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ラムズ・スタディ

聖書の神様のこと、みんなで学び、同じ目標を確認できたらホントすばらしい。

安息日学校教課  2009 年 第4期6課

2009-11-06 13:08:27 | ディボーション
みなさま

 月が変わったら急激な寒波に襲われた一週間となりましたね。いかがお過ごしでしょうか。
 そしてこの時期は、三育教育機関では園児、児童、生徒、学生募集が始まっています。特に今年は不況の影響が私立学校には及ぶと思われます。おそらく例年以上に厳しいのではと言われています。
 教育機関は、教会の次の時代の指導者を育てる場所です。神さまの働きを支える人を育てるところです。そしてこどもを通して保護者へも福音を伝えるところなのです。
 どうか三育教育機関に神さまを愛するたくさんの方々が集められるようにお祈りください。



第6課  「将来の計画」  11月7日

暗唱聖句  「わたしは、荒れ野で彼らの子供たちに語った。『お前たちの父祖の掟に従って歩んではならない。彼らの裁きを守ってはならない。また、彼らの偶像で自らを汚してはならない。わたしはお前たちの神、主である。お前たちは、わたしの掟に従って歩み、わたしの裁きを守り行い」エゼキエル20:18,19

今週の聖句  民数記15章、コリント第二2:15,16、ガラテヤ3:26~29、エフェソ5:2、コロサイ3:11

今週の研究:神はご自分の民を約束の地へ導かれるのでした。そのことについては、疑問の余地がありませんでした。
 ここに、神の選ばれた民に与えられた特別な教えを見ることができます。状況がどれほど特殊であれ、命令がどれほど独特であれ、彼らに与えられた霊的教訓と原則は私たちのためでもあります。


火曜日:世にはキリストのゆるしの愛を知り、本当に神の子になりたいと望んでいながら、自分の性格が不完全で、生活にあやまちが多いために、いったい自分の心が聖霊によって新たにされたかどうか疑う人があります。こうした場合に決して失望、落胆してはなりません。
 私たちは幾たびとなく、欠点やあやまちを悔いて、イエスの足もとに泣き伏すでしょう。けれども、そのために失望してはなりません。
 たとえ敵に敗れても、神に捨てられ拒まれたのではありません。キリストは神の右に座し、わたしたちのために取り成しておられます。
 使徒ヨハネは「わたしの子たちよ。これらのことを書き送るのは、あなた方が罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのための助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」(ヨハネ第一2:1)と言いました。キリストへの道84,85ページ&l t;/ DIV>

水曜日:イスラエルの民にとって、仲間の一人を石で打ち殺すことは辛いことだったに違いありません。(民15:30~36参照)
 主は明らかに罪の重大さをご自分の民に教えようとしておられました。各人が個人的に行うことは全体の福祉に影響を及ぼすのです。結局のところ、宿営全体が荒れ野に留まることによって苦しみを味わうことになったのは、一部の者たちが不満を述べたためではなかったでしょうか。
 私たちクリスチャンとして特に銘記すべきことは、私たちの行いが、よい意味でも悪い意味でも、自分自身だけでなく他人にも影響を及ぼすという事実です。
 古代イスラエルの神権政治においては、死はしばしばただちに訪れました。しかし、私たちはそのことに惑わされてはなりません。侮りのゆえに直ちに殺されることがなくても、いつの日か正当な報いを受けないことにはなりません。

木曜日:目覚ましい方法でイスラエルの民のうちに臨在されたにもかかわらず、神はなお、直接的なものによって彼らのなすべきことを覚えさせようとされたのでした。
 今日の私たちはこのような房を身に付けませんが、それよりもはるかに力あるもの、つまりキリストの十字架が与えられています。それは罪の代償、購いの代価、そして信仰によってイエスの功績に信頼するすべての人に与えられる救いの約束を、つねに私たちに思い起こさせてくれます。そのような人について、次のよ うに記されています。「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることができません。」へブ12:14


 民数記14章では、神さまの守りを信じることができず、イスラエルの民は約束の地へ進軍することを拒んでしまいました。そして神さまから40年間の砂漠での放浪が命じられたのです。その言葉を信じずに、無謀にも戦いを挑んで敗戦したり、とても悲しいことが続きました。
 しかし人生は立ち止まることはできません。悲しくても進まなくてはならないのです。
神さまは15章の冒頭で、約束の地へ入ってからの献げるものの規定などについて語っています。これは神さまが、新しい土地への希望を思い起こすように語りかけているのです。

そしてもう一つ、民15:37〜から衣服の裾に青い房を付けるように命じています。今期の寄稿メッセージは小林義尚先生が執筆されています。先生はこれは房ではなく撚り縄ではと指摘されています。
 これが房なのか撚り縄なのかは翻訳の問題で、どちらの形状であるかはあまり重要なことではないでしょう。
 大切なことは、それを見て神さまを思い起こすことができるものを、神さまが定められたのです。

 何度も申していますが、信仰生活には神さまがなさる部分とわたしがしなければならない部分があります。神さまは導かれますが、信頼して一歩を踏み出すのはわたしたちの選びと信仰です。
 イスラエルの民は、ヨシュアとカレブの声ではなく、神さまのことを忘れて現実だけを見ている人の声に従うことを選んだのでした。
 神さまは、人間に自由を与えられました。だからこそ人間が選択したことを受けられるのです。

 神さまは落胆している民に将来の希望を与え、そしていつも神さまを忘れないように身近な方法も提示されました。
 近日のわたしたちも、まだ約束の地へ入っていませんが、すばらしい約束を聞かされています。立場は同じです。
 そして神さまは、わたしたちが神さまのことを忘れないように安息日を与えてくださいました。そして聖書を与えて、いつも神さまの声を聞くことができる方法もあるのです。これを使わない手だてはありません。それはわたしたちが神さまとのきずなを再確認するために重要なものなのです。


東京 安河内 アキラ



安息日学校教課  2009 年 第3期11課

2009-09-11 05:12:59 | ディボーション

みなさま

 わたしのパソコンは無線を使っているが、このごろ機嫌の悪いことがある。新型インフルエンザが徐々に蔓延している。相手が見えないだけに始末が悪い。
 わたしたちは、すべてのことが見えている、知っていると思いがちだが・・・見えない世界でさまざまなものが動き、あるものはわたしたちの生活を無くてはならないものもあり、困った存在もある。
 神さま、聖霊の働きも目には見えない。平穏無事な毎日だったら、人間は目の前のことしか見なくなってしまうのではないだろうか。だからこそ、いろいろなことが起こるのかもしれない。祈らねばと思ったら、とにかく祈ろう。わたしたちは、はばからず神さまのそばへ行けるのだから。


第11課  「『ヨハネの手紙第一』の重要なテーマ」  9月5日


暗唱聖句「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」ヨハネ第一3:2

今週の聖句  マタイ5:13、ヨハネ14:6、エフェソ4:25~5:21、テモテ第一3:15、ヨハネ第一1~5章

今週の研究:今週は、ヨハネの手紙Iに含まれる重要な主題のいくつかについて学びます。その中には、つねに道徳の基礎となる真理の性質について、ヨハネがどのように理解していたかが含まれています。


日曜日:ヨハネ第一の手紙は、キリストが人となって来られること、私たちのために死なれること、それによって私たちに永遠の命を得る機会を与えてくださることについて記しています。
 同時に、キリストの死は私たちの敵である悪魔の業を打ち砕きました。ヨハネの手紙Iによれば、神は私たちの罪を赦し、私たちを清め、私たちのために執り成し、永遠の命を与えてくださいます。神は私たちに保証を与え、私たちを御自分の子としてくださいます。重要なのは、私たちを救うのがイエスの十字架と血のみであるということです。

水曜日:ヨハネは直接的、間接的な言葉をもって倫理的行動の重要性を強調しています。彼はクリスチャンに対して、うそをつかないように、罪を犯さないように、兄弟・姉妹を憎まないように、欲望と高慢に満ちた世を愛さないように、不法を働かないように求めています。
 その一方で、私たちは従順であって、正しいことを行い、目に見えるかたちで互いに愛さなければならないと教えています。パウロはヨハネよりも具体的ですが(たとえば、エフェ4:25~5:21参照)、ヨハネは、神の掟を守り、イエスが歩まれたように歩みなさいという勧告の中にこれらすべてを要約しています(ヨハ第一2:6)。
 ヨハネによれば、神から生まれること、神を知ること、神を愛することは私たちの生き方を変える出来事です。なぜなら、ヨハネにとって、真理は単に信じるものではなく、実践するものだからです。ヨハネの手紙Iの3:7以上に、このことをはっきりと示している聖句はほかにはないでしょう。「子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です」。

木曜日:ヨハネは、絶対的な真理があることを認めています。その上で、真理とうその間にはっきりした区別があることを明らかにしています。この差異は相対主義的な世界観においてはあいまいにされがちです。
 絶対的な真理は確かにあります。神は真理です。イエスと聖霊は真理です。一方、根拠のないことを主張する者、愛すると言いながら、掟を守らない者、イエスがキリストであることを否定する者は偽り者です。
 対照的に、誠実なクリスチャンは真理を知り、真理を愛し、真理に属しています。このように、真理は知的に理解するものであり、実践するものです。

金曜日:今日、ヨハネの手紙Iは大いに必要とされています。あらゆる種類の偽りの思想が宣伝されているからです。ヨハネは読者に、また私たちに、すべての人を信じたり、新しい思想を無条件に受け入れたりしないで、教えが本当に聖書に合致するかどうかを試すように勧めています。真理と虚偽を識別する洞察力が必要です。
 ヨハネによれば、真のキリスト教には次のような印が見られます。
   (1)人となって来られた神の御子、イエスを信じる。
   (2)神の掟を守る。
   (3)神と人を愛する。
 ヨハネは堅固な土台を置こうと望んでいます。それによって、読者が聖書に示されたイエス・キリストを信じる信仰によって救いの確信を持つためです。


 まず最初に、わたしは今までもしてきたのですが、聖書の書簡の表記で新共同訳ではローマ数字で1,2となっています。けれどもパソコンで、この文字を使って発信すると文字化けをする危険性があるため、書名については口語訳を使っていることをご了解ください。

 さて、今期の学びはヨハネの手紙です。来週と最終週はヨハネ第二、第三の手紙について学びますので、今週は第一の手紙のまとめになります。

 ヨハネ第一の手紙が、短い書簡ですがいろいろなことについて語っていることを今回の学びで発見したことでした。そのなかで、あなたの心に最も響いたものが、あなたへの神さまのことだなのでしょうね。

 ヨハネ第一の手紙というと1章9節をよく用いてきました。罪を言い表す者を神さまは救ってくださるという聖句です。しかしそれ以外は、あまり心にとめていなったかもしれませんね。
 今回の学びで、わたしが特に心に残っていることは、光の中を歩むという題で学びが続いたことでした。
 ヨハネは、あなたがたは救われているのですから、それにふさわしく歩むように勧めている、このように読むと、この書簡からいろいろな光が輝いてきました。

 神さまは、わたしたちが光を受けているにもかかわらず、その光を拒んだり無視をすることを悲しまれます。それはあなたを愛しておられるからです。
 光の中を歩む、このような歩みは、わたしたちがそれを自ら選ぶことによって手に入れることができるのです。その光を受ける時に、わたしたちは成長することができます。みことばをあなたの道の光として歩む時に、この暗闇でも確かに道を示してくれます。それに従うこと、それはあなたが選ぶことなのです。


東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2009 年 第3期7課

2009-08-14 20:50:08 | ディボーション

みなさま

 火曜日の早朝、静岡県で地震がありました。静岡では、かなり前から東海沖地震に備えています。東名高速のサービスエリアなどにも、地震が起きた場合どのような規制を敷くかなどが書かれていますね。
 そのような意識の高さから、地震の備えが役に立ったといういくつかの例が報道されていました。備えることが大切なことは、よくわかりますが、いつ来るかわからないものへの備えほど、難しいことはありません。
 備えるのは、必ず地震がやってくることを信じている?からではないでしょうか。再臨の備えも、必ず神さまが迎えに来てくださることを確信することではないでしょうか。


第7課  「神の子らとして生きる」  8月15日

暗唱聖句「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです」(ヨハネ第一3:1)

今週の聖句  創世記3:5、イザヤ書1:2、ヨハネ1:12、ヘブライ9:26、28、ヨハネ第一3:1~10

今週の研究:私たちは神の子、また神の国の相続人なのです。それは、私たちが完全であるからでなく、ただ神の恵みによるのです。今週は、この約束の意味について学びます。


日曜日:ヨハネIの3:1は霊的誕生を示しています。ヨハネ1:12は、私たちがキリストを信じる信仰によって神の子となることを強調しています。ヨハネIの3:1は、信者がすでに神の子であることを強調しています。それを可能としてくださったのは神です。新生は神の業であって、私たちの業ではありません。私たちは自分の力によって生まれるのでもなければ、神の子とされるのでもありません。また、神との関係を維持している限り、私たちは神の子としての地位を失う心配はありません。この関係は父と子の関係に似ていて、非常に密接なものです。理想的な父親は私たちを守り、愛し、私たちのために命をささげます。
 私たちが神の子であるという約束の意味について考えてみてください。これは私たちの人生に素晴らしい展望を与えてくれます。私たちが今どのような困難の中にあろうとも、将来に対しては希望と保証と確信を与えてくれます。
 万物の創造者である神は私たちを愛し、守り、私たちを御自身の子と呼んでくださいます。新国際訳聖書(英語)はヨハネIの3:1を、父なる神が御自分の大いなる愛を私たちに惜しみなく与えてくださったと意訳しています。

火曜日:ヨハネがこれらの手紙の中で対決している偽りの教えは、救いのもたらす現在の祝福を強調する一方で、清く生きることの重要性を軽視していたかもしれません。偽教師たちは罪の問題や罪の結果を気にかけていなかったかもしれません。それゆえ、ヨハネは私たちの将来が私たちの現在の生き方によって決まることを強調しているのです。これは行いによる義のことを言っているのではありません。私たちは恵みによってのみ救われますが、その生き方は自分が救われていることを反映するものでなければなりません。そこで、ヨハネは、クリスチャンに自分を清めるように勧めた後で、そのことの意味について説明するのです。

 聖書の中で、罪は的を外すこと、偽り、真理についての神の標準を故意に犯すこと、反逆、悪、不従順、不義、違反、不法、不義として描かれています。ヨハネIの3:4で、罪は「法に背くこと」と定義されています。
 教会員はヨハネIの3:4で間接的に、そのような態度とあらゆる罪を捨てるように警告されています。今日のキリスト教世界に見られる大きな皮肉の一つは、罪を非難しながら、その同じ口で、私たちが今や恵みのもとで生きているゆえに、神の律法は無効になったと主張する説教者が多いことです。これは恵みをはなはだしく曲解することです。

木曜日:ヨハネIの3:6と9には、力強く、しかも困惑するような言葉があります。イエスのうちに生き、神によって生まれた者はだれも罪を犯さないというのです。これは絶対的な響きを持ちます。クリスチャンはこれらの言葉と格闘し、その説明を模索してきました。実際のところ、罪の現実と格闘しないクリスチャンがいるでしょうか。
 いずれの場合もそうですが、ここでもはっきり言えることは、使徒ヨハネが矛盾したことを言っていないということです。彼は第1章で、罪がないと主張する者は自分自身を欺いていると言っています。第2章では、私たちの目標は罪を犯さないようになることであるが、たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者なるイエス・キリストがおられる、と言っています。今日の聖句は罪についての先の議論に照らして理解されなければなりません。クリスチャンは罪から遠ざかりますが、もし罪を犯したなら、自らの過ちを告白し、神の赦しを受け入れます。

 聖書注解者たちは種々の方法によってこれらの難解な聖句を理解しようとしています。二つだけ取り上げてみましょう。
 1.ヨハネはヨハネIの3:6、8、9において理想を述べています。これは2:1でも言及されています。違うのは、3章では修飾語が加えられていないことです。その理由は、ヨハネが聴衆・読者に罪の問題をはっきり理解するように望んでいるからです。罪は軽く扱うことのできない問題です。キリストに従う者たちは罪をもてあそぶことができません。
 2.「罪を犯す」という動詞は現在形になっていて、これはしばしば継続的な行為を表します。その意味は、キリストの弟子たちは継続的には罪を犯すことができないということです。彼らはときどき罪に陥ることがあるかもしれませんが、罪と一線を画していて、罪の生活を送ることはありません。彼らは罪に支配されていません。新国際訳聖書(英語)はこの見解に従い、これらの動詞を「罪を犯し続ける」と訳しています。
 どちらの解釈を受け入れるにしても、第3章は第1章と第2章に照らして理解されなければなりません。罪は現実のものですが、クリスチャンはどのような犠牲を払ってでも生活の中から罪を締め出します。


 今週の表題は「神の子らしく歩む」ではありません。「神の子らとして歩む」です。もうわたしたちは神さまのこどもなのです。罪の奴隷ではありません。

 聖書を見ていると、「救いに至る道は細い」とか、ノアの家族8名しか救われていないなど、神さまの救いの標準はとても厳しく狭いと感じさせられることもあります。
 しかし反対に十字架の上で救われた強盗のように、キリストの心から受け入れただけで救われた人の記録もされているのです。

 一見して矛盾しているように見えること、これはどちらも真実なのです。

 キリストに救いを求める、それはこれからの人生をキリストにゆだねることです。キリストの約束のかけるとでも言えるでしょう。
 ノアは、その時まで降ったことがない雨を信じて、神さまの言葉に従いました。その時まで従い続けました。
 同じように「わたしたちも天からイエス様が雲に乗っておいでになる」という約束を信じて、それに人生すべての希望を置くのです。それは時によっては、人から受け入れてもらえないかもしれません。けれども人間の常識よりも神さまの約束を信じるのがわたしたちの歩みなのです。

 今週は、日本ではお盆です。けれどもわたしたちの先祖や先輩たちは、まだ墓の中で眠っているけれど・・・いつまでも眠り続けることはないことを信じて、その時を待っています。
 このように約束を信じて歩む者を、「神さまの子」としてくださるのです。


東京 安河内 アキラ


安息日学校教課  2009 年 第3期4課

2009-07-24 18:52:34 | ディボーション

みなさま

 今日は日本各地で皆既日食や部分日食を見ることができましたね。光が隠れてしまうと暗闇になることを改めて感じさせられました。今期の学びのように、光の中を歩くことを選んで行かねばなりませんね。
 日食のような現象が宇宙の各所で起きているわけではないそうです。地球と月の距離の400倍が、地球と太陽の距離。そして月の400倍が太陽の大きさなので、このような現象が起こるとテレビで言っていました。とても偶然とは言えませんね。
 


第3課  「光の中を歩む----神の戒めを守る」  7月25日

暗唱聖句「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。」ヨハネ第一 2:3

今週の聖句  レビ記19:18、ルカ14:26、ヨハネ3:20、テモテ第一2:4、ペトロ第二3:18、ヨハネ第一2:3~11

今週の研究:ヨハネは今週、神を知り、神を愛するとはどういう意味かについて語ります。主を愛していると、口で言うことはだれでもできます。問題は、聖書にあるように、その愛をどのように表すか、です。


日曜日:今日の聖句(ヨハネ第一2:3~5)に、「それによって……分かります」という表現が二度用いられています。クリスチャンは何を知っていると、ヨハネは言っているのでしょうか。
 第一に、クリスチャンが神を知っていること(3節)、第二に、クリスチャンが「神の内にいる」ことが分かります。永遠の命か永遠の滅びかという重大な問題がかかっていることを考えれば、これらは知る必要のある重要な問題です。
 同時に、知識そのものを救いの手段としないように注意する必要があります。

 新約聖書においては、「知ること」(知識)は理論的な、また神学的な意味を持っています。しかしながら、それはまた関係を描写しています。神を知ることは、神と親しい関係にあることを意味します。服従、愛、罪を離れることなどはみな、このような関係にあることを示しています。知識の持つ理論的な側面と経験的な側面は密接な関係にあります。
 ヨハネは「知る」という動詞はよく使っていますが、「知識」という名詞は使っていません。

火曜日:今週の聖句の前半部分は、光の中を歩み、神を知ることは服従を意味することを強調しています。後半部分はイエスのうちに生き、光の中を歩むことを望むクリスチャンに、キリストの模範に従って生きるように求めています。どうしたら、それが可能でしょうか。彼らは、イエスの生き方について調べ、日ごとにイエスに倣った生き方をする必要があります。言い換えるなら、「イエスならどうされるだろうか」と考えながら生きることです。

 イエスの死と復活は福音書のクライマックスですが、イエスの教えと生涯に関しても十分な情報がそこに記されています。それによって、私たちは人間の理想的な生き方がどのようなものであるかを理解することができます。
 このことは重要です。なぜなら、私たちは主また模範としてのイエスよりも、救い主としてのイエス、身代わりとしてのイエスにのみ注目する傾向があるからです。ヨハネは救い主としてのイエス、模範としてのイエスの両方を受け入れています。ヨハネIの1:7で、彼はキリストの清めの血に言及していますが、これは私たちの代わりのイエスの十字架上の死をさしています。2:2によれば、イエスは私たちの罪のための贖いの犠牲です。イエスは私たちの身代わりでした。しかし、今週の聖句において、別の側面が明らかにされます。イエスは模範としての生涯を送られました。私たちは彼の足跡に従うべきです。

水曜日:掟に従うことの重要性を強調した後で(Iヨハ2:3、4)、ヨハネは7節と8節で「新しい掟」という思想について述べています。この「新しい掟」とは何でしょうか。その答えは同じ「新しい掟」という表現が出てくるヨハネ13:34にあります。

 仕えるとは、だれかの足を洗うように、身をかがめて、卑しい務めを果たすことであると弟子たちに教えた後で、イエスは御自身の「新しい掟」を紹介しておられます。イエスが弟子たちを愛されたように、弟子たちは互いに愛し合うべきでした。
 これと似た状況がヨハネIの2:6~8でも見られます。イエスが歩まれたように歩むことについて語った後で、ヨハネはヨハネ13章にあるイエスの掟に言及しています。ヨハネIの2:7、8の意味を解く鍵はヨハネ13:34、35との関連にあります。ヨハネが語っている掟は兄弟・姉妹の愛についての掟です。

 しかし、彼が新しい掟でなく古い掟について書いていると言っているのはなぜでしょうか。それは、隣人愛についての掟がすでに旧約聖書の中に提示されているからです(レビ19:18)。ヨハネがその手紙を書いていた頃には、ヨハネ13:34にあるイエスの「新しい掟」がすでに長年にわたって掟となっていました。
 とはいえ、ある意味で、つまりイエスの生涯において絶えず現され、イエスに従う者たちによって先例のない方法で守られるという意味において、この掟は新しいのでした。というのは、イエスの初臨によって新しい時代が始まったからです(「闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」、8節)。

 最後に、神の律法の概念が今週の聖句の前半部分(Iヨハ2:3~6)と後半部分(Iヨハ2:7、8)とを一つに結んでいます。これらの掟は互いに愛し合いなさいという掟によって要約することができます。光(イエス)の中を歩むこと、イエスが歩まれたように歩むことは、掟を守り、互いに愛し合うことを意味します。


 戒めの目的は、何が正しいかを教えるためです。場合によっては、正しいことに関して、まちまちな基準をはっきりとさせる役割もあるかもしれませんね。

 この正しいことを示す役割にも、消極的な役割と積極的な役割があるのではないでしょうか。

 消極席な役割と言えば○○を食べないと元気になれないよ」、こどもにきらいなものを食べさせることなどが例に挙げられるかもしれません。
 それをすればとても良いことなのですが、本人はやりたくない・・・けれどもやらなければならない。正しいことを示されても、それが喜びとならないものではないでしょうか。
 もちろんこれらがすべて無益を言っているわけではありません。

 積極的な役割は「○○をすることによって、もっと元気になれる」と教えられた場合です。自分では知らなかった、もっと高い標準を知って、それをすることが喜びとなる、戒めを知ることによって、それが喜びとなることをです。

 神さまの戒めは・・・これを守らないと天国へ行けないよ・・・などと言っても、本人がそれを喜びと感じなければ、神さまを信じることや教会生活が苦痛でしかありません。
 わたしも親から、またまわりの教会に通っている方々に信仰を与えられ、育てていただきましたが、初めから喜んで教会に通ったり、それを伝えたいと思いませんでした。
 何か契機になって変わったのか、その時ははっきりと示すことができませんが、神さまがこんなわたしのことを愛して導いてくださると、そのような神さまの愛が迫ってくることを悟ったからです。私の場合は理論を深めることや、それによって得るものがはっきりとわかったからではありません。ただ神さまがわたしを愛してくださっているとわかったからです。そしてそれから学びを深めて行き、ますます神さまを愛することができるようになりました。
 この過程は、お一人お一人異なるでしょうが、このようなわたしが神さまから愛されていることを知る時に、わたしたちは神さまの戒めを喜ぶことができるようになるのではないでしょうか。


東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2009 年第3期3課

2009-07-17 16:11:18 | ディボーション

みなさま

 一昨日(火曜日)の昼休み、テレビニュースを見ていたら「関東地方が梅雨明け」と報じていました。たしか朝の週間予報では、今週は曇りや雨の日が続くというような予報が出されていましたが・・・このところ少し晴れが続いたので、梅雨の中休みかなと思っていました。しかし梅雨明け宣言がされてから、暑いこと!やはり梅雨が明けたんですね。みなさまの地方ではいかがですか?


第2課  「光の中を歩む----罪を離れる」  7月18日


暗唱聖句「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」ヨハネ第一1:9

今週の聖句 ヨハネ3:19、8:12、ローマ3:10~20、テモテ第一1:15、ヨハネ第一1:5~2:2

今週の研究:誘惑に満ちた運命について考えてください。不幸にも、人間は罪についても同じことをしています。罪を真正面からのぞいても、無事に戻れると考えているからです。しかしながら、銃と違って、罪は手を打たなければ必ず命取りになります。今週、ヨハネは罪の問題とイエス・キリストによる罪の解決法に目を向けます。


月曜日:ヨハネの手紙Iの1:6~10は一つの単位です。神の品性について重要なことを述べた後で、ヨハネは明らかに信者の間に広まっていたと思われる信仰に言及しています。彼が批判しているのはこうした信仰です。
 これらの5節は事実上、同じ表現、つまり「もし私たちが~」をもって始まっています。しかしながら、それらの間にも明らかな違いが見られます。

 最初の陳述は神との交わりについて論じています。人々は神との交わりを持っていると言いながら、実際には闇の中を歩んでいます。つまり、彼らは真の意味において神と共に歩んでいないのです。
 対照的に、光の中を歩むことは真の交わりをもたらします。そのような人たちは罪から清められています。したがって、闇の中を歩むことは罪の中に生きることと関係があります。罪の中に生きながら、神との交わりを持つと主張することは、ヨハネによれば、偽りです。
 8節と10節にある二つの主張もまた、罪と関係があります。ヨハネは罪の行いに異議を唱えていますが、私たちの内の罪の存在については非常にはっきりしています。彼は8節で、人間が罪深くないという信仰に対処しているように思われます。このような信仰は最も基本的なキリスト教の教理に背くものです。

火曜日:罪の赦しが可能となったのは、キリストが十字架の上で死に、犠牲として御自分の血を流してくださったからです。私たちが律法に背き、それによって死すべきものとなったために、キリストは私たちの代わりに死に、罪の結果としての永遠の滅びから私たちを解放してくださいました。さらに、キリストの血は私たちをあらゆる罪から清めます。
 しかしながら、私たちの側からすれば、罪の告白は必要です。ヨハネIの1:9にある「自分の罪を公に言い表す」(告白する)という表現は「白状する」、「認める」という意味です。この聖句には、罪をだれに告白するかは書かれていません。しかし、神に告白すべきことは明らかです。というのは、聖句の後半に、もし罪を告白するなら、神は真実で正しい方なので、私たちの罪を赦してくださると書かれているからです。この罪の告白は私たちの罪によって傷ついた人の前で公に告白することを含みます。その場合も、罪の赦しはただ神から与えられます。
 ヨハネの手紙Iの1:9は一種の命令になっています。私たちは神の前に自分の罪を置くべきです。そうすれば、神は私たちを赦し、清めてくださいます。罪を犯すことは私たちを有罪とします。罪は私たちを不浄にします。私たちは赦しを必要とします。私たちは清めを必要とします。神はイエスによって、私たちがこれら両方にあずかる道を備えてくださいました。

水曜日:罪を犯さないようにというこの勧告は光の中を歩むという文脈の中で出てきます。もし私たちが神および神の子らとの交わりの中で生きようと思うなら、光の中を歩まねばなりません。光の中を歩むとは、罪を捨てることです(Iヨハ2:1)。
 
 ここでの罪についての議論は、「罪がないなどと主張してはなりません。どうせあなたは罪人なのです。だから、思いのままにあなたの人生を生き、罪のことなど心配しないことです」というような、罪など問題ではないと考える人がいるかもしれないという意味において誤解される恐れがありました。
 そこで、ヨハネは罪についての自分の言説をヨハネIの2:1の言葉によって調整しなければなりませんでした。キリストの弟子の目標は罪を犯さないことです。クリスチャンは自分が罪人であることを認めますが、同時に罪のない生き方を心がけます。
 ヨハネは同時に、私たちが完全に罪のない者となることができるとは言いません。したがって、彼は罪を犯さないようにと勧告する一方で、「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者……がおられます」と言っているのです。これは、クリスチャンの生活における罪の現実をはっきりと認めることです。献身した誠実なクリスチャンでも罪を犯します。残念ながら、これは教会員にとって現実の可能性を持った問題です。それゆえに、彼らは助けを必要とします。彼らは誘惑に抵抗するのを助け、同時に罪を犯した後で自分のために仲裁してくださる人を必要とします。


 今週から4回、「光の中を歩む」という題で学びます。どこかへ向かおうとするとき、どこを通るかを決めるのはだれでしょうか。それはあなたです。光の中を歩むか、闇の中を歩き、人に見られては困るような人生になるのか、それはすべてあなたがそれを選んだ結果なのです。
 そのため今回から4回、光の中をあなたが歩むために、何を選んだら良いのか学びます。

 その第一回は「罪を離れる」です。わたしはここでローマ5:15~6:2くらいまでのパウロの言葉が心に浮かんできました。
 パウロは、わたしたちが神さまを知り何がほんとうに善か悪かを知った時に、自分の罪深さに気づきます。同時に、そこから救われる方法も知ることができます。罪の大きさよりも、それを購ってくださる恵みの大きさに感謝するようなります。
 しかし恵みが大きいからといって、わたしたちは罪の中に留まっていますか。パウロは「決してそうではない」と厳しい口調で反論しています。(6:2)罪のみにくさがわかったら、即座にそこから離れること、これこそが福音を知ったものが取る道なのです。

 罪を離れるという行為も、やはりあなたの決断なのです。かわりにだれもしてはくれません。
 しかし罪を悲しみ、離れ、赦しを求める魂を、イエス様は心から受け入れてくださりゆるしてくださいます。これが今週の暗唱聖句です。なんてすばらしい招きでしょうか。

 ではどうしたら罪を捨てることができるのでしょうか。わたしは何か禁止事項を作ったりして、罪を捨てようとするよりも、もっとすばらしい光に目を向けた方が良いのではないかと思います。そうしたら自然と罪深い生活がきらいになって行くのです。
 「罪から離れてから神さまに近づこう」などと思わずに、今いるところで向きを変えたら良いのです。影を見ていたあなたが、光の方を向いたら、どうなるでしょうか。目の前にある影は、その瞬間に見えなくなるのです。

 光の中を歩こうと願い、それを選んで行くと、闇はあなたのそばから消えて行きます。この光を導きを受けながら、それぞれの場所で永遠のみ国を目指して歩もうではありませんか。


東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2009 年 第2期11課

2009-06-12 21:42:38 | ディボーション

みなさま

 今週の安息日は6月13日(土)です。今から39年前の安息日、わたしは太平洋の荒波中で洗礼を受けました。たまたまその日が、安息日にあたっただけのことですが、いつもの年以上に、その日のことを思い出しています。
 1970年、大阪万博の年でした。わたしは中学一年生でした。北浦三育中学校の春の祈祷週で、講師は松坂幸吉先生でした。先生のメッセージをうかがいながら、決心をしたことが、つい先頃のことのようにおもいます。
 それから紆余曲折、いろいろなことがありましたが、神さまの守られ、そしてゆるされて、今日も歩いています。


第11課  「管理者の務め」  6月13日

暗唱聖句「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」マタイ25:29

今週の聖句  申命記8:18、詩編50:12、マタイ24:46、25:14~30、ルカ4:16、コリント第一6:19、20

今週の研究:管理者の務め(スチュワードシップ)とは、財源を管理し、十分の一が確実に神の倉に納められるように配慮することだけではありません。もちろん、これらもその中に含まれますが、ほかにも多くのことを意味しています。
 「スチュワード[管理者]という言葉は誤解されているし、そのうえ私たちの社会には異質のものである。私たちの語彙の中には、この言葉の持つ豊かな意味を伝える言葉はない。


日曜日:もしも何らかの深遠な思想を最もわかりやすく説明した人に与えられる賞があったとしたなら、イエスの「タラントン」のたとえはそれに値するものでしょう。

問1 マタイ25:14~30を読んでください。このたとえは管理者の務めに関してどんな基本的なことを教えていますか。

 事実1 私たちはみなタラントンを与えられています。たとえの中で、どの僕も1タラントン以上を与えられていることに注目してください。全くタラントンを与えられていない人はいません。これが、イエスが弟子たちに教えようとされた最初の真理です。

 事実2 私たちはみな同じ数のタラントンを与えられているのではありません。これは、私たちが受け入れねばならない人生の事実です。多くの賜物を与えられている人もいれば、そうでない人もいます。多くのタラントンを与えられている人はそうでない人を見下してはなりません。イエスが強調しておられるのは、重要なのはタラントンの量ではなく、それをどのように用いるかということです。

 事実3 自分のタラントンを用いようとしない人がいます。自分に与えられたタラントンに全く気づいていない人もいます。自分の賜物について教えてくれる人がいなかったか、いたとしても、いろいろな理由をつけてそれを伸ばす努力をしなかったのです。

 事実4 自分に与えられたタラントンを用いないことは大きな問題です。「役に立たない僕」には、第二の機会は与えられません。彼は「外の暗闇に追い出」され、「そこで泣きわめいて歯ぎしり」します(マタ25:30)。これは永遠の死における完全な無を象徴的に描写しています。神から委託されたものを用いないことはこの世における私たちの価値を減じるばかりでなく、永遠の命をも危うくします。忠実な管理者であることはクリスチャン経験の枝葉に属する問題ではなく、弟子であることの重要な特徴なのです。

水曜日:クリスチャンの管理者としての務めは、お金に限定されるものではありません。しかし、それはまさにお金と関係があります。お金は私たちの人生に欠かせないものであって、管理者の務めにおいて中心的な役割を果たします。

 事実1 すべては神から始まります。神はすべてのものの所有者です。神は私たちに働いて、生計を立てる力を与えてくださいます。すべては自分が働いた結果だ、と言う人は、彼に働いてお金を儲ける力を与えられたのが神であるという重要な真理を忘れています。

 事実2 お金の使用を含めて、神は私たちの持ち物と行いにおいて最優先されるお方です。お金を使い始める前に、まず十分の一と諸献金を取り分けてください。その後で、残りのお金を有意義に使ってください。管理者の務めはあなたにゆだねられたお金の使い方にまで及ぶことを忘れないでください。

 事実3 神は御自分の民に少なくとも富の10パーセントをお返しするように期待されます。これは旧約聖書の規定ですが、原則は全く変わっていません。旧約時代においては、祭司が十分の一を受け取り、それを聖所の儀式を支えるために用いました。同じように、今日の私たちの十分の一は神から教会にゆだねられた世界伝道の資金として用いられています。

 事実4 ささげればささげるほど、私たちは祝福されます。あなたも試してごらんなさい。次の言葉が真理であることを実感するでしょう。「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)。

木曜日:再臨を待つ間、私たちは怠惰のうちにでなく、ゆだねられたものを賢明に管理する献身した弟子として待つのです。「わたしたちは油断なく人の子が来られるのを見守っていなければならない。わたしたちはまた勤勉でなければならない。待つことと同様に働くことが要求されている。この二つのことが一つとなっていなければならない。

 私たちはすべてのものの所有者であるキリストのお帰りを待っています。キリストは間もなく来られて、私たちが自分の賜物や時間、体力、財産を用いて何をしたかをお調べになります。
 キリストが来て、私たちの忠実な管理者としての務めの結果を調べられるとしても、何ら驚くにはあたりません。主人は蒔かない所から刈り取るように要求する「厳しい方」であると考え、自分のタラントンを地中に隠して、活用しなかった僕の非難は全く当を得ていません。
 ほかの忠実な僕たちがこのような消極的な考えを持っていないことに注目してください。彼らが管理者としての務めを果たすために傾けたあらゆる努力は、「主人と一緒に喜んでくれ」(マタ25:21)という主人の言葉を聞いたときに完全に報われました。

 今週の学びを続けながら、ここで問いかけられているのは「あなたは何者でしょうか?」ということではないかと考えました。
 あなたは何者なのでしょうと問われたら「神さまに造られたもの」と答えるでしょう。そして生命、能力などは与えられたもので・・・だとしたら管理者としての務めという教えの意味や意義が理解できるのです。

 神さまに造られたものという観点に立たなければ、自分の人生を自分の思うがままに歩いてなぜ悪いんだという答えが返ってくるでしょう。

 わたしたちは被造物であることを信じる時、その生命の与え主は、わたしたちを愛してくださり、最も必要なものをご用意してくださる方であることを信じています。
 洗礼を受けて39年、神さまはたくさんのものを与えてくださいました。それは有り余るほどではありませんでしたが、十分なものがいつも与えられました。それを考えても、神さまがわたしたちのことをよくご存じでいらっしゃるしるしではないでしょうか。

 そしてわたしたちは、わたしの場合、あと20~30年で終わってしまうような人生がすべてではないと信じています。その先に、もっとすばらしい国が用意されているのです。神さまを信じることは、この未来の約束も同時に信じることなのです。
 この遠くの目標を見ながら、そこに向かうために今日すべきことを選んで歩んでいるのです。
 管理者の務めというと、とても重苦しいかもしれませんが、神さまが与えてくださったものを、どうすれば神さまがお喜びになるだろうと考えれば答えが出てくるでしょう。
 遠くの目標を見つめながら、神さまがお喜びになることを選んで行く、そのような歩みことが、神さまから預かった賜物の管理者としての務めなのではないでしょうか。

東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2009 年 第2期10課

2009-06-05 21:12:52 | ディボーション

みなさま

 わたしが現在住んでいるエリアを走っているバスは西武バスで。この車内に6月16日からバス停名称の変更の案内が掲示してありました。(日程は多少のまちがいがあるかもしれません) 「旧:立野通水道端→新:東京三育小学校前」
 一瞬、目を疑いましたが・・・今までのたしか、このバス停では東京三育の宣伝を流していたはずでしたが・・・どのような経緯があったかはわかりませんが、東京三育小学校の名前がバス停にしっかりと掲げられることは、すばらしいことですね。
 そう言えば、北浦三育中の入り口のバス停も三育中学校入口だったはずです。そして函館三育小学校の前のバス停も函館三育小学校前でした。わたしが知っているのはこれだけですが、三育教育機関が、その地域をあらわすバス停の名前になっているのは、その場所で受け入れられ根付いている証拠ではないでしょうか。



第10課  「弟子となること」  6月6日

暗唱聖句「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」ヨハネ 15:8

今週の聖句  出エジプト記18:13~27、マタイ4:19、9:9、マルコ3:13~19、8:31~38、ローマ8:18

今週の研究:弟子とは何でしょうか。『SDA聖書辞典』は次のように定義しています。「だれかほかの人、特に公の教師の教えに学び、これを支持し、従う者のこと。新約聖書では、『弟子』はギリシア語の“マテーテース”を翻訳したもので、……これは“マンサノー”(学ぶ)と関係がある。ここから、『学習者』、『生徒』、『信奉者』を意味する」(288ページ、改訂版)。
 今週は、弟子となることの意義について、もう少し詳しく学びます。


日曜日:すべての人は基本的に神の目に平等ですが、その役割には大きな違いがあります。ある人たちは指導者の賜物を持っています。私たちの社会、また社会の中のすべての組織は、指導者がいなければ、すぐに崩壊します。天国においてさえ、たとえば天使と天使長のように、はっきりとした役割の違いがあるように思われます。御自分の民をエジプトから呼び出されたとき、神は指導者をお立てになりました。聖所の儀式を制定されたときには、適切な指導者をお立てになりました。神は士師、預言者、王などを通してお働きになりました。
 しかし、指導者に自発的に従う者たちがいなければ、指導者の意味はありません。指導者は特に、積極的に指導者から学び、指導者の目標達成を助けてくれる親密な同僚グループを必要とします。

 イエスが一団の弟子を持っておられたとしても、何ら不思議ではありませんでした。教師が「見習い」の弟子を持つことは当時の慣習でした。しかしながら、イエスの選ばれた弟子たちは注目に値する人たちでした。イエスはほかの人の見抜くことのできない潜在的な可能性を彼らのうちにごらんになりました。もう一つ注目に値することは、彼らが直ちに自分の仕事を捨て、ナザレの大工に従ったことです。彼らは明らかに、イエスの親戚でさえ見抜けなかった何か特別なものをイエスのうちに認めたのでした。
 イエスの12弟子は特別な存在ですが、福音書に記されているように、ほかにも多くの「弟子」と呼ばれる人たちがいたことは特筆に値します。

月曜日:すべての弟子がイエスのもとに留まったわけではありません。多くの者が離れていきました。ペトロは弟子たちを代表して忠誠を表明しました。ユダを除けば、彼らは最終的には忠実に従いました。主が捕らえられ、処刑されたとき、ひどい疑いと失望を経験しましたが、彼らは初代教会の指導者となりました。
 彼らの経験は私たちに大きな慰めを与えてくれます。私たちにとって、弟子になる決意が弱まることはよくあることです。しかし、使徒たちの場合と同様、このことは私たちが自分の一時的な弱さを乗り越えることができないことを意味するものではありません。

水曜日:ユダを除いて、弟子たちは最後には使徒となりました。使徒言行録の初めの数章を読むと、これらの人たちが多くの教訓を学んだことがわかります。彼らはイエスと共にいたので、今では聖霊の力によって反対や迫害に対処することができました。
 詳細については確言できませんが、すべての使徒が最後には殉教の死を遂げたとする初代教会の有力な伝承には、信じるだけの十分な理由があります。ヨハネを除けば、すべての使徒が壮絶な死を遂げたと思われますが、パトモス島に幽閉されたヨハネも決して楽しい休暇を過ごしたわけではありません。彼もまた、「あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっている」ひとりでした(黙1:9)。
 キリストに従う人たちは数々の試練に直面します。しかし、主から離れない限り、彼らはどのような状況にも対処することができます。彼らはこの上なく尊いものを約束されています。キリストは彼らに御自分の平和を与えられます。それは、この世の与える不完全で一時的な平和とは異なります(ヨハ14:27)。それはあらゆる人知を超える平和です(フィリ4:7)。この平和は、キリストが御自分の弟子たちに与えられる豊かな命の保証です(ヨハ10:10)。このような命は、あらゆる試練や誘惑の中にあって、キリストに従わない人々の味わうことのない深い満足感を与えてくれます。
 その上、忠実にキリストに従う人たちには永遠の命が約束されています。それによれば、彼らがこの世で経験するいかなる苦悩も、彼らを待ち受けている永遠の命の約束とは比べものになりません。


 弟子とはどんな存在でしょうか。まずは師がいることです。師がいない弟子は考えられません。次に師の教えや薫陶を受けて、それを受け継ぎ、また伝える者です。

 いろいろ考えましたが、真の弟子として最も重要な要素は「師を心から慕い、尊敬し、従っている」ことではないでしょうか。
 その先生の、真の弟子だったら、弟子と見られることが誇りとなります。自分の身分や経歴を隠しません。
 時には、まわりの人から誤解を受けたり、迫害を受けることもあるかもしれませんが、その師を信頼しているならば、その教えを捨てることがありません。

 わたしは、このことを聖書の問題として考えず、自分にあてはめて自分が師と呼んでいる人と自分との関係で考えました。

 あなたはキリストのことを考えることが喜びですか?ほんとうにキリストのことが好きですか?キリストのことを尊敬できますか?この思いが、まことの弟子になる第一歩であり、そしてもっとも基本的な要素ではないでしょうか。
 

東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2009 年 第2期8課

2009-05-22 05:08:58 | ディボーション
みなさま

 わが施設の朝礼で管理栄養士の方(教会員ではない)が、その物質の名称は忘れましたが、昨今の研究である物質が働くことにより、それが体内で脂肪を蓄積して肥満の原因を作るということが研究でわかってきたと話していました。
 その物質は、午前中から午後4時くらいまでは、あまり働かないので、朝食と昼食をしっかり食べて、夜は軽くが良いとのこと、これはわたしたちの教会では、かなり昔から言っていたことですね。少なくとも、わたしがこどものころには言われていました。
 聞きながら、今さらとも思いもしましたが、科学的に証明されているとしたら、それはすばらしいことですね。
 しかし問題は、わかっていても、それを守れない自分がいることです。



第8課  「安息」  5月23日


暗唱聖句「そして更に言われた。『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある』」マルコ2:27,28

今週の聖句  創世記2:2、3、申命記5:12~15、イザヤ書58:12~14、エゼキエル書20:12、ヘブライ4:9~11

今週の研究:21世紀の初頭に住んでいる人間に直接関係のあるキリスト教信仰があるとすれば、それは安息日です。それはストレスや心臓病、燃え尽き症候群に悩む現代人に欠かすことのできない薬です。安息日は現代人の生活に絶えずつきまとう圧迫から私たちを解放してくれます。それは私たちの空になったバッテリーを再充電し、再び人生の最優先事項に取り組む活力を与えてくれます。
 安息日は、この世の喧騒に対して私たちの家庭と心の扉を閉ざし、私たちを創造し、その必要を知っておられるお方の御前に出るときがあることを教えてくれます。


日曜日:「神は、七日目に休まれたあとで、その日を聖別し、人間の休みの日とされた。人間は、創造主の模範にならって、この聖なる日に休むことになった。それは、人間が天と地をながめて、神の偉大な創造のみわざを瞑想し、神の知恵と恵みの証拠を見て、創造主に対する愛と畏敬の念に満たされるためである。……  神は、安息日が楽園においてさえ人類に欠くことのできないものであることをお認めになった。人間は、第七日に自分の興味や楽しみを捨て、神のみわざについて熟考し、神の力と恵みを瞑想する必要があった。人間はさらに明瞭に神のことを思い起こし、自分のものとして所有するすべてのものが、創造主の恵み深いみ手から来たことを思って感謝するために、安息日が必要であった」(『人類のあけぼの』上巻23ページ、『希望への光』21ページ)。

月曜日:「聖なる」日は神によって特別な目的のために分かたれています。ひとたび聖なるものとして分かたれると、それらは二度と一般的な目的のために用いることはできません。より高い目的のために分かたれたからです。このような「聖なる」日になされる行動は、神がその日に賦与された目的にかなうものでなければなりません。

 「安息日は神の主権に対する力強いあかしである。神だけが創造し、神だけが何かを聖別することがおできになる。アドベンチストがクリスチャンの安息と礼拝の日である安息日を日曜日に変更することに強く反対するのはそのためである。明らかな神の指示がなければ、そのような行為は神に対する侮辱以外の何ものでもない」(リチャード・ライス『神の統治』403ページ、1997年)。

 安息日を守ることには、内面的な側面と外面的な側面が含まれます。私たちの安息日順守が一連の規則を守るという、単なる外面的な態度に終始するなら、私たちは安息日の真の意味を見失っていることになります。しかしまた、私たちの安息日順守はほかの人々の目に見えるものです。それは、私たちが区別された、異なった民であることを周囲にあかしします。それは、私たちが創造主・贖い主に忠実な者であることの印となります。

水曜日:非常に残念なことですが、多くのアドベンチストは真の意味で神の安息日を楽しんでいません。両親の家での安息日の守り方を思い出して、ひどい失望を感じている人たちがいます。アドベンチストの機関においてさえ、安息日が理想的なかたちで守られているとは言えません。規則や規定さえあれば、安息日は「きよく」守ることができると考えている人がいます。聖書の原則にもとづいた規則もありますが、多くは神の御言葉よりも伝統や文化にもとづいたものです。
 安息日は決して禁止や制限と結びついたものであってはなりません。私たちの従うべき模範があるとすれば、それはイエスの模範です。
 「天の神の働きは決してやむときがない。人間もよいことをするのを休んではならない。安息日は何の活動もしない無益な日として与えられているのではない。律法には、主の休みの日に世俗の仕事をすることを禁じてある。生活費を得るための働きはやめなければならない。世俗的な楽しみや金もうけのための働きをこの日にすることは、律法にかなわない。だが神が創造の働きをおやめになって、安息日に休み、これを祝福されたように、人間も日常生活の仕事を離れて、この日の聖なる時間をもっぱら健康的な休みや礼拝や聖なる行為に用いるべきである。病人をいやされたキリストの働きは、律法に完全に一致していた。それは安息日を尊ぶことになった」(『各時代の希望』上巻252、253ページ、『希望への光』769、770ページ)。


 十戒の第四条は安息日に関しての律法です。その中に「六日の間働いて」とあります。六日間働き、安息日には神さまのもとへ集うように教えているのです。もちろん六日間、神さまと無縁で生きるのではありませんが・・・
 わたしは25年間、教会牧師としての生活を送ってきました。家と教会が一緒で24時間が教会とつながっていました。そして安息日に向けて、毎日を歩んでいたと行っても過言でない日々でした。
 そして4月からは異なる現場へ転籍させられ、週日は与えられた職務に汗を流し、安息日には入居されている方の前に立ち、聖書の言葉を語っています。
 六日間、与えられたところで、遣わされたところで一生懸命に働き、安息日には神さまのもとへ帰ることによって与えられる安らぎを感じています。
 そしてまた神さまからの約束を確認して、新たな力を受けて、それぞれの場所へ派遣されて行くのです。
 六日間働いて、それを持ってわたしたちは神さまのところへ行くのではないでしょうか。ある時は、その喜びかや感謝の心かもしれません。そして時には担いきれない重荷を背負ったまま神さまのもとへ帰る場合もあるでしょう。
 こどもの時に、不安なことがあっても親の愛に包まれた時に、安堵できるように、わたしたちも神さまがともにいてくださることを確信できる時に、心は安らぎ、この地上においても天国を味わうことができます。
 安息日は、この地上で神さまに出会い、天国で与えられる平安を先取りできる時でもあるのです。


東京  安河内 アキラ




安息日学校教課  2009 年 第2期6課

2009-05-08 20:59:19 | ディボーション

みなさま

 今年の大型連休が終わりました。今年は比較的天気が良くて、それに高速道路の割引も加わり遠出をした方も、例年よりも多かったことと思います。しかしそこへ降ってわいたほどの新型インフルエンザ騒動・・・。幸い日本ではまだ罹患した方がいませんが、連休のうきうきしたような雰囲気を暗くしたことはまちがいないと思います。
 このようなことが起こるたびに、人間の無力さを感じると同時に、その難局を乗り越えて進む力強さを感じます。どちらも人間の本来の姿でしょうね。


第6課  「罪」  5月9日

暗唱聖句「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです」ローマ5:18

今週の聖句  イザヤ書14:12~14、マタイ23:23、25:45、フィリピ2:6~8、ヘブライ1:1~5、黙示録5:9~12

今週の研究:犯罪は日常茶飯事となっていて、人間の道徳的向上の兆は、全くではないにせよ、ほとんど見られません。貧富の格差もますます広がっています。毎日のニュースでは必ずと言っていいほど暴虐と道徳的堕落について伝えています。
 「人間の罪深さについてのキリスト教の教えは簡単に証明できる」と言った人がいますが、全くその通りです。この教理を受け入れるには、信仰は必要ありません。罪はひどいものですが、話はそれで終わりではありません。確かに、罪は現実ですが、神の恵みも同じくらい現実です。


日曜日:罪の本質は何でしょうか。聖書は罪をどのように定義しているでしょうか。『ヨハネの手紙I』の3:4には、次のように記されています。「罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです」。英語ニューリビング訳では、「罪は律法に敵対する」となっています。一方、伝統的な欽定訳は罪を、「律法に違反すること」と定義しています。人間が破ったのは普通の法律ではなく、神の律法です。人間は創造主に背き、へりくだって神の知恵と愛に信頼する代わりに、自分自身がすべてのことの基準であると主張しました。

 神が些細な問題に思われることのためにアダムとエバを罰せられたのはなぜでしょうか。この問題は重要でないように思われるかもしれませんが、実際には決定的な原則がかかわっていました。「果実そのものには何の害毒もなかった。また、ただ食欲に負けたことだけが罪というわけではなかった。アダムとエバが神の戒めにそむく者となり、この世に悪の知識をもたらしたのは、彼らが神の恵みを疑い、神のみ言葉を信じないで、神の権威を否定したからであった。それはまた、あらゆる種類の偽りや誤りに対して門を開いた」(『教育』16ページ)。

 神は無限の愛にできるすべてのことを私たちのためにしてくださいました。その代わりに、神は私たちに愛と服従を求められます。

月曜日:罪は不法な行為だけを扱うものではありません。それは、悪いとわかっていることを望んだり、空想したりすることも含みます(マタ5:28)。
心の方向性についてどんなことがわかりますか。

 このほかにも、「怠慢の罪」と呼ばれるものがあります。これは故意に義務を怠ること、なすべきことを意識的に拒否することを意味します。

 私たちはみな何らかのタラントン(才能)を与えられています。自分に与えられたタラントンを最大限に活用することは、管理者としての私たちの務めです。神から与えられたものを用いて行わなかったことについて、私たちは神に申し開きをしなければなりません。
 使徒ペトロは次のように言っています。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」(Iペト4:10)。

火曜日:どの時代にも、自分は完全の域に達したと公言するクリスチャンがいました。しかし、自分が完全であると主張する人たちは自分自身を欺いているのです。それは聖書の明らかな言葉に反することです。パウロは詩編106:6を引用して、次のように言っています。「正しい者はいない。一人もいない」(ロマ3:10)。同僚の使徒ヨハネも次のように断言しています。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません」(Iヨハ1:8)。
 「清めは一瞬、一時間、あるいは一日の業ではない。それは継続して恵みに成長することである。次の日の闘いがどれほど激しいものになるかは、だれにもわからない。サタンは生きていて、活発に働いているので、私たちは毎日、彼に対抗する助けと力を求めて真剣に神に祈る必要がある。サタンが支配する限り、私たちは自己に打ち勝ち、陥りやすい罪に勝利しなければならない。立ち止まっている余裕はない。到達したなら、それで十分という地点はない」(『SDA聖書注解』第7巻947ページ、エレン・G・ホワイト注)。

木曜日:だれが救われて天国に入るのでしょうか。感謝すべきことに、その決定は裁きをゆだねられたお方、愛と正義の具現されたお方の御手のうちにあります。
 しかし、次のことだけははっきりしています。すなわち、しかるべき人たちが永遠の命を受けるのは、キリストが彼らのために死んでくださったからにほかなりません。救い主について一度も聞く機会がなかった人たちでも、その人が救われるなら、それはキリストの御名によってです。


 「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました」(ローマ5:20)とあります。神さまが制定された律法は、善悪をわたしたちに教えるものです。みことばを喜んで読めば読むほど、自らの罪深さを知らされます。神さまに近づこうとすればするほどに、自らが神さまの子と呼ばれるのに不適格だということを悟らされます。
 罪は訓練、修行のたぐいのもので乗り越えられるような簡単なものではありません。クリスチャンとして歩んでいるわたしたちが、突如として切れてしまい、また魔がさしてでもよいでしょう、まちがいを犯してしまうことがいつやってくるとも限りません。
 どのような高い倫理観を持った人間でも、思わず失敗してしまうことはあるのです。そうでなくとも、月曜日の研究にあるように傲慢になったり、心の中で醜い思いをいだくことは、人間である以上、必ずあると言っても過言ではないでしょう。
 自分が罪深い、これについて何ら異存はありません。

 しかしパウロは先ほどのみことばの続きで「しかし、罪が増したところには、恵みもなおいっそう満ちあふれました。」と書いています。
 神さまに近づく時に、わたしたちの罪が示されますが、同時にその罪を購うために働いてくださるもっと大きな恵みも同時に見えてくるのです。
 キリストの足元で罪を自覚することは、自力での解決を放棄することかもしれません。
 罪人に罪を示すだけでなく、もっと大きな恵みを与えてくださるからこそ、これが福音なのではないでしょうか。この恵みについては来週学びます。

 最後に、罪を赦して購ってくださるのはキリストの十字架です。しかしわたしたちには、わたしたちがしなければならないことがあります。罪を自覚し、そこから離れることを願い、そのために行動しなければならないのです。パウロは「恵みが増すように、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」(ローマ6:1,2)と教えています。
 罪を自覚した時、それを示された時こそ大切なのです。その時わたしたちは、何にすがるのか・・・ここが問われているのです。


東京  安河内 アキラ




安息日学校教課  2009 年 第2期5課

2009-05-01 15:53:43 | ディボーション

みなさま

 新しい職場に移り、しっかりと休養できる休み時間が1時間あります。昼食は15分もあれば大丈夫なので、30分くらいはゆっくりできます。最初は特に何もしていなかったのですが・・・そうだ!この時間に聖書を読もうと決めて、創世記から読み始めました。
 それでも、がんばるぞ!と読める時と、あまり気の進まない時があります。他のことに気が散ってしまう時などもありますが・・・集中できないのは、誘惑に負けてしまっているのだろうか、信仰が弱いからだろうか、いろいろな原因をさがしてみたこともありますが、このごろ思うことは人間は弱いものです。体調がすぐれなかったり気乗りがしないこともあります。
 そう思ったら、あまり読めなかった時も、少し気が楽になりました。



第5課  「啓示」  5月2日


暗唱聖句「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました」(ヘブライ1:1,2)

今週の聖句  出エジプト記7:1~6、詩編19:2~5(口語訳1~4)、ローマ1:18~20、テモテ第二3:14~16、ヘブライ1:1~3

今週の研究:神は契約の神であって、御自分と御自分のかたちに創造された人間とを一つのきずなで結ぼうとしておられます。この神は偉大な伝達者です。神がだれで、どのようなお方であるかを人間の言葉で正しく説明することはできません。しかし、神が絶えず御自分の民に語りかけようとしておられる事実は重要な意味を持ちます。
  今週は、神の私たちに対するさまざまな語りかけを学びます。


月曜日:確かに良心は重要ですが、いつでも全面的に信頼できるとは限りません。正しい良心を持つ人々であっても、ある特定の状況において全く異なった結論に到達することがよくあります。
 使徒パウロもこのことを知っていて、コリントIの4:4で、次のような注目すべき言葉を残しています。「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです」。
 パウロはまた、私たちが自分の良心の力に逆らうことがあると警告しています。事実、自分の良心に焼き印を押し(Iテモ4:2)、良心を堕落させてしまった人たちがいます(テト1:15)。
 その一方で、私たちは自分の良心を鋭くすることもできます。定期的に御言葉を読み、絶えず祈りにおいて神と交わることによって神に心を合わせることは、良心を通して語りかける聖霊の声に対して私たちを敏感にしてくれます。

水曜日:「神の御言葉の大いなる事柄について瞑想するとき、私たちは眼下に広く、深く横たわる泉を見ている。その広さ、深さは私たちの知識を超えている。眺めているうちに、幻は広がる。私たちは眼前に、無限の、果てしない海を見る。このような研究には生気を与える力がある。……この経験は聖書が神によって書かれたことについての最高の証拠である。私たちは体の食物であるパンを受けるのと同じ理由にもとづいて、魂の食物である御言葉を受ける」(エレン・G・ホワイト『私の今日の命』26ページ)。
 セブンスデー・アドベンチストを含むクリスチャンの間では、聖書を読む人が減っているという指摘さえあります。現代人の多くは先の世代ほどには聖書を知りません。読むたびに新しい洞察を与えてくれる御言葉を軽視することは、私たち自身に永遠の危険を招くことにほかなりません。

木曜日:神はさまざまな方法を通して私たちと効果的に交わられますが、より完全なかたちで御自身を私たちに啓示しようと望まれました。それがイエスによる啓示でした。
 ある人たちにとっては、聖書研究が目的そのものになっています。実際、才能豊かな聖書学者の中にも、神を全く信じていない人がたくさんいます。しかし、いくら聖書を読んでも、そこに啓示された主を知ろうとしなければ、人は救いに導かれることはありません。いくら料理のレシピ(調理法)を読んでも、その人の空腹が満たされないのと同じことです。
 イエス・キリストは聖書の中心です。この聖書はキリストについて、またキリストが神の性質と品性について啓示された事柄について記しています。聖書は人を救いません。しかし、それは人を救う唯一のお方、ナザレのイエスについての権威ある真理の源です。


 神さまが語ってくださる、そして自らをわたしたちに示してくださる、それが今週の学びです。
 けれども神さまは、わたしたちが求めているように応えてくださらないかもしれません。また直接、語りかけるなど、わたしたちが探そうとしないでも見つかるような方法では語らないかもしれません。

 けれどもひとつだけはっきりしていることは、すべてをご覧になっている神さまが、最も良い方法でわたしたちに語りかけてくださっていることです。
 神さまは、わたしたちが見つけることにより、その過程においても成長するようにしてくださっているでしょう。時には苦しみを通しても、そこから何かをつかんで欲しいと考えていらっしゃるかもしれません。 

 時には、その神さまの声やみこころがわからないこともあるでしょう。しかしわたしたちは必ず神さまが語りかけてくださると信じて、信頼してすがるついて行くのです。
 それからできる限りの方法を通して、みこころを問いかけなければなりません。そのために最適な方法は聖書通読です。
 そして、示された言葉に素直に従うことです。そうしたら神さまはその次にあなたに必要な言葉をあたえてくださいます。


東京  安河内 アキラ