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ラムズ・スタディ

聖書の神様のこと、みんなで学び、同じ目標を確認できたらホントすばらしい。

安息日学校教課  2009 年 第1期4課

2009-01-23 20:14:42 | ディボーション

みなさま

 今週は世界中をかけめぐった大ニュースは、アメリカのオバマ大統領の就任でしょう。このことにはいろいろな視点があるでしょうが、それらについては報道に譲り、一連の報道を聞きながら、世界中が改めてアメリカを中心に動いていることを痛切に見せ付けられました。
 各国で新しい元首が誕生したらニュースにはなるでしょうが、特別番組を組むほどにはならないと思います。
 黙示録13章に後半に登場する獣が、アメリカ合衆国ではないかとわたしどもの教会では考えています。もちろん今後、この獣に匹敵する別の組織が誕生するかもしれませんが・・・ 
 ここまで世界注目する一因は、この経済危機と政治の閉塞状態を打破できる人物しか彼しかないと考えているからでしょうが、どちらにしてもアメリカを中心に動いていることを突きつけられた一週間でした。


第4課  「預言の賜物と神の残りの教会」  1月24日


暗唱聖句「竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、すなわち、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たちと戦おうとして出て行った」ヨハネの黙示録 12:17

今週の聖句  黙示録12章、14:6~12

今週の研究:神の忠実な残りの者たちはつねに目に見える存在であったわけではありません。初期の時代から終わりの時代に至るまで、神はさまざまな宗教の中に御自分の忠実な者たちを持っておられます。それゆえに、「わたしの民よ、彼女[バビロン]から離れ去れ」(黙18:4)と言われているのです。それでも、終わりの時代における神の残りの者たちが特に描かれていることは事実です。


月曜日:これらの聖句(黙示録12:13~17)の中で、迫害勢力を象徴する洪水が神の民に送られています(エレ46:7、8、47:2、ダニ9:26)。
 対照的に、黙示録12:16では、大地が迫害される教会を助けるものとして描かれています。1620年には、最初の巡礼者たちがヨーロッパにおける宗教的迫害を逃れてアメリカ大陸に到着しました。彼らはこの新大陸に、ヨーロッパの迫害勢力の及ばない安住の地を見いだしました。こうして、象徴的な意味で、新大陸アメリカは迫害勢力を飲み干したのでした。
 黙示録12:17にあるように、私たちは1260日の期間(18世紀末に終わった)後の時代に生きています。サタンは、神の忠実な民を滅ぼすことができなかったので、「その子孫の残りの者たち」に対して激しく怒っています。

 これ以上に単純なしるしはなかったでしょう。終わりの時の残りの者たちを見分けるしるしは、何よりも、彼らが第7日安息日を含む神のすべての戒めを守るということです。

火曜日:「イエスの証し」の意味に関して、文法的に可能な二通りの説明がなされています。一つは、「イエスの証し」をイエスに関する人間の証しとする解釈です(新英語聖書、改訂標準訳)。もう一つは、「イエスの証し」をイエスの自己啓示、イエス御自身の証しとする解釈です(新国際訳、新欽定訳)。
 ヨハネの書にある「証し」という言葉を調べてみると、黙示録と同じ文法構造の中で出てくるときにはいつでも、それはイエス御自身の証しに言及しています(ヨハ1:19、3:11、32、33、5:31)。対照的に、ヨハネの書の中で「だれかについて証しする」という意味で用いられているときにはいつでも、異なった文法構造によって表現されています。
 したがって、黙示録においても、「イエスの証し」という表現は、イエスについての残りの者たちの証しではなく、イエス御自身についてのイエスの証しとして理解すべきです。このことは黙示録の聖句を調べることによって裏づけられます。黙示録1:2は、ヨハネが「神の言葉」と「イエスの証し」について証ししたと述べています。「神の言葉」は神の言われることをさし、「イエスの証し」と同列に置かれています。ですから、「神の言葉」はイエスの言われることにほかならず、イエスが御自分についてなされる証しです。

金曜日:旧約聖書にある残りの者たちという思想について調べると、いくつかの興味深い事実が明らかになります。たぶん、その中で最も重要なのは、聖書に出てくる残りの者たちとはほかの者たちより多くの光を与えられて生きていた者たちであるという事実です。
 ノアは来るべき洪水に関して光を受けていました。アブラハムはまことの神について光を受けていました。イスラエル民族は聖所で主を礼拝していましたが、その一方で、異教の隣人たちは子供を祭壇にささげ、猫や牛などの動物の像を拝んでいました。ひと言で言うなら、残りの者たちという思想は神を知る者たちの清めよりも、むしろ真理および神の品性の啓示と関係がありました。その要点は何でしょうか。
 木曜日の研究にもあるように、残りの教会の一員であることは単に大きな光を受けているということ、そしてその光には重要な責任がともなうということにすぎません。それによって自動的に救われるということでもなければ、残りの教会に属さない人々は滅びるということでもありません。
 神の残りの者たちの多くが与えられた光に従って生きずに、時としてそれに背くようになったことは教会歴史における不幸な事実です。


 わたしたちは目では見ることができない、善と悪との戦いの最中に生きています。サタンは神の教会を少しでも弱体化させようと全精力をつぎ込んでいます。ですから、教会は異教勢力との戦い、背教者との戦い、分派や異なる教えとの戦いなど、それぞれの時代にいろいろな戦いを強いられていました。そしてその勢力が強くなり、真の神を信じるものがほとんど見当たらないという時代もありました。
 旧約聖書の時代、ノアとともに箱船に乗ったのは家族だけでした。エリヤは孤独の戦いを続けていました。聖書の歴史は、神さまによって残された残りの民の歴史といっても過言ではないでしょう。神さまはいつの時代も、ご自分の言葉をしっかりと受け継ぐ残りの民を用意されていました。

 それは終わりの時と言われる現代も同様なのです。黙示録12章には終わりの時代の残りの民の特徴は「掟めを守り、イエスのあかしを守りとおしている」とあります。神さまの掟を守り、イエスが語ってくださったことを守りとおしている・・・。残りのためにはまさに心からイエスさまに従い、その教えに心から服従して、またみこころに少しでも近づこうとしている民なのです。

 掟を守ることは、第七日安息日を守るだけでは不十分です。そのすべてを包括的に守って行かねばなりません。
 イエスのあかしは、ホワイト夫人の書籍を持っている、読んでいるだけでは不十分です。聖書に語られた大きな光とホワイト夫人に与えられた小さな光からも導きを受けて、教えようとしている真意をつかみ、実践して行かねばなりません。

 そして残りの教会は箱舟ではありません。そこに入っただけでは救われません。それ以上に、イエスさまが再びおいでになることを、外に出て行き伝えていくというメッセージが託されているのです。与えられた光を掲げなければなければ、その役割を果たすことができないのです。
 自分たちの教会が、預言に示された残りの民であるということに安堵するのではなく、その本質をしっかりつかみ、使命を確認して実践しなければ、味気の無くなった塩のように、道端に捨てられてしまう時がやってくるでしょう。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2009 年 第1期3課

2009-01-16 20:00:55 | ディボーション

みなさま

 今週は日本全国、寒波に襲われましたね。わたしは教区総会などで数日間内地で過ごしましたが、家の作りなどは北海道のほうがしっかりしているためか、かえって寒いくらいの数日間を過ごしました。みなさまの地方ではいかがでしたでしょうか。
 
 今週のの日曜日(11日)は、東日本教区の総会が開かれ、千先教区長が再選されました。そして来週の日曜日は西日本教区の総会です。お祈りください。


第3課  「霊的な賜物と預言」  1月17日


暗唱聖句「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」(コリント第一12:4~6)

今週の聖句  使徒言行録2:1~11、ローマ12:6~8、コリント第一・1:6、7、13:9、エフェソ4:11、テサロニケI第二・2:9、10


今週の研究:私たちセブンスデー・アドベンチストも預言を含む聖霊の賜物を信じていますが、同時にすべては神の御言葉によってテストされるべきであると考えています。今週は、御言葉にもとづいて、これらの賜物のいくつかについて詳しく学びます。


日曜日:新約聖書によれば、霊的な賜物が与えられているのは教会にゆだねられた宣教を完成するためです。これには、全世界への福音の宣布と、教会の育成・啓発が含まれます。これらの賜物が与えられているのは、私たちが主に全く依存していることをつねに覚えて、主からゆだねられた働きを成し遂げるためです。
 福音書によれば、使徒たちが五旬祭の前から霊的な賜物を与えられていたことがわかります。イエスはルカ9:1で、「12人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けに」なっておられます。マタイ10:8では、弟子たちに、「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」と命じておられます。
 その後、五旬祭では、弟子たちは聖霊に満たされ、異言を語っています(使徒2:1~4)。このことから、聖霊のバプテスマが一度かぎりのものでないことがわかります。

火曜日:偽りの賜物は神の本物の賜物の歪曲ですが、サタンによる類似の現れである場合もあります。上記の聖句を調べると、偽りの霊的賜物の存在に関してさらに重要な事実が明らかになります。

 第一に、これらの偽りの働きはイエスの御名を告白する者たちによってなされることがあります。イエスも言われたように、多くの者がイエスの御名によって奇跡を行うと主張します。しかし、それはイエスから出たものではありません。

 第二に、多くの人をだますだけの力を持った奇跡や奇跡的なしるし、不思議な業が行われます。しかし、私たちは超自然的な業によってだまされないように十分に注意する必要があります。たとえそれがイエスの御名によってなされ、しかも超自然的に見えても、必ずしも聖霊の本物の賜物であるとは限りません。

 最後に、サタンはできるだけ多くの人をだますために働いています。したがって、どのような現象であれ、私たちはつねにそれらを聖書と照らし合わせる必要があります。もしそれが神の御言葉と調和しないようなら、たとえどれほど印象的に見えても、答えははっきりしています。聖書は私たちの最終的な基準です。

水曜日:エデンの園で蛇を用いてエバをだまして以来、サタンはさまざまな霊媒を用いて人間をだましてきました。その中には実現した予言も含まれています。このことからもわかるように、予言の実現はそれが神からの真の預言であることを保証するものではありません。それでもやはり、預言者と預言は救いの計画において重要な役割を果たします。このことは聖書の中で明らかにされています。

 預言の賜物の目的は創造主と被造物の間にコミュニケーションの道を備えることにあります。聖書にある預言は将来を開示し(ダニ2章)、王たちを勧告・叱責し(イザ7:3、4)、来るべき裁きについて警告し(エレ1:14~16)、リバイバルを呼びかけ(ヨエ2:12、13)、神の民を励まし、慰めてきました(イザ40:1、2)。
 預言者とは神の言葉を自分と同時代の人々に語った人たちのことです。預言の賜物の強調点は、将来を予告することよりも(それも真の預言者のしるしの一つですが)、むしろ神の民に対して神の御旨を伝えることに置かれています。
 
木曜日:「聖書は聖書を解釈する」、つまりあいまいな聖句は明白な聖句によって説明されるという原則に従えば、コリント第一14章にある異言は使徒言行録にある異言と同じ性質のものであると考えられます。そのことは、どちらの場合も異言に対して同じ“グロッサ”というギリシア語が用いられていることからも明らかです。言い換えるなら、これらの書に出てくる異言は超自然的な能力によって外国語を語ることであって、今日一般的に知られている異言、つまり意味不明な言葉で何かを話すことではありません。
 神は人間の知性を通して働かれます。異邦人のように訳のわからぬことをくどくど述べてはならないと言われた主が(マタ6:7、新英語聖書)、霊感によって意味不明なことを話させるでしょうか。コリント第一14:22で、異言は五旬祭のときと同様、信じていない人のためのしるしであると書かれていますが、だれにもわからない音を発することが果たして信じていない人のためのしるしとなるでしょうか。使徒言行録2章にあるように、異言は実際の言葉です。さらに、霊的な賜物は全体の益となるために与えられているのであって(コリ第一12:7)、今日の、いわゆる異言の賜物のように、単なる個人的な満足のために与えられているのではありません。
 今日のさまざまな恍惚的な発話現象にもかかわらず、聖書はどこにも異言の賜物が人間の言葉以外のものであるとは教えていません。グロッソラリアと呼ばれる現代の異言は聖書にある言葉の賜物とは異なるものです。



 今週の学びながら考えた聖句は「サタンでさえ光の天使を装う」(コリント第二11:14)でした。
 予言者の第一条件は、まずは予言がそのとおりに成就しなければなりません。しかしこれだけを判断材料としては、まことの預言者かどうかのテストのすべてではありません。なぜならサタンも元は天使ですから・・・ほどほどのことはできます。そして人間をだまそうと、あらゆる手段を使って惑わしているからです。
 
 預言の内容も大切です。「平和を預言する者は、その言葉が成就するとき初めて、まことに主が遣わされた預言者であることがわかる」エレミヤ28:9
 聖書の中には警告の預言も多々あります。けれどもそこには神さまからの対処方法も預言されています。その預言に従うときに、人々が平和が与えられなければなりません。

 ヨハネは真の霊の働きと偽りの霊の働きの見分け方として「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たもの」(ヨハネ第一4:1,2)

 キリストは「その実で彼ら(偽預言者)を見分ける」(マタイ7:15~20)と教えています。

 わたしたちは目には見えない霊的は世界でも善と悪との大きな戦いがあることを信じています。正しい光から導きを受けて歩んで行きたいと願っています。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2009 年 第1期2課

2009-01-09 16:58:24 | ディボーション

みなさま

 今週で昭和生まれの未青年がいなくなったとニュースが報じていました。そういえば昭和天皇が崩御されたのが1月最初の安息日の朝でした。当時、わたしは小樽教会で朝一番の雪かきをしていました。そこへ教会の方がおいでになり「天皇陛下が今朝お亡くなりになった」と聞かされ、教会のすぐ前にある市役所を見たら、国旗が半旗になっていたのを思い出しました。あれから20年が経ったんですね。
 
 今度の日曜日(11日)は、東日本教区の総会、そして翌週は西日本教区の総会です。このためにもお祈りください。


第2課  「預言の賜物」  1月10日

暗唱聖句「主はこう言われた。『聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者がいれば 主なるわたしは幻によって自らを示し 夢によって彼に語る』」民数記 12:6

今週の聖句  創世記20:7、出エジプト記15:20、申命記18:15、マタイ11:11、ヘブライ11:24~26

今週の研究:聖書の中で神から預言の賜物を与えられた人たちは神と共に歩んだ人たちでした。彼らも罪がなかったわけではありませんが、啓示された神の御心に従って生きようと努力しました。彼らは神と個人的な関係を保っていたので、主は特別な方法で彼らをお用いになることができました。
 今週は、神がどのような方法によって彼らを用いられたのかを学びます。


火曜日:モーセは死ぬ前にイスラエルの民に言っています。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」(申18:15)。前後関係からすると、この預言はモーセの死後におけるイスラエルの預言者集団に関して言われたことがわかります(申18章、34:9、10、ホセ12:10)。ヨシュアからマラキまでの預言者はモーセの預言の部分的な成就でした。
 しかしながら、キリストだけがモーセの預言に述べられた条件を完全に満たすお方でした(ヨハ1:21、6:14、7:40参照)。キリストは第二のモーセとして来られましたが、その目的は御自分の民を地上の支配者の力からでなく、罪の力から解放することにありました。
 預言者はさまざまな背景を持った人たちでした。エレミヤとエゼキエルは祭司でした。イザヤとゼファニヤは王族の出身でした。ダニエルはバビロンの首相でした。サムエルは士師でした。エリシャは農夫、アモスは牧者でした。背景は異なっていても、彼らはみな神の使者でした。神は彼らを通してイスラエルを罪から守ろうとされました。書物を書いた預言者もいれば(代上29:29、代下9:29)、書かなかった預言者もいます(王上17:1、王下2:15)。王の相談者となった人もいれば(サム上22:5)、人々に語った人もいます(エゼ3:17)。4世紀にわたる預言的沈黙の後に、バプテスマのヨハネは旧約期最後の預言役として登場しています(マタ3:1 )。
 聖書全体を通して、主は御自分の僕、預言者を通して御自分の民に語っておられます。聖書そのものはこれらの預言者によって書かれたものですが、その内容は神から与えられたメッセージです。彼らの生い立ち、教育、気性はさまざまで、ある者は品性に弱点を持っていましたが、私たちと同じ人間である彼らは主に用いられて主のメッセージを伝えました。これらのメッセージは今日も、また終わりの時まで世界の各地に伝えられます。

水曜日:モーセの姉のミリアムは女預言者と呼ばれています。彼女の指導によって、女たちはモーセの歌を歌っています(出15:1と21を比較)。
 ミリアムの役目はたぶん、イスラエルの女たちを指導することでした。彼女はモーセより何歳か年上のはずで(出2:1~8)、ユダヤの歴史家ヨセフスによれば、彼女はフルと結婚していました。フルはアマレクとの戦いでアロンと共にモーセの手を支えた人です(『ユダヤ古代誌』III、98ページ)。
 ミリアムがイスラエルの重要な人物であったことは、兄弟モーセやその妻との不幸な事件の後で、彼女の重い皮膚病が神によっていやされるまでの7日間、イスラエルのすべての民が出発を待たねばならなかったことからもわかります(民12:1~15)。

 デボラ(士師5章)は傑出した人物だったに違いありません。男性によって支配される社会にあって、彼女は政治的、霊的指導者となりました。当時の女性としては珍しいことです。彼女は非常に霊的な人だったので、カナン人に勝利したとき、すべての賛美を神に帰しています(3~5、13節)。自分自身やバラクに栄光を帰すようなことはしていません。「イスラエルの母」(7節)と呼ばれるだけあって、彼女は母のような関心をもって民を見守り、正義を行うことによって彼らを導き、助けました。

 イスラエルのもう一人の女預言者はフルダでした(王下22:14~20、代下34:20~28)。ヨシヤ王が神の御心について彼女に尋ねたとき、彼女はエルサレムとその民に対する裁きと災いを預言しました。しかし、それが起こるのはヨシヤの時代においてではありませんでした。彼が自分の目で災いを見なかったのは、主の前にへりくだったからです。エレミヤもゼファニヤも生きていたにもかかわらず、フルダに勧告を求めていることは興味深いことです。

木曜日:旧約の預言期間はキリスト生誕の約400年前に終了しました。この預言期間の終了とキリスト生誕との間に、数多くのユダヤの書物が書かれましたが、霊感を受けた書物として受け入れられたものは一つもありません。

 新約聖書のギリシア語では、「使徒」という言葉は使者、使節、代表の意味で用いられていました。ヨセフスは、ユダヤ人が自分たちの代表として使者をローマに遣わしたことに言及して、この言葉を用いています(『ユダヤ古代誌』X VII、11ページ)。
 新約聖書の「使徒」は、使節団とか代表団という概念を含んでいます。この言葉は、イエスが弟子たちを伝道使節として任命し、派遣する場面で出てきます(マタ10:2~6)。使徒たちは復活された主から特別な権威を授けられた人たちでした。
 彼らは、それ以前の預言者たちとは異なり、主の死と復活を自分の目で見ていました。使徒たちの中には、たとえばヨハネやパウロのように預言者もいましたが、すべての使徒が預言者であったわけではありません。エフェソ2:20によれば、使徒と預言者は神がキリストにあって人間のためになされたことに基本的な解釈を与えました。

 バプテスマのヨハネが最大の預言者だったのは、彼がすべての預言者の証ししたキリストの来臨を知らせ(ルカ24:27、ヨハ5:39、46参照)、彼らがアブラハムのように待ち望んだキリストに(Iペト1:10、11)、実際に出会ったからです。旧約聖書の預言者の務めはヨハネにおいて最高潮に達したと言えます。同時に、イエスの最も小さな弟子でさえ、キリストによって実現したすべてのメシア預言にあずかることができるのに、バプテスマのヨハネはただ恵みの王国の戸口に立ち、中をのぞいただけでした。


 預言者について聖書研究をする時に、必ず用いる聖句はアモス3:7です。「まことに、主なる神はその定められたことを、僕なる預言者に示さずには、何事もなさらない。」
 神さまが、大切なことを必ず語りかけてくださる。わたしたちは未来について、何もわかりません。例えば、旅行の計画をたてたとしましょう。けれどもその朝に突如として体調を崩すこともあります。そのようなことが起こることは、わたしたちはわかりません。
 そのようなわたしたちに、神さまが大切なことは必ず語りかけてくださるという約束は、大きな希望ではないでしょうか。
 
 聖書を読むと、預言者の言葉に多くの民が従わなかったか無視をしていることがわかります。イスラエルとユダは、南にエジプト、北にアッシリヤ、西にギリシャやローマ、東にバビロンやペルシャなどの大国に囲まれていました。(ここに挙げた国々は同時代に存在してわけではありません)その時代に、最も強かった国に近づいて、その影響下に国家の存続をはかってきました。
 神さまは預言者を通して、例えばユダ王国末期にはバビロンに従うように勧めていますが、当時の指導者はエジプトに助けを求めます。それに警告を発したエレミヤは投獄されます。彼らは自らの経験などから、このような判断を下したのでしょう。しかしその結末は悲惨なものでした。

 逆にヨナに声に従ったニネベの街の人たちは、悔い改めにより国は変わり、神さまからの裁きも逃れることができたのです。

 神さまは語ってくださいます。けれどもわたしたちが聞かないことには意味がありません。だからこそ神さまの言葉がまとめられている聖書を読むことが大切なのです。
 そしてサムエルが語ったように「わたしは聞きます。主よお話ください」という謙虚な心で、みことばに心を向ける時に、神さまの声があなたの心に響くのです。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2009 年 第1期1課

2009-01-03 06:40:55 | ディボーション

みなさま

 あけましておめでとうございます。みなさまのご家庭ではどのような新年を迎えていらっしゃいますか。こちら北の街では、天気予報では雪とのことでしたが年末年始は晴れ間も見える穏やかな陽気でした。
 いただいた年賀状に、教課メルマガを読んでいることを書いてくださった方がおり、励まされました。今年も続けてまいります。よろしくお願いいたします。


第1課  「天の伝達手段」  1月3日


暗唱聖句「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました」ヘブライ1:1,2


今週の聖句  創世記18:1~15、32:30、出エジプト記4:10~17、詩編19:2~7、ヨハネ1:14、3:16、コロサイ2:9

今週の研究:神は二つの基本的な方法によって人間に御自身を啓示されます。一つは一般啓示であり、もう一つは特別啓示です。一般啓示とは、神が自然や良心を通してすべての人に御自身を啓示されることです(詩編19:2──口語訳19:1、ロマ1:20参照)。
 聖書に記されているように、神が預言者を通して御自身を啓示されること、特にイエス・キリストを通して御自身を啓示されることは特別啓示です。この方法を通して、御自分の御心を知らせるために、神は旧約聖書の族長や預言者にお現れになりました。神はイスラエルの歴史を通して御自分の力と目的を啓示されました。それから、神は御自分の御子をお遣わしになりました。御子は人となり、独特の、力強い方法で父なる神を啓示されました。
 今週は、これらの啓示について学びます。


月曜日:聖書記者はしばしば、自然の現象を神の威厳と偉大さの啓示と見ています(詩編8、104)。晴れた夜、天を仰げば、肉眼でも数千の星が見えます。実際には私たちの銀河系には2000億以上の星があります。しかし、この銀河でさえ、私たちがいま見ることのできる数千億の銀河の中の一つにすぎません。望遠鏡の彼方に、一体どれだけの星があるのでしょうか!
 人間の有限な理解力によっては、この世界の不思議をすべて理解することなどとてもできません。
 しかし、自然は神の品性を完全に啓示するには不十分です(ロマ1:25)。神についての疑問の多くは、自然の研究によっては答えることができません。猫やシャチは獲物を食べる前に獲物と戯れますが、そこに神の愛を認めることができるでしょうか。被造物の中に神の力と威厳を見ることはできても、自然はいつでも、神が「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち」ていることを啓示するとは限りません(出34:6)。

火曜日:預言者という言葉(ヘブライ語で、ナービー)は「(神によって)召された者」あるいは「(神からの)召命を受けた者」を意味します。預言者とは、神のメッセージを布告する人のことです。こうしたメッセージは過去、現在、未来に関するもので、勧告や教え、慰め、予告からなっています。
 預言者は神に代わって人間に語り、また人間に代わって神に語ります。聖書の預言者のおもな務めは将来を予言することではなく、神の御心を伝えることでした。イスラエルの歴史を通じて、預言者のおもな務めは神の民を導くことにありました。特に、王がしばしば、「主の目に悪とされること」(王下13:2)を行った君主制の時代にあっては、預言者の役割は神権政治を保護することにありました。預言者は神の律法を支持し、それを民に教えました。

水曜日:キリスト教の主張の根本にあるのは、それが啓示された宗教であって、その記録が聖書の中にあるということです。人類歴史の最初の数千年間は、神は夢や幻、あるいは顕現を通して御自身を個人に啓示されました。モーセの時代(紀元前15世紀)からは、これらの啓示の多くが書き記されました。その結果、今日の私たちは救いに必要なすべての知識を含む66巻の聖書を持つようになりました。

 聖書には、注目すべきいくつかの重要な特徴があります。
(1)聖書の整合性 聖書はほぼ1600年にわたり、約40名の著者によって書かれたにもかかわらず、その整合性は驚くべきものです。救いの計画は創世記から黙示録まで累進的に啓示されています。メシアは旧約聖書を通じて約束され、イエス・キリストにおいて到来したと、新約聖書に宣言されています。しかも、その教えには完全な調和があります。
(2)聖書の描く歴史 旧約聖書は世界の最も古い歴史について具体的に記しています。
(3)聖書の存続性 聖書は、ローマ皇帝による排斥にもかかわらず、ほかのどの古典文学よりも多くの写本を残しています。わかっているだけでも5000以上の新約聖書ギリシア語写本が現存しています。二番目に多いホメーロスの『イーリアッド』でも、わずか643の写本です。
 その理由は、聖書の真の著者は、人間の著者に霊感を与えられた聖霊であるということです。

木曜日:神の啓示の中心・実体は人となられた神、キリストにあります。神の計画の中でふさわしい時が来たときに、イエスは「女から、しかも律法の下に」(ガラ4:4)お生まれになりました。彼は約33年間、パレスチナで生活し、十字架にかかって死に、墓から復活し、父なる神のもとに昇られました。
 聖書は自然における神の啓示をはるかにしのぐものですが、それでも、書かれた言葉は神の御子の人格的な臨在に及ぶものではありません。聖書は私たちの人生に対する神の目的を達成するための神の手段です。しかしながら、もし聖書を単に興味深い歴史書の一つとしか見なさなければ、それは何ら永続的な価値を持ちません。もし聖書が私たちをその中に啓示されている方に導かないなら、聖書を研究してもほとんど意味がありません。聖書が書かれたのは、とりわけ、御子イエスの生涯と死を通して世に示された神を私たちに啓示するためです。


 今期の研究は、預言の賜物について学びます。序論を見ると「安息日学校教課研究の主題として預言の賜物ついて学ぶのは30年以上も経過しました」と書かれています。それも驚きですが・・・今日までのキリスト教会の歩みにおいて重要な働きをしている預言の賜物について今期は学びます。

 そして今週の研究は、その第一回目として、神さまの啓示について学びます。宗教とは、その教えが信じる神様や絶対者、至高者、まだ現象などを信じることです。そのためには、その教えや力などについて知らなければなりません。それによって神さまの言葉に信頼したり、石や木などを神とする場合もあるわけです。

 聖書の神さまは、わたしがあってあるものであると、様々な方法で語りかけてくださっています。
 その代表的なものとして今週は、自然、預言者、聖書、キリストをあげています。神さまはこれらを通して、人間に必要なことを、人間が理解できる言葉、そして理解できる範囲のことを語りかけてくださっています。

 わたしはこの中で、聖書がとても重要である考えています。自然は、そこへ行けばすばらしい自然に出会うことができるでしょう。
 けれども預言は預言者を通して語られるとしたら、その声を聞くことができなければ神さまのご意志をだれでもが聞くことができません。キリストによる啓示についても同様です。
 しかしそれが聖書にまとめられて、今日のわたしたちに伝えられているのです。聖書のことばに信頼して、その言葉から与えられる光に従うことこそ、わたしたちができる最も重要なことではないでしょうか。

 「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」 ヨシュア1:8

 聖書が、世界歴史の荒波を受けても、今日まで生き続けて読まれていること自体が生きて、人間にまことの希望を与える書物だからではないでしょうか。
 今年も、このみことばを、わたしたちの歩みを照らす灯火、光として行きたいですね。そのためにはぜひとも新年から聖書を通読してください。必ず多くの祝福に出会うことでしょう。


北海道  安河内 アキラ


安息日学校教課  2008 年 第4期13課

2008-12-26 21:02:25 | ディボーション

みなさま

 クリスマスの夜、北海道には雷鳴とともに大雪というプレゼントが届きました。明日は今年最後の安息日ですが、その前に大仕事が発生しそうです。
 みなさまにとってどのような年末をお迎えになっていますか?今年も最後まで、みなさまのご家庭とお仕事が守られますようにお祈りしています。


第13課  「贖いと宇宙の調和」  12月27日

暗唱聖句「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」黙示録21:3,4

今週の聖句  ダニエル書8:13、14、コリント第一・4:5、15:51~54、ヘブライ9:23、黙示録20:1~4、11~15、22:3~6

今週の研究:は今も、罪人をこの王国の住民となる聖なる者に造り変えておられます。主の贖いの計画には、再創造の業を通して社会と自然を造り変えることが含まれます。この再創造の業はまた、宇宙の戦いに終わりをもたらします。主だけがこの理想的な社会、すなわち神の愛と正義によって支配される社会を確立することがおできになります。


月曜日:キリストにおける私たちの究極的な望みが実現するとき、
・第一に、人間の性質が根本的に変えられ(Iコリ15:53)、この堕落し、損なわれた自己がもはや罪によって曲げられ、ゆがめられることのない真の自己に生まれ変わります。私たちはまた死ぬべき運命を免れます。
・第二に、再臨において私たちの望みが実現するとき、私たちはあらゆる種類の悪の存在から解放されます。それは新しい様式の実在、罪の領域と永久に分離した実在をもたらします。あらゆる社会と文化を支配している罪深い社会状態から解放されるとき、私たちは神によって初めに創造された状態に回復されます。
・第三に、キリスト再臨においてクリスチャンの望みが実現するとき、私たちはいつでも、妨害されることなく、目に見えるかたちで救い主に近づくことができます。クリスチャンは二度と引き離されることなく救い主のそば近くに住めるようになる時を待ち望んでいます(Iテサ4:17)。私たちの主また贖い主のもとに永遠に住むとき、今は想像もできない次元における私たちの生活の質は豊かなものとなります。
・最後に、再臨においてアドベンチストの望みが完成する時、調和のとれた社会的交わりが可能となります。それは再会と出会いの時です。死の力によって生じた愛する者たちとの離別は、救い主の再創造の力によって終わりを告げます(Iコリ15:54~57)。個人の望みはここで、神の約束を抱いてキリストにあって眠っていた人たちの集団の望みと一つになります。こうして、私たちの和解が完成します。それは罪の存在によって脅かされることがありません。

火曜日:罪の問題の処理はいくつかの段階を踏んで行われます。その理由は、罪の問題が複雑であること、また神が宇宙に御自分の正義を啓示することを望んでおられることにあります。
・第一に、聖書の中で千年期は神の正義を宇宙に啓示するために不可欠な出来事であって、それは地上と天上のあらゆるものに完全な和解をもたらします(コロ1:20)。
 千年期は、宇宙が再臨の時点においては悔い改めていない罪人、サタン、堕落天使の根絶に対してまだ準備ができていないことを示しています。神の知的被造物の一部が滅ぼされるのは、適切な時期、つまり宇宙のいやしと完全な調和の回復をもたらす時期においてでなければなりません。そうでなければ、サタンが最初にもたらした分裂よりもひどい分裂が生じる可能性があります。千年期は、大争闘に対する神の解決法が宇宙から支持される上で必要な時間を与えてくれるのです。
・第二に、千年期は宇宙による反省と分析の時、つまり贖われた者たちとサタンの双方が大争闘の結果について再検討する時となります。サタンと彼の天使たちは荒廃した惑星に幽閉され、じっくりと時間をかけて自分たちの所業について考えます。彼らは一緒になって、愛に満ちた神の統治に対する反逆の結果について反省します。この内省は宇宙の和解に役立ちます。
・第三に、天における反省は悪人の裁きというかたちでなされます(Iコリ6:2、3、黙20:4)。贖われた者たちは天の法廷に加わり、神に反逆し続けた者たちの生涯について調べます。彼らはキリストと同じ司法権をもって、キリストと共に1000年間統治します。彼らは宇宙の謁見室において、神が悔い改めた罪人を救うために最善を尽くされたこと、滅びる者たちが今や自らの決断に対する責任を負わねばならないことを見ます。私たちはみな、滅びる者たちに対する神の最終的な決定が正しいことを確信します。

水曜日:聖書の希望は全宇宙にまで及ぶもので、それは小羊の血によって達成された和解が宇宙の隅々にまで及ぶ瞬間を待望しています。これは千年期の終わり、つまり悪人が生き返り、サタンがたえず望んできた至上権を握るために神と神の民に土壇場の戦いを挑む時に起こります。それはまさに千年期の終わり、つまりすべての疑問が贖われた者たちの満足のいくように解決する時、また神の敵が自分たちの罪と反逆の記録に対面する時です。この時、天の家族が千年王国の調査で到達した結論は、悪の勢力が地上で到達した結論と一致します。
 神の御座の前で、サタンと彼の天使たち、失われた者たちは誤った目的のために戦っていたことを公に、自発的に認め、彼らを含むすべての人々が神の正義と愛を公に認めます。彼らはみな神の義を告白し、キリストが主であることを認め、正しいお方によって宣言された神の宣告を受け入れ(フィリ2:9~11)、自分たちが死に値する者であることを認めます。これは1000年間の裁きの中で神の民によってなされた評決です。
 全宇宙はついに完全な一致に到達し、悪の勢力は根絶されます。この時、神の正義と愛に関する疑いが宇宙から一掃され、すべての知的存在者が一つになって神の愛と正義をほめたたえます。


 千年期が設定されていることは、神さまは、わたしたちの心をご覧になり、ほんとうに神さまのことを求めている人を、救ってくださることのしるしです。神さまは、贖いの約束を信じる者に、救いを与えてくださる、そのことをはっきりと示すために千年期が設けられているのです。
 そしてわたしたちが納得するために、これだけ多くの時間をかけてくださっています。それだけわたしたちのことを配慮してくださっているのです。

 今期の安息日学校の教課は、とても難しかったでしょう。そして一行にたくさんのことが凝縮されていたようにも思えます。けれども、大切なことをたくさん学んだり再確認しました。
 一日も早く、神による贖いの業の完結を見ることができるように願っています。その日の実現を早めるためにも、新しい年もまた、それぞれの与えられた役割を果たしてまいりましょう。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第4期12課

2008-12-19 16:36:15 | ディボーション

みなさま

 今週末はクリスマスですね。きっとみなさまの教会でも準備が進んでいらっしゃることと思います。準備に忙殺されて、お祈りが不足していないでしょうか。準備作業と祈りは、準備の両輪です。両方が整った時に、準備は完了します。
 こちら北海道は暖冬で、札幌市内ではまだ根雪になっていません。この調子だったらホワイトクリスマスとは行きそうにありませんよ・・・。山のほうだけ降って、市街地はこのような降り方で・・・そのようなことを思います。けれどもこのまま行くとは思えませんが・・・。


第12課  「キリストに結ばれる」  12月20日


暗唱聖句「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」コリント第二5:17

今週の聖句  ローマ5:19、6:3~6、8:9、コリントII・5:17、ガラテヤ4:5~7

今週の研究:キリストの犠牲は私たちが救われるために必要なあらゆるものを与えてくれます。それは、救い主また主としてのキリストと一つになり、永遠に結ばれる可能性を含みます。バプテスマの儀式を通してキリストに受け入れられることは、私たちがキリストの死と復活にあずかることを意味します。キリストは私たちの身代わりになって死なれたゆえに、キリストの死は私たちの死であると、私たちは考えています。この意味で、私たちはキリストと一つになるのです。
 キリストとのこの結合は、私たちが聖霊の働きによってキリストの体である教会に受け入れられることにおいて体現されます。このように、キリストに受け入れられることはキリストとの個人的な交わりに入ることであり、キリストの教会の秘められた計画において互いに一つに結ばれることです。


火曜日:人は個人的な信仰の献身なしに、自動的にキリストに結ばれるのではありません。私たちが信仰によってキリストに結ばれたことを表すのがバプテスマです。バプテスマの儀式はそれほど重要なものです。
・第一に、バプテスマは、キリストの死が私たちの死であること、また私たちがキリストの復活を通して新しい被造物、新しい人類の一員となったことを示す公的な宣言です。
・第二に、私たちは「キリストにあって」死んだのではなく、「バプテスマによって彼の死にあずかるもの」となったのです。
・第三に、「キリスト・イエスに結ばれるためにバプテスマを受けた」という表現は、パウロの理解によれば、私たちが「キリストと共に」死んだこと(ロマ6:3、8)、また「キリストと共に」生きるものとされたことを意味します(コロ2:13)。これは関係的な言葉であって、私たちが罪に死に、新しい命にあずかるのはただキリストと結ばれることによってであり、キリストを離れては絶対にありえないことを示しています。
 言い換えるなら、キリストの死の完全な恵みは、私たちが信仰によってキリストの死と復活にあずかるときにのみ私たちのものとなるということです。キリストと共に「死ぬ」とは、キリストを自分の救い主として認めることです。真の回心は、キリストを離れては罪と死に全的に従属するしかなく、私たちの絶望的な状態はイエスのもとに来ることによってのみ完全に変えられることを悟って、キリストに来ることです。
 最後に、キリストの復活にあずかるとは、キリストが私たちのただ一人の主となられたことを意味します。キリストの復活の力にあずかるとは、罪がもはや私たちを支配することがないという意味です。

水曜日:パウロは「キリストに結ばれて」(「キリストにあって」)という表現をいろいろな意味に用いています。ある場合には、神がキリストによってなさる御業に言及して、その表現を用いています。「神はキリストによって(英語訳「キリストにあって」)世を御自分と和解させ」(IIコリ5:12)。この聖句は二つの重要な思想を含んでいます。一つは、キリストが和解をもたらす唯一の神の器であること、もう一つは、和解がキリストの人格と働きのうちにあることです。その意味は、私たちがキリストと結ばれることによってのみ和解にあずかることができるということです。事実、キリストの犠牲のもたらす救いの恩恵はキリストにおいてのみ私たちのものとなります。
 
 「キリストに結ばれて」という言葉はまた、クリスチャンの行為のすべてがキリストに結ばれてなされることを示すものです。私たちはキリストにおいて喜び(フィリ3:1)、キリストによって誇りに思い(ロマ15:17)、キリストによってしっかりと立ち(フィリ4:1)、キリストに依り頼み(エフェ6:10)、キリストによって信仰の業を行います(ガラ5:6)。
 
 また「キリストに結ばれて」という言葉は、罪の最も恐ろしい結果の一つに対する対処を表しています。罪は私たちを中心から逸脱させ、悪の支配と影響力のもとに置きました。しかし、キリストは今や私たちの存在の中心となって、私たちの思いと行いのすべてを正しい方向に修正してくださいます。中心はキリストの内にあります。私たちはキリストにあって自分自身を、また私たちのために備えられた輝かしい運命を知ることができます。私たちの行いのすべては、利己的な関心からではなく、キリストとの関係によって決定されるべきです。

木曜日:聖霊とキリストの間には、非常に密接な関係があります。ローマ8:9には、注目に値するいくつかの思想が含まれています。

・第一に、肉にあることと霊にあることとが対比されています。信者は肉のうちにはありません。つまり、彼らは堕落した性質によって支配されず、神に敵対することも、神の御心に従わないということもありません(6~8節)。彼らは霊のうちにあります。つまり、彼らは霊的に生きている者であり(10節)、神の子であり(14節)、罪によって支配されることがありません。これらの聖句は二つの相容れない生き方について描いています。一つは古い人に属する生き方であり、もう一つは新しい人、つまりキリストに結ばれた新しい人類に属する生き方です。

・第二に、霊にあることはキリストに属していることを意味します。このことは、キリストに結ばれていることが霊にあることと同じ意味であることを示しています。聖霊とキリストは同じではありませんが、キリストは聖霊を通して信者に働きかけられます。キリストに結ばれることは聖霊に結ばれることです。キリストによって与えられる賜物は聖霊によっても与えられるということです。たとえば、私たちは聖霊によって義とされ、聖とされています(Iコリ6:11)。私たちは、「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」にあずかっています(ロマ14:17)。私たちは聖霊との、またキリストとの交わりに入っています(Iコリ1:9、フィリ2:1 )。
 
 もう一つ重要なことは、バプテスマによってキリストに結ばれることがキリストの体である教会に結ばれることと密接な関係にあるということです。バプテスマを受けてキリストに結ばれることは同時に、「一つの霊によって……一つの体(つまり、教会)となるためにバプテスマを受け」ることです(Iコリ12:13)。キリストの体としての教会という考えは信者相互の、また信者とキリストとの結びつきと相互依存を示しています。そのような関係はキリストに、また聖霊に結ばれて生きる生き方に反映されます。教会員はよく「キリストにある」人たちと言われますが、この言葉が時には、キリストのなさったことによって決定づけられた人生を生きるという意味において、単に「クリスチャンである」ことを意味する場合があることを示しています。


 牧師の働きの中で、すばらしいことは、一人の人が神さまから愛されていることに気づき、その深い愛にふれて神さまを愛するように変わる姿をまのあたりにさせてただくことです。
 そしてこれからはイエスさまとともに歩む、神さまのこどもになることを宣言するまでに変わっていくのです。
 今までの価値観を180度変えて、まったく別の方向へ進むようになるのです。それは一人の人の意思による決断がそうさせるのです。
 
 今週の学びはバプテスマによってキリストの結ばれることを学びます。それまでまったく別の道を歩んでいた人が、イエスとともに歩むことを選ぶとき、人生の選び、目的は必然的に変わって行きます。

 かつてある先輩牧師が信徒からの質問に対して「救われているしるしは、自分のことを考えるのではなく、人の幸せについて考えるようになることです」と聞きました。
 イエスさまとともに歩むとき、イエスさまの喜ばれることを行うようになります。イエスさまと結びつくことは、このようにして今までとは異なる、新しい人生を歩むことなのです。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第4期11課

2008-12-11 18:59:20 | ディボーション

みなさま

 今年の前半と後半が、ここまで雰囲気が変わる年はめずらしいのではないでしょうか。今年の前半は石油関連商品の値上がり、そして暫定税率の一時無くなったり、そして洞爺湖サミットなどがありましたが、後半に入り経済危機と政局の不安定によって前半のムードとはまったく別世界となりました。こんな年末を迎えるとは思ってもいませんでした。それでも、あたりまえのように家があり食事ができることは感謝なのかもしれません。


第11課  「キリストによる贖いの犠牲の恵み」  12月13日

暗唱聖句 「それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」ヘブライ7:25

今週の聖句 ローマ8:34~39、コリント第一・15:16~18、エフェソ1:3、コロサイ1:16、17、ヘブライ7:25、ペトロ第一・3:21、22、ヨハネ第一・1:9

今週の研究:信じる者たちはキリストの執り成しを通してあふれるばかりの十字架の贖いの力を受けます。十字架のあらゆる恵みはキリストの贖いの犠牲に対する信仰を通して思いのままに私たちに与えられています。
 「地の果てのすべての人々よ わたしを仰いで、救いを得よ」(イザ45:22)。これが十字架上のキリストの死が教えているメッセージです。そして、この贖いの効力はキリストの執り成しの働きを通して私たちに与えられています。
 今週は、神の救いの恵みをさらに深く理解するために、キリストの大祭司としての務めの素晴らしい恵みについて学びます。


日曜日:イエスは私たちの栄化された人性を天に携えてゆき、それによって人類に天の門を開かれました。
 イエスの復活と昇天は、
・第一に、イエスが地上における御業を完成されたことを意味しています(ヨハ17:4、5、19:30)。
・第二に、キリストは復活と昇天によって、御自身の犠牲の死を信じる者たちを永遠に神と一つに結びました。宇宙のいかなる力も彼らを神から引き離すことはできません。キリストが罪という障壁を取り除かれたゆえに、神の愛は絶えず、永遠に御自分の民に注がれます。
・第三に、キリストの昇天はまた、悪の勢力に対するキリストの十字架上における勝利が最終的なものであったことをあかしします。昇天後、キリストは神の共同統治者として王位につき、神の右に座しておられます。「天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです」(Iペト3:22──ヘブ10:12、13参照)。
 敵を服従させるまで、キリストは父なる神のもとに留まられます。それから、御自分を待つ者たちを救うために現れ(ヘブ9:28)、救いの御業を完成されます(フィリ2:10、11、黙17:14)。

火曜日:キリストは即位後、直ちに執り成しの働きを開始されました。そして、この出来事は教会に直接的な影響を及ぼしました。この執り成しの働きの結果として、「地上にあって苦労し、戦っている人々[キリストの弟子たち]は『愛する御子によって』受け入れられる(エペソ1:6)。天のみ使いたちと他世界の代表者たちの前で、彼らが義とされたことが宣告される」(『各時代の希望』下巻386ページ)。
 キリストの弟子たちが天において義とされるとすぐに、聖霊が注がれました。イエスは、父なる神に別の弁護者を遣わしてくださるようにお願いすると、弟子たちに約束されました(ヨハ14:16、17)。五旬祭の日に、ペトロは聖霊降下の意味を解釈して、キリストが御自分を信じた者たちのために執り成しの働きを開始されたことのしるしであると言っています(使徒2:33)。
 幸いなことに、イエスはなおも御自分の民のために働いておられます。キリストは、「神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで」必ず天にとどまられる、とペトロは言っています(使徒3:21)。実現すべき預言が実現した後で、父なる神の御前におけるキリストの働きは終わります。
 最終的な回復はなお将来のことですが、キリストの執り成しの働きはそれをもたらします。私たちはなおキリストの昇天と再臨のあいだの救いの歴史の中で生きています。これら二つの出来事の間に、キリストの執り成しがなされ、教会の使命が完結します。

木曜日:イエスは、弟子たちのもとを去った後で彼らに聖霊を遣わす、また聖霊は「罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」と言われました(ヨハ16:8)。これが聖化の恵みです。
 聖霊の役割は罪深い人間に自分の罪と罪責、神からの離別を十分に自覚させることです。同時に、聖霊は罪人を絶望的な状況から救われる唯一の方法であるキリストの十字架に向けてくださいます。この聖霊の働きがなければ、十字架はそれ自体では効力を持たなくなります。しかし、聖霊が世界において働き、絶えず罪人をイエスに向けさせてくださるのはまさに十字架のゆえです。
 恵みは逆らうことのできないものではありません。人間はそれを拒絶することができますし、多くの人がそうしています。もし恵みが強制されるものなら、それはもはや恵みとは言えません。主は御自分の被造物の自由意志を尊重されます。十字架がその最もよい証拠です。


 今週はキリストの天の聖所での働きと、贖いの働きの関わりについて学びます。火曜日の学びで、キリストが天にお帰りになり、すぐに大祭司としてのとりなしの働きを開始されました。その結果、聖霊が弟子たちのもとへ注がれましたと教えています。
 これは救いについて、とてもわかりやすい例ではないでしょうか。

 キリスト教は「十字架を信じる者は救われています」と約束されていますが、神さまが目に見えるかたちで認定証を与えてくださるわけでもありません。何かこのあたりが、救われているとは聞いているけれど・・・今ひとつ確信が深まらないというのも正直な思いではないでしょうか。

 神さまは、わたしたちを救くおうをするために、聖霊によってわたしたちの良心に語りかけて導きを与えてくださいます。
 同時に、救ったからこそ、わたしたちがより正しい、そして潔い歩みをするように聖霊を通して導いてくださいます。
 あなたがたの中で、キリストがわたしのために働いてくださったという経験はありませんか。これこそ、神さまがあなたを救ってくださり、そして神さまの器として用いてくださっているしるしです。
 大切なことは、あなたがその約束を自ら手放して、別の道を歩んでいかないように、神さまの約束に留まり、より神さまのみこころに従う歩みを続けることです。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第4期10課

2008-12-05 18:59:29 | ディボーション

みなさま

 クリスマスを「×マス」と書くことがあります。これを見てあるこどもが「かけます」と読んだそうです。そして「クリスマスは、人と人が掛け合わされる日になるんだね」と言ったそうです。
 ふだん離れている友人に声をかけてみる、しばらく連絡をしていない友人にクリスマスカードを書く、外国の働きのために献金する・・・・だれかと積極的にこちらからかかわっていく、そのことによって喜びを分け与えることができる・・・人がかけあわされる時に、このようなことが起こるのではないでしょうか。


第10課  「十字架における贖い」  12月6日

暗唱聖句「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」コロサイ1:13,14

今週の聖句 マタイ26:37、38、27:46、マルコ14:33、34、ルカ22:40~44、ヨハネ19:28~30

今週の研究:神は私たち一人ひとりに自分の罪の責任を求められます。しかしながら、贖いの素晴らしさがその本領を発揮するのはここにおいてです。もし私たちが自分の罪の責任を負い、心からイエスを信じるなら、神は喜んで私たちの罪を赦してくださいます。
 私たちは自分の責任を認めるとき、反逆に対する刑罰を免れます。その刑罰はどうなるのでしょうか。神はそれを見過ごしにされませんでした。それどころか、神はこの刑罰をイエスに負わせられたのです。
 今週は、私たちに代わって刑罰を受けられたキリストの経験について学びます。


月曜日:イエスは弟子たちから、また特に神から見捨てられるという孤独を経験しておられました。彼は弟子たちの同伴と支えを求められましたが、かないませんでした。そこで今、イエスはたった一人で父なる神に、自分を見捨てないでくださいと祈られたのでした。しかし、神の沈黙という闇の中から返ってきた答えは、「人類を救うためには、ほかに方法はない」というものでした。イエスは父なる神の御心に黙って従われます。
 イエスは死ぬために世に来られました。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マコ10:45)。当然ながら、神は死ぬことができません。しかし、私たちの罪とその刑罰を受け入れるために、イエスは被造物である人となられました。被造物はそれ自身のうちに命を持たないので、死ぬことができるからです。ゲッセマネで、イエスは、受ける価値のない罪人のために御自分の命をささげる用意ができていました。

水曜日:十字架上で、神はそれまで一度も経験したことのない罪に対する刑罰を経験されました。「父なる神の愛と恵みが取り去られたために、御子の魂は恐るべき闇で覆われた。なぜなら、イエスは罪人の立場に立っておられたからである。……義なるお方が神の有罪宣告と怒りを受けねばならないが、それは復讐によるものではない。なぜなら、罪なき御子が罪に対する刑罰を受けるのを見て、神の御心は非常な悲しみに満たされたからであった。このような三位一体の神の分離は永遠にわたって二度とないであろう」(『SDA聖書注解』第7巻924ページ、エレン・G・ホワイト注)。

 このことは、
・第一に、父なる神が御子から愛を取り去られたのは、御子を愛されなかったためでなく、御子が私たちの代わりに死なれたためであることを示しています。
・第二に、父なる神の御心には復讐心は全くなく、神は御子と共に苦しんでおられたのでした。
・第三に、神が私たちの罪のために支払われた真の代価は「三位一体の神の分離」でした。十字架における三位一体の神の経験を描く中で、エレン・ホワイトは父なる神、御子、聖霊の間にあった関係の内側を見せてくれています。「分離する」とは「無理に引き離す」ことで、本来一つであるべきものが引き離されたのです。

 三位一体の神はキリストの犠牲を通して世の罪の責任を負い、さらにこの罪の結果を身に負われたのです。死ぬことのありえない神が、独特の方法、つまり一時的な分離によって、あるいは御子を一時的に三位一体の神から締め出すことによって、永遠の死を余すところなく経験されたのです。三位一体の神のうちに起きたこの極度の苦痛に満ちた経験は一度限りのもので、二度と起きることはありません。私たちの救いのために払われた犠牲はそれほど大きなものでした。

木曜日:「成し遂げられた」とは、完全な贖いの犠牲が一度だけささげられ、それによって天と地が再び一つに結ばれたことを意味していました。各時代にわたって秘められてきた救いの計画が今、十字架における神の御子の従順な死においてあまねく宇宙に啓示されました。
 神によって犠牲がささげられた今、その贖いの力はイエスの十字架を唯一の救いの道として仰ぐすべての人に与えられています。したがって、旧約聖書の犠牲制度は終了しました。イエスが亡くなられた瞬間、神殿の垂れ幕は上から下まで真っ二つに裂けました(マタ27:51、マコ15:38)。このことは、神が愛する御子の犠牲と人格において臨在し、私たちに近づかれるようになったことを示しています。

 「成し遂げられた」は勝利の叫びでした。イエスはサタンを打ち破るために来て、人性という弱さ、死との対峙の中で目的を達成されました(ヘブ2:14)。サタンと仲間の天使たちの最終的な滅びは十字架において確定しました。
 この勝利はイエスの復活において啓示され、確実なものとなりました。悪の勢力はもはや神の御子を墓の中に閉じ込めておくことができませんでした。あの輝かしい日曜日の朝、イエスの言葉が実現しました。「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」(ヨハ10 :18)。イエスは、「生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」(黙1:18)。


 今期の教課の学びは、いよいよ佳境に入ってきました。今週の学びは十字架前後のできごとから、贖い業について学びます。
 今週の教課を読みながら、わたしが最も感じたのは「自発的」という言葉でした。キリストはゲッセマネの園で、彼を捕まえに来た暴徒の前に、「わたしだ」と自ら進まれました。また十字架の苦難とわかっていながら、危険をかえりみずにキリストは先頭に立ってガリラヤからエルサレムへ向かわれたのです。これらすべては、キリストが十字架による贖いのために自らお選びになったのです。

 けれども彼は前夜「この杯を取り去ってください」と切望します。キリストでさえ、この苦しみから・・・と祈るのを見て、そして自ら選んだ道であったとしても、その苦しさの前でもがかれている姿を見ながら・・・わたしたちもどうして良いのかわからない選びを前に、苦悶するのは当然のことなのかもしれません。

 自発的とは行かなくても、やらねばならないとわかっていても、それができないわたしの心・・・イエスさまでさえという表現が適切かどうかわかりませんが、悩み苦しまれたのだから・・・少し心が安らぎます。
 もちろんそのレベルや度合いは比べ物にはなりませんが・・・

 コリント第一10:13にあるように、神さまはすべてをご存知で越えられない苦しみはお与えにならないばかりか逃れる道も与えてくださるという約束を信頼して、次の一歩を踏み出して行きたいものです。
 今までも悩みの中で、前に進むことによって、何度も不思議な導きが与えられたにもかかわらず、また問題が起きると立ち止まってしまうわたしを、神さまはそばに立って「わたしは世に勝っている」と励ましてくださいます。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2008 年 第4期9課

2008-11-28 21:36:31 | ディボーション

みなさま

 元高官を狙った襲撃事件、インドのホテルなどが襲われたテロ、タイの首相府や空港の占拠・・・それら一つ一つは決して許される行為ではありませんが、その思いの根底には貧富の差が、そこから這い上がることのできない苦しさなどがあるように思えてなりません。
 ヤコブの手紙5章に書かれているように、一部の人たちが富を独り占めする世界を神さまが裁かれないはずがありません。
 この世界を見ていると、あまり長くないのでは・・・、そして早く終わりが来て欲しいと祈っているこのごろです。


第9課  「救いの比喩」  11月29日

暗唱聖句「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供
え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです」ローマ 3:25

今週の聖句 ローマ3:19~26、コリントII・5:18~21、ヨハネI・4:7~11

今週の研究:今週は、十字架上のイエスの死を通して与えられている素晴らしい賜物を表すのに用いられている中心的な概念について学びます。


月曜日:和解とは、かつて敵対していた個人や集団の間に平和的な関係を回復することです。ふつう、仲介者や交渉者が必要となります。パウロはこの慣行を用いてイエスの十字架を説明しています。

・第一に、神のほうから、罪人を御自分に和解させてくださいました。つまり、私たちの罪にもかかわらず、神はなおも私たちを愛してくださいました。

・第二に、神は仲保者を用いて和解を可能としてくださいました。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ」(IIコリ5:18)。「神はキリストによって世を御自分と和解させ」(19節)。このことは、神と人間との隔たりが仲保者を必要とするほど大きかったことを暗示しています。

・第三に、和解の対象が「わたしたち」また「世」と明示されています。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ」(IIコリ5:18)。動詞は過去形で、その行為が完了していることを示しています。このことは、信者が今、和解の祝福と豊かさにあずかっていることを意味します。
 世については、「神はキリストによって世を御自分と和解させ[ておられた]」(19節、新国際訳)となっています。このことは、世の和解がなおも進行中であることを暗示します。信者の場合とは異なり、それは完了した出来事ではありません。

・第四に、一過程としての和解は神の二つの行為によって構成されています。
 一つは、「人々の罪の責任を問うことなく」(19節)とあるように、十字架上の神の和解の行為です。罪は、神が人間を御自分に和解させることを不可能にしていた障壁でした。この意味で、私たちは生まれながらにして神の怒りの対象でした。しかし、神は罪の障壁を取り除くことによって、御自分の愛を私たちに豊かに注ぐことを決断してくださいました。神の視点からすれば、和解とはこの障壁を取り除くことです。
 もう一つの和解の側面は、和解の奉仕(18節)、つまり私たちにゆだねられた和解の言葉を宣べ伝えることです(19節)。「わたしたちはキリストの使者」です(20節)。神御自身が、「わたしたちを通して勧めておられるので……神と和解させていただきなさい」(20節)。この奉仕を通して和解は本来の目的を達成し、神に対する人間の敵意は取り去られるのです。

火曜日:義認とは、基本的に、罪を犯した人が法廷で無実とされ、無罪放免となることをさす法律用語です。この概念はまた新約聖書の中で十字架の意味を説明するのに用いられてきました。

 これらの聖句(ロマ3:19~24)から、以下のことが明らかになります。

・第一に、法的な言葉は、人間が罪に問われていることを暗示します。ここで、人間は告発通り有罪とされています。つまり、人間はみな律法による有罪宣告のもとにあります(ロマ2章)。

・第二に、神は人間に窮地から逃れる道を備えてくださいました。「ところが今や」、キリストの到来とともに、「律法とは関係なく」、つまり私たちの律法への服従によらないで、「神の義が示されました」(ロマ3:21)。パウロによれば、それは「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」(22節)。ここで言われている義とは、単に神が無罪を宣言してくださるということだけでなく、私たちが信仰によってキリストによる神の救いの御業にあずかることをも意味しています。
 
・第三に、この義認はユダヤ人にも異邦人にも提供されています(ロマ3:22、29)。神は人間を差別されません。人はみな罪人であって、ひとしく「神の恵みにより無償で義とされるのです」(24節)。したがって、人間を窮地から救うものは信仰によってすべての人に与えられる義認です。この救いの賜物は、新しい命に生きる力を私たちに与えてくださる聖霊の授与を伴います(ガラ3:2、3、ロマ6:4)。

・第四に、神の決定はキリストの贖いの業によって正当とされます。ここに、贖いと義認という二つの概念が一つになっていて、それがキリストの義を受け入れる人々を義とする神の決定に法的基礎を与えています(ロマ4:3~6)。キリストが私たちの罪を負って、私たちの代わりに死なれたゆえに、神は想像を絶することを成し遂げることがおできになるのです(IIコリ5:21)。

水曜日:キリストの死を表すのに、特に「犠牲」(新国際訳──欽定訳では「償い」)という言葉が用いられていますが、これは象徴的、比喩的な意味ではなく、実際に起きたことを表しています。キリストは私たちのために御自身を犠牲としてささげられたのです。

・第一に、この犠牲は私たちと神との関係を回復するために神御自身によって備えられました(ロマ3:25)。私たちにできなかったことを、神は御子によって成し遂げてくださいました。

・第二に、これは身代わりの行為で、何の罪も欠点もない方が、贖罪の献げ物としてささげられました(ロマ8:3、IIコリ5:21)。彼は十字架の上で私たちの罪を負い、私たちに代わって死なれました(Iペト2:21~24)。キリストは私たちの罪をその身に負うて、私たちを罪から清め、神との一致に回復してくださいました。
 
・第三に、キリストの犠牲は私たちを神の怒りから解放したという意味において償いです。パウロはローマ1~3章の中で、世が罪のもとにあり、法的には神の有罪宣告のもとにあることを論証した後で、キリストの犠牲を紹介します。
 神の怒りは人間の不義と堕落に対して表されていました(ロマ1:18)。キリストの犠牲を通して、私たちはこの怒りから解放され、神の愛が私たちに注がれました。償いとは、キリストが私たちを愛するように父なる神を説得した、というのではなく、むしろ、キリストの犠牲のゆえに、神の愛が私たちに注がれるようになったという意味です。
 キリストは、私たちが経験しなくてもすむように、罪に対する神の怒りを経験されました。この意味で、十字架は神の愛が啓示される場であるばかりでなく、罪に対する神の怒りが現された場でもあるのです。
 
・第四に、キリストの犠牲は私たちを救うための神の御心の法的根拠を表現し実現し、提供します。私たちの贖いと和解はキリストの犠牲の血なくしてはありえません(使徒20:28、コロ1:20、黙5:9)。
 神がキリストを信じる人々を義とすることがおできになるのは、唯一の犠牲の供え物としての、十字架上のキリストの死のゆえです(ロマ5:9)。神はキリストにおいて罪を処罰することによって、御自分が正しい方であって、キリストを信じる人々を義とすることができることを明らかにされたのでした(ロマ3:26)。


 今期の教課の学びは難しいことが書かれていると思っていらっしゃる方が多いのではないでしょうか。
 今週の学びは、キリストが十字架でわたしたちの身代わりとなって罪の刑罰を受けてくださった結果、わたしたちが神さまから無償で与えられるものについて、教えています。これら一つ一つが福音なのです。

・贖い:律法の違反者である人類は、永遠の死という刑罰から逃れることができませんでした。このままだったら滅びしかありません。けれどもキリストの十字架によって罪を肩代わりしていただき、刑の執行から免れたのでした。

・和解:贖いは、罪人が滅ぶのを防ぎました。それだけでも感謝のことですが、神さまのみこころに反して、勝手な道を歩んでしまったわたしたちに、神さまのほうから敵意を捨ててくださり、キリストという橋を架けてくださり、神さまのもとへ帰る道を用意してくださいました。

・義認:「着せられた義」という言葉がありますが、神さまはわたしたちがみすぼらしいままで神さまの元へ帰るのではなく、義の衣で罪の戦いで傷ついたわたしたちを覆ってくださいます。

・償いの犠牲:罪の刑罰の永遠の死を免れただけでなく、罪の賠償金についても神さまが肩代わりしてくださいました。

・神の愛の現れ:放蕩息子のたとえが最適でしょうか。自ら背を向けて出て行き、落ちるところまで落ちた息子が、立ち返って帰ってきた時に、父親はすべてをゆるして受け入れました。そこまでのことを何も責めたりしてはいません。帰ってきて一緒にいてくれるだけで良かったのです。
 神さまはそのようにわたしたちを迎えてくださるのです。それは神さまがわたしたちを愛してくださっているからに他なりません。


北海道  安河内 アキラ


安息日学校教課  2008 年 第4期8課

2008-11-21 17:47:11 | ディボーション
みなさま

 いよいよ北の街も雪化粧、今朝は今シーズン最初の雪かきでした。この雪は、おそらく数日で一度融けてしまうでしょう。こんなことを数回繰り返すと地面が冷えて根雪になります。
 あと10日で12月・・・今年も最後の月になってしまいましたね。


第8課  「女から生まれる──贖いと受肉」  11月22日

暗唱聖句「あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません」ヨハネ第一3:5

今週の聖句 マタイ1:18~25、3:13~17、4:1~11、9:35、マルコ1:12、13、ヨハネ1:1、2、14、コロサイ2:9、ヘブライ1:3

今週の研究:今週は、その御業の中心的なテーマの一つ、おそらく宇宙の中でも最大の神秘であろうと思われる神の御子の受肉について考えます。驚かされることは、創造主が被造物となるために罪と死の世界に下られたということです。そのようなことがどうして可能なのでしょうか。三位一体の神だけがご存知です。私たちにわかることはただ一つ、もし受肉がなければ、罪の赦しも神との和解もなかったということです。神の御子の受肉は人類の救いのための神の計画に欠かせない要素でした。


日曜日:イエスが人となられることは、まさに神的なものと人的なものが一つになることでした。二つの性質は明らかに認められますが、それは単に神的なものが人的なもののうちに宿ったということではなく、実際の受肉が起こったのでした。
 つまり、キリストは真に神であり、真に人であるということです。二つの性質がマリアの胎内で結合したとき、どんなことが起こったのか、聖書は明らかにしていません。キリストの受肉において神は人となり、満ちあふれる神性が人のうちに宿ったのでした。これがパウロの言っていることにほかなりません。

 要点は、イエスが完全に神であられたということです。もしキリストの受肉において神の属性の一つでも失われていたなら、それは決して神の受肉とは言えなかったでしょう。パウロによれば、受肉以前のキリストは「神の身分」(フィリ2:6)、神と同等でしたが、受肉において、「僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(7節)。
 イエスは完全に神でしたが、持てるすべてのものを父なる神の権威のもとに置かれました。しかし、それによって御自分の神としての属性を捨てられたのではありません。受肉において、イエスの神性は隠されましたが、神格はつねに完全に存在しました。贖いの目的のためには、神が人となることが不可欠でした。なぜなら、神だけが人を救うことができるからです。

火曜日:キリストのバプテスマはきわめて重要な意味を持っていました。
・第一に、イエスはバプテスマを要求することによって、御自分を罪人と同一視されました。バプテスマを受ける必要のなかったイエスがそれを要求されたのは、御自分のためではなく、私たちのため、私たちの利益のためでした。イエスはそれによって御自分に従う者たちのために模範を示されたのでした。
 しかし、イエスのバプテスマは模範以上のものでした。それは、私たちが自分のバプテスマを通してイエスにつながり、ヨハネによるイエスのバプテスマの祝福にあずかるのを可能としました。
・第二に、イエスは水からあがると、ひざまずき、父なる神に祈られました(ルカ3:21、22)。聖書はこの祈りの内容について記していませんが、父なる神の応答が手がかりを与えてくれます。神は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(22節)と宣言することによって、イエスに祈りが聞かれたことを告げておられたのでした。
 「それらは私たち一人ひとりにとって希望と憐れみの言葉であった。神が人のためにしてくださった備えに対する信仰を通して、あなたは『愛する子』イエスにおいて受け入れられ、イエスの功績を通して受け入れられているのである」(エレン・G・ホワイト『バイブル・エコー・アンド・サインズ・オブ・ザ・タイムズ』11月12日、1894年)。
・第三に、イエスのバプテスマには三位一体の神がかかわっておられました。父なる神は天から語りかけ、聖霊は鳩の象徴によって目に見えるかたちで御自身を啓示されました。神の愛は人類の一員としての御子に注がれ、御子を人類の代表として受け入れていました。人間はもはや神の愛から切り離されてはいませんでした。なぜなら、キリストにおいて神の愛が人間に注がれる道が開かれたからです。

水曜日:イエスが経験された誘惑はアダムとエバのそれとは対照的でした。
・第一に、アダムは罪の堕落的な現実のないエデンの園で誘惑されましたが、イエスの場合は悪の勢力のもとにある荒れ野においてでした。
・第二に、アダムには豊かな食物があり、イエスは食物に飢えていました。
・第三に、アダムは断食せず、イエスは断食しておられました。
・第四に、アダムもイエスも御心に背いて食欲を満たす誘惑を受けました。アダムは誘惑に屈し、イエスは屈しませんでした。
・第五に、アダムは神の言葉を疑うように誘惑され、それへの信頼を失いました。イエスも神の言葉の真実性を疑うように誘惑されましたが、誘惑を拒否されました。
・第六に、アダムは公然と主に背き、サタンと共に神の統治に反逆しました。イエスはサタンから、もし自分を拝み、神の国に対する戦いに加担するなら、この世の王国を与える、と言われました。しかし、イエスは父なる神に対する忠誠を守られました。

 イエスは、アダムが失敗した根本的な点でサタンに勝利することによって、アダムの失敗を元に戻し、御自分を信じる人々に御自分の勝利を与えておられました。古い人類はアダムから不従順と反逆の精神を受けましたが、新しい人類が人類の頭から受けるのは不従順と反逆の精神ではなく、神の御心に対する謙遜な服従という精神です。


 処女降誕、三位一体そして今週の学びの受肉など、人間の理性で理解しようとしても、できないことが聖書にはたくさん書かれていますね。それが神さまの業なのだと言えばそれまでですが・・・神さまがそのようになさったとおっしゃっている以上、わたしはそれを素直に信じて行きたいと思っています。それしか方法がありません。

 教会の働きをしていると、いろいろな悲しみや苦しみの最中にある方がおいでになります。お話しをうかがいながら、できるだけその気持ちに寄り添いたいと思いますがその方の心の中にあるほんとうの思いに達することは難しいことです。
 けれども、その方の思いに近づこうとする姿勢、それは「わたしはあなたの見方ですよ」という、わたしの想いは伝わるのではないでしょうか。

 受肉、それは神さまの方からわたしたちと一緒になってくださったのです。ある新聞で「麻生首相が一生懸命に庶民派をアッピールしてようとしているけれど、所詮大金持ちの家庭に育った人の付け焼刃に過ぎない」と酷評していました。人間は、自分の立場すべてかなぐり捨てて、低い人と同じ立場に立つことはなかなかできないことです。けれどもそのようになることができたとき、その人のことを、まわりは信頼することができるのでしょう。
 イエス様が人間となってくださるだけでなく、そしてその後のご生涯は貧しい家に育ち、亡命をして、おそらくお父さんを早く亡くし・・・波乱万丈の人生を歩んでくださいました。そこまでなさってくださったのです。
 このことを見ても、受肉は神さまが人間を愛して、ともに歩んでくださっているあかしではないでしょうか。


北海道  安河内 アキラ