田野町にある二十三士の墓と福田寺を根木さんと訪問しました。
田野町:二十三士の墓
田野町の福田寺には、整然と並ぶ23の墓があります。この墓に眠るのは、土佐勤皇党に傾倒した若き志士たち。投獄された土佐勤皇党の党首・武市瑞山を救おうと、同町出身の清岡道之助を中心に立ち上がりました。藩から追われた23人は野根山街道を抜けて阿波へと逃亡を図りますが、そこで捕らえられ、土佐へと連れ戻されてしまいます。そして反逆者として奈半利川の河原で斬首刑を科されたのです。23人の平均年齢はわずか25歳だったと言います。彼らの遺体はみなこの福田寺に埋葬され、今も多くの人がお参りに訪れる場所となっています
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二十三士と武市瑞山(田野町教育委員会の建てた説明板より)
江戸で薩長の志士と手を携え、「尊王攘夷」の運動に立ち上がる約束をして土佐へ帰ってきた武市瑞山(半平太)は、藩内の同志「土佐勤王党」を結成し、「公武合体」の藩論を「尊攘」に転換さすべく建議し成功するかに見えた矢先、文久三年(1863年)八月の政変で水泡に帰し、前の藩主山内容堂の頑固な公武合体論と藩の上層部と長宗我部の遺臣即ち上士と下士の対立感情も底流に働いて、次々に弾圧の嵐が吹き、瑞山も獄中に在り、一藩勤王の目的は挫折した。
土佐藩内七郡相呼応する結束も次第に崩れ、清岡道之助を首領と仰ぐ安芸郡下の二十三士だけとなり、岩佐の関所から藩庁へ「藩政改革・攘夷・瑞山の釈放」の嘆願書を差し出したが、藩より反乱を企てる不逞の徒として討伐の兵を送られ、志士は阿波で捕らわれて岡地の獄舎で一夜を明かし、唯一度の取り調べもなく元治元年(1864年)9月5日、奈半利碩を朱に染め節義に殉じた。
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二十三士の死骸は、清岡道之助の遺言によって福田寺境内に埋葬された。明治24年贈位を受けた際、道之助の妻静によって修築された。その後大正2年、静は私財を投じて、現在の墓碑をたて、再改築し、現在に至っている。
同じところに、清岡家と浜口家の祖先の墓が並んで建っていました。
二十三士の墓と福田寺
HN:サカチャン