞されたある学者が「発見だけではなく、それが活用されることにより、初めて評価されるもの」と、感想を述べられていたのが印象的でした。
 どんなにすばらしい発見でも、わたしたちの日常に活用され、初めて社会に貢献できるものです。
 わたしたちも人生の出会いから、いろいろな新しい発見があるでしょう。けれどもそれを自分ひとりのものとしてしまっておくのではなく、みなさまの幸せのために活用しなければ意味がありませんね。



第2課  「宇宙の危機──神の秩序の崩壊」  10月11日

暗唱聖句 「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」コロサイ1:17

今週の聖句 創世記3:4、5、エゼキエル書28:14~17、イザヤ書14:13、14、ヨブ記1:8~11、黙示録12:7~9

今週の研究:ルシファーのうちの対立する感情が、神から与えられた自由を誤用することと結びついた結果、宇宙規模の戦い、神に対する徹底的な反逆となって、数えきれない被造物に苦しみと死をもたらしました。今日、私たちはみな、この戦いの結果に苦しんでいます。
 しかし、失望するには及びません。これからの研究で学ぶように、キリストはこの宇宙の危機をもたらした論争を公平に、正しく解決するために来られたのです。


日曜日:永遠である神とは異なり、悪と罪には始まりがありました。言い換えるなら、悪と罪の存在しなかった時がありました。神は愛にして聖であるゆえに、また神の創造されたものはすべて善であるゆえに、罪は神のうちに始まったのではありません。
 このケルブ、ルシファーの堕落は、神から与えられた美と知恵の賜物を誤用するという利己心に根ざしていました。不可解にも、彼が自分の感情と思いを理性の上に置いたために、その完全さが失われました。「栄華のゆえに知恵を堕落させた」(エゼ28:17)。神の秩序に留まって、他者を祝福するために自らの賜物を用いる代わりに、彼は自分が美と光輝、知恵においてほかのだれよりもすぐれていると考えました。「徐々に、サタンは自己高揚の欲望をほしいままにするようになった。こうして、神の確立された秩序が崩壊した」(エレン・G・ホワイト『私を生かす信仰』66ページ)。

月曜日:エバを神に背かせるために、サタンは神の品性を攻撃しようとしました。神はもともと利己的な存在であり、知的存在者たちの発達を制限し、死をもって脅して、彼らに強制的に服従を強いているのだと言うのです。神は愛の神ではなく、見せかけの愛の裏に真の性質を隠しているのだ、と。サタンは自分自身の偽りに満ちた性質と堕落した心の真の意図とを神に投影していました。神と神の愛の性質に対する天でのサタンの攻撃は今、この地上に舞台を移そうとしていました。
 「もしルシファーが、ほんとうにいと高き神のようになろうと望んだのだったら、彼は決して天における自分の定められた地位を捨てなかったであろう。なぜなら、いと高き神の精神は、無我の奉仕のうちにあらわされるからである。ルシファーは、神のご品性を望んだのではなくて、神の権力を望んだのであった」(『各時代の希望』中巻211、212ページ)。

火曜日:創世記2:17は、アダムとエバに対する神の愛の、また彼らと永遠に交わりたいという神の強い願望の明らかな表現でした。彼らが死を経験することは明らかに神の望まれるところではありませんでした。そうでなければ、彼らに死の可能性について警告されるはずがありません。
 自由な存在者として創造されたアダムとエバは、彼らが自由意志にもとづいて創造主との永遠の交わりを望んでいることを実地に示さねばなりませんでした。そして神の命令に従うことによって、その神との永遠の交わりの選択を示すのでした。サタンが攻撃し、妨害するのは、このはっきりと現された神の御旨です。代わりに、彼は神からの全面的な「独立」を提案します。神の命令から自由になること、だれに対しても責任を負わないで自由に振る舞うこと──これが天における彼の基本的な目的でした。

木曜日:ゆっくりと、しかも不可解な方法で、サタンの利己的な感情は神と神の御子に対するあからさまな攻撃の態度へと変わっていきました。初めのうちは隠されていたものが、やがて目に見えるものとなり、混乱と無秩序を生み出しました。天において、戦いが起こりました。これが、私たちを巻き込んでいる宇宙の戦いの始まりでした。
 サタンとその支持者たちは天において、十字架において敗北し、適当な時期に宇宙から根絶されます。罪の問題が解決するとき、堕落した人類は完全で永続的な神との一致に回復されます。同時に、神の被造物全体が完全な道徳的調和を取り戻します。


 今週の学びをしながら、今まで考えていなかったことを考えさせられました。それはなぜルシファーは神さまに反逆したのでしょうか?自分を高めたいと思ったという理由は書かれていますが、なぜ自分を高めたいと思ったのでしょうか。
 彼らは完全な存在として作られたはずです。わたしたち罪深い人間がそのような思いをいだいてしまうのは簡単なことですが・・・彼らは完全で、そして神さまの聖なる姿をまのあたりにしているのです。それでもなぜこのようなことになってしまったのでしょうか・・・。この答えは天国へ行かないとわからないでしょうね。

 わたしたちが現在覚えておかねばならないことは、目に見えない世界があり、そこで善と悪の戦いが行われていること。それがあなたの心の中では、良心への語りかけとして、また欲望への誘惑として表れます。
 わたしたちがどちらを選ぶかです。戸を叩いてくださる神さまを常に招き入れるようにしたいものです。
 そして誘惑に負けてしまったとしても、立ち返えるように導いてくださり、そして罪を悔い改めて赦しを求める魂を救ってくださる神さまであることを忘れないでください。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第4期1課

2008-10-03 20:22:31 | ディボーション

みなさま

 今年も最後の安息日学校教課を手にしています。一年が過ぎるのは早いですね。
 暑さ寒さは彼岸までと言われますが、10月の声とともにすっかり秋が深まり、特に夕暮れが早くなってきましたね。
 教課の巻末にある、日没時刻の表を見ていると、札幌は10月から11月初旬で約1時間短くなるので、沖縄では、これから冬至まで30分くらいしか短くならないんですね。北海道では、この一ヶ月に急速に日没時間が早くなっていき、11月下旬には午後4時ころになってしまいます。

 夏至のころは札幌と沖縄の日没は10分くらいしか差がありませんが、冬至には1時間40分にも開きます。日本列島が南北に長いということがわかりますね。



第1課  「神の性質──贖いの基礎」  10月4日


暗唱聖句 「わたしは初めから既に、先のことを告げ まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成りわたしは望むことをすべて実行する」イザヤ書 46:10

今週の聖句 詩編139:1~4、イザヤ書46:10、ヨハネ1:4、ローマ5:8、8:37~39、ヨハネ第一5:11、12

今週の研究:今週から救いの教理について学びますが、そのためにはまず、私たちの救いの原動力となったのが神の偉大さと愛であることを認める必要があります。神が御子において私たちのための業を成し遂げてくださったのは、御自分以外の者に強いられたためではありません。神がこの堕落した世界に御自分の愛と恵みを注いでくださったのは神の性質そのもののゆえでした。


月曜日:「神は愛です」という言葉は神の本質を明らかにしてくれます。
(1)「神は愛です」とは、神の本質を探究すると、それが本質的に愛であることが明らかになることを意味します。神の性質についてのこの理解は贖いの教理においてきわめて重要です。
(2)「神は愛です」とは、神が関係的なお方であることを意味します。神は本質的に御自分の被造物との交わりをお喜びになります。神が御自分の愛を啓示されるのはまさにこの個人的な相互関係においてです。神が私たちを愛するか否かを知ろうと思うなら、自分の思いや感情を調べるのでなく、神が罪深い私たちをどのように扱われたかを知ることです。
(3)「神は愛です」とは、神が御自分以外の何かのゆえに私たちを愛されるのでないことを意味します。神は本質的に愛であるゆえに、私たちが神に受け入れられるために自らを愛される者とする努力は不必要、いや不可能です。言うまでもなく、救いの計画以上に私たちに対する神の愛を啓示するものは何もありません。
 事実、私たちが罪に陥った瞬間に、キリストは私たちの仲保者、贖い主、救い主となられました。これは堕落した人類に対する神の愛の最高の現れです。

火曜日:聖書ははっきりと述べています。神は創造主です。この基本的な真理がなければ、聖書の教えは無意味です。
 一方、神が創造主であるということは、神が被造物とは区別されること、神が創造された秩序の一部でないことを意味します。神が創造主であるということは、神以前、あるいは神の創造行為以前には何もなかったことを意味します(ロマ4:17、ヘブ11:3)。
 神が創造主であるということは、万物が神に属し、その生存を神の力と慈悲に依存していることを意味します(詩編24:1、2、104:10~14)。
 神が創造主であるということは、被造物がその創造主の栄光と力を啓示することを意味します(詩編19:2~4──口語訳19:1~3、ロマ1:20)。

 聖書ははっきりと、神が御子の力によって万物を創造し、支えておられると述べています(ヨハ1:1~3、ヘブ1:2、3)。贖いはこの被造世界に生じた罪の問題に対する神の解決法です。神は、私たちが罪と反逆の最終的な結果である永遠の滅びを刈り取るにまかせる代わりに、救いの計画を立てられました。

木曜日:神は全知です。「神は……すべてをご存じだからです」(Iヨハ3:20)。神に隠されているものは何ひとつありません
 主は現在のことを知っておられるだけではなく、将来において起こることをも完全に知っておられます(イザ46:10、マタ26:34、74、75)。過去や現在と同じく、将来も主から隠されてはいません。

 神が全知であることは贖いの教理にとって非常に重要な意味を持ちます。神はすべてを知っておられるゆえに、神にとって罪は不意に生じたものではありませんでした。
 御自分の被造物を完全に知っておられる神は、御自分のケルビムの一人が堕落することを事前に知り、罪が人間のうちに発生する前から、罪の問題を解決する計画を立てておられました。「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(ロマ5:20)。この意味で、人間を救う神の決定は永遠に隠されていて、キリストにおいて啓示されたのでした。それは、「世々にわたって隠されていた、秘められた計画」(ロマ16:25)であり、「すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画」(エフェ3:9)です。
 神は万物を創造する前から罪の発生を予見し、罪から逃れる代わりに、それを打ち破る決定を下されました。神の視点からすると、キリストは、「天地創造の時から、屠られた小羊」(黙13:8)です。


 今期は、十字架と贖いについて学びます。キリスト教の中心となる教理について学びますが、教課の序言に贖いについてまとめてあります。

・贖いとは何でしょうか。一般的には、贖いとは神との交わりを妨げるものを取り除くことです。ある意味で、贖いは「和解」と同じ意味ですが、それはまた「償い」という思想を含みます。
 この償いという奇抜な言葉は神と私たちとの間にある障害物を取り除くという思想を描写するものです。


・贖いの教理は唯一の償いの手段としてのキリストの犠牲を強調するものです。このキリストの犠牲によって私たちと神とのあいだの障害物、すなわち罪が取り除かれ、私たちは神と和解するのです。


・神についての聖書の教理を正しく理解することもまた、贖いを理解する上で欠かせません。私たちがイエス・キリストを通して神との一致・交わりに回復されるのを可能としたのは神の愛でした。私たちは決して、キリストの死が神に私たちを愛するように仕向ける上で必要であったという印象を与えてはなりません。
 神がキリストを私たちに代わって死ぬために遣わされたのは、神がすでに私たちを愛しておられたからです。贖いについての聖書の教理は罪深く反逆的な人間に対する神の愛に根ざしています。


・贖いの恵みの豊かさにあずかるのは、聖霊の感化を受けた後で、赦しと回復の唯一の手段としてのキリストの救いを受け入れる人たちだけです。彼らの心はこの無限の犠牲を可能としてくださった神とキリストに対する愛と感謝で満たされます。


 神さまとの罪という障害を取り除くためにキリストが償いのとなってくださった。その結果、わたしたちが神さまのこどもとして歩むことができるようになった。
 これはわたしたちに価値があるのではなく、ただ神さまの深い愛によるものです。
 
 わたしたちのできることは、その愛に応答することしかありません。今期は、わたしのできる神さまへの応答が何なのか、問いかけて行きましょう。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第3期13課

2008-09-25 20:31:47 | ディボーション

みなさま

 先週は一週間、北浦三育中学校で祈祷週のご奉仕をさせていただきました。神さまを愛して、一生懸命に勉強しているこどもたちと、彼らのために懸命に祈り、教えていらっしゃる先生方のお姿に深く感銘しました。

 この時期のこどもたちには、家庭が社会が何を与えるかでまったく異なるこどもに成長することを、一週間彼らと接して感じさせられました。そのような意味でも、この時期を寮生活で過ごすことの意義を強く感じました。
 わたしたちの教会の、次世代の若者たちを育てる教育機関のために、もっと祈りを持って支えて行きたいと願いつつ帰宅しました。



第13課 「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください─預言者イザヤ」 9月27日


暗唱聖句「そのとき、わたしは主の御声を聞いた。『誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。』わたしは言った。『わたしがここにおります。わたしを遣わしてください』」イザヤ6:8


今週の聖句 レビ記16:30、17:11、イザヤ書6:1~10、49:6、エレミヤ書3:22、マタイ28:18~20、ヘブライ1:2

今週の研究:イザヤの使命の中心は南のユダ王国を改革することでした。彼は罪と堕落を、また神に対する国家の反逆を糾弾しました。しかし、イザヤの使命はユダ国内の改革に留まるものではありませんでした。
 その後、全世界に及ぶこの大いなる使命の幻は見失われます。全世界に対するこの福音の幻が行動に移されるのは、イエス御自身の働きと使徒言行録にある使徒たちの働きにおいてでした。それは、現代の私たちも参加するように求められている使命にほかなりません。


日曜日:イザヤは幻のうちに天の謁見室に移され、そこで神御自身が「高く天にある」(イザ6:1)御座に座しておられるのを見ます。神の謁見室についての幻の中で、イザヤは驚くべき光景を見せられます。
 「王なる万軍の主」の幻に応答して、イザヤは次のように叫びます。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザ6:5)。
 「滅ぼされる」に対応するヘブライ語の“ダマー”は「切り取られた」、または「終わった」を意味します。英語欽定訳は同じ語を「消滅する」(詩49:12、20)、「滅ぼされた」(ホセ4:6)と訳しています。このことから、それが完全にイザヤを圧倒する経験であったことがわかります。イザヤは神についてのこの幻によって、自分が創造主とは対照的にいかに取るに足らない存在であるかを理解したのでした。

月曜日: イザヤが告白するとすぐに、セラフィムのひとりが天の祭壇から炭火をとり、それを手にイザヤのところに飛んで来て、それで彼の口に触れます。
 汚れた唇の人、イザヤ自身には、神にささげるものは何ひとつありません。しかし、主御自身の働きによって、イザヤの罪は赦されました。「赦された」と訳されているヘブライ語は“カファール”から来ており、これはふつう旧約聖書の中で「贖う」または「贖い」と訳されています(出29:36、30:10、レビ16:30、17:11参照)。イザヤは、神の介入がなければ、そして自分の罪が赦され、覆われることがなければ(カファールには「覆われた」の意味もあります──創6:14参照)、主のために何もできなかったでしょう。彼はまず神と和解する必要がありました。そのとき初めて、主によって用いられることができるのでした。

火曜日:神からの召命を聞いたとき、イザヤは直ちに、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と応答しています(イザ6:8)。彼がなすべきことを詳しく知る前に召命に応えていることに注目してください(ヘブ11:8参照)。
 イザヤが応答したのは、自分が必要な賜物・タラントを持っていると信じたからでもなければ、よい仕事ができるという自信があったからでもありません。その任務が気に入ったからでもありません(彼はどんな任務であるかさえ知らなかった)。彼が応答したのは、自分に価値がなくても、神に価値があることを知っていたからです。彼は無力であっても、神は全能です。それは、彼自身が選んだ使命でなく、神の選ばれた使命です。

 もし私たちが喜んで受けるなら、神は御自分の使命を達成するために必要な力を与えてくださいます。神はイザヤの汚れた唇を清められました(イザ6:7)。神はマリアに聖霊と「いと高き方の力」(ルカ1:35)を与えられました。イエスはペトロのために祈られました(ルカ22:32)。イエスはサウロに聖霊を注がれました(使徒9:17、18)。イエスはエレミヤの口に言葉を授けられました(エレ1:9)。地上歴史のこの重要な時期に、それ以上のものが私たちに与えられないはずがありません。


 今週はイザヤの、預言者として働きについてではなく、召命についての学びです。教課研究をなさる前に、必ずイザヤ書6章をお読みになってから始めてください。(もう開始している方は、できれば毎回の学びの前に)
 そこでまず気づかされたのは、日曜日の問2でした。ここで神さまや天使に会った人が、その後どのような反応をするか学びます。モーセ、マノア(サムソンの両親)、ヨブ、ヨハネなどの例が出てきますが、一様に神さまのいかに気高く、すばらしい方であるか、そして対照的な自らの罪深さを思う時に、自分は汚れているゆえに死ななければならないと述べているのです。
 わたしたちは、いつもそばにいてくださるイエス様、そして迷子の羊をさがしてくださるような愛の神さまの姿を信じていますが、同時に神さまは聖なる方で、わたしたちとは天と地ほどの差があるお方であることも忘れてはなりません。

 本物を見ると、自らの力不足なことがはっきりとわかりますね。わたしたちはほんものの神さまをお伝えしているのでしょうか。
 このごろ、わたしたちの教会ではキリスト教的な人生論のようなものが多く語られているように思えてなりません。このような話しは、教会でなくとも聞くことができるのではないでしょうか。
 キリストの十字架、愛、救いなどについて、そして終末が近いことなどを、しっかりと掲げているでしょうか。それでないと、わたしたちアドベンチスト教会の立てられている意義が薄れてしまい、効き目の無くなった塩のように捨てられてしまう時が来てしまうのかもしれません。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第3期 12 課

2008-09-18 19:44:21 | ディボーション

みなさま

 今週一週間、わたしの母校、北浦三育中学校祈祷週のためにご奉仕させていただいています。昔の校舎も残っていて、その空間にいるだけでなつかしくなりますね。
 時代が変わっても、神さまを愛する123名の中学生が学んでいる学校なのです。わたしたちの教会の未来を背負う、純粋な心を抱いている生徒たちと過す時間はかけがえないのない時間を与えられ感謝しています。ぜひわたしたちの学校で学んでいる生徒たちのために、先生のためにお祈りください。


第12課  「奉仕のための賜物──フィリポ」  9月20日


暗唱聖句「群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った」使徒言行録 8:6

今週の聖句 使徒言行録6:3、8章、ローマ12:6~8、コリント第一・12:1~11、27~31、テモテ第一・3:8~12

今週の研究:今週は、フィリポの感動に満ちた生涯と使命について学びます。奉仕の働きに召されたとき、彼の世界観は180度転換しました。初代教会の7人の執事の1人であった彼の生き方は全く予期しないものでした。彼自身はサマリアに、間接的にはアフリカ大陸にイエスの福音を伝えました。
 私たちは彼の生き方から何を学んだらよいでしょうか。


月曜日:フィリポが聖書の中に再び登場するのは、ユダヤの北にあるサマリアにおいてです。イエスは、御自分の弟子たちがエルサレムにおいて、さらには「ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで」宣教師になると、預言しておられました(使徒1:8)。フィリポの働きもこの預言に含まれていますが、その方法はたぶん、彼もほかの信者も予想しなかったものだったでしょう。
 フィリポは教会指導者によって宣教師としてサマリアに遣わされたのではありません。彼の派遣は未開拓地に福音を伝えるための初代教会の「グローバル・ミッション」計画の一部ではありませんでした。
 ステファノが殺害された後、キリスト教会に対するサウロの迫害はますます激しくなり、12人の使徒を除くすべての信者が散って行きました。ここに、地下教会の歴史における最初の実例を見ることができます。このとき以来、神に従う多くの人々がその信仰のゆえに地下に追いやられてきました。今日も、世界各地に、隠れて礼拝するアドベンチストがいます。
 これは初期のクリスチャンにとって苦難の時期でした。家を捨て、異境の地に散らされ、さらなる迫害の恐怖の中で生きねばならなかったからです。フィリポは4人の娘の父親だったので(使徒21:9)、一家にとっては試練に満ちた経験だったはずです。しかし、どんな困難の中でもフィリポをはじめクリスチャンはイエスの福音を忠実に宣べ伝えていきました。

水曜日:キリストに従う私たちはめいめい、神から与えられた使命を達成するために必要な霊的な賜物を与えられています。霊的な賜物は初期キリスト教会にとって欠かせないものであって、新しい信者の伝道への意欲を燃え立たせるものでした。使徒パウロはコリントの信徒への手紙の中で、霊的な賜物について無知でいてもらいたくないと言っています(Iコリ12:1)。パウロがこの賜物について用いているギリシア語の“カリスマタ”は、それらが私たちにとって分不相応な恵みの賜物であることを強調しています。
 セブンスデー・アドベンチスト教会基礎信条(信仰の大要)第5条は、聖霊の働きについて次のように記しています。「聖霊は……教会に霊の賜物を与え」(『アドベンチストの信仰』97ページ)。これは重要な概念です。賜物は信者を通して与えられますが、実際には教会に与えられた賜物です。霊的な賜物は決して信者個人の利益や祝福のためにだけ与えられているのではありません。それらはいつでも使命や奉仕といった脈絡の中で与えられています。霊的な賜物はより広い教会共同体という脈絡の中で信者に与えられています。教会の世界宣教を助けるためです。
 サマリアにおけるフィリポの経験(使徒8:4~8)は、詳しくは記されていません。神から特別な霊的賜物を与えられた段階で、フィリポは執事フィリポから伝道者フィリポに変わりました。エルサレムで教会行政に携わっていたフィリポが、サマリアで悪霊を追い出し、病人をいやすようになったことは、彼にとって重要な意味を持つ出来事でした。

木曜日:サマリアでの素晴らしい成功について聞いたとき、エルサレムの使徒たちはペトロとヨハネをフィリポと新しい信者のもとに遣わします。二人はフィリポを支援するのにちょうど都合のよいときにサマリアに到着します。彼らはまず、新しい信者が聖霊を受けるようにと祈ります。二人はそれから、フィリポの先の魔術師シモンに対する働きを手伝っています。
 たとえ豊かな賜物を与えられていたにしても、フィリポはなお助けを必要としました。ペトロとヨハネが[彼を助けるために]遣わされたのはそのためでした。一人で主の働きを成し遂げるだけの力や賜物を与えられている人はだれもいません。私たちはみな、ほかの人の助けを必要としています。



 なぜ「迫害があるのでしょう」。神様の働きが、少なくともその期間は後退することはまちがいありません。「三歩進んで二歩下がる」などと悠長なことを言ってはいられないですが・・・
 たしかに弟子たちが、いつまでもエルサレムにとどまっていることは、神さまのみことではなかったでしょう。けれどもフィリポの働きは、万事を益とされると約束が体現しているしるしではないでしょうか。

 わたしたちは今しか見ることしかできません。その中で懸命にわたしのできることをしています。それは必ずしも神さまのみこころに沿ってはいないことがあるかもしれません。けれども、それに気づかずに行ってしまっていることもあるでしょう。
 そのことを心配しても、しょうがありません。わたしたちは気づくことができないのですから・・・何よりも、自分のしていることに自信を持てずに、しり込みしてしまうことは、神さまのみこころではありません。逆に悪魔はそのあたりをついてきて、あなたの弱さを指摘して、あなたが足を踏み出すのをとどめるのです。

 これから先のことで不安があることも多々あるでしょう。けれども「達してたところまで進むよう」に(フィリピ3:16)パウロも勧めています。
 フィリポのように与えられた役割を、遣わされたところで全力を尽くすこと、これが今のわたしたちのできることではないでしょうか。


北海道  安河内 アキラ


安息日学校教課  2008 年 第3期11課

2008-09-12 20:17:48 | ディボーション

みなさま

 天候が急変することが多かった夏が終わり、少し安定した秋の天候が続くようになりました。いかがお過ごしでしょうか。
 しかし政治の世界では、解散風が吹いていますね。物価高、景気の後退などの多くの問題が山積しています。そのような生活の諸問題を少しでも解決してくださる方が選ばれることを祈っています。

 今週末から15日まで、埼玉県の嵐山町において全日本信徒大会が開かれます。恵まれた集会となりますように、また各地から参加される方が無事に集ることができますようお祈りください。 


第11課  「異教の地における宣教──ダニエルと仲間たち」  9月13日


暗唱聖句  「ダニエルは宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心し、自分を汚すようなことはさせないでほしいと侍従長に願い出た」ダニエル書1:8

今週の聖句:ダニエル書1~3章、6章

今週の研究:今週は、何の落ち度もないのに外国に追放された4人のヘブライ人の若者たちの経験を通して、逆境を順境に変えてくださる神について学びます。
 それどころか、彼らの変わらない献身のゆえに、神は彼らを御自分の目的と力についての証人として用いられました。神はまた、燃えさかる炉や獅子の洞窟といったさまざまな試練を通して、ダニエルとその仲間に対する御自分の思いやりを示し、偶像しか知らない異教徒の前に御自分の力を現されました。
 これらヘブライ人の若者たちが現した信仰の永遠の結果を知るのは神だけです。


日曜日:紀元前600年頃に、バビロンの王ネブカドネツァルによって捕囚とされたダニエルとその友人たちの物語については、たいていの人が知っています。これらの若者たちはその忠誠のゆえに、当時最も強大な国であったバビロンにおいて神の計画と使命を推し進めるために用いられました。しかし、別の見方をすれば、ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの物語は彼らの両親による忠実な訓練のあかしでもあります。
 ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの両親は子供たちの運命を予見することができませんでした。しかし、日ごとの、忠実な宗教教育によって、彼らは子供たちの生涯のための強力な霊的基礎を提供しました。
 同じことが今日の両親についても言えます。同時に、絶えず神について瞑想すること、神の奇跡と慈愛を思い起こすこともまた、子供たちと両親にとって大いに祝福となります。子供のいない人、子供を失った人にとっても、絶えず神の実在と慈愛、力を心にとめることは重要なことです。結局のところ、私たちは自分で経験したことのないことを人に伝えることはできません。

水曜日:ダニエルと彼の仲間たちは当時の世界にあって最大の帝国であったバビロンの宮廷の最高位にまで上りつめました。しかしながら、たいていの宮廷がそうであるように、災難が彼らを待ち受けていました。
 ダニエルはすでに神から夢や幻を解く賜物を与えられていましたが(ダニ1:17)、横柄な態度になって、それを当然のこととは考えませんでした。彼は3人の友人たちを集め、共に祈ってくれるように求めました(ダニ2:18)。神の助けがなければ、王の宮廷の詐欺師やペテン師たちと同じ運命になることを知っていたからです。

木曜日:もう2つの大きな試練(王が建てた金の像を拝むことを強要と、王以外を拝んだ場合は獅子の穴へという政令が出されたこと)がダニエルと3人の友人たちに公の場で、また影響力のある方法でまことの神をあかしする機会を与えます。
 ダニエル書3:28~30を読むと、王が目の前の光景にどれほど驚嘆したかがわかります。王はなお多くのことを学ばねばなりませんでしたが、これらの若者たちの信仰を通して、生ける神についての力強いあかしが異教世界に広まりました。
 獅子の洞窟におけるダニエルの物語(ダニ6章)を読んでください。これは新しい王国において起こったもう一つの信仰の試練です。
 二つの物語の中で、もしこれらのユダヤ人たちが自分の命を救うために妥協していたらどうなっていたか想像してみてください。どちらの場合も、もっともな理由をつけて安全な道を選ぶことができたはずです。しかし、彼らは忠誠を貫き、結果としてまことの神を広くあかししました。


 イスラエル王国、ユダ王国の歴史は、偶像崇拝に誘われる民を、神が愛して導かれる歴史でもあります。
 ユダ王国には、しばしば神さまに従い善政を行った王がいました。その最後の改革者はヨシア王でした。(列王記下23:25参照)彼は31年間王位につき39歳でエジプト王との戦いにおいて戦死しました。
 その後の王は、まこと神さまに従わない王が続き、ユダ王国は滅亡への道を歩みます。
 次のエホアハズ王は短命で(在位三ヶ月)、その次のエホヤキム王の時代に、バビロンのネブカデネザル王の、第一回目のエルサレム侵攻があり、このときにダニエルと仲間たちがバビロンへ連れて行かれたようです。

 当時、青年だったダニエルは、ヨシヤ王の善政の時代に育ちました。彼らはまことの神さまのことをしっかりと学んで育ったのです。
 ところが王が変わると、国には偶像礼拝がはびこりました。神さまは、そのような状況から彼らを救うためにバビロンへ移されたと書かれた文を読んだことがありました。
 神さまの深い知恵と導きは、敗戦という過酷な状況をも、愛するこどもたちを救うための方法となさいます。まさに「万事を益とされる」とはこのことではないでしょうか。

 今日も同じように働いてくださる神さまの導きを信じて、火のような試練の中にあっても、また暗闇の中を歩むような時でも、神さまがともにいてくださること、必ず導いてくださることを信じる時、わたしたちは平安に歩むことができるのです。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第3期10課

2008-09-05 21:23:59 | ディボーション

みなさま

 突然の無責任な投げ出し・・・内政外交に難題が山積しているのに・・・国民のことを考えず、自分たちの再選や権力維持のことしか考えていない政党、日本はこれからどうなってしまうのでしょう。 けれどもこうなってしまった以上、少しでも平和のために貢献し、また福音宣教を妨げることがない指導者が選ばれるように祈って行きたいと思います。


第10課  「宣教と女性たち」  9月6日

暗唱聖句「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」ルカ7:47

今週の聖句:ルカ8:41~56、ヨハネ4:1~42、使徒言行録16:14、15、18:1~3、24~28、ローマ16:3~5

今週の研究:新約聖書には、イエスが女性たちをどのように扱われたかが記されています。同時に、多くの女性がイエスに従い、イエスを経済的に助け(ルカ8:1~3)、イエスの世話をしました(マコ15:41)。イエスもたびたび女性たちに奉仕しておられます。イエスが死なれたとき、弟子たちの多くはイエスを見捨てましたが、女性たちは忠実に従い、十字架までイエスのもとに留まりました。イエスの復活を最初に証言したのも女性たちでした。
 今週は、詳しくは書かれていなくても、教会の働きにおいて重要な役割を果たした新約聖書中の女性たちについて学びます。


日曜日:イエスが生き、働いておられた社会にあっては、女性は大部分、公的生活から締め出されていました。安息日礼拝においては、女性は参加者ではなく、単なる傍観者でした。異邦人と同様、会堂には特に女性のために定められた外庭があって、そこから中に入ることができませんでした。しかも、それは男性のための中庭よりも低い場所にありました。人前では、男性は自分の妻であっても女性と話すことを制限されていました。女性は律法を学ぶことを許されず、それどころか聖書に触れることもできませんでした。聖書を汚すことのないためです。
 しかし、イエスの態度は異なっていました。女性は男性と同様、イエスの愛する子供で、イエスの死は男性と同様、女性も贖うものでした。当時の律法学者は女性に教えることを許されていませんでしたが、イエスは喜んで女性に教えられました。ラザロの姉妹マリアなどは、あるとき生徒のようにイエスの足下に座っています(ルカ10:38~42)。
 女性に対する偏見は生活のあらゆる面に入り込んでいました。男性は些細な理由で女性を離縁できましたが、女性はどれほど重大な理由でも男性と離婚することができませんでした。女性を男性の所有物のように扱う当時の離婚の慣習を、イエスは強く批判しておられます(マタ19:3~8)。

木曜日:ローマの教会に宛てた手紙の中で、パウロは「わたしたちの姉妹」であるフェベという女性を紹介しています(ロマ16:1)。フェベはコリントの教会から数キロ離れたところにある港町ケンクレアイの教会に属していました。
 パウロはフェベを「教会の奉仕者」と呼んでいます(1節)。パウロがその手紙の中でときどき用いている“ディアコノス”というギリシア語は、ここでは「奉仕者」と、またほかのところでは「執事」と訳されています。いずれにせよ、フェベが教会に奉仕する者であったことは確かです。パウロは続けて言っています。「彼女は多くの人々の援助者、特にわたしの援助者です」(2節)。
 初期の教会にあっては、女性は必ずしも舞台裏で重要な役割を果たしていたわけではありません。多くの女性が最前線で福音を伝えるという指導的な役割を果たしていたようです。福音の終局的な働き、「あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族」(黙14:6)に三天使のメッセージを宣布する働きにおいて、女性が引き続き重要な役割を果たすことは明らかです。

金曜日:「ヤコブの井戸でイエスとお話をしたサマリヤの女は、救い主を見いだすやいなや、他の人々をキリストの所へつれてきた。彼女はキリスト自身の弟子たちよりも有力な伝道者であることを証明した。弟子たちは、サマリヤにはこれが有望な伝道地であるという何のしるしも見なかった。弟子たちは、未来にしなければならない大きな働きのことばかり考えていた。そして自分のすぐまわりに刈り入れなければならない収穫があるのを見なかった。しかし弟子たちが軽蔑した婦人によって、町中の人たちがイエスの話を聞くようになった」(『ミニストリー・オブ・ヒーリング2005』84ページ)。


 いつの時代の縁の下の力持ちが・・・・実はほんとうに大切なことにはかわりありません。見えない部分が目立ってはいけませんが、見えないところの働きをしっかりとしていただくことほど、指導者にとって助かることはありません。

 牧師の立場から申させていただくと、牧師は講壇に登ってしまったら、そこからは何もできません。けれども礼拝中は礼拝堂の中を一番良く見えるところに立っています。たとえば新しい方が後からおいでになった時に、さっと動いて案内していただいたり、また礼拝堂の中の温度調節などに気を配っていただいたりと、見えないところで執事のみなさまが動いてくださる助けてくださいます。それによって、みなさまが説教に集中できるように、その目的のために働いてくださるからです。このような方々がいらっしゃらないと礼拝はスムーズには進めることができません。

 今週の学び、女性の働きについて考えるときに、女性の中にもリーダーシップをとって働いてくださる方がいらっしゃることと思います。けれども女性ならではの細やかな配慮、あたたかさで教会の働きを支えてくださる方もたくさんいらっしゃいます。

 かつてわたしの知人が教会へ行きたいと希望したので、東京のある教会を紹介しました。後から聞いたら、たまたま空いている席に座ったら、すぐ隣りにいた方が声をかけてくださり、その方の雰囲気が知人の亡くなったお母さんにそっくりだったそうです。
声をかけてくださった方は、次の週からもいつも心にかけてくださり、そしてわたしの知人はその教会の信徒になりました。
 牧師の講壇からの説教だけでは、わたしの知人はクリスチャンになったかわかりません。けれども教会の方のあたたかな心が、彼女を救いに導いたです。

 教会は、このようなたくさんの見えない働きで支えていただいています。そのような働きがあるからこそ、教会の使命である宣教を果たすことができるのです。


北海道  安河内 アキラ


安息日学校教課  2008 年 第3期9課

2008-08-29 20:18:59 | ディボーション

みなさま

 8月最終週となりました。日本全国は夏休みの最後の一週間なのですね。わたしもこどものころ宿題をしていなくて・・・泣きながら過ごした日々を思い出します。北海道は20日くらいから新学期が始まり、長~い二学期となっています。
 今夏は特に狭い地域に集中した豪雨が多かったようですね。その原因の一つに上空の偏西風が蛇行していたため寒気が南下し、地上近くの熱気との差が雷雲を発生させてとニュースは報じていました。その蛇行の影響でしょうか、北海道では昼間はほどほどに暑いのですが、寝苦しいという夜は一回も無く、毎晩毛布にくるまって眠りにつきました。このような夏は、わたしにとってもはじめてのことでした。


第9課  「宣教の柱──使徒ペトロ」  8月30日

暗唱聖句
「シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます』」ヨハネ6:68

「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった」使徒言行録 4:13

今週の聖句:詩編18:3、32(口語訳18:2、31)、95:1、マタイ16:18、使徒言行録5:15、10:25、28~43、11:19~26、ガラテヤ2:11~14

今週の研究:先週はまた、ペトロが神の導きによって偉大な宣教師になったことを学びました。今週は、彼の働きの結果に注目します。彼が初代教会の伝道において、また異邦人に福音を伝える上でどれほど重要な役割を果たしたかを学びます。
 私たちは今日、ペトロの成功と失敗の経験から数々の重要な教訓を学ぶことができます。


日曜日:「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタ16:18)。

 これは聖書の中でも最も異論の多い聖句の一つです。キリスト教の歴史の大部分はこの聖句の意味をどのように解釈するかにかかっているとも言えます。
 多くの人はこの聖句を、(1)イエスはペトロの上に御自分の教会を建てられた、(2)ペトロは「初代の教皇」であった、(3)ペトロはイエスの言われる岩であった、という意味に解釈しています。

 しかしながら、ほかの人たちはこの聖句を、イエスが事実上、次のように言っておられるのだと解釈します。「あなたはペトロである。しかし、この岩、つまりわたし自身の上に、わたしはわたしの教会を建てる」。後者の解釈が有利であることは、以下の理由によって明らかです。
 ペトロがどのような特権や賜物を与えられていたとしても、また彼がどれほど重要な役割を果たしたとしても、神の教会が一人の罪深い人間の上に建てられることは決してありません。断じてあってはなりません!
 イエス御自身が岩であって、この基礎の上にイエスの教会は建てられています。ペトロを含めて、私たちはみな、どのような役割・地位にあろうとも、この基礎、つまり岩なるイエスの上にある限り安全です。信仰と服従をもって主の御言葉と命令に従っている限りにおいて安全です(マタ7:24参照)。確かに、主はペトロの将来を知り、ペトロがどのような人物になるかを知っておられましたが、一人の罪深い、堕落した人間にすぎないペトロを御自分の教会の礎石にしようとはなさいませんでした。

水曜日:使徒言行録10:1~16で、ペトロは一つの幻を与えられ、その中で清くない食物を食べるように言われました。ユダヤ人の彼は、そのことに驚き、「主よ、とんでもないことです」と答えます。「清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」(使徒10:14)。セブンスデー・アドベンチストが幻の中で、タバコを吸い、酒を飲むように言われるようなものです。
 もちろん、神は文字通りペトロに清くない食物を食べるように言われたのではありません。神が私たちにタバコを吸い、酒を飲むように言われないのと同じです。ペトロの幻はたとえでした。初め、ペトロはその意味を理解できませんでしたが(17節)、その後、異邦人のコルネリウスの家に招かれたときに、その意味が明らかになります。

 今日の私たちにとっては、福音が全世界のためのメッセージであったことは明らかですが、ペトロのような環境の中で育った人にとっては全くの驚きであったに違いありません。教会における立場にかかわらず、私たちは文化的な偏見によって視野を妨げられることがあってはなりません。ペトロのように、より広い視点に立って教会の使命をながめることはきわめて重要です。

金曜日: 「救い主がペテロを取り扱われた方法は、ペテロと彼の仲間たちにとって一つの教訓を含んでいた。ペテロは主を拒んだが、主が彼に対して抱いておられた愛は、決してゆるがなかった。
 そしてこの使徒が、みことばを他の人々に伝える働きに携わるようになったとき、彼は罪を犯す者に、忍耐と同情とゆるしの愛をもって接しなければならなかった。彼は自分自身の弱さと失敗を思い起こして、キリストが彼を取り扱われたように、優しく心を配って、羊や小羊たちを扱わねばならなかった」(『患難から栄光へ』下巻214ページ、『希望への光』1552ページ)。


 使徒言行録は、中盤からパウロの働きが中心に話しが進んでいきます。ペトロの働きは、パウロがエルサレムで会ったとか、パウロの手紙などに時々書かれているくらいしか記録に残されていません。(様々な伝承がありますが・・・)
 けれども彼が書いた聖書、ペトロ第一、第二の手紙を読むと、彼がどのような想いをいだきながら主に従って、宣教の働きをしていたかが伝わってきます。聖書に彼の足跡が記録されていませんが、彼が何を行ったかよりも、彼が残していったもの方が後世のわたしたちにとって重要なのではないでしょうか。

 どちらの手紙にもペトロは再臨に向けての備えを強く述べています。その時まで信仰を全うするようにという彼の勧めが書かれています。
 第一の手紙では、具体的に信徒に対して勧告があります。まさに「キリストから羊を養いなさい」と命令に従って書かれた物でしょう。
 第二の手紙では「主の日は盗人のようにやってくる」と警告して終わっています。

 彼は再臨を待ち望んでいました。そして一人でも多くの人とともにイエスさまを迎えたいと願っている思いが満ち溢れていますね。そのような彼は、まさにアドベンチストだったのではないでしょうか。
 キリストの再臨が近いと信じているわたしたちにとって、ペトロも同じ想いを抱いていたと考えてこの手紙を読むと、もっと身近な勧めとして捕らえることができるのではないでしょうか。


北海道  安河内 アキラ