山荘雑記  

 定年退職後 信州白馬の里山に小さな丸太小屋を建て、
その生活の様子や山や旅の思い出など、気ままに書き綴っています。

5年ぶりに集まった山仲間たち <その2>

2017年05月24日 | 山登り
  

松田君の講演終了後、しばし休憩、この間ロビーに展示されている創設期からの記録や写真を観覧、それらの中に私が会長だった50年前ごろに編集発行していた色あせたガリ版刷りの会報などあり時代を感じさせた。
その後ホールに戻り総会が始まった。活動報告、議事審議、新役員の選出と議長の進行で手際よく進められ、新会長の挨拶、現役の紹介などで終わる。準備から進行まで、まるで株主総会か、党大会のように整然と行われ、「それではぼちぼち始めましょうか」といった寄合会議の我々の頃との違いに、ふたたび時の経過を感じた。
 その後、休憩をはさんで祝賀会の開始、いきなり初代会長ということで乾杯の音頭取りに指名され慌てる。OB組織創設から25周年まで約20年間を私が席を汚し、2代目が今日の議長を務めたS君で約15年間、3台目が共に例のアラスカ遠征の登攀隊長としてヘイズに行ったF君、今日まで約20年間も長く会を引っ張って来てくれた。新会長のK君は関東支部長のT君と共に、岩を中心とした社会人山岳会にも入り先鋭的な活動をしていたコンビ。彼ら2人が卒業後間もない頃、10周年後しばらく停滞気味だった会の活性を願い、わざわざ遠い私の自宅まで訪ねてきて、奮起を促されたことがあった。その後東京のT君には、松田の遭難直後、事故真相を求める我々と当該山岳会との折衝で苦労をかけることになった。S君と共に東京で遠征隊関係者の説明を聞き帰ってきた数日後、松田が生還救出されるという信じられないニュースが全国を震わせた。
 集会には約80人の出席者、その内最近卒業したての若い会員を除けば、何らかの記憶にある者も含め60名は顔なじみばかりで、中には10年ぶり、20年ぶりという会員もいる。しゃべり方、雰囲気など昔のままの人物、すっかり容貌が変わり、名前を言われて初めて気づく人、いまだに元気に山や岩登りをしている70代の男女も結構いる。余命の期間を告げられ、重い病気を抱えた会員も馳せ参じてくれ、気兼ねなく談笑できたのもうれしかった。
 どこからの支援もスポンサーもなく、全くの個人の意思だけの自主活動で60年間も存続してきた会は、それほど多くなく我々の大きな誇りである。毎回の記念集会には、来賓として何らかの外部関係者の臨席があったが、今回は一人もなく、終始会員だけの集会で、何の外交辞令も必要なく自由に語り合え大変よかった。
 昨秋のプレ山行の企画から、何度かの運営委員会を重ね準備実行された今回の60周年記念行事、後輩たちの献身的な奮闘努力に深く感謝したい。

5年ぶりに集まった山仲間たち <その1>

2017年05月22日 | 山登り
私の属する山の会は、5年毎に創立周年記念として、会誕生の地、京都で総会と祝賀会を行っている。全員がまだ若かった創立20周年までは10年毎と決めていたが、会員たちも徐々に年齢が上がり、とても10年間も待てないとの声が上がり、25周年から5年毎になった。
 昨日は,その前夜の祝賀会も含め、創立60周年の記念の集いが京都三条のホテルで行われ、全国各地から80名あまりの会員が集まった。母体が大学内の同好会であるので、毎年平均5名ほどの新卒者が入会してきて、必然的に毎年会員が増える計算になる。しかし年によっては同好会段階で会員数が激減し、過去には何度か存続不能の危機に直面したこともある。今年は幸い元気な現役たち7名が紹介され、心配していた先輩から盛大な拍手を受けた。
 このブログでも過去の周年記念のことは何度か書いたが、今度の60周年記念は、創立当時現役生であった現在80-85歳の老会員には今までとは違った気持ちでの会であった。夫々何らかの疾病を持ち、更年期障害に侵され、とても次の65周年までは無理で、これが最後の出席になるかも知れないという不安が隠せない。現に、毎年身近な会員が病に倒れ他界している現実を知っているからだ。
総会に先立ち松田宏也君の講演があった。言わずと知れた会の誇るミニヤコンカ(7556m)から「奇跡の生還」を遂げ、日本中を沸かした男で、このブログでも一昨年、私の小屋に来て一晩飲み明かした記事を書いた。両手足を失った後も、社会復帰を遂げ、山登りを再開し、ヒマラヤの高峰シシャパンマ(7430m)にも挑んだ。その動機は、敗退したヒマラヤへの再挑戦という意欲もあったが、同時に20歳下の現役同好会員にヒマラヤを体験させるため、2人の現役生を連れて行くことであったと、学生時代の彼自身を振り返る話があった。1977年夏、会の創立20周年を記念して、アラスカのヘイズ(4150m)に登る計画を提唱し、条件のひとつとして現役生の参加を訴えた。その結果、2人の学生が参加を申し出、その一人が松田であった。年齢20歳の九州育ちの2年生だった。隊長の私が40歳、丁度20年の差であった。このヘイズ峰遠征が彼のヒマラヤ志向の原点となり、逆の立場に立ったその20年後、その恩返しをしたかったと講演で述べていて、一人の若者にそれほどのインパクトを与えたことを知り、改めて遠征計画が報われた安らぎを感じた。因みに松田の遠征に参加した当時の現役2名のひとりは現在、山岳雑誌の「山と渓谷」を中心に、山岳カメラマンとしてガイドブックや山岳図書を出版している星野秀樹君で、もうひとりも山岳を主とする海外ツアーガイドとして活躍している。この意味では松田君の後輩育成の努力が立派に報われたのではないか。
 祝賀会での会員の様子などは<その2>で



小屋生活6日目

2017年05月16日 | 小屋生活
 一日中誰とも会わない小屋での生活、早や5日過ぎた。昨日は民宿主人のKさんが慰問に来てくれた。小屋周辺の食べられる山菜を教えてくれるが、何度聞いても覚えられない。わずかにアサツキだけ分かった。今朝は冬のように冷え、一度倉庫に仕舞った石油ストーブをまた部屋に運び入れる。最初はあれもこれもとやるべきことで頭が一杯で落ちつかないが、仕事が進むにつれやっと落ち着き、朝のコーヒーなど沸かして飲む余裕も出てきた。
 気がかりだった入り口の階段の付け替えが何とか使えるまで出来上がりほっとする。
以前の階段を一度解体し、小屋の右手に組み直した。土台がかなりの傾斜で、材木は長年の使用で腐りかけで苦労した。いつも通り一切図面を描かず、見た目の感覚だけで進めた結果かなりズレが生じた。問題は見かけより次の積雪にどれだけ耐えられるかである、


半年振りの小屋生活

2017年05月13日 | 小屋生活
   小屋の生活3日目、やっと落ち着いたところである。昨年11月の初め以来の小屋で、丁度6ヶ月ぶり、これほど長く空けたことは今までなかった。歳をとるにつれ今後ますます遠のく気がし出した。幸い雪解け直後の時期で、道路から小屋までの通路が深雪も雑草もなく、スムーズに小屋に入れた。今年の大雪でまたどこかが壊されていないかと心配していたが、デッキの手すりの一部だけでその他は異常なかった。ただし、部屋中はおびただしい数のカメムシが散乱、足の踏み場もないほど。床掃除をして車の荷物を運び入れるだけで1時間かかる。予想していたが、流しへの上水パイプも外れ、明日から修復に忙しくなりそうだ。
  翌朝、3季用寝袋では寒くて眼が覚める。朝食もそこそこに早速作業開始。いつも通り鉈ひとつで山に入る。送水パイプの継ぎ目の外れ2ヵ所を直し、水源の貯水槽の泥はきだしなど、いつもの要領で作業を終えても水は流れない。途中、中部電力の作業職員が倹電板の取り替えに現れ、偶然にも小屋主が居てラッキーだった。午後作業を再開、最終貯水槽から小屋の流し台に導くパイプの張り方を変えると流れ出した。雪解けの水か地下を流れてくるのか、冷たくて長くは手を浸けていられない。水の復旧で俄然意欲が湧く。
 翌日、当初予定のデッキ階段の左右付け替え作業と張り切るも終日雨。仕方なく雨中街のスーパーに買い物に出かけ、駅前の民宿に立ち寄り主人としばし歓談、小屋に帰る。
 5月中旬にしては寒く、白馬の山は冬並みの雪で真っ白、遭難が起きなければよいが。


 







   

  

出処不詳のあやしげなチェロ

2017年05月10日 | 文化活動


全く独習でチェロの練習を始めてすでに10年近くなる。中学時代にバイオリンを習い、以降も細々と続けていたので、チェロに替えてもさほど違和感がなかった。しかし、我流ではいくら頑張っても、変な癖がつくだけで、それほど上達はしない。もし先生について習っていればそこそこ弾けるようになっていただろうが。
 今弾いている楽器は3台目である。最初は雑誌の広告を見て買った中国製のオモチャに近い代物ですぐいやになり、1年後に、ネットで調べ神奈川のある楽器屋から、チェコ製の少しましな楽器を買ったが、やはり音色に不満があり、1年後に今のチェロに買い替え、一応満足している。この楽器は出生地も定かでないヤフーオークションで落札したストラデイバリウスと騙ったあやしげな楽器だが、音色も悪くなく気に入っている。知り合いの元プロバイオリニストに聞いてみたところ、間違いなさそうだが、最初専門家に調整してもらった方がよいと忠告されたが、自分で手を加えそのまま使ってきた。最近D線でのウルフと呼ばれる反響音が気になり、ウルフキラーというプロテクターを付けてみたがあまり効果はない。ついでにペグの滑りがよくなると知り、コンデイショナーという潤滑剤を塗ったが、逆に滑りが良くなりすぎ、弦を張るとどうしても元に戻ってしまうようになった。仕方なくチョークを買ってきてペグに塗り付けやっと固定できるようになった。弦の先端を固定さすペグの穴の位置が悪いので、堅い黒檀のペグに新たにキリで穴を空けて弦を差し込み解決した。製作者不明、出処不詳、不確かな販売業者の手から落札した怪しげな楽器であるが、私には憎めない愛器である。3年前ドロミテの帰りに、名匠ストラデイバリの故郷クレモナを訪れ、あるバイオリン工房を訪ね、写真を見せて楽器のルーツを推測してもらったところ、材は中国産で、製作は東欧のようだとのことだった。いつか確かなルーツが分かる時が来ると期待している。