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ラムズ・スタディ

聖書の神様のこと、みんなで学び、同じ目標を確認できたらホントすばらしい。

安息日学校教課  2010 年 第1期13課

2010-03-26 19:43:21 | ディボーション

みなさま

 関東地方でも、さくらの開花のニュースが報じられていますが、その翌日はみぞれまじりの雨が降り冬に逆戻りしてしまったような天気になっています。いかがお過ごしでしょうか。
 今年のキリストの復活を祝うイースターは4月4日(日)です。そうなると来週は受難週になります。キリストの想い、そして十字架などについてまったく気づいていなかった弟子たちの想いなどを考えながら聖書を読む一週間にしてはいかがでしょうか。
 

第13課  霊の結ぶ実---クリスチャンの品性   3月27日

暗唱聖句「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるか、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」コロサイ1:27

今週の聖句  マタイ6:33、ヨハネ15:8、ローマ3:20~26、14:17
テモテ第一6:11、ヨハネ第一2:15

今週の研究:キリストを信じることによって、彼によって贖われた、堕落した人類は、愛によって働き、あらゆる汚れから魂を清める信仰にあずかることができる。そのとき、キリストに似た特性が現れる。というのはキリストの眺めることによって、人は栄光から栄光へ、品性から品性へと同じ姿に変えられるかたである。よい実が生じる。品性が神の姿に変えられ、誠実と高潔、真の慈愛が現れる。


月曜日:ガラテヤ5:22,23、エフェソ5:9だけが、クリスチャンの品性の中心となる霊の結ぶ実を列挙しているのではありません。テモテ第一6:11、テモテ第二3:10、ペトロ第二1:5~7でも、たとえば信心や徳、知識といった多くの実が繰り返されています。
 これでおわかりのように霊の結ぶ実に関しては、一つの公式のチェックリスト(照合表)がないということです。クリスチャンの品性には、多くの異なった側面があります。使徒たちはそれぞれ、特に自分の読者に当てはまる特質を上げているにすぎません。

水曜日:私たちは律法主義に陥らないように注意する必要があります。その一方で古代イスラエルの過ちを繰り返さないようにしなければなりません。彼らは、周囲の国民に合わせて妥協したとき、常に背信しました。ヨハネ第一2:15は、世を愛することは心から神を愛することを不可能にすると教えています。世に福音を伝えようとしてかえって世に心を奪われ、世に引き込まれることのないように、私たちは教会として注意する必要があります。

木曜日:以下にあげる方法は霊の結ぶ実の成長を助けてくれます。
・神の御言葉を学ぶこと
 テモテ第二3:16によれば、聖書は何のために有益ですか。その結果として、私たちのうちに何が達成されますか。
・祈ること
 「祈りは魂の呼吸である。それは霊的力の秘訣である。いかなる恵みの手段もその代用とはならず、したがって魂の健康を維持することはできない。
・正しい思想
 「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や賞賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」(フィリピ4:8)
・信仰をあかしすること
 イエスによって悪霊からいやされた男は、イエスと一緒に行きたいと願いました。しかし、イエスは彼の願いを退け、彼に向かって自分の家に帰り、主がしてくださったことを知らせるように言われました。(マルコ5:18~20)

金曜日:「実を結び」みことばを聞いて、それをたくわえているものは、服従という実を結ぶ。魂の中に受け入れた神の言葉はよい行いとなってあらわれる。キリストのような品性と生活とが、その結果となってあらわれてくるのである。
 「彼におる」と言う者は彼が歩かれたように、その人自身も歩くべきである」と聖書にある。(ヨハネ第一2:6)


 霊の結ぶ実についての学びが今週で終わろうとしています。みなさまはどのような学びをなさいましたか?
 清い、神さまから与えられる実をつけるために、○○をもっとするように、△△がとても良いなどという方法論が多かったら、できそうもないので学んでいるだけで責められそうな教課だなと学ぶ前は思っていました。

 けれども、今期の学びを通じて、様々な霊の実は聖霊がわたしたちにくださるもので、わたしたちはそれを受け取ることを選ぶことが重要と教えられましたね。
 また今週の月曜日の学びにありましたが、霊の実の種類はガラテヤ書に書かれているだけではなく、聖霊が必要であればいろいろな賜物を与えてくださるのです。

 そして日曜日の学びで「まず神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)の聖句について学んでいます。霊の実を与えてくださいと祈るのではなく、最初に神の国と神の義を求めるように勧められています。
 この神の国は、何を指しているでしょうか。もちろん未来の天国を指していて、一日も早く神さまが来てくださることを願うことも含んでいるでしょう。
 けれども聖書の中には、この地上でも天国にいるような平安が与えられることを約束されています。それは神さまの守りと導きが確信できた時です。神さまがそばにいてくださった時なのです。
 神さまにそばにいていただくためには、神さまが好まれないものを排除する必要もあるでしょう。それだけでなく、わたしたちの心の戸を開いて入っていただかなければなりません。
 最初に神さまとわたしの関係を良好な正しい状態にするようにと、このみことばは教えているのです。そのような関係を築く時に、神さまの義がわたしたちのうちに表わされて、霊の実が実るのです。
 そのようになるために、わたしたちが日常生活で励んだらよいことについて木曜日の学びに書かれています。
 ある時はつまずいても、一歩ずつ神さまの国を目指して歩む時、必ず神さまは導いてくださり、実を結ばせてくださるのです。そのような確信が深まった今期の学びを感謝いたします。


東京 安河内 アキラ


安息日学校教課  2010 年 第1期12課

2010-03-19 23:03:30 | ディボーション

みなさま

 今週は社会福祉の基礎的な資格を取得するための研修に来ています。最初の講義で「福祉とは?」と質問されました。面と向かって言われると、なかなか答えられないものですね。
 福祉とは、「幸せになること」です。けれども幸せの定義はみなさん異なります。おいしいものを食べることが幸せな人は、料理をするか食べに行けば良いのです。けれどもだれかの助けを受けねば幸せを実現できない人がいます。すべての人が自ら力で自らの幸せを助けるのが「社会福祉」で、そのための働きが「社会 福祉事業」だと言葉の定義を説明されました。
 そう考えると、社会福祉事業は現代社会において「黄金律」を実践する有益な手段なのですね。

 
第12課  霊の結ぶ実は真理   3月20日

暗唱聖句「わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」エレミヤ29:13,14

今週の聖句  歴代誌下25:2、詩篇51:19、エレミヤ書29:13,14、ヨハネ7:16,17、14:6、17:3、ヘブライ5:14


今週の研究:真理とは、わたしたちの知っていること、いわば客観的な「現場事実」を指します。しかし、同時に、真理には主観的な要素、つまり学んだことに対して個人的にどのように応答するかが含まれています。これら両方の要素が満たされるとき、私たちは霊の結ぶ実としての真理を現すようになります。


月曜日:聖霊は真理(イエス)の客観的側面と主観的側面の両方を明らかにされます。聖霊が来れば、イエスについてあかしし、「罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかに」されます(ヨハネ16:8)。これが、世についての、神についての、現実についての厳しい事実です。
 聖霊の働きはただ私たちにこれらの真理を教えるだけではありません。私たちの生き方はそれらを理解することによって変えられる必要があります。私たちの生き方がそれによって変えられなければ、これらの客観的で永遠の真理は何の役にも立ちません。
 この過程の一つが(たぶん最も重要な部分)、エレン・ホワイトの言うように、私たちが岩なるイエスの上に落ちて砕かれることです(詩編51:19参照)。

火曜日:誠実であることは重要です。というのは、誠実な人、真実で正しいことに献身していない人は、ふた心の人だからです。そのような人は他の何かに心を引かれているので、それを捨てない限り、いつまでもそれに従っている限り、心の神の前に「サレム」、つまり「完全」で、「全き」ものとなりません。重要なこ とは、自己を完全に捨てて、心から神に献身することです。これは容易なことではありません。真の意味で必要なのは、昨日の研究で学んだように、岩なるキリストの上に落ちて、砕かれることです。

水曜日:悪のうちにとどまり、悪を行えば行うほど、私たちの良心は汚れ、真理(イエス)から離れてしまうことは明らかです。私たちは救われるために必要な十二分の知識を得ることができます。悲しいことに、救われるために十二分の客観的知識を持った人の中にも、最後の火に焼かれる人がたくさんいます。何 度も言いますが、客観的真理だけでは、霊の結ぶ実とは言えません。生活の中で実践される真理こそ、私たちの結ぶべき実です。


 「真理を持っている」とわたしたちの教会のことを語っているのを聞いたことがあるのではないでしょうか。これは自分たちの教えの正しさを言いたいがための表現でしょうが、そもそも真理とは何でしょうか。自分たちは真理を持っていると言っているわりには、そのあたりをあまり考えてこなかったのではないでしょ うか。

 今週の学びでは真理には客観的側面と主観的側面があると教えています。客観的な真理とは、事実や真実そして原則などが挙げられています。いつの時代においても普遍なことを指していると言えるでしょう。そのようなことをできるのは、ただ一人だけ神さましかいらっしゃいません。
 そして主観的な真理とは、個人的な美徳としての真理と書かれており、客観的な真理を示された時に、どのように応答して行くか、わたしたちがどれだけ神さまのみこころを反映できるか。それによってわたしたちも真理を持っているものになれるのかもしれませんね。

 この真理をわたしたちに教えるのが聖霊です。聖霊は、わたしたちに神さまについて、そのみこころについて教え、諭し、導いてくださいます。そして個人的に何をしなければならないかを示してくれるのです。
 先週のこと、わたしは一つの失敗をしてしまいました。その結果、今風に言えば「へこみ」ました。その直前に、心の中で「やめたほうがよい」という声がしたのですが・・・無視したというのか勢いで進んでしまい失敗を犯しました。今になって思い返すと、きっと聖霊が良心に働きかけていたのでしょうね。
 けれどもそれによって、自らのほんとうの姿、弱さなどを見せつけられました。足りなかった知恵を神さまに祈り求めました。

 今週の学びの中で、イエスの上に落ちて砕かれることこそが、真理を受け入れるために必要だと二回も書かれていました。自分の経験などに自信があると、神さまの声が聞こえなくなりがちです。そこには聖霊の働く余地がありません。
 神さまとの正しい関係にある時に、そして神さまとつながっている時に、わたしたちは真理の光を受けて正しい選びができるのです。


東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2010 年 第1期11課

2010-03-12 19:25:14 | ディボーション

みなさま

 春が近づいたしるしに三寒四温という言葉がありますが、このところの寒暖の差の大きさには体も少々堪え気味です。20℃くらいになったと思ったら、直後に白いものが舞っているわけですから・・・・
 わたしが住んでいる街には梅の木が多く、梅林や家庭の庭などあちこちで見かけます。白や紅、いろいろな種類があるんですね。そして梅の花の寿命は桜と異なり、比較的長いんですね。ほのかな梅香の薫りを下を毎日出勤しています。
 

第11課  霊の結ぶ実は義   3月13日


暗唱聖句「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。」マタイ5:6

今週の聖句  マタイ23:25~28、ローマ3:28、8:4、10:3、ガラテヤ3:6、ヨハネ第一2:3~6、5:1~3

今週の研究:私たちは義を二つの意味で理解しています。第一の義は、転嫁されたキリストの義、すなわちイエスが私たちに代わって成し遂げられた義、私たちを覆い、私たちの天国への権利証書となる義です。
 第二の義は分与されたキリストの義、すなわち私たちをご自分の姿に造り変えるために、キリストが聖霊を通して私たちのうちに成し遂げてくださる義です。


火曜日:パウロはローマ5:19の中でこの恵みを受ける人たちは「義の賜物」を受けると言っています。それが賜物であることに注意してくあさい。働いて得たり、受ける価値があったりすれば、その瞬間、それは恵みでなくなります。(ロマ4:4)
 しかし、それは一律に与えられる賜物ではありません。キリストの義はすべての人に自動的に与えられるものではありません(ロマ5:17)。つまり、それは信仰によって要求する人たちに与えられるのです。「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われる通りです。(ガラ3:6)

水曜日:服従の問題を取り上げると、私たちは行いによって救われるのではない、と言う人がいます。ルシファーが天に置かれたのは神の御心に対する服従のゆえではないことは確かですが、彼が天を追われたのは不服従のゆえであったことは確かです。同じことがアダムとエバについても言えます。彼らはエデンの園から追放されたのは神の御心に対する不服従のゆえでした。
 「義とは正しい行いである。そしてすべての者は各自の行為によってさばかれる。わたしたちの品性は、わたしたちの行いによって現れる。行いは信仰が本物であるかどうかを示す」(希望への光1309ページ、キリストの実物教訓292ページ)

木曜日:真の服従は、内部に秘められた原則が、外にあらわれ出ることである。それは、義と神のおきてを慕う愛から発するのである。あらゆる義の本質は、わたしたちのあがない主に対する忠誠である。この忠誠心が、わたしたちに
正しいことであるからという理由で正しいことを行わせ、善行は、神が喜ばれることであるからという理由で義を行わせるのである。


 今週の学びは「義」のはずでしたが、途中から「服従」にかわってしまったような感がありますね。義と服従は表裏一体のものであることを教えています。
 前もお話ししましたが、信仰生活には神さまがなさることと私たちがしなければならないことがあります。この二つが合体となり実が結ばれます。なぜなら神さまは、わたしたちに自由意志を与えられたからです。

 義に戻りましょう。土曜日の学びで、第一に義は罪深いわたしたちを覆ってくださるキリストの深い愛を指しています。もし自分で自分の罪の精算ができれば十字架は必要ありませんでしたが、それができないからキリストが身代わりとなってくださったのです。
 第二の義は、わたしたちのうちに与えられる新しく正しい品性や生き方などを指しています。これも与えられるものです。

 ここまでは与えられるもので、それは神さまの働きです。ここからがわたしたちの役割となります。ここで思い浮かぶのはマタイ22:1~14の王子の婚宴のたとえ話です。王様は人々を婚宴に招待しました。すばらしいごちそうが整えられた宴席が用意されましたが出欠は、招待状を受けた人にまかされていました。
 彼らが欠席すると、王は部下に誰でも良いから連れ来るように命じました。彼はほんとうにただで宴席に出られるか・・・・礼服は持っていないけれど・・・これらの不安に対して王はすべてを備えて待っていたのです。

 神さまは、わたしたちが服従を選ぶために、選べるように様々な徴を与えてくださいます。あなたのために神さまが働いてくださいます。わたしたちの信仰は、その神さまとの信頼関係によって選ぶと言っても良いのかもしれませんね。
 そしてあなたの愛する人が神さまを信頼できるようにも働いてくださいます。だからこそわたしたちは誰かのために祈るのです。


東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2010 年 第1期10課

2010-03-05 20:38:56 | ディボーション

みなさま

 中南米で地震が続き日本も津波に襲われて、「大津波警報」を17年ぶりに聞きました。その他、世界中で気候変動による災害なども多発しています。
 このようなできごとを「終わりの徴」ととらえることも大切なことでしょう。けれどもそれが終わりが近いことを知らせることであったとしても、大切なのはそれを見たわたしたちが何をするかではないでしょうか。
 数日前に放映されたテレビ番組で、一人の北アルプスの山岳救助隊員が紹介されていました。彼は先輩に「山は恐ろしい」ことを忘れるなと教えられ、そのために「山を知れ」と諭されそうです。彼は、いつも謙虚で、そして今できることを全力でとモットーに日々の活動をしていると語っていました。

 いつの時代を生きるにしても上記の姿勢は、われわれにも共通する生き方ではないでしょうか。終わりの時を知らせるラッパは「創造者を礼拝せよ」と招いています。
 様々な事件を見聞きして、興奮や落胆するのではなく、神さまの前にへりくだって光を求め、今できることに最善を尽くす、それがわたしたちのできることではないでしょうか。

 

第10課  霊の結ぶ実は節制   3月6日

暗唱聖句「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。」コリント第一9:27


今週の聖句  士師記13~16章、コリント第一9:24~27、フィリピ4:8、コロサイ3:1~10、ヘブライ12:1,2、ヨハネ第一2:15,16

今週の研究:節制は、ほかの霊の実が成熟する上で、節制は重要な役割を果たすからです。節制は、いわばほかのすべての霊の実を一つに結びつける接着剤です。
 ほかの霊の実と同じく、節制は恵みの賜物です。それはまた「訓練された恵み」と呼ばれています。「恵み」というのは、それが無償のものだからです。「訓練された」というのは、私たちのなすべき役割があるからです。
 節制には、消極的な響きがありますが、恵みそのものに欠くことのできない要素です。つまり、聖霊の恵みと力とのもとで自分を制するか、ほかのだれか(何か)によって支配されるか、のどちらかです。それを決めるの私たち自身です。


日曜日:パウロは聖霊によって歩むことについて語っています。聖霊の伴わない生き方は、自力で霊の実を結ぶことができません。パウロは私たちに代わって私たちには意志はあるが、力がないと言っています。
 勝利する「方法」はイエスを信じる信仰を通して与えられます。私たちはイエスに献身し、イエスの義を求め、もはや罪に定められることがありません。わたしたちは聖霊によって歩み、イエスの御心に従い、イエスの勝利の約束を求めます。重要なのは約束にすがることです。力はここから来ます。一人ではできません。
 イエスの御名によって勝利することを選ばなければなりません。この闘いは霊的なもの(信仰を働かせること)であり、同時に肉体なもの(肉欲と闘うこと)です。どちらも避けることのできないものです。

月曜日:これは重要な点です。たとえどのような代償を払おうとも、正しいことをしようと決意するとき、物事はすぐに好転すると期待すべきでしょうか。罪に妥協することを拒んだために自分の仕事や配偶者、家族、さらには命そのものを失った人たちはどうなんでしょうか。
 ヨセフがその生涯を牢獄の中で終えたと仮定して、彼はなおも正しいことをしたのでしょうか。
「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は霊から永遠の命を刈り取ります」(ガラ6:8)
 パウロがここで述べていることは、ヨセフが直接的な結果を顧みずに正しいことをしようとした理由を理解する上でどんな助けになりますか。

木曜日:すべての技能は実践するためにあります。節制は一日で身につくものではありません。当たり・外れ・成功・失敗があっても、毎日それを実践することが大切です。「信仰の戦いを立派に戦い抜き・・・・なさい」(テモテ第一6:12)
 あなたの弱点を試されるようなところ、あなたの最も抑制しにくい衝動が誘惑にさらされるようなところに身を置かないように注意しなさい。たとえ見せかけの悪であっても、避けなければなりません。(テサロニケ第一5:22)
「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」(ロマ13:14)


 数年前のこと、家の近くの小学校に夏の全国巡回のラジオ体操がやってきたので少し早く起きて見に行ってきました。
 最前列には、毎朝ラジオ体操をしているような方々が、そろいのユニフォームを着て陣取っていました。その方々には、わたしのようなお腹が出ているような人は1人もいませんでした。毎朝10分くらいの体操でも、それを長年続けている人には、しっかりと成果が出ているんですね。

 「節制」、最も苦手なことの一つです。一歩ずつ積み上げていくこと・・・わかっていてもなかなかできません。良いことをしたいと思っていても、それを継続することができないです。日曜日の問1にあるように「肉、目、持ち物」の欲望についつい負けてしまいますね。
 この誘惑に勝利するためには、わたしたちが神さまに支配していただくことを選ばなければなりません。いつもそのようにありたいと思いますが、わかっていても、つい負けてしまいます。これがまさにわたしたちが罪人である証拠かもしれません。

 しかし私たちは自らの罪深さに気づいたときに、ゆるしを求める所があります。キリストの十字架のもとに、自らの弱さを持っていくことができるのです。けれども毎回これを繰り返しては進歩はありません。
 ヤコブは「なすべき善を行わないなら罪」(ヤコブ4:17)と教えています。自らのまちがいや弱さに気づいたとき、そこにおいて神さまがお喜びになることをすること選択する、この積み重ねが、霊の実を自分の中に実らせる方法なのではないでしょうか。 


東京 安河内 アキラ


安息日学校教課  2010 年 第1期9課

2010-02-26 17:14:53 | ディボーション
みなさま

 福祉の世界にかかわるようになり一年が過ぎようとしています。「福祉は人」だと感じます。それは高い介護技術や志をもった人が介護の働きをすることが大切ですが、そのことを言おうとしたのではありません。
 介護はあたりまえのことですが、相手は人間です。そして一人一人の状態はみな異なります。そのため機械化できる部分はあまりありません。携わる人が多ければ多いほど、介護業務はスムーズに進みます。現場は、まさに人海戦術なのです。
 今週の日曜日、ボランティア感謝の集いを開きました。わたしたちの施設では140名の方々が善意の働きをしてくださっています。このお助けがなければ、働きを維持することができません。どの施設でも変わらないでしょう。いろいろな働きがあります。
もしお時間のある方がいらしたら、ぜひ近くの施設のお声かけいただけませんか。きっとあなたの力を活用できる働きがあります。


第8課  霊の結ぶ実は平和   2月27日

暗唱聖句「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。」マタイ5:5

今週の聖句  創世記50:20、マタイ5:5、11:29、ローマ12:3、ガラテヤ6:1、フィリピ2:2,3、ペトロ第一3:4


今週の研究:柔和とは何でしょうか。柔和は神に対する謙遜な態度、人に対する優しい態度です。それは、物事が思い通りに行かないときにも(よくあることです。)、神の導きを認め、神に信頼することです。柔和であるためには、自分自身にではなく、主に対する信頼が必要です。
 柔和は、むしろ、自分のやり方に固執する代わりに、神に信頼し、神に頼ることから来ます。このように、柔和は弱さからではなく、強さから生まれるものです。


日曜日:柔和とは、自分の計画のために格闘することをやめ、神が私たちに代わって御自分の計画のために戦ってくださると信じることです。柔和は自己主張や私欲と反対のものです。それは神の善意と支配に信頼することから来ます。柔和な人は自己に執着することがありません。(ルカ22:42) これが、約束された安らぎを受けるために必要な態度です。結局のところ、私たちの混迷や心の動揺は自我や自分の欲求だけを追及することから来る場合がほとんどです。したがって、真の意味において、柔和な人とは自己に死ぬことを学んだ人のことです。それは、一見、柔和とは無縁の信仰と勇気、忍耐を要求します。

水曜日:何度も言うように、柔和と弱さは混同されがちです。しかし、決してそのようなことはありません。柔和であるためには、力、道徳的、霊的力が必要であることがわかります。
 もし柔和が霊の結ぶ実であるとすれば、それは私たち自身ではなく、神から来るものです。しかしながら、私たちの生き方が柔和なものとなるためには、日ごとに主に献身し、信仰をもって日ごとに従う必要があります。

木曜日:今週の研究は、柔和な人が人々の前で自分自身ではなく、神を高めようとすることを教えています。その結果、神は柔和な人を高めると約束してくださいます。彼はその報酬をこの世において、そして永遠の新天新地において受けるのです。


 今期の学び全般に言えることですが、たとえば柔和で考えれば、柔和な行為や表情は表に出てくるものですね。オリンピックで競技者が演技や試合などの瞬間はわずかなものですが、そこに至るまで4年間のすべてをかけてと言っても良いくらいの努力を続けています。そしてその成果を一瞬の時に凝縮して表そうとしているのです。われわれが見るのはその部分だけです。
 柔和についても同じかもしれません。柔和な人のように柔和でいるためには、表面をつくろっているだけでは、必ずどこかでほころびがでますね。
 根本的な部分から柔和な心でないと、ほんとうに柔和な人にはなれません。

 日曜日の学びで柔和は「神の善意と支配に信頼することです」と教えられています。自分のためという目標ではなく、木曜日の学びでも引用しましたが「神を高めようとすること」このような生き方をする時に、わたしたちは気がついたら柔和な歩むができるのではないでしょうか。

 神さまを高める、わたしたちはどれだけそれをしているでしょうか。良いことがあったら自分の手柄しようと虎視眈々と狙っている自らの醜さに気づかされます。
 今週の学びをしながら心に響いてきた聖句は「苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。」(ヤコブ5:13)でした。
 苦しみにある人は、神さまに助けを求めて、喜んでいる人は神さまから与えられたことを感謝して、その神さまをほめたたえる、神さまとの関係を大切にする生き方をヤコブは勧めています。
 そして彼は、くりかえし神さまの前にあって謙虚であれと教えています。このことが、わたしたちが幸せに生きる秘訣なのです。高慢であれば、神さまが与えようとするものを受けることができません。弱く醜いことを認めて、神さまに助けを求めるときに、わたしたちを成長させてくださるのです。


東京 安河内 アキラ


安息日学校教課  2010 年 第1期8課

2010-02-17 12:43:03 | ディボーション

みなさま

 先週の安息日、とても悲しい日になりました。それは日本に宣教師として韓国から派遣されているPMM牧師第二陣(第一陣として1年延長してくださった川崎の李先生も含む)が、この安息日を最後に帰国されました。
 この先生方は、日本のために多くの犠牲をささげて働いてくださいました。各地区に最低一名の先生方が加わってくださり、その先生方とのお交わりを通して、たくさんのものを与えてくださいました。
 これから少しずつ毎年帰国されるでしょう。それはとても残念なことですが、韓国に親しい友が増えたと思うことにしましょう。

 

第8課  霊の結ぶ実は誠実   2月20日

暗唱聖句「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります」ガラテヤ6:9

今週の聖句  マタイ25:1~13、ルカ16:10、テサロニケ第一5:23,24
テモテ第二3:1~5、ヘブライ11章、

今週の研究:「信仰」と「忠実」は密接な関係がありますが、同じではありません。信仰とは、あの名状しがたい力、神からの賜物であって、私たちはそれによってまだ見たことのないものを信じることができます。「信仰とは、望んでいる事柄を確認し、見えない事実を確認することです。」ヘブライ11:1。
 対照的に、忠実とは、この内なる信仰体系を実行に移すことです。神に対する信仰を持つとき、私たちは忠実な方法で行動します。忠実な行動は私たちの信仰の現れであって、そのような態度は私たちの信仰と行動体系を一つに結ぶ糸です。


日曜日:神の真実には、次のような特性があります。

1.神の真実は広範囲におよびます。「主よ、あなたの慈しみは天に、あなたの真実  
   は大空に満ちている」(詩編36:6)
2.神の真実は確かです。「それでもなお、わたしは慈しみを彼から取り去らず、わた
   しの真実をむなしくすることはない」(詩編89:34)
3.神の真実は偉大です。「あなたの真実はそれほど深い」(哀歌3:23)
4.神の真実は天に備えられています。「わたしは申します。『天にはとこしえに慈しみ
   が備えられ、あなたのまことがそこに立てられますように』」(詩編89:3)

水曜日:忠実を構成する要素として、次の特性をあげることができます。

信頼性:信頼性は人から信頼されることです。最近、だれかに信頼を裏切られたことはありませんか。そのとき、どのように感じましたか。そのことは信頼性のない人間の品性について、どのようなことを明らかにしていますか。

正直:正直とは真実であることです。それは、うそをついたり、だましたり、盗んだりしないことです。正直は強力な品性の礎石の一つであり、毎日の生活の中で実践されるべきものです。

誠実:誠実は社交儀礼のようなものです。誠実な人は生きる上で必要な価値観と信条を持っています。それはまた、他人の価値観と信条を尊重することを意味します。誠実さもまた、品性の礎石の一つです。


忠誠:忠誠は忠実であることです。それは困難な時でもだれかを支持することです。忠誠は友情の重要な要素です。

木曜日:物事は期待したほど早く実現しませんでしたが、私たちは次の約束から慰めを受けることができます。「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば時が来て、実を刈り取ることになります」(ガラ6:9)
 21世紀の神の民にとっての問題は、「神は今後も忠実であり続けるか」ではありません。神がご自分のすべての約束に忠実であることはすでに明らかなはずです。問題は「終わりまで忠実であるか」です。 


 「誠実な人間になりたい」とだれしもが思うのではないでしょうか。それも見せかけのものではなく真実からの誠実な心を・・・
 しかし現実に、自らの心を省みると、とてもそのようなものが備わっていない姿しか見えてきません。
 なぜこのような自分なのでしょう。それは傲慢なのかもしれません。そして小手先だけで物事を納めようとしてしまうことも多々あります。

 今週の学びをしていたら下記の聖句が心に浮かんできました。

主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。(列王記下6:17)

 このみことばは、スリヤの王が預言者エリシャが滞在している街を一夜のうちに包囲した時の彼の祈りでした。
 従者は敵の大群におびえていました、預言者はもっと大きな力をはっきりと見つめていたのです。

 わたしたちの失敗の多くは、まわりだけを見ていたり、上からの力を忘れている時に起こります。そのような時に、恐れたり、真実を語らず逃げてしまったりするものです。
 神さまの偉大な力をしっかりと見据えている時は、その御手に信頼している時には、このような失敗はしません。それに気づかせてくれるのは、祈り、みことばに謙虚に耳を傾けることなのです。
 何か困難なことに遭遇したら、まず祈りましょう。それは全宇宙を創造された神さまの恵みの蔵を開く鍵なのです。神さまは、わたしたちの必要をご存じで、必ずお導きと助けを与えてくださいます。


東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2010 年 第1期7課

2010-02-11 12:32:05 | ディボーション
みなさま

 いよいよ週末からバンクーバーオリンピックが始まります。いつもはテレビのスポーツ中継を見ない方も、ついつい見てしまうのではないでしょうか。四年に一度のお祭りと言えばそれまでですね。テレビも少しでも関心を高めるように、前宣伝をあおっていますね。
 このごろ年齢とともに、時間を上手に使う必要性を痛感させられています。オリンピックを見ることが時間の無駄とは思いませんが、ただダラダラと見てしまうことだけは避けようと思っています。
 

第7課  霊の結ぶ実は善意  2月13日

暗唱聖句「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」エフェソ2:10


今週の聖句 詩編51:12、ヨハネ14:9、ヘブライ1:2,3、ローマ3:12~20、ローマ7:7~12、テトス2:14

今週の研究:聖書においては「善意」は正しい態度を示すことではなく、その反対の悪を避けることも含みます。善意は信心の実践です。善意は行動です。そうでなければ、それは全く「善意」ではありません。


月曜日:人生の悲しい事実ですが、非常に有能で多才な人、魅力的な人、カリスマ的な人、高度な技術や洞察力を備えた人で、人々から「善良」とみなされていながら、実際は心の底まで堕落した人がいます。
 「愛」という言葉と同様、「善良」という言葉は、軽々しく、安易に用いられるあまり、その真の意味を失っている場合があります。神の善意をつねに念頭におくなら、人間の善意が実際にどのようなものであるか、またどのようなものであるべきかを、もっとよくりかいすることができるはずです。

火曜日:私たちはときどき律法を禁止令---「あなたは~してはならない」---のように考えます。ある意味で、これも真理です。しかし、してはならないことよりも、できることのほうがはるかに多くあります。
 神の律法を守ることからくる実際的な利益も多々あります。神の律法はこの世における私たちの生活の質を向上させてくれます。神が禁じられているものは結局、私たちの益にはならないのだと考えるまでに、神の善意に信頼できるようになりたいものです。

木曜日:私たちは文字通り聖書的意味において「善なる」者となることができます。それは、私たちに救われる価値があるという意味での「善なる」ではなく、むしろ私たちの心と動機、行いが私たちの仕える神を世にあかしするという意味での「善なる」です。
 確かに、それは自己に死ぬこと、喜んで人に仕えること、日ごとの肉欲と闘うこと、失敗したときにへりくだって心から悔い改めることを要求しますが、それでも私たちは自分の告白する信仰を実践することができるし、またそうしなければなりません。


 「善きサマリヤ人法」という法律をご存じでしょうか。これは緊急事態に遭遇した時に善意で援助をしたことの責任は問われないという法律で、欧米ではこのような法律が制定されているそうです。日本ではありませんが、同様なことをして、何か問題が生じた場合でも法的責任は問われないと法律解釈がなされているそ うです。

 実は今週の日曜日、シャローム東久留米で救急救命講習会があり、20名ほどのみなさまとともに学びました。心臓や呼吸が停止してしまった場合、心肺蘇生を行いますが、それは何のためにするのでしょうか。心臓を動かすようにして呼吸を再開するためと考えていましたが、それだけでなく「脳に酸素を送るため」だ そうで、そのために血液の循環を続けなければならない。それを助けるために心臓マッサージなどが必要と教えられました。
 また近年、多くの場所に設置されるようになったAEDについても講習を受けました。最近の機械は扱いやすくなっていて、一回講習を受けておけば、緊急の事態に遭遇しても何とか操作をすることができるのではないかと思っています。ぜひみなさまもこのような講習を受講する機会がありましたが、学ばれることをお 勧めします。

 心肺蘇生をするためには、できるだけ早い処置が必要です。救急車が現場に到着するまで現在日本では平均5~6分はかかるそうです。その間に、だれかが助けることにより、突然意識を失った方の回復を手助けできるのです。
 しかしそれをするためには勇気がいります。もしそのような場面にあなたが遭遇されたらどうしますか。めんどうなことにはかかわりたくない・・・そんな想いがよぎるかもしれません。そしてそこを立ち去る正当ないろいろな理由を考えるかもしれませんね。

 善意は心で思うだけなく、行動を起こさなければなりません。助けたいと思っても何もしないでいては、何も起こりません。
 神さまは「わたしの代わりに働いて欲しい」と、あなたの良心に語りかけることがあるでょう。それはあなたしか助けてあげることができないことかもしれません。マタイ25章で、キリストはそのような行為はわたしにしてくれたことと教えています。
 もし善意の一歩を踏み出さねばならない時に出会ったら、勇気を出して行動してください。あなたが一歩踏み出せば、必ず神さまは次の一歩を教えてくださり導いてくださいます。なぜなら、そのようにあなたに声をかけてくださったのは神さまなのですから。


東京 安河内 アキラ



安息日学校教課  2010 年 第1期6課

2010-02-04 21:12:25 | ディボーション

みなさま

 毎週土曜日、シャローム東久留米では利用者のみなさまと小さな礼拝を守っています。先週の安息日、その礼拝を終えた後、片づけをして讃美歌演奏機を事務所へ持って帰る途中に・・・自席に戻り着替えをして・・・このあたりまでは覚えているんですが、その後の記憶がありません。
 そして月曜日の朝、朝の祈祷会を開始しようとしたら讃美歌演奏機が所定の場所に無いことに気づきました。さぁ大変です。
 おそらく運んでいる途中で、何か仕事を見つけて、そのためにどこかに演奏機を置いて仕事をしているうちに忘れてしまったのでしょう。
 最初は、一人で歩いたところなどを探したのですが・・・見つかりません。水曜日、ついに自力での発見をあきらめて祈祷会でみなさんに祈っていただき朝礼でも発表したら30分後に出てきました。
 置きっぱなしにしてあった演奏機を、おそらく利用者のだれかが自分の部屋にしまいこんでくださったみたいで・・・予想外の場所にありました。
 みなさまでお祈りして・・・その小さな祈りに応えていただきました。


第6課  霊の結ぶ実は親切  2月6日


暗唱聖句「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」コロサイ3:12

今週の聖句  サムエル記下9:1~13、箴言15:1~5、25:11~25、マタイ5:43~48、ルカ6:35,38、エフェソ4:32,コロサイ3:12~14

今週の研究:愛と親切は密接な関係にあるので、親切がなければ愛の行為は無意味なものだからです。
 忍耐は、いわば絶える愛です。一方、親切はより積極的な愛の表現です。忍耐は行動に表されない場合がしばしばですが、親切は、何を語り、行うかによって、またどのようにそれを語り、行うかによってさらになぜそれを語り、行うかによって表されます。
 親切は時間と労力を要求しますが、だれとでもできることです。親切はさまざまな語りで表される「動詞」です。それは、私たちの神がどのような方であるかをあかしする証人です。


日曜日:イエスはこえっらの聖句の中で、神が完全であられるように私たちも「完全な者」となるように求めて折られます。どのようにしてでしょうか。敵を愛することによって、迫害する者のために祈ることによって不親切な者に親切にすることによって
です。これが、イエスの言われる「完全」ということです。
 このような生き方ができるまでに自己を捨てるなら、私たちの教会、家庭は今とは全く違ったところとなるはずです。
 私たちの力とあかしは、陰府の力も対抗できないものとなります。しかしただ一つ、それを妨害することがあります。私たちの罪深く報復的心情にとらえられる心です。それは、しばしばわたしたちを「徴税人」のように振る舞わせます。

火曜日:親切はクリスチャンがいつでも表さなければならない特徴です。しかし、クリスチャンは特に次の人たちに対して励ましを語る必要があります。

 第一に、私たちは霊的な幼子に親切を表さなければなりません。「むしろ、あなたがたの間でちょうど母がその子どもを育てるように、やさしくふるまった」(テサロニケ第一2:7、口語訳)

 第二に、私たちは弱い人たちに親切と励ましを表さなければなりません。「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」(ローマ15:1)

 第三に、私たちは霊的な病院に看護人のように奉仕をしなければなりません。(テモテ第二2:24,25)

木曜日:私たちアドベンチストとして自分の立場を擁護する力強い聖書の証拠を持っています(そうでなければ、私たちのしていることは無意味です)。もちろん、このことも重要ですが、私たちには正しい教え以上のものが必要です。
 「もし私たちが神の前にへりくだり、親切で、礼儀正しく、優しく、憐れみ深くあるなら、今は一人しかいないところに、審理を回心する人が100人はいるであろう」(教会へのあかし9巻189ページ)


 日曜日の学びでマタイ5:48にある「神さまが完全なお方なのだから」、あなたがたも完全になりなさいという勧めについて書かれています。
 この聖句だけを見たら、神さまが完全なのだから、神さまに似るものであるわたしたちも完全にならなければならねばならなし、努力を積み重ねればなれるのだと言っているようにも見えてきます。
 しかしそうだとしたらキリストの十字架が不要になってしまいます。聖書全体の思想から考えれば、この聖句だけを強調することは不健全な解釈と言えるでしょう。

 このような時には、聖書の文脈を見てみましょう。この部分だけを見ずに、全体を俯瞰すると、その聖句から神さまがお考えが伝わってきます。
 マタイ5章は山上の説教の中で、行いなどについて様々に教えているまとめがこの48節です。日曜日の学びの中にあるように、神さまがわたしたち人間が求めることができる完全は親切な行いをすることなのです。

 土曜日の学びで「親切は積極的な愛」とありました。これほど的を得ている言葉はありませんね。なぜもうひと声かけられなかったのだろうか。もう一歩積極的になれなかったのだろうということが多々あります。
 このことを反省していると、その原因は自分が大切だからという想いが見えています。こうしたらどう思われるかと考えてしまったり、それ以前にめんどうくさいと思ってしまったり・・・・
 木曜日の学びから引用しましたが、親切な人がいるところには100名の回心者があとあります。そのようになりたいものです。その前提として「神の前にへりくだり」とあります。親切な人間になるために何をするかですか、どのような努力を積み重ねるかではなく、まずわたしたちの立ち位置を改めること、そればまだできていないからこそ、わたしのまわりにこの約束が成就していないのでしょうね。


東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2010 年 第1期5課

2010-01-29 13:02:12 | ディボーション

みなさま

 今週は世界総会聖書研究所の先生方が中心となって6名の講師が来日され、全国の牧師たちのための聖書会議が開かれ、ホープビジョンを用いてそれぞれの場所に集まり聖書の学びをしました。
 特に現在ローマリンダ大学で教えておられるジョン・ポーリン先生の黙示録の講義からは多くのことを学びました。その中の一つを書かせていただきます。

 黙示録7章では、ヨハネが天国でみつかいに「刻印(神の印、救われるものの印)
を押された人々の数」を聞いています。(黙示録7:4参照、( )は編集者が追加)
 これに対して14万4000人に刻印が押されているとみつかいは答えています。この数字が象徴的な数字であると言われていますが、その後の黙示録7:9節以降をわたしは見落としていました。
 「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け・・・」(黙示録7:9)
 ヨハネが天で見たのは、神さまの前にいる14万4000人だけではなく、白い衣をまとったあらゆる数えきれない国民なのです。神さまとともに、たくさんの民が天において永遠の生命を与えられているのです。

 ジョン・ポーリン先生の黙示録に関する著書「神の深み」と、今月発行された「もう一度神と出会う」という新刊が福音社から刊行されました。どちらもとても良い本ですので、ぜひお読みになってください。



第5課  霊の結ぶ実は寛容  1月30日


暗唱聖句「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」ヘブライ10:36

今週の聖句  創世記6:3、出エジプト記34:6、マルコ4:26~29、ローマ15:5、エフェソ4:1,2、ヤコブ1:2~4

今週の研究:忍耐強い人は、どんなときにも温和で、優しく、堅実です。忍耐が試されるのは待つことによってではなく、待っている間にどのように振る舞うかによってです。「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(ヤコブ1:4)
 そのような境地に達するには、実践すること、神の恵みに頼ること、喜んで自己を捨て、聖霊の導きにゆだねることが必要です。幸いなことに、忍耐することを学ぶ者はほかにも多くの祝福を神から受けることができます。


月曜日:教会は多様な背景と文化を持つ人々の集まりです。それはまた、さまざまな成長過程にある人々を含みます。
 忍耐は多様性に富む集団の中で生きて行く上で欠かせないものです。成熟した人がそうでない人に耐えられないということは一種の誘惑です。
 よくあることですが、成熟した人は、現在の知識の水準に達するには時間がかかったはずなのに、自分より成熟していない人が同程度の知識と理解力に到達するのに同じだけの時間と労力を必要とすることに耐えられないのです。

 教会における忍耐は重要です。では、家庭における忍耐はどうでしょうか。家族に対する忍耐を難しくする要因は何でしょうか。私たちは信仰をもっていない家族のためにいつまで祈るべきでしょうか。愛する人のために何年も祈り続けた結果、その人が主に心をささげたという体験談を聞いたことがないでしょうか。
 どんな実際s的な方法によって、家族に対する忍耐を養うことができますか。自分自身に死ぬことがここで重要な意味を持つのはなぜでしょうか。
 もし、いつも「顔を合わせている」家族に忍耐することができれば、ほかの人にも忍耐することができます。

火曜日:だれかが、ある聖書の真理を学びながら、すぐにそれを受け入れないのを見ると、私たちはその人が真理を拒んだと考えがちです。しかし、必ずしもそうとは限りません。現実には、回心は長く、複雑な過程で、何年もかかる場合があります。伝道の結果を早く見たい気持ちはわかりますが、いつまで順調に行くと は限りません。
 重要なことは、熱心さのあまり、その人の妨げにならないことです。つまり、強制することによってその人の興味を失わせてはならないことです。
 私たちがふさわしいと考える時期に、尊い真理を受け入れないからといって、その人を非難したり、裁いたりするようなことがあってはなりません。その人のためになされたあなたの努力と働きは、何年かかって実を結ぶ過程における重要な一歩であるかもしれません。それはだれにもわかりません。重要なことは、非難 したり、裁いたりすることによって、すべてを台無しにしてしまわないことです。

木曜日:しかしながら、このことはすべての試練が神の摂理によることを意味するのではありません。私たちはしばしば、不従順によって自分に苦しみを招いています。試練や苦しみはまた、堕落した、罪深い世界に住んでいることからくる結果です。そこには、私たちを憎む敵もいるのです。(ペトロ第一5:8)
 しかし、たとえどのような状況に置かれても、もし私たちのうちに働かれる主にゆだねるなら、主に心から献身することによって、信仰と従順によって主にしっかりと結ばれることによって、私たちはよりよい、より洗練された者とされるのです。それは楽しい経験ではないかもしれません。しかし、次のように約束され ています。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日まで、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(フィリピ1:6)


 今週の表題は「寛容」なのに、内容は「忍耐」ですね。寛容な人は、忍耐しながら寛容にふるまっているのでしょうか・・・
 もしクリスチャンの到達する姿が寛容だったら、とてもその域には達することができないかもしれません。人生には忍耐を続けてなければならない苦しみや、先の見えないことが山積しているからです。
 忍耐しなければならない時は、苦しみや困難な状況が続いている時ではないでしょうか。けれどもそこに希望があると、忍耐を続けることができます。例えば勉強は大変だけれども、最後まで続ければ資格を取得できるなどという目に見える希望があれば忍耐強く前進できるかもしれません。
 しかしそれすら無い場合、いつになったら終わり来るのかわからない苦しみに対してわたしたちはどうしたらよいでしょう。それを抜けたら、必ずや神さまがそれを活かしてくださることは、これまでの経験からわかりますが・・・それでも出口の見えない苦しみが続く時、忍耐を続けることがどう したらできるのでしょうか。
 これに関して軽々と答えを書ける問題ではありません。ただ一つだけ言えることは、「わたしとつながっていなさい」と招いてくださっている神さまとのつながりを決して離さないことです。そのために毎日祈り、みことばからの光を受けて、それをあなたの今日の歩みに適応して行こうと努める時に、少しずつ出口 への糸口をつかむことができるのではないでしょうか。


東京  安河内 アキラ


種まき

2010-01-28 20:36:35 | ディボーション

去った安息日の午後、信者さんの戸毎訪問にご一緒させていただいた。

トラクトをもって一軒、一軒まわっていく。

断られ、断られ、

…断られる。


トラクト一枚を渡すことが、こんなに難しいのかと思う。


でも、

この経験が今の私に一番必要なのかもしれない、と感じてきた。

マイクの前に立ったり、会議の場で話すだけが伝道ではない。

イエス様が貧しい人、弱い人、困っている人の隣人であったという聖書の記録を読むとき、私は誰の隣人になっているのだろうか、と自問する。

神様、へり下った心をもった人にならせてください。



柴田照司