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故郷・天草・湯島・海は夏色と島・雲丹

2011-08-12 08:38:47 | ふるさと・天草島・大先輩・エッセイー



久ぶりの故郷であった
島波も 雲仙・島原半島も 透明の浜磯も
かかる入道雲(積乱雲)も
そのままで 時間が 50年も前に 
止まったような いっ時が流れる
何時も思う 仕事が無くともいい
もし 漁師仕事でも 
僅かばかりの 畑仕事でも
自給自足でも 食べられれば
帰って来たいと 思うのだが
それでいて 世間に負けたような
世捨て人には
成りたくは ないとも思う。
島は 自分勝手な解釈で 待ってるような
気がするんだが・・・・?

*湯島・”まぼろしの島ウニ”と
             豪快・海を喰らう
何でも ”まぼろし”と 枕詞になって
どうやら 貴重な一品の 代名詞に
成ってしまった。
”まぼろしの 湯島ウニ”
”まぼろしの 湯島大根”
”まぼろしの 湯島甘藷”
”まぼろしの 湯島若布”
等々 結局量や数が 少ない訳でもなく
大量生産を試みれば 出来ない事も無く
収穫者も 人数が多ければ それなりの
収穫もある。
全ては 生産者が 少ない事が 皮肉にも 
”まぼろし”の 称号を授かる事と成った
悲しいのか 嬉しいのか さっぱりだが
その中で 味覚の素晴らしさは
”まぼろし”にあらず 
確かなものであることが 自慢である。
親友が 塩ウニの 壜詰を 
10本送ってくれた 
言っておくが 私の”ウニどんぶり”は 
ウニ房を 2・3切れ 入れて 
味を 楽しみながら 食べるのとは違い
どんぶり飯に 壜詰のウニを 
半分から 3分の2を かき混ぜては
豪快に 頬張りながら 磯の香と
ウニ房の甘味と 潮の匂いを感じながら
”海を喰らう”! その素晴らしさに酔う
そんな ところだ。
もう二度と かって 海が 沸き
太刀魚が 浜んこらを 舞埋めては
活性に満ちた 湯島は 戻りはしないが
思う なんとしてでも ”まぼろし”
終わりたくないと・・・・・・
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ガラス・ショ-ウインドーとリサイクル利益追求

2011-06-22 06:16:22 | ふるさと・天草島・大先輩・エッセイー


写真に 撮って見ると この手の
ガラスケースは 実物よりよく見える。
それほど 悪い商品でもない 
普通の商品である。
しかし リサイクルとは 面白いもんで
しっかり 新品に近い 商品も上質で
値段も高い物は 中々 売れ難い
かえって 商品普通 程度も普通
値段も 普通よりは 少し 安目の
品物が 回転が速く 売れやすい
前品が 高値で 三ヶ月もかかれば
後品で 三ヶ月で 3回転から4回転
したほうが 利益は上がる。
それぞれの 商いの方法があるが 
店舗に 新しいものが 並び展示する
方法も 一つの手段ではあるが
少し そう新しくもないものを
仕上げ・整備して 展示販売するのも
一つの 利益を得る手段でもある。
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壷瓶と故郷・天草・湯島・”幻の島大根ステーキ”

2011-05-23 08:09:09 | ふるさと・天草島・大先輩・エッセイー


天草・二号橋入り口(左)

天草・二号橋入り口(左)・「天慎」入口



天草・二号橋入り口(左)・「天慎」

絶妙な味の 鯛の粗煮と 壽司と
だご汁の セットを 食して帰還したが
鯛の粗煮は 前湯通しして脂抜きすれば
通常は 味をなくしてしまう。
味を残すためには 多少の 脂を残すと
生臭みも多少残る 
蒸しては 形見が残らずで 中々いい味に
辿り着けないが ここの粗煮は 
絶品であった。
”幻の湯島大根・ステーキ”の 発案者で
旬であれば 馳走になれるのが 
今回は 鯛の粗煮で おかみさんは
湯島の事になると 乗り出して話し出す
湯島出身でもないのに ありがたい話だ。
その他に 湯島の生産物(あわび・ウニ
大根・辛いも・ジャガイモ・わかめ
あおさ)等々 湯島に関する研究には
余念がない。
通りがかりでも 立ち寄っては
”幻の湯島大根ステーキ”でも 注文して
湯島出身であることでも 告げれば
色々な アイデアや その方法論が
限りなく 飛び出してくる。
最早 おかみさんは
湯島の 名誉出身者になってしまった
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電子レンジと責任感と”命をかける!”

2011-03-26 08:58:16 | ふるさと・天草島・大先輩・エッセイー


最近では 電子レンジも
値段の 差が大きい 
商品も出回ってくると
メーカーさんも 賢いもんで
色々と 機能的にも差を付けながら
安い商品から 前の商品と比較すれば
驚くような 高値の商品も出回ってくる
多様性開発は 一つの理論の
応用性の問題で 広げる才能があれば
あるほど製品も値段も 多彩化してくる。
しかし これも ある程度の枠の問題で
小枠には やたらに強いことが分かる
しかし 大事の 一旦緩急には 
事の外 弱く 脆い事が 今度つくづく
解ったような 気がしている。
政府の 手遅れの対応 知恵のなさ
先見のなさ 世間に対する見識のなさ
事に対する対応の 緊急性
どれを 取っても リダーシップなさに
ほとほと 呆れてしまう。
おじさんは 思っている 
すべては 一点だけに 絞れる。
それは 責任性の問題で 取りたくない
取れない 取ろうとも 思わない。
何と悲しいことか かって 命を惜しまず
国に 体をあずけた
先輩や政治家や 郷偉人申し訳ない

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「心の中の故郷」 ー天草島ー 荒木忠夫

2011-02-18 08:13:08 | ふるさと・天草島・大先輩・エッセイー

先日.会社の定期歯検診で.
私の歯を見た医者が
「この年齢で虫歯が一本もなく.
          しかも歯並びが
      きれいな歯は珍しい」と感心し.
生まれは どこかと聞いた。
私が 「九州の天草島だ」と答えると
「やはり そうですか」とうなずいて
納得していた。
その医者の 話では. 島育ちの人は
海藻などの食物の影響で 統計的に 
歯が 強いのだそうである。
なるほど 私は38歳の現在になるまで
虫歯の痛さというものを
全く知らないし. 歯医者にかかった事も
一度もないのである。

しかし.私は.医者の簡単な納得に・
何か物足りなさを 覚えたのである。
私には.38歳の現在の強さよりも
歯が強くならざるをえなかった
幼少時代の
ふるさとでの貧しい生活.しかし.
その中でも.
常に ほのぼのとしたぬくもりを
感じさせてくれた母の.心の匂いが
大切に 思えるのである。

私のふるさとは.熊本県の 
天草島である。
島原の子守唄に 
「おんのいけん(鬼池)
  忠助どんの 連れんこらるばい」

歌われている 
天草下島の最北東にあたる
五和町鬼池(おんのいけ)という港のある
半農半漁の 小さな町である。

五和町は.昭和30年頃.五つの村が
 合併して
出来た町であり.私はその中の 
鬼池村で育った
私は昭和23年頃 
鬼池(おんのいけ)小学校に 
入学した。
私の家は いわゆる五反百姓の農家で
八人の子供を 養うのは楽ではなかった
米の飯を食べるのは 盆と正月と村祭りに
限られており 日常は さつま芋か
麦飯であった。 しかし当時は鰯が豊富で
地引網でいくらでも取れた為 
食べきれずに 田畑の資料(いわしこえ)に
するほどであった。

私たち兄弟は 厳しい父に 
この鰯を骨のまま
食べさせられており 父の目を盗んでは 
そっと骨を お膳の下に隠して 
捨てたのを 
覚えている。芋と 鰯が当時の 
私たちの常食であり お菓子や飴など
甘いも物など めったに食べられず 
鰯を骨のまま食べてて 
腹を満たしていたから
歯医者などいらないのである。
終戦から何年かは 
日本中 どこでも
同じような 食料難の状態が 
語られているが
私の家では 零細農家のうえに
八人兄弟という
子沢山で 私が中学に 
行くようになっても
あまり 生活水準の向上は 
みられず
相変わらず同じような状態であった。
当然のように 姉や兄は 
中学卒業と同時に
口減らしの為に 
ちょっとした コネでも
頼っては 島から 出て行ったのである。

私は 姉や兄が 小さな連絡線で
港から出て行くたびに.突堤の先端の
赤灯台の下で.
いつまでも立ち続けていた 母の姿を.
今でも はっきり思い出すことが出来る。
海の上に約200メートルも延びた
防波突堤と
その先端にあるこの赤い灯台の
物寂しさは
8月15日の夜の幾重にも重なって.
その灯台の沖を流れる精霊船と共に
私の心の中にある
ふるさとの一つの風景である。
鬼池には 
天神山と言う富士山に似た形の
山がある。
天神山は 鬼池で一番高い山で.
海抜171メートルあり 
その山頂からは
村中が見渡せ.
海の青さと小さな島々の
松の緑.波の白など
その眺めは 素晴らしいものであった。
天神山は 鬼池村の守り神で 
山頂には
ほこらが建てられ.7月25日が 
その祭りであった。祭りには 
仕事を休み
ダゴ(田子)を 作って祝い.
山頂で子供達の相撲大会が
行われるのであった。
私は一度だけ 
その相撲大会で関脇を
もらった事があった。

中学一年生に 入学した年の
春の遠足は.
私にとって.一生.忘れられない
遠足であった。
遠足の楽しみは弁当であり. 
私の家でも.
遠足の時だけは母がいつも. 
米飯の大きな
にぎりめしに. 玉子焼きを
添えてくれるのであった。
その遠足の朝.母は. 私に弁当を
渡しながら.
悲しそうな目で. 
中味が芋であることを
告げたのであった。そして. 
私の手を強く握って.
しばらく離そうとはしなかったのである。
私は大声で母をののしり. 
その手を 振り解いて.
泣きながら走ったのであった。
弁当の時間. 天神山のつわぶきの.
芽吹いた藪の中で. 
私を探す友達の声を
遠くに聞きながら. 私は空腹に勝てず.
その芋を 泣きながら. かじったのだった。
中学生の私には. 
その時の母のつらさが
どんなものであったか 
理解できるはずもなく.
帰ってからも.
母をせめ続けたのであった。

昭和36年の夏 
天草地方は未曾有の 
大干ばつに見舞われた。
水の出そうな場所は 
至るところで井戸が掘られ
水探しが続けられたが. 
しかし 雨はいっこうに振らなかった。 
そして誰が言い出すこともなく.
雨乞いをすることになったのである。
各農家から一人づつ人を出して.
何人かづつ組になって. 
天神山の山頂から.
雨乞いが本当に行われたのであった。
毎日朝から夕方まで
天神山の上で打ち鳴らされる
太鼓の音が. 村中に響き渡ったのである。
私の家からは 母が出ることになり.
真剣な顔をして. 近所の人達と一緒に.
山道を登っていったのであった。
その雨乞いの結果で 雨が降ったかどうかは.
はっきりした記憶がない。しかし 今でも
天神山の祭りが 続いているところをみると
多分. 神様のごりやくが あったのでは
なかろうかと考えるのである。
鬼池の守り神であるこの天神山の懐かしい
姿も又. 少年時代の思い出の中で.
何とはなしに 母のイメージと重なって.
私の心の中に. ふるさとの風景として
残っているのである。

天草の正月も又. 母を通じて.
私の心の中にひとつの風景を残している。
それは私が中学三年生で. 高校受験を
間近に控えた頃のことであった。
私は先生の勧めもあって. 他の二人の
友人と共に.天草島を離れ. 熊本市内の
高校を受験する事を 目標に頑張っていた。
市内の高校に行く事になれば. 
下宿が必要で. その為に要する費用は
大変なものであった。
8人の子供をかかえた五反農家の父母には.
とうてい. そのような余裕など
なかったのである。
それでも父母は 何とかして. 
私を 希望通りの高校に 進学させようと
いろいろ努力をしたようであるが. やはり
無理だったのである。
12月の或る寒い夜. 父は私を囲炉裏の端に
座らせて. 市内の高校をあきらめて.
地元の高校に進学して欲しいと私に言った。
私は 泣きながら父のかいしょうの無さを
大声でののしった。
日頃. 厳しい父も その時は無言で何かを
かみしめているようであった。
母は 何かを頼むような目で
私をじっと見つめ その目には
涙が光っていた。 しかし 私は
消えかけた囲炉裏の火を 見つめながら.
父母をののしり続けたのであった。

それから 私は 勉強もせず. 
家族にも 口を聞かない日が続いた。
その為 家の中は 毎日なんとなく 重苦しい
日が続いた。 そして 年が開け元旦となった。
私は. 家族全員で 行う初詣にも参加せず.
一人で布団を かぶって 寝ていたのであった。
朝 目を覚ますと 枕元に5・6枚の年賀状が
置いてあった。
私は 床の中で 何気なく それを手にし
たいした感情もなく 一枚づつそれを
めくっていった。
それは ほとんど同じクラスの
友達からのもので
今年もがんばろう 今年もよろしくと言う
内容のものであった。しかし 最後の一枚を
読みながら 私は驚いた。
それは およそ年賀状らしくない
長々しいものであり 鉛筆書きでところどころ
その芯をなめたらしい 濃い部分が残り
カタカナまじりで 書かれていた。
差出人の名前はなかったが 私には それが
同じ家に住む 母からのものであることは
すぐに 判った。

「お前に あけましておめでとうと言うのは
つらい。でも.お母さんは. お前が元旦に. 
みんなの前で 笑いながら. 
おめでとうといってくれる夢を
何回もみました。お母さんは 小さい頃.
お前が泣き出すと. 子守歌を唄って.
泣き止ませましたが.
今は もうお前に 唄ってやる 
子守歌も無いので 本当に困っています。
今度は. お前がお母さんに
子守歌を 唄ってほしい・・・・」

十四歳の私は 元旦の床の中で声をあげて
泣いた。 それは.中学三年生の反抗期の
私に対する 母の心からの
子守唄だったのである。

この母の子守唄のおかげで. 
私は 立ち直り地元高校に進学し 
その後 高校を卒業と同時に大学へも進学した。
父は.私の大学入学の時.大切に残してあった
山の種松を 売って3万円の 入学費用を
作ってくれた。 しかし その後は
私は 父母の援助も ほとんど受けず
アルバイトと 奨学金で大学も卒業することが
出来たのであった。

そして.現在の会社に就職して
もう.十六年が経ち.長男もやがて
中学生になろうという年齢になってしまった。
そして 昔の私と同じように.
もう. 親に反抗をし始めているのである。
しかし 私の心の中に
ふるさとの 母の匂いのする鬼池の赤灯台と
天神山の やさしい風景がある限り
私は 大丈夫だと思っている。
母も 70歳となった。この母が.
これから どんな子守唄を
唄ってくれるのだろうかと 考えながら
ふるさと出身の妻と 反抗期の子供をつれて
私は 母の住む天草島に 今年も
帰りたいと 思っている。・・・・・完

くまもとリサイクル市場第一空港店)
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