私の赤ちゃんのころの写真です。抱っこしてくれているのは私の祖父。
私のとても尊敬する人です。
祖父は田舎から出てきて、でっち奉公の後、自分でハム生肉業の会社を立ち上げます。そのころまだ日本には肉の加工品はありませんでした。祖父はドイツに行ってハム・ソーセージの加工技術を勉強して、日本に工場を作ります。
日本にハム・ソーセージを伝えた人といっても過言はないと思っています。
そのハム・ソーセージは第二次世界大戦中の兵隊さんの食料になると、日本軍の命令で満州にも工場を作ることになり、日本と海外の二つの拠点を守りながら会社を運営してゆきます。
祖父の会社は何度も火事で焼けてしまったようです。なぜなら、ハムやソーセージをスモークするときに、肉の脂が火に引火したとのことです。何度も工場を立て、常に本物を作ることをもっとうに会社をしていました。
74歳で癌でこの世を去るぎりぎりまで、生涯現役で働き続けた祖父でした。
祖父はたくさん孫がいましたが、ひとりひとりとてもかわいがってくれました。
亡くなった祖父が私の夢枕に2回ほど現れたことがあります。『自分の道をこのまま進むがいい』『創業者の血が流れているから大丈夫だよ』と行ってくれているような笑顔でした。今でも、仕事で悩んだりわからなくなるとき、祖父のお墓に行って話しをしてきます。そうすると不思議と心が落ち着き、解決の糸口が見つかるように思います。
私のとても尊敬する人です。
祖父は田舎から出てきて、でっち奉公の後、自分でハム生肉業の会社を立ち上げます。そのころまだ日本には肉の加工品はありませんでした。祖父はドイツに行ってハム・ソーセージの加工技術を勉強して、日本に工場を作ります。
日本にハム・ソーセージを伝えた人といっても過言はないと思っています。
そのハム・ソーセージは第二次世界大戦中の兵隊さんの食料になると、日本軍の命令で満州にも工場を作ることになり、日本と海外の二つの拠点を守りながら会社を運営してゆきます。
祖父の会社は何度も火事で焼けてしまったようです。なぜなら、ハムやソーセージをスモークするときに、肉の脂が火に引火したとのことです。何度も工場を立て、常に本物を作ることをもっとうに会社をしていました。
74歳で癌でこの世を去るぎりぎりまで、生涯現役で働き続けた祖父でした。
祖父はたくさん孫がいましたが、ひとりひとりとてもかわいがってくれました。
亡くなった祖父が私の夢枕に2回ほど現れたことがあります。『自分の道をこのまま進むがいい』『創業者の血が流れているから大丈夫だよ』と行ってくれているような笑顔でした。今でも、仕事で悩んだりわからなくなるとき、祖父のお墓に行って話しをしてきます。そうすると不思議と心が落ち着き、解決の糸口が見つかるように思います。