みなさま
日本列島は梅雨本番、各地から落雷や豪雨の被害が報じられています。かつては梅雨と言えば、シトシトと雨が降り続く静かな雨の日が多かったように思いますが、このごろは局地的に激しい雨が降りますね。
先日は、シャローム東久留米などがある多摩地区北部と埼玉県南部あたりが集中豪雨となり、シャロームの近所や市街地でも一時的に通行止めの個所が出たりもしました。
今年からは天気予報の警報は市町村ごとに出されます。また自宅のパソコンでも、精度の高い天気予報やレーダーの画面を見ることはできます。
そのように事前に降雨を察知することができるようになりましたが、それを降らないように、また降らせるようにコントロールすることはできません。
旧約聖書の時代、神さまは雨を降らさないことで、自らが自然界を司っていることを示されました。豪雨災害の報道を見ながら、人間の力無さとすべてを支配されている神さまの力を感じさせられます。
第2課 ユダヤ人と異邦人 7月10日
暗唱聖句「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」ヨハネ1:17
今週の聖句 レビ23章、マタイ19:17、使徒言行録15:1~29、ガラテヤ1:1~12、ヘブライ8:6、黙示録12:17
今週の研究:私たちアドベンチストは、十戒(実際には安息日の戒め)を忠実に守っているという理由でユダヤ主義者、あるいは律法主義者であるという非難を受けてはいないでしょうか。
私たちは今や新しい契約のもとにあるのだから、律法(安息日の戒め)は廃止されたのである、という声を聞かないでしょうか。
その一方で、私たちの教会には旧約聖書の規定や規則に従うべきであると主張する人たちもいます。
この意味で、ローマ信徒への手紙は、当時のローマ教会と同様、今日の私たちにとっても重要なメッセージを持っています。
日曜日:旧約時代の信者はメシア時代の祝福と救いの約束を待ち望みました。新約時代においては、人々は神からメシア、救い主として遣わされたナザレのイエスを受け入れるべきか否かという問題に直面しました。もしイエスを信じるなら、つまりイエスをありのままに受け入れ、イエスに献身するなら、彼はイエスが無償で与えてくださる義によって救われるのでした。
一方、神と人への道義的な要求は新約聖書においても変わることがありません。というのは、それは神とキリストの品性にもとづいているからです。神の道徳律に従うことは、古い契約と同じくらい、新しい契約の一部なのです。
火曜日:パウロは、自発的に教会と協力して働いたことは興味深いことです。どのようなかたちで召されたにせよ、自分が全体として教会の一部であって、可能な限り教会と協力して働く必要があることを、彼は認めていました。
水曜日:ユダヤ人信者は異邦人に自分たちの規則や伝統を強制すべきではありませんでした。その一方で使徒会議は異邦人もイエスによって一つに結ばれたユダヤ人の感情を害する行為を避けるように配慮したのでした。
このようなわけで、使徒・長老」たちは異邦人に対して、偶像に供えた肉、みだらな行い、絞め殺した動物の肉と血を避けるように書面で通告することに同意しました。
ある人たちは、安息日遵守のことが書かれていないので、異邦人は安息日遵守を求められてはいなかったと言います(うそをつくことや殺人を禁じた戒めも特に言及されていないので、このような議論は無意味です)
今週の学びは、キリスト教がパレスチナという一地方の宗教から世界宗教に脱皮する場面かもしれません。人間だれしも育ってきた社会や文化の影響を色濃く受けています。そしてその背景ができるだけ近いものが集まると快適であることも事実です。
だからこそ、自分が快適にとか、納得できるように自らの主張や文化を相手に押しつけてしまうきらいがあります。
ユダヤ人にとっては、あたりまえのことであっても、それがクリスチャンになる障壁となるようだったら、それをできるかぎり撤去すべきではないか。このような想いをいだくことは神さまのみこころにかなったことでしょう。
けれども水曜日の学びに、そこにおいて安息日について何も述べていないから、旧約の安息日は廃止されたと考える人がいます。けれどもエルサレム会議での決定事項は、信仰の本質よりも信仰生活において守るべきことを規定しています。土台となる道徳律をふまえた上で議論をしていることを忘れてはなりません。
ここにあるように、わたしたちは原則でふまえ、21世紀初頭に日本で生きるものとして、その時代に適応させて、今日のクリスチャンとしての生き方を考えねばなりません。金曜の日没が来たら城壁の門が閉まり、すべての活動が停止する世界と同じには行かないのです。
もちろん理想の姿はありますが、現代社会において止めることができない日常の仕事は多々あります。ライフラインや交通機関で働く方いるから、わたしたちは安息日に教会へ向い、その時間に静かに平穏のうちに礼拝ができるのです。
老人ホームは、利用者の生活を守るのが仕事です。24時間働きを止めることができません。それぞれが分担の時間を精いっぱい務め、交代者が来たら後を託します。同じように、わたしたちは安息日を当然の権利のように過ごすのではなく、「わたしは今日は休ませてもらうけれど、明日からはその分ガンバるから」、 自分が安息日を覚えることだけを考えるのではなく、相手があってこそ自分も安息日を休めるという姿勢が大切なのではないでしょうか。
東京 安河内 アキラ