新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

動画としての蕪村句の世界 逸翁美術館『蕪村 時を旅する』鑑賞メモ(2)

2022年06月17日 | 作家論・文学論

 蕪村の話は、もう少し続きます。

 

今回は俳句について。

 

今回の展覧会には「相伝証文」という蕪村の書簡が出展されていた(全期)。

 

「自分は蕪玉(未詳)、月渓(呉春)、江森月居の三人の弟子に書・画・俳諧を伝えることができて、思い残すことはない」

 

と、記されているらしい。 

 

書・画・俳諧のすべてで名作をものにした蕪村は、まさに天才だった。

 

 20年前には近寄りがたい、取っ付きにくい人だった。

 

いまだって、遠い星のような存在であることには変わらない。しかし、仕事を通じて、作家、画家、学者、芸能者、各界の一流の方々にお目にかかり、ご交誼いただいたことが、少し気分を軽くした。

 

20年前は、まさか自分が源氏物語の本を書いたり、浮世絵絵画の研究をしたり、ヴェルレーヌを翻訳したりすることになるとは思わなかった。

 

自分でやってみて、初めてむずかしさがわかり、天才たちの偉業がわかる。

自分の無力さ、無能さを痛感しながらも、天才たちだって一人の人間だったということもわかる。

 

しかしこの展覧会で蕪村の句・書・画に触れるにつけ、蕪村の俳諧を、子規のように「客観写生」のお手本に切り縮めるのはむずかしいし、つまらないとも思った。

 

前期展に出展されていた、山で石を切り出す石工たちの絵「移石動雲根」図には、

 

「石工(いしきり)の鑿(のみ)冷し置く清水かな」

 

という句を思い出し、『白雪姫』の「ハイ・ホー」の歌を思い重ね、郷里の鋸山の採石場跡を思い出した。

 

ちなみに、子規が鋸山を訪ねたころはまだ採石をやっていたはずだが、海と空と山を見て観光客のように喜んでいただけだ。

 

「百姓の生きて働く暑さかな」

 

子規が病人だったことにはこころから同情する。

 

この蕪村の句は、明日泊まりで会いに行く農業の仲間たちも共感してくれるはずだ。作物が育つ夏は、「敵」である草が伸び、虫も増える時期でもある。生きること、働くこと、暑いことは一つのことであり、人間も生き物たちも一緒だ。「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」なんて、この句に比べたら、補助金狙いの産業観光ポスターの出来の悪いキャッチコピーにすぎない。

 

もちろん子規は偉大だった。蕪村を再発見しただけでも、その功績は評価して余りある。

 

この子規のレガシーを簒奪した「家元俳句」の腐敗と堕落は、子規のように病人でもないくせに「生きる」ことからも「働く」ことからも遠く離れて、花鳥諷詠だの客観写生だの、人間が生き物であることも忘れて、冷暖房完備の句会会場で「暑い」「寒い」と偉そうに自然現象に因縁をつけているだけだ。とりあえず、これ以上駄句を詠んで、二酸化炭素を増やすのはやめてほしい。グレタさんさんに謝れ。

 

トホホギス派はどうでもよろしい。

 

蕪村の俳句は「絵画的」といわれるが、それもまた一面的な理解であるとも思った。

 

絵画的、ビジュアル的であることを否定したいのではなく、逆で、まだ蕪村の時代にはカメラもビデオもかったはずなのに、「動画的」なのだ。

 

世界中のアーティストが「Great Wave」と呼んでリスペクトする北斎の「神奈川沖波裏」は、「時間よ止まれ」とばかりに、荒れ狂う大波の動きを高速シャッターで切り取ってみせた。

 

しかし蕪村の句はiPhoneカメラのバーストモードのように、高速連写で動画のようになっている。

 

マイクもONになっているようだ。

 

この展覧会で見た蕪村の句は、名作ぞろいだった。

 

「うくひすのあちこちとするや小家かち」(鶯のあちこちとするや小家勝ち)には、小さな村を飛び回るウグイスの鳴き声も、村人たちの生活音まで聞こえてきそうだ。

 

「ほたむ散てかさなりぬ二三片」(牡丹散りて重なりぬ二三片)も、牡丹の花びらが散って重なりゆくまでを定点撮影した画像を、高速で再生しているような興趣がある。

 

「すゝしさや鐘を離るゝ鐘の声」(涼しさや鐘を離るる鐘の声)には、つくづく感心した。

 

音の波動エネルギーが生まれて伝播していく瞬間を、自分自身の肉と骨を共鳴板にして表現した傑作である。映画の4DXアトラクションのようなおもしろさがこの句にはある。

 

最後は、この蕪村展のトリを飾る蕪村詠・呉春画『白梅図』について。

 

この絵を描いた呉春の家も池田の呉服(くれは)の里にあったんだって、れんちゃん。

 

 

おまけ。以前紹介した、蕪村の門人で、「小蕪村」といわれた召波の句。

憂ことを 海月に語る 海鼠哉 (召波)

うきことを くらげにかたる なまこかな  

 

「くらげちゃんは、何でうくのん」  

 

「水分ですからー」  

 

蒸し暑くなってきましたね。リンク先で、涼し気なクラゲ画像に癒やされてください。

 

くらげに語る

https://blog.goo.ne.jp/kuro_mac/e/e2c671ca57a73c660f499f7b401ac5b4 

 



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2 コメント

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Unknown (白鑞金)
2022-06-17 11:38:41
やあやあ、こんにちは!

いつぞやの、たまたまお知り合いになった頃の“くろまっく節”が横溢していてとっても楽しいです。

>「ハイ・ホー」の歌

村上春樹「海辺のカフカ」を思い出すのはなぜだろう、と思いました。

>「家元俳句」

もう、ね。祇園で生まれ育ったので言いたいことは腹一杯あっても口に出して言えないのが辛いです。観光地の商売で食わせてもらってましたので。

幾つか複数の俳句の会に参加したこともあるのですが、もろに筒井康隆「大いなる助走」の世界です。疲れますよ。ある意味“タフ”じゃないとやっていけないしお金もかかるのでやめました。あははーーー。

>クラゲ画像

いいですね。癒しというより何だか「はっ!」と目の覚めるような画像。

卯の花に はつと眼ばゆき 寝起哉 (杉風)

うのはなに はっとまばゆき ねおきかな

という感じですかね。もともと「気管支喘息」の基礎疾患がある身にはとてもありがたいです。ちなみにプルーストもそうですが。

でも何よりなのは、ひさびさの“くろまっく節”が聞けたことです。たまには環境を変えてみるのも悪くないかも。

ではでは。
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Unknown (kuro_mac)
2022-06-17 12:41:57
コメントありがとうございます。

くろまっく節ですかー。

うちの娘の友人たちのことばを借りると、パリコレ的にむずかしくなりました(ポリコレと間違えている)。

このれんちゃんシリーズでも、「笑い転げた」という感想をいただいたこともありましたから、ときどき炸裂しているのでしょう(そして娘に叱られる)。

虚子は嫌いでしたが、虚子を徹底的に批判する方のサイトを読んで以来、打倒・粉砕の対象になっています。

ただし私もご隠居がトホホギス派の俳句詠みなので、リアルでは控えています。

ただし、本家の稲畑家はよく批判していましたね。
あの連中はお金を全部独り占めして、若い人に還元しないと。

しかし句会って、お金かかりそうだし、人付き合いも大変そうですよね、あれ。
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