左:旧版、右:新版
「夜と霧: ヴィクトール・E・フランクル」(Kindle版)
「夜と霧 新版: ヴィクトール・E・フランクル」(Kindle版)
内容紹介:
本書は、みずからユダヤ人としてアウシュヴィッツに囚われ、奇蹟的に生還した著者の「強制収容所における一心理学者の体験」(原題)である。
「この本は冷静な心理学者の眼でみられた、限界状況における人間の姿の記録である。
そしてそこには、人間の精神の高さと人間の善意への限りない信仰があふれている。
だがまたそれは、まだ生々しい現代史の断面であり、政治や戦争の病誌である。
そしてこの病誌はまた別な形で繰り返されないと誰がいえよう」(「訳者あとがき」より)。
1956年8月の初版刊行と同時にベストセラーになり、約60年を経たいまもなお、つねに多くの新しい読者をえている、ホロコーストの記録として必読の書である。「この手記は独自の性格を持っています。読むだけでも寒気のするような悲惨な事実をつづりながら、不思議な明るさを持ち、読後感はむしろさわやかなのです」(中村光夫氏評)。
このような経験は、残念ながらあの時代と地域ではけっして珍しいものではない。収容所の体験記も、大戦後には数多く発表されている。その中にあって、なぜ本書が半世紀以上を経て、なお生命を保っているのだろうか。今回はじめて手にした読者は、深い詠嘆とともにその理由を感得するはずである。
著者は学者らしい観察眼で、極限におかれた人々の心理状態を分析する。なぜ監督官たちは人間を虫けらのように扱って平気でいられるのか、被収容者たちはどうやって精神の平衡を保ち、または崩壊させてゆくのか。こうした問いを突きつめてゆくうち、著者の思索は人間存在そのものにまで及ぶ。というよりも、むしろ人間を解き明かすために収容所という舞台を借りているとさえ思えるほど、その洞察は深遠にして哲学的である。「生きることからなにを期待するかではなく、……生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題」というような忘れがたい一節が、新しくみずみずしい日本語となって、随所に光をおびている。本書の読後感は一手記のそれではなく、すぐれた文学や哲学書のものであろう。
新版の底本には、旧版に比べてさまざまな変更点や相違が見られるという。それには1人の哲学者と彼を取り巻く世界の変化が反映されている。一度、双方を読み比べてみることをすすめたい。それだけの価値ある書物である。 (大滝浩太郎)
------------------------『夜と霧』 霜山版と新版(池田訳)について
「言語を絶する感動」と評され、人間の偉大と悲惨をあますところなく描いた本書は、日本をはじめ世界的なロングセラーとして600万を超える読者に読みつがれ、現在にいたっている。
原著の初版は1947年、日本語版の初版は1956年。その後著者フランクルは1977年に新たに手を加え、改訂版が出版された。みすず書房では、改訂版のテキストよりまた新たに『夜と霧 新版』(池田香代子訳)を2002年に出版し、現在は、『夜と霧――ドイツ強制収容所の記録』霜山徳爾訳本と、『夜と霧 新版』池田香代子訳との、ふたつの『夜と霧』がある。いずれもみすず書房刊。
旧版1956年初版刊行、1977年改訂版刊行、216ページ。
新版2002年刊行、184ページ。
著者について:
ヴィクトール・E・フランクル
Viktor Emil Frankl
1905年、ウィーンに生まれる。ウィーン大学卒業。在学中よりアドラー、フロイトに師事し、精神医学を学ぶ。第二次世界大戦中、ナチスにより強制収容所に送られた体験を、戦後まもなく『夜と霧』に記す。1955年からウィーン大学教授。人間が存在することの意味への意志を重視し、心理療法に活かすという、実存分析やロゴテラピーと称される独自の理論を展開する。ロゴテラピーの創始者。ロゴテラピーは人間の意味への指向・その意志を重視し、深層における精神的実存的人間の発見を意図する療法である。1997年9月歿。
著書『死と愛――実存分析入門』、『時代精神の病理学』、『神経症――その理論と治療』『精神医学的人間像』『識られざる神』。
訳者について:
霜山徳爾(しもやま・とくじ)
1919年東京に生まれる。1942年東京大学文学部心理学科卒業。宗教哲学・心理学専攻。上智大学名誉教授。2009年10月逝去。
著書『人間の限界』(岩波新書、1975)、『人間へのまなざし』(中公叢書、1977)、『素足の心理療法』(みすず書房、1989)、『霜山徳爾著作集』(全7巻、学樹書院、1999-2001)。訳書 フランクル『死と愛』『神経症 II』、メダルト・ボス『東洋の英知と心理療法』(共訳、以上みすず書房)。
池田香代子(いけだ・かよこ)
1948年東京生まれ。ドイツ文学翻訳家。
主な著書に『哲学のしずく』(河出書房新社、1996)『魔女が語るグリム童話』(正は宝島社、1999 続は洋泉社、1998)『世界がもし100人の村だったら』(マガジンハウス、2001)『花ものがたり』(毎日新聞社、2002)など。
主な翻訳にゴルデル『ソフィーの世界』(NHK出版、1996)、『完訳クラシック グリム童話』(全5巻、講談社、2000)などがある。『描たちの森』(早川書房、1996)で第1回日独翻訳賞受賞(1998)。
ナチスドイツが国家プロジェクトとして行なった人類史上で例をみない大量虐殺、ホロコーストを記録した有名な本である。アウシュヴィッツをはじめヨーロッパ各地に作られた絶滅収容所でおよそ600万人もの罪もない人々が非道な方法で殺害された。詳細はウィキペディアの「ホロコースト」を参照していただきたい。
著者はヴィクトール・E・フランクル。絶滅収容所に送られたにもかかわらず、奇跡的に生還した精神科の医師である。みずからの体験を戦後わずか3年後の1947年にドイツ語で出版し、その日本語版は1957年に初版、1977年に改訂版(ここまでが霜山徳爾氏の翻訳で旧版)、2002年に新版(池田香代子氏による翻訳)が刊行された。僕が読んだのは1977年刊行の旧版と2002年刊行の新版である。
日本語版は旧版、新版ともに書籍版とKindle版がある。書籍版の旧版は216ページ、新版は184ページなのだが、これは旧版には収容所で撮影された「写真と図版」が30ページ余りにわたって掲載されているからだ。Kindle版には旧版、新版どちらにも「写真と図版」は含まれていない。(写真は「ホロコースト」というキーワードで画像検索して見つかるものと同じ種類のものだ。)
学生時代には「ショア(SHOAH)」を、30代には「シンドラーのリスト」を見ていた。本書もこれらの映画と同じように「一度は目をとおしておくべきもの」としての位置づけである。そのほかにも次のようなことを知りたいと思ったことも読むことにした理由だ。
- このような絶滅収容所に入れられるとどのような心境になるのか?
- このような絶望的な状態においてさえ、なぜ希望を捨てずにいられるのか?
- 立派な旧版があるのに、なぜ新版を出したのか?
著者はずっと1つの収容所にいたわけではない。次の収容所に移送されるときにどのように感じたのかについても知りたかった。章立ては次のとおりだ。
解説
1 プロローグ
2 アウシュヴィッツ到着
3 死の蔭の谷にて
4 非情の世界に抗して
5 発疹チブスの中へ
6 運命と死のたわむれ
7 苦悩の冠
8 絶望との闘い
9 深き淵より
前半はアウシュヴィッツ収容所で見たこと感じたことが語られる。本書でいちばん惨たらしい部分だ。ガス室に送られたわけではないから「最期の瞬間」を目撃していないのだが、肉体的、精神的に「限界をはるかに超えた」状況であることがわかる。収容されているだけでなく、満足な食事を与えられないまま、毎日重労働を課せられ、不合理な暴力を受けるのだ。個人としての尊厳はすべてはく奪され、病気になったり怪我をしても治療さえおこなわれない。「役立たず」になることは「死」に直結するのだ。
そこでは人が人にする仕打ちとしてはとても思えないありとあらゆる残忍な行為を目のあたりにすることになる。医師は治療するためにいるのではなく殺害方法の効果を確かめる人体実験をするためにいるのだ。
収容者の感情の変化はおよそ3つの段階に従って進行するという。収容所についたばかりのころは「いつか出られるに違いない」、「助けはいつか必ず来る」という妄想に取り憑かれるそうだ。そして次々と目の当たりにする暴力や死者を目の当たりにしていく中で、無感動になっていくのだという。そして3つ目の段階は収容所から解放されたとき、解放後の心理状態についてだ。喜びに満たされるわけではない。これについては伏せておこう。
周囲の状況に無感動になるのは発狂しないですむために、人間の心が自然に防御を行なった結果なのではないかと僕は思った。
後半は収容所内で医師としての役目を与えられてからのことが書かれている。もちろん医薬品はない。著者には収容所で発疹チブスが広がらないようにするための役割が与えられたにすぎない。発疹チブスが蔓延すると収容所の運営に支障がでて効率的に殺戮と死体の焼却を行なえなくなるからだ。
収容者は意欲を失い、絶望にとらわれる。未来への希望を失わないでいられるのはほんの一握りのエリートだと著者は言う。しかしどんな仕打ちを受けても奪えないものがひとつだけあると言うのだ。「精神の自由」のことである。それは人によって違う。ある人にとっては収容所から出たら子供の顔を見たいという望みであったり、またある人にとってはやり残した仕事、責任を果たすという意欲であったりする。そのように日常的に誰でもが経験する事がらを「もう一度してみたい」と願うことで、とりあえず1日だけ死を遠ざけることができるのだ。これは本書後半に書かれていることである。
このような視点や考え方は「ショア(SHOAH)」や「シンドラーのリスト」にはなかった。本書が刊行以来、現在まで読み継がれている理由のひとつなのだろう。人間の尊厳を明確に、そして人はなぜ生きるのかということを、わかりやすい言葉で解き明かしている。
旧版は今から見ると古めかしくごつごつした回りくどい言い回しの日本語で書かれている。新版はすらすらと読める現代風の文章だ。いまの若者にお勧めするとしたら新版のほうがよいと思ったのだが、前半の悲惨な状況の描写は旧版の重苦しい文章のほうが合っているしリアルだ。新版で読みなおすと「軽すぎる」のだ。数十年前の出来事を現代語で読むとフィクションのように思えてしまう。でも後半は著者の読者への語りかけが多いので新版で読んだほうがわかりやすいと思う。
本書の言わんとすることはよく理解できたし、読んでよかったと思っている。しかしながら本書の範囲をこえた疑問が自然にでてきた。
「人間の生きる意味」、「人間としての尊厳」はどこまであてはまるのだろうか?ということである。この大量殺戮を行なった張本人、アドルフ・ヒトラーについても、そして相模原の障がい者施設で19人を刺殺し、現在もなお「障がい者は生きる価値がない」という言語道断な考えを改めない犯人に対してもあてはめてよいのだろうか?これは死刑制度の是非に直結する問題だ。今のところ僕にはどうべきか判断できていない。
「障がい者は社会のお荷物だ」とか「利益を上げない者、生産的でない者は排除すべきだ」という考え方をする人が増えつつある。20年先、40年先の社会はどうなってしまうのだろうと思うと寒々としてくる。
ところで将来、裁判官の役割をAIで置き換えようとする動きがでてくるかもしれない。しかしAIに任せてよいかどうかの判断をする前に条件として満たしておくべきことがある。
人はなぜ生きるのか?人が生きることの尊厳とは何か?ということを(過半数以上でも3分の2以上でもなく)すべての国民が理解するという条件だ。それなくしてAIに(死刑も含めて)人間の量刑を決めるようなことをさせてはならない。
人はなぜ生きるのか?人が生きることの尊厳とは何か?死が迫っているとき自分は何をよりどころとして生きる希望をつなげばよいか?など、ふだん考えない難問を問い直すために読むのも本書の活かし方のひとつなのだと思う。
ところで今年の4月に次の本が刊行された。すでに「夜と霧」をお読みになった方にお勧めしたい。
◎ 『夜と霧』ドイツ語版初版に併載されていた対をなす創作劇、初の邦訳刊行。
◎ フランクル研究第一人者によるフランクルの思想と心理学解説。
「もうひとつの〈夜と霧〉: ビルケンヴァルトの共時空間」
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「夜と霧: ヴィクトール・E・フランクル」(Kindle版)
「夜と霧 新版: ヴィクトール・E・フランクル」(Kindle版)
解説
1 プロローグ
2 アウシュヴィッツ到着
3 死の蔭の谷にて
4 非情の世界に抗して
5 発疹チブスの中へ
6 運命と死のたわむれ
7 苦悩の冠
8 絶望との闘い
9 深き淵より
訳者あとがき
写真・図版
この本は何度も読んだことがあります。
そして、読むたびに、そのときの自分を反映して異なった読後感、考えが現れます。
今回のとねさんの記事を読んだ時、私は自分の生き方を見直したくなっている時に、この本を手に取るのだと、気がつきました。
歳を経るに従って、身の回りには認知症、様々な病気や障がいを持った人々が増えてきます。その人達に気持ちを寄せながら、一方で自分とは一線を画すようになってきています。大人になるとは、こういうことなのだと自分を分析しています。
若い頃のように理想と思うことへ突き進むのではなく、現実的に今の自分に出来ることを考えるようになった結果だとも思います。大人になるとは、分別と"ずるさ"や"立ち回り方"をバランスを持って体得することなんだろうと感じています。
アウシュビッツからみれば天国のような私の人生は、それでも自分の人生の中で相対的に大変な時期はあります。そのような時には、悩み続けること、考え続けること、その時間を毎日僅かづつでも持つことが、自分らしく生き続ける秘訣なんだろうと、そんな確信に近い思いを持っています。悩み・考え続ければ、いつか何らかのアイディアを思いつき、それを実行する小さな機会も訪れるものです。
もともと研究者時代に職務上身につけた考え方ですが、これが私の人生をより支配するようになっています。
自分がしたいこと、自分が好きなことが明確に分かる人など、そう居るものではありません。でも、候補が出てくれば、それについて考え、小さなことでも何かやってみる。そしてまた悩み考え、また何か小さなことを追加してみる...こうやって長続きすればそれが好きなことだと分かる、いわば結果論なのではないかと思います。これが凡人でしょう。
私自身は、周囲と比較すれば(相対的ですが)好き勝手に自分の好む方向を目指して生きてこられたので、幸運に恵まれる機会が多い人生かも知れません。
しかし、幸運は自分で作るものではなく、突然やってくるのでもありません。自分の芯にある志というか生き方の方向性が現実に相容れない時、その悩みや葛藤を理解してくれる僅かな人達が、直接的・間接的に私に小さな機会を与えてくれる、これが幸運なんだと思います。その時は幸運だとは気がつかないことが殆どです。
それでも、少しだけ角度を変えて小さな一歩を踏み出すことで、昨日の自分とは少しだけ違うことに喜びとやりがいを感じます。そしてその繰り返しの結果、ふと過去を振り返り「ああ、あれは与えられた幸運だったんだ」と気がつきます。
このような数少ない恩人に思いを寄せながら、いつか恩返ししたいと思えば、ほんの少し力が沸いてきます。人は人のためにこそ生きるもの、というのがとても理解できるのは、恩人の事を考える時なのです。なお、恩人には私の家族も含まれています。
愛は煌き
自由は輝く
立ち向かう
‥‥生きる
これまで自分と正直に向き合ってこられたやすさんの生き方に共感します。
> 読むたびに、そのときの自分を反映して異なった読後感、考えが現れます。
僕は今回は初読でしたので読み解くことに重点をおきましたが、何度も読むことでその都度、別の形で自分の意識と相互作用する本なのですね。アマゾンのレビューにも「何度も読んだ」という方がいらっしゃいました。
> ふと過去を振り返り「ああ、あれは与えられた幸運だったんだ」と気がつきます。
やすさんが素晴らしいのはこういうところですね。とかく「成果は自分の力で成し遂げた」と思いがちですから。
恩はその相手にお返しできればいちばんよいのですが、気づいたときには別の世界に逝かれてしまっていたり。。。少しでもいいから恩を与えてくれた方の意向に沿った生き方をしたいと思います。(そう書きながら思い浮かぶのは、大学時代の恩師です。)
これかも折りにふれて本書を読み直してみたいと思います。Kindle版はいつでも開けるからよいですね。
とても深いお言葉をありがとうございました。力強い生き方をしたいものです。