第10回書縁會展の記念展に一度は挑戦してみたいと思っていた『中山王サク方壺』の全臨を出品することに致しました。
その作品は令和5年4月上野公園内の東京都美術館にて発表し、
又同じ作品を地元富士吉田市にて、自分達で立ち上げた光晨書展に持ち込みます。
我らがメンバーも同様に東京で発表した作品を、地元でも再度陳列しています。
折角、多くの努力と情熱を込めて出来上がる作品なので、是非とも身近な地元の方々にも見て頂こう・・・と立ち上がり、
多忙を極めている日常から、複雑極まりない 多くの幸せな作業 を引き受けて光晨書展を開催する迄に至るわけです。
勿論、今回の富士吉田での展覧会のためにも新しい作品を、
各自がぎりぎりまで頑張って産み出し、
恥ずかしさは置いといて、陳列させていただきます💪
どうぞ、気楽な気持ちで会場までお運び頂けましたら幸いです🙇
『中山王サク方壺』について
先ずはどのような器であるか画像をどうぞ
中国の古代、つまり戦争が頻繁に行われていた戦国時代(前475年~前221年)には、一部の小国が勢力強大な 秦・斉・楚・燕・趙・魏・韓 などの戦国の七雄にあいついで併合されていきました。
そして、この他に燕・趙・斉 の三つの国の間に独立して中山国という国が有りました。
中山国は、もと中国の白狄(ハクテキ)人が春秋戦国時代に建てた遊牧民のものであったと言われ不明な点も多いのですが、
1974年から平山県の三汲人民公社一帯で、大規模な考古学的な調査発掘を行った結果、美術品が多数出土したことで有名な国となったのです。
この時、発見された中の一つが『中山王サク方壺』であります。
※ 大きさは、高さ63cm、直径35cm、
四面の腹部に毎面10行、計450字の刻銘があり、
中山国王の代々の継承、相邦(宰相)が王を補佐し燕を討った功績などが記されています。
同時に当時の酒も保存されていたと言う話は有名ですが、まさに驚愕です!!
この器には、ある種の装飾性を帯びた文字が、均等の大きさ、幅、字間・字幅も均等に保ち整然と並んでいて、
背の高い細線の文字は、曲線と直線を絶妙なバランスで交え、鋭く針の様な線です。
型をつくり青銅を流し込むことで作られた西周の金文とは違い、
銅器に直接鋭利な刃物で刻したように思われます。
興亡の歴史こそ文字の歴史でもあり、歴史の中核にはならず消えていった文字達にも大きな魅力を覚えることもあります。
呪術性を帯びたようで少し奇妙で奔放なこの文字達が、
私には愛おしくてたまりません。
これらの文字達をずっと見つめていますと、遊牧民であったとされる中山国の古代人の息吹が感じられ、かつて一帯を駆け巡っていた様を偲ばずにはいられません。。
実は私は、「日中友好自詠詩書展」にて中国 石家庄市を訪問する大チャンスに恵まれていました。
そこは西部には山また山が連なる山岳地帯、東部は起伏の多い丘陵地帯、中間には川が滔々と流れ、山河の麗しい風景の絵の様なところで、博物館にて壺が四角いガラスケースに収まっているのに出会いました。
そこでは壺の周りを四方回って飽きることなく眺めていたりして、
その時のことは今でも鮮明に思い出せるのです。
もっとその辺に泊まってのんびりしたかったなぁと懐かしんではみますが、今となっては遠くに感じてしまっています。。
さてさて作品に仕上げるまでには試行錯誤を繰り返し、三×六尺の用紙を購入、構想から約半年ほどがかかりました。
壺のとっての箇所に大きな空白が出てしまいその処理について、またまた考え込みましたが、、、
何故かその時、偶々オークションに出品されていた中島先生の9センチ角の印に出会い、コレダ!と直感で競り落とし、なんとかまとめてみました。
不思議なことに、その後二度と大きな雅印に出会うようなチャンスには遭遇しません・・・う~ん☆☆☆
どんな作品にも各々思い出とドラマがあるものなのでしょう(⋈◍>◡<◍)。✧♡
私の書の道はまだまだ、未熟・半熟ですが・・・
有難いことに、いつも仲間たちがいてくれるので、楽しみながら歩いていけます💪💪💪(^^♪
参考文献
※ 中山王国文物展 編集:東京国立博物館 他