くに楽 2

"日々是好日" ならいいのにね

日々(ひび)徒然(つれづれ) 第三十六話

2020-09-02 17:46:10 | はらだおさむ氏コーナー

世の移ろい

    

 いまから二百年ほどむかし 天保年間のおはなしを先ずご紹介したい。

 

 「この時代は気象上からみれば、小氷期にあたっていた。

  降水は雨でなく、雪となることが比較的多かった」

 

 わたしの小文「“雪の殿様”と天保上知令」はこの一句ではじまる。

 小氷期とは・・・。

 グーグルによると、「期間中の気温低下が一度C未満に留まる」とあり、「北半球における弱冷期」と解説されている。そして以下のような説明が付加されている。

 「日本においても東日本を中心にたびたび飢饉が発生し、これを原因とする農村での一揆の頻発は、幕藩体制の崩壊の一因となった」

 

 わたしの小文の主人公・土井利位(どい・としつら)はいまの地名では愛知県刈谷市にあった二万三千石の刈谷藩主の四男に生まれ、二十五歳のとき本家筋の八万石古河藩(茨城県古河市)の養子となり、十年後養父土井大炊守(おおいのかみ)の死去によりその跡を継いだ。

 天保八年(一八三七)二月 もと大坂東町奉行所与力大塩平八郎が蜂起したとき、土井利位は大坂城代の任にあり、部下の探索方が四十日後に大塩父子の潜伏先を包囲、自爆に追い込んだ。

 土井利位は京都所司代を経て二年後に老中に昇進する。

 かれが雪の観察をいつから始めたのかは定かではないが、天保三年には私家本『雪華図説』を刊行しており、大坂、京都在勤中も「雪が降りそうな寒い夜舞い落ちる雪を黒布で受け、吐息がかからぬよう注意して顕微鏡で観察」し続けていた。

 上方の雪華を描いた『続雪華図説』は、老中就任の翌天保十一年に刊行されている。

 

 世に言う「天保の改革」は水野忠邦の首導によるものとされているが、最後に彼の足を引っ張ったのは、“雪の殿様” 土井利位である。

 天保一四年六月に発令、九月撤廃の「上知令(あげちれい)がそれである。

 「江戸・大坂近傍の知行地を幕府に返上させる政策。関係する領主・領民の反対で撤廃」(広辞苑電子版)。

 忠邦は発令にあたって、先ず幕閣の意思統一をはかり、当然老中・土井利位などの賛同も取り付けた上、将軍へ所領転封の嘆願~形式的却下~再嘆願~許容・下命を受理している。  

 “雪の殿様”は上方の所領二万四千石の内、飛地の半数を「上知(返却)」することになったが、納まらないのは年貢の二年分も借金して「先納」している村方の庄屋や百姓代たち。「御永領」と信じていたから、家や田畑を抵当にやり繰りして「先納」に応じていた。「上知」以前に、証文銀高の返済を「嘆願」するのは当然である。

 無い袖を振れぬ“雪の殿様”は「上知」反対派に与し、撤廃に追い込んだ。

 水野忠邦は失脚、利位は老中首座に就いたが、その任にあらず将軍家慶に疎んぜられ僅々十カ月で退任、国元に帰着して隠居、五年後に病死した。

 

 ダメ政治家であったが、かれの遺した『雪華図説』は着物や印籠、刀の鞘の図案に取り入れられ、“大炊(おおい)模様とも呼ばれ、その美人画や浮世絵がさらにムードを盛り上げたという。

 “天は二物を与えず”、である。

  彼の死後百数十年のいま、彼が居城した茨城県西端の古河市のいたるところに、“雪の華”が舞い、元・日光街道の宿場町のいまを染め出している。

 

 話題を変えて、二〇一九年一〇月一日の中国北京の天安門広場。

 国慶節七〇周年記念祝賀の雛壇に、習近平国家主席を挟んで右に江沢民元主席、左に胡錦涛前主席の姿があった。

 雲ひとつない紺碧の天空が広がっていた、今年の七〇周年の式典。

 

 江沢民元主席の建国五〇周年祭典を控えた週日前、わたしは北京賓館新館で開催されていた国際シンポに参加していた。

 その休憩時にテラスに出て驚いた。

 スモッグで故宮はもちろんのこと、道を挟んだその先も見えない。

 地方から参加の中国の人たちも驚きを隠せない、地元の方の説明では旧式車両の排気ガスが原因、政府はその対策を講じているが新式車両に切り替えを完了するには数年はかかるだろう、とのこと。

 もちろん式典の当日はロケットで晴天を演出、閲兵行進はよどみなく挙行された。

 

 胡錦涛前主席のときは北京五輪に上海万博、そして国慶節六〇周年とロケットによる青空演出の機会は多かったが、それでも二〇一〇年九月末上海万博参観時に、会場の芝生に横たわりながら夕焼に染まる雲の流れを見ることができた。

 そして、今年は正真正銘の北京の秋の紺碧の青空の下、国慶節は挙行された。

 

この数年間 日本の四季は崩れ、春秋の風物が姿を消していく。

 九月末 国連でスウェーデンの16歳の環境保護活動家グレタ・トヮーベルさんが、まなじりを決っして「私たちを裏切った」とその責任を追及した。

 世界各地でも十万人を超える若者たちが、「私たちにも未来がある」とデモ行進をした。

 

 香港では中国製の黒マスクで抗議する青年や市民を逮捕するために、マスク禁止令まで特権で決めた林鄭月娥長官とそれを支持する勢力。

 常識で考えればこの騒ぎの発端は「逃亡犯条例」の起案、香港市民の延べ半分がこの条例の撤廃を求め、最終的にはそれを認めさせた。

 本文の前半部分を読み返して欲しい。

 「天保の改革」を主導した水野忠邦でさえ、上申した「上知令」が失敗に帰すとその責任を取らされている。

 政治の世界はその黒白を明らかにできないようであれば、破滅に進む。

 

 香港のことは、我が身にもあてはまる。

 「ひとは死んでなにを残すか」、古人の教えは厳しい。

           (二〇一九年一〇月一四日 記)



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