みなさま
今週は世界中をかけめぐった大ニュースは、アメリカのオバマ大統領の就任でしょう。このことにはいろいろな視点があるでしょうが、それらについては報道に譲り、一連の報道を聞きながら、世界中が改めてアメリカを中心に動いていることを痛切に見せ付けられました。
各国で新しい元首が誕生したらニュースにはなるでしょうが、特別番組を組むほどにはならないと思います。
黙示録13章に後半に登場する獣が、アメリカ合衆国ではないかとわたしどもの教会では考えています。もちろん今後、この獣に匹敵する別の組織が誕生するかもしれませんが・・・
ここまで世界注目する一因は、この経済危機と政治の閉塞状態を打破できる人物しか彼しかないと考えているからでしょうが、どちらにしてもアメリカを中心に動いていることを突きつけられた一週間でした。
第4課 「預言の賜物と神の残りの教会」 1月24日
暗唱聖句「竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たちと戦おうとして出て行った」ヨハネの黙示録 12:17
今週の聖句 黙示録12章、14:6~12
今週の研究:神の忠実な残りの者たちはつねに目に見える存在であったわけではありません。初期の時代から終わりの時代に至るまで、神はさまざまな宗教の中に御自分の忠実な者たちを持っておられます。それゆえに、「わたしの民よ、彼女[バビロン]から離れ去れ」(黙18:4)と言われているのです。それでも、終わりの時代における神の残りの者たちが特に描かれていることは事実です。
月曜日:これらの聖句(黙示録12:13~17)の中で、迫害勢力を象徴する洪水が神の民に送られています(エレ46:7、8、47:2、ダニ9:26)。
対照的に、黙示録12:16では、大地が迫害される教会を助けるものとして描かれています。1620年には、最初の巡礼者たちがヨーロッパにおける宗教的迫害を逃れてアメリカ大陸に到着しました。彼らはこの新大陸に、ヨーロッパの迫害勢力の及ばない安住の地を見いだしました。こうして、象徴的な意味で、新大陸アメリカは迫害勢力を飲み干したのでした。
黙示録12:17にあるように、私たちは1260日の期間(18世紀末に終わった)後の時代に生きています。サタンは、神の忠実な民を滅ぼすことができなかったので、「その子孫の残りの者たち」に対して激しく怒っています。
これ以上に単純なしるしはなかったでしょう。終わりの時の残りの者たちを見分けるしるしは、何よりも、彼らが第7日安息日を含む神のすべての戒めを守るということです。
火曜日:「イエスの証し」の意味に関して、文法的に可能な二通りの説明がなされています。一つは、「イエスの証し」をイエスに関する人間の証しとする解釈です(新英語聖書、改訂標準訳)。もう一つは、「イエスの証し」をイエスの自己啓示、イエス御自身の証しとする解釈です(新国際訳、新欽定訳)。
ヨハネの書にある「証し」という言葉を調べてみると、黙示録と同じ文法構造の中で出てくるときにはいつでも、それはイエス御自身の証しに言及しています(ヨハ1:19、3:11、32、33、5:31)。対照的に、ヨハネの書の中で「だれかについて証しする」という意味で用いられているときにはいつでも、異なった文法構造によって表現されています。
したがって、黙示録においても、「イエスの証し」という表現は、イエスについての残りの者たちの証しではなく、イエス御自身についてのイエスの証しとして理解すべきです。このことは黙示録の聖句を調べることによって裏づけられます。黙示録1:2は、ヨハネが「神の言葉」と「イエスの証し」について証ししたと述べています。「神の言葉」は神の言われることをさし、「イエスの証し」と同列に置かれています。ですから、「神の言葉」はイエスの言われることにほかならず、イエスが御自分についてなされる証しです。
金曜日:旧約聖書にある残りの者たちという思想について調べると、いくつかの興味深い事実が明らかになります。たぶん、その中で最も重要なのは、聖書に出てくる残りの者たちとはほかの者たちより多くの光を与えられて生きていた者たちであるという事実です。
ノアは来るべき洪水に関して光を受けていました。アブラハムはまことの神について光を受けていました。イスラエル民族は聖所で主を礼拝していましたが、その一方で、異教の隣人たちは子供を祭壇にささげ、猫や牛などの動物の像を拝んでいました。ひと言で言うなら、残りの者たちという思想は神を知る者たちの清めよりも、むしろ真理および神の品性の啓示と関係がありました。その要点は何でしょうか。
木曜日の研究にもあるように、残りの教会の一員であることは単に大きな光を受けているということ、そしてその光には重要な責任がともなうということにすぎません。それによって自動的に救われるということでもなければ、残りの教会に属さない人々は滅びるということでもありません。
神の残りの者たちの多くが与えられた光に従って生きずに、時としてそれに背くようになったことは教会歴史における不幸な事実です。
わたしたちは目では見ることができない、善と悪との戦いの最中に生きています。サタンは神の教会を少しでも弱体化させようと全精力をつぎ込んでいます。ですから、教会は異教勢力との戦い、背教者との戦い、分派や異なる教えとの戦いなど、それぞれの時代にいろいろな戦いを強いられていました。そしてその勢力が強くなり、真の神を信じるものがほとんど見当たらないという時代もありました。
旧約聖書の時代、ノアとともに箱船に乗ったのは家族だけでした。エリヤは孤独の戦いを続けていました。聖書の歴史は、神さまによって残された残りの民の歴史といっても過言ではないでしょう。神さまはいつの時代も、ご自分の言葉をしっかりと受け継ぐ残りの民を用意されていました。
それは終わりの時と言われる現代も同様なのです。黙示録12章には終わりの時代の残りの民の特徴は「掟めを守り、イエスのあかしを守りとおしている」とあります。神さまの掟を守り、イエスが語ってくださったことを守りとおしている・・・。残りのためにはまさに心からイエスさまに従い、その教えに心から服従して、またみこころに少しでも近づこうとしている民なのです。
掟を守ることは、第七日安息日を守るだけでは不十分です。そのすべてを包括的に守って行かねばなりません。
イエスのあかしは、ホワイト夫人の書籍を持っている、読んでいるだけでは不十分です。聖書に語られた大きな光とホワイト夫人に与えられた小さな光からも導きを受けて、教えようとしている真意をつかみ、実践して行かねばなりません。
そして残りの教会は箱舟ではありません。そこに入っただけでは救われません。それ以上に、イエスさまが再びおいでになることを、外に出て行き伝えていくというメッセージが託されているのです。与えられた光を掲げなければなければ、その役割を果たすことができないのです。
自分たちの教会が、預言に示された残りの民であるということに安堵するのではなく、その本質をしっかりつかみ、使命を確認して実践しなければ、味気の無くなった塩のように、道端に捨てられてしまう時がやってくるでしょう。
北海道 安河内 アキラ