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ラムズ・スタディ

聖書の神様のこと、みんなで学び、同じ目標を確認できたらホントすばらしい。

安息日学校教課  2010 年 第3期2課

2010-07-08 12:22:57 | ディボーション

みなさま

 日本列島は梅雨本番、各地から落雷や豪雨の被害が報じられています。かつては梅雨と言えば、シトシトと雨が降り続く静かな雨の日が多かったように思いますが、このごろは局地的に激しい雨が降りますね。
 先日は、シャローム東久留米などがある多摩地区北部と埼玉県南部あたりが集中豪雨となり、シャロームの近所や市街地でも一時的に通行止めの個所が出たりもしました。
 今年からは天気予報の警報は市町村ごとに出されます。また自宅のパソコンでも、精度の高い天気予報やレーダーの画面を見ることはできます。
 そのように事前に降雨を察知することができるようになりましたが、それを降らないように、また降らせるようにコントロールすることはできません。
 旧約聖書の時代、神さまは雨を降らさないことで、自らが自然界を司っていることを示されました。豪雨災害の報道を見ながら、人間の力無さとすべてを支配されている神さまの力を感じさせられます。 
 

第2課  ユダヤ人と異邦人   7月10日

暗唱聖句「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」ヨハネ1:17

今週の聖句 レビ23章、マタイ19:17、使徒言行録15:1~29、ガラテヤ1:1~12、ヘブライ8:6、黙示録12:17

今週の研究:私たちアドベンチストは、十戒(実際には安息日の戒め)を忠実に守っているという理由でユダヤ主義者、あるいは律法主義者であるという非難を受けてはいないでしょうか。 
 私たちは今や新しい契約のもとにあるのだから、律法(安息日の戒め)は廃止されたのである、という声を聞かないでしょうか。
 その一方で、私たちの教会には旧約聖書の規定や規則に従うべきであると主張する人たちもいます。
 この意味で、ローマ信徒への手紙は、当時のローマ教会と同様、今日の私たちにとっても重要なメッセージを持っています。


日曜日:旧約時代の信者はメシア時代の祝福と救いの約束を待ち望みました。新約時代においては、人々は神からメシア、救い主として遣わされたナザレのイエスを受け入れるべきか否かという問題に直面しました。もしイエスを信じるなら、つまりイエスをありのままに受け入れ、イエスに献身するなら、彼はイエスが無償で与えてくださる義によって救われるのでした。
 一方、神と人への道義的な要求は新約聖書においても変わることがありません。というのは、それは神とキリストの品性にもとづいているからです。神の道徳律に従うことは、古い契約と同じくらい、新しい契約の一部なのです。

火曜日:パウロは、自発的に教会と協力して働いたことは興味深いことです。どのようなかたちで召されたにせよ、自分が全体として教会の一部であって、可能な限り教会と協力して働く必要があることを、彼は認めていました。

水曜日:ユダヤ人信者は異邦人に自分たちの規則や伝統を強制すべきではありませんでした。その一方で使徒会議は異邦人もイエスによって一つに結ばれたユダヤ人の感情を害する行為を避けるように配慮したのでした。
 このようなわけで、使徒・長老」たちは異邦人に対して、偶像に供えた肉、みだらな行い、絞め殺した動物の肉と血を避けるように書面で通告することに同意しました。
 ある人たちは、安息日遵守のことが書かれていないので、異邦人は安息日遵守を求められてはいなかったと言います(うそをつくことや殺人を禁じた戒めも特に言及されていないので、このような議論は無意味です)


 今週の学びは、キリスト教がパレスチナという一地方の宗教から世界宗教に脱皮する場面かもしれません。人間だれしも育ってきた社会や文化の影響を色濃く受けています。そしてその背景ができるだけ近いものが集まると快適であることも事実です。
 だからこそ、自分が快適にとか、納得できるように自らの主張や文化を相手に押しつけてしまうきらいがあります。
 ユダヤ人にとっては、あたりまえのことであっても、それがクリスチャンになる障壁となるようだったら、それをできるかぎり撤去すべきではないか。このような想いをいだくことは神さまのみこころにかなったことでしょう。
 けれども水曜日の学びに、そこにおいて安息日について何も述べていないから、旧約の安息日は廃止されたと考える人がいます。けれどもエルサレム会議での決定事項は、信仰の本質よりも信仰生活において守るべきことを規定しています。土台となる道徳律をふまえた上で議論をしていることを忘れてはなりません。

 ここにあるように、わたしたちは原則でふまえ、21世紀初頭に日本で生きるものとして、その時代に適応させて、今日のクリスチャンとしての生き方を考えねばなりません。金曜の日没が来たら城壁の門が閉まり、すべての活動が停止する世界と同じには行かないのです。
 もちろん理想の姿はありますが、現代社会において止めることができない日常の仕事は多々あります。ライフラインや交通機関で働く方いるから、わたしたちは安息日に教会へ向い、その時間に静かに平穏のうちに礼拝ができるのです。
 老人ホームは、利用者の生活を守るのが仕事です。24時間働きを止めることができません。それぞれが分担の時間を精いっぱい務め、交代者が来たら後を託します。同じように、わたしたちは安息日を当然の権利のように過ごすのではなく、「わたしは今日は休ませてもらうけれど、明日からはその分ガンバるから」、 自分が安息日を覚えることだけを考えるのではなく、相手があってこそ自分も安息日を休めるという姿勢が大切なのではないでしょうか。


東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2010 年 第3期1課

2010-07-02 12:35:39 | ディボーション
みなさま

 今週から今年も後半に入りますね。第三期の学びが始まります。この学びからも多くの祝福を受けたいですね。

 ところで、友人から知らされ気づきましたが、SDA教団の世界総会が先週から7月3日まで、アメリカのアトランタで開かれています。世界総会総理と総務が交代したようですね。
 下記のHPを見ると、総会の様子が日本語で読むことができます。かつてはしばらくたってからアドベンチストライフで知らされるくらいでしたが、時代ですね。

http://www.awrjapan.net/home.shtml

 今後5年間のわたしどもの教会の働きのために最善の決定がなされるようにお祈りして行きたいと思います。

 

第1課  パウロとローマ   7月3日


暗唱聖句「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです」ローマ1:8

今週の聖句 使徒言行録28:17~31、ローマ1:7、15:14,20~27、エフェソ1章、フィリピ1:12

今週の研究:私たちは想像力を働かせ、時代をさかのぼり、ローマに身を置き、ローマ教会の会衆の一人となり、その一世紀の教会員として、パウロと、パウロが聖霊を通して与えられた言葉に耳を傾けなければなりません。
 驚くべきことに、遠い昔、全くことなった背景の中書かれたにもかかわらず、本書はあらゆる国の、さまざまな状況にある神の亜tびに必要なメッセージを持っています。この意味、私たちは本書に書かれている言葉を祈りのうちに読み、私たちの生活に適用する必要があります。


日曜日:パウロは、ローマ人への手紙の中で、福音の大原則を説明しました。彼は当時ユダヤ人や異邦人の教会において議論になっていた問題についての、彼の立場を表明した。
 聖書の書巻を研究するにあたっては、それがなぜ書かれたかを知ることが大切です。したがって、「ローマの信徒への手紙」を理解するためには、ユダヤ人と異邦人の教会にどんな問題が持ち上がっているかを知ることが重要です。

水曜日:「神に愛され」:神が世界を愛されることは事実ですが、特別な意味で、神はご自分を選び、御自分の愛に応答した人たちを愛されます。愛は応答を要求します。応答が期待されないときには、愛は限られたものとなります。
 「聖なる者となった」:「聖なる者(聖徒)」は「聖なる者たち」を意味するギリシャ語「ハギオイ」の翻訳です。すべての者は神の救いは神の救いに招待され、召されているが、その召し応答した人が神に連なりました。
 「聖なる者」とは神に連なる者となった者たちであり、神との誠実な愛の関係に入って献身した人々を意味します。

木曜日:パウロはローマのクリスチャンの経験に関して注目に値することを3つあげています。
1,「善意に満ち」:私たちも人々からそう言われているでしょうか。彼らが私たちと交わるのは、私たちの豊かな善意に心が引かれるのでしょうか。
2,「あらゆる知識で満たされ」:聖書は繰り返し、啓発と情報、知識の重要性を強調しています。クリスチャンは聖書を学び、その教えに精通するように勧められています。心の変化には、つねにクリスチャンの義務についての明らかな自覚、真理の理解がともなう。
3,「互いに戒め合う」:ほかの信者との交わりがなければ、私たちは霊的に成長しません。私たちは人を励まし、同時に人から励まされる必要があります。


 今期の学びはローマ信徒への手紙です。最後までめくってみましたが、この書簡を一章ずつ学と言うよりも、主題を定めて学んでいるようですね。

 序言と、そして今週のテーマにも書きましたが、歴史的背景を理解し当時の教会に何を語ろうとしていたのかを知ることは大切です。その事によってパウロが語ろうとしている真意をつかみ、無理な解釈を防ぐことができます。
 同時にその中から今日のわたしたちにも語られていることが多々あるはずです。だからこそこの書簡は聖書として残されたのでしょう。

 ローマ信徒への手紙の特徴は、パウロの他の書簡は彼の宣教によってできあがった教会でした、ここだけは未訪地だったのです。
 けれども16章を見ると、いろいろな人への挨拶が書かれているので、パウロによって導かれた人が当時の政治経済の中心地ローマに集まり、そこで教会が立てられていたのではないでしょうか。自らが導いた方々が、新しい地で熱心に教会を作り上げている、こんなにうれしいことはありません。

 先日、甲府教会を7年ぶりに訪れました。札幌に赴任する前に、八王子教会時代に2年間兼務しました。
 当時、それまでの教会堂の移転をしなければならず、自己資金と売却資金では不足していたので、PMMの先生を迎えて、5年間かかる家賃代金を加えて新しい教会を建てることを考えていました。
 3ヶ所の候補地がありました。わたしは「神さま、この場所が良いというしるしをください」と祈り、それぞれの候補地の周りで同じだけ返信可能なトラクトを配布しました。返信の最も多いところをと考えましたが、一枚も返ってきませんでした。
 そうこうしているうちに、最も良いかなと思っていたところが売れてしまいました。残念な想いで離任して、半年くらい経った時に、その場所を買った方が結局維持できずに同じ金額で手放すことになり、そこを買うことにしたと聞きました。

 その場所は、山梨県内の方だったら、だれでもわかる有名な交差点に近く、となりの空き地にも駐車可能な場所もあります。
 そして7年ぶりに訪れたら、甲府駅前からの道が拡幅されていて、その道が教会の前まで来ているではありませんか。神さまは、とても良い教会の土地を与えてくださいました。

 それ以上にうれしかったのは、当時は礼拝に集まる方は7~8名でした。そのうち4名はお亡くなりになりました。
 けれども、先日教会には大人、こどもあわせて30名くらいが集っていたのです。PMMの李先生が心を込めてご奉仕くださった結果ですが、教会が成長している姿を見ることができたのは、こんなにうれしいことはありませんでした。

 きっとパウロは、そのような想いでローマに手紙を書いたのかもしれません。だからこそローマの教会への書簡の中には他の書簡にあるような譴責するような言葉がみあたりません。そのような成長している教会の姿を学ぶことも、今日の私たちにとって重要かもしれません。


東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2010 年 第2期11課

2010-06-11 20:14:46 | ディボーション
みなさま

 シャローム入居者のお別れ会(告別式)の準備のため詩編90編を読んでいました。何度も読んでいる個所ですが、気づいていなかったところがありました。それは8節です。

「あなたはわたしたちの罪を御前に 隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。」

 わたしたちの罪は、すべて隠すことができないと読むのが順当でしょう。けれどもその明らかになった罪を神さまはどうされるでしょうか。御顔の光の中に置かれるのです。神さまの栄光に罪が包まれたらどうなるでしょう。醜いものは栄光におおわれてしまうでしょう。永遠から永遠までを支配される神さまが、わたし たちが忘れようとしているような罪であっても、贖ってくださるとしたら、これほど喜ばしいことはありません。
 

第11課  楽天主義----幸福といやし   6月12日


暗唱聖句「再び心を励まし、なお待ち望む。主の慈しみは決して絶えるない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごと新たになる。あなたの真実はそれほど深い」哀歌3:21~23

今週の聖句 列王記上19:2~18、詩編27編、詩編42編、ルカ8:14、ルカ10:38~42、ローマ8:35~39、コリント第二12:9,10、テサロニケ第一5:16,17

今週の研究:希望は人生のあらゆる局面において私たちの将来への展望に影響を及ぼします。希望は困難な状況にあっても私たちを楽天的にしてくれます。このような楽天主義は私たちの心の状態や肉体的な健康に影響を及ぼし、ひいては免疫力と幸福感を高めてくれます。
 私たちは外部環境を変えることはできないかもしれません。外部環境に対する自分の態度は変えることができます。今週は、この原則に目を向け、聖書の観点から私たちに与えられている豊かな希望について学びます。


月曜日:私たちはときどき、たとえの中の種のように(種まきのたとえから)、生き延びようと懸命に努力しながらも、人生の思い煩いに押しつぶされそうになることがあります。そのような中で、私たちは家族を養い、子どもを教育し、さらに騒然としたこの世の生活に遅れないようにしなければなりません。
 イエスとの関係を養うことは、悩みと苦しみに満ちた時代にあっても、私たちの生活のあらゆる面に作用し、将来に対して楽天的で希望に満ちた展望を抱くことを可能としてくれます。

火曜日:しかし、人生のあらゆる苦しみや悲しみの中にあっても、私たちはなお喜び、将来に希望を抱くに十分な理由があります。たとえそれらの理由が私たちを襲う災害や思い煩いに圧倒されそうに思われるときにでも、です。というのは、これらの災いが一時的なものであること、それが神にとっては予想されたもので あること、心にかけてくださることを、私たちが知っているからです。たとえ苦難の中で生きなければならないにしても、私たちはこれらの約束と希望を信じ、将来に喜びと希望を抱くことができます。

木曜日:私たちの心が堅固で、主に信頼しているなら、豊かな恩恵を受けます。他人を積極的で、寛大な目で見ることは感染症に対する抵抗力を高めてくれることがわかっています。キリストとの関係を深め、養うことは私たちの肉体的健康を増進します。感情的、霊的いやしはまた肉体的いやしにつながります。
 箴言17:22は、私たちに一つの選択肢を示しています。----喜びを抱く心は祝福をもたらしますが、霊が沈み込んでいると、心と体に悪影響を及ぼします。ダビデはこの選択の重要性について学びました。彼は、この選択をめぐる闘いの中で神が重要な役割を果たされることを悟りました。


 わたしが牧師として働き始めてすぐのころ、教会の中堅で活躍されている女性役員の方が、教会の方々に「この本すばらしい」と勧めていた本がありました。たしかわたしもプレゼントされ読んだ覚えがありましたが、今ひとつ納得できずに終わった本でもありました。
 これはカリスマ系のキリスト教会の先生が書かれたもので、讃美することに喜びが増してくる、讃美を続けることで、どんな苦しみも解決するというような内容でした。
 火曜日の学びの前半で、この思想について、教課の著者の先生が厳しい意見を述べています。どのような状況においても神さまを讃美することは原則としてすばらしいことですが、それができないことは不信仰であり、苦境においても喜べないクリスチャンは不信仰だと教えているが、現実を直視すると苦境の中において 、喜びや讃美をできるようのは、そこにいたるまで決して単純に答えが出るわけでもなく、大きな葛藤や苦しみがあると考えて良いのではないでしょうか。
 讃美のできない時に、讃美をしなければならないことこそ辛いことはありません。それは讃美でも何でもありません。

 わたしは過去の教課メルマガでも「霊的楽観主義」と申したことが何回もあります。これはどんな苦しみに出会っても、喜び讃美しつづけるということではありません。
 苦しみに遭遇するときに、その原因が自らにある場合も多々あり、神さまの前にひざまずいて悔い改めの祈りをすることがあるでしょう。それでもゆるされたという実感がわかずに葛藤している時に、光が与えられ平安が与えられる、そのような経験をされたこともあるでしょう。
 そして振り返ると、どんなに苦しいことでも、必ず神さまが最も良い時に介入してくださり導いてくださったことを思い起こします。だからきっと今回も守ってくださると信じて、苦しみながら一歩踏み出すこともあるでしょう。
 神さまが最善のものをあたえてくださる、またこの苦しみを通して訓練をしてくださると信じて前進する時に、光が与えられて、心が平安に満たされます。
 悩みが深まりすぎると、その場で立ち止まってしまうことになりかねません。必要以上に思い悩まないで、今できることを一歩ずつ行うときに、次の光が必ず与えられ導かれることを信じて進むことが、霊的楽観主義ではないかとわたしは考えています。


東京 安河内 アキラ


安息日学校教課  2010 年 第2期10課

2010-06-05 19:48:51 | ディボーション

みなさま

 数日前、あるうどん屋さんにこんな詩が掲げてありました。「神さま、命はあなたからいただいたものです。けれどもわたしは、まだまだやらなければならないことがたくさんあります。・・・・もう少し時間をください。その分だけたくさんのおみやげを持ってあなたのもとへまいりますから」。このような内容だった と思います。・・・には、いろいろとやらなければならないものが列記されていました。
 わたしたちは両手にいっぱいに何を持って神さまのもとへ行くのでしょう。わたしたちの人生でつくりあげた様々なものを持って行ったとしても、きっと神さまの前ではチリにしか見えないのかも知れません。
 神さまがお喜びになるのは、わたしたちが心から神さまを愛して従うことではないでしょうか。


第10課  誠実----健全と聖潔   6月5日

暗唱聖句「あなた自身、良い行いと模範となりなさい。教える時には、清廉で品位を保ち、非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。そうすれば、敵対者は、わたしたちについて何の悪口も言うことができずに、恥じ入るでしょう。」テトス2:7,8

今週の聖句   創世記39:6~12、サムエル記上24:1~10、ダニエル書6:1~10、マタイ4:1~11、ロマ1:26,27、エフェソ3:14~21

今週の研究:正直であることは、口にすることよりも実行することの方がはるかに難しいようです。どんなに「厳格な」人でも、よほど注意していないと、簡単に妥協してしまいます。ましてや、「ささいなこと」になると、なおさらです。
 今週は、誠実な問題を取り上げ、それがさまざまな領域において私たちの生活に与える影響について考えます。


火曜日:これらの聖句の中に、多くの約束が与えられています。聖霊は内側から私たちを力づけてくださいます。聖書は、美容整形ではなく心臓手術のように私たちの内側から働いて、私たちを造り変えてくださいます。この変化は信じることによって、神の愛を体験することを求められます。
 神は、私たちが「神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされる」ように望まれます。
 パウロの自助的なニューエイジ(新時代主義)哲学、つまり私たちが自分の内にある力を引き出すことについて教えているのではありません。「わたしたちの内に働く」力とは、私たちが求め、思う以上のことをかなえてくださる神の力のことです。問題は、神によって導かれているか、それとも肉の性質に支配されてい るか、です。

木曜日:「真の宗教と健康の法則は一致する。健康を損ない、魂を堕落させ、聖なる真理を心に印象づけることを妨げる罪深い欲求の充足をやめる必要を説くことなしに、人々の救いのために働くことは不可能である。
 すべての習慣や行いを注意深く点検し、体の健康を害し、心に暗い影を投げかける行為を直ちにやめるように、人々に教えねばならない。神はご自分の証人たちに人々の前につねに高い目標を掲げるように望まれる。彼は教訓と模範によって自らの高い標準をサタンの偽りの標準の上に高く掲げなければならない。サタン の標準は従う者たちの肉体と魂の不幸と堕落、病と死に導くものである。

金曜日:私たちの危険は欠乏からではなく豊かさから来る。私たちは絶えず度を越す誘惑にさらされている。神に奉仕するための力を確保しようと望む者たちは、自分の賜物の使用に関して厳しく節制し、有害で堕落的なあらゆる放縦から完全に遠ざかる必要がある。


 妥協、譲歩・・・最初はわずかな一歩だけれども、それに慣れていくうちに、徐々に大きな危険が忍び寄ってくる・・・・ほんとうによくわかります。
 けれども同時にわたしたちは、21世紀の日本に住んでいます。その世界にあって聖書の原則をいかに適用させていくことも重要です。

 そこで問われるのは、何をしたら適用か、妥協かではなく、そのことをしようとする想いの根底に何があるかではないでしょうか。そのような想いで、今までの標準としていることを変えるなり、ゆるめるかではないかと思います。

 何よりも、その場しのぎの施策や口約束などは、時間とともにかならずほころびが出ることは、今週日本をゆるがしているニュースを見るまでも無いことだと思います。
 
 誠実な歩みは必ず祝福を受けて、すぐに成果が現れませんが、必ず本人を高め成果が与えられるものです。
 それを選ぶのはあなたしかできません。聖霊はそれを続けるように導き、サタンはそんなことは無駄だよと良心に語りかけるのです。心の中に何を住まわせるかがとても大切ですね。戸をたたいてくださるイエスさまを、わたしの心に常にお迎えして歩んで行きたいです。


東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2010 年 第2期9課

2010-05-28 20:37:08 | ディボーション

みなさま

 先日、施設内で「感染症」についての講習会がありました。施設内や家庭において感染症を蔓延させないために、さまざまな方策について教えていただきましたが、帰宅したら「うがい、手洗い」などは基本ですが、手洗いのために使っている石けんなどについて「液体石けんのボトルが空になったら、すぐに充填 しないで洗って乾かしてから入れること」、また「固形石けんもそのまま湿気のあるままにしておくと雑菌の温床になるので、日光にあてて乾かすとよい」とのことでした。小さなことですが、このようなことも気をつけることも大切なことと教えられました。


第9課  節制   5月29日


暗唱聖句「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」フィリピ4:5

今週の聖句 創世記9:20~27、箴言20:1、23:31~35、コリント第一6:19、10:31、ペトロ第二1:5~9

今週の研究:今週は、過剰を成功と考える時代にあって、節制の大切さについて考えます。多くの場合は、節制はとかく忘れられがちな重要な要素です。真の節制とは何か、主が私たちに節制を望まれるのはなぜか、といったことについて学んでみましょう。

水曜日:節制とは、単にタバコを吸わない、違法薬物を使用しない酒を飲まない、あるいは茶やコーヒー清涼飲料を飲まない、といった問題ではありません。というのは、たとえ体によいものであっても、取りすぎると問題を引き起こすことがあるからです。
 エレン・ホワイトは節制の本質を次のように要約しています。「真の節制は、有害なものを全く使用せず、健康的なものを適度に使用することを教える」。

木曜日:聖書は住まいとしての体の重要性について述べています。この住まいは私たち自身の恩恵のため、思想、計画、行動のためだけのものではありません。私たちの身体は、実際のところ、神の神殿なのです。何という特権、また責任でしょう。私たちは自分の身体よりも、自分の家を手入れすることに気を配っている 場合があります。
 神は天を空にして、私たちの贖いのためにイエスの地を流されるのをお許しになりました。私たちは自分自身のものではありません。私たちは贖われ、神に属するもの、すべてを神に負う者となりました。これには、自分の身体を忠実に管理することも含まれます。

金曜日:タバコの箱には警告文が書かれていますが、多くの人はこれを無視しています。情報は実行されない限り、何の抑止効果ももたらしません。
 「聞け。あなたたちの神、主に信頼せよ。そうすればあなたたちは確かに生かされる。またその預言者に信頼せよ。そうすれば勝利を得ることができる。」(歴代下20:20)
 食事の習慣が健康や品性や、この世での有用性や、また永遠の運命とどれほど深いつながりがあるか、それを自覚している人は本当に少ないものです。食欲はつねに道徳的、知的力に従わせなければなりません。体が精神に仕えるべきであって、精神が体に仕えるようであってはならないのです。


 最も苦手なことは「節制」「継続」など・・・。こういうわたしにとって、最も苦手な課がやってきてしまいました。わたしのような生き方をしなければ、という節制の反面教師ような人間なので・・・。

 そのわたしの最も響いた言葉は、金曜日の「情報は実行されない限り、何の抑止効果ももたらしません」でした。健康の原則について学んでも、本人がやろうとしなければ意味がありません。

 いかにして、その気にさせるかではないかと思いますが、クリスチャンには木曜日の学びの価値観があります。体は、命は神さまから貸与されたものであり、その使い方に責任があるのです。
 そしてそれを最善に生かすときに、わたしだけでなくまわりの人の祝福となるという神さまのみこころの実現にもなるのです。

 それはわかっていても、やはりおいしいものがあったら食べ過ぎてしまうし、体を動かすのはめんどうだし・・・困ったものですね。


東京 安河内 アキラ


安息日学校教課  2010 年 第2期8課

2010-05-20 16:37:10 | ディボーション

みなさま

 5月23日は今年のペンテコステ(聖霊降下の日)です。今年の教会歴は、例年よりも少し早いですね。
 聖霊による偉大な働き、満たしなどを求める方がいらっしゃいます。わたしもそれを否定するつもりはありませんが、それだけだったら自らの願望や快感を満たすことと同じではないでしょうか。
 聖霊は、わたしたちの良心に語りかけます。その細い声に従って歩むことこそが日ごとの歩みにおいて重要です。心から服従しているでしょうか。再認識してください。
 またこのごろは聖霊によるなぐさめが、罪の世を歩むわたしたちに無くてはならないものではないかと感じています。


第8課  賛美の雰囲気   5月22日

暗唱聖句「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」創世記2:7

今週の聖句 創世記1:1,2,9~12、20~26、詩篇104:29、ダニエル書5:23、ルカ15:7、黙示録21:4

今週の研究:「空気」(雰囲気)という言葉には、私たちを取り巻く物理的な環境としての大気という意味のほかに、私たちの周囲の人々の態度や思い、感情、支えといった意味があり、それらはよい意味でも悪い意味でも何らかの雰囲気を醸し出します。


日曜日:神は御自分の被造物のための大いなるマスタープラン(総合計画)をもっておられました。それは多くの種類の生物と、それらが生存していく条件を必要としました。天地創造の記録を見ると、神が御自分の被造物の多くが乾いた地の上で生きるように計画されたことはあきらかです。
 これらの被造物が生命を維持するためには何らかの酸素が必要であることを、神は知っておられました。私たちは、この計画が天地創造の2日目、つまり大空の下と大空の上に水が分けられ、大空が創造されたときに実現したのを見ます。上の水と下の水の間にある空間が、その後に続く被造物を受け入れるために 備えられました。

月曜日:神はアダムに命の「息」を「吹き入れ」られました。なぜなら、神がアダムにこの息を吹き入れられたときに初めて、アダムが生きる者となったからです。それは生命の付与者である神だけが与えることがものでした。
 神の息によって与えられたこの命の賜物は、それ以来、すべての人類が共有するものとなりました。最初の父祖アダムによって、神の息が私たちすべての者に伝えられています。この呼吸という行為を通して、アダムに与えられた最初の命が私たちのうちに生き続けているのです。私たちのする一呼吸一呼吸はアダムに与 えられた最初の息を思い起こさせてくれるものです。

木曜日:天国の雰囲気は明らかに神に対する喜びと賛美で満ちています。上記の聖句(ヨブ38:6,7、詩篇103:20~22、148:2、ルカ15:7、黙21:4)のいくつかは御使いたちに神をほめたたえるように要求しています。これらの光と力に満ちた者たちが神の御座の周りに集まって、神の愛と憐れみ 、恵みをほめたたえている光景を思い描くことは素晴らしい経験です。天国は喜びと賛美、幸福が支配するところです。
 感謝すべきことに、私たちはキリストと父なる神を心に宿すことによって(ヨハネ14:23)、今からでも、これらの祝福にあずかることができます。地上における放浪の旅が終りに近づいている今、私たちは天の純粋な空気を呼吸し、天国の雰囲気に包まれるように招かれています。

 今期の学びは「健康と癒し」という総題ですが、毎週の聖句を見ると、天地創造とわたしたちの日ごとの歩みを結び付けるような説明をしていますね。
 今週の学びは水曜日までは空気について書かれています。ところがタイトルは「賛美の雰囲気」です。これはミスプリントかなととも思ったほどでした。
 ところが木曜日になると一転して、天の雰囲気が教課に出てきます。空気→雰囲気、気配、気などに論理が飛躍しています。けれども日本人は、この空気を読むという感覚は理解しやすいことだと思います。
 深呼吸をして、頭が明晰な時は、正しい判断ができそうな時かもしれませんが、疲れていたりストレスがたまっている時、まさに悪い気の時には、わたしたちは失敗をしたりしてしまうものです。そのような意味でも、良い空気を取り入れることは、良い雰囲気につながるのかもしれませんね。

 天国の雰囲気、それはとても想像できないでしょうが、ほんとうにすばらしいものなのでしょうね。そのようになるためには、神さまがいかにすばらしいお方であるかを知らないと、心からの賛美はできないのではないでしょうか。
 逆を言えば、この地上においても、神さまのすばらしさを心の底から感じることができた時は、天の雰囲気を味わうことができる時なのかもしれません。


東京 安河内 アキラ


安息日学校教課  2010 年 第2期7課

2010-05-13 16:50:23 | ディボーション
みなさま

 「タマゾン川」という川のことを聞いたことがあるでしょうか。アマゾン川の打ちまちがいではありません。昨夜のニュースで、都県境を流れる多摩川がタマゾン川と呼ばれていると報じていました。熱帯地方で住んでいる魚が多摩川でも取れるようになったからとのことでした。
 また心無い飼い主が捨てているのがという報道になるのかと見ていたら、原因はそこだが、驚いたのはその魚たちが多摩川で生息し続けるようになったわけでした。それはここ数年、川の水温が高くなったためで、理由は家庭からの生活排水の温度が高くなったためだそうです。そう言えば、今では水道からお湯が出るの は、どの家でもあたりまえになりました。この便利さが、身近な地域での環境破壊になっているとは・・・・


第7課  休息と回復   5月15日

暗唱聖句 「イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むが良い』と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇がなかったからである」マルコ6:31

今週の聖句   創世記2:15、出エジプト記20:8~11、23:12、マタイ11:28~30、マルコ2:27、6:30~32

今週の研究:肉体的、精神的、霊的、社会的に最適な健康を享受するためには、私たちはみな、毎日、毎週、休息を必要とします。


月曜日:すべての生物は、消耗されたものを回復するために、休息の時間を必要とします。回復という言葉は、「もとの状態に戻る行為」を意味します。
 私たちは自分たちの限界を認めるべきです。私たちは自分自身の力で自分の働きを成し遂げることができません。神は恵みをもって私たちの働きを助けると約束しています。規則的な休息を通して、私たちは主から体力をいただき、新たな力をもって御業のために働くことができます。
 私たちは休息することによって、さらなる命と息、魂を受けることができるということになります。したがって、休息は私たち人間にとって基本的、根本的なものであって、休息を必要とする自分自身を否定することは自分自身の基本的な人間性を否定することになります。

火曜日:イエスは罪に悩む人たち、人生の重荷を負って苦しむ人たちに語りかけておられます。イエスは私たちの悩み、私たちの重荷を知っておられます。私たちがどのような状況であれ、イエスの慈しみと思いやりに信頼して、それらをイエスの足もとに降ろすように仰せになります。イエスに信頼することを学ぶとき、 私たちの疲れ切った魂に休みが与えられます。
 私たちには、心を神に向けることのできる時間と場所が必要です。祈りと聖書研究、キリストについての瞑想は平安と回復をもたらします。
 私たちが励ましと希望に満ちた、静かな細い声を聞くのは、このような個人的な礼拝の場においてです。このようにして、人生の重圧と緊張から離れるとき、私たちの魂は聖霊によって回復されます。

木曜日:細かい規定や規則にとらわれがちですが、安息日が私たちの祝福のためにあることを決して忘れてはなりません。それは神が与えてくださった素晴らしい賜物を瞑想し、楽しむための日です。それは神の慈愛について瞑想する時間です。安息日は、私たちが神の愛を認めていることの永遠のしるしです。安息日の祝 福は、私たちがそれを守ることによって「キリストにある安息」んひついて語るだけでなく、真の具体的な方法で、その安息を表現することができる点にあります。それによって、私たちは自分自身の業でなく、キリストの御業による救いに信頼していることを表明するのです。
 あらゆる霊的祝福に加えて、安息日はその週の労苦と悩み、緊張と疲労から解放される時間を与えてくれます。安息日は、私たちが罪悪感なしに、心からくつろぎ、安らぎ、緊張をほぐされるための神の方法です。安息日は私たちの体に必用な休みを与える方法です。


 現在のシャローム東久留米で勤務するようになり、このごろコンビニへ行くことがほとんどなくなったと思います。現場の牧師をしていたころは、信者さんお宅などを聖書研究や集会、訪問などで動き回ることが多く、座って食事をする時間がもったいないのでコンビニのおにぎりを運転しながらほうばりながら移動する ことが多かったからでした。
 シャロームでの働きが始まって数ヶ月は現場を知るため介護現場で働きました。ここは数名で担当するみなさまを介護するために、それぞれの役割が決まっていて、その中できちんと1時間の休憩時間が取られていました。
 これはわたしにとって、それまでには無い新しい体験でした。だんだんそれに慣れてきたある日、何かの行事があり、その関係で今日の休憩は45分でという指示がありました。たかが15分くらいと思っていましたが、実際に休憩が15分短くなってみると、疲れが抜けきらないというのでしょうか、何か消化不良のよ うな想いにかられました。体を使う仕事だっただけに余計に休みの重要性を感じさせられました。

 このようなメルマガを長いことをさせていただくと、たびたび同じ例話使ってしまいゆるしていただきたいのですが、今週の主題で思い出すことは、ある教会で働いていたころ、今日は大変忙しいと思われる時には「ファイト!一発!」と宣伝している薬を飲んでいました。そんなわたしをみて、ある青年が「それは力の 前借りです」と表現しました。そうなんです。その後の反動は大きいのです。
 休息について考えるためには、自分たちの冷静な力の判断をすべきではないでしょうか。それは限界の判断と言って良いかもしれません。やらねばならないこと、できたらよいことは山ほどありますが、その中において限界を認めて、取捨選択をすることはないでしょうか。すべてに良い顔をして、それが途中でできなく なってしまったら、それはお互いに困ってしまうことなのです。
 神さまはひとりひとりに役割を与えられました。それは成長とともに変容するものです。それ以上に気張って背負おうとすることは、神さまのみこころに反することではないでしょうか。
 だからこそ、自らの力について冷静に判断することが大切になのです。無理だと思ったら、早々に休むことも、勇気ある撤退も大切なことです。


東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2010 年 第2期6課

2010-05-08 20:45:49 | ディボーション
みなさま

 5月の声を聞いてから、好天が続いていますね。すっかり春らしくなりました。シャローム東久留米の前庭には100匹くらいの春の青空の下を鯉のぼりが元気に泳いでいます。みなさまの地方はいかがでしたか?
 

第6課  信仰といやし   5月8日

暗唱聖句「堅固な思いを、あなたは平和に守られる あなたに信頼するゆえに、平和に」イザヤ 26:3

今週の聖句   創世記3:8~10、詩篇118:6、箴言17:22、マタイ6:27~34、ヘブライ13:6、ヨハネ第一4:18

今週の研究:理想を言えば、私たちはどんなに厳しい時代にあっても、希望と慰めを持つことができます。ただ、現実問題として、私たちはいやなことや恐ろしいことに遭わないわけではありません。それでも、私たちにはこれらの問題に対処しうる堅固な基礎が与えられています。


火曜日:神の超自然的、奇跡的な力が私たちにいやしをもたらすことは確かですが、必ずしもそれだけがいやしを与えるのではありません。
 信仰は信じる者に平安と確信、希望を生み出し、それが精神的な安定につながり、結果として私たちの心身の健康に良い影響をもたらすのです。

木曜日:私たちには理解できないことですが、主の超自然的な介入によって癒される場合があります。また自然な方法によって癒しが与えられる場合があります。
 そのときも、主の御手がこれらの方法を通して病人のために働いたと信じることができます。そして、理由はわかりませんが、私たちが祈り、願った方法で癒しが与えられない場合があります。
 しかしながら、たとえ最後の二例のような場合であっても、私たちアドベンチストは、堕落した世界につきものの不可解な悲劇の中にあってさえ、なお神の愛と慈しみ、善意に信頼することができます。

金曜日:だれでも自分の祈りが即座に、また直接に答えられることを望み、その答えが遅れ、期待に反した形で与えられると失望するが、神は賢明、かつ最善なお方で、私たちが望むときに、望むように、いつでも答えるということはなさらないのである。
 しかし、私たちの希望が全部かなえられるよりももっと良い方法をとっていてくださるのです。わたしたちは神の知恵と愛を信頼できるようになるため、私たちの願いを聞いてくださいと祈るのではなく、神の御心を知り、それを果たすように務めなければならない。自分の要求や興味で神の御心を考える気持ちで忘れて しまわなければならない。
 信仰を試すこうした体験はわたしたちに有益である。なぜなら、それによって自分の信仰が真実であり、神の御言葉の上に堅く立った信仰であるか、それとも事情が変われば動揺し、不安定で変わりやすいものかどうかが判然とするからである。
 信仰は働かせることによって強くなる。主に仕える者のために聖書の中には尊い約束があることを覚え、忍耐を十分に働かせなければならない。


 人はなぜ祈るのでしょう。それは自分の力ではどうしようもできないからではないでしょうか。その理由の中で、最でも多くの理由は「健康」でしょう。そしてそれは加齢とともに強くなるのではないでしょうか。

 健康や病、癒しなどについて考える時に、故障した機械はそのままにしておいても治らないのに、体調を崩しても一晩寝ると治っていることが多々あります。このこと自体を奇跡や癒しと考えても良いのですが、今週の学びは自然治癒と癒しをわけています。(木曜日参照)
 そのようなわけで、今週の学びの「信仰といやし」のいやしは、超自然的な働きによって治癒したり延命していることを指しています。

 ここで言うまでもありませんが、祈りしたことがすべてそのとおりになることはありません。けれどもわたしたちは、かなえて欲しいことを、自分ではどうしようもできないことを神さまにお祈りします。そして、祈りはできるだけ具体的に祈るようにとも勧められています。

 かつて読んだ本の中に「わたしたちは祈りの中で、神さまに願いを伝えるというよりも神さまを自分の意思に従わせようとしてしまっていないだろうか。また逆に神さまはもっと大きなものを与えようとしているのに、人間の狭い視野で恵みを限定してしまっていることはないでしょうか。」このような問いかけを読んだ ことがありました。
 苦しい時、わたしたちは「目の前にある痛みを取り去ってください」と必死に祈ります。そのような時、なかなかできないことかもしれませんが、そのことをふくめてすべてを導いてくださっている神さまに心を向けることができないでしょうか。その中から何かを聞きとることができないでしょうか。これこそが神さま とわたしたちの真の祈りなのかもしれません。


東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2010 年 第2期5課

2010-04-30 12:12:42 | ディボーション

みなさま

 今週後半から、今年の大型連休が始まるんですね。けれども、わたしどもの施設では、あまり関係がありません。逆に、様々な事情で休みを取られる方が増えたり、ご家族の訪問も多く、かえって忙しい毎日になりそうです。ゆっくり長期間休める方は、この期間を有効に用いてくださいね。
 また週間予報を見ると、ようやく春らしい陽気になりそうですね。花粉もおさまり春本番を迎えますね。

 
第5課  環境   5月1日

暗唱聖句「地とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものは、主のもの」(詩篇24:1)

今週の聖句、創世記1:1~2:7、2:18~24、3:7、17~19、詩篇24:1、マタイ25:34~46、マルコ2:27,28、3:4、

今週の研究:創造主は天地創造の最初の5日間を、生まれてくる人間のための環境を整えるため用いられました。しかし、罪が本来の計画に変更をもたらしました。環境は敵対するものになりました。利己主義が支配するようになりました。地球の資源に対する収奪が始まり、今日もなお続いています。このように、人間が 絶え間なく地球を虐待しているにもかかわらず、地球はなおも私たちの生存を支えてくれています。


日曜日:神はアダムとエバのために最も健康的な環境を用意されました。平和に満ちた緑の木々、色とりどりの花や果物----これらはみな、彼らのために理想的な家庭を提供するのでした。
 私たちの最初の両親が怠惰な生活を送るように、神は計画されたのではありません。彼らは園の中で働き、それを管理するのでした。それによって、彼らは満足と喜びにあずかるのでした。「神の第二の書」と呼ばれる自然界を通して、彼らは神についてさらに多くのことを学ぶのでした。

月曜日:第7日安息日は、ユダヤ国家やユダヤ民族が出現するずっと前に、神によって定められました。
 安息日は創造主とその愛、被造物に対する神の配慮に関心を向ける機会を私たちに与えてくれます。
 罪が入り、働くことがずっと困難で苦しいものとなってからは(創世記3:17~19)、労働を制限することや、創造主を覚えるようにというまねきはさらに重要な意味を持つようになりました。天地創造の記念である安息日はまた、被造世界に対する私たちの責任に目を向けさせてくれます。しかし、時代の経過とと もに、安息日の休みの真の意味が数々の規定や規則によって失われ、人々の思いは安息日の新の意義と価値から離れてしまいました。
 キリストは安息日の意義を、神がもともと意図されたことろまで回復されました。紙が安息日を、善をなすとき、神の国を前進させるとき、窮乏の中にある人々に奉仕する時と見ておられることを、キリストは明らかにされました。

水曜日:まず初めに、神の主権が地球全体に及ぶことを覚える必要があります。私たちは神と神の被造物に対する責任を免れることができません。地球は神のものであり、同時に人----私たちのすべての人----のものだからです。私たちはほかの人々と地上のほかの被造物を守る責任を神に対して負っています。私たちは資 源を守る必要があります。
 地球のよい管理者になることによって、環境保護に努めることによって、資源を独り占めしないことによって、自分の富を人々とわかちあうことによって、私たちは助けを必要としている人々の生活を改善することがでできます。クリスチャンとして、また主イエスに従うと公言する者として、私たちは必要の中にある人 々を助ける義務を負っています。


 聖書は最先端を行く本ですね。6000年前から「環境問題」を取り上げていたのですから・・・・わたしたちが聖書を通して語られている神さまのみこころをしっかりと理解して行っていたら、もう少し美しい自然が残っていたのかも知れません。

 わたしがこどもだったころ、各地にどぶのような悪臭を放っている川がたくさんありましたが、今ではきれいな清流が戻っているところも多々あります。わたしたちが少しでも考えて改良すると、自然は回復するものですね。
 ある教会で働いていた時、少し郊外でしたが緑に囲まれたすてき な家に住んでいらっしゃる方がいました。家の裏にはきれいな川も流れていて、そこは桜並木になっていて、それでいて電車の駅まで案外近くて・・・
 その方も、すてきな場所と考えてそこに住んでいました。けれどもその方の家の近くにはごみ焼却場があり、昔は言われていませんでしたが、そこからはダイオキシンが、また頭上には高圧線が走っていて電磁波がなどと、新たな環境破壊の因子が登場しています。
 このように人間は、天地創造から今日まで、自然を壊しては、その事実に気づき対策を取ってきまひた。きっとこれからも今まで気づいていなかった何かが発生してくるのかもしれませんね。

 そのようなことを考えていたら、人類のあけぼのにノアが、洪水が乾いて箱舟から外へ出た時に、自然の変容に悲しんだという項目を思い出しました。 
 ノアの洪水以前は、罪の影響はあったにしても、天地創造の時の美しさがまだ残っていたのでしょう。今日の世界は、洪水後の世界よりも自然破壊が進んでいることでしょう。そしてそれは今後、人間の歴史が続けば続くほど悪化していることでしょう。
 
 本論からは逸れてしまいますが「一日も早くイエスさま帰ってきてください」という想いになりました。早くイエスさまと天国でお目かかりたい。そして美しい天国に入れていただきたい。それしか環境問題の最終的な解決はありません。


東京  安河内 アキラ


安息日学校教課  2010 年 第2期3課

2010-04-16 20:36:54 | ディボーション

シャローム東久留米では、平日は毎朝朝礼の前に朝祷会で祈っています。数日前の担当者が聖書通読で詩編を読みながら気づいたことですが、「主の慈しみに生きる人々よ」(詩編30:5)という聖句を引用しながら「詩編には『主の慈しみ』という言葉が多いですね」と話してくださいました。そう言われてみると、納得しますね。詩編はかつての讃美歌です。だとしたら、主の慈しみによ って生かされて、導かれている、そのことを讃美しているのも当然かもしれません。「慈しみ」という言葉にスポットをあてながら詩編を読んでみたいと思いました。
 

第3課  霊的・肉体的健康を守る   4月17日

暗唱聖句「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」イザヤ40:31

今週の聖句 詩編139:13~15、コリント第一9:24~27、エフェソ2:8、テモテ第二4:7、2:3~5、ヘブライ11:6、

今週の研究:使徒パウロは運動競技からの比喩を用いて「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(ヘブ12:1)と私たちを励ましています。
 この競争は私たちに最高の霊的・肉体的健康を要求します。この健康は運動によってもたらされます。これが今週のテーマです。


日曜日:運動を続けることには多くの恩恵があります。これらの恩恵は練習を行うために必要な固い意志と鍛錬によってもたらされます。
 これらの原則は。霊的、肉体的健康にも当てはまります。霊的に健康であるためには、イエスに心を向ける必要があります。御言葉を読み、祈り、瞑想する必要があります。さまざまなことが私たちの関心をそらせます。これには、たとえば仕事や勉強、あるいは教会活動といった、よいことや高尚なことも含まれるかも しれません。しかし、もし力強くゴールインしようと思うなら、私たちが恵みに成長し、自分の目標達成を優先するのを妨げる活動や誘惑を断つ必要があります。

月曜日:信仰もこれと同じです。信仰は働かせないと成長しません。信仰の手足と体に欠かすことのできない動きや活動が起こりません。信仰は賜物ですが、もし信仰を働かせなければ、もし信仰に基づいて選択をしなければ、もし手を伸ばし、信仰によって神の約束を掴もうとしなければ、もし信仰に基づいて積極 的に機会をとらえなければ、もし服従と謙遜をもってひざまずくまでに信仰を働かせなければ、私たちは信仰を失う危険があります。
 信仰を失うことは悲劇的なことです。なぜなら、信仰は神の賜物の中でも最も重要なものの一つだからです。信仰を持たないで、神を知らないで、神の約束のうちにある希望を持たないでこの世にあって生きることがどういうことがわかっている人だけが、信仰の賜物がどれほど素晴らしく、価値あるものかを知るこ とができます。

火曜日:「見ないで信じる人は幸いである」(ヨハネ20:29)という聖句、これが鍵でした。見ないで信じること、つまり「証拠」を求めないで神をその言葉の通りに受け入れること。結局のところ、世界中の「証拠」があっても、信じない人は信じません。
 信仰によって生きるとは、したがって、私たちが神の愛についてすでに経験していることに基づいていきることです。すでに経験していることに基づいて神に信頼することです。神がご自分の慈しみと愛を示してくださっているゆえに、神をその言葉通りに受け入れることです。自分の置かれた状況がどれほど困難でも、 理解不可能であっても、です。


 信仰を「持つ」という言い方を、教会ではすることが多くあります。けれども持っているだけで使わなければ意味がありません。このたとえとして「どんな良薬でも持っているだけでは効きません。飲むなり貼るなりしなければ効能があなたのものにはなりません」と話しています。この薬を飲むとしたら、効果があると 信じているから服用します。
 信仰を働かせる時、それは絶望状態にあっても、神さまの守りを信じて一歩踏み出すことではないでしょうか。ヨシュアがイスラエルの指導者となり、最初の戦いのために民を率いてヨルダン川を渡河しようとしている時でした。けれどもまた水は春の雪解け水が勢いよく流れていたのです。けれども彼は進軍命令を発し ました。そして契約の箱をかついだ祭司が足を水につけた時に、ヨルダン川の水はせき止められました。(ヨシュア3:15)
 この時、紅海が開かれて救われたことを知っている人は、ヨシュアとカレブだけになりました。けれどもイスラエルの民は、親たちの世代から実際に紅海が開かれてそこを通ってきたという話しは聞かされていました。けれども彼らにとっては未経験のことだったのです。
 わたしたちも同じではないでしょうか。聖書の中にたくさんの導きや守りの約束が書かれています。またわたしたちの先輩方のあかしなどを通しても神さまが生きていらっしゃることの確信を与えるしるしがたくさんあります。
 けれどもそれを信じて、一歩踏み出すことを決断するのは、わたしでありあなたなのです。まさにそれが信仰を働かすことではないでしょうか。
 働かせるまでは恐怖があります。けれども信じて導かれる経験を通して、神さまの守りへの確信が深まって行きます。神さまは、そのことをよくご存じなので、あなたに越えられないような試練は与えられません。(コリント第一10:13)


東京 安河内 アキラ