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ラムズ・スタディ

聖書の神様のこと、みんなで学び、同じ目標を確認できたらホントすばらしい。

安息日学校教課  2009 年 第2期2課

2009-04-09 17:03:48 | ディボーション

みなさま

 三月末、法事があり親族が集まった時、桜を見ながら90歳を越えた叔母が「来年わたしはもう見れないわ!」とつぶやきました。それを横で聞いていた従兄弟が「わたしたちだってわからないわよ」と答えていましたが・・・
 その時に、わたしはあたりまえのように来年も見れると思っている自分の傲慢さに気づかされました。同時に、来年この世界で桜を見ないで済む日が、一日も早く来ないかと願いました。


第2課  「信仰」」  4月11日

暗唱聖句「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」エフェソ 2:8,9

今週の聖句  エフェソ6:10~18、ヘブライ11章、ヤコブ2:18、19

今週の研究:信仰は全人格に影響を及ぼす深い確信です。信仰は生き方を支配する原則です。信仰は、目に見えなくても、実在すると知っている神の約束を把握する手段です。
 ヘブライ11:1には、信仰の「本質」が述べられています。ヘブライ語の専門家であるウィリアム・G・ジョンソンはこの聖句を次のように訳しています。「信仰とは、望んでいる事柄に対する権利証書であり、見えない事柄に関する確信である」(『アバンダントライフ聖書注解──ヘブライ人への手紙』204ページ、1994年)。


日曜日:ところで、神を信じるあなたの信仰はどこから来ると思いますか。あなたの受けた教育の結果でしょうか。信心深い両親のお陰でしょうか。いつも教会に通っていたからでしょうか。聖書や宗教書を読むことによって、神の愛を確信したからでしょうか。信仰の「飛躍」を経験したのは、あなたを満足させるような哲学的な主張に出会ったからですか。結局のところ、信仰は奇跡であり、神からの賜物です。

 愛がなければ、私たちは完全な人間とは言えないように、信仰がなければ、私たちは本来あるべき人間とは言えません。「『信仰がなければ、神に喜ばれることはできません』[ヘブ11:6]。……『ヘブライ人への手紙』が、信仰がなければ神を喜ばすことは困難である、あるいは信仰がなければ神を喜ばすのに時間がかかると教えているのでないことに注意してほしい。対照的に、神に喜ばれることはできないと主張しているのである。言い換えるなら、信仰に代わるものは何もないということである。過去において神の勇者たちが生きたのは信仰によってであり、今日、神の民が生きねばならないのは信仰によってである」(ジョージ・R・ナイト『ヘブライ人への手紙注解』198ページ、2003年)。

水曜日:疑いや困難の中でも、前に向かって邁進し、一時の感情や不利な状況にもめげずに神の約束にすがるなら、信仰は成長します。信仰は感覚以上のもの、変わりやすい人間の感情を超えた原則です。信仰は、たとえその気にならなくても、神から求められていると知っていることを行うことです。

 クリスチャンの目標は信仰において「成熟」することです。これは生涯にわたる働きです。私たちが成長の祝福にあずかり、「信仰に基づいてしっかり立」つ一方で(Iコリ16:13)、なぜ「信仰の弱い人」(ロマ14:1)がいるのか不思議に思うことがあるかもしれません。
 私たちは自分が今日の霊的状態に到達するまでに相当な時間がかかったことを忘れる傾向があります。たとえ忘れることがあっても、私たちは高慢になったり、人を裁いたりしてはなりません(Iコリ10:12)。信仰の種を芽生えさせ、信仰生活を成長させてくださるのは神です。これは決して忘れてはならない真理ですが、同時に、個人的な選択によって、霊的成長を可能にするような環境づくりを助けることができることを忘れてはなりません。

木曜日:教理は重要です。私たちは神と神についての啓示をもっと詳しく知りたいと望みます。私たちが創造主なる神と神の御業について信じていることを体系化し、それによって神の御心を知ろうとすることはごく自然なことです。私たちは自分の教会の教理が正しいと信じていますが、私たちの信仰は教理の体系だけでなく、むしろイエスに基礎を置いています。教理はそれ自体のうちに目的を持つのではありません。教理は、私たちがイエスとイエスの御業を理解するのを助けるものです。
 クリスチャンの信仰における教理の役割は、ある意味で、文法の役割にたとえられます。私たちが言葉を通して意思を伝達することができるのは、その言葉に文法的な構造があるからです。同じように、私たちは教理を通して私たちの信仰の中身に一定の構造を与えています。中世の神学者、聖アンセルムスは、「神学は信仰そのものを理解するための信仰である」という有名な言葉を残しています。
 健全な教理は不可欠なものですが、命のない理論にすぎない教理や神学は人を救いません。人は信者にならなくても神学者にはなれます。信仰とは結局、聖書的に正しいとされる数々の信条を受け入れることではなく、教理が語っているお方に信頼することにほかなりません。


 教会では、しばしば「信仰を持つ」という言い方をしますが、わたしは「信仰は持っているだけではだめなんです。働かさなければなりません」と語ってきました。

 アブラハムの信仰を神さまが義と認めたのは、イサクをささげようとしたからではないでしょうか。まさに信仰を働かせたからでした。(ヤコブ2:21参照)

 それでは信仰を働かせるとはどのようなことなのでしょうか。逆に、これから起こることがすべて整った道を歩むことが信仰を働かせることでしょうか。それは現実を見ているだけに過ぎません。
 信仰とは、これから起こることのすべてはわからなくても、神さまが必ず導いてくださると信じて前進することではないでしょうか。
 わたしは牧師として何回か新しい任地へ向かいました。いろいろな不安もありましたが、そこを去る時には、赴任時には考えもしなかった喜びの出会いが与えられて、次の働きに向かうことができました。
 不安の暗闇の中でも、必ず導かれると確信をして前へ進むこと、霧が晴れるまで待つのではなく見えるところまで、まさに達しえたところまで進むことが信仰者の歩みではないでしょうか。(フィリピ3:16参照)

 信仰を働かせてください。神さまはかならずあなたの信仰に応えてくださいます。わたしもそれだけに望みをおいて歩んでいます。


東京  安河内 アキラ




安息日学校教課  2009 年 第2期1課

2009-04-03 22:13:34 | ディボーション

みなさま

 一週間前に東京に着いた時、あたたかで桜も開花して・・・一気に咲いてしまうのかなと思っていましたが、その後寒い日が続いて、開花の歩みもゆっくりとなりました。今週末が最適のようです。
 今週から新年度、新しい歩を始めている方もいらっしゃることと思います。わたしも今までとは別の世界での歩みを開始しました。わからないことばかりで・・・一日も早く慣れなければと思いますが・・・今まで以上に祈りの必要を痛切に感じています。
 このような人生の節目で、わたしたちは神さまのことを見上げて歩む重要性を再認識させられのかもしれません。


第1課  「愛」  4月4日


暗唱聖句「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(コリント第一13:13)

今週の聖句  イザヤ書53章、マタイ22:37~39、コリント1第一3章、ヨハネ第一3、4章

今週の研究:キリスト教信仰の中心的な概念を扱う聖書研究ガイドが愛をもって始まることは実にふさわしいことです。使徒パウロも指摘しているように、信仰や希望といったキリスト教の要素も確かに重要ですが、それらはみな愛をもって始まります。パウロも言うように、愛がなければ、私たちは「無に等しい」存在です(Iコリ13:2)。

 神は愛です。神がほかの何であれ、また過去に何をされ、現在何をしておられ、将来何をされようとも、すべては神の愛の現れにほかなりません。この愛は慰めに満ちたものですが、同じくらい理解することの難しいものです。神の愛は、時として利己心と貪欲の入り混じった浅薄な感情や一時的な興奮にすぎない、いわゆる人間の愛をはるかに凌駕しています。神は単に愛を所有し、愛を示されるだけではありません。神は愛そのものです。


日曜日:人間は生命を維持するためには食べ、飲む必要があります。それがなければ、やがて死にます。しかし、厳密な意味で生きるためには、愛が必要です。愛のない人生は人間にふさわしくありません。人間には、愛を受ける必要が組み込まれています。両親の愛、家族や友人の愛、そして、共同体の愛を必要としています。
 しかし、愛を受ける必要があるのと同じく、愛を与える必要があります。愛することができなければ、私たちは真の意味で人間とは言えません。しかし、はっきりさせておかねばならないことは、真の愛が私たちから始まるのではないということです。愛する能力は創造主によって私たちのうちに創造されたものです(創1 :26、ヨハ3:16)。

 神の愛に先立ちます。愛についてほかに何を語ろうとも、この点だけは決定的です。真の「愛は衝動ではなく、きよい原則、永遠の力である。献身していない心は愛を起こすことも、生じることもできない。イエスに支配されている心にだけ愛は見いだされる。『わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである』[Iヨハネ4:19]。神の恵みによって新たにされた心にとって、愛は行動の主原則である」(『患難から栄光へ』下巻254、255ページ、『希望への光』1566ページ)。

 有名なイギリスの作家C・S・ルイスは、「賜物の愛」と「必要の愛」という言葉を用いて、神の愛と人間的な愛を区別しています。神はほかの何よりも私たちの愛を求められますが、私たちが神と同胞の愛を必要とするようには私たちの愛を必要とされません。「私たちは真の出発点、すなわち神の力としての愛を求めることから始めねばならない。この原初の愛が賜物の愛である。神のうちにあるのは満たされねばならない渇望でなく、与えようとする豊かさだけである」(『四つの愛』121ページ、1998年)。人間の愛は神の愛によって造り変えられる必要があります。ほかの人々から愛を求める一方で、キリストのように愛を与える者となるためです。

火曜日:イエス・キリストはなぜこの世に来られ、なぜ苦難を受け、十字架上で死なねばならなかったのでしょうか。彼が再び来て、この世界をもとの清い状態に回復されるのはなぜでしょうか。ほかに方法がなかったのでしょうか。なかったとすれば、罪の問題の解決になぜこれほど長く時間がかかるのか。私たちはこれらの疑問に答える立場にありません。神は無限の知恵のうちに、可能な限り最良の方法で罪を根絶する計画を「考案された」のでした。神は聖なる方であるゆえに、御自分の完全な律法に対する反逆を看過することがおできにならず、愛の方であるゆえに、御自分の被造物が滅びるのを、傍観することがおできになりませんでした。  「神の聖は道徳的な悪を黙認することのできない威厳ある聖潔である。神の愛は罪人に対する外向的で、情け深い抱擁である。神の聖は不浄で不敬なものとの分離である。神の愛は不浄な者たちを助けるために進んで彼らと一つになることである。……[しかし]、神の怒りは一時的であるが、神の愛は永遠である」(ドナルド・ G・ブルーシュ『全能なる神──力、知恵、聖、愛』140~143ページ、1995年)。

水曜日:この世界の悲しむべき現実は自己愛、野望、憎しみ、争い、堕落から来ています。人々が、意識的であれ、無意識的であれ、暗黒の君の原則に従っている限り、愛が開花することはありません。マザー・テレサは言っています。「もしあなたが人を裁くなら、あなたには人を愛する時間がない」
 もし私たちが心から回心し、主の弟子となっているなら、愛の原則が私たちの生活を支配します。どのような欠点を持っていても、私たちは神と同胞への愛において着実に成長します。実際的な意味において、回心とは新たな方向づけをすること、つまり自己への愛から神への愛、同胞への愛に方向を転換することです。
 「もし教会員があらゆる自己崇拝を捨て、キリストの心を満たしていた神と相互に対する愛を心に受け入れるなら、私たちの天の父は彼らを通して絶えず御自分の力を現してくださる。神の民は神の愛のきずなによって互いに結ばれていなければならない。そうすれば、世は神の奇跡の力を知り、神が御自分の戒めを守る民の力であり、助け手であることを認めるであろう」(『SDA聖書注解』第7巻940ページ、エレン・G・ホワイト注)。


 今期の安息日学校の教課は、わたしたちの信仰生活における様々なできごとについて、一つずつ主題として取り上げています。その中で、あなたの心に響くことと、そうでないものもあるかもしれません。先期の教課のように、一つのテーマをいろいろな角度から学ぶというよりも、今期は一話完結と考えて学んだ方がわかりやすいかもしれませんね。

 わたしはこの場所でも聖書通読を何回も訴えてきました。聖書通読のすばらしさは、その所管の流れ、文脈が見えることにより、主題がもっと深まって理解できることです。

 聖書の中で霊の賜物について列記されているのはローマ12章、コリント第一12章、エフェソ4章が書かれています。パウロは賜物の列記し、それぞれの役割があることを尊重しあうように勧めた後に、どの個所でも愛し合うようと奨励しているのです。
 神さまから与えられている賜物は、それをどのように使うかでまったく異なる働きをするものです。そこに愛情をこめるとき、神さまの喜ばれる賜物の用い方になります。
 愛するというのは、自分が目的にはなりません。自分のため以上に、まわりの方々の幸せのために、賜物を持ちようとすることが、愛することの実践ではないでしょうか。
 

東京  安河内 アキラ



安息日学校教課  2009 年 第1期13課

2009-03-27 16:31:01 | ディボーション

みなさま

 世の中に「鍵」が無くなればを願ったことが何回あるでしょう。それはだいたい自分が鍵をどこかに置き忘れてしまった時ですね。 
 そもそも盗みをする人がいなければ鍵は不要ですね。宮古島を訪れた時に、ある集落で車を駐車して、いつものように施錠して降りました。たまたま奥に駐車していた車が出たかったみたいで・・・わたしは怒られてしまいました。それは駐車の仕方が悪いのではなく、車に鍵をつけたままにしておかなかったことです。宮古島ではどろぼうなどいないので、施錠する心配はないのです。きっと天国に行けば、鍵はないでしょう。
 けれども鍵は自分の持ち物を表すためにも重要な時があります。わたしは転任する時に、鍵を渡すと、すべてが終わったことを痛感します。どんなに思い出がつまっていた家でも、鍵がなければ入ることができません。鍵を渡すことは、もうそこで起こることにかかわれなくなったことで、悲しいですが静かに去るだけなのです。
 安堵と感謝のうちに、しょっぱい川を渡って、桜が咲く街へ着きました。



第13課  「預言の賜物への確信」  3月28日

暗唱聖句「翌朝早く、彼らはテコアの荒れ野に向かって出て行った。出て行くとき、ヨシャファトは立って言った。『ユダとエルサレムの住民よ、聞け。あなたたちの神、主に信頼せよ。そうすればあなたたちは確かに生かされる。またその預言者に信頼せよ。そうすれば勝利を得ることができる』」歴代誌下20:20

今週の聖句  詩編41:10(口語訳41:9)、イザヤ書53:4~6、マタイ23:28~31、ヨハネ5:39、使徒言行録10:9~16、44~48、17:11

今週の研究:セブンスデー・アドベンチスト教会に加わりたいと思っている人たちがいました。彼らは聖書研究を通して教会を受け入れることができましたが、エレン・ホワイトに対して疑問を感じていました。多くの偽預言者や偽教師が現れていたので、慎重になっていたのです。
 彼らの不安を知った牧師が次のように言いました。「これはあなたがた自身が聖霊の個人的な導きによって決めるべき問題です。十分に時間をかけて、彼女の著書を読んでください。共感できるものもあれば、共感できないものもあるでしょう。しかし、自分で彼女の著書を読み、自分で判断を下してください。そうすれば、彼女の著書がその出所についての最良にして最終的な証しであることがわかるでしょう」。



日曜日:弟子たちはイエスの十字架において大失望を経験しました。彼らはイエスがイスラエルを「贖って」くださるものと考えていました。イエスがゼカリヤの預言に従ってロバに乗ってエルサレムに入城されるのを見たとき、彼らはイエスが王であると宣言し、ローマ人を追い出し、地上に神の王国を建設されるものと確信していました。
しかし、イエスの死後、つまりイエスが「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」(ルカ24:45)くださったときに初めて、彼らはイエスがほかの目的のために来られたことを悟ります。
言い換えるなら、イエスがずっと彼らと共におられたのに、またイエスがはっきりと証ししておられたのに、彼らは誤解し、聖書の教えていたことを理解しませんでした。イエスは彼らを聖書に向けられました。彼らは聖書を信仰の基礎とすべきでした。

 初期のアドベンチストもまた、ダニエル書8:14の聖所が地上であるというウィリアム・ミラーの誤った見解のゆえに大失望を経験しました。聖書研究と神の超自然的な介入によって、弟子たちが自分たちの誤解に気づいたように、初期のアドベンチストもまた、聖書研究とエレン・ホワイトの預言者としての働きによる神の導きを通して聖所の真理についての新しい理解に導かれました。
 預言の賜物がどれほど有用であったにしても、最終的に、私たちの先駆者たちは預言の賜物を教理的な権威として用いないで、聖書の上に教理を築こうと心に決めました。
 今日も同様に、私たちアドベンチストの信仰の力と確信は神の御言葉にもとづいていなくてはなりません。私たちの教理が聖書から出たものであることを確信し、この揺らぐことのない信念にもとづいて働くときに、私たちは真の意味で預言の賜物に信頼を寄せることができます。

月曜日:エレン・ホワイトは一貫して神の御言葉を高く掲げ、教会員に御言葉を研究するように奨励しました。「愛する読者方。わたしは、あなたがたの信仰と行為の基準として、神のみ言葉を推薦する」(『初代文集』160ページ)。『各時代の大争闘』の序文では次のように記しています。「神は、みことばを通して、救いに必要な知識を人間にお与えになった。われわれは、聖書を、神のみこころについての権威ある、まちがいのない啓示として受けとらねばならない。聖書は品性の規準であり、教理を示すものであり、経験を吟味するものである」(『希望への光』1592ページ、『各時代の大争闘』上巻序3ページ)。
 預言者たちが神の民に聖書を読み、学ぶように勧めているのはなぜでしょうか。理由は簡単です。「神は聖書を、全人類にとって、幼年時代、青年時代、壮年時代の教科書となり、全生涯にわたって研究すべきものとなるよう意図された。神は聖書を、ご自分の啓示として人間にお与えになった。新しい真理が明らかになるたびに、その真理の本源であられる神の品性が新たにあらわされる。聖書を研究することは、人間を創造主とのいっそう密接な関係に入れ、神のみこころをいっそう明瞭に知らせるために、神がお定めになった方法である。それは、神と人間とが交わる手段である」(『希望への光』1621ページ、『各時代の大争闘』上巻70ページ)。
 エレン・ホワイトの文書は決して聖書の代わりとなるべきものではありません。彼女は生涯を通して、聖書を読み、聖書を信仰の基準とするように教会員に教えました。

水曜日:エレン・ホワイトの働きが全く健全で、正当なものであるにもかかわらず、私たちの中にさえ、ある意味で、「預言者の血」を流している人たちがいます。古代イスラエルに見られたように、私たちのうちにも、程度の差こそあれ、巧妙なやり方で、エレン・ホワイトの預言者としての働きに対する確信を失わせようとしている人たちがいます。こうしたことは初めからあったことですが、これからも続くと思われます。エレン・ホワイトとその著作に対してなされた攻撃の多くは、昔の預言者に対して、また神の御言葉そのものに対してなされた攻撃とよく似ています。
 こうした態度を取る理由はさまざまです(金曜日の研究参照)。ある人たちは不適切なまでに彼女の著作を高く評価するので、それに呼応した一部の人たちが極端な考えに走っています。ほかの人たちは霊感の働きを誤って理解しているので、彼女の著作が自分たちの理解に合致しないという理由で、彼女の著作を拒否しています。無知のゆえに反対する人もいるでしょうし、卑劣な敵対心から反対する人もいるでしょう。私たちは人の動機や心まで裁くことはできません。私たちにできることはただペトロの次の勧告に従うことだけです。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」(Iペト3:15)。結局のところ、各自は自分が耳を傾け、信じるべき声を自分自身で選択しなければならないということです。

金曜日:エレン・G・ホワイトの著作に対する反対や無関心は、ふつう次のような理由から来ています。」

(1)彼女の総合的で、調和のとれた教えを理解できるほどには著作を読んでいない。(2)聖書に対する彼女の著作の正しい関係を理解していない。
(3)神の霊感の真の性質を理解していない。
(4)彼女の勧告に関連して、時と場合の原則を理解していない。
(5)彼女の勧告が今日もなお有効であることを認識していない。
(6)主が心の正直な人を確信させるに十分な証拠を与える一方で、疑う機会を排除しておられないことを認識していない。
(7)エレン・ホワイトの著書に与えられている勧告に反するような習慣や行為を自発的に捨てようとしない。

 預言の霊に対する反対の大部分は、次の方法によって取り除くことができます。
(1)お気に入りの文章や段落を引用して、他人を攻撃するのをやめる。
(2)勧告を他人に適用する代わりに、自分自身に適用する。
(3)出所を明らかにしないままに引用するのをやめる(出所不明の引用が多い)。
(4)特定の問題について書かれていることをすべて読まないで、それについて論じることをやめる(いい加減な知識は全く知らないことよりも危険な場合がある)。
(5)エレン・ホワイトの勧告に従わない(従えない)のは、決して彼女の幻と教えが信頼に値しないせいではないことを認める(デントン・E・リーボック『神の預言者を信じよ』309~312ページにもとづく)。


 今期は、わたしどもに与えられている大きな祝福である「小さな光」について学びました。
 わたしの感想は、キリストがペトロに「あなたはわたしのことを誰と考えるか」という質問をされたことを、思い出します。わたしたちもホワイト夫人をどうとらえるか、それはあなた自身が決定することなのです。
 金曜日の箇所で、反対の例として、一部分だけを用いて、それを都合の良いように用いる方がおいでになるのは事実です。そのような姿勢や、やりかたを見て、わたしもかつてはあかしの書を好きになれませんでした。
 このようなまちがいを犯さないための、最良の方法は一部分だけを読むのではなく全体を読むこと、通読することです。そしてその時に、心を明け渡して、そこから語られる言葉に素直に聞こうとする時に、神さまの細い小さな声が聞こえてきます。
 このことは、わたしも希望への光の通読を続けているうちに、その確信がますます深まりました。

 あかしの書は、終わりの時代のアドベンチスト、そしてわたしたちを通してこの時代に住むすべての人に与えられた神さまの祝福の言葉なのです。この宝をわたしたちは手にしているだけではもったいないです。
 ぜひあなたが読んでください。必ず祝福されます。そして光が与えられます。そしてその光をだれかに伝えてください。これが神さまのみこころなのです。
 これは読んだ方でなければ、体験することができません。一人での多くの方がこの祝福にあずかり、喜びを語りあうことができればと願っています。


東京  安河内 アキラ




安息日学校教課  2009 年 第1期11課

2009-03-13 20:01:12 | ディボーション

みなさま

 昨年放映されました広島三育学院高校聖歌隊を取り上げた、NHK「熱中クラブ」の続編が放映されます。

日時: 3月14日(土)午後8時
チャンネル:NHK BS2 「熱中クラブ」

 昨年放映された学校の中から3校が選ばれ、番組の「その後」が取材されたものです。卒業献身会、卒業式が中心となっています。ぜひご覧ください。



第11課  「預言者文書の解釈」  3月11日


暗唱聖句「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」 ルカ24:27

今週の聖句 イザヤ書65:17、マルコ1:15、ローマ2:14~16、エフェソ2:8、9、ヤコブ2:14~26、第一ヨハネ5:12、13

今週の研究:私たちセブンスデー・アドベンチストは、エレン・G・ホワイトのうちに預言の賜物が現されたと信じています。問題は、彼女の文書をどのように解釈するかです。
 私たちは、彼女の権威でなく、彼女の霊感が旧約および新約聖書の預言者のそれと同じ水準のものだと信じますが、彼女の文書を解釈するにあたっては、聖書を解釈するときに用いるのと同じ解釈の原則を彼女の文書に対しても用いなければなりません。たとえ聖書の権威が預言の霊の権威よりも上であったとしても、聖書を解釈するための原則はエレン・ホワイトの文書を解釈するときにも用いることができます。


月曜日:説教学とは説教の技術で、学生は説教の準備や方法について学びます。説教者はしばしば、もとの意味を特に考慮しないで聖句の言い回しをそのまま用い、それによって何かを指摘したり、強調したりすることがあります。これは聖書の説教学的(訓戒的)使用と呼ばれます。
 エレン・G・ホワイトは頻繁に聖書を説教学的に用いています。彼女は聖書の言葉に精通していて、あるテーマについて話したり、書いたりするときにはいつでも、聖句を用いてそれを教会に伝えました。
 たとえば、正しい姿勢について次のように述べています。「まず第一に心がけなければならないことは、立ったときと座ったときの正しい姿勢である。神は人間をまっすぐにおつくりになった。神はわれわれが肉体的な恵みばかりでなく、また知的霊的な恵み、すなわち美徳、気品、落ち着き、勇気、独立心を持つように望まれるが、そうした美徳を養うには、まっすぐな姿勢が大いに役立つのである」(『教育』235、236ページ)。
 「神は人間をまっすぐにおつくりになった」という表現は『コヘレトの言葉』7:29からの引用です。しかし、ソロモンが『コヘレトの言葉』を書いたときには、姿勢のことではなく、道徳的な高潔さのことを言っていたのでした。

火曜日:神はエレミヤを通して御自分の民に悪しき道を離れるように訴えられました。しかし、彼らは聞き従いませんでした。預言者エレミヤは23~26節で、もし彼らが背くなら起こるであろうことを幻の中で見せられました。彼は詩的な言葉を用いて、反逆のゆえにユダの地に臨むであろう滅びと荒廃を描写しています。重要なことは、聖句を解釈する場合、それがどのような時代に、どのような状況の下で書かれたかを理解することです。
 エレン・ホワイトの著書を読む場合には、私たちも時代と状況を考慮する必要があります。たとえば、エレン・ホワイトは1897年に、「自転車や衣服、そのほか不必要なものに費やしたお金に関して申し開きをしなければならない」と述べています(『牧師へのあかし』398ページ)。
 19世紀末には、自転車は経済的な移動手段ではなく、金持ちのおもちゃのようなもので、初期の高級自転車は1台150ドル、今日の高級車1台分に相当する金額でした。人々は数か月分の収入を担保にして、ぜいたく品であった自転車を購入しました。その後、自転車が便利で、安価な移動手段になると、エレン・ホワイトも再び異議を唱えることがなくなりました。もし彼女が今日も生きていたなら、人々の無駄な消費行動について同じことを言っているでしょう。

金曜日:霊感の書を解釈するためのさらなる指針
(1)聖霊の導きを求める。
(2)複数のよい聖書を用いる。
(3)普遍的で、すべての人、場所、時代に当てはまる原則を用いる。
(4)発見した真理に喜んで従う。
(5)偏見と既成概念を捨てる。
(6)極端な解釈を避ける。
(7)経験者と共に働く。
(8)常識を働かせる。

「いちど救われれば、つねに救われている」という教えについてのエレン・G・ホワイトの見解
 「高慢とうぬぼれほど神がおきらいになるものはなく、また人の魂を危険にさらすものはない。あらゆる罪の中で、これほど絶望的でどうにもならないものはない。
 ペテロの失敗は、瞬間的でなく、除々に起こった。自己を過信して、救われたものと思い込んでいるうちに、一歩一歩と堕落の道をたどり、ついには、主を拒否するようになった。
 わたしたちも天国に入るまでは、もはや自分は試練に負ける心配はないと感じたり、自信を持ったりすることは安全ではない。救い主を受け入れた者は、たとえどんなに真面目な改心者であっても、わたしたちは救われている、と言ったり、また、感じたりするようにその人々に教えてはならない。これは、誤解を招きやすい。
 もちろん、わたしたちは、すべての者に希望と信仰とをいだくように教えなければならない。しかし、自らをキリストにささげ、キリストに受けいれられたことを知ってもなお、わたしたちは、誘惑の手のとどかないところにいるわけではない」(『希望への光』1243ページ、『キリストの実物教訓』134ページ)。


 今週の暗唱聖句は、キリストが十字架に亡くなられたことを悲しみながら、エマオへ帰って行く二人の弟子たちへ、歩きながらキリストが預言者の言葉の解説をされて、それを聞いた二人が励まされたことを思い出している聖句です。
 この時、二人はイエス様が語っていることがわかりませんでした。つまりイエス様が復活されたことは知らなかったのです。彼らは、イエス様が復活したので心が燃やされたのではありません。状況は何も変わっていないのですが、預言の言葉が彼らを励ましたのです。

 さて、わたしはあと2週間で札幌の地を離れて、新しい働きに就きます。それはこれまで体験したことのない、まったく新しい社会福祉という分野です。
 このことが内示され、そして決定に至る段階で、わたしは何回も「なぜわたしなのでしょう。もっとふさわしい方がいるはずです」と不安のうちにお祈りしました。不安な思いは今でもかわりませんが・・・・
 希望への光を徐々に読んでいますが、預言者エリヤとエリシャのところを読んでいました。特にエリヤは、ほとんどの国民が神様を捨てて偶像を礼拝してしまっているという時に、神様からの警告を伝えるために召された預言者でした。それは苦しい働きの連続でした。けれども彼が神様にすがって歩む時に、神様はエリヤを助けられたのでした。そしてその後を受け継いだエリシャも同様でした。
 その物語を読みながら、わたしの心は不思議と燃やされました。いろいろな方が今回の異動に関して、あたたかな励ましの言葉をかけてくださいました。それら一つ一つがどれだけうれしかったか・・・けれども、それ以上に預言者が書いた言葉から、大きな励ましと力を受けました。状況は何も変わっていませんが、神様はわたしを見捨てないと思えた時に、心は安らかになりました。

 預言の言葉は、自分勝手に、また自分の都合が良いように読んでしまってはいけないと思います。
 けれども謙遜に、心を低くして傾聴する時に、そこからは考えていなかった新しい光が、そして力が与えられます。だからこそ聖書通読、あかしの書を読むことは大切なのです。


北海道  安河内 アキラ




安息日学校教課  2009 年 第1期10課

2009-03-07 00:14:51 | ディボーション

みなさま

 しまった!と気がついた時には金曜日の夜でした。実は今週は比較的早く教課の学びを終えていました。それで終わったしまったと錯覚して・・・教課メルマガを作ったつもりでいました。おはずかしいかぎりです。安息日の朝に最後の学びの助けになればと願いつつ送信します。


第10課  「預言者のメッセージ」  3月7日


暗唱聖句「自分自身と教えとに気を配りなさい。以上のことをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります」テモテ第一4:16

今週の聖句  出エジプト記20:1~17、レビ記16章、マタイ24:24~31、ローマ3:21~28、ヘブライ8:1、2、9:23

今週の研究:セブンスデー・アドベンチスト教会の教理的基礎は大部分、アドベンチストの開拓者たちの小さな、献身したグループによって形作られました。彼らの集会を特徴づけるものは熱心な聖書研究と祈りでした。
 一同が行き詰まったときには、エレン・ホワイトが幻の中で与えられた答えを提供することはありましたが、彼女から進んで教理を定式化するようなことはありませんでした。幻は信仰や独創力、懸命な努力、聖書研究の代わりとして与えられたのではありませんでした。
 忘れてはならないことは、私たちの教会の教理がただ聖書だけにもとづいているということです。これらの教理の中にはエレン・ホワイトの助けによって明確になったものもありますが、それらはエレン・ホワイトの文書に依存しているわけではありません。


日曜日:ギリシアの詩人ホメーロスによれば、[イタリア本土とシチリア島の間の]メッシーナ海峡を通過する船は一方のスキュラ岩にぶつかるか、他方のカリブディス渦に飲み込まれる危険がありました。クリスチャンもつねに律法主義か安価な恵みのどちらかに乗り上げる危険があります。キリストによる救いの確信について語ることは安価な恵みと罪深い生き方の黙認につながると主張する人たちは服従の重要性を強調します。服従と勝利に満ちた信仰生活について語ることは関心をキリストからそらし律法主義につながると主張する人たちは、救いにおける神の役割を強調します。

 調和のとれたクリスチャンはイエスによる救いを確信し、同時に勝利に満ちた信仰生活を送ります。両者の関係は硬貨の両面のようなものです。神は義とされる人を、同時に清めてくださいます。一方がなければ、もう一方もありません。私たちはただ信仰によってのみ救われますが、救いをもたらす信仰はよい行いを伴います。しかし、たとえ聖霊の油(力)によってなされたとはいえ、よい行いは決して私たちを神の前に義としません。私たちの救いはただ私たちのためのイエスの御業にのみ根ざしています。

火曜日:ある意味で、安息日は恣意的に定められたものです。他の日でなく、なぜ7日目なのでしょうか。理由は、神がそのように言われたからです。盗むな、殺すな、むさぼるな、といった戒めには、明らかにそれなりの論理的理由があります。人はこれらの規定に従うことでクリスチャンになるのではありません。クリスチャンでなくても、従っている人は大勢います。
 しかし、いかなる自然現象にも根ざしていない第7日安息日を守ることは、神がそのように言われたからという理由で従う自発性を現すことになります。安息日を守ることは信仰の行為です。私たちが第7日安息日を守るのは、それが社会的に受け入れられているからでも、人気があるからでも、自然のサイクルに合致しているからでもありません。ただ、神がそのように命じておられるからです。恵みによって救われた新約聖書のクリスチャンとして、私たちは神の戒めに対する服従を通して私たちの信仰を表すのです(ヤコ2:10、11、Iヨハ5:2、3、黙14:12)。
 事実、私たちは安息日に休むことによって、キリストにある休みが単なる言葉でないことを世に表すことになります。私たちは安息日を守ることによって、真の意味においてキリストの救いの御業において休むのです。日ごとに、そして特別な意味において週ごとに、安息日に休むことによって、私たちはキリストに対する心からの確信を現すのです(ヘブ4:1~11)。安息日を守ることはキリストにおける私たちの安息の外面的な現れです。

木曜日:19世紀にジョン・N・ダービーによって初めて紹介されて以来、キリストの再臨が2段階からなるという考え方は今日の多くのプロテスタントに受け入れられています。その第1段階は、すべての真のクリスチャンがキリストと共に天に挙げられる秘密携挙であり、第2段階は、7年後にキリストが現れて1000年間地上で支配するというものです。
 セブンスデー・アドベンチストは、再臨を携挙とキリスト出現の2つに分割する考え方が聖書にもとづくものではないと考えます。新約聖書によれば、イエスの再臨は分割できないもの、一つのもの、文字通りのものであって、耳に聞こえ、目に見える出来事です(Iテサ4:16、17、黙19:11~21)。イエスはまた、御自分の再臨の様子に関連して、偽りの解釈に注意するように警告しておられます。イエスは明らかに、偽りが蔓延することを知っておられました(マタ24:24)。聖書がキリスト再臨の様子を具体的に描写しているのはそのためです。


 今週の学びで、心に残ったのは、火曜日と木曜日でした。安息日は、自然現象でも説明できませんし、世の中の一般的な善悪の標準でもありません。これを守るのは、ただ神さまがお命じになったからでした。これ以外の理由はありませんし、これほど明確な説明もありません。火曜日のところをよくお読みになってください。

 そして木曜日の再臨の方法について、「携挙(けいきょ)」とか秘密携挙と呼ばれる考えについてです。アメリカで多くのクリスチャンが読んだというレフトビハインドシリーズをわたしも読みました。その中には、ある日、突然キリストは正しい人を取り去られるとあります。それによって突然人がいなくなることで大混乱が置きます。たとえば運転中の人が天に召されて、車が暴走したままになります。こどもたちがいなくなります。残された人々はなぜいなくなったのだろうか考えます。そして、その理由に気づき改心してリバイバルが起こり、キリストがおいでになる再臨に向けての準備が始まるというストーリーです。
 神さまは、このような混乱を起こされるのでしょうか。聖書のどこを見ても再臨が二回に分かれるとは書かれていません。

 火曜日のところで安息日は神さまのおっしゃったことと教えていますが、再臨も神さまのおっしゃったことを、そのまま信じることがとても大切なのです。
 ホワイト夫人はより具体的にメッセージを受けています。わたしたちはそれをよく読む必要があります。それは聖書の内容と調和しています。
 聖書は再臨に向かって生きるようにとは教えていません。いつ来ても良いように準備をしなさいと教えています。
 神さまとお目にかかれる喜びの日まで、わたしたちは与えられた道を心を尽くして歩むこと、これこそが再臨の備えなのではないでしょうか。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2009 年 第1期9課

2009-02-27 07:48:58 | ディボーション

みなさま

 今月に入り、エルドリッジ先生と岡藤先生、戦後日本のSDA教会発展に大きな役割を果たした先生が相次いで眠りにつかれました。
 決してお二人を比べているわけではありませんが、わたしはエルドリッジ先生が日本を離れて極東支部でご活躍されているころからの記憶しかありません。それに比べて岡藤先生は、父が親しくしていただいたこともありましたが、こどもの時からいつも声をかけてくださっていました。
 今までは、いろいろな方の訃報をうかがっても、個人的なつながりがほとんど無かったことが多かったのですが、育てていただいた先生が亡くなられると、ほんとうにさびしくなります。このように身近な方がお亡くなりになるようになるということは、わたしもそれだけ齢を重ねたということになるのでしょうね・・・。


第9課  「預言の賜物の誠実さ」  2月28日


暗唱聖句「主は生きておられる。わたしの神が言われる事をわたしは告げる」歴代誌下18:13

今週の聖句  サムエル記下7:1~7、列王記上22:10~18、エレミヤ書43:2~4、ダニエル書8:27

今週の研究:近代における聖書批判を読むと、ある事実に気づきます。聖書に向けられた同種の攻撃がエレン・ホワイトに向けられた攻撃に類似しているということです。そして、エレン・ホワイトに向けられた攻撃の一つが、彼女がほかの資料を用いているので、信頼できないし、正直ではないというものです。
 しかし、エレン・ホワイトはその著書の中で、自分が他人の文書を使用したこと、またその理由について説明しています。その上、読者に対して、自分が著書の中で使用した本の何冊かを読むように勧めています。このことからも、彼女がほかの資料を使用したことを隠そうとしたとは思われません。
 今週は、霊感が聖書記者とエレン・ホワイトの上にどのように働いているかをもう少し詳しく学びます。


火曜日:エレン・ホワイトは聖書の霊感を強く強調しました。「私は聖書をありのままに、つまり霊感の言葉として受け取ります」(『セレクテッド・メッセージ1』6ページ、改訳)。同時に、彼女は自分の文書に対しても神の霊感を主張しました。「私の書くこれらの手紙の中で、私の語るあかしの中で、私は主から示されたことをあなたがたに伝えています。……このことは、私たちの印刷物の中の記事や、私の多くの書物についても同じです」(同22、23ページ、改訳)。

 エレン・ホワイトは自分の文書を、より大きな光(聖書)に人々を導く小さな光と呼びました(『伝道』125ページ参照)。
 どちらも光ですが、その機能は異なります。
(1)聖書はすべての時代の、すべての人のための神のメッセージです。エレン・G・ホワイトの文書は特定の時代、つまり終わりの時代の、特定の人々、つまり残りの教会のための神のメッセージです。
(2)彼女の文書は新しい、あるいは付加されるべき教理の標準ではなく、終わりの時代の教会の助けとなるものです。彼女の文書は読者の関心を聖書に向けさせるものであって、聖書の代わりになるものではありません。

水曜日:預言者はただ主の啓示されたことだけを知り、ただそれだけを「主はこう言われる」として伝えることを許されました。一人の預言者に与えられたメッセージが他の預言者に与えられたメッセージを補完するということがよくあったので、預言者はさまざまな啓示を調べ、比較して、調和のとれた、包括的な神のメッセージとして伝える必要がありました。
 エレン・ホワイトの場合もそうでした。「私は60年の間、天の使者たちと交わり、聖なる事柄について、また神が魂を誤った道から神の光に導くために絶えず働いておられる方法について絶えず学んできた」(『セレクテッド・メッセージズ』第3巻71ページ)。
 エレン・ホワイトの初期の文書を後期の文書と比較すると、ときどき後期の文書が前期の文書を修正あるいは敷衍していることがわかります。これは神のメッセージに対するより深い洞察の現れと言えます。
 エレン・ホワイトは組織神学者というよりも、むしろ伝道者あるいは神の御旨の伝達者でした。神学についての彼女の理解は聖書にもとづき、幻によって強められましたが、同時に聖書とほかの書物を継続的に研究することによって、また聖霊の導きに心を開くことによって深められました。

木曜日:預言者ナタンは賢明で、思慮深く、神を畏れる人でしたが、預言者の語ること、行うことのすべてが霊感によるものであるとは限りません。ダビデの計画に承認を与えるにあたって、ナタンは王の一友人として語ったのであって、預言者として語ったのではありませんでした。イスラエルの神のために永続的な住まいを建てることは、敬虔な民のだれもが望むところだったでしょう。しかしながら、神は夜の幻の中でナタンに、彼がダビデに告げたことは誤りであって、ダビデのもとに行って、そのように告げねばならないと言われます(サム下7:4~17)。
 エレン・ホワイトは誤りのない人間ではなく、彼女も誤りのない人間であると主張したことは一度もありません。彼女は成長し、それにともなって物事に対する考え方も変わりましたが、いつでも新しい光に対して心を開いていました。
 預言者はいつでも「勤務中」、つまり四六時中、神のために語るわけではありません。「普通のことを語り、普通のことを考え、普通の手紙を書き、働き人から働き人へと伝えられた情報を伝えねばならないときがある。そのような言葉、そのような情報は聖霊の特別な霊感によって与えられたものではない」(『セレクテッド・メッセージズ』第3巻58ページ)。
 しかし、歴史に示されているように、もし誤った勧告が預言者によって伝えられたなら、神はその誤りを正すために介入されます。


 今週の学びをしながら、ホワイト夫人が神さまから、今までの聖書歴史の大パノラマを見せてもらっていたとしたら・・・ほんとうにうらやましい限りだと思いました。
 けれども天国へ行ったら、それはできるんでしょうね。それとも天国へ行ったら、罪の世界を思い出すよりも、もっとすばらしいものに満ちているのかもしれません。

 例えば、すばらしい景色を見たり、できごとに出会ったとしたら・・・それを第三者に文章で伝えるのは、それをできるだけ正確に伝えるのは、ほんとうに難しいだろうなと思います。
 ホワイト夫人も、神さまから見せられた幻を、文書にするために、ほんとうにご苦労をされたことではないでしょうか。その過程で、より適切な文書があればそれを引用するというのは考えられることだと思います。
 大切なことは、預言の内容をいかにわかりやすく、正確に伝えることで、そのためにホワイト夫人は最善と思われる方法を取ったのです。

 預言者も人間です。しかしその弱い人間を用いてくださった神さまを信じるわたしたちは、預言者の言葉を信じることも大切なことではないでしょうか。
 キリスト教は、神さまの言葉を信じて従う宗教なのです。それだからこそ預言者の言葉を同じように信頼するときに、神さまからの現代のわたしたちへの声を聴き取ることができるのです。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2009 年 第1期8課

2009-02-20 20:26:38 | ディボーション

みなさま

 今週火曜日、かつての教会員のご親戚の方が、ヴァイオリンコンサートを開かれて、演奏をうかがってきました。音楽のことは門外漢なので、詳しいことはわかりませんが、ただ一つ言えたことは「生はすばらしい!」ということでした。演奏者の息遣い、動きなどが演奏とともに伝わり、心に響きました。
 このごろインターネットや携帯電話の発達により、直接会わないでも用件を済ませることが多々ありますね。けれども、今回コンサートを聞きながら、直に顔をあわせて語ることの力を感じました。


第8課  「預言者の権威」  2月21日

暗唱聖句「預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい」テサロニケ第一 5:20,21

今週の聖句  出エジプト記4:10~16、サムエル記下12:1~15、列王記下22:10~13、エレミヤ書36:22~31、マルコ1:21~27、使徒言行録16:25~34

今週の研究:聖書全体を通して、一つのテーマが繰り返されています。つまり、神は御自分の預言者を通して民に語り、民は語られたことを受け入れるか拒否しています。民にとって、預言者の言葉を拒否することは預言者を拒否することでなく、預言者を遣わされたお方を拒否することを意味していました。
 したがって、神の御名において語るということは非常に重大なことです。それは、いわば宇宙の創造者の代弁者になることですから、責任は重大です。
 残念なことに、聖書の歴史は預言者を通して語られる神と、神の語られたことを拒否する民の記録で満ちています。私たちも今日、同じ過ちに陥らないようにどんなに注意しなければならないことでしょう。


火曜日:今日、私たちはそれを拒むことができます。たとえば、時代遅れのものとして軽蔑し、無視し、非難すること、あるいは何ら歴史的な価値や権威を持たないものと解釈することがそれです。
 しかし、聖書の権威を拒むことには責任がともないます。遅かれ早かれ、人はその報いを受けることになります。書かれた神の御言葉には、神の品性と御旨、人間存在の意味、各時代の人類に対する神の目的がだれにでもわかるように書かれています。それを拒むことは即座の結果をもたらさないにしても、永遠の損失をもたらすことは確かです。
 「キリストは、聖書が疑問の余地のない権威書であることを指摘されたが、わたしたちもそうすべきである。聖書は、無限の神のことばであって、あらゆる論争の解決とすべての信仰の基礎であることを示すべきである」(『希望への光』1199ページ、『キリストの実物教訓』16ページ)。

水曜日:教会内のすべての人がエレン・ホワイトの預言者としての権威を受け入れているわけではありませんが、全体としてみれば、教会は彼女の勧告を受け入れ、それによって恩恵を受けてきました。たとえば、教会組織は1863年(世界総会が組織された)から1901年までの間、基本的にはもとのままでした。働きが多方面に拡大するにつれて、働きを強化するために種々の協会(医事伝道、安息日学校、宗教自由、トラクト協会など)が組織されました。これらの協会はみな独立した団体によって運営される自立組織であって、世界総会という組織と一体でなかったために、互いに競合することがありました。その一方で、世界伝道に関する重要な決定はバトルクリークにある世界総会の少数の人たちによってなされていました。
 1901年の世界総会の開催前日、エレン・G・ホワイトは教会指導者を集め、教会運営に関して思い切った改革をするように勧めました。会議が始まったとき、通常の議題を差し置いて、教会の機構改革について審議するための大委員会(約75名)が指名されました。その結果、世界総会委員会は大幅に拡大され、種々の協会が世界総会の部局となり、伝道地の指導者がバトルクリークの決定を待つことなく現場で決定を下すことができるように、ユニオン・カンファレンス(教団)が組織されました。神の勧告によって発議された機構改革は全会一致で承認され、時代の試練に耐えてきました。いくぶん修正と拡張があったものの、それは今日もセブンスデー・アドベンチスト教会の組織として存続しています。

木曜日:ダビデの時代においては、モーセの書が聖書でしたが、ダビデはナタンの権威を決して疑ったことがありませんでした。ナタンの書は聖書に含まれていませんでしたが、ダビデはナタンが預言者であり、その言葉が権威あるものであることを知っていました。
 考古学者が今日、ナタンの書を発見したと仮定してください。それは聖書に追加されるでしょうか。いいえ、そのようなことはありません。それは正典外の、霊感の書とされるだけです。また、もしその中に神学的な記述が載っていたとしても、それは正典外の、霊感を受けた、権威ある記述とされるだけです。
 正典とは、あくまでも神の導きのもとで集められた書巻であって、神の民の生活と信仰の、そして他のすべてのことを判断する標準となるものです。それは、人が救われるために知る必要のあることをすべて含んでいます。しかしながら、預言者が霊感のもとで書き記したすべてのことが聖書の中にあるわけではありません。たとえば、パウロは今日の新約聖書にある手紙のほかにも、霊感を受けた手紙を書いています(Iコリ5:9、コロ4:16)。もし今日、それらの手紙の一つが見つかったとしても、それは聖書の一部となることはないでしょう。それは、正典外の、権威ある、霊感による手紙とされるだけです。
 エレン・ホワイトの権威はこの正典外の預言者の権威と似ています。彼女が教会のために受けた霊感によるメッセージは正典に追加されるものではありません。彼女の文書はもう一つの聖書でもなければ、聖書と同じ権威を持つものでもありません。結局のところ、私たちの最終的な権威は聖書、しかも聖書のみということになります。


 聖書に書いていないけれど、SDA教会の中で定説のように語られていることの一つに「ノアは洪水まで120年かけて箱船を作った」ことがあります。その根拠は人類のあけぼの上巻94ページ書かれているからではないでしょうか。
 ホワイト夫人は上記のことを、神さまから直接聞き、それを記録したことでしょう。洪水前の人類は900歳前後まで生きていたとしたら、120年かけて作ったとしても不思議ではありません。また長さ135メートルくらいの長さの巨大な船を、重機が無い中で人の力だけで作ったとしたら、そのくらいの年数がかかるものなのでしょうね。

 ノアは上記の期間中、洪水が来ること、船に乗ることしか救いが無いことを語り続けたでしょう。
 預言は、しばしばわたしたちの経験していないこと、人間の理性では理解できないことを語ります。洪水以前は雨が降らず、地から泉が湧き出して必要な潤いを与えていたと書かれています。(創世記2:5,6参照) ですから当時の人たちに、天から雨が降ると言っても理解することができなかったでしょう
 今日のわたしたちにとっても、天から雲に乗ってキリストがおいでになると言われても、わたしたちの理性で考えたら「雲に人が乗れるか?!」で終わってしまいます。

 ノアの時代の人々は、洪水の預言を無視したのでした。そして結果としてみな滅んでしまいました。
 預言は神さまから語られたものです。そしてそれは愛する神さまが、人間を救うために道を用意されたものなのです。
 ノアはニネベに「悔い改めなければ滅亡する」と語りに行きました。それは神さまが滅ぼすためではなく、一人でも多くの人を救うためでした。
 わたしたちのすることは、その言葉の権威を認めて、そしてその声に従うことなのです。その時に救いがあなたに与えられます。キリスト教は神さまの言葉を信じる宗教なのです。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2009 年 第1期7課

2009-02-13 16:28:06 | ディボーション

みなさま

 数日間、会議などで上京してきました。東京はあたたかで、ところどころで梅が開花していました。みなさまの地方はいかがですか?
 札幌では雪まつりが昨日で終わりました。今朝一番に雪像は壊されたはずです。雪まつりが終わると、毎年のことですが春の陽射しが強くなってきますね。確実に春が近づいてきています。


第7課  「預言者の働き」  2月14日

暗唱聖句「主は一人の預言者によって イスラエルをエジプトから導き上らせ 預言者によって彼らを守られた」ホセア書12:14

今週の聖句  創世記22:1~14、イザヤ書53章、マタイ3:7~10、コリント第一・5:1~5

今週の研究:聖書にはっきりと示されているように、預言者の生涯は決して安楽なものではありませんでした。エレン・ホワイトも決して例外ではありません。聖書の預言者が直面した試練(投獄、石撃ちなど)とは異なりますが、彼女もさまざまな試練に遭いました。
 今週は、彼女の働きについて、また聖書に登場する預言者の働きとの共通点について学びます。


月曜日:初代教会の指導者たちは多くの問題に直面しました。不道徳や背信、教会組織、その他さまざまな問題がありました。預言者と使徒たちは主の啓示された御心に従って、神の民を指導しました。
 初期のアドベンチスト教会もさまざまな問題に直面しました。最初の20年間は教会組織がなかったので、教会によって雇われた牧師はなく、だれでも説教することができたので、異端が生じました。さらに、教会の建物やレビュー・アンド・ヘラルド出版所は個人名義になっていたので、いろいろと厄介な問題が生じる可能性がありました。ジェームズ・ホワイトは教会の組織化を強く勧めましたが、うまくいきませんでした。

 1854年に、エレン・ホワイトは教会の秩序に関して次の記事を書きました。「わたしは、福音の秩序ということを、人々があまりに恐れ、また、おろそかにしているのを主に示された(注:再臨信徒は、あらゆる教会から来た人々であった。そして、彼らは最初、別の教会をおこす考えはなかった。
 1844年の後で大混乱が起きた。それで、大多数の人々は、福音の完全な自由に矛盾するという理由で、どんな組織にも強く反対した。ホワイト夫人の証しと活動は常に狂信に反対を示したものであって、混乱を防ぐためにある種の組織は必要であるということが、彼女を通して与えられた教えの中で、早くから強調されていた)。

 形式主義は、避けなければならない。しかし、そのために秩序をおろそかにしてはならない。天には秩序がある。キリストが地上におられたとき、教会には秩序があった。そして、彼が地上を去られた後も、秩序が彼の使徒たちの間で、厳格に守られていた。……」(『初代文集』189、190、194、195ページ)。

 それから6年後の1860年に、教会の名称が採択されました。1861年にはミシガン年会が組織され、1863年には世界総会が組織されました。

水曜日:預言者は神から受けたメッセージを民に伝えるように命令されました。ある場合には、彼らは人々の前で語ることによって神の言葉を伝えました。
 ある場合には、個人的な会見によって証ししました。さらに、そのときに生存していた人たちだけでなく、将来のすべての世代も神の言葉を聞くことができるように、預言者は神から受けたメッセージを書き記すように命じられました。

 当初、エレン・ホワイトはまた自分に啓示されたことを書き記すように告げられます。個人のためのメッセージはしばしば手紙によって相手に伝えられました(これは「証し」とも呼ばれる)。何千というこれらの通信文は自宅から郵送されました。
 彼女は次のように記しています。「これらの手紙や証しの中で、私は主から示されたことをあなたに伝えているのです」(『教会への証し』第5巻67ページ)。既刊と未刊のものを合わせると、彼女は約10万ページにおよぶ文書を残しています。

木曜日:イザヤはキュロスの時代の約150年前に、キュロスという名の王がユダヤ人をバビロンから連れ戻し、エルサレムの神殿を再建すると預言しました。この預言が成就したことはエズラ記1:1~4を見ればわかります。
 エレミヤはバビロン捕囚の期間を予告し、ダニエルはメシア到来の時をイエス生誕のほぼ600年前に予告しました。これらの預言は聖書の霊感を裏づけるものです。

 エレン・ホワイトについても、同じことが言えます。
 1885年には、エレン・ホワイトは次のように予告しています。「プロテスタント主義が深淵を越えてローマの勢力と手を結ぶとき、また深淵を越えて心霊術と手を結ぶとき、……サタンの驚くべき働きの時期が来たこと、また終わりが近いことを知る」(『教会へのあかし』第5巻451ページ)。
 彼女がこれらの言葉を書いたとき、プロテスタントとカトリックは激しく対立していました。1885年には、教会一致運動はまだ遠い先のことでしたが、今では時代はすっかり変わりました。一例をあげると、1994年3月29日には、39の指導的な福音主義プロテスタント教会とローマ・カトリック教会が「福音主義教会とカトリック教会の連携──第3千年期におけるキリスト教の使命」と題する文書に署名しています。これは驚くべき預言の成就です。


 昨年末に「神の深みに」ジョン・ポーリン著(福音社刊)を購入し読んでいます。預言から今日のわたしたちがどのように神さまの声を聴くことができるのか、とても大切な視点で書かれています。今期の教課の学びにとてもふさわしい読み物です。ぜひお読みになることをお勧めします。
 
 その中で、預言者が直接わたしに何かを勧告した場合、わたしたちはそれを釈義(背景や意図などを解釈して真意をつかむこと)が必要ありません。それは神さまがわたしに向けて預言者を通して語られたことなのですから、わたしたちがするべきことは、その言葉に従うか否かなのです。
 たとえばヨナが「ニネベに行け」と命じられたら、神さまがなぜそのようなことをおっしゃったのだろうかと思い巡らせて、答えを見つけるのではなく、「行け」という命令は神さまの守りの保証でもありますから、そのまま従えば良いのです。
 ヒゼキヤ王に預言者イザヤが「あなたは死にます」と命じた場面がありますね。これは王も辛かったでしょうが、預言者にとっても同様だったでしょう。
 もし今、預言者が実在して、直接何か勧告を受けたら、わたしはどうするでしょうか。すぐに従うことができるでしょうか。

 ホワイト夫人もしばしば直接、個人に向けて語られています。彼女は神学者ではありませんが、あたたかな愛情に満ちた牧会者でした。彼女の勧めには、相手の状況に応じて様々な勧告が記録されています。
 ある信徒への勧告と、別の信徒への勧告が残されている中で、ホワイト夫人が正反対のことを語っている箇所を何箇所も見つけることができると聞きました。
 これはホワイト夫人が適当なことを語っていると言うのではありません。相手を見て、相手に必要な勧告が与えられた時に、それを語っているのです。

 ですからわたしたちも預言者が過去に語った言葉については、そのまま用いるのではなく、どのような状況で、どのような相手に向けて語った言葉なのかを踏まえて用いないと大きなまちがいを犯してしまう可能性があります。一部分だけ、それも自分たちの主張に近いところを、それを裏付けるために用いることは避けたいものです。
 聖書中の預言者も、そしてホワイト夫人も「死んでしまった預言者」です。今はここにおりません。ですから彼らがどのような状況、そして文化の中で暮らしながら語ったのかを良く調べて、その真意を今日のわたしたちの世界に適応させることが大切なのです。


北海道  安河内 アキラ



安息日学校教課  2009 年 第1期6課

2009-02-06 19:28:43 | ディボーション

みなさま

 2月のカレンダーを見てください。日曜日から始まっており28日間なので4行で終わっています。どのような頻度で、このようなことが起こるのかわかりませんが・・・これにうるう年も加わるので単純に7年間に一度というわけには行かないと思います。
 どうでも良いことですが・・・少しめずらしいことですね。

 札幌では今日から雪まつりが始まりました。今年で60回目を迎えています。今冬は暖冬でどうなるか心配でしたがきれいな雪像ができています。これが終わると日ざしが一気に春めいてきます。


第6課  「預言者を試す」  2月7日

暗唱聖句 「預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい」テサロニケ第一 5:20、21

今週の聖句 イザヤ書8:20、エレミヤ書18:6~10、ヨナ書3、4章、マタイ7:20、ガラテヤ2:11~14

今週の研究:「セブンスデー・アドベンチスト教団信仰の大要」17に、次のように記されています。「聖霊の賜物の一つは預言である。この賜物は残りの教会を見分けるしるしであって、エレン・G・ホワイトの奉仕にあらわれている。主の使者としての彼女の著書は、つねに信頼のおける真理の源であって、教会を慰め、導き、教え、その過ちを正す。彼女の著書はまた、聖書がすべての教えと経験を審査する基準であることも明らかにしている」(『アドベンチストの信仰』370ページ)。〈ヨエ2:28、29、使徒2:14~21、ヘブ1:1~3、黙12:17、19:10参照〉
 エレン・ホワイトは一度も自分自身を預言者と呼んでいませんが、教会は彼女を預言者と認めてきました。彼女は1905年に次のように記しています。「他の人たちが私を預言者と呼んだことはありますが、私は一度もそう言ったことはありません。私は、私自身をそう言わなければならない、と感じたこともありません」(『セレクテッド・メッセージ1』32ページ)。
 今週は、エレン・ホワイトの預言の賜物についてもう少し詳しく学びます。


月曜日:律法(“トーラー”)とは、霊感を受けたモーセの書をさす聖書の言葉です(申4:44、31:9)。証しは預言者の証言をさします(代下23:11──口語訳参照、ヨハ3:32)。言い換えるなら、預言者の語ることは神がすでに啓示されたことと調和していなければなりません。後の預言者が救いの計画に関してさらなる洞察を啓示したとしても、それらは神が先に語ったことがらと矛盾することはありません。神の不変性(マラ3:6)は人類に対する神の啓示にかかっています。
 真の預言者はみな、先の預言者の書を自分の働きの基準としてきました。エレン・ホワイトもそうでした。彼女の書を読んだことのある人はみな、彼女が至るところに聖書を引用していることを知っています。彼女は聖書を熟知し、絶えず聖句に言及し、しかも書いたことは聖書と一致していました。彼女は神学者でもなければ、聖書の注解書を書いているわけでもありませんが、その教えは聖書の教えと調和しています。

水曜日:ヨハネの時代には、キリストは実際に肉と血とになられたのではなく、肉体を持っておられるように見えただけだったとの考えがありました。ヨハネにとって、イエスが真に人であることを理解し、告白することはきわめて重要でした。それゆえに、彼はそのことを真の預言者であることを試すテストとしたのでした。
 このテストは、単にイエスが人となられたと信じることよりも広く、聖書がイエスについて教えているすべてのことを含みます。彼が人となられたのは、罪のない生涯を送り、それから罪深い人類のために死ぬためでした。さらに、復活と昇天後に、天の聖所で私たちのために奉仕するためでした。私たちの大祭司イエスは私たちを理解し、私たちの弱さを思いやることのできるお方です。なぜなら、イエスはあらゆる点において人間と同じ誘惑に遭われたからです(ヘブ4:14、15)。
 真の預言者はみな、救い主にして、すべての人の模範、神にして人なるイエスに、人々の思いを向けます。エレン・G・ホワイトはただそのことのために生涯をささげました。彼女は次のように記しています。「イエス・キリストは私たちにとって全部であり、すべてのことにおいて最初であり最後であり、そして最上です。イエス・キリスト、キリストの精神、キリストの品性はすべてのことを色どり、またそれは縦糸となり横糸となって、私たちの全人格という織物をなすのです。……キリストが生ける救い主です。キリストを見つづけることによって、私たちはそのみ像を周囲のすべての人に反射するのです」(『青年への使命』156ページ)。

 世の救い主としてのイエス・キリストの重要性について、エレン・ホワイトは次のように述べています。「堕落した人間のただ一つの望みはイエスを眺め、イエスをただ一人の救い主として受け入れることである」(『牧師へのあかし』367ページ)。「聖書の真理と聖書の宗教だけが裁きのテストに耐える」(『キリスト教教育の原理』127ページ)。「人間の救い主、イエスを高く掲げよう。イエスの愛について話し、イエスの力について語りなさい」(『サインズ・オブ・ザ・タイムズ』3月18日、1889年)。

木曜日:この聖句は、偽預言者を警戒しなさいという、イエスの弟子たちに対する警告の中で語られたものです(マタ7:15)。イエスは、よい木は良い実を結ぶという原則を預言者の生き方にも当てはめておられます。預言者はどんな実を結ぶのでしょうか。預言者の教えは人々にどんな影響を与えるのでしょうか。
 実によって知るためには、時間が必要です。70年におよぶエレン・ホワイトの生涯と働きは、多くの人々の懐疑と疑惑、ときにはあからさまな敵意に満ちた批判の目にさらされてきました。彼女に反対する人たちは過ちや欠点、矛盾点などをあげつらい、それで満足しています。欠点がないのは神だけであって、神の使者に欠点のない人などいません。

 エレン・ホワイトの預言者としての働きを受け入れることに困難を感じている人たちもいます。それは、彼女の文書の些細な点にばかり目を向け、たとえば神が彼女を用いてこの教会を興されたこと、彼女が神から数々の驚くべき洞察を与えられたこと、彼女がこの教会に果たした貢献といった全体像を見ないからです。


 数週間前にも書きましたが、預言者である以上、その言葉が成就しなければなりません。これは預言者としての最低限の条件です。
 けれども成就したからということだけで、その人が真の神の預言者と考えることは危険です。なぜならサタンは元天使ですから、神さまには到底及ばないにしても、人間よりははるかに霊的な世界での力があるのです。

 わたしたちはクリスチャンは「言葉を信じる民」です。世界の初めには神さまの言葉ですべてが創造されました。そしていつもともにいるという約束を信じて、人生の様々な困難に立ち向かっています。再臨の時に、神さまが呼びかけると、主にあって眠りについた人が目を覚まし、わたしたちも永遠の生命を与えられるのです。
 これらはすべて神さまの力ある言葉によるものです。そしてわたしたちはその言葉の力を信じているのです。

 預言者は、その神さまの言葉を預かり、わたしたちに伝えています。それが真の神さまからのものかどうか・・・判断する方法について今週学んでいます。
 わたしが牧師になってから、様々な預言者の言葉と言われる文書が、いろいろなところから配布されました。しかしそれによって生じたのは混乱だけでした。そしてこれからも、この人の言葉は預言者の言葉という様々な考えが教会の中で出てくるかもしれません。

 そこでまずお勧めしたいのは、これはほんとうに正しい印刷物なのか、わたしたちの魂を育てるものなのか、わからないものに出会ったら、まず牧師に相談ください。またそれが教団によって公式に認められているものなのか確認してみてください。そのようなものであれば安心できます。そうでなければ、どんなによいものと言われても、近づかないほうが無難です。
 そのような危険が潜んでいるかもしれないものに頼らなければならないほど、わたしたちは神さまのことばに欠乏しているわけではありません。
 
 もう一つ、あかしの書をぜひとも読んでください。希望への光が出版されました。わたしも読んでいますが、そこから神さまの愛がわたしにひしひしと伝わってきます。読まないで、それを判断したり批判しないでいただきたいのです。

 わたしたちに現在、手元に与えられ、そして今日まで教会を育ててきた光を大切にして、その言葉に従って歩んでいく時、神さまのみこころに沿った安全な歩みができるのです。


北海道 安河内 アキラ



安息日学校教課  2009 年 第1期5課

2009-01-30 19:13:57 | ディボーション

みなさま

 自動車運転免許の更新時講習へ行ってきました。「ひやり、はっと」することは脳が一時、認識できていなかったりしているものです。疲れている時なども、その前兆だから休むように・・・・などといろいろと注意を受けました。
 最も心に響いた言葉は「今まで大丈夫でも、今後事故にあわない保証は何一つありません」という言葉でした。毎回初心に帰り、ハンドルを握ること、わたしは大丈夫だと過信することが最も危険と聞かされ・・・信仰生活も同じではないだろうかと考えさせられましたね。
 自己過信をしている時が、最も悪魔に負けてしまうときではないかと、今までの歩みをふりかえりながら痛感します。



第5課  「預言者の霊感」  1月31日


暗唱聖句  「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」テモテ第二3:16

今週の聖句 エレミヤ書36:1~4、テサロニケ第一2:13、テモテ第二3:16、テトス1:12、ペトロ第二1:20、21

今週の研究:クリスチャンの間には長年、『聖書が霊感を受けていることの意味』をめぐって議論がありました。加えて、セブンスデー・アドベンチストの間には、エレン・G・ホワイトの霊感をめぐる問題があります。
 今週は、霊感をめぐるいくつかの問題について考えます。


日曜日:パウロによれば、聖書の起源は聖霊の働きにありました。聖霊は幻や夢を通して預言者に真理を啓示し(啓示)、その後、それを書き記す過程を導くことによって(霊感)、預言者の書いたものが神の啓示されたものと調和するようにされました。
 ペトロ第二1:21には、「人々が聖霊に運ばれて神からの言葉を語った」(新国際訳)と書かれています。船が風に運ばれるように、聖書記者は聖霊に動かされました。このように、啓示・霊感とは、聖霊が神の御心を預言者に啓示し、その後、預言者を導いてそのメッセージを宣布された過程のことを言います。ある者は御言葉を語り、ある者はそれを書き記しました。書き記されたものは霊感を受けた(神が息を吹き込まれた)聖書となりました。
 新約聖書では、使徒たちは旧約聖書の聖書記者ほど頻繁に霊感を主張していませんが、それでも彼らが自分たちのメッセージを神の権威によって与えられたものと見なしていたことは明らかです。たとえば、パウロは次のように言っています。「わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、 “霊”に教えられた言葉によっています」(コリ第一2:13)。「わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです」(テサ第一2:13)。
 しかし、聖書もまた人間の書物です。表面的に見れば、それが人間によって書かれたことを示すしるしがいくつもあります。聖書の記者たちが自分自身の経験を記すときには、人称代名詞を用いています(ネヘ1:1~11、ダニ10:1~9、ガラ1:12~20)。彼らの著作にはその当時の慣習や伝統が認められます。詩編や箴言の中には、周辺諸国の文学や文化を反映しているものもあります。言い換えるなら、神の霊感を受けているとは言え、聖書はまたそれを書いた人の人間性を反映しているということです。

月曜日:聖書の霊感については、2つの重要な考え方があります。
 1.「逐語霊感」 これは聖書の記者よりも言葉そのものに重点をおきます。つまり、聖書のすべての言葉は神の霊感を受けており、神は記者の語彙と教育的背景にもとづいて言葉をお選びになったという考え方です。
 2.「思想霊感」 これは聖書の言葉よりも記者に重点をおきます。つまり、神や天使の言葉が引用されている場合や(エレ29:30、31、黙19:9)、神が預言者を通して直接お語りになった場合を除いて(民22:35、23:1~12、26)、聖書の言葉よりも、主として思想が霊感を受けているという考え方です(第一コリ7:1 0~12、39、40、第一テサ2:13)。
 聖書記者は幻や夢、思想を受け、それを自分自身の言葉で書き記します(イザ2:1、2、黙4:1)。聖霊は用いられた言葉が神の真理を正しく伝えるように導かれます。このようにして、聖書は神の御心についての誤りのない啓示とされるのです。
 アドベンチストは聖書とエレン・ホワイトの言葉にもとづいて、思想霊感説を支持しています。「霊感を受けたのは聖書の言葉ではなく、人でした。霊感は言葉や表現に働いたのではなく、その人自身に働いたのです。彼らは聖霊の影響を受けて、思想を与えられました。しかし聖書の言葉は、個々の聖書記者の影響を受けています。神のみ心はその言葉の中にゆきわたっています。神のみ心と意志が人間の心と意志に結びついて、人間の言葉が神の言葉となったのです」(『セレクテッド・メッセージ1』11ページ、一部改訳)。
 最後の文章にもあるように、預言者の言葉は神の言葉となりました。同じように、ダビデも言っています。「主の霊はわたしのうちに語り 主の言葉はわたしの舌の上にある」(サム下23:2)。このことからもわかるように、霊感は思想を与え、さらに書かれた言葉が正確に神の思想を伝えるように導きました。

木曜日:ルカは福音書を書くにあたって夢や幻に頼ったとは思われません。彼は自分の書いている出来事の目撃者であったわけでもありません。むしろ、彼はほかの人々から聞いたことにもとづいて、明らかに聖霊の霊感と導きのもとで書いたのです。このことは、彼の書いたことが歴史上の出来事と神の御心とに調和することを保証するものでした。
 エレン・ホワイトはときどき、自分自身の著作の資料としてほかの書物を用いることがありました。彼女は『各時代の大争闘』の序文の中で、次のように記しています。「過去の宗教改革運動において起こったいくつかの大事件は、歴史的事実であって、プロテスタントの世界によく知られ、あまねく認められている。これらは、だれも否定することのできない事実である。……歴史家が諸事件を短くまとめて、問題の総合的観察を行い、要領よくその細かい部分を要約している場合には、その言葉を引用した。その際必ずしも出所を明示しなかったが、それは、その言葉を引用したのはそれらが主題を巧みに力強く提示していたからであって、その筆者を権威として引用することが目的ではなかったからである。現に改革運動を推進している人々の経験や意見を述べる場合にも、その著作について同様の取り扱いをした」(『希望への光』1594ページ、『各時代の大争闘』上巻序9、10ページ)。


 聖書は、預言者が神さまから言葉を受けて、また霊感を受けながら書かれました。それが一冊の本とするためには、当初書かれたものを後世の人がまとめるという編纂作業も行われて、一つの書簡としてまとめられたものもありました。詩歌や歴史書などは、このような作業がなされています。
 これが66の正典としてまとめられるという作業も加わります。写本や印刷などの仕事もありました。そして翻訳という重要な仕事もあります。このような作業がすべて行われて、全世界の人々にみことばが届けられています。このすべての段階で神さまは働いてくださっています。より正しい、みこころを反映するように、その作業をする人の心に働きかけて来られました。

 ホワイト夫人の著書にも、引用が多々あるという指摘がなされたことがありました。彼女はそれらを最善と考えて引用されたのでしょう。そしてその選択においても神さまの導きが与えらています。引用があるということは、彼女の言葉が神さまからの与えられた言葉としての価値をさげるものではありません。

 準備不足と言われてしまったら、それまでですが、先日説教をしている最中に、その聖句に関連する一つの例話を説教中に思い出しました。それは説教の流れにとても最適な話しでした。時間も余裕があったので、わたしは急遽その話しを説教の中に加えました。神さまが導いてくださったと信じています。
 神さまの霊感は、このようにわたしたちの必要な言葉や資料などを通して、様々な形で語りかけてくださるのです。この働きは今日、わたしたちにも常になされています。心が動かされる言葉が与えられたと思った時、それは神さまがあなたに与えてくださった言葉なのです。その言葉を聞くだけでなく、実践してみてください。その次のステップへの道が与えられて、神さまからの導きが深まっていくことでしょう。


北海道  安河内 アキラ