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昭和二十年夏

2012-09-29 | レビュー
昭和二十年夏、僕は兵士だった
昭和二十年夏、女たちの戦争
昭和二十年夏、子供たちが見た日本
 梯 久美子 角川書店  ノンフィクション

 昭和二十年夏、兵士は、女性は、子供は、いったい何を見、何を感じていたのだろう。教科書や、ドキュメンタリー番組で語られてきた紋切り型の「悲惨な戦争」ではなく、個人が語る、ごく個人的な戦争とのかかわりと戦時下の暮らしである。近親であっても語ることなく亡くなった方も多い中、貴重な証言であると思う。
 
 例えば「満州」での暮らし。開拓農民ではなく、エリートであった場合、その暮らしぶりは、当時の東京なんかよりずっと豊かであったらしい。敗戦の情報もいち早く伝えられ、引き揚げも素早かった。どんな状況においても、ことの明暗は属性が決めるということの例だ。(確かな情報は、確かな筋で、確かな属性の人々にだけ伝えられる。)

 国がどんなに煽りたてようと、冷静な人たちは少なからずいた、ということ。日本全体がネガティヴな「閉じたサーキット」に陥る中でもグローバルというか、普遍的な考えを持ちえた人々である。情緒的な「大和魂」だとか「神風」という偏狭な言葉にアイデンティティを見出さないことは有事にあたって重要だ。

 しかし、現場に赴く兵士たちはどうだろう。日本こそが守るべき祖国であり、命を捨てる対象であった彼らの多くは、熱情に浮かされ、あえて苦しむことに生きがいを見出す。高度成長期のサラリーマンにも通じるような精神性だ。一方は報酬や昇進で報われるが、一方は靖国に英霊として祭られることで報われる。信じ切って死ねた者こそが天国にいたり、信じ切れず、生き残った者こそが地獄であったかもしれない。いずれにしても、神国日本などという、ちゃちなストーリーでは、救われなかったということの証拠だろう。証言者の方たちは、それぞれの仕方で、死者を悼むことに人生をささげてこられたと思う。行きつく先が虚しいものと知りながら。


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