「地獄の日本兵―ニューギニア戦線の真相:飯田進」(Kindle版)
内容紹介
敵と撃ち合って死ぬ兵士より、飢え死にした兵士の方が遥かに多かった----。昭和17年11月、日本軍が駐留するニューギニア島に連合軍の侵攻が開始される。西へ退却する兵士たちを待っていたのは、魔境と呼ばれる熱帯雨林だった。幾度となく発症するマラリア、友軍の死体が折り重なる山道、クモまで口にする飢餓、先住民の恨みと襲撃、そしてさらなる転進命令......。「見捨てられた戦線」の真実をいま描き出す。2008年刊行、189ページ。
著者略歴
飯田進
1923(大正12)年京都府生まれ。昭和18年1月、海軍民政府職員としてニューギニア島へ上陸。終戦後、BC級戦犯として重労働20年の刑を受ける。昭和25年スガモ・プリズンに送還。社会福祉法人「新生会」と同「青い鳥」の理事長を長年務めた。(現在は会長)著書に『魂鎮への道』など。
飯田進さんの著書: Amazonで検索する
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2016年10月14日に追記:
訃報:
飯田進さんは10月13日、慢性心不全で死去されました。93歳。通夜は21日午後6時、葬儀は22日午前9時30分から横浜市港北区菊名2の1の5の妙蓮寺斎場です。
元BC級戦犯の飯田進さん死去(朝日新聞)
http://www.asahi.com/articles/DA3S12701113.html
亡くなった元BC級戦犯・飯田進さんが残した魂の文章
https://www.dailyshincho.jp/article/2016/10141900/?all=1
--------------------------
著者の飯田進さんに明日お会いするので本書を読ませていただいた。お会いするのはおそらく40年ぶりのことである。
僕が物心つかない赤ん坊の頃から小学4年生になるまで、母と僕は飯田さんにはとてもお世話になった。明日はその当時飯田さんにお世話になった人たち総勢20人近くが思い出を共有し、飯田さんへの感謝を伝えるために横浜の中華街に集うことになっている。戦争の話をうかがうためではない。
母は81歳なので横浜まで出かけるのは大変だろうからしっかりサポートするつもりだ。僕がお世話になっていた頃、現在92歳になられている飯田さんは40代半ばで、母は30代半ばだったわけである。
最近の飯田さんのお元気な姿や、その当時社会福祉法人「青い鳥」の理事長として取り組まれていた「青い鳥マッチ運動」のことは次の「理事長の部屋」というページの下のほうでご覧いただける。
「青い鳥マッチ」のことは僕もよく覚えているのだが、やなせたかし、馬場のぼる、山下清など蒼々たる方に描いていただいたので現在では貴重品である。(ヤフオクにも出品されていないほど貴重なのだ。)
青い鳥マッチ運動
http://www.aoitori-y.jp/rijiinfo/青い鳥マッチ/
当時の僕にとって飯田さんは優しいおじさんであると同時に強い男のオーラを放つ迫力のある大人だった。戦争があったことすら知らない幼年期のことだから壮絶な体験をした人だとは子供の僕には知るよしもない。引っ込み思案だった僕は飯田さんから声をかけられるとビクッとしていたものだ。リーダーシップという言葉は知らなかったが、周りの大人たちの様子からみてそれを僕が初めて感じた大人だった。ともかく他のおじさんたちとは存在感がまるで違っていた。そんな飯田さんに頭をなでてもらったことも記憶に残っている。
戦後17年たってから生まれた僕も当時の飯田さんの年齢を超え、会社員生活の終盤を向かえつつあるが、これまで飯田さんが経験されてきたことがらを全部含めて考えると、今もなお僕がヒヨコ同然であることに変わりはない。
せっかくお会いするのだから著書を読んでおかなければと「素数夜曲―女王陛下のLISP:吉田武:(後半の紹介)」の記事を投稿してからすぐ読み始めた。
太平洋戦争の実態が「戦闘」ではなかったことは、2007年以降に大きく取り上げられ明らかになってきた。戦死したほとんどの兵士が戦うことなく、餓死や病死で命を落としたという事実だ。そしてそれは東京の市ヶ谷で指揮をとっていた大本営の机上の分析だけに頼った判断と無謀極まりない軍令によるものだった。20歳前後の膨大な数の兵士が、100万人を超える若者たちが無駄死にしたのである。
なぜそうなったのか?それはどのような状況だったのか?
本書にはじかに目撃し、体験した者だけが知りうる証言が詳細に書かれている。
2007年以降のNHKの番組を見ていたので、その事実を僕はすでに知っていたが、あらためて詳細を文章で読むと何度も胸にこみ上げてくるものがあった。1時間の情報番組で伝えられる内容はせいぜい新書の本で10ページそこそこなのだ。戦争体験記はもちろん分量だけで計るべき性質のものではないわけだが、本のほうが飯田さんの生の声が直接伝わってくるので、僕としてもテレビ番組よりも何倍も戦争の本質が伝わってきた。脚色されてしまう映画やドラマ、ドキュメンタリー番組よりも体験者による手記のほうが事実が正確に伝わるのは明らかだ。
仕事や勉強(そして遊び)のことで手一杯だから70年も前におきた戦争のことを日々省みる人は今ではほとんどいない。ふたたび戦争なんておきるわけがない、もし戦争が起こりそうになってもしっかり「防衛」するように備えておけばいいのだと考えている人も多いことだろう。
果たして本当にそうだろうか?
集団的自衛権は法整備をする段階に進んでいる。過去のほとんどの戦争が自衛のために始まったという事実を考えるとき、ふたたび日本が巻き込まれることは自然の成り行きだと思うのだ。
ネット上ではこの問題について活発に自分と反対意見を持つ者に対して「非難合戦」が繰り広げられている。しかしどちらの意見を自分が持つのだとしても、そして先の戦争が「侵略戦争」だったのか「巻き込まれてしまった戦争」だったのかという議論をする前に、戦争というものの実態がどうであったのか、どのような思いを彼らが抱き、そのような戦争に行くことになったのかをまず知っておくべきなのだ。
昔と今とでは国際情勢が違うし、技術力も向上している。けれども日本人が持っているメンタリティや判断力は明治以来、まったく変わっていないと僕は思うのだ。ふたたび無謀な命令を強いられる状況がおこるであろうことは、しばしば感じている。
- 東日本大震災の直後、政府や東電ははどのような判断をし、どのような発表をしただろうか?状況把握や判断は的確になされていただろうか?
- 日本の政府、行政、企業などあらゆる組織は迅速かつ効率的、現実的な情報収集、分析、決定をし、実行に移してきただろうか?実行にあたっては精神論を強調しすぎていなかっただろうか?
- 将来、戦争が始まりそうな段階で、その是非を考えるために必要な情報が国民に与えられるだろうか?
また、「防衛力=兵器や軍備の増強」という先入観にとらわれていないだろうか?とも僕は考える。
日本のインフラは合理化を追求しながら発展してきたから極めて脆弱だ。東日本大震災の後の混乱を思い起こせばわかりやすい。敵国が日本を攻撃するのであれば、インターネットを使ったサイバーテロだけで十分な気がする。主要なサーバーはことごとくダウンし、物流や交通、通信は麻痺して食糧がなくなり、餓死者や疫病が続出することだろう。コンピュータ制御されている電気やガス、水道の供給もストップする。また稼動停止している各地の原発にミサイルがぶちこまれるだけで周囲200Kmは住めなくなってしまうのだ。
もし今度、戦争がおきるのだとすれば、太平洋戦争や中東で繰り広げられている空爆や地上戦のようなイメージとはまったく違う「見えない敵との戦争」になるのだと僕は思うのだ。飯田さんのようにジャングルに行かされることはないかわりに国内で同じようなことが起きてしまうのではないかと思っている。
今の社会でひとつ希望があるとすればインターネット、とりわけTwitterやFacebookを使って即座に自分の意見が発信できることだ。その結果、(お互いをバカ呼ばわりしながら)集団的自衛権賛成派と反対派が収束することのない言い争いをしている。相手が総理だろうが大臣だろうがインターネット上の「口撃」は容赦ない。もちろん自分の意見を持ちながらも沈黙を守っている人も大勢いる。
どのような事柄であれ賛成する人と反対する人がいる。そのような世の中はひとつの極端な考えに流されることがないから、ある意味健全なのだと思う。この点は昔と明らかに違っている。また、自分の関心事以外には無関心な人が大半というのも、もうひとつの現実だ。
だから本書は特に若い世代に読んでほしい。幸い電子書籍化されているので、たとえ紙の本が絶版になったとしても、入手困難になることはない。
本書が出版された後に飯田さんがテレビ出演され、内容について語っていらっしゃる映像をYouTubeでご覧いただくことができる。
「ニュースの深層・地獄の日本兵」ゲスト・飯田進(再生時間: 38分)→ この動画はその後消されてしまった。代わりに、次の2つの動画を埋め込んでおく。(2020年8月4日)
語り継ぐ戦争 原点は元戦犯飯田進さんとの出会い 奥田愛基さん
スガモプリズン ~決して貝にはならない~
また2007年の夏から放送された「NHK 証言記録 兵士たちの戦争」は無料で公開されている。こちらもぜひご覧になってほしい。動画のチャプター再生はPCのみ対応と書かれているけれども、試してみたところiPhoneでは全編一括再生をすることができ、Androidスマートフォンではまったく再生できないようだ。
「NHK 証言記録 兵士たちの戦争」
このシリーズ番組のうち、飯田さんは「西部ニューギニア 見捨てられた戦場 ~千葉県・佐倉歩兵第221連隊~」の放送の中ほどと終わりのほうに出演されている。
「西部ニューギニア 見捨てられた戦場 ~千葉県・佐倉歩兵第221連隊~」
戦後62年たって放送されたこの番組によって南方戦線での戦死者のほとんどが戦わずして命を落としていたことが、やっと広く一般に知られることになったのである。NHKオンデマンドは有料なのにこれらたくさんの証言記録の番組は無料である。その意味を汲み取っていただきたい。
ちなみに2017年7月に放送されたNHK朝ドラ「ひよっこ」で取り上げられた「インパール作戦」については「インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘 ~新潟県・高田歩兵第58連隊~」でご覧いただける。
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「地獄の日本兵―ニューギニア戦線の真相:飯田進」(Kindle版)
飯田進さんの著書: Amazonで検索する
第1章 大調査隊をニューギニアへ
第2章 餓死の序幕
第3章 命を吸いとる山を越えて
第4章 底なしの大湿地帯を行く
第5章 幻と消えた「あ号作戦」
第6章 ビアク島の玉砕戦
第7章 私の犯した「戦争犯罪」
第8章 敗戦と収監、そして日本へ
はじめに
映画「硫黄島からの手紙」を、私は封切り後間もなく劇場へ観に行きました。
親友たちは、硫黄島からさほど遠くないサイパン島で玉砕しています。だから私は特別に深い感慨をもって映画を観ました。恥ずかしいくらい涙が出ました。
この映画に限らず、片道燃料だけで敵艦隊に突っ込んだ特攻隊や戦艦大和の最後を思うたびに、今でも涙を抑えることができません。
兵士は死を覚悟して戦場におもむきます。それはある意味で、致し方ありません。戦争とはそういうものです。その極限にあるのが、特攻隊です。若い操縦士が己の命とひきかえに敵艦に体当たりするのですから、悲壮というほかありません。だからみんな涙するのです。小泉元首相も、特攻隊基地のあった鹿児島県南九州市知覧町の知覧特攻平和会館で、遺品を前にして涙をこぼしたといいます。
しかし、と私は思うのです。多くの人が忘れてしまったこと、知らないことがある、と。太平洋戦争中の戦死者数で最も多い死者は、敵と撃ち合って死んだ兵士ではなく、日本から遠く離れた戦地で置き去りにされ、飢え死にするしかなかった兵士たちなのです。
その無念がどれほどのものであったか、想像できるでしょうか。それは、映画やテレビドラマで映像化されている悲壮感とはおよそ無縁です。これほど無残でおぞましい死はありません。しかも、そのような兵士の最期は、ある局部的な戦場の出来事ではありません。二百数十万人に達する死者の最大多数は、飢えと疲労に、マラリアなどの伝染病を併発して行き倒れた兵士なのです。
平成十八年八月、私は長いこと胸にあった思いを、小論にまとめて朝日新聞の「私の視点」欄に寄稿しました。靖国神社のA級戦犯の合祀と総理大臣の靖国神社参拝の是非をめぐって、国内外で議論が沸騰していた時期です。また、昭和天皇のA級戦犯靖国合祀に関する発言を記したメモが発見されたという報道でも、注目が集まっていました。
その文章には、次のようなことを書きました。
「戦死した兵士の遺族たちは、最愛の肉親が野たれ死にしたとは思いたくない。それは人間としての人情なのである。誰も非難できない。小泉元首相も素朴な情念のおもむくままに正しいと思って靖国参拝を行ってきたに違いない。その心情は多くの国民、とりわけ遺族たちの心の琴線に触れるものがある。だがそこからは、あれだけの兵士を無意味な死に追いやった戦争発起と戦争指導上の責任の所在は浮かび上がってこない。『英霊』という語感の中に見事に雲散霧消してしまっている」
この寄稿は意外なほど多くの反響を呼びました。手紙や来訪者が数多くあり、講演も頼まれました。そこで太平洋戦争の最大の死亡理由は餓死だったと話をしたところ、異口同音に驚きの声が挙がりました。
「初めて聞きました。本当ですか?」
「ガダルカナルでは沢山の餓死者がでたそうですね」
感想は様々でしたが、百万人を超える兵士が飢えて死んだとは、ほとんどの日本人は知らないはずです。ただ、等しく国家のために勇戦敢闘し、尊い命を捧げた殉国の英霊として祀(まつ)られているからです。
確かに名誉の戦死をした兵士は沢山います。私のかたわらで撃たれて死んだ兵士も、何人もいます。サイパン島で玉砕した友人たちもそうです。出征前、彼らと一緒に撮った写真は、いつも私の書斎に掲げてあります。
しかし、最大多数の兵士は、飢えと疲労と病で死んだ、というのが厳然たる事実です。そうした状況は太平洋戦域のいたるところで、戦いが始まって間もないころから戦後にいたるまで、繰り返し発生しました。
その典型的な戦場だったのがニューギニアでした。
ニューギニア島は日本から南に約五千キロ、オーストラリアのすぐ北にある大きな島です。東西は二千四百キロにわたり、面積は日本のおよそ二倍の広さがあります。全体は熱帯雨林に覆われ、現在は東側がパプアニューギニア、西側がインドネシアの一部になっています。
戦争中私は、その島にいました。昭和十八年、十九歳だった私は志願して海軍の民政府調査局員に採用され、ニューギニアに上陸しました。戦況が厳しくなってからは、陸軍作戦部隊に情報要員として配属され、戦闘にも参加しています。
昼間でも太陽の光が届かない原生林のなかで、幾度もあわやという危機に直面しながら、私はかろうじて終戦を迎えることができました。しかし、進駐してきたオランダ軍にBC級戦犯容疑者として逮捕され、重労働二十年の刑を受けました。
いま私は、八十代の半ばを過ぎています。もう余命いくばくもないどころではありません。それだけに、ニューギニア島での戦場の実態をきちんと残しておきたいという思いが募るばかりです。
きわめて荷の重い仕事です。ですが、野垂れ死にした兵士たちはそれぞれ未来に夢を抱いていた若者でした。彼らの無念の思いを、私は代弁しなければなりません。それを伝え得る、私は多分最後の一人だからです。(はじめにより抜粋)
内容紹介
敵と撃ち合って死ぬ兵士より、飢え死にした兵士の方が遥かに多かった----。昭和17年11月、日本軍が駐留するニューギニア島に連合軍の侵攻が開始される。西へ退却する兵士たちを待っていたのは、魔境と呼ばれる熱帯雨林だった。幾度となく発症するマラリア、友軍の死体が折り重なる山道、クモまで口にする飢餓、先住民の恨みと襲撃、そしてさらなる転進命令......。「見捨てられた戦線」の真実をいま描き出す。2008年刊行、189ページ。
著者略歴
飯田進
1923(大正12)年京都府生まれ。昭和18年1月、海軍民政府職員としてニューギニア島へ上陸。終戦後、BC級戦犯として重労働20年の刑を受ける。昭和25年スガモ・プリズンに送還。社会福祉法人「新生会」と同「青い鳥」の理事長を長年務めた。(現在は会長)著書に『魂鎮への道』など。
飯田進さんの著書: Amazonで検索する
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2016年10月14日に追記:
訃報:
飯田進さんは10月13日、慢性心不全で死去されました。93歳。通夜は21日午後6時、葬儀は22日午前9時30分から横浜市港北区菊名2の1の5の妙蓮寺斎場です。
元BC級戦犯の飯田進さん死去(朝日新聞)
http://www.asahi.com/articles/DA3S12701113.html
亡くなった元BC級戦犯・飯田進さんが残した魂の文章
https://www.dailyshincho.jp/article/2016/10141900/?all=1
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著者の飯田進さんに明日お会いするので本書を読ませていただいた。お会いするのはおそらく40年ぶりのことである。
僕が物心つかない赤ん坊の頃から小学4年生になるまで、母と僕は飯田さんにはとてもお世話になった。明日はその当時飯田さんにお世話になった人たち総勢20人近くが思い出を共有し、飯田さんへの感謝を伝えるために横浜の中華街に集うことになっている。戦争の話をうかがうためではない。
母は81歳なので横浜まで出かけるのは大変だろうからしっかりサポートするつもりだ。僕がお世話になっていた頃、現在92歳になられている飯田さんは40代半ばで、母は30代半ばだったわけである。
最近の飯田さんのお元気な姿や、その当時社会福祉法人「青い鳥」の理事長として取り組まれていた「青い鳥マッチ運動」のことは次の「理事長の部屋」というページの下のほうでご覧いただける。
「青い鳥マッチ」のことは僕もよく覚えているのだが、やなせたかし、馬場のぼる、山下清など蒼々たる方に描いていただいたので現在では貴重品である。(ヤフオクにも出品されていないほど貴重なのだ。)
青い鳥マッチ運動
http://www.aoitori-y.jp/rijiinfo/青い鳥マッチ/
当時の僕にとって飯田さんは優しいおじさんであると同時に強い男のオーラを放つ迫力のある大人だった。戦争があったことすら知らない幼年期のことだから壮絶な体験をした人だとは子供の僕には知るよしもない。引っ込み思案だった僕は飯田さんから声をかけられるとビクッとしていたものだ。リーダーシップという言葉は知らなかったが、周りの大人たちの様子からみてそれを僕が初めて感じた大人だった。ともかく他のおじさんたちとは存在感がまるで違っていた。そんな飯田さんに頭をなでてもらったことも記憶に残っている。
戦後17年たってから生まれた僕も当時の飯田さんの年齢を超え、会社員生活の終盤を向かえつつあるが、これまで飯田さんが経験されてきたことがらを全部含めて考えると、今もなお僕がヒヨコ同然であることに変わりはない。
せっかくお会いするのだから著書を読んでおかなければと「素数夜曲―女王陛下のLISP:吉田武:(後半の紹介)」の記事を投稿してからすぐ読み始めた。
太平洋戦争の実態が「戦闘」ではなかったことは、2007年以降に大きく取り上げられ明らかになってきた。戦死したほとんどの兵士が戦うことなく、餓死や病死で命を落としたという事実だ。そしてそれは東京の市ヶ谷で指揮をとっていた大本営の机上の分析だけに頼った判断と無謀極まりない軍令によるものだった。20歳前後の膨大な数の兵士が、100万人を超える若者たちが無駄死にしたのである。
なぜそうなったのか?それはどのような状況だったのか?
本書にはじかに目撃し、体験した者だけが知りうる証言が詳細に書かれている。
2007年以降のNHKの番組を見ていたので、その事実を僕はすでに知っていたが、あらためて詳細を文章で読むと何度も胸にこみ上げてくるものがあった。1時間の情報番組で伝えられる内容はせいぜい新書の本で10ページそこそこなのだ。戦争体験記はもちろん分量だけで計るべき性質のものではないわけだが、本のほうが飯田さんの生の声が直接伝わってくるので、僕としてもテレビ番組よりも何倍も戦争の本質が伝わってきた。脚色されてしまう映画やドラマ、ドキュメンタリー番組よりも体験者による手記のほうが事実が正確に伝わるのは明らかだ。
仕事や勉強(そして遊び)のことで手一杯だから70年も前におきた戦争のことを日々省みる人は今ではほとんどいない。ふたたび戦争なんておきるわけがない、もし戦争が起こりそうになってもしっかり「防衛」するように備えておけばいいのだと考えている人も多いことだろう。
果たして本当にそうだろうか?
集団的自衛権は法整備をする段階に進んでいる。過去のほとんどの戦争が自衛のために始まったという事実を考えるとき、ふたたび日本が巻き込まれることは自然の成り行きだと思うのだ。
ネット上ではこの問題について活発に自分と反対意見を持つ者に対して「非難合戦」が繰り広げられている。しかしどちらの意見を自分が持つのだとしても、そして先の戦争が「侵略戦争」だったのか「巻き込まれてしまった戦争」だったのかという議論をする前に、戦争というものの実態がどうであったのか、どのような思いを彼らが抱き、そのような戦争に行くことになったのかをまず知っておくべきなのだ。
昔と今とでは国際情勢が違うし、技術力も向上している。けれども日本人が持っているメンタリティや判断力は明治以来、まったく変わっていないと僕は思うのだ。ふたたび無謀な命令を強いられる状況がおこるであろうことは、しばしば感じている。
- 東日本大震災の直後、政府や東電ははどのような判断をし、どのような発表をしただろうか?状況把握や判断は的確になされていただろうか?
- 日本の政府、行政、企業などあらゆる組織は迅速かつ効率的、現実的な情報収集、分析、決定をし、実行に移してきただろうか?実行にあたっては精神論を強調しすぎていなかっただろうか?
- 将来、戦争が始まりそうな段階で、その是非を考えるために必要な情報が国民に与えられるだろうか?
また、「防衛力=兵器や軍備の増強」という先入観にとらわれていないだろうか?とも僕は考える。
日本のインフラは合理化を追求しながら発展してきたから極めて脆弱だ。東日本大震災の後の混乱を思い起こせばわかりやすい。敵国が日本を攻撃するのであれば、インターネットを使ったサイバーテロだけで十分な気がする。主要なサーバーはことごとくダウンし、物流や交通、通信は麻痺して食糧がなくなり、餓死者や疫病が続出することだろう。コンピュータ制御されている電気やガス、水道の供給もストップする。また稼動停止している各地の原発にミサイルがぶちこまれるだけで周囲200Kmは住めなくなってしまうのだ。
もし今度、戦争がおきるのだとすれば、太平洋戦争や中東で繰り広げられている空爆や地上戦のようなイメージとはまったく違う「見えない敵との戦争」になるのだと僕は思うのだ。飯田さんのようにジャングルに行かされることはないかわりに国内で同じようなことが起きてしまうのではないかと思っている。
今の社会でひとつ希望があるとすればインターネット、とりわけTwitterやFacebookを使って即座に自分の意見が発信できることだ。その結果、(お互いをバカ呼ばわりしながら)集団的自衛権賛成派と反対派が収束することのない言い争いをしている。相手が総理だろうが大臣だろうがインターネット上の「口撃」は容赦ない。もちろん自分の意見を持ちながらも沈黙を守っている人も大勢いる。
どのような事柄であれ賛成する人と反対する人がいる。そのような世の中はひとつの極端な考えに流されることがないから、ある意味健全なのだと思う。この点は昔と明らかに違っている。また、自分の関心事以外には無関心な人が大半というのも、もうひとつの現実だ。
だから本書は特に若い世代に読んでほしい。幸い電子書籍化されているので、たとえ紙の本が絶版になったとしても、入手困難になることはない。
本書が出版された後に飯田さんがテレビ出演され、内容について語っていらっしゃる映像をYouTubeでご覧いただくことができる。
「ニュースの深層・地獄の日本兵」ゲスト・飯田進(再生時間: 38分)→ この動画はその後消されてしまった。代わりに、次の2つの動画を埋め込んでおく。(2020年8月4日)
語り継ぐ戦争 原点は元戦犯飯田進さんとの出会い 奥田愛基さん
スガモプリズン ~決して貝にはならない~
また2007年の夏から放送された「NHK 証言記録 兵士たちの戦争」は無料で公開されている。こちらもぜひご覧になってほしい。動画のチャプター再生はPCのみ対応と書かれているけれども、試してみたところiPhoneでは全編一括再生をすることができ、Androidスマートフォンではまったく再生できないようだ。
「NHK 証言記録 兵士たちの戦争」
このシリーズ番組のうち、飯田さんは「西部ニューギニア 見捨てられた戦場 ~千葉県・佐倉歩兵第221連隊~」の放送の中ほどと終わりのほうに出演されている。
「西部ニューギニア 見捨てられた戦場 ~千葉県・佐倉歩兵第221連隊~」
戦後62年たって放送されたこの番組によって南方戦線での戦死者のほとんどが戦わずして命を落としていたことが、やっと広く一般に知られることになったのである。NHKオンデマンドは有料なのにこれらたくさんの証言記録の番組は無料である。その意味を汲み取っていただきたい。
ちなみに2017年7月に放送されたNHK朝ドラ「ひよっこ」で取り上げられた「インパール作戦」については「インパール作戦 補給なきコヒマの苦闘 ~新潟県・高田歩兵第58連隊~」でご覧いただける。
応援クリックをお願いします!
「地獄の日本兵―ニューギニア戦線の真相:飯田進」(Kindle版)
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第1章 大調査隊をニューギニアへ
第2章 餓死の序幕
第3章 命を吸いとる山を越えて
第4章 底なしの大湿地帯を行く
第5章 幻と消えた「あ号作戦」
第6章 ビアク島の玉砕戦
第7章 私の犯した「戦争犯罪」
第8章 敗戦と収監、そして日本へ
はじめに
映画「硫黄島からの手紙」を、私は封切り後間もなく劇場へ観に行きました。
親友たちは、硫黄島からさほど遠くないサイパン島で玉砕しています。だから私は特別に深い感慨をもって映画を観ました。恥ずかしいくらい涙が出ました。
この映画に限らず、片道燃料だけで敵艦隊に突っ込んだ特攻隊や戦艦大和の最後を思うたびに、今でも涙を抑えることができません。
兵士は死を覚悟して戦場におもむきます。それはある意味で、致し方ありません。戦争とはそういうものです。その極限にあるのが、特攻隊です。若い操縦士が己の命とひきかえに敵艦に体当たりするのですから、悲壮というほかありません。だからみんな涙するのです。小泉元首相も、特攻隊基地のあった鹿児島県南九州市知覧町の知覧特攻平和会館で、遺品を前にして涙をこぼしたといいます。
しかし、と私は思うのです。多くの人が忘れてしまったこと、知らないことがある、と。太平洋戦争中の戦死者数で最も多い死者は、敵と撃ち合って死んだ兵士ではなく、日本から遠く離れた戦地で置き去りにされ、飢え死にするしかなかった兵士たちなのです。
その無念がどれほどのものであったか、想像できるでしょうか。それは、映画やテレビドラマで映像化されている悲壮感とはおよそ無縁です。これほど無残でおぞましい死はありません。しかも、そのような兵士の最期は、ある局部的な戦場の出来事ではありません。二百数十万人に達する死者の最大多数は、飢えと疲労に、マラリアなどの伝染病を併発して行き倒れた兵士なのです。
平成十八年八月、私は長いこと胸にあった思いを、小論にまとめて朝日新聞の「私の視点」欄に寄稿しました。靖国神社のA級戦犯の合祀と総理大臣の靖国神社参拝の是非をめぐって、国内外で議論が沸騰していた時期です。また、昭和天皇のA級戦犯靖国合祀に関する発言を記したメモが発見されたという報道でも、注目が集まっていました。
その文章には、次のようなことを書きました。
「戦死した兵士の遺族たちは、最愛の肉親が野たれ死にしたとは思いたくない。それは人間としての人情なのである。誰も非難できない。小泉元首相も素朴な情念のおもむくままに正しいと思って靖国参拝を行ってきたに違いない。その心情は多くの国民、とりわけ遺族たちの心の琴線に触れるものがある。だがそこからは、あれだけの兵士を無意味な死に追いやった戦争発起と戦争指導上の責任の所在は浮かび上がってこない。『英霊』という語感の中に見事に雲散霧消してしまっている」
この寄稿は意外なほど多くの反響を呼びました。手紙や来訪者が数多くあり、講演も頼まれました。そこで太平洋戦争の最大の死亡理由は餓死だったと話をしたところ、異口同音に驚きの声が挙がりました。
「初めて聞きました。本当ですか?」
「ガダルカナルでは沢山の餓死者がでたそうですね」
感想は様々でしたが、百万人を超える兵士が飢えて死んだとは、ほとんどの日本人は知らないはずです。ただ、等しく国家のために勇戦敢闘し、尊い命を捧げた殉国の英霊として祀(まつ)られているからです。
確かに名誉の戦死をした兵士は沢山います。私のかたわらで撃たれて死んだ兵士も、何人もいます。サイパン島で玉砕した友人たちもそうです。出征前、彼らと一緒に撮った写真は、いつも私の書斎に掲げてあります。
しかし、最大多数の兵士は、飢えと疲労と病で死んだ、というのが厳然たる事実です。そうした状況は太平洋戦域のいたるところで、戦いが始まって間もないころから戦後にいたるまで、繰り返し発生しました。
その典型的な戦場だったのがニューギニアでした。
ニューギニア島は日本から南に約五千キロ、オーストラリアのすぐ北にある大きな島です。東西は二千四百キロにわたり、面積は日本のおよそ二倍の広さがあります。全体は熱帯雨林に覆われ、現在は東側がパプアニューギニア、西側がインドネシアの一部になっています。
戦争中私は、その島にいました。昭和十八年、十九歳だった私は志願して海軍の民政府調査局員に採用され、ニューギニアに上陸しました。戦況が厳しくなってからは、陸軍作戦部隊に情報要員として配属され、戦闘にも参加しています。
昼間でも太陽の光が届かない原生林のなかで、幾度もあわやという危機に直面しながら、私はかろうじて終戦を迎えることができました。しかし、進駐してきたオランダ軍にBC級戦犯容疑者として逮捕され、重労働二十年の刑を受けました。
いま私は、八十代の半ばを過ぎています。もう余命いくばくもないどころではありません。それだけに、ニューギニア島での戦場の実態をきちんと残しておきたいという思いが募るばかりです。
きわめて荷の重い仕事です。ですが、野垂れ死にした兵士たちはそれぞれ未来に夢を抱いていた若者でした。彼らの無念の思いを、私は代弁しなければなりません。それを伝え得る、私は多分最後の一人だからです。(はじめにより抜粋)
他人やグループへの同化意識の強さが、その根底に有るのではないか?それがグループ行動の強さ、そして戦後の経済発展に繋がったのだと愚考する次第。
この性質が、異質なものへの許容度の低さとして発現すれば、ある種の集団ヒステリーを作りやすくなるけとは、歴史が教えていると思います。
最近、ネットや新聞までもが、非国民とか売国奴などという、典型的なレッテル貼りに便利な言葉に溢れ始めるのを見るにつけ、日本人の性質の一方の側面が気になり始めています。
もっとも恐れるのは、自分で勉強せず、自分の頭で考えず、心地よい言葉に引きずられ、本人が自覚なしに思考停止に陥ることです。福島原発事故以降、原発問題点については、それが顕著に現れているようで、私は、そのことをとても怖いと感じ始めています。
SNSで個人の考えに容易に接することが可能になった現代でも、人は気持ちで行動することには変わりがありません。感情と理性のせめぎ合いを平時から経験することの大雪さを、今更ながら実感しています。
そして、このような事柄を思い起こすきっかけをくださったことに感謝するとともに、より多くの方に今回のエントリーを読んで頂きたいと思います。
横浜から帰宅しました。飯田さんや母を含めて出席者全員が感激していました。僕の幼い頃、周囲の大人たちはどのように考え、行動していたのかということを知り、とても有意義な時間を過ごすことができました。
やすさんにコメントいただいたことについては、僕もそのとおりだと思います。過激な言葉での責め合いは、何も生み出すことがありません。
「自分で勉強せず、自分の頭で考えず」については、僕の身の回りにはそのような人がたくさんいます。でも能無しということではなく、本を読まない人、ニュースに関心をもたない人ということなのですね。性格はよい人たちばかりです。それは僕の周りに大学生がいないからなのかもしれません。ツイッターで僕をフォローしてくださっている大学生は、ちゃんと勉強しているように見えます。
本を読まない人、ニュースに関心がない人というのは昔から、70年代くらいからたくさんいたような気がします。社会や政治の問題について自分の考えをもち、きちんと議論できる人というのは、昔も今も全体の中の3割程度なのだろうというのが僕がもっている感触です。
やすさんからこのようなコメントをいただき、この記事を書いた甲斐がありました。
この記事をプリントして、著者の飯田さんにも今日お渡しいたしました。
ぜひともご参加下さい。
ご連絡ありがとうございます。別ルートですでに連絡をいただいていて、ぜひ参加したいと思っていたのですが土曜日か日曜日のことだと勘違いしていました。
上映会は月曜日なのですね。12月は業務が多忙でして、参加できるかまだわかりません。業務スケジュールを確認してから決めさせていただきますね。