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「高知ファンクラブ」 投稿者別の記事1

「高知ファンクラブ」への投稿者別の記事をまとめたブログです

高知市・柴巻の田中良助旧邸 八畳岩を訪問3

2010-12-31 | HN:史跡探訪者

高知市上町2丁目から円行寺を経由して、高知市・柴巻の田中良助旧邸 資料館を訪問した後、龍馬がよく登ったと言われている八畳岩に行きました。

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出典:田中良助旧邸資料館

田中邸のすぐ近くに、「八畳岩」と言われる大きな岩があります。
晴れていれば、この八畳岩から太平洋が見えます。龍馬もよくここで、田中良助さんとお酒を飲んだそうです。

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高知市HPより:高知市田中良助旧邸資料館

近くにある八畳岩の上から高知のお城下を見下ろし,はるか遠くに広がる太平洋を眺めながら,将来について語り合ったといわれています。

HN:史跡探訪者

 

高知市・柴巻の田中良助旧邸 に関する記事 

HN:史跡探訪者 さんの記事

坂本龍馬ファンクラブ 



高知市・柴巻の田中良助旧邸 資料館を訪問2

2010-12-31 | HN:史跡探訪者

高知市上町2丁目から円行寺を経由して、高知市・柴巻の田中良助旧邸 資料館を訪問しました。

資料館の開館日は毎週金曜日から日曜日、日曜日に訪問したので中へ入る事ができました。

龍馬が当時足を運んだ建物で,現在も形として残っているのは,柴巻の田中良助旧邸だけとのこと、きれいに保管管理されていました。

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出典:田中良助旧邸資料館

田中良助さんは、坂本家の所有していた山(坂本山)の管理人さんでした。龍馬もよく訪れていたようです。
田中邸からは龍馬が田中に借金した借用書が発見されたそうです。借用書があるという事は、お金は返してないということですね。
田中はこの借用書が誰かに見つかると、龍馬に迷惑がかかると睨み、ふすまの張り紙の中に隠していたそうです。
また、田中邸のすぐ近くに、「八畳岩」と言われる大きな岩があります。
晴れていれば、この八畳岩から太平洋が見えます。龍馬もよくここで、田中良助さんとお酒を飲んだそうです。
最後にこの場所を訪れたのは27歳秋10月。脱藩が翌年3月のことである。

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HN:史跡探訪者

 

高知市・柴巻の田中良助旧邸 に関する記事 

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坂本龍馬ファンクラブ 



高知市・柴巻の田中良助旧邸 資料館を訪問1

2010-12-31 | HN:史跡探訪者

高知市上町2丁目から円行寺を経由して、高知市・柴巻の田中良助旧邸 資料館を訪問しました。

友人に事前に道筋を聞いており、北山スカイラインを登りよったら標識があるけ、見落とさんように・・・と言うことでした。

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途中幾つか標識もあり、確認しながら登って行くと・・・車は入れませんとあるので、道路の広いところにおいて、歩いて行きました。

後で知ったのですが、車で大きなカーブをまわってもう少し登ると、上から降りてくる道がありました。

そこには大きな看板もあり、車の駐車スペースもありました。

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 資料館入り口に、こんな看板がありました。

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高知市HPより:高知市田中良助旧邸資料館

在の高知市柴巻にあった坂本家の領地を管理していた田中家の邸宅に,龍馬はよく訪れ良助と将棋を指して楽しんでいたといわれています。

また,近くにある八畳岩の上から高知のお城下を見下ろし,はるか遠くに広がる太平洋を眺めながら,将来について語り合ったといわれています。

龍馬が当時足を運んだ建物で,現在も形として残っているのは,柴巻の田中良助旧邸だけ。資料館の開館日は毎週金曜日から日曜日

田中良助旧邸資料館
住所 : 高知市柴巻381
問い合わせ先 : 高知市観光課 高知市教育委員会生涯学習課
電話 : 088−823−9457(観光課)
       088−822−6394(生涯学習課)

 

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        田中良助旧邸 資料館入り口から、高知市街地がこのように見えます。 


大きな地図で見る

田中良助邸投稿: こうじ

田中良助は柴巻にある坂本家の地組頭で、龍馬も子供のころから田中家を訪ねることが多かった。龍馬は田中家に泊まり込んだり、良助と一緒にウサギ狩りに出かけり、近くにある「八畳岩」に上ったり、良助や近所の若者たちと酒を酌み交わすなど、たいへん親しかった。 ...

HN:史跡探訪者

 

高知市・柴巻の田中良助旧邸 に関する記事 

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高知市観光ボランティア・ガイドの人達と、植木枝盛邸跡を訪ねました

2010-12-31 | HN:史跡探訪者

高知市観光ボランティア・ガイドの人達と、植木枝盛邸跡を訪ねました。

記念碑は、昭和2年(1927)5月、市村合併記念として小高坂村が建立したもの・・・だそうです。

高知市の城西公園横の江の口川西側に位置する、越前町の小路にありました。

出典:土佐の歴史散歩植木枝盛旧邸高知市中心部歴史地図

 

IMG_7401.jpg出典:植木枝盛(うえきえもり)=      民権かぞへ

1890(明治23)年の第1回衆議院議員選挙に高知3区から当選、第1回定国議会における予算案の議決で政府側に妥協し、東洋のルソーといわれた中江兆民をはじめとする他の民権派から裏切者と非難され、自由党脱退を余儀なくされた。第2回総選挙立候補準備中の1892(明治25)年1月23日、持病の胃腸病が悪化し36歳の若さで東京にて没した。

  

平易な文体で民権思想を説いた『民権自由論』、世界政府構想を示した『無上政法論』をはじめ、『天賦人権弁』『一局議院論』『東洋之婦女』『植木枝盛日記』など多数の著作や論説を残しているが、「海南新誌」の創刊号巻頭で彼が言った自由は土佐の山間より出づという言葉は、土佐の自由民権運動を表す最も代表的な言葉となる。

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       植木枝盛は明治11年からこの家に住み、憲法の草案を書いた・・・

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植木枝盛 に関する記事 

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高知市観光ボランティア・ガイドの人達と、植木枝盛の生誕地を訪ねました

2010-12-31 | HN:史跡探訪者

高知市中須賀にある植木枝盛の生誕地を、高知市観光ボランティア・ガイドの人達と訪ねました。

街中の狭い路地にあるので、路地の入り口を間違わないようにしなくては・・・と思いました。

    

植木枝盛より

提供: フリー百科事典植木枝盛

植木枝盛(うえきえもり、安政4年1月20日1857年2月14日) - 明治25年(1892年1月23日)は、明治時代自由民権運動の理論的指導者。土佐国土佐郡井口村(現高知県高知市井口町)出身。土佐藩士・植木直枝の子。

 

1875年、上京し板垣退助の書生となる。1877年立志社に参加し、立志社建白書を起草。1881年に、私擬憲法の中では最も民主的、急進的な内容とされる『東洋大日本国国憲按』を起草。

高知で県会議員を務めた後、1890年国会開設にあたり、高知県から第1回衆議院議員総選挙に立候補し当選。1892年、第2回衆議院議員総選挙を前に胃潰瘍の悪化により36歳(数え年)で死去。その突然の死から、毒殺説もある。

著作に『民権自由論』『言論自由論』などがある。

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HN:史跡探訪者

植木枝盛 に関する記事 

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高知市観光ボランティア・ガイドの人達と、徳弘董斎邸跡を訪ねました

2010-12-31 | HN:史跡探訪者

高知市観光ボランティア・ガイドの人達と、徳弘董斎(とくひろ とうさい)邸跡を訪ねました。

高知市中須賀町の「中須賀公園」の中にありました。

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6 徳弘董斉邸跡   中須賀町

現、中須賀公園がその敷地跡。
龍馬は、1853年 江戸滞在中に佐久間象山から砲術を学んでいるが、その6年後にはこの徳弘薫斎からもオランダ式砲術を学んでいる。
彼の弟子の中には、龍馬の兄権平や、岡田以蔵、武市半平太らがいる。
徳弘董斎は絵も嗜み、武市は彼から絵も習っている。

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徳弘董斎 とくひろ‐とうさい
1807‐1881
江戸後期-明治時代砲術家、画家
文化4年8月15日生まれ。土佐高知藩士徳弘石門の長男。江戸で下曾根金三郎洋式砲術を、広瀬台山(たいざん)らに文人画をまなぶ。帰郷後は砲術をやめ、画で一家をたて、橋本小霞(しょうか)とならび称された。明治14年5月25日死去。75歳。名は益、益孝。通称は祥吉、孝蔵。別号に石埭。
 

IMG_7247.jpg南国土佐へ来てみいや: 徳弘董斎邸跡 - 龍馬の高嶋流砲術の師匠

碑の説明文にもあるように、土佐に高嶋秋帆の高嶋流砲術を伝えた、オランダ式砲術家じゃったがでして、現在跡地は「中須賀公園」になっちょります。

門下生には、坂本龍馬や兄・坂本権平、それに岡田以蔵の名も連ねちょったがです。

また、画家としても有名じゃったそうで、武市瑞山も教えを受けちょります。

 

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HN:史跡探訪者

徳弘董斎(とくひろ とうさい)邸跡 に関する記事 

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高知市観光ボランティア・ガイドの人達と、婦人参政権碑を訪ねました

2010-12-31 | HN:史跡探訪者

高知市観光ボランティア・ガイドの人達と、高知市上町1丁目 第四小学校前 にある婦人参政権碑を訪ねました。

 

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◆会社の近くに、こんな碑があります。◆

婦人参政権が認められたのは、1945年10月、閣議決定されました。

しかし、それよりも60年以上前に、ここ高知市上町町議会で日本ではじめて女性の選挙権・被選挙権が認められたのです。

れを記念して記念碑が建てられました。(1990年)

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◆会社の近くに、こんな碑があります。◆

治13年6月16日、高知の上町町会は女性の選挙権・被選挙権を認める町会規則を県令(今の県知事)に提出しました。その案文は次のようなものです。

「第十七条 本会ノ議員ハ全員五拾名ト定メ町内一般人民ヨリ公選スベシ

但シ議員ト為ルヲ得ベキ者ハ左ノ条款ヲ除ク(中略)__ニ十年未満ノ者」

つまり、20歳以上の男女に選挙権・被選挙権を認める内容のものです。(現在は、被選挙権は25歳以上の男女)


の案文に対しては、直ちに県令(県知事)が、「二十年未満ノ者」を「二十年未満ノ者及ヒ婦女」という内容に訂正してきました。婦人の参政権を認めなかったのですね。
しかし、上町町会の3ヶ月にわたる抗議行動に県令もなんとか折れて、明治13年(1880年)9月20日、日本で始めての女性参政権を認める法令が成立しました。明治維新からわずか13年後のことでした。
その後、隣の小高坂村でも同様の条項を実現しました。

この当時、世界でも女性参政権を認めていたのはアメリカのワイオミング州議会だけでしたので、高知県の上町・小高坂村の動きは世界で2番目に女性参政権を実現したものでした。

 

もそも、高知で、最初に女性の参政を叫んだのは、楠瀬喜多という一人の婦人でした。彼女は夫、楠瀬実の死去後の、明治11年、区議会議員の選挙で投票できず、「戸主として納税しているのに、女だから選挙権がないというのはおかしい。本来義務と権利は両立するのがものの道理、選挙権がないのなら納税しない」と県に対して講義した。しかし、県には受け入れてもらえず、喜多は内務省に訴えた。これは、婦人参政権運動の始めての実力行使となり、東京日日新聞などにも報道された。

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隣には、このような記念碑もありました。嶽洋社址、河野万寿弥誕生地跡

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H16.06.20高知:地図高知市上町2-1

 

HN:史跡探訪者

婦人参政権碑 に関する記事 

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高知市観光ボランティア・ガイドの人達と、野中婉女宅址碑を訪ねました

2010-12-31 | HN:史跡探訪者

高知市観光ボランティア・ガイドの人達と、野中婉女宅址碑を訪ねました。

国道33号線を朝倉からいの町に向かう途中、JA朝倉駅から数百メートルの道路から少し上がった南側、一段高いところの人家の庭のような場所でした。

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          電車軌道の反対側、電柱に案内標識がありました。

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高知市歴史散歩:女医・お婉(えん)さん土佐史研究家 広谷喜十郎

土佐藩家老の野中兼山は、晩年に追放され、寛文3(1663)年12月に急逝した。翌年、野中家は罪人扱いとなり、家禄・屋敷を没収されて、遺族は幡多郡宿毛の地に幽閉された。
 兼山の娘婉女は、兄弟が次々に死亡して野中家の男子がすべて途絶えるまで、40年間も幽閉生活を続けねばならなかった。赦免後、婉女は土佐郡朝倉村に住み、医を業としながら、少しばかりの扶持(ふち)を受けて細々とした生活を続けていた。

婉女が女医として評判を呼んだとの話は「おえんさまの糸脈」がよく紹介されている。これは、患者の手首に糸を巻いて障子の穴に通し、その端を握って診断するという方法で、その診察によって調合した薬で病気がよく治ったので、世間の評判になったといわれている。
 婉女が診察するのはほとんどが庶民で、役人などは拒絶していた。生活困窮者には無料で診察していた心優しい人でもあった。

 

次のような逸話もある。婉女の住む背後の城山の松の木に、大きなコウノトリが巣をつくっていたが、近所の子どもたちがその卵を取って面白半分に焼いていた。それを見て親鳥が鳴き騒いでいるのに驚き、駆けつけた婉女は、子どもたちに少しばかりの銭を与えて、半分焼けた卵を樹上の巣に返してやった。すると、親鳥はどこからか草を運んできて卵の上にかぶせた。やがてその卵からは無事にひな鳥が生まれた。
 その草に霊異を感じた婉女が、それを原料として薬を調合したところ、諸病によく効いたそうである。

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HN:史跡探訪者

野中婉女宅址碑 に関する記事 

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高知市観光ボランティア・ガイドの人達と、朝倉古墳を訪ねました

2010-12-31 | HN:史跡探訪者

高知市観光ボランティア・ガイドの人達と、朝倉古墳を訪ねました。

案内役の根木さん達が特別研修と言うことで企画をしてくださり、同行させていただきました。

場所が分かり難いので、標識を見落とさないようにしなくては・・・と思いました。 地図はこちらから

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高知大学朝倉古墳調査プロジェクト

このページは、高知市朝倉古墳の測量・石室実測調査の内容をお知らせするページです。調査内容を日誌風に日々公開して参ります。調査予定日は2004年7月31日、8月5~15日です。また下位のページには、「中学生・高校生のために」など新規のページも付け加えていく予定です。
http://souls.cc.kochi-u.ac.jp/?&rf=3786

 

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高知市:文化財情報 史跡 朝倉古墳

朝倉神社本殿の背後の山で神奈備[かんなび]型の山容をとり、高知県史跡でもある赤鬼山の東斜面に本古墳は立地する。明治初年に開墾によって検出された古墳で、当時須恵器[すえき]、馬具、鉄鏃[てつぞく]が出土したと伝えている。円形の墳丘は、その開墾時に削平され現在は横穴式石室が露出して残っている。横穴式石室の残りは良好で、玄室は長さ5.4m、幅2.6m、羨道の長さは3.9m、幅1.1mであるが、羨道の入口が一部カットされているため本来の羨導の長さは4.9mとみるべきであろう。羨道・玄室ともに巨石を使った巨石古墳の1つであり、南国市の小蓮[こはす]古墳・明見[みょうけん]1号古墳と合せて土佐の三大古墳と称している。石室の巨石が美しく積み上げられ保存の価値の十分なるものである。特に石室の築造様式から7世紀中葉までの築造とすべきであろう。

 

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HN:史跡探訪者

朝倉古墳 に関する記事 

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高知市観光ボランティア・ガイドの人達と、朝倉神社(あさくらじんじゃ)を参拝2

2010-12-31 | HN:史跡探訪者

高知市観光ボランティアガイドの人達と、朝倉神社(あさくらじんじゃ)を参拝しました。

案内役の根木さん達が特別研修と言うことで企画をしてくださり、同行させていただきました。

 

朝倉神社(あさくらじんじゃ)
★ 住 所 高知県高知市朝倉丙2100
★ 電 話 088-844-1360
★ 御祭神 天津羽羽神(あまつははがみ)
      天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
★ 御神徳 所願成就

朝倉神社は土佐の二宮と云われ祭神も、一宮土佐神社祭神の后であるとする説があるが不明。中世以来武家の崇敬篤く、山内氏歴代は社領寄進、造営につとめた。本殿は国宝、国の重要文化財に指定されている。7月24日の夏祭りはにぎやかで、朝倉村のころから大切に保管されてきた「絵金」のおどろおどろしい襖絵が公開される。大晦日から元旦にかけて、大勢の参拝客が訪れる。

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           本殿は国宝、国の重要文化財に指定されている

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http://www.genbu.net/data/tosa/asakura_title.htm

江戸期再建の本殿は国指定重要文化財で、外壁は黄色に彩色され、神仙図のような絵が描かれている。
本殿には、金の菊紋と桐紋で、装飾されていたが、神社名鑑にあった橘紋は確認できなかった。
朝倉神社は、朝倉橘廣庭宮とも呼ばれているので、橘である可能性は高いのだが。

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提供: フリー百科事典『ウィキペディア

当社は土佐国二宮とされ、祭神も土佐国一宮である土佐神社祭神の后とする説もあるが、実際のところは不詳。建立時期は不明だが日本書紀の記述から上古とされている。中世から武家の篤い崇敬を受け、土佐山内氏は代々、社領寄進や造営を行っている。明暦3年(1657年)造営の本殿は流造で、国の重要文化財

拝殿・本殿の北側にある赤鬼山(標高93m、原生林である)は古くから当社の御神体とされることが多く、また奈良県の三輪山に擬されて神奈備山とも呼ばれた。昭和25年(1950年)には「神奈備山」として高知県指定史跡となっている。

近辺には旧朝倉城や古墳といったような史跡がみられ、古くから要所として栄えていたようである。戦前には朝倉連隊がおかれていた。

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HN:史跡探訪者

朝倉神社(あさくらじんじゃ) に関する記事 

神社・お寺コーナーin高知

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高知市観光ボランティア・ガイドの人達と、朝倉神社(あさくらじんじゃ)を参拝

2010-12-31 | HN:史跡探訪者

高知市観光ボランティアガイドの人達と、朝倉神社(あさくらじんじゃ)を参拝しました。

案内役の根木さん達が特別研修と言うことで企画をしてくださり、同行させていただきました。

 

朝倉神社(あさくらじんじゃ)
★ 住 所 高知県高知市朝倉丙2100
★ 電 話 088-844-1360
★ 御祭神 天津羽羽神(あまつははがみ)
      天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
★ 御神徳 所願成就

朝倉神社は土佐の二宮と云われ祭神も、一宮土佐神社祭神の后であるとする説があるが不明。中世以来武家の崇敬篤く、山内氏歴代は社領寄進、造営につとめた。本殿は国宝、国の重要文化財に指定されている。7月24日の夏祭りはにぎやかで、朝倉村のころから大切に保管されてきた「絵金」のおどろおどろしい襖絵が公開される。大晦日から元旦にかけて、大勢の参拝客が訪れる。

 

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JR朝倉駅前に集合しました。朝倉駅には「朝倉駅周辺の文化財案内」のりっぱな看板があり、これから行くところの説明をしていただきました。

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           朝倉神社(あさくらじんじゃ)を参拝するのは初めてでした。

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朝倉神社公式ホームページ

宮司挨拶ほか

朝倉神社秋季祭礼あさくらじんじゃしゅうきしゅうれい 

~高知市保護無形民俗文化財(こうちしほごむけいみんぞくぶんかざい)~

 朝倉神社は、土佐一国の総鎮守土佐神社に次いで、土佐の二の宮といわれる歴史の古い神社です。毎年11月23日に行われる秋季祭礼では、約150名の氏子が本仕する神幸のほか、御旅所(ルビ)で行われる棒振りや神相撲、ナンモンデ踊り、神踊り(コオドリ)、浦安の舞が奉納されます。
 これら民俗芸能一式に保存すべき価値があると認められ、平成11年5月15日に高知市保護無形文化財に指定されました。以前は巫女神楽(ミコカグラ)と流鏑馬(ヤブサメ)もありました。なお、ナンモンデ踊りのナンモンデにはいくつかの見解があり、「南無阿弥陀」とする説もあります。

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HN:史跡探訪者

朝倉神社(あさくらじんじゃ) に関する記事 

神社・お寺コーナーin高知

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高知市観光ボランティアの人達と、「遊覧船」に乗りました4

2010-12-31 | HN:史跡探訪者

高知市観光ボランティアの人達と、桂浜・浦戸湾巡りの「高知市観光遊覧船」に乗りました。

高知市九反田の「NPO法人 きらりこうち都市づくり」が高知市観光遊覧船事業をやっています。

ゆったりと湾内を走り、ガイドさんの説明を聞きながら、各自写真を撮ったり、メモしたりの充実した高知市観光ボランティアの人達の自主企画でした。

浦戸湾の海から歴史を尋ねて、見る景色に一同大いに感動して、素晴らしい観光資源になる・・・と話していました。

NPO法人 きらりこうち都市づくり」の高知市観光遊覧船事業パンフからのご紹介です。

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kankoupa7.jpg  NPO法人 きらりこうち都市づくり」の高知市観光遊覧船事業パンフより

 

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桂浜・浦戸湾巡りの「高知市観光遊覧船」 に関する記事 

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高知市観光ボランティアの人達と、「遊覧船」に乗りました3

2010-12-31 | HN:史跡探訪者

高知市観光ボランティアの人達と、桂浜・浦戸湾巡りの「高知市観光遊覧船」に乗りました。

高知市九反田の「NPO法人 きらりこうち都市づくり」が高知市観光遊覧船事業をやっています。

ゆったりと湾内を走り、ガイドさんの説明を聞きながら、各自写真を撮ったり、メモしたりの充実した高知市観光ボランティアの人達の自主企画でした。

浦戸湾の海から歴史を尋ねて、見る景色に一同大いに感動して、素晴らしい観光資源になる・・・と話していました。

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料理旅館 冨久美味に舟を着けてくれて、船から下りて昼食などが出来るそうです。予約をして、活伊勢エビ料理など桂浜で黒潮に育まれた豊富な海の幸をご賞味下さい・・・又迎えにも・・・とのこと。

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         桂浜の堤防は、いつも釣り客でにぎわっています。

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今回は、龍馬の銅像横にやぐらが組まれて、龍馬さんと同じ高さで見る事が出来る期間中だったので、一番良い角度での龍馬像は見る事が出来ませんでした。

やぐらが目に付きますが、やぐらの左に龍馬さんが見えています。

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海から左の竜王岬や桂浜水族館、上には、浦戸城跡に建てられている国民宿舎「桂浜荘」や坂本龍馬記念館なども見えています。

陸から見る風景とは全然違う迫力がありました。

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 NPO法人 きらりこうち都市づくり」の高知市観光遊覧船事業パンフより

 

 

HN:史跡探訪者

桂浜・浦戸湾巡りの「高知市観光遊覧船」 に関する記事 

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高知市観光ボランティアの人達と、「遊覧船」に乗りました2

2010-12-31 | HN:史跡探訪者

高知市観光ボランティアの人達と、桂浜・浦戸湾巡りの「高知市観光遊覧船」に乗りました。

高知市九反田の「NPO法人 きらりこうち都市づくり」が高知市観光遊覧船事業をやっています。

ゆったりと湾内を走り、ガイドさんの説明を聞きながら、各自写真を撮ったり、メモしたりの充実した高知市観光ボランティアの人達の自主企画でした。

浦戸湾の海から歴史を尋ねて、見る景色に一同大いに感動して、素晴らしい観光資源になる・・・と話していました。

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丸山台・・・戦前は得月楼(とくげつろう)別館「比君亭(しくんてい)」の建物がありました。

「板垣死すとも自由は死せず」と名言を口にしたと言われる板垣退助は、明治15年、県内の民権活動家ら約一千人とこの丸山台「比君亭(しくんてい)」で大宴会をおこなったといいます。(高知市観光遊覧船パンフより) 

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袂石(たもといし)・・・高さ4m、根回り15m。1867年(慶応3年9月)龍馬は最後の帰郷時に1000丁のライフル銃を震天丸に積み込み、浦戸湾外で潮待ちしたのち入港してこの場所に停泊。ここから小船に乗り換えて対岸の中条家に入りました。 (高知市観光遊覧船パンフより) 

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 浦戸大橋を海から眺めました。種崎の「千松公園」、種崎海水浴場です。

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HN:史跡探訪者

桂浜・浦戸湾巡りの「高知市観光遊覧船」 に関する記事 

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