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新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃん姉妹とお父さんの日々。

東京夢の島のはなしから ある大阪万博論

2025年05月24日 | 大阪
東京の夢の島って、知っていますか? 


アラ還以上の年齢の人で、知らない人はいないでしょう。逆に若い人は知らなっかったりするかも?


私は地方出身者ですが、『帰ってきたウルトラマン』のプラスチック怪獣・ゴキネズラ、ショーケンこと萩原健一と水谷豊の『傷だらけの天使』、筒井康隆と馬場のぼるの絵本『かいじゅうゴミイ』などを通じて、東京の夢の島のことは知っていました。


それでは、東京の夢の島に行ったことがありますか?


私はあります。といっても、35年もむかしのはなし。当時私は駆け出しのフリーライターで、夢の島熱帯植物館に取材に出かけたのでした。


国鉄(JR? なにそれ?)東西線か、営団地下鉄有楽町線かは忘れましたが、最寄り駅の新木場駅で下車しました。初めて降りる駅でした。調べたらそれも当然で、有楽町線新木場駅は1988年、東西線新木場駅は1990年開設です。1969年の木場の移転から約20年、鉄道駅のない鉄道空区地帯でした。


「新木場」というくらいですから、貯木施設があります。今は丸太のかたちで木材が入ってくることは少ないので、半ば遊休施設化しているようですが。


1969年まで、木場は江東区の深川にありました。大島渚監督の『青春残酷物語』(1960年)で、桑野みゆきが、男に平手打ちされ、海に突き落とされ、丸太のうえでまぐわり合うシーンは鮮烈でしたが、あれが深川の木場ですね。埋め立てにより、深川が内陸になってしまうと、木場は荒川河口の現在地に移転したのでした。


夢の島はその前年、1968年にゴミ埋立地としての役目を終えました(1967年とした記事もあります)。しかし、夢の島熱帯植物館がオープンする1988年までは、荒涼とした荒れ地だったのではないでしょうか。


夢の島が出てくる『傷だらけの天使』のラストシーンが気になって、最終回だけアマプラで観てしまいました。50年ぶり近くです。このドラマ、初期はやたら女性のヌードが出くるので、当時としても問題になったようです。最終回もヌードグラビアは、物語の進行上欠かせない(?)アイテムでした。そんなドラマを、いたいけな年齢の私が観ていたのは、母がショーケンのファンだったからです。


『傷だらけの天使』は1975年作品。ラストシーンの夢の島は、木くずやら何やら散らばっている土くれの荒れ地で、紙くずが風に舞っています(あれはセットだろうな。風雨にさらされているはずのリアルの紙くずは、雨で繊維が溶解してブロック状になり、あんなにきれいに飛びません)。あの荒涼とした風景には、広重の傑作『深川州崎十万坪』を思い出しました。



冬の荒れ野の深川十万坪の海辺にぷかぷか浮かぶ棺桶を空高くから鳶が狙っているというシュールな絵でした。この絵との因果関係は不明ですが、ショーケンも、ドラム缶に入れた弟分の水谷豊の死体をリヤカーで運んで夢の島まで葬りに行きます。死体は当時たくさんいただろう、野犬やネズミ、鳶やカラス、ハエやらなにやらにすぐに食い尽くされてしまったでしょうね。


ゴミの島に「夢の島」と名付けるネーミングセンスは、外国人SF作家の興味をいたく惹いたようです。『マトリックス』にインスパイアを与えた、サイバーパンクの生みの親、ウィリアム・ギブスンの作品には、太平洋に向かって「新夢の島」が増殖して 日本の領土と領海が拡大中だというシュールで荒唐無稽な描写がありました。。


しかし、「夢の島」にも「東京のハワイ」と呼ばれた、ほんとうに「夢の島」らしかった時代があったんですよ。戦前は飛行場建設の予定地でしたが、計画は頓挫し、広大な埋立地だけが残りました。そして日本の敗戦から2年後の1947年、使い道が未定だった14号地にオープンした海水浴場に名付けられた名前が「夢の島海水浴場」だったのです。当時の東京湾は、高度経済成長による水質汚染が起こる前で、とてもきれい海だったそうです。


ビーチにはヤシの木が植えられ、「東京のハワイ」として家族連れなどで賑わったようです。しかし、たび重なる台風被害や財政難により、たった3年で閉鎖されてしまいます。その後、巨大遊園地を作る計画などもありましたが頓挫、7年間放置されました。そして、悲しいゴミ埋立地としての歴史が始まったのでした。


さて、35年前のはなしに戻ります。

新木場駅で降りて地上に出ると(たしか東西線も地下鉄でした)、道路にはトラックやトレーラーがバンバン行き交っていました。排気ガスが強烈でした。1993年には東京湾岸線は首都高速11号台場線(レインボーブリッジ)と接続して、1994年には大黒JCT - 空港中央出入口が開通しましたから、あの風景も過去のものでしょうか。


夢の島公園は、森に囲まれていました。中に一歩入ると、どこまでも広がる一面の芝馬の広場でした。驚いたことに、野ウサギが飛び出してきていて、どこかに跳ねていきました。これがあの夢の島なのかと、心底驚いたものです。


しかし、夢の島は、あくまで夢の島でした。

夢の島熱帯植物館のスタッフの方のはなしで、いまも忘れがたいのは、夢の島の中では、ゴミの埋め立てが終わって20数年経つというのにメタンが発生し続けているということ。ゴミ焼却処理施設は、そのメタンガスを燃料に利用しており、施設の排熱を熱帯植物館の温室に利用しているということでした。


いまはマリーナができ、クルージングも釣りもバーベキューもできて、ようやく「東京のハワイ」にラセン的に回帰しつつある時代なのかなと思います。しかし、ゴミ埋め立て終了から60年近い歳月が経過したいまも、ゴミ焼却処理施設と熱帯植物館とスポーツ・アリーナ施設があるだけです。


やはり地盤が軟弱だからだと思うのです。しかし地盤改良工事を行いたくても、ゴミを掘り返すことになるから、タワーマンションを建てたくても、そうはうまくいかないのでしょうね。生ゴミはさすがに土に還っているでしょうが、ダイオキシンは残留していて、下手に掘り返すと周囲に撒き散らす可能性があります。そのほかにも、プラスチックやら何やら不燃ごみやらペットの死骸やら人間やら、やばいものも埋まっていそうです。


江戸時代の埋め立てもゴミを投棄したようですが、人が住めるようになるのには、100年くらい時間がかかっていると思うのですよ。まあ、夢の島は無理に開発しようとしたりせず、いまのままでいいんじゃないですか。


「ゆめのしま」とひらがなで検索すると、大阪万博会場の「夢洲」(ゆめしま)がヒットします。夢洲でメタンガスが発生していることは、すでに報道のとおりですっyが。そんなことは大阪市建設局も大阪府の港湾局も知っていたはずです。まして、ゴミの埋め立てが終わってまだ10年足らずです。東京の夢の島という前例がありながら、なんでこんな人外魔境(!)に万博会場を誘致することになってしまったのか。

前置きが長くなってしまいました。
この話は、まだ続きます。


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