植木枝盛 に関する記事
提供: フリー百科事典植木枝盛
植木枝盛(うえきえもり、安政4年1月20日(1857年2月14日) - 明治25年(1892年)1月23日)は、明治時代の自由民権運動の理論的指導者。土佐国土佐郡井口村(現高知県高知市井口町)出身。土佐藩士・植木直枝の子。
1875年、上京し板垣退助の書生となる。1877年、立志社に参加し、立志社建白書を起草。1881年に、私擬憲法の中では最も民主的、急進的な内容とされる『東洋大日本国国憲按』を起草。
高知で県会議員を務めた後、1890年、国会開設にあたり、高知県から第1回衆議院議員総選挙に立候補し当選。1892年、第2回衆議院議員総選挙を前に胃潰瘍の悪化により36歳(数え年)で死去。その突然の死から、毒殺説もある。
著作に『民権自由論』『言論自由論』などがある。
出典:植木枝盛(うえきえもり)= 民権かぞへ歌
1890(明治23)年の第1回衆議院議員選挙に高知3区から当選、第1回定国議会における予算案の議決で政府側に妥協し、東洋のルソーといわれた中江兆民をはじめとする他の民権派から裏切者と非難され、自由党脱退を余儀なくされた。第2回総選挙立候補準備中の1892(明治25)年1月23日、持病の胃腸病が悪化し36歳の若さで東京にて没した。
平易な文体で民権思想を説いた『民権自由論』、世界政府構想を示した『無上政法論』をはじめ、『天賦人権弁』『一局議院論』『東洋之婦女』『植木枝盛日記』など多数の著作や論説を残しているが、「海南新誌」の創刊号巻頭で彼が言った「自由は土佐の山間より出づ」という言葉は、土佐の自由民権運動を表す最も代表的な言葉となる。
高知市観光ボランティア・ガイドの人達と、植木枝盛邸跡を訪ねました
高知市観光ボランティア・ガイドの人達と、植木枝盛の生誕地を訪ねました
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植木枝盛(うえきえもり、安政4年1月20日(1857年2月14日) - 明治25年(1892年)1月23日)は、明治時代の自由民権運動の理論的指導者。土佐国土佐郡井口村(現高知県高知市井口町)出身。土佐藩士・植木直枝の子。
1875年、上京し板垣退助の書生となる。1877年、立志社に参加し、立志社建白書を起草。1881年に、私擬憲法の中では最も民主的、急進的な内容とされる『東洋大日本国国憲按』を起草。
高知で県会議員を務めた後、1890年、国会開設にあたり、高知県から第1回衆議院議員総選挙に立候補し当選。1892年、第2回衆議院議員総選挙を前に胃潰瘍の悪化により36歳(数え年)で死去。その突然の死から、毒殺説もある。
著作に『民権自由論』『言論自由論』などがある。
出典:植木枝盛(うえきえもり)= 民権かぞへ歌
1890(明治23)年の第1回衆議院議員選挙に高知3区から当選、第1回定国議会における予算案の議決で政府側に妥協し、東洋のルソーといわれた中江兆民をはじめとする他の民権派から裏切者と非難され、自由党脱退を余儀なくされた。第2回総選挙立候補準備中の1892(明治25)年1月23日、持病の胃腸病が悪化し36歳の若さで東京にて没した。
平易な文体で民権思想を説いた『民権自由論』、世界政府構想を示した『無上政法論』をはじめ、『天賦人権弁』『一局議院論』『東洋之婦女』『植木枝盛日記』など多数の著作や論説を残しているが、「海南新誌」の創刊号巻頭で彼が言った「自由は土佐の山間より出づ」という言葉は、土佐の自由民権運動を表す最も代表的な言葉となる。
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