瞑想(Meditation)について
瞑想というと、日本の大乗仏教による禅が一番最初に頭に浮かぶ。
次に連想するのが立禅に近いが宗教と違う気功の站椿功(タントウコウ)や座ってするヨガが浮かぶ。
いちばん瞑想にほど遠いと感じるのがブッタ(お釈迦様)が直接説いたと言われる正当な仏教の瞑想法だ。これは、初期仏典にそのやり方が書いてあるらしい。
なぜ、仏教なのに最初に釈迦様が説いた瞑想法が日本の禅にまで変化してしまったのかよくわからない。おかげで、日本では完全・完璧な悟りに達した人がいないということを風の噂で聞いたことがある。ちなみに悟りには何段階かある、らしいのでその階段の何段目かまでのぼった人はいる、らしい。
さて、ウソかまことかキリスト教にも瞑想があるというようなこと伝え聞いたが、それは修道僧がするものらしい。ちなみに日本の坊さんもキリスト教の坊さん(神父とか牧師?)も数珠状のものを持っているようだ、それは何回唱えたかを数えるものだとも聞いたことがある。数を数えるのがその宗教にとって大事なことなのだろう(皮肉ではなく意味をしらないのでそう思うだけだ)。
閑話休題
瞑想、何の為にするのだろう?
例えば、禅の瞑想なんて素人が何の指導も無くやれば幻想はいくらでも見えてくるそうで、瀬戸内寂聴さんも禅の修行の時に弥勒菩薩(?)か何かを見たと確証したそうです。しかしそれは指導者によりただの幻想だと激しく叱責されたという話を聞いた。お馬鹿な人は幻想を見て神と繋がったとかいい、教祖になって人殺しまでするかもしれない。
そんな瞑想って怖いと思ったりします。だからと言って瞑想が悪ではないとも思う。奇麗な心でやればそれは奇麗な結果が出るでしょう。
う~ん、難しいのでここらへんで止めておきます。
瞑想というと、日本の大乗仏教による禅が一番最初に頭に浮かぶ。
次に連想するのが立禅に近いが宗教と違う気功の站椿功(タントウコウ)や座ってするヨガが浮かぶ。
いちばん瞑想にほど遠いと感じるのがブッタ(お釈迦様)が直接説いたと言われる正当な仏教の瞑想法だ。これは、初期仏典にそのやり方が書いてあるらしい。
なぜ、仏教なのに最初に釈迦様が説いた瞑想法が日本の禅にまで変化してしまったのかよくわからない。おかげで、日本では完全・完璧な悟りに達した人がいないということを風の噂で聞いたことがある。ちなみに悟りには何段階かある、らしいのでその階段の何段目かまでのぼった人はいる、らしい。
さて、ウソかまことかキリスト教にも瞑想があるというようなこと伝え聞いたが、それは修道僧がするものらしい。ちなみに日本の坊さんもキリスト教の坊さん(神父とか牧師?)も数珠状のものを持っているようだ、それは何回唱えたかを数えるものだとも聞いたことがある。数を数えるのがその宗教にとって大事なことなのだろう(皮肉ではなく意味をしらないのでそう思うだけだ)。
閑話休題
瞑想、何の為にするのだろう?
例えば、禅の瞑想なんて素人が何の指導も無くやれば幻想はいくらでも見えてくるそうで、瀬戸内寂聴さんも禅の修行の時に弥勒菩薩(?)か何かを見たと確証したそうです。しかしそれは指導者によりただの幻想だと激しく叱責されたという話を聞いた。お馬鹿な人は幻想を見て神と繋がったとかいい、教祖になって人殺しまでするかもしれない。
そんな瞑想って怖いと思ったりします。だからと言って瞑想が悪ではないとも思う。奇麗な心でやればそれは奇麗な結果が出るでしょう。
う~ん、難しいのでここらへんで止めておきます。