創る村から ~耕の会~

創る村から ~耕の会~ 己を耕し、世を耕す
21世紀平成の志士となるべく、日々修行と葛藤のスタッフブログ

落ちこぼれの意地

2012年04月29日 | 日記

今日は膨大な創る村の資料の一部を整理しました。私は創る村で生まれたといっても、18年分(正確には15年分ぐらいですが)の歴史しか知りませんから、当時の資料はとても興味深いのです。

創る村の理想は、今も昔も根本的なところでは変わらないのでしょうが、理想を具現化するための活動というのはだいぶ変わってきた部分、あるいは変わらずを得なかった部分があると思います。特に以前の創る村では主流だった子どもを対象とした活動も、時代の流れには逆らえず、今となってはほとんど子どもが集まらないのが現状です。

少し話は変わりますが、資料を読みあさっていると、どうも現在も続いている「生き生きコンサート」(オペレッタ・合唱・中也歌曲などを中心に毎年自主公演しています)は、最初は「落ちこぼれによるコンサート」として始まったそうなのでした。子どもを“落ちこぼれ”と呼ぶことは教育上よろしくない、なんて言う人もいるでしょうけど、言い換えればはみ出し者(これも言い方は悪いですが)です。つまり、普通の子どもとはレベルが合わないのですから、もしかすると天才かもしれないのです。実際に、天才発明家・エジソンも学校では落ちこぼれ扱いだった話は有名でしょう。ただ、エジソンの時代の“落ちこぼれ”と比べると、現代の“落ちこぼれ”像はだいぶ違ってしまったように思います。

落ちこぼれの対義語は優等生です。これは、今も昔も「勉強ができる奴」に変わりないのではないでしょうか。では落ちこぼれは、勉強はできなくともひたすら化学実験にのめり込んでいる(あくまでも例えです)かと言うと、現実はゲームオタク、深夜まで遊び歩く子、万引き犯…本当にかわいそうなことですが、夢のかけらも持てないような子ども達が“落ちこぼれ”として扱われているのです。

でも、子ども達が悪いのでは決してありません。教育上よろしくないのは、むしろ子ども達の鏡であるべき大人や社会なのでしょう。

批判覚悟で言いますが、優等生に向かって「お前、勉強だけできたって何になる。」と胸張って言えるような“落ちこぼれ”(天才予備軍)を育てようじゃありませんか。勉強ができなくたって、正義感やリーダーシップがあれば押しも押されぬ大人物になれるのです。なりたいのです。

すみません、最後は私の願望になってしまいました。

 鈴太郎