みなさま
三月末、法事があり親族が集まった時、桜を見ながら90歳を越えた叔母が「来年わたしはもう見れないわ!」とつぶやきました。それを横で聞いていた従兄弟が「わたしたちだってわからないわよ」と答えていましたが・・・
その時に、わたしはあたりまえのように来年も見れると思っている自分の傲慢さに気づかされました。同時に、来年この世界で桜を見ないで済む日が、一日も早く来ないかと願いました。
第2課 「信仰」」 4月11日
暗唱聖句「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」エフェソ 2:8,9
今週の聖句 エフェソ6:10~18、ヘブライ11章、ヤコブ2:18、19
今週の研究:信仰は全人格に影響を及ぼす深い確信です。信仰は生き方を支配する原則です。信仰は、目に見えなくても、実在すると知っている神の約束を把握する手段です。
ヘブライ11:1には、信仰の「本質」が述べられています。ヘブライ語の専門家であるウィリアム・G・ジョンソンはこの聖句を次のように訳しています。「信仰とは、望んでいる事柄に対する権利証書であり、見えない事柄に関する確信である」(『アバンダントライフ聖書注解──ヘブライ人への手紙』204ページ、1994年)。
日曜日:ところで、神を信じるあなたの信仰はどこから来ると思いますか。あなたの受けた教育の結果でしょうか。信心深い両親のお陰でしょうか。いつも教会に通っていたからでしょうか。聖書や宗教書を読むことによって、神の愛を確信したからでしょうか。信仰の「飛躍」を経験したのは、あなたを満足させるような哲学的な主張に出会ったからですか。結局のところ、信仰は奇跡であり、神からの賜物です。
愛がなければ、私たちは完全な人間とは言えないように、信仰がなければ、私たちは本来あるべき人間とは言えません。「『信仰がなければ、神に喜ばれることはできません』[ヘブ11:6]。……『ヘブライ人への手紙』が、信仰がなければ神を喜ばすことは困難である、あるいは信仰がなければ神を喜ばすのに時間がかかると教えているのでないことに注意してほしい。対照的に、神に喜ばれることはできないと主張しているのである。言い換えるなら、信仰に代わるものは何もないということである。過去において神の勇者たちが生きたのは信仰によってであり、今日、神の民が生きねばならないのは信仰によってである」(ジョージ・R・ナイト『ヘブライ人への手紙注解』198ページ、2003年)。
水曜日:疑いや困難の中でも、前に向かって邁進し、一時の感情や不利な状況にもめげずに神の約束にすがるなら、信仰は成長します。信仰は感覚以上のもの、変わりやすい人間の感情を超えた原則です。信仰は、たとえその気にならなくても、神から求められていると知っていることを行うことです。
クリスチャンの目標は信仰において「成熟」することです。これは生涯にわたる働きです。私たちが成長の祝福にあずかり、「信仰に基づいてしっかり立」つ一方で(Iコリ16:13)、なぜ「信仰の弱い人」(ロマ14:1)がいるのか不思議に思うことがあるかもしれません。
私たちは自分が今日の霊的状態に到達するまでに相当な時間がかかったことを忘れる傾向があります。たとえ忘れることがあっても、私たちは高慢になったり、人を裁いたりしてはなりません(Iコリ10:12)。信仰の種を芽生えさせ、信仰生活を成長させてくださるのは神です。これは決して忘れてはならない真理ですが、同時に、個人的な選択によって、霊的成長を可能にするような環境づくりを助けることができることを忘れてはなりません。
木曜日:教理は重要です。私たちは神と神についての啓示をもっと詳しく知りたいと望みます。私たちが創造主なる神と神の御業について信じていることを体系化し、それによって神の御心を知ろうとすることはごく自然なことです。私たちは自分の教会の教理が正しいと信じていますが、私たちの信仰は教理の体系だけでなく、むしろイエスに基礎を置いています。教理はそれ自体のうちに目的を持つのではありません。教理は、私たちがイエスとイエスの御業を理解するのを助けるものです。
クリスチャンの信仰における教理の役割は、ある意味で、文法の役割にたとえられます。私たちが言葉を通して意思を伝達することができるのは、その言葉に文法的な構造があるからです。同じように、私たちは教理を通して私たちの信仰の中身に一定の構造を与えています。中世の神学者、聖アンセルムスは、「神学は信仰そのものを理解するための信仰である」という有名な言葉を残しています。
健全な教理は不可欠なものですが、命のない理論にすぎない教理や神学は人を救いません。人は信者にならなくても神学者にはなれます。信仰とは結局、聖書的に正しいとされる数々の信条を受け入れることではなく、教理が語っているお方に信頼することにほかなりません。
教会では、しばしば「信仰を持つ」という言い方をしますが、わたしは「信仰は持っているだけではだめなんです。働かさなければなりません」と語ってきました。
アブラハムの信仰を神さまが義と認めたのは、イサクをささげようとしたからではないでしょうか。まさに信仰を働かせたからでした。(ヤコブ2:21参照)
それでは信仰を働かせるとはどのようなことなのでしょうか。逆に、これから起こることがすべて整った道を歩むことが信仰を働かせることでしょうか。それは現実を見ているだけに過ぎません。
信仰とは、これから起こることのすべてはわからなくても、神さまが必ず導いてくださると信じて前進することではないでしょうか。
わたしは牧師として何回か新しい任地へ向かいました。いろいろな不安もありましたが、そこを去る時には、赴任時には考えもしなかった喜びの出会いが与えられて、次の働きに向かうことができました。
不安の暗闇の中でも、必ず導かれると確信をして前へ進むこと、霧が晴れるまで待つのではなく見えるところまで、まさに達しえたところまで進むことが信仰者の歩みではないでしょうか。(フィリピ3:16参照)
信仰を働かせてください。神さまはかならずあなたの信仰に応えてくださいます。わたしもそれだけに望みをおいて歩んでいます。
東京 安河内 アキラ