みなさま
月が変わったら急激な寒波に襲われた一週間となりましたね。いかがお過ごしでしょうか。
そしてこの時期は、三育教育機関では園児、児童、生徒、学生募集が始まっています。特に今年は不況の影響が私立学校には及ぶと思われます。おそらく例年以上に厳しいのではと言われています。
教育機関は、教会の次の時代の指導者を育てる場所です。神さまの働きを支える人を育てるところです。そしてこどもを通して保護者へも福音を伝えるところなのです。
どうか三育教育機関に神さまを愛するたくさんの方々が集められるようにお祈りください。
第6課 「将来の計画」 11月7日
暗唱聖句 「わたしは、荒れ野で彼らの子供たちに語った。『お前たちの父祖の掟に従って歩んではならない。彼らの裁きを守ってはならない。また、彼らの偶像で自らを汚してはならない。わたしはお前たちの神、主である。お前たちは、わたしの掟に従って歩み、わたしの裁きを守り行い」エゼキエル20:18,19
今週の聖句 民数記15章、コリント第二2:15,16、ガラテヤ3:26~29、エフェソ5:2、コロサイ3:11
今週の研究:神はご自分の民を約束の地へ導かれるのでした。そのことについては、疑問の余地がありませんでした。
ここに、神の選ばれた民に与えられた特別な教えを見ることができます。状況がどれほど特殊であれ、命令がどれほど独特であれ、彼らに与えられた霊的教訓と原則は私たちのためでもあります。
火曜日:世にはキリストのゆるしの愛を知り、本当に神の子になりたいと望んでいながら、自分の性格が不完全で、生活にあやまちが多いために、いったい自分の心が聖霊によって新たにされたかどうか疑う人があります。こうした場合に決して失望、落胆してはなりません。
私たちは幾たびとなく、欠点やあやまちを悔いて、イエスの足もとに泣き伏すでしょう。けれども、そのために失望してはなりません。
たとえ敵に敗れても、神に捨てられ拒まれたのではありません。キリストは神の右に座し、わたしたちのために取り成しておられます。
使徒ヨハネは「わたしの子たちよ。これらのことを書き送るのは、あなた方が罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのための助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」(ヨハネ第一2:1)と言いました。キリストへの道84,85ページ&l t;/ DIV>
水曜日:イスラエルの民にとって、仲間の一人を石で打ち殺すことは辛いことだったに違いありません。(民15:30~36参照)
主は明らかに罪の重大さをご自分の民に教えようとしておられました。各人が個人的に行うことは全体の福祉に影響を及ぼすのです。結局のところ、宿営全体が荒れ野に留まることによって苦しみを味わうことになったのは、一部の者たちが不満を述べたためではなかったでしょうか。
私たちクリスチャンとして特に銘記すべきことは、私たちの行いが、よい意味でも悪い意味でも、自分自身だけでなく他人にも影響を及ぼすという事実です。
古代イスラエルの神権政治においては、死はしばしばただちに訪れました。しかし、私たちはそのことに惑わされてはなりません。侮りのゆえに直ちに殺されることがなくても、いつの日か正当な報いを受けないことにはなりません。
木曜日:目覚ましい方法でイスラエルの民のうちに臨在されたにもかかわらず、神はなお、直接的なものによって彼らのなすべきことを覚えさせようとされたのでした。
今日の私たちはこのような房を身に付けませんが、それよりもはるかに力あるもの、つまりキリストの十字架が与えられています。それは罪の代償、購いの代価、そして信仰によってイエスの功績に信頼するすべての人に与えられる救いの約束を、つねに私たちに思い起こさせてくれます。そのような人について、次のよ うに記されています。「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることができません。」へブ12:14
民数記14章では、神さまの守りを信じることができず、イスラエルの民は約束の地へ進軍することを拒んでしまいました。そして神さまから40年間の砂漠での放浪が命じられたのです。その言葉を信じずに、無謀にも戦いを挑んで敗戦したり、とても悲しいことが続きました。
しかし人生は立ち止まることはできません。悲しくても進まなくてはならないのです。
神さまは15章の冒頭で、約束の地へ入ってからの献げるものの規定などについて語っています。これは神さまが、新しい土地への希望を思い起こすように語りかけているのです。
そしてもう一つ、民15:37〜から衣服の裾に青い房を付けるように命じています。今期の寄稿メッセージは小林義尚先生が執筆されています。先生はこれは房ではなく撚り縄ではと指摘されています。
これが房なのか撚り縄なのかは翻訳の問題で、どちらの形状であるかはあまり重要なことではないでしょう。
大切なことは、それを見て神さまを思い起こすことができるものを、神さまが定められたのです。
何度も申していますが、信仰生活には神さまがなさる部分とわたしがしなければならない部分があります。神さまは導かれますが、信頼して一歩を踏み出すのはわたしたちの選びと信仰です。
イスラエルの民は、ヨシュアとカレブの声ではなく、神さまのことを忘れて現実だけを見ている人の声に従うことを選んだのでした。
神さまは、人間に自由を与えられました。だからこそ人間が選択したことを受けられるのです。
神さまは落胆している民に将来の希望を与え、そしていつも神さまを忘れないように身近な方法も提示されました。
近日のわたしたちも、まだ約束の地へ入っていませんが、すばらしい約束を聞かされています。立場は同じです。
そして神さまは、わたしたちが神さまのことを忘れないように安息日を与えてくださいました。そして聖書を与えて、いつも神さまの声を聞くことができる方法もあるのです。これを使わない手だてはありません。それはわたしたちが神さまとのきずなを再確認するために重要なものなのです。
東京 安河内 アキラ
月が変わったら急激な寒波に襲われた一週間となりましたね。いかがお過ごしでしょうか。
そしてこの時期は、三育教育機関では園児、児童、生徒、学生募集が始まっています。特に今年は不況の影響が私立学校には及ぶと思われます。おそらく例年以上に厳しいのではと言われています。
教育機関は、教会の次の時代の指導者を育てる場所です。神さまの働きを支える人を育てるところです。そしてこどもを通して保護者へも福音を伝えるところなのです。
どうか三育教育機関に神さまを愛するたくさんの方々が集められるようにお祈りください。
第6課 「将来の計画」 11月7日
暗唱聖句 「わたしは、荒れ野で彼らの子供たちに語った。『お前たちの父祖の掟に従って歩んではならない。彼らの裁きを守ってはならない。また、彼らの偶像で自らを汚してはならない。わたしはお前たちの神、主である。お前たちは、わたしの掟に従って歩み、わたしの裁きを守り行い」エゼキエル20:18,19
今週の聖句 民数記15章、コリント第二2:15,16、ガラテヤ3:26~29、エフェソ5:2、コロサイ3:11
今週の研究:神はご自分の民を約束の地へ導かれるのでした。そのことについては、疑問の余地がありませんでした。
ここに、神の選ばれた民に与えられた特別な教えを見ることができます。状況がどれほど特殊であれ、命令がどれほど独特であれ、彼らに与えられた霊的教訓と原則は私たちのためでもあります。
火曜日:世にはキリストのゆるしの愛を知り、本当に神の子になりたいと望んでいながら、自分の性格が不完全で、生活にあやまちが多いために、いったい自分の心が聖霊によって新たにされたかどうか疑う人があります。こうした場合に決して失望、落胆してはなりません。
私たちは幾たびとなく、欠点やあやまちを悔いて、イエスの足もとに泣き伏すでしょう。けれども、そのために失望してはなりません。
たとえ敵に敗れても、神に捨てられ拒まれたのではありません。キリストは神の右に座し、わたしたちのために取り成しておられます。
使徒ヨハネは「わたしの子たちよ。これらのことを書き送るのは、あなた方が罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのための助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」(ヨハネ第一2:1)と言いました。キリストへの道84,85ページ&l t;/ DIV>
水曜日:イスラエルの民にとって、仲間の一人を石で打ち殺すことは辛いことだったに違いありません。(民15:30~36参照)
主は明らかに罪の重大さをご自分の民に教えようとしておられました。各人が個人的に行うことは全体の福祉に影響を及ぼすのです。結局のところ、宿営全体が荒れ野に留まることによって苦しみを味わうことになったのは、一部の者たちが不満を述べたためではなかったでしょうか。
私たちクリスチャンとして特に銘記すべきことは、私たちの行いが、よい意味でも悪い意味でも、自分自身だけでなく他人にも影響を及ぼすという事実です。
古代イスラエルの神権政治においては、死はしばしばただちに訪れました。しかし、私たちはそのことに惑わされてはなりません。侮りのゆえに直ちに殺されることがなくても、いつの日か正当な報いを受けないことにはなりません。
木曜日:目覚ましい方法でイスラエルの民のうちに臨在されたにもかかわらず、神はなお、直接的なものによって彼らのなすべきことを覚えさせようとされたのでした。
今日の私たちはこのような房を身に付けませんが、それよりもはるかに力あるもの、つまりキリストの十字架が与えられています。それは罪の代償、購いの代価、そして信仰によってイエスの功績に信頼するすべての人に与えられる救いの約束を、つねに私たちに思い起こさせてくれます。そのような人について、次のよ うに記されています。「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることができません。」へブ12:14
民数記14章では、神さまの守りを信じることができず、イスラエルの民は約束の地へ進軍することを拒んでしまいました。そして神さまから40年間の砂漠での放浪が命じられたのです。その言葉を信じずに、無謀にも戦いを挑んで敗戦したり、とても悲しいことが続きました。
しかし人生は立ち止まることはできません。悲しくても進まなくてはならないのです。
神さまは15章の冒頭で、約束の地へ入ってからの献げるものの規定などについて語っています。これは神さまが、新しい土地への希望を思い起こすように語りかけているのです。
そしてもう一つ、民15:37〜から衣服の裾に青い房を付けるように命じています。今期の寄稿メッセージは小林義尚先生が執筆されています。先生はこれは房ではなく撚り縄ではと指摘されています。
これが房なのか撚り縄なのかは翻訳の問題で、どちらの形状であるかはあまり重要なことではないでしょう。
大切なことは、それを見て神さまを思い起こすことができるものを、神さまが定められたのです。
何度も申していますが、信仰生活には神さまがなさる部分とわたしがしなければならない部分があります。神さまは導かれますが、信頼して一歩を踏み出すのはわたしたちの選びと信仰です。
イスラエルの民は、ヨシュアとカレブの声ではなく、神さまのことを忘れて現実だけを見ている人の声に従うことを選んだのでした。
神さまは、人間に自由を与えられました。だからこそ人間が選択したことを受けられるのです。
神さまは落胆している民に将来の希望を与え、そしていつも神さまを忘れないように身近な方法も提示されました。
近日のわたしたちも、まだ約束の地へ入っていませんが、すばらしい約束を聞かされています。立場は同じです。
そして神さまは、わたしたちが神さまのことを忘れないように安息日を与えてくださいました。そして聖書を与えて、いつも神さまの声を聞くことができる方法もあるのです。これを使わない手だてはありません。それはわたしたちが神さまとのきずなを再確認するために重要なものなのです。
東京 安河内 アキラ