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司馬の碑文について

2023年09月15日 | 作家論・文学論
『大阪城公園駅』の碑文について、触れました。


最初にお断りしておくと、司馬は、この碑文のなかで、良いことも言っているんですよ。

「この城は落城することによって歴史を旋回させてきた」という主旨の指摘は、重要です。

この碑文に「感動した」とおっしゃる方もいます。


おそらく、次の結びを読んでのことではないかと思われます。

 悲しみは、この街に似合わない。

 ただ、思うべきである。とくに春、この駅に立ち、風に乗る万緑の芽の香に包まれるとき、ひそかに、石垣をとりまく樹々の発しつづける多重な信号を感應すべきであろう。その感應があるかぎり、この駅に立つひとびとはすでに祝われてある。日日のいのち満ち、誤りあることが、決してない。 


「祝われてある」は、大阪弁の「お父さんいま寝たあるとこや」「たけのこ、おいしうに炊けたあるわ」の「たある」(標準語では「〜ている」)を思わせ、司馬も大阪のおっちゃんやってんなと思わせる箇所です。

ただ、なぜ「感應」なんて漢語を、わざわざ旧字体で使うのか。

また、結びの「日日のいのち満ち、誤りあることが、決してない」の「誤り」ってなんなのか?

直前に、空襲で大阪城の大阪砲兵工廠が灰燼に帰したことが書かれているので、二度と戦争の過ちを繰り返さないということ?

と、何をいいたいんだか、よくわからないのですよ。

遠足や修学旅行の小中学生も見る可能性もあるわけだから、もう少しわかりやすく書くことはできなかったのでしょうか。

もちろん、わかりやすいからいいとは限りません。しかし、だれかがこの碑文を「詩」といっていましたが、独りよがりで、悪い意味で「ポエム」になっています。

大阪城築城以前よりはるか昔の先史時代、四天王寺創建と難波宮の時代、石山本願寺の時代、豊臣大坂城の時代、徳川大坂城の時代、帝国陸軍の大阪鎮台と第四師団の時代と、この城が歩んだ数奇な歴史を語ろうとしているわけですが、こうした解説がないと、なにをいっているのかさえ、意味不明でしょう。


 八十 [やそ]の洲 [しま]

 それがいまの大阪の市街であることを。冬の日、この駅から職場へいそぐ赤いポシェットの乙女らの心にふとかすめるに違いない。創世の若さ、なんと年老いざる土 [くに]であることか。

これにはひとこと。

「そんな奴、おらへんやろ〜」(大木こだま師匠ボイスで)

と、こんな感じです。

難波宮が造営され、大阪城や四天王寺が建つ上町台地を除けば、いまの大阪市街の大半は海の底でした。大阪城のある中央区の本町駅は、海抜1メートルしかありません。上町台地の西は大阪湾、東は河内湾で、岬のように伸びていたわけですね。

俗っぽくしないために、あえて固有名詞や地名を出さない、具体的に書かないというのは、文章の技術としてあります。しかしそれにも限度があります。

8世紀後半に廃都になった難波宮から、石山本願寺が創建された15世紀末に一挙に700年もジャンプしてしまいます。

さらに、石山本願寺の寺内町が成立して、「この台上にはじめてささやかな賑わいができた」と書くのです。

これは誤りです。ここは、ある研究者が司馬のノモンハン事件に関するエッセイについて指摘した、「知的怠慢・知的不誠実」と同種の問題を感じます。

蓮如が石山本願寺を建造する15世紀末には、四天王寺は「天王寺は七千間在所」といわれた門前町が発展していました。1間×1間=1坪ですから、7000坪、東京ドーム一個分ですね。これは中世にしては大規模だったと思います。

「大阪城」の北西にあたる「大川」の「天満橋」、「天神橋」付近は、中世には「渡辺津」と呼ばれる重要な港であり、「熊野街道」の起点でした。

だから、石山本願寺ができる前の大阪城周辺にも、それなりのにぎわいがあったと考えるべきでしょう。

逆にいえば、渡辺津に近く、天然の要害の地でもある場所だからこそ、蓮如は堂宇を築いたのではなかったでしょうか。第一、司馬遼太郎は、『義経』を書いたことを忘れてしまったのでしょうか。義経が屋島の戦いに出陣したのは渡辺津で、軍船を揃えたのは渡辺津を拠点にした渡辺党です。

天神祭の鉾流神事は、都では検非違使を務め、キヨメの神事にも関わった渡辺党の歴史とも絡んでいます。そもそも大阪天満宮は、難波宮の創建とともに西北の守護神として創建された大将軍社が起源です。

しかし、中世に興味のない司馬は、天神祭ゆかりの大阪天満宮や渡辺党さえ無視してしまうのです。

では、司馬が興味のあった近世大阪の記述はどうかといえば、大坂が幕藩体制のもとで全国各地から物資が集まる中央市場だったこと、そこでは世界初めての先物取引市場も成立していたという予備知識がないと、何がいいたいのか不明なことばの羅列になっています。「人文科学としか言いようのない思想」は、司馬がやたら持ち上げていた、無鬼論(無神論/唯物論)を唱えた山片蟠桃ではないかと想像されますが、蟠桃ひとりに近世大坂の思想・学問を代表させるのは無理があります。

第二次大戦の敗戦に触れた「共同妄想」は、吉本隆明の「共同幻想論」を意識した発言かもしれませんね。

しかし「悲しみは、この街に似合わない」が唐突で、ぶっきらぼうに感じます。侵略戦争への反省も、死者への悼みも、戦後復興に努めた人びとへの敬意もない。ここは余韻や間をもたせるべきでしょう。

当時の国鉄も、どうして司馬なんかに、碑文を依頼しちゃったんだろう。いや、国鉄の依頼ではなく、大阪城400周年記念イベントを開催した(大阪城公園駅の開設もこのイベントに合わせたものでした)、松下幸之助が初代会長を務めた当時の大阪21世紀協会の差金だったのかもしれませんが。

大岡昇平は、司馬について「時々記述について、典拠を示してほしい、と思うことがある」「面白い資料だけ渡り歩いているのではないか、という危惧にとらえられる」と苦言を呈したそうですが(ウィキペディアより)、これは少し歴史を勉強した人なら、だれでも感じる危惧です。

司馬を、文明史家のように持ち上げてきた大阪の学界・財界、ファンの責任は大きなものがあります。それが結果として、「いまだけカネだけ自分だけ」の「維新」なるファッショ集団の跳梁を招いてしまいました。そろそろ司馬を過去の作家にしていかねばならないと思うのです。




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