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ラムズ・スタディ

聖書の神様のこと、みんなで学び、同じ目標を確認できたらホントすばらしい。

安息日学校教課  2010 年 第1期4課

2010-01-22 12:31:52 | ディボーション

みなさま

 このところのニュースは政治と金、日本航空、ハイチの大地震ばかりですね。先日のシャロームの朝祷会で、ある方が「彼らは見るには見るが、認めず」(マルコ4:12)を引用して、これらのニュースになっていることは、まさにこの聖句のような状態ではないでしょうかと語っていました。日本航空は、あそこまで 負債が膨らむまで、誰も気づかなかったのでしょうか。親の愛と言ってもあれだけの金額を知らなかったのでしょうか。地震のおそろしさを知っていながら、国は対策を立てたり、建築基準についてh指導してこなかったのでしょうか。
 まさに見てはいても、問題意識をもっていないか、先送りしている結果の惨事と言われれば納得していまいました。
 上記の聖句は、このように問題を見過ごしにしている人の結末は「立ち返って赦されることがない」と書かれています。問題と向かい合わねば、解決はありません。そしてそのことを通して、神さまの救いを求めて歩むようになるのです。


第4課  霊の結ぶ実は平和  1月23日


暗唱聖句「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」ヨハネ14:27

今週の聖句 マタイ8:23~27、11:28,29、ヘブライ12:14、ローマ5:1~11、12:9~21、コロサイ3:13~15

今週の研究:今週の研究を進めながら、私たちは次のように自分に問いかけてみる必要があります。「私はキリストの十字架上で勝ち取ってくださった平和を自分のものとしているだろうか。私はこの平和を毎日の生活に取り込んでくださる聖霊にどれだけ協力しているだろうか。


月曜日:不安を生じさせるのは自分を愛する心である。
 キリストをみことば通りに信じ、自分の魂をキリストの守りにゆだね、その生活をキリストの命令に従わせる者には、平安と穏やかさがある。イエスがその臨在によって彼らを喜ばせてくださる時、この世のどんなものも彼らを悲しませることができない。ただ黙々として従うことに完全な休みがある。「あなたは全く平 安を持ってこころざしの堅固なものを守られる。彼はあなたに信頼しているからである」と主は言われる。(イザヤ26:3)

火曜日:イエスが弟子たちに平和を与えようとされたのはなぜだと思いますか。「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14:27)。世が与える平和は、イエスが与える平和とどのように異なっているの でしょうか。
 私たちがしてはならないことは、平和や悩みのない人生と同一視することです。たとえ忠実なクリスチャンであっても、試練や悩み、苦しみのない人生を送る人はめったにいません。苦しみの度合いは人によって異なることは確かです。しかし、平和は状況そのものより、その状況にどのように対処するかと関係がありま す。
 平和は愛と憐みの神に心から信頼することと関係があります。神はあなたの歩む道を知り、どんなときにもあなたを見捨てることはないと約束しておられます。

木曜日:私たちが考えている以上に、イエスは私たちの人間関係を重要視しておられうように思われます。教会員同士の間に、何年も恨みや憎しみが続いていることも珍しくありません。もし私たちがみなこの教えに従うなら(マタイ5:23,24)、事態はずっとよくなるはずです。I


 今年の新年に選んだ聖句は「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる」(詩編55:23)を選びました。
 この詩編を歌ったのはダビデです。勇敢な信仰者であった彼が「わたしは悩みの中にあってうろたえています。わたしは不安です。」(詩編55:3)と神さまに訴えているのです。
 そしてその不安の原因について彼は「自分の友、知りあった仲、楽しく、親しく交わり」(詩編55:14,15)という人との人間関係だと述べています。

 わたしたちにとって人間関係での問題は、大きな不安の原因になりますね。それは相手の心を、わたしたちが変えることができないからです。またわたしたちが予想したとおりに、相手が動くとは限らないからです。
 こちらが礼を尽くし、最善の対応をしたとしても、それがうまく伝わらなかったり誤解されてしまうこともあります。
 このために心が不安で波打つことは多々あるのではないでしょうか。

 注解書を読むと、この詩編55編では、ダビデは息子アブサロムによって引き起こされたクーデターの時のことを歌っているのではと説明していました。
 だとしたら最愛の息子に王座と生命を狙われて、彼はどんな思いでいたでしょうか。そして彼がなぜこのようなことをしてしまったのだろうと親として悲しんだり後悔もしたことでしょう。

 彼は悩み苦しんだ末、最初に掲げた23節「あなたの重荷を主にゆだねよ」という想いに到達したのでした。

 イエスさまは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と招いてくださっています。

 すべての人間は、この罪の世にあって悩みや苦しみに遭遇しないことはありません。けれどもそこにあって、イエスさまはわたしたちを助けてくださるのです。導きを与えてくださいます。その中にあって、わたしたちはイエスさまに出会うことができます。
 悩みのうちにあるとき、それはイエスさまに見捨てられた時ではなく、イエスさまが最も近くにいてくださる時なのです。そのことに気づく時、状況は何も変わっていなくても、イエスさまがともにいてくださるだけで平安に歩むことができるのです。


東京  安河内 アキラ




安息日学校教課  2010 年 第1期3課

2010-01-14 12:25:19 | ディボーション

みなさま


 毎年、雪の降る量は変わらない。ただしその時期が異なるだけで・・・と北の街で暮らしていた時に、いろいろな方から教えられました。
 しかし今年は少し様相が異なるようですね。年末くらいまでは、雪不足などと言われていましたが、お正月が近づいたあたりから良く降っていますね。なかなか冬型もゆるまずに大雪が続いていますね。
 昨夜からは南九州まで雪が降っているようです。明日は関東地方は全域で氷点下になりそうです。本格的に寒い時期となりましたね。



第3課  霊の結ぶ実は喜び  1月16日

暗唱聖句「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」ヨハネ15:11

今週の聖句  詩編139編、ルカ15:4~24、ヨハネ15:10,11、ヘブライ11:6

今週の研究:喜びは苦しみや楽しみよりも深いところを流れている人生の喜びです。このような喜びは、自分の人生に神の臨在を認めるところから来ます。それは私たちを苦境から引き上げ、神の憐れみと愛に心を向けさせてくれます。クリスチャンの喜びの中心には、神がご自分に信頼する者たちを救うために働かれたこ と、また働いておられるという事実があります。


日曜日:多くのクリスチャンは置かれた状況に左右され、絶えず霊的な高揚感と失望感の間で揺らいでいます。彼らにとって、喜ぶことは道理に合わないもの、いや不可能なものにすら思われます。「主において」喜びなさい(フィリピ4:4)と言われているのはそのためです。
 私たちはいつでも状況や他人において喜ぶことができるとは限りません。それらは否定的な場合があるからです。しかしながら、主のおいて喜ぶことができます。主はいつでも善であって、変わることがないからです。
 私たちの霊的安定は、神を知り、神に従うことと密接な関係にあります。神を知ることは状況に左右されない、安定した生き方を可能にしてくれます。

月曜日:これらの3つのたとえ(ルカ15章の見失った羊、無くした銀貨、放蕩息子のたとえ)の中に、神の御心を見ることができます。神の御心は喜んで祝うことのうちに現されています。それは純粋な神の喜び、失われた者を救う喜びです。試練と苦しみにもかかわらず、イエスが喜びで満ちあふれていたのも不思議で はありません。なぜなら、ご自分が成し遂げようとしておられる業によって、多くの人が救われることを、彼は知っておられたからです。
 イエスの前にある喜びとは、何だったのでしょうか。失われた魂の救いが神にとってそれほど重要であったのはなぜでしょうか。

木曜日:主の御旨に従うことが喜びをもたらすと知っていても、現実には困難と苦しみを経験することがよくあります。イエスを受け入れ、イエスの御言葉に従うとき、あらゆる悩みが消えると信じるなら、失望に終わります。
 献身したクリスチャンになることは、お金や名誉、影響力を約束するものではありません。毎年、多くの人が自分の信仰のゆえに迫害を受け、中には殉教する人さえいます。


 あなたにとって、どんなことが喜びでしょうか。うれしかったり楽しかったりすることは喜びであることにちがいありません。けれどもこれらのものには必ず終わりがやってくるのです。また時間とともに、同じ喜びを味わえなくなるでしょう

 牧師として働く時に、様々な窮地に追い込まれることがあります。そこに至るまで、いろいろな要因がありますが、とにかくどうしようもなく厳しい時に、得意技?困った時の神頼みをすることが多々あります。
 このような時に、祈ったら不思議なことが起こって問題がたちどころに解決するということは、ほとんどありません。けれどもこのような中で、何か解決の糸口が心の中に浮かんだり、また励ましやなぐさめの言葉が心に響き、それによって神さまがともにいてくださるんだと気づかされて、心が喜びに満たされることが あります。
 そのような時、困難な状況は何も変わっていません。けれども神さまがともにいてくださる、そのことに気づいたら、すべてが喜びに変わります。

 今週の学びで「いつも喜んでいなさい」という聖句の意味を、少し深く理解できたように思っています。
 いつも喜びに満たされて・・・いつもおもしろく楽しく人生を送れれば良いですが、そのような人生を送ることが不可能でしょう。
 また問題が発生すると、自らの足りないことばかりに目を向けてしまい、信仰が足りないからいつも喜べないんだと考えてしまっていたことがありました。

 ほんとうの喜びは、まわりの状況によって与えられるものではなく、神さまとともにいることによって与えられる喜び、平安なのです。いつも喜ぶためには、常に神さまのそばにいる必要があります。いつも喜べという勧めは、喜ばしき状態を持続される努力をするのではなく、いつも神さまにつながっていることなので す。そうすることにより、わたしたちは、いつも喜んでいることができるのです。

 イエスさまがサマリヤの女性に「いつまでも枯れることのない水を与えよう」とおっしゃったことも、同じことではないでしょうか。(ヨハネ4章参照)

 いつも喜ぶことのできない自分を見たら失望します。神さまにつながる、自らの立ち位置を変えることによって、わたしたちはまことの喜びを得ることができるのです。


東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2010 年 第1期1課

2009-12-31 20:44:29 | ディボーション

みなさま

2009年最後というのか、2010年最初とでも言うのでしょうか、教課メルマガをお送りすることになりました。一年間ご愛読くださりありがとうございました。そして新しい年もよろしくお願いいたします。
 竹は節目があるからこそ、強い材質だそうです。節目は人生の区切りでもあり、また時には苦しいことかもしれません。けれどもそれがまたわたしたちを高めてくれるものなのでしょう。この一年の歩みの結果を「万事を益としてくださる」(ローマ8:28)と約束してくださっている神さまにおゆだねしましょう。必 ずこれらの経験を最善の方法で活用してくださいます。

 神さまの祝福が豊かにそそがれますようにお祈りしてます。平安のうちに新年をお迎えください。


第1課  その実で・・・・  1月2日


暗唱聖句「このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける」マタイ7:20


今週の聖句  ルカ13:7~9、ヨハネ11:4、12:28、15:1~10、テモテ第二3:5

今週の研究:今週は、霊の結ぶ実のさまざまな側面について学びます。
 イエスにつながっている人たちは、必ず霊の結ぶ実をつけます。この約束はあなたのためにあることを信じますか。その通りです。
 感謝すべきことに、聖霊は私たちの中でしておられる善い業は今だけでなく、永遠にわたって続きます。


火曜日:イエスにつながっていることは目的のための手段ではありません。むしろ、それ自体が目的なのです。イエスにつながっていることの結果は実を結ぶことです。それは自分自身の栄光ではなく、神の栄光を現すことです。言い換えるなら、霊の結ぶ実は私たちを美しく見せるためのものではなく、神を美しく見せる ためのものです。
 私たちの動機と目的に留意する必要があります。私たちの最終的な目的は何でしょうか。自分の栄光を現すことでしょうか。神の栄光を現すことでしょうか。両者の違いな何でしょうか。多くの点で、これは混同されがちです。自己中心的な行動を神の「栄光を現す」という見せかけの動機によって覆い隠すことがあるか らです。

水曜日:神が人を試練に遭わせられるのは、彼が自分以外の、また自分以上の力に信頼するか否かを見るためである。
 試練は地上から天国まで至るところに置かれている。天国への道が狭い道と呼ばれるのはそのためである。品性は試されなければならない。それでなければ、自分の傾向、利己的な願望、高慢、野心が点検されるまでは、もっともらしい信心を装う多くの偽クリスチャンが出てくるからである。
 主の許しによって、厳しい試練が彼らの上に臨む時、彼らに真の信心、キリストの柔和と謙遜が欠けていること、従って聖霊の働きが必要であることが明らかになる。

木曜日:ここで言われているのは(ルカ」13:6~9参照)、実を結ぶことによる救いではありません。それでは、行いによる救いと何ら変わりません。
 私たちが救われるのは実を結ぶことによってではありません。私たちの結ぶ実は、イエスに対する信仰によって、すでにイエスにおいて与えられている。救いを表しています。実を結ぶことは救いの現れであって、救いにあずかる手段ではありません。この違いを理解することはきわめて重要です。そうなれば、遅かれ早 かれ、自分のすばらしい実を誇るようになるか、自分の貧弱な実を見て失望するかのどちらかです。


 クリスチャンになること、それは自分の立ち位置を変えることでしょうか。そのわかりやすい例は、様々な新聞です。同じことでも、見る立場によってまったく異なる論評が書かれています。
 同じように、わたしたちがそれまで生きている場所から、神さまのこどもとして歩むという立場になって、すべてことを考えると価値判断の基準がかわります。結果として生活が、生き方が変わるのです。
 だれかを愛したら、愛する人が夜こぶことをするでしょう。好きなものを、一緒に好きになりたいと努力するでしょう。それはあまり苦痛ではありません。その行為が目的ではなく、愛する人のためだからです。

 良いことをしようと努力しても、それがなかなか継続できない弱さをわたしたちはみなもっているのではないでしょうか。
 教課の序論では、「ライフスタイルではありません。むしろ、霊の結ぶ実は『あり方の変化』です。」と」教えています。そして「今期の研究の目的は、どうしたらもっと寛容で、愛に満ち、柔和で、誠実になる方法を学べるかということではなく、寛容と愛、柔和と誠実を体現されたイエスに似る者となるために、聖霊 に働いていただく方法を学ぶことになります。」と述べています。
 
 その具体的な方法として「あなたがたはいつでも霊の結ぶ実の恵みを養うこと、特に家庭において結ぶ挑戦を受けるでしょう。その鍵は献身すること、つまり喜んで自己に死に、神と人のために生きることです」と書かれています。
 「どうしたら救われるのでしょう」とキリストのもとにきた若い金持ちの議員に、、「財産を施して」とイエスさまは教えられました。
 
 自分に執着するのではなく、イエスさまのために、みなさまの幸せのために生きる路へ立ち位置を変えて歩み続けていると、聖霊の結ぶ実が身についているのでないでしょうか。
 良い人間に、まわりから尊敬されるような人物になりたいではなく、イエスさまがなさったこと、喜ばれること、なさらるだろうと思われることを少しでも果たすような歩みを続ける一年でありたいと願っています。



東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2009 年 第4期13課

2009-12-25 12:29:41 | ディボーション

みなさま

今朝の新聞で「なぜクリスマスイブを祝うの?」と質問と答えが掲載されていました。聖書の時代は、一日が夜から始まったのでクリスマスは24日の日没から始まっているために、イブを祝うようになったと書かれていました。 
 こどもが誕生するまで、それは期待と不安が入り混じっているのではないでしょうか。しかし無事に産まれると、それは大きな喜びに変わります。
 けれども日本のクリスマスは、クリスマスまではおおさわぎ、日程にも忠実なのですが、26日になったら新年に向かって飾り付けがわかります。残しているとだらしがないと思われてしまう位です。
 ほんとうにキリストのお誕生をお祝いするのだったら、クリスマスを迎えてからこそ喜びが増すのではないでしょうか。
 そこにキリストが不在だからこそ、終わったらすぐに片づけてしまうのでしょう。それは自分の楽しみだけしか心の中に入っていないからでしょう。



第13課  逃れの町  12月26日


暗唱聖句「目指す希望を持ち続けるとして世を逃れて来たわたしたちが・・・・力強く励まされるためです。・・・・わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなもの・・・」 ヘブライ 6:18,19


今週の聖句  民数記33~36章、ヨシュア記20:1~7、エフェソ1:7

今週の研究:聖書のテーマは、神がご自分の約束を実現されるということです。主はご自分の購われた民を新天地に入れてくださいます。このことに疑いの余地はありません。唯一の問題は、私たちがそこに入るか、それともあらゆる配慮がなされていたのに約束に入ることを拒んだ第一世代のようになるかということです 。
 今週は、民数記の研究を終えるにあたって、どのようにしてイスラエルの子らに約束された嗣業にあずから最後の準備をしたらよいかについて学びます。


月曜日:レビ人の土地はすべての部族から分配されることになっていました。すべての部族が「自分の嗣業」から与えるのでした。すべての部族が協力してレビ人を養うのでした。ある意味で、十分の一はこれと同じ原則に基づいています。
 レビ人が他の部族によって養われるという事実は、同時に、自分たちが民全体のために忠実に働く責任を負っていることを絶えず彼らに思い起こさせたはずです。
 レビ人はまた、イスラエルのすべての部族のうちに分散することになっていました。民のうちに生活し、その共同体の一部となり、彼らの悩みと悲しみ、喜びにあずかることによって、レビ人は----その務めに忠実でありさえすれば----民の祝福となることができたはずです。仕えられるのではなく、仕えるのでした。真 の奉仕がどのようなものであるかについての模範となるのでした。

火曜日:この時期のイスラエルにおいては、裁判制度が機能していませんでした。もし人が誤って、あるいは故意にだれかを殺したなら、殺された人に最も近い親戚が「血の復讐をする者」となって正義を執行しました。
 民35:12にあるように、その町に逃げ込むことによって、自動的に永久の庇護が保証されるわけではありませんでした。ある場合には、それは「共同体の前に立って裁きを受ける」までの、つまり事実関係が確定するまでの一時的な措置でした。これらの町が定められたのは、あくまでも誤審を防ぐためでした。

木曜日:のがれの町に逃げ込む者はぐずぐずしていることができなかった。家族も職業も放棄した愛する人々に別れを告げるひまさえない。彼は死ぬか生きるかの境目にいるのであって、他のことは全部、安全な場所にたどりつくという一つの目的のために、犠牲にしなくてはならない。疲れを忘れ、困難も気にかけていら れない。のがれる人は、町の壁の中に入るまでは一刻も歩みをゆるめようとしなかった。
 一方では、この類比hば正確でないところもあります。なぜなら、十字架についての私たちの理解によれば、たとえ殺人であれ、故意の罪を犯した人も主によって許されるからです。


 民数記の学びはいかがでしたか?どちらかといえば、数字の羅列や儀式の言葉ばかりが書かれていて、今まであまり親しみのない書簡ではなかったでしょうか。、今期の学びでは、その中に描かれた様々な人間としてのドラマを知ることができましたね。

 イスラエルの民は、真の神の圧倒的な姿を目の当たりにできた国民でした。それにもかかわらず、さまざまな誘惑に負けて神さまに信頼することを選ぶことができませんでした。
 かつてはわたしも神さまが目に見えるかたちで顕現され、そしてなにかしるしをしてくださったら、何の迷うことなく信じることができるのにと思ったことがありましたが・・・
 キリストはルカ16:19~で、ラザロと貧乏人のたとえを用いて、しるしを見ても人は信じることができないと教えていますが、イスラエルの民も同じだったわけでした。
 けれどもあの百人隊長のようにイエスさまのだけを言葉を信じることもできる人もいるのです。(マタイ8:5~)そしてその言葉を信じると、大きな木のように成長するように、永遠の生命への道が開かれて行くのです。

 今週の教課を打っていながら、「仕える」という言葉を変換していたら「使える」と出てきました。音は同じですが、意味はまったく逆になりますね。
 仕えるは、神さまの命に従って、神さまのみこころに従ってみなさまに仕えることですが、使えるは例えば自分が人を使う立場になり、この人は使えると人を評定する時に使ったりしますね。
 わたしたちは人を使いたがり、仕えることは喜ばしいことではありません。自らの意のままに動くを望んでいるのではないでしょうか。

 聖書は、神さまを「主」と表しています。クリスチャンは神さまが主人、わたしたちは仕える者なのです。
 そして主に仕えることは、人生の歩みを進めるなかで、さまざまな困難に出会うことでしょう。その時に、最善の導きと守りが与えられることを信じて歩むことも、仕えることなのではないでしょうか。

 今期の学びを終えるにあたり、再びこのことを考えさせられました。


東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2009 年 第4期12課

2009-12-18 21:46:37 | ディボーション

みなさま

 気がついたら来週はクリスマスですね。今年も海外向けのクリスマスカードは、クリスマスを過ぎたころに着いてしまいそうです。
 今週末は、多くの教会でクリスマスの集会などが予定されていることでしょう。その集まりに神さまの導きと祝福が豊かに注がれますようにお祈りしています。
 北の方では、ようやく雪マークが続き、これで根雪になりそうですね。そしてあと二週間で今年も終わってしまいます。民数記の学びもあと二回です。


第12課  第二世代----訓戒  12月19日

暗唱聖句「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」申命記 6:4,5


今週の聖句  民数記26~32章、ローマ5章

今週の研究:しかしながら、問題は、自分たちの両親の悪行の結果を見てきたこの新しい世代が、これらの過ちから学び、主に従う用意ができているかどうかでした。彼らは与えられた責任を受け入れる覚悟ができていたでしょうか。彼らはどんな教訓を学ぶことになるのでしょうか。私たちはそこから何を学ぶことができるのでしょうか。


月曜日:モーセはその働きを終えて、間もなく死のうとしていました。今、モーセの後継者に選ばれたのがモーセの子ではなく、それにふさわしいとされたものであったことです。ヨシュアを選んだのはモーセや会衆ではなく、神でした。
 聖句にもあるように、モーセと同様、ヨシュアは神の導きによってのみ指導するのでした。つまり、彼は書かれた律法と戒めに加えて、「主の御前でウリムによる判断を求める」ことによって、主の御心を行うのでした。

火曜日:主がシナイ山から十戒を語り(出20章)、幕屋の建造を命じられた時(出25章)、第二世代はまだこどもだったはずです。神は今、要約されたかたちで、大人になった第二世代に対して犠牲制度を再確認されます。
 民数記28:1~8は、朝と夕にささげる「日ごとの」、「継続的な」羊の献げ物について描写しています。この犠牲はつねに焼けているように配慮されていました。(レビ6:2,6) この「日ごとの」、「継続的な」献げ物は聖所の中で最も重要な位置を占めていました。
 それは他のすべての犠牲に優先するもので、イスラエルの礼拝の中心でした。この犠牲は、神の赦しと受容が犠牲に予表される贖い主を通してつねに与えられていることを表していました。

金曜日:モーセが特にイスラエルの第二世代に思い起こさせるために選んだ次の出来事について復習してください。
 彼の訓戒は次の原則に基づいていました。----主が過去に私たちを導かれた方法を忘れない限り、将来に恐れることは何もない。

1.ペオルにおける災害。2万4千人が死んだ(民25:9,26:1)。
2.コラ、ダタン、アビラムの反乱(民26:9~11)。
3.ユダの息子、エルとオナン(民26:19)。
4.アロンの息子で、祭司のナダブとアビフ(民26:61)。
5.カレブとヨシュアを除いて、第1世代は荒れ野で死んだ(民26:63~65)。

 3,4を除いて、これらの出来事はすべて第二世代も経験したことでした。ヘブライ人の歴史の中に、これらの悲劇が記録されているのはなぜでしょうか。使徒パウロは次のように説明しています。「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです」(コリント第一10:11)。


イスラエルの第二世代は、どんな人たちだったのでしょうか。

1.幼少時代に出エジプトを経験しているか、砂漠の中で生まれている。
   人生のほとんどを定住せずに砂漠の中で生活している。
2.毎朝マナを集めて、服や靴などが痛むことなく、神さまに必要なものを
   すべて備えてもらっている。
3.イスラエルの地を目前にして、親が死んでしまっている。
4.乳と蜜の流れる地を目指していた。


 砂漠の中という特殊な、そして彼らだけの世界で生きてきたのです。そこでは食料を自給したり、大人数の様々なものを補給することは不可能な場所でもありました。しかし神さまは彼らの必要を満たされたのでした。
 
 今日のわたしたち神さまの国を目指す民はどうでしょうか。教会という、同じ人生観を持つ方々との交わりが深まるほど、他の方々との関係が疎遠になりがちです。
 また神さまは、わたしたちの必要をいつも見たしてくださっています。まさにわたしには乏しいことはありません。もちろんぜいたくはできないかもしれません。けれどもほんとうに必要なものは備えられているのです。
 それが続くと、あたりまえになってしまい、感謝や讃美が聞かれることが少なくなっているのではないでしょうか。

 そして乳と蜜が流れる地よりも、他に魅力があるものを目指していないでしょうか。いつもそればかりを見ているうちに、それがあたりまえになりすぎてしまったり、色あせてしまっていないでしょうか。

 そうなると彼らと同じ危険に陥りやすくなります。けれども神さまは彼らを様々な方法で導き、立ち返らせようと働かれました。
 その声に聞き従うことを選ぶのはあなたです。神さまがわたしたちに語りかけてくださる声は決して大きくありません。だからこそ、静かなところで祈り、みことばから神さまのみ声を聞くことが大切なのです。


東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2009 年 第4期11課

2009-12-10 20:28:24 | ディボーション
みなさま

 あまり街に出ないせいもあるのでしょうか、あまりクリスマスが近づいた気がしていませんでした。教会や学校を担当しなくなったせいもあるかもしれませんね。
 けれども今日はシャロームに東京三育小学校の1,2年生が訪れてくださり、クリスマスの劇を演じてくださいました。こどもたちの声を聞きながら「イエスさま、早くおいでになってください」そんな想いにかられました。



第11課  預言者の「国境における不道徳」  12月12日

暗唱聖句「彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました」(コリント第一 10:8)

今週の聖句  民数記25,31、申命記21:10~14、コリント第一10:1~14、黙示録2:14

今週の研究:今週は、旧約の歴史の中でも最悪の背信の一つであるペオルにおける背信について学びます。それは数年千前の、文化も背景も現代とは全く異なった時代に起こった出来事ですが、そこには原則的霊的共通点があって、やはり約束の地の国境にある神の教会に対して警告を発しています。


日曜日:この聖句は(民25:1)は、イスラエルがシティムに「滞在していた」と述べています。つまり彼らはどこにも行かないでそこにいたのでした。彼らは平穏でした。いくつもの戦いに勝利したばかりで、安心していました。そして今、ヨルダン川をはさんで、約束の地の国境にまで来ていました。
 言い換えるなら、いくつかの失敗や挫折の後、万事がうまくいっていました。これらの軍事的な脅威もすべて取り除いたので、当面は敵から攻撃される危険もありませんでした。それゆえ、のんきに構えていました。
 ヨルダンの岸辺には、性も食物も偶像礼拝もありました。書かれている順序によれば、彼らはまず女と性的関係を持ちました。こうして防御が崩れました。それから女たちの誘惑によって異教の神々に犠牲をささげ、ひざまずいて、それらを拝むようになりました。
 初めはそれほどでもなかったのでしょうが、次第にそれが普通になりました。徐々に、しかし確実に、彼らの警戒心は薄れていきました。そして気づかないうちに、彼らは食欲と情欲の罠にかかっていました。ひとたびこの罠にかかると、どんなことでもできるようになりました。
 私たちは罪の惑わしに負けるようなことはないと考えて、自分自身を欺いています。

火曜日:エデンにおけるエバから、エルサレムにおけるユダまで、なすべきことを知っていた人たち、警告を受けていた人たち、大きな光を受けていた人たちが、その光を無視し、自分の行動を正当化し、破壊的な結果をもたらす罪に陥っています。
 神が私たちにご自分に従うように要求するのは、神が厳格な暴君だからではなく、むしろ神がご自分の子らを愛し、私たちにとって何が最善であるかを知っておられるからです。
 
 同胞を殺さなければならないイスラエル人の苦しみを想像して見てください。各部族は背信に加わった同族の人々を処刑する責任を負ったように思われます。とすれば、それは自分の家族であったかも知れません。しかも、それを白昼にやるのですから。それは宿営全体にとって恐るべき経験だったに違いありません。

水曜日:聖書の至るところに、罪がどのようにして人の理性を曇らせ、とんでもない不合理なことをさせるかについての実例を見ることができます。カインについて、ダビデとバト・シェバについて、イエスを裏切ったユダについて考えて見てください。
 聖書が繰り返して罪に関して警告しているのも不思議ではありません。神が私たちの罪をお赦しになることができないからではありません。むしろ、罪を罪として認めることができなくなるほどに、罪が私たちの心をゆがめるからです。

金曜日:イスラエル人が罪にいざなわれたのは、外面的に安泰で安全な状態にあったときであった。彼らは、常に神を自分たちの前に置くことを怠り、祈りをおろそかにし、自負心をいだいた。
 クリスチャンが公然と罪を犯すまでには、世間には知られないような長い予備的な過程が心の中で進行している。精神は、たちまちにして純潔と聖潔から堕落と腐敗と犯罪へと急降下するのではない。神のかたちに造られた者を、獣、あるいは悪魔のかたちに堕落させるには時間がかかる。われわれは仰ぎ見ることによって変えられる。不純な思いにふけることによって、人間はかつては嫌悪していた罪を快いものと思うようになることができる。


 函館の街をご存じでしょうか。海の中に半島のように突き出しています。その最も細い部分が函館駅の付近ですが、おそらく幅は2キロくらいでしょか。
 ここに数本の道路が並んで走っていますが、そこから扇のように市内全域に広がって行くために、隣を走っている道路がしばらくすると、全然別の所を走るようになります。慣れるまで迷ったものでした。

 同じように、最初は並んで歩いていたものが、気づいたら離れてしまっていたということが無いでしょうか。小さな誤差でも積り積もって行けば大きな差がついてしまうことがあります。小さな努力も、それを継続することができたら、気がついた時には大きな力がついているものです。

 その逆が今週の学びではないでしょうか。そしてそのような誘惑は、何でもない平穏な時にこそ、やってくるものなのです。


 そしてもう一つ、この物語はとても残酷なともとれますが、それ以上にどれだけ神さまがわたしたちを真剣に愛しているか、伝わってきますね。神さまは人間に自由を与えました。けれども、勝手にするように放任されていたのではありません。かけがえのない存在として、必死になって守られているのです。その想いは、自分の家族や愛する者にあてはめれば良くわかっていただけると思います。
 それ以上の思いで、神さまは導き守ってくださり、わたしたちのために御子イエスさまをこの地上に送ってくださったのです。
 ぜひ今週、教課から選んだ言葉を読んでみてください。イスラエルの民がマナ以外の食物に出会って、そこで何を思ったでしょうか。どんな想いから失敗をし、失敗をした者を裁いて行ったのか、彼らの立場にもなってみてください。また神さまがどれだけ心を痛めたのだろうか、このことも考えて見てください。


東京  安河内 アキラ


安息日学校教課 2009 年第4期10課

2009-12-04 12:59:30 | ディボーション

みなさま

 今週、心に響いた聖句は「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。」ペトロ第一5:6です。これも今週のシャロームの朝の祈りの会である方が引用してくださった聖句です。5:7では「何もかも神さまにお任せしなさい」と勧められています。
 自らの力に頼ろうとしてしまいがちな自分への語りかけでした。心に響いた、それは神さまがわたしに必要な言葉として語りかけてくださったものです。
 クリスマス、それは神さまがともにいてくださるしるしです。神さまが必要に応じて語りかけてくださる。ともにいてくださるからではないでしょうか。



第10課  預言者の「常軌を逸した行い」  12月5日


暗唱聖句「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から
迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます」テモテ第一 6:10

今週の聖句  民数記22~24、申命記1:30,20:4、マタイ15:14、ペトロ第二2:14~16、黙示録3:17

今週の研究:ペトロはバラムの「常軌を逸した行い」について語っています。しかし、それは精神錯乱という「狂気」ではありませんでした。むしろ、それは貪欲に目がくらみ、金のためならどんな悪いことでもバラクの言う通りにしようとする人間の狂気でした。
 もし預言者バラムのような人間でも「常軌を逸した行い」をすることがあるとすれば、彼の悲しむべき実例を見ていながら同じことをする者は、それ以上に「常軌を逸した行い」をすることになります。


月曜日:バラムは主をしっていた、あるいは少なくともかつては知っていたからです。実際は、彼は主に求める必要がありませんでした。それにもかかわらず、彼がそうしたのは他に答えを期待していたためでしょう。
 いずれにせよ、使者をすぐに追い返すべきなのに、留まらせることによって、彼は自ら誘惑への道を開いたのでした。

火曜日:聖書はあるこの不可解な物語について、長年、いろいろなことが書かれてきました。さまざまな注解者がさまざまな解釈をしていました。
 しかし、次のことだけははっきりしているように思われます。つまり、バラムは主と特別な関係にあった人物でした。主はなおも彼に親しく語りかけておられました。そのような関係にあったにもかからわず、バラムは自分の思いの通りにしようとしました。

金曜日:動物を自分の権威の下にいるからと言って、彼らを虐待する者は卑怯者であり暴君である。あわれな物言わぬ動物たちは、話すことができないので、多くのものは自分たちの残酷な行為が知られるとは思っていない。
 しかし、もしこれらの人の目が、バラムと同じように開かれたならば、彼らは神の使いが天の法廷で証人として立ち、彼らに有罪の証言をしているのをみるであろう。記録は天にのぼる。そして、神が造られたものを虐待するものにさばきが宣告される日が来るのである。


 バラムの物語を読みながら、神さまの答えは明白なのに、なおかつそこへ行きたい、それをしたいという人間の強欲が姿が見えてきますね。みなさまも同じような経験はありませんか?
 わたしもそれはやらないほうが良いとわかっていても、そこ行くとお金が入りそうだから・・・などという理由で、何とかそれをする肯定的、合法的な理由を探して、自らの強欲な行為を正当化しようとしてしまったことがあります。
 そのような時に、このバラムのことを思い出しますね。

 誘惑、それはわたしたちが誘われて惹かれて行くものです。(ヤコブ1:12~16参照)お金が悪いわけではありません。欲望がすべて悪ではありません。食欲がなければ死んでしまいます。向上心が無ければ進歩はありません。
 しかし神さまがおゆるしになった秩序を越えた欲望、それを強欲とでも申しましょうか、それが罪になるのです。
 欲望は、それを果たすまでは、ものすごく甘く、誘いかけます。しかしそこに到達すると苦みと敗北感が残ります。冷静になってみると、もっと大切なものを見失ってしまったことに気づかされます。

 バラムは、このできごとの最中や直後に、すぐに神さまが滅ぼしたりはなさいませんでした。
 彼の最後は民数記31:1~24に書かれている、彼がそそのかしてミディアンの女性を使ってイスラエルの民にバアルを拝ませようとしたことに対して、主がミディアン人の男性を殺すように命じて実行されたと書かれている悲しい事件に登場します。
 彼は新約聖書でも貪欲や不道徳な人物の実例として書かれています。

 神さまと直接語るという特権を受けていながら、このような末路をたどる人物もいるのです。そのちがいは、神さまの導きの声に、自らの願望を優先させるのではなく、従順に従って行くのかではないでしょうか。

 最後に金曜日の学びの言葉も、とても大切なことだと思います。神さまは小さなものをもしっかりと愛していらっしゃることを忘れてはなりません。

東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2009 年 第4期9課

2009-11-27 12:59:09 | ディボーション

みなさま

 先週の巻頭言で「自らを警戒する謙虚さ」という新聞記事から書かせていただきました。それについて、いろいろな方からメールをいただき、ありがとうございました。
 今週、シャロームの朝の祈りの会を担当された方が「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。」(コリント第二13:5)を引用されました。
 パウロも、自分自身についていつも謙虚に反省するように勧めています。自分の歩みをふりかえっても、苦しい時よりもうまくいっている時に失敗をすることが多かったように思います。
 自らの弱さ、醜さを忘れている時に、わたしたちはまちがいを犯してしまうのではないでしょうか。弱さに対峙している、またさせられている時は、神さまの存在を求めるようにわたしたちが導かれている時なのかもしれません。



第9課  「モーセとアロンの罪」  11月28日


暗唱聖句  「ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡って行けないのだから、自分の目でよく見ておくようがよい」申命記3:27

今週の聖句  民数記20,21章、ヨハネ3:14,15、ヤコブ4:4~15

今週の研究:今週は、聖書全体に一貫して流れているテーマ、つまり神の民と不信仰の罪、忘恩と対照的な神の憐れみと恵みについて学びます。
 神が、たとえば偉大なモーセのような善悪をわきまえているべき者たちの失敗と堕落をも喜んで赦しておられるのを見ます。モーセは、弱さと短期、そしていくぶん傲慢の中で、神を見失ってしまいました。モーセでさえ失敗することがあるとすれば、私たちはなおさらです。



日曜日:ある意味で、モーセの欲求不満はよく理解できます。まず、彼は姉(ミリアム)を葬ったばかりで、明らかに悲しみのうちにありました。その上、民は先祖と同じ不満を訴えるのを聞かねばなりませんでした。しかし、主の目には、これらは自分の行動を正当化する理由になりませんでした。
 彼が自分で彼らを責めようとしたとき、彼は神の霊を悲しませ、民に害毒を及ぼしただけであった。
 最も忠実で勤勉な僕であっても、注意深くあらねばなりません。この罪をいっそう悪くしのは、それが大いなる特権を与えられた人物によってなされたことでした。モーセがこれまで神の力の現れを見てきました。これらすべての事実にもかかわらず、彼は自我の現れと支配を許していました。これは私たちにとって も厳粛な警告です。

月曜日:民数記20章はミリアムの死をもって始まり、アロンの死をもって終わっています。古い時代が去り、新しい世代が彼らの残したものを受け継ぐのでした。
 今日の教会も同じです。重要な問題は、新しい世代がどの程度、古い世代の成功から、そして失敗から学ぶかということです。
 言い換えるなら、教会の働きと使命は一人の人間よりも大きいということでした。もし望むなら、私たちは自分の務めを忠実に果たすことができますが、遅かれ早かれ、私たちはこの世を去り、他の人が私たちの働きを受け継ぎます。

火曜日:彼らは私たちと同じく悩みや問題、恐れを抱えていたことでしょう。しかし、彼らはこうした問題ばかりに目を向け、それまで自分たちに与えられた神の祝福を忘れてしまいました。ここに彼らの問題がありました。
 つまり、神の憐れみと恵み、備えに慣れるあまり、それを当り前のことと考え始めたのです。ひとたび物事を当たり前のことと受け取るなら、容易にそれらを忘れるようになります。
 そのような愚かな考えに対する唯一の解決策は、毎日、主から与えられたものに感謝することです。賛美の重要性はここにあります。紙は私たちの賛美を必要とされませんが、私たちは努めて周を讃美する必要があります。なぜなら、そうすることによって、私たちがどれほど主に感謝すべきかを絶えず思い起こすように なるからです。

水曜日:旗竿の先に青銅の蛇を掲げるだけでは、蛇にかまれた人は助かりませんでした。彼らは仰がねばなりませんでした。彼らは従うことを選び、自分のためになされた備えの恩恵を受け入れなければなりませんでした。
 同じように、イエスの死そのものは自動的に世に救いをもたらすのではありません。イエスの死は救いの道を備えましたが、イエスが無償で与えてくださるものを受けるためには、私たちはイエスを仰ぎ、信じなければなりません。イスラエルの民が荒れ野において仰がねばならなかったのと同じです。


 今週の学びの最初に出てくるアロンが死ぬ場面ですが、昔から思ったことは息子のエレアザルにとって辛い時だったろうということです。
 おそらくアロンは、その直前まではそれなりに活躍していたのでしょう。モーセや息子とともに登山をしたくらいですから・・・けれども神さまから死を宣告されて、二度と戻ることのない道を歩み、そして大祭司の服を脱ぎました。エレアザルは、おそらくまだ父のぬくもりが残っている服を着ることになったでしょう 。砂漠の道の途上で眠りにつく父を彼はどのように見送ったのでしょうか。

 わたしたちも同じようにバトンを受けて、それを受け継ぐ人に託さねばなりません。どのような仕事でも後継者を育成することは大変な作業ですが、それを疎かにすることはできません。
 イエスさまは宣教もなさいましたが、弟子たちを育成することに力を注がれました。それを一度に譲渡することはできないでしょう。育てるためには忍耐と努力も必要です。時間が必要なのです。教会の役員選出などにおいても、ある程度長期的な視野に立って考えていく必要があるのではないでしょうか。


 モーセの罪についても書かれています。彼の罪を神さまはゆるされましたが、彼は罪の結果を刈り取らねばなりませんでした。それは彼はカナンの地へ入ることがゆるされなかったのでした。
 けれども神さまは彼をゆるされた証拠に、彼を昇天させ、十字架を前にしたキリストのもとへ送られたのでした。
 それは彼が、神さまにゆるしをもとめ、救いを求めたからです。神さまは求める者を必ず救ってくださいます。だからこそ、サタンは求め無くなるようにさせようと誘惑するのです。火曜日の最後にありますように、いつも神さまから与えられていることを認識して感謝することが重要なのです。


東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2009 年 第4期8課

2009-11-19 12:51:14 | ディボーション

みなさま

 数日前の新聞で,、ある精神科医が書いた「自らを警戒する謙虚さを」という記事を見つけました。その論旨に考えさせられることが多かったので、終わりの部分を引用します。
 「非対称的な権力関係は、いかなる場合でも『暴力』につながりうる、ということ。それは人格や意図、理論的な正当性とは無関係に起こりうること。そう、学校で、職場で、家庭でそうした暴力は日常的に起きている。
 人を教え導くことは、時として人に命じ、従わせることでもある。そのような立場に立つ者にとって欠かせない資質は『謙虚さ』だ。自らの『暴力性』を警戒し続けるような謙虚さ。私たちがそのような資質の重要すぉ認めない限り、同じような悲劇がまた繰り返されることになるだろう。」」

 人に手は出さなくても、切れてしまったりすることはないだろうか。それが善意から始まったものであったとしても、わたしたちはこのような暴力性を内包していることを覚えて、これが人間の罪深さなのだろう。だからこそ、神さまの前にひざまずく必要があるのではないでしょうか。



第8課  「祭司とレビ人」  11月21日


暗唱聖句「主はアロンに言われた。『わたしが、イスラエルの人々の中であなたが
受けるべき割り当ててあり、嗣業である」民数記18:20

今週の聖句  民数記18,19章、ペトロ第一2:9、黙示録14:6~12

今週の研究:私たちも自分が与えられた聖なる責任と信託を真剣に受け止める必要があります。
 また、これらの人たちが互いに、また国民全体とどれほど相互に依存していたかに注目してください。私たちは今日、一つの教会として、このことから教訓を学びます。
 さらに、これらの章に記された恵みの役割について注目してください。民に与えられた賜物は彼ら自身の功績によるものではありませんでした。つまり、それらの地位は彼ら自身が生まれながらに持つ価値のゆえではなく、神によって与えられたものでした。これは福音についての力強い象徴です。


月曜日:賜物という言葉は、自分で獲得したものではない何かを連想させます。それは完全に恵みによるものです。祭司職という賜物はこれらの人たちに与えられた特権でした。それは彼らの功績によるものではなく、ただ神の恵みと摂理を通して与えられたものでした。主はこの務めを行う者たちを必要とし、聖な る知恵によってこの者たちをお選びになりました。
 言うまでなく、この聖なる務めには聖なる責任がともないました。幕屋は、神が地上でお住みになるところだったからです。

火曜日:主がご自分にささげられたものを祭司にささげられたものとみなしておられることに注目してください。献げ物や賜物は主にささげられたものでしたが、主はそれらを祭司に与えておられます。このように、人々は主に献げ物をささげることによって、同時に祭司にそれをささげていたのです。このことから、神と 人との仲保者の役割を果たした祭司と主とのあいだに密接な関係があったことがわかります。

水曜日:十分の一を受け取るレビ人も、自分の十分の一をアロンにささげました。レビ人は受け取ったものの中の「最上のもの」を十分の一としてささげなければなりませんでした。このように十分の一は祭司たちを支えるために用いられたと同時に、レビ人に対して、自分たちが神に依存していること、自分たちの受ける すべてのものが神から来ていることをりかいさせてくれました。彼らもまた「十分の一の十分の一」を忠実に返すことによって、感謝の念を表す必要がありました。民が主に依存していることを常に覚える必要があったとすれば、レビ人はなおさらでのことでした。

 今春から、わたしは牧師の立場はいただいていながら、福祉の現場で働いています。今まで25年近く働かせていただいたところから、まったく新しい世界に移り、いろいろな新しいことにも出会う日々を送っています。

 十分の一についても、今までとまったく異なることが起こってきました。牧師としての働きを始めた時に「十分の一を天引きしますか?」と教団の経理から問われたので、最初に引いていただければ良いのではと考えて天引きを選んできました。
 これだったら確実に、そして正確にささげることができますが、税金や公共料金の自動引き落としと同じ状態にもなりかねません。
 
 ところが今春からは、自分でいただいたお給料の中から献金をささげるようになりました。銀行から下ろしてきたら、まず最初に献金をわけます。これは昔からしていることですが、給与全体から目に見えるかたちで十分の一を分けるのは、考えていた以上に大きな金額をという想いになりますね。
 献金をささげてくださる方のお気持ちについて、理解しているつもりでしたが、実際に自分で十分の一を分けてささげることが、どれだけ大変なことなのか痛感させられています。

 そしてこれこそが信仰でしょう。まずは神さまが言われたとおりにしているのです。様々な理由をつけて、この献金をささげないで済ますこともできるでしょう。それはあなたのお金だからです。けれどもわたしの事情や想いを優先するのではなく主である神さまがおっしゃっているのだから、有無を言わずにそれを神さ まの前に持って行くのです。
 そうすることにより、わたしたちは神さまによって生命を与えられて、生かされていること、すべてを依存していることを公に表すことではないでしょうか。
 神さまは、このように従う者を必ずお見捨てにならず、わが子として守り導いてくださるのです。それは何かの見返りを求めるのではなく、神さまを愛しているからこその行為なのです。だからこそ、神さまがお喜びになる「服従」することを選ぶのです。


東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2009 年 第4期7課

2009-11-13 12:42:53 | ディボーション

みなさま

 このところ残忍な事件や詐欺事件が続いています。また新型インフルエンザが全国で猛威をふるっています。いつまでこんなことが続くのでしょうか。
 このようなことをかつて書いたことがありました。その時よりも現在のころは、はるかに深刻な状況になっています。かつてと同じような状況を今の時点で見ても、それに対してあたりまえとは言えないでも、そのような状況に慣れてしまうわれわれの姿があるのではないでしょうか。
 しかし新型インフルエンザは弱毒性と言われています。もっと強毒性のものが起こるのでしょうか・・・
 世界は恐怖と不安で気絶する(ルカ22:26)、そんな時代がやってきているのでしょうね。




第7課  「権力闘争」  11月14日


暗唱聖句「痛手に先立つのは驕り。つまずきに先立つのは高慢な霊」箴言16:18

今週の聖句  創世記17:10~17、民数記16,17章、ヨシュア記4:3~9、マタイ26:13、ルカ22:19

今週の研究:今週の研究は、堕落した人間の心をまざまざと思い起こしてくれます。高慢やねたみ、権み力欲を心に抱き、肥大するままにしておくと、恐ろしい結果をもたらします。よりよい道を知りながら、これらの苦々しい種が実を結ぶままにしておくと、どのような苦痛と損失をもたらすことになるかは、神だけが知 っておられます。わたしたちも同じ過ちを犯すことがないように、これらの経験を通して教訓を学びたいものです。


月曜日:彼らの置かれた状況について考えてください。もしこれらの者たちがさらなる反逆をするままにさせられたら、その恐るべき結果はいかに大きなものであったでしょうか。イスラエルの子らは、いわば全く主に信頼しないかのように、容易に道を踏み外していたはずです。
 彼らは、主が支配しておられることを、主が彼らを導いておられることを、またモーセとアロンが自分たちのためではなく、神のみ旨に従って行動していることを知るべきでした。これらのことが明らかであったとしても、罪は私たちの理性を曇らせる力を持っています。反逆の精神は、ひとたび火がつくと抑えることが 困難であるばかりでなく、さらに勢いを増すことがよくあります。

水曜日:この記事(民17:6~15)からも明らかなように、民のうちに始まっ
た反逆の精神はコラをもって終わったのではありませんでした。反逆の精神は、これらすべての出来事の後にも、宿営のうちになおも続いていました。あのような災いを目撃した後で、人はどうして同じ行動を繰り返すことができるのか理解 に苦しみます。
 人がひとたび反逆と背信の道をくだり始めると、同じような狂気と愚行を繰り返すものであることを、このことは示しています。私たちは神の恵みによって神の約束を信頼し(コリント第一10:13、フィリピ1:6)、滅びに至る前にこのような感情を締め出す必要があります。

金曜日:教理をしっかりと理解していなければならない。真理を教えることを受け入れる者たちは錨を下していなければならない。そうすれば、彼らの舟は嵐や暴風雨にも持ちこたえられる。錨が彼らをしっかりと支えてくれるからである。欺瞞は増すであろう。私たちは反逆に正面から立ち向かわなければならない。完全 な武具を身につけて立たなければならない。


 民数記17章の前半は、わたしにとっては見落としていた部分でした。それは前の章のコラの反逆と、17章の最後にあるアロンの杖が芽を出すという部分が有名で、そのことばかりを見てしまっていたためでしたね。
 イスラエルの民は、出エジプトからの一連の奇跡、シナイ山での顕現、毎日のマナや雲の柱など、そしてコラと仲間たちの反逆の結果などを見ていながら、まだ神さまに逆らうのでしょうか。

 彼らの気持ちを少し考えてみましょう。このできごとのしばらく前に、彼らの中の大人たちは砂漠の中で死に絶えると宣告されたのでした。この後、死ぬまで砂漠で暮らし、毎日マナだけを食べて・・・
 そこへ能力のある人たちが前に立ち「チェンジ」と叫んで、エジプトへ戻って再起しようと訴えられたら、モーセやアロンに従うことよりも心が動くのではないでしょうか。もちろんそこにサタンが働くのでしょうが。

 この人たちは、少なくともシナイ山では神さまを主として歩むと誓った人たちでした。けれども状況が変わった時に、神さまを捨ててしまいました。
 けれどもこの人たちが特別に忘恩なのではなく、わたしたちと同じ人間なのです。あなたが同じような状況になったら、また神さまが導いてくださっているととても思えないような環境に置かれたら、あなたはどのような選択をするでしょうか。

 そのような時にこそ、信仰を働かせてください。水曜日の最後にコリント第一10:13が引用聖句として書かれていますが、神さまは越えられない苦しみを与えない、そして最善の道を与えてくださることを信じて苦しみと対峙し、その先に与えられる光を信じつつ、少しずつでも前進することではないでしょうか。
 苦しい時は、神さまの導きを忘れてしまっているかもしれません。聖霊はあなたの良心に働きかけて気づかせてくれます。けれども、あなたそれに共感して、信仰を働かすことを選ぶことにより、救いへの道が開かれて行くのです。
 

東京  安河内 アキラ