友達から掲載写真のような27ページほどの少冊子をもらった。
南部陽一郎先生が2008年12月にノーベル物理学賞を受賞されたことを記念し、大阪大学理学部で翌年の5月に「私が歩んできた道」と題して行われた記念公演。
当日の写真はこちらでご覧いただける。
http://www.phys.sci.osaka-u.ac.jp/ja/announce/nambu-talk-2009.html
先生が中学時代に湯川博士の理論に感化され素粒子物理学の道を志したこと、第一高等学校時代に高木貞治の「解析概論」に熱中していたこと、大学時代に朝永先生のくりこみ理論が展開されていたこと、卒業後に入った朝永先生の研究室でのこと、プリンストン高等研究所に渡り、オッペンハイマー、アインシュタイン、パウリなど物理学史上の巨人と接する機会がありストレスを感じながら研究をされていたときのこと、シカゴ大学に移ってからの出来事などが思い出話として紹介されている。
特に僕の目を引きつけたのはプリンストン時代に時々晩年のアインシュタインと車の相乗りをする機会があったそうで、笑みを浮かべながら車に近づいてくるアインシュタインを車内から撮った貴重なスナップ写真。1953年撮影というから博士がお亡くなりになる2年前のこと、大正時代に日本を訪問してから30年経っている。
アインシュタインは亡くなるまで量子力学を認めなかったわけだが、時は既に量子力学は常識で、素粒子物理学が始まっていた時代。南部先生といえども当時は若手研究者のひとりに過ぎなかったから、大先生がお話になる誤った見解も黙って聞いていらっしゃったそうだ。
私の理論を理解できなかったアインシュタイン
http://www.globe-walkers.com/ohno/interview/nambu.html
プリンストンにおけるアインシュタイン
http://homepage2.nifty.com/einstein/contents/relativity/contents/relativity148.html
この冊子は非売品であるのとネット上に公開されていないので、ブログの読者の皆さんにお見せできないのが残念だ。せめて先生の経歴から想像してもらうしかない。
南部先生がお生まれになったのは1921年1月。先生の経歴はウィキペディアの記事にお任せするが、ポイントをおさえると次のとおりである。
注意:自分の年齢と重ねて読まないこと。きっと落ち込んでしまうから。あなたにはあなたにしかない良さがある。
1933年(12歳):福井市立進放小学校(現在の市立松本小学校)卒業
1937年(16歳):福井中学校4年修了
1940年(19歳):第一高等学校卒業(高木貞治の「解析概論」に熱中)
1942年(21歳):東京帝国大学卒業、東京帝国大学助手
1943年(22歳):陸軍の召集を受けて宝塚市のレーダー研究所に配属
1945年(24歳):東京帝国大学の理学部物理学教室に嘱託で復帰し、同室の木庭二郎らとともに、朝永振一郎の研究グループに参加
1949年(28歳):大阪市立大学理工学部助教授
1950年(29歳):同大学理論物理学教室教授(1956年まで)
1952年(31歳):東京大学より理学博士号を取得。
1952年(31歳):朝永の推薦を受け、プリンストン高等研究所に赴任(当時の所長はロバート・オッペンハイマー)に2年間滞在
1954年(33歳):シカゴ大学の核物理研究所に着任
1956年(35歳):同大学助教授
1958年(37歳):同大学教授
1970年(49歳):アメリカ合衆国に帰化
1970年(49歳):ハドロンの弦理論(ひも理論)を提案
1978年(57歳):文化勲章受賞
1982年(61歳):アメリカ国家科学賞受賞
1985年(64歳):マックス・プランク・メダル
1991年(70歳):シカゴ大学エンリコ・フェルミ研究所名誉教授
1994年(73歳):立命館大学客員教授及び立命館アジア太平洋大学アカデミック・アドバイザー就任を契機として、両大学に南部陽一郎研究奨励金創設。
1994年(73歳):J・J・サクライ賞、ウルフ賞物理学部門
2008年(87歳):ノーベル物理学賞
2011年(90歳):シカゴ大学物理科学ディビジョン物理学デパートメントおよび同ディビジョンのエンリコ・フェルミ研究所においてハリー・プラット・ジャドソン殊勲名誉教授、大阪市立大学名誉教授、大阪大学大学院理学研究科招へい教授、福井市名誉市民などの称号を持つ。
南部先生が学ばれた時代、研究者として過ごされた時代は電卓すらない時代。弾道計算をする目的で開発された世界最初のコンピュータ ENIAC が登場したのが1946年。けれどもコンピュータが物理学の研究のために使われるようになるのはまだまだ先のことである。
こんな風にブログの記事を書いて、日本中の人に考えていることを一瞬のうちに伝えることができる世界、WolframAlphaのように一発で数式演算や表示できる世界、自分の研究成果を数式入りのPDFファイルにしてネット上に公開できてしまう世界が50年後に訪れることを、1950年頃のプリンストンの研究所にいたアインシュタインが知ったら、何とおっしゃっるだろうか。。。そんなことを僕は空想した。
南部先生も90歳になられている。いつまでもお元気に研究、講演活動を続けられることを願うばかりだ。
参考ページ:
科学者としていちばん大事なこと(お若い頃の南部先生の写真掲載)
http://www.kousakusha.co.jp/NEWS/weekly20081209.html
どこがスゴイか 南部陽一郎
http://jimnishimura.jp/soc_per/mg_atm0811/nambu.html
祝 南部陽一郎氏 ノーベル物理学賞受賞
http://www.s.u-tokyo.ac.jp/prize/nobel08/nanbu/index.html
南部先生の著作:
「クォーク第2版 (ブルーバックス)」
「素粒子の宴 新装版」
「素粒子論の発展」
余談:今朝から東京でも雪が降っているけど積もるのかな。。。
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南部陽一郎先生が2008年12月にノーベル物理学賞を受賞されたことを記念し、大阪大学理学部で翌年の5月に「私が歩んできた道」と題して行われた記念公演。
当日の写真はこちらでご覧いただける。
http://www.phys.sci.osaka-u.ac.jp/ja/announce/nambu-talk-2009.html
先生が中学時代に湯川博士の理論に感化され素粒子物理学の道を志したこと、第一高等学校時代に高木貞治の「解析概論」に熱中していたこと、大学時代に朝永先生のくりこみ理論が展開されていたこと、卒業後に入った朝永先生の研究室でのこと、プリンストン高等研究所に渡り、オッペンハイマー、アインシュタイン、パウリなど物理学史上の巨人と接する機会がありストレスを感じながら研究をされていたときのこと、シカゴ大学に移ってからの出来事などが思い出話として紹介されている。
特に僕の目を引きつけたのはプリンストン時代に時々晩年のアインシュタインと車の相乗りをする機会があったそうで、笑みを浮かべながら車に近づいてくるアインシュタインを車内から撮った貴重なスナップ写真。1953年撮影というから博士がお亡くなりになる2年前のこと、大正時代に日本を訪問してから30年経っている。
アインシュタインは亡くなるまで量子力学を認めなかったわけだが、時は既に量子力学は常識で、素粒子物理学が始まっていた時代。南部先生といえども当時は若手研究者のひとりに過ぎなかったから、大先生がお話になる誤った見解も黙って聞いていらっしゃったそうだ。
私の理論を理解できなかったアインシュタイン
http://www.globe-walkers.com/ohno/interview/nambu.html
プリンストンにおけるアインシュタイン
http://homepage2.nifty.com/einstein/contents/relativity/contents/relativity148.html
この冊子は非売品であるのとネット上に公開されていないので、ブログの読者の皆さんにお見せできないのが残念だ。せめて先生の経歴から想像してもらうしかない。
南部先生がお生まれになったのは1921年1月。先生の経歴はウィキペディアの記事にお任せするが、ポイントをおさえると次のとおりである。
注意:自分の年齢と重ねて読まないこと。きっと落ち込んでしまうから。あなたにはあなたにしかない良さがある。
1933年(12歳):福井市立進放小学校(現在の市立松本小学校)卒業
1937年(16歳):福井中学校4年修了
1940年(19歳):第一高等学校卒業(高木貞治の「解析概論」に熱中)
1942年(21歳):東京帝国大学卒業、東京帝国大学助手
1943年(22歳):陸軍の召集を受けて宝塚市のレーダー研究所に配属
1945年(24歳):東京帝国大学の理学部物理学教室に嘱託で復帰し、同室の木庭二郎らとともに、朝永振一郎の研究グループに参加
1949年(28歳):大阪市立大学理工学部助教授
1950年(29歳):同大学理論物理学教室教授(1956年まで)
1952年(31歳):東京大学より理学博士号を取得。
1952年(31歳):朝永の推薦を受け、プリンストン高等研究所に赴任(当時の所長はロバート・オッペンハイマー)に2年間滞在
1954年(33歳):シカゴ大学の核物理研究所に着任
1956年(35歳):同大学助教授
1958年(37歳):同大学教授
1970年(49歳):アメリカ合衆国に帰化
1970年(49歳):ハドロンの弦理論(ひも理論)を提案
1978年(57歳):文化勲章受賞
1982年(61歳):アメリカ国家科学賞受賞
1985年(64歳):マックス・プランク・メダル
1991年(70歳):シカゴ大学エンリコ・フェルミ研究所名誉教授
1994年(73歳):立命館大学客員教授及び立命館アジア太平洋大学アカデミック・アドバイザー就任を契機として、両大学に南部陽一郎研究奨励金創設。
1994年(73歳):J・J・サクライ賞、ウルフ賞物理学部門
2008年(87歳):ノーベル物理学賞
2011年(90歳):シカゴ大学物理科学ディビジョン物理学デパートメントおよび同ディビジョンのエンリコ・フェルミ研究所においてハリー・プラット・ジャドソン殊勲名誉教授、大阪市立大学名誉教授、大阪大学大学院理学研究科招へい教授、福井市名誉市民などの称号を持つ。
南部先生が学ばれた時代、研究者として過ごされた時代は電卓すらない時代。弾道計算をする目的で開発された世界最初のコンピュータ ENIAC が登場したのが1946年。けれどもコンピュータが物理学の研究のために使われるようになるのはまだまだ先のことである。
こんな風にブログの記事を書いて、日本中の人に考えていることを一瞬のうちに伝えることができる世界、WolframAlphaのように一発で数式演算や表示できる世界、自分の研究成果を数式入りのPDFファイルにしてネット上に公開できてしまう世界が50年後に訪れることを、1950年頃のプリンストンの研究所にいたアインシュタインが知ったら、何とおっしゃっるだろうか。。。そんなことを僕は空想した。
南部先生も90歳になられている。いつまでもお元気に研究、講演活動を続けられることを願うばかりだ。
参考ページ:
科学者としていちばん大事なこと(お若い頃の南部先生の写真掲載)
http://www.kousakusha.co.jp/NEWS/weekly20081209.html
どこがスゴイか 南部陽一郎
http://jimnishimura.jp/soc_per/mg_atm0811/nambu.html
祝 南部陽一郎氏 ノーベル物理学賞受賞
http://www.s.u-tokyo.ac.jp/prize/nobel08/nanbu/index.html
南部先生の著作:
「クォーク第2版 (ブルーバックス)」
「素粒子の宴 新装版」
「素粒子論の発展」
余談:今朝から東京でも雪が降っているけど積もるのかな。。。
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