くに楽 2

"日々是好日" ならいいのにね

日々(ひび)徒然(つれづれ) 第一話

2020-07-29 19:15:24 | はらだおさむ氏コーナー

信長 焰上

♪夏がくれば 思い出す・・・♪と口ずさむと、わたしには、♪・・・はるかな尾瀬 遠い空♪(「夏の思い出」)の風景ではない、「墨でぬりつぶした」あの教科書のことが頭に浮かぶ。

 

 1945年の8月は、暑い夏であった。

 疎開先で迎えた国民学校五年生のわたしは、農繁期休暇(農作業手伝い)の振替による授業再開(二学期の始業)で、20日過ぎに登校すると、先生から教科書の“国産み”神話のページなどを墨で塗りつぶすように言われた。

 後年病床にあったとき、それはわたしの“しみ”のひとつとして、作詩のワンフレーズになったが、敗戦直後のこのできごとは、「教科書の歴史」をそのまま読み通せない習性を、植えつけてしまうことになったのかもしれない。

 新制中学(一期生)では「国のあゆみ」という薄っぺらな教科書があったが、なにひとつ頭に残っていない。むしろ静岡の登呂遺跡見学や大峰山登山、奈良の寺社めぐりなどは、いまでも鮮明に記憶している。

高一の夏、炎天下の発掘調査に誘われて参加したが、滴る汗に眼鏡も曇ってギブアップ。図書室で手にした羽仁五郎の『日本人民の歴史』に、刮眼した思い出がある。

 

古文書を勉強しはじめてから、10年が過ぎた。

根が飽き性で、すこし読めるようになると、ほかのことに関心が移る。

誘われて、日本史(中世)の読書会に参加して三年ほどになる。

網野善彦『日本中世の百姓と職能民』(平凡社)はむつかしかったが、先達のリードでそれなりに興味が湧いた。

ついでとりあげられたテキストは、天野忠幸『戦国期三好政権の研究』(清文堂出版)。戦国前期の、昨日の敵は今日の友といえるか、混沌とした合戦における主導権争いの、その政治経済史的観点の学術書であったが、これはのっけから拒絶反応。辛うじて席についていたが、わたしの貧弱な知識のなかで、この戦乱の時代、天皇は歴史の表面から消えていたと思いきや、著述の正親町(おおぎまち)天皇(第106代)が、わたしの頭に食い込んできた。

 

弘治三年(1557)、後奈良天皇の崩御に伴って践祚(就任)した正親町天皇であったが、財政難のため、即位の礼が挙げられたのは三年後のことであった(西国の雄、毛利元就の献金などによる)。天皇には、元号の制定(改元)・官位の授与・書状(綸旨)の発給・暦(太陰暦)の改正などの職務・権限があり、戦国大名は上京し、位階(栄典)の授与を享けることでその勢威を明らかにしようとしていた。

信長は、どうであったのか。

尾張時代 かれは上総介と名乗っていたが、これは私称。

早くから「天下布武」を唱え、上京を繰りかえしていた信長は、足利義昭を傀儡に「室町幕府」を再興、朝廷にも財政支援する。「政敵」対抗には天皇の勅旨を求めて、石山本願寺などを排除、意に従わない義昭をのちに追放、天皇に「征夷大将軍」の官名を求めるが拒否される(まだ関東の武田や北条を平伏していない)。

天正10年(1582)5月 朝廷は信長に三職(征夷大将軍・太政大臣・関白)を推認するが、信長は天皇の安土城行啓時に返すると。暗に正親町天皇の譲位をも求めていた信長の態度に、朝廷側(太政大臣近衛前久など)は憮然とする。

6月2日の「本能寺の変」の直接の下手人は、明智光秀であるが、信長に追放された義昭の「鞆幕府」とそれに繋がる毛利輝元、光秀と同盟の長宗我部元親、光秀の筆頭家老・斎藤利三の暗躍など、「信長包囲網」が形成されていた(藤田達生『謎とき本能寺の変』講談社現代新書)。

貧すといえども、朝廷の権威が朝野に存していたのである。

 

秀吉は光秀軍を一蹴、のちに捕らえた斎藤利三を六条河原で磔刑に処し、その威を天下に示す。

天正16年4月 後陽成天皇(正親町天皇の孫)は、秀吉(太政大臣)の築いた聚楽第を行幸する。「本能寺の変」後、わずか六年で天下を平定、すべての領主が秀吉に臣従していた。

 

二年後の文禄2年 戦国後期の31年の長き亘り在位されていた正親町天皇が崩御された、没年75歳であった。

 

夜も長くなるこれからの季節 「歴史を反芻する」ことも、また一興であろう。

 

              (2016年9月8日 記)



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