新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

十三の兄ちゃん

2024年01月23日 | 日記
〈文学少女 五十鈴れん〉は、いつのまにか〈ハイキング少女〉になってしまった。

しかし彼女が毎週通う摩耶山は、彼女が詩人・画家として敬愛してやまない与謝蕪村ゆかりの山であり、彼女の本質がなにか変わったというわけではない。

彼女は最近、「十三の兄ちゃん」という小説を見せてくれた。平日はパチンコ、土日は競馬に明け暮れたギャンブラー時代の父親がモデルである。

このタイトルは、藤田まことの往年のヒット曲『十三の夜』かららしい。

この曲は、『十三のねえちゃん』といったほうが、通りがいいかもしれない。「極道は歌わぬ」(歌う=自白する)が信条で、歌がきらいな父親も、営業の接待などで、仕方なく歌を歌わねばならない場合もある。『十三の夜』はそんな父親の数少ないレパートリーだった。

大阪の十三は、阪急宝塚線・神戸線・京都線が行き交う、通勤・通学の交通の要衝である。そして、昭和の雰囲気が今も残る盛り場である。今の東京はよく知らないが、大阪に来た当初は、錦糸町に雰囲気が似ているなと思った。

大阪に来た頃の阪急電車の組紐路線図がなつかしい。

梅田駅がターミナルなら、淀川を渡った先にある十三駅はハブのようなものだろうか。

梅田から出発した宝塚線・神戸線は中津経由、京都線は中津をスキップして、十三で合流する。十三で三本の紐がくるくると大きな渦になって、宝塚、神戸、京都と三方向に分かれていくのは、組紐ならではの表現だった。

3つの路線が交わる十三駅の大きさは、梅田に次ぐもので、三宮や河原町より大きかった。あの組紐路線図は、2003年の洛西口駅の開業を契機にしたリニューアルでなくなってしまったらしい。




十三の地名の由来は、「難波宮(なにわのみや)」があったころの古代の条里制の名残という説がある。

たしかに淀川区には「十八条」という地名もある。西成郡の飛田を一条とした場合、十三が十三条、十八条が十八条に当たるという。

しかし、この説は疑わしい。

飛田から十三まで、徒歩でルート検索したら、9.9kmあった。条里制のはずなのに、直線ルートでは移動できない。斜め、斜めに進む。十八条は、十三からさらに北東に3.5kmは歩く。

飛田から十八条までは直線距離でも10km以上はあるだろう。平安京でさえ東西約4.5km,南北約5.2kmである。飛鳥時代の前期難波宮、奈良時代の後期難波宮が、平安京より広大な城市だったとは考えにくい。第一、十八条のあたりは、江戸期の地図を見ても淀川の中洲の八十島のひとつにすぎない。飛鳥時代や奈良時代には、茅渟(ちぬ)の海の水底ではなかったか。

やはり、十三の地名の由来は、米朝師匠も書いていたとおり、淀川の上流から十三番目の渡しがあったからだというのが、無難な線だろう。

十三=条里制由来説を取り上げる人に、大阪には「九条」もあるという人を見かけた。しかし、九条の由来は、林羅山が「衢壌(くじょう)島」と命名したのが由来で、江戸期の埋立地だから、古代条里制には全く関係ない。

あれ、何のはなしだっけ?

そうそう、この記事を書いた理由は、『十三の夜』を聴いた愛娘が、「どうして京都線は出てこないの?」と素朴な質問を発したからだった。


十三には京都線も千里線も通っている。

しかし宝塚線の梅田と中津、庄内と三国は出てくるのに、「崇禅寺」「南方」も、「天六(天神橋筋六丁目)」「柴島(くにじま)」も出てこない。

千里線が出てこないのは仕方ない。梅田発北千里行は十三を通過するが、地下鉄堺筋線直通の本来の北千里線は十三は通過しないからだ。柴島の次は淡路である。

梅田と十三は宝塚線・神戸線・京都線のすべての電車が停車する。京都線は中津をスルー。『十三の夜』では、なぜ京都線は完全に無視されてしまったのだろうか。

大阪にお住まい、あるいは大阪に詳しい人ならご存知のように、南方は十三に引けを取らない歓楽街である。

もしかしたら「十三のねぇちゃん」にアプローチ中の歌の主人公には、ほかに気になる「南方のねぇちゃん」もいたのかもしれないということである。阪急電車で移動中、ふたりのおねえちゃんが鉢合わせになったら、めんどうなことになる。

南方(みなみかた)は、十三より全国的な認知度は低いかな。新幹線停車駅の新大阪駅から地下鉄御堂筋線でとなり駅、さらに徒歩圏です。今は十三より栄えているかもしれませんね。

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