くに楽 2

"日々是好日" ならいいのにね

日々(ひび)徒然(つれづれ) 第二十八話

2019-04-14 14:52:07 | はらだおさむ氏コーナー

あのとき・・・

 

 平成が間もなく幕を閉じる。

 年初来その追想なり思い出がテレビやメディア各紙で報じられてきているが、わたしより七カ月早く生を享けられた現天皇を同世代の目から見れば、その生活環境は大いに異なるとはいえ、それらの報道にはなにか食い足りないものを感じる。

 一九四五年八月十五日の敗戦の「詔勅」で、「教科書を墨で塗りつぶさされたか」どうかはさておき、その“事実”を少年の心で受け止めとめて歴史は展開した。それは、一言でいえば、「戦争と平和」ということへの“思い”であったといえる。

 

 加藤陽子著『昭和天皇と戦争の世紀』(講談社学術文庫、20187月刊)の

補章「象徴天皇の昭和・平成」につぎのような紹介がある。

 ・・・皇太子が東京に戻れたのは、同年(一九四五)十一月七日のことで、帰京した

 皇太子の目に映じたのは、東京の焼け野原であった。八二年の記者会見で、この時の

 ことを次のように回想している。

    東京に戻ってきたとき、まず、びっくりしたのは、何もないということ

    ですね。建物が全然ない。原宿の駅に。周りに何もなかった。これが

    いちばん印象に残っています。        (同書P428)

 

  加藤先生はまた、つぎの「おことば」を紹介されている。

    終戦以来既に七〇年、戦争による荒廃からの復興、発展に向け払わ

れた国民のたゆみない努力と、平和の存続を切望する国民の意識に

支えられ、我が国は今日の平和と繁栄を築いてきました。戦後という、

この長い期間における国民の尊い歩みに思いを致すとき、感慨は誠に

尽きることがありません。

  (二〇一五年八月十五日 全国戦没者追悼式、同書P426)

 

  今回の「ご退位」に関連して、メディアで全く触れられていないのが九二

 年十月の「天皇訪中」(「日中国交正常化二十周年記念」)であるが、それを述べる前に改革開放後の中国のことを少しおさらいしておきたい。

  七六年九月毛主席逝去、同十月「四人組」逮捕をうけて翌七七年以降鄧小  

 平のリーダーシップによる「改革開放」の道を歩み始める。七八年八月「日

 中平和友好条約締結」、同十月鄧小平副総理来日、十一月中共11期3中総「現代化建設の戦略方針」決定、七九年一月米中国交正常化、「窓を開ければ蠅が・・・」など「網戸論争」を経て八〇年五月 深圳など「四つの経済特区設置」が決定された。

  わたしは八二年六月「大阪・上海経済交流協会」を設立、主に上海との経済交流を開始、八四年一月 日中合弁の第一号製造企業が誕生した。以後上海市人民政府の、主に外事弁公室のご指導とご支援をいただいて業務を拡大してきたが、とりわけ九〇年四月に発表された「浦東開発計画」は今日の中国経済発展の烽火であり、忘れることは出来ない。

  日本における「六〇年安保」後の「所得倍増政策」と同一視すべきではないが、前年六月の北京の事件後、中国を取り巻く世界の“経済封鎖”のなかで発表されたこの「浦東開発計画」に対し、世界の目は厳しかった。

  四月の李鵬総理の発表後、朱鎔基上海市長は即シンガポールに飛んでリー・クアンユ―首相と面談、帰路香港で華商に協力を要請された。五月にはわたしどもは上海からの来訪を受けて、大阪と上海での浦東開発セミナーの開催を決定、九月には浦東開発視察団を上海に派遣した。いまの浦東空港の滑走路の下はまだ長江下流域の浅瀬で、そのすすきの土手をマイクロバスで走ったことを思い出す。

 

  八九年一月 昭和天皇崩御、皇太子昭仁親王即位、「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓い・・・」、「平成」と改元される。九〇年六月 韓国の盧泰愚大統領来日、天皇表敬に対し「過去に、痛憤の念」を表明。「天皇訪中」が水面下で打診され始める、が、世界の「対中経済封鎖」の網の目はまだ綻びそうにない。 

 

  九〇年一月 ♪いい日旅立ち♪を合唱して開業した上海の日本料理店は厳しい環境でのスタートであったが、九二年二月 鄧小平の南巡講話で動き出した中国経済の活性化で軌道に乗り、“事件”後凍結されていた対中ODAも宮沢内閣の“新基準”により再開された。「天皇訪中」が実現に向け進み始めた、が、自民党内部でも反対や慎重派の抵抗があり、最後は宮沢首相の決断で中国側と日程の調整が始まる。

 

天皇は「象徴」であり、訪中の感慨は外部には漏れてこない。あるのは訪中初日の、歓迎晩餐会における「お言葉」だけである。

  「楊尚昆国家主席閣下、並びに御列席の皆様」で始まるこの「お言葉」には、幼少のころからの中国への憧憬や遣隋使、遣唐使の派遣・受け入れなども語られているが、「永きにわたる歴史において、我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました」と父・昭和天皇の時代に思いを馳せ、「これは私の深く悲しみとするところであります」と述べられている。どこまでがご本人の言葉であり、役人の作文か不明であるが、語ったのはご本人である。以下未来志向への「お言葉」が続き、「両国民間の関係の進展を心から喜ばしく思うとともに、この良き関係がさらに不動のものとなることを望んでやみません」と語り終え、杯を掲げて答礼のお言葉を終えられた。

  中国滞在は十月二三日から二八日までの五泊六日、北京~西安~上海の旅は観光・視察・交流と密度の濃いものであった。

  上海で天皇・皇后の通訳・アテンドを担当した外事弁公室の友人たちは、おふたりの人柄に感動、しばらくは握手した手に触れさせてくれなかった。

 そのころ上海はまだ電力不足でバンドは夜十時で消灯されていたが、このとき終夜歓迎の灯火が瞬き、以後今日までその夜景は上海観光の一大スポットになっている。

  

  最後に「靖国」のことをすこし。

  昭和天皇は在位中 数年ごとに八回参拝されている由だが、七五年十一月の参拝を最後に赴かれていない。元宮内庁長官冨田朝彦氏のいわゆる「富田メモ」によると、七八年の靖国神社松平永芳宮司によるA級戦犯十四名の合祀(顕彰)に対し、昭和天皇は不快感を示されたという(ウイキペディア)。

  現天皇も靖国へは行かれていないが、父昭和天皇と同じお気持であったかどうかは明らかでない。

 

   平成がまもなく幕を閉じる。

  老齢化に伴い、憲法で示され「受託」してきた「象徴」としての天皇の役割をもう果たすことが出来ないと、自ら表明・標榜されて退位されることになった。いろいろと忖度、穿った考えも仄聞するが、同世代のわたしは七十歳で現役を引退した。素直に、ごくろうさま、お疲れさまでしたと申し上げたい。

                     (二〇一九年一月十五日 記)

 

 PS 本文執筆に際し、上掲の加藤陽子著『昭和天皇と戦争の世紀』(講談社学術文庫、20187月刊)のほかに、『憲法サバイバル―「憲法・戦争・天皇」をめぐる四つの対談』(ちくま新書編集部編、20174月刊)も読みました。


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